人牛の良女に年が丑 〜ヒトウシのリョウジョにトシがカラム〜
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 年の瀬の大寒波で、腰の丈ほど積もった雪の上には、更に白いものが踊るように舞っては嫌々ながらも着地してゆく。
 雪深いA県の、ろくに人も通らぬ深い山の歩道には、街灯も無く、深夜と満月に近い月明かりが、静かに、青黒く、雪道を照らしていた。
 その山道が、不意に開ける。明らかに人の手で除雪されている場所だ。
 ようやく、人の居る場所に出た。
 更に山奥から、腰まで雪に埋もれながら道なき道をやってきた彼女は、視界の先に現れた明るい場所にため息をつきながらそんな風に思い、最後の力を振り絞るがごとく、凍えて感触のなくなりつつある手で、除雪してあるところまで雪をかき分けて進む。
 粗い目の毛糸の帽子と手袋、内側こそタートルネックのセーターながら、薄手のナイロンジャンパー。ブーツは毛皮の返しがついていたものの、ズボンの裾との隙間から入ってきた雪で靴下の爪先まで濡れてしまい冷え切っている。
 庭にまでしか出たことの無い彼女の、精一杯の冬支度だった。
 ようやく除雪してあるところまで出ると、腰から下にあった圧迫感と重みが消え失せ、目の前には一直線の道が現れた。
 下り方面に足を進めると、やがて少しの登り坂、そして緩くカーブを描いて再度下っていく。
 先までの、雪をかき分けていた間には必死で見えなかったのか。今の登り坂の陰になっていたのか。
 ぽつんと、一つの人家の明かりが目に入った。
 家の横に背の高い木が一本生えていて、その枝がさしかかる煙突からは煙が立ち上り、人が滞在している事は明白だった。
 言うまでも無く、その明かりに向かって歩を進める。
 凍えた爪先で踏ん張れずに一度転んでしまったが、凍った砂利と氷と言っても良い雪の塊とそれらの食い込んだ身体の痛みよりも、早く明かりに辿り着きたい気持ちで這うように立ち上がった。
 テレビのドキュメンタリーで見たような、黒く大きな西洋風の鉄の門扉には、鍵がかかっていなかった。
 無防備に触ってしまった指先が毛糸の手袋越しにも張り付いてしまうような錯覚に陥り、慌てて手を離してから悪手だったと気づく。本当に張り付いていたなら皮が剥がれていただろう。そんな事を書物で読んだことがある。
 建物の全体像は、丸太を組まれたログハウスというものにも似ていたが、和風の、六角堂のようで、突き出た風除室と合わせるとアラスカに住む人たちの家を思い起こさせ、しかも所々に増築したような現代風の四角い壁や温室らしき透明の建物も見受けられ、なんとも言いがたい不安定な代物に見えた。
 玄関ポーチのライトに照らされ、足下へ落ちる無数の影で、音も無く降り積もり続ける雪に視界を遮られていた事に今更ながらに気づいた。なぜ気づかなかったのだろうと思いながら、彼女は玄関の扉の前に立つ。
 それだけ、ここに来るまでは必死だったのかもしれない。
 どうしようかと迷っている間に、扉が少しだけ開いた。
 暖かそうな黄色い室内灯の光を背に、背の高い黒いシャツの男が顔だけを覗かせた。
 歳は二十代半ばだろう。色白にすっきりとした面持ち、切れ長の目に形の良い鼻筋と、薄く、色づいた艶やかな唇。短く切られた髪は、無雑作でありながらも絵になった。
 このような山の中には似つかわしくないほどの、いわゆる美男子だった。
 ああ、これじゃまるで、作り物の人だ。
 彼女は思いがけない姿に声も出せずに立ちつくす。
 その美男子は僅かに顔をしかめ、ほどよく肉のついた胸を少し張り、通りの良い声で囁く。
「何か、御用ですか?」
 そっけない。
 威嚇していると言っても良い、明らかな拒否だ。
 思いがけない人物像と思いがけない問いかけに、彼女は自分でも思わぬほどに戸惑う。
 何も考えていなかったのだ。
 この寒さの中。この雪の中。日付の変わる時刻も迫る中。
 よもや、受け入れられぬ事があるとは思わなかったのだ。
 その時だ。
 彼女の答えを待ち続ける黒いシャツの美男子の背後、風除室の奥の少し開いた扉から、若い男の、少し怒ったような声が響き渡った。
「福助。いいからお迎えしろ」
「でもですね――」
「どこの誰でもいい。こんな夜中で、こんな山奥だ。そのまま放り出すわけにもいかねぇだろ。夢見が悪くならぁ。さっさと入れてやれ」
 福助と呼ばれた黒シャツの男は、一瞬だけ天に視線をやり、すぐに扉を大きく開いた。
 暖かい室内の空気が吹き付けてきて、穏やかな明かりが風除室の扉のガラスから差し込んでくる。
 その明かりに照らされた影法師のように、黒いシャツに黒いスラックスの作り物のような男は、不満を隠そうともせずに頭を下げた。
「失礼しました。どうか、中へお進みください」



 風除室を通り抜けると、あまりにも想像と違った光景が広がっていた。
 和洋折衷の大きな客間。奥には赤々と燃え上がる暖炉。足裏にも熱が伝わってくるという事は、こんな山奥ながら床を温める設備も備えているのか。全体的に落ち着いた赤色で統一された絨毯や家具のそこかしこには、唐草模様を筆頭に植物を元にデザインされた装飾が施されている。壁いっぱいに設置された本棚と床には、棚に置ききれず積みあげられた書籍がいくつもの山となっており、天井からは草と言わず毛皮と言わず、石と言わず骨と言わず、時には飛行機などの機械の模型も含めて、雑多な標本が吊り下げられている。更に奥には、大きな書斎机が二つ、背を向け合うように置かれていた。
 暖炉の前では、こちらに背を向けたまま座り込み薪をくべていた赤いシャツの男が、黒シャツの福助が足音高く近づいて耳打ちした後、ゆっくりと振り返った。
 福助と全く同じ顔、同じ年頃の男だった。
 ウともムともつかない声で唸った後、男は立ち上がり、腕組みする。すぐに右手を己の顎に伸ばして掻いた。
 二人の男は、顔形どころか、背丈まで同じだった。黒いスラックスまで一緒で、判別できるのはシャツの色ぐらいだった。
 いや、表情が、違う。
「俺は白石。こっちは福助」
 赤シャツ男は苦笑じみた顔で名乗ると、言い慣れているのか続けて声をあげた。
「顔はそっくりだが双子じゃねぇよ。他人の空似だ」
 彼女の前まで素早く歩み寄ると、その歩行速度に怯える彼女の事などおかまいなしに、毛糸の手袋越しに手を握った。
 風除室で身体についた雪をはたき落とすことは出来たし、凍り付いた毛糸の帽子はなんとか脱ぐことができたのだが、肌にぴったりとくっついてしまった毛糸の手袋はぴくりとも動かず、痛みすら感じず、本能的に危険を感じて脱ぐことを諦めていた。失礼とは思いつつ、着けたまま入室していたのだ。
「おいおい、手ぇ、冷え切ってるじぇねぇか。早くこっちで炙りな。もげねぇ程度にな」
 強引に手を引かれると、暖炉の正面に置かれた二人がけ用のソファに連れて行かれた。元の動物が何だかわからぬ黒い毛皮の敷かれたその上に座らせられる。
 その後は手慣れたものだった。
 福助は何枚ものタオルと大きな瓶に詰められたクリームを用意し、「失礼します」と一言断った後は、無言で彼女の頭や顔をタオルで擦り、水気を拭きとった。
 その傍らで、白石は拒否する間もなく靴と靴下を脱がせ、彼女の手を擦り続け、ついには手袋を脱がせることに成功すると、更には素肌が露わになった手足の、その爪の先まで念入りにクリームでマッサージした。
 あまりにも当然のように作業を進められ、彼女は呆然と、拒否する間もなく、男達の処置に身を任せるしか無かった。
 彼女が、白石の手の力を感じ、痛みすら覚えはじめた頃に、ようやく、白石はマッサージを施す手を離した。
「福助、まだか?」
 白石が大声をあげると、いつの間にか姿を消していた福助の声だけが、「もう少しです」と隣室から響き渡った。
 暖炉の前に残された二人は、しばらく黙った。
 彼女は温められてむず痒くなった指先をいじりながら沈黙をやり過ごしていたが、白石はジッと、ニヤニヤしながら彼女の顔から視線を外さなかった。
 無礼な男だなと、今更ながらに思う。
 その心境が伝わったのか。
 不意に、白石が口を開いた。
「ここを買った時」
 視線は彼女に注がれたままだ。嫌らしいとも言える笑みもそのままに、白石は続ける。
「何が気に入ったって、この先に家が無かった事でね。最低でも一つは山を越えねぇと、山の管理小屋すらねぇはずなんだ。下もそうだ。どちらから来るにしても、難儀な場所のはずなんだぜ?」
 そうなのかと彼女は思う。
 この辺りの地理はよくわからなかったから、真っ直ぐ進めと言われたとおりに、真っ直ぐ歩いてきたのだが。
 彼女の反応に、白石は大袈裟な、アメリカ人がよくやるような身振りでがっかりした様子を表現。
「なぁ……お嬢さんよ。そろそろ声が聞きてぇし事情を教えてもらいてぇんだが……もしかして、話せねぇのかい?」
 確かに、このままではこちらも無礼になってしまう。
 彼女は内心困った。
 というのも、常々より、話すことが苦手であったのだ。
 できる限り、ゆっくりと、自宅で話すように、聞こえるように、一言一言を丁寧に、告げた。
「びょうきで、はなすのが、にがて」
 本当は「にがてなんです」と続けたかったのだが、生来より嫌いなくぐもった声と、元よりうまく開かない顎、動かない頬の筋肉、そして常々閉じられているが故に痛いほど引き攣る口角に根負けして、言葉を打ち切った。
 しかし、白石の笑みは凍りついた。
 最初の時のように、ウともムともつかぬ声で唸りながら、二十代半ばと思われる美男子は片手で己の顔の半分を覆った。
「病気?」
 そんな風に呟くと、再び「病気ぃ?」と、今度は疑いの響きを言葉に乗せた。
「いつから? いつからだい?」
 白石は問いかけた後にハッと我に返り「生まれつきかい?」と付け加えてくる。
 話すのが辛い彼女としては、頷くだけで済むのは気楽だった。
 ほっとする彼女の反面、白石の顔つきは強ばり、言葉は咳き込むように早くなった。
「それじゃ、あんた、生まれた時から、こうなんかい?」
 頷く。
「今年で何歳だ?」
「わからない」
「わからねぇ? 見たところ、十四、五だけどな……隠してもしょうがねぇよ? 言ってみな?」
「わからない」
 白石はパチンと音を立てて自分の顔の右半分を右手で覆い、次いでフウと大きく息を吐いた。
「お嬢さん……あんた、人慣れしてねぇワリには、多少の常識はあるようだ。学校には行ったのかい?」
 首を否定に振る。
「それじゃ、家庭教師か」
 否定。
「言葉はどこで教わった? 家? 家の人か?」
 頷く。とはいえ、埒があかないので話すことにする。
「てれび、と、らじお」
「おい、おい、おい! 文明の利器はあるのかよ!」
 白石が椅子の背もたれにしがみつくようなリアクションで驚いて見せると、「旦那」と福助が呆れた声をかけてきた。
 出迎えた時とは打って変わり、表情には余裕も見え、彼女へ向ける視線にも険が無くなっている。
 先に居なくなった時のように、いつの間にか二人の側に、漆塗りの椀を盆に乗せて立っていた。
「ご用意ができました」
 白石は「おう」と手もみをすると、自分の椅子の横に置かれていたサイドテーブルを彼女の前に押し出す。
 テーブルの上には、碁盤が広げられていた。どうやら、ゲームの最中に訪ねてきてしまったらしい。ふと、福助が不機嫌だったのは、ゲームを中断されたからではないかと思い当たった。
 白石は碁盤を無雑作に、それでも碁石がずれないように持ち上げながら立ち上がると、窓際の書斎机に近づき、その上に平積みになっていた数冊の大きな書籍に重ねて置いた。
 暖炉の前に戻ってきながら、白石はどこか浮かれた様子で声を張り上げる。
「外は寒かったろ? 遠慮せず、身体ン中からじっくり、あっためなよ」
 今更ながら、この双子のような男達は声まで似てると気づいた。
 彼女は、福助の手によって目の前の小さなテーブルを覆うように置かれた大きな蒔絵の盆を見下ろす。その盆に描かれた蒔絵の山並みに対する満月のような小さな漆塗りの椀、椀の中には丁寧にたたまれた白い麺、その麺の先端は、盆に描かれた蒔絵の山から流れる川面へつながり、そして同じく漆塗りの箸が棹のようにさしこむかのように置かれた様の美しさ。
 彼女は立体的な絵画のもてなしに戸惑いながら、椀を両手で取り上げた。
「年越し蕎麦を作った時に、多めに出汁を作っておいて正解でした。精進出汁で、中は煮麺です。食べられないようなら残していただいても構いません」
 福助が初対面時の警戒が嘘であったかのように穏やかな表情で説明した後、少し間を置いて、困ったように囁いた。
「蕎麦の方が良かったですか? お取り替えしますよ? 小麦の方が良いかと思ったのですが」
 彼女は首を否定に振る。出された品を取り替えてもらうなど、物心ついてから一度もしてもらった事はなかった。尋ねられたことも初めてだった。
 福助はようやく、彼女に向かってほっとしたように小さく笑った。彼はそのまま白石にも振り返ると、白石も満足げに頷き返していた。
 彼女は、先に白石によって塗られたクリームで手が滑るような錯覚に襲われながらも、ゆっくりと椀を捧げ持つ。
 白石と福助が、彼女の一挙一動を見守っている視線を感じる。
 彼女は二人に視線を送る。
 どちらが、来るんだろう?
 そのまま、どれほどの時間がたったのだろうか。
「福助」
 白石が福助に向かって顎をしゃくり、福助は「あ」と小さく叫んで頷くと、きびきびとした動作で彼女の背後に立った。
「失礼します」
 左手で彼女の頬の側面を、右手で顎を掴む。
 ゆっくりと、彼女の顎を下に引き下げる。
 ようやく開いた口に、彼女は安堵する。
 そして、彼らの無礼に少々腹を立てる。
 彼女は腕を持ち上げ、椀に口を寄せ、喉を潤し、胃の腑に暖かいものが貯まってゆく感覚を楽しんだ。
 続けて箸を持ち、少しずつ、麺を口に運ぶ。
 福助は、彼女の動きに応じて的確に顎を動かし続ける。
 福助の動作に合わせ、福助も彼女の動作に合わせ、煮麺を噛み切り、飲み込み、運び続ける。
 白石は福助と彼女の動きを黙って、どこか真剣に見守るばかりだ。
 やがて小さな椀の中身が空になり、椀と箸を盆に戻すと、福助が「よろしいでしょうか?」と尋ねてくる。
 頷き返すと、福助は再び「失礼します」と断って彼女の顎を持ち上げ口を閉じさせると、静かに両手を離していった。



 食事が済むと、福助は手慣れた様子で盆を下げて行き、白石は腕組みする。最初と同じように、すぐに指先で顎を掻いた。
 彼の表情には、先の浮かれた様子が微塵も残っていなかった。
 視線は彼女に注がれたままだ。
「こいつは、なんとも……なんとも……」
 ブツブツ呟きながらも、どこか不安そうでありながらも、それでいて言葉の響きには喜びにも似たものが残っていた。
 大きく息をついた白石は、一度、天を仰いだ。
 数瞬後、再び彼女に視線を送ってきたその顔は、元の通りに、どこか嫌らしいともさえ言える笑顔だった。
「お嬢さん、病気だと言ってたな? 医者は?」
 再び咳き込むように質問してくる白石だ。
 この赤シャツの男の変化に戸惑いながらも、彼女は失礼のないように答える。
「おじさまが、いしゃで」
「おじさま? 父方かい? 母方かい?」
「おじさま、としか」
「薬もそのおじさまが出してたのかい?」
 頷く。
「メシはどうしてた? 三食?」
「ネェさまが、ニしょく」
「ネェさま? 誰だ? どういう関係か、わかるか?」
 否定。
「年寄りか? 若ぇのか?」
「わからない」
「男か? 女か?」
「わからない」
「外には? 庭ぐらいには出られたのか?」
 肯定。
 白石の笑みは、質問が重ねられていけばいくほど、深くなって行く。
「テレビ、ラジオはOKだったな。本は?」
 肯定。
「よしよし……そのネェ様とやらから、何か注意された事はあるかい? あれをやるな、これをやるな、とか。逆に、これをしろ、とか」
 彼女がどう答えようか迷っていると、白石は我に返ったようだ。
「話すのが辛ぇんだったな。ゆっくりやりな。待っててやるから」
 その間に、福助が呆れ顔で戻ってくる。
「怯えてますよ、彼女。旦那、一体なに言ったんですか?」
「今、良いトコなんだ。黙ってな」
 不審げな目つきで白石と彼女を交互に眺める福助は、そのまま出入り口の扉の側に椅子の一つを持って行き陣取った。腕組みすると、暖炉の上の、壁にかかった柱時計を見上げる。
「旦那、もう少しで日付が変わりますよ? 急いだ方が良いんじゃないですか?」
 彼女から目を離さずに、白石が即座に応じる。
「あと何分だ?」
「二十分」
「お前はどう思う?」
「俺の勘ではビンゴです」
「追加は来ると思うかい?」
「思います。偽があって真がないとは思えない。おそらく、対になってます」
「そうだな。俺もそう思う」
 彼女は息をのむ。
 なぜ彼らは、もう一人来るとわかっているのか?
「驚いたな?」
 白石が眉間に皺を寄せた。切れ長の目が、更に細くなる。ぐっと、身を乗り出してきて、彼女の顔を下から覗き込むかのように首を傾げた。
 整った顔立ちが、彼女に迫ってくる。
「俺たちの予想通りってわけだな? ん?」
 どんな事なのかわからなかったが、この男に騙されたのかもしれないと、彼女はぼんやりと思う。この家は自分たちに仕掛けられた罠だったのだろうか? 逃げた方が良いのだろうか?
 じわりと恐怖が浮かんだ。
 だがそれ以上に、これから何をすれば良いのかわからなかった。
 わからないまま、白石の眉間の皺が盛り上がっている様を眺め、緊張した声を聞く。
「先の質問の答えをもらってねぇぜ? ネェ様は、何をするなって言ったんだ?」
 答えて良いのか迷ったが、白石の真剣さは、どうにも、自分に害するものとは思えなかった。
 彼女は白髪頭の「ネェさま」の、表情の無い顔を思い出す。このコロコロと態度と表情を変える美丈夫と比べる。
 生まれてからずっと側にいたはずの「ネェさま」よりも、この無礼な男の方が、興味深かったのは事実だった。
 なによりも、この、作り物のような赤いシャツの男の方が、彼女の言葉に翻弄される様が愉快で無かったと言えば嘘になる。
 もっともっと、白石を、そして福助を、二人とも驚かせてみたくなっていた。
 「ネェさま」の言葉を思い出しながら、口を開く。
「にわから、でるな」
「よしよし、素直で良い。他には?」
「クダンを、はなすな」
 白石が一瞬、福助に視線を投げたのがわかった。
 福助もまた、座ったまま腕を組み直した。福助のまとっていた穏やかな空気が、玄関で彼女を迎えた時のそっけないものに戻っていた。
「クダン? 件で良いのかい? 予言をする人頭牛体の化けモンだぞ? わかってんのかい? クダンをなんだと思ってんだ?」
「きょうだい」
 白石はまたも、ウともムとも言えぬ声をあげた。
「……ネェ様は、あんたに食べ物をやって、テレビとラジオと本をやって、庭から出さなくて、クダンをはなすな……話すな? 離すな、か。他に、どんな事をするんだ?」
 白石の言葉をなぞりながら、己の一日の行動を思い返す。



 病気なのだから、家に留まり続けるのは仕方が無いと思っていた。ネェ様だけでなく、おじさんもばあやもじいやも、みんな優しく見守ってくれていた。話すのが苦手な彼女の代わりに、何もかも準備し、会話すらも頷くだけで済むようにしてくれていた。テレビやラジオでわからぬ事があれば、親切に教えてくれた。
 家から、庭から出なければ、そして家の者を困らせるような事をしなければ、何をしても構わなかった。
 庭を歩き、外に出る事に憧れても、それを口にしたとしても、彼らは病気だからできませんと悲しげに諭し、あなた様は御家の為に尽くされるのが一番の幸せなのですと囁かれた。
 話したことのある者達は、皆、同じ家に住む者たちばかりで、たまの来客にも病気をうつしてはならないからと、顔を合わせることはなかった。
 テレビやラジオの人物達は、自由に各所を移動し、話している。この家の者達は誰もそうしないのはなぜか? そう質問すると、それらの話は、全てが作り物なのだから、信じてはならないと。
 それらを思い出しながら、目の前の白石と、出入り口に陣取る福助を見る。
 この二人は、テレビの人物のように、自由で、無礼で、まるで作り物のように見えるけど、こうやってここに生きている。
 ならば自分は、どこからか知らぬけど、夢うつつのまま、作り物の世界に迷い込んでしまったのだろうか。
 作り物の、世界に。

 そういえばと、思い出した。

「はなしを、かく」
 白石の顔は、目は、驚きに歪んだ。本当にこの男は、彼女の一言一言に大いに反応する。
 知り合ったばかりの見知らぬ男でありながら、作り物の男でありながら、彼女は少し愉快に感じていた。
「話し? どんな?」
「うしと、はなす」
「牛と話す話を書く?」
 白石はしばらく黙り、直ぐに「ああ」と呻いた。
「二人の会話を書き留めてるってわけだ。ん? 待てよ。クダンと話しては駄目で、牛とは話す? クダンを離しては駄目で、牛とは離す、か? どっちだ? そもそも……あんたと牛は、話をするのか? 庭で?」
 肯定。
「その牛とやらは、あんたの家にいるのかい?」
 肯定。
「ネェ様は、牛とあんたとの話を、書く? いや、書き留める、なのか」
 肯定。
「だから、にげろと」
「何?」
「うしも、にげろ」
「牛が?」
「クダンが、そう、いった」
 白石は文字通り、椅子から飛び上がった。仁王立ちになって、彼女を見下ろす。
「クダンがお前に逃げろと言ったのかッ!」
 整った顔は歪み、叫びは火を吐かん勢いだった。
 怯え混じりの急かすような白石の様子に、急いで返事をしようとしたその時。
 部屋の一角が明滅した。
 回転灯が音もなく回り、異常を知らせてくる。その眩しさに目を瞑る彼女の耳に、福助の鋭い声。
「旦那」
 福助がいつの間にかドアの横のモニターをのぞき込んでいる。
 彼女は、自分が来た時にもこうやって察知されたのだろうとぼんやり考えた。門扉か玄関に、回転灯に繋がるセンサーがあったのは明白だった。
 福助は白石と同じ声で、冷たいと言っても良い声色で告げた。
「今度こそ、俺たちの予想通りのお客様です」



 牛が、入ってきた。
 赤い毛並みには雪がこびりつき、鼻からは吐息が湯気となって立ち上る。
 福助に促され、風除室を通り、その入り口から全身を入れると、部屋の中までは進まずに足を止めた。温められた空気で鼻からの湯気は見えなくなったかわりに、その荒い息が耳障りなほど響いていた。
 白石が勢いよく立ち上がり、マジマジと牛を見、そして彼女に振り返った。
 美男子の顔が、驚愕に歪んでいた。
 福助は、部屋の中に戻ってくると、彼女の傍ら、つまり二人がけ用ソファーに積まれたままだった未使用のタオルを抱えて白石に半分を渡す。
「旦那も手伝ってください」
 驚きの表情のまま、白石は何度か頷く。
「予想通りとはいえ……こりゃ、まいったな」
 福助と白石は、牛の両脇に分かれて、雪が溶け始めて湿り始めた牛の頭と言わず腹と言わず、蹄の先までタオルで拭き取る。
「あの娘に聞いたんだが」
 白石が牛の耳を拭きながら、彼女にも聞かせたかったのか、ちらりちらりと交互に顔を向けながら声を響かせた。
「お前さん、話せるんだね?」
 牛は頷いた。
「見ての通り、彼女よりは自由に動く顔を持っているから」
 いつもの、少年のような、優しい響きを持った牛の声だ。
 福助がビクリと身体を震わせて、牛の赤茶色の背を拭く手を止めた。そのまましばらく牛の背中を眺めた後、黙って作業に戻っていく。
 白石はまたも、ウともムともわからぬ声で唸る。
「どうやら、お前さんの方が、彼女より、このトンチンカンな状況を知ってるようだな」
「彼女よりは、です。詳細を知ってるわけではありません」
 牛は白石に耳の後ろを拭いてもらいながら、ふうとため息をついた。
「まあ、クダンの言うとおり、今日あたりが頃合いだったのでしょうね」
「お前はクダンじゃないのかい?」
「私がクダンなら、直接あなた方に説明して助けを求めます」
 白石はまたもウともムとも言えない声で唸った。そして、少し怒ったように続ける。
「俺たちがここに着いたのは昨夜だ」
 白石の言葉に、福助が牛を拭く手を止めずに頷いた。
 白石は怒りの滲んだ、それでもおどけた明るい声で続ける。
「今年はいろいろ騒がしかったからな。都心からここまで、野宿しつつ、テクテク、テクテク、歩いてきた。ヒッチハイクも出来なかったから、半月かかった」
 手を広げた大袈裟な身振りで、家の中を見回す。
「ここは俺たちの倉庫代わりで、普段は使ってねぇから、着いた途端に大掃除もいいとこよ。ようやく終わって大晦日、ノンビリ除夜の鐘でも聞こうかと思ったら、このとんでもない訪問だ。俺たちを頼ってくれたのは悪くない気分だが、どうしてクダンは、俺たちが今日、ここにいるとわかったんだ?」
 牛は潤んだような黒目がちの目を瞬いてから、当然といった調子で答える。
「ご存じのようですけど」
 白石と福助は顔を見合わせ、牛に目を戻した福助が牛の体を拭く手を止めてぼやく。
「必ず当たる件の予言? 俺たちがそんなもの信じるとでも?」
「クダンは、あなた方なら、我々を助けてくれると言っていました。年が明ければ予言も変わるから、早く行けとも」
「なぜ、旦那と俺が?」
「桑の木の下で碁を打つ二人の仙人は、寿命を延ばしてくれます」
 白石が「管輅(かんろ)の話か」と笑いを吹き出しながら呟いた。
「確かに、さっきまで碁を打ってたのは確かだ。煙突近くのデカい木も桑の木だよ。でも俺たちは北斗南斗の仙人でも何でもねぇ、ただの学者くずれなんだがね。あんた達の寿命を書き直す為の帳面も筆もねぇよ?」
「しかし、クダンは言いました。このままだと、年が変わってすぐに、我々は死んでしまうと。死にたくなければ、あなたがたの元へむかえと。そして、間に合わなければ、年明け後について告げたクダンの予言は、全て変わってしまうと」
「肝心のクダンは、これから来るのかい?」
「聞いてはいませんが、来るかもしれません」
 不意に、福助が白石にむかって鋭く振り返った。
「旦那、ダメです」
「そうかい」
 白石は笑った。
「なんでわかった?」
「旦那のやりそうな事は、察しがつきますよ。クダンの正体がわからないのに直接会うのは危険です。ついでに、クダンの予言が変わるのを聞きたいんでしょう? 変わって何が起こるか見たいんでしょう?」
「でも年が明けるまで時間がねぇ。埒もあかねぇ。一番良いのは、クダンと直接、話す事だ。大体、助けるっつったって、どうすれば良いのやら。このままじゃわからねぇ。違うかい?」
「待ってください、旦那。思い出してください。俺たちは、山から歳神が来たと思ってたんです。だから、彼女を見て違うと思ったときに追い返そうと思ったし、この牛が来たときには招き入れた。この二人が歳神ではないなら、下手に関わるのは――」
「あぁもう、うるせぇなぁ」
 赤シャツの男は、黒シャツの男の肩を軽く叩く。
「大丈夫だ。何はともあれ、今はクダンだ。予言よりも、ネェ様がここまでお膳立てしたクダンの方が気になんだよ。こいつがクダンじゃなければ尚更だ。歳神だろうが化けモンだろうが関係ねぇ」
「旦那」
「大丈夫だ。クダンは俺たちに助けを求めるように言った。ならば、俺たちが動くまで、このお嬢さんと牛を助けるまでは安全なはずだ。違うかい?」
「助けた後の、俺たちの身の保証がありません」
「確かにな。だが、このまま年が変わるのを待つのもおかしなもんだ。それこそ、歳神に祟られそうだぜ? 違うかい?」
 そこで、白石は心底から意地悪く、笑った。
「それに……おめぇだって、本音は見てみてぇんだろ? クダンを」
 福助が言葉を詰まらせ、白石を睨んだ。
 今にも掴みかからんばかりの眼光。
 さっと壁の柱時計を見、更に白石を睨んだ。
「時間が無い。わかりました、おつきあいしますよ」
「おうよ」
 美男子二人が牛に振り返る。
 二人の視線で察した牛は、目を瞬かせた後、彼女に振り返った。
「少し、難しい話をするよ。良いかい?」
 いつもどおりに、優しい声で牛が声をかけてくる。そして彼女も、いつも通りに頷き返した。
「君と私の関係だ」
「きょうだい」
「そうだ。ネェ様がそう言ってた。だけど、それは嘘だ」
「うそ?」
「人間と牛は、兄弟になれない。君も知ってるだろう?」
「でも、ネェさまは」
「それが嘘なんだ。君はずっと、嘘をつかれてきた」
「うそ?」
「テレビやラジオ、本の世界。全てが作り物だから、そのままを信じてはいけないと」
「うん」
「それが、嘘だ」
「うそ?」
「テレビや本を思い出してごらん。あれが本当だとしたら?」
 牛は見守る赤シャツと黒シャツの美男子にむかってかぶりを振る。
「彼らを見て、作り物だと思っただろう? 違うんだ。彼らの方が本物で、君と私の方が作り物なんだ」
 彼女はもう、何が何だかわからなくなっていた。
「わたしたち、つくり、もの?」
「自分の顔に触ってごらん」
 牛に言われるがままに手を伸ばすと、ひんやりとした感触が、掌に伝わってくる。
 柔らかな産毛と、少し堅い肌。
「それは、君の顔じゃない」
 牛は、悲しげに首を傾げた。
「ネェ様も、おじさんもじいやもばあやも、みんな本当の顔をしていない」
 彼女は更に、何が何だかわからなくなっていた。
「かお?」
「顔だ」
 牛はむず痒そうに前足を二度三度と動かした。
 そのまま、悲しげに告げた。
「牛のマスクだ」
 よろめきながら、続ける。
「君が顔だと思っているのは、精巧に作られた牛のマスクだ。覆面だ」
「うしの?」
「そして私の顔は、君の顔のマスクだ」
「ネェ様は……」
「あの家の者は、皆、マスクを被っていた。それが本物の顔だと君は育てられた。マスクのない、君にとっては違和感のあるテレビや本の顔は偽物だと教えられた。嘘なんだ」
「うそ」
「この二人が証拠だ。これが本当なんだ。普通の人間は、何も被っていないんだ。あの家には鏡もガラスも、金属の器もなかった。だから君は自分の顔を知らなかった。顔を動かすのが不自由なのはマスクのせいだ。物を食べるときに手助けが居るのはマスクのせいだ。それは常識じゃ無い。全て、嘘だ。あの家の、嘘だ」
 「だから」と牛が呟いた時。
 彼女の中に、いつもの感覚が蘇った。
 牛にも、ソレがやってきたのがわかった。
 牛と彼女の声が重なった。

「「とりかえる」」

 いつもどおり、牛がクダンに尋ねている。
「どうすれば良いのですか?」
「「二人の顔を取り替えれば」」
 彼女は二人のやりとりに耳を澄ますばかりだ。意味もわからずに。ただ、自分の口が勝手に動く様を邪魔しないようにするだけだ。
「特別な事は必要なく、覆面を取り替えるだけで元に戻せるんですか?」
「「戻る。人は人に、牛は牛に、戻るだけだ」」
「できなければ?」
「「お前達がネェ様と呼ぶ者が、予言が外れたとして厄介払いに来るだけだ」」
「この屋敷の二人は?」
「「我々の事を知った以上、失敗すれば巻き込まれるのを恐れて逃亡するだけだ。何も変わらない」」
「なぜ、我々を助ける事までクダンの予言に入っているのですか?」
「「礼儀を知らぬわけではない。不自由させた。これからはそれぞれの生を、長く生きるといい」」
「時間がありません。あと五分で日が変わる」
「「ならば、早くやればよろしい」」
 僅かな沈黙の後、続けた。
「「これがお前達との最後の会話だ。今まで世話になった。礼を言おう。さらばだ」」
 一方的な物言いで、いつものソレが消えた。
 クダンと話した事は無かったが、彼女は少し、寂しく感じた。


 牛は白石と福助に振り返る。
「人に牛の頭を被せ、牛に人の頭を被せ、だからといって牛の私が人語を理解し使える理由にはなりません。おそらく、あの家の者たちには何かしらの秘術が伝わっているのでしょう。私には人の知性が、彼女には牛としての知性が、この覆面を介して通じ合ってると思われます」
 白石はまたしてもウともムとも言えぬ声で唸り、腕を組み、右手の指で己の顎を掻いた。
「雄牛の頭を女に、女の頭を雄牛に、か。随分といりくんだ『とりかえばや』だが……あれがお前達のクダンか」
「私たち二人の会話が交差した所に現れる知性です。原理はわかりません。どこで交差するかもわかりません」
「だから、ネェ様は、あんた達の話を書き留めていたのか。予言を拾い上げる為に」
「あの家の者は、代々クダンの予言を売ることで生活していると考えられます。状況を考えるに、我々は人工的なクダンとでも言えるでしょう。牛の寿命を二十年だと見積もるなら、おそらく、我々の次世代も用意されているでしょう。逃げ出した我々には関係ないことですが」
 意外なことに「面白い」と笑ったのは福助の方だった。少し引き攣った、神経質な笑いだ。
 白石の方は、指で顎を掻き続けながら、顔を顰める。
「何をすれば良いのかわかった。わかったが……俺たちが北斗南斗の仙人だとして、だ。あいつらは腹一杯の美味いメシと酒を奢ってもらったはずだ。その見返りに寿命を延ばしてやった。これを俺たちにやらせて、俺たちには何かメリットがあるのかい? 俺たちが断ったら、クダンの算盤もご破算だろうぜ? 俺たちには何もないのかい?」
「断らないでしょう。私の知る限り、クダンは断るような予言をしません」
 吊り下げられた雑多な品々に、牛はしっとりとした黒い目を向ける。
「あなた達は好奇心の塊だ。私がこの家の中を見回しただけでもわかる。クダンがわからないワケがない」
「わかっちまうかい」
 鼻で笑った白石に、牛は続けて告げる。
「あなた達は、この世界的な騒ぎの詳細を知りたくて、あえて交通機関を使わず、おそらく車両も持っていながら使わず、各所の状況を見たくて、あえて歩いて、野宿までして、ここまでやってきた。そんなあなた達が、こんな冒険に手を出さないとは思えない。この状況に参加すれば、あなた方の好奇心は満腹になるでしょう。それが報酬ではいかがでしょうか?」
 福助がこらえきれずに笑いを吹き出し、その様子に白石も苦笑する。
「牛ごときに己の本性を諭されるのも癪に障るが……違ぇねぇしな。まあ、聞く限り中身は牛ではないらしいし、年頃のお嬢さんの無礼って事で、大目に見てやろう」
 そこでパンッと、相撲取りやレスラーがやるように、己の両頬を挟むように叩いた。
「取り替える……『とりかえばや』。二人のツラを取り替える。それだけで良いんだな?」
 先とはうって変わり、白石が震える声で呟き、その変化に顔を強ばらせた福助に振り返る。
「福助。わかったか?」
 同じ顔をした黒シャツの男は、ゴクリと喉を鳴らした。
「俺が、やります」
「ダメだ。何があるかわからねぇ。おめぇにそんな危険な事はさせられねぇよ」
 白石は即答すると、福助の背を音高く叩いた。
「それに、クダンは俺たちに助けを求めた。どちらかじゃねぇ。やるなら一緒だ。手伝ってくれるな?」
 福助が無言で頷き、白石は牛に振り返る。
「覚悟はいいかい?」
「いつでも。あと二分で日が変わります。クダンの言うとおり、今年中にお願いします」
 白石は迷いのない牛の言葉に頷き、福助に目を向ける。
「確認だ。1、2、3で取る。お前は娘から牛、俺は牛から娘。4で被せる。右手だ。途中で持ち替えるな、そのまま俺は上から、お前は下から動かして頭。いいな?」
「承知しました。立ち位置は?」
「俺が正面、お前が背」
「おそらくですが、顔を直接見るのは危険です。逆で」
「俺が見てぇんだよ」
「旦那」
 やっぱりと言いたげな、不満そうな福助の声に、白石も鋭く返答。
「俺が見るっつってんだよ。時間がねぇ、黙ってろ」
 福助もまた、鋭く息を吐き真顔になった。
「気をつけて」
 白石は彼女の手を引いて、牛の左に並べて立たせた。肩を掴んで立つ位置を指定しながら、いたずらっぽく囁く。
「ジッとしてな。たぶん、痛いことは何もねぇから」
 彼女は牛に振り返る。牛が頷く。ならば大丈夫だと頷き返す。ここに到着して以来、何者かもわからぬ彼女の世話をしてくれた二人だ。
 その上、牛が大丈夫というのなら、これ以上の心強い事はない。
 白石が二人の前、ちょうど二人の間に立つ。そして、背後には福助が立つ気配がした。
 そして彼女の頭を、後頭部を、福助が掴んだ。頭が軋むほどの強い力だった。
 白石も、牛の頭を掴んだ。額の皮が引き攣るほどの力だった。
 いや、彼女の感覚では、顔の皮、頭の皮なのだが、本当は違う。牛の言うことが本当なら、覆面が軋み、引き攣り、皺が寄っているだけなのだ。
 そして白石が、大きく息を吸う。
 一度だけ、壁にかかった柱時計を睨み、すぐに牛に目をやる。
「1、2」
 作り物のような美青年の、通りの良い声が響き。
「3ッ」
 一瞬の闇と一瞬にして視界に広がる部屋の明るさ。
「4ィッ!」
 再び落ちる一瞬の闇と、光景。
 じわりと、脳天が熱を帯びた。陽の光が直接、体の中に染み込んできたような温もり。
 白石の整った顔立ちに浮かぶ怖いほどの視線が自分に注がれている事を感じ。
 そして。


 あぁ、なんて眩しい光。


 壁の柱時計が、日付が、年が変わった事を告げる重々しい鐘の音を鳴らし始めた。



〈了〉



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