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外は雨だ。二週間ぶりの雨。それもにわか雨らしい。 刈谷の経営している地下のピアノバーも、こんな日には雨宿りに飛び込む客でいっぱいになる。この時間帯はバーではなく喫茶店状態だから、常連のおばさま連中や学生もいつもどおり待機していて、いつになく騒がしい。 アキラは時計を見上げ、時間が来たことを確認する。 「三上さん、香澄ちゃんの迎え、いってきますから……」 長く勤めている三上は、姉さん女房的な笑顔で「おう、いってきな」と手をふる。経営手腕の皆無な刈谷にかわって店を切り盛りしている彼女は、実質的な店長である。バイトの数人が、慌ただしい店内とアキラを交互に見つめ、羨ましそうにため息をついた。刈谷の娘を幼稚園へ迎えにでるのは、居候であるアキラの役割だ。それまでは、この店のオーナーであった、今は亡き刈谷の妻の仕事だった。 アキラは刈谷を見る。 鍵盤を叩いている、子供のような横顔。うっとりとした表情。演奏の中にさまよい、入り込んだ、夢遊病者の顔。 アキラは傘を手に、地下にある店をでた。階段の上にのぞいている空はひどく眩しい。降り注ぐ雨粒は白く輝いている。 刈谷の笑顔のようだ。 アキラはそれを跳ね返すための傘を広げて、歩き出す。 悲しいのは雨のせいだ。 一年半程、前になる。 『よかったら、ウチで働くかい?』 傘をさしかけてくれた刈谷は、喪服姿だった。背には今年五歳になる娘を背負っていて、寂しそうに笑っていた。 『人手もいないしね……俺を頼ってきたんなら――』 アキラには記憶がない。ただぽっかりと、海に浮かんだヒトカケの氷片のように、刈谷の事だけを知っていた。彼の名前、家族、店の場所。それだけ。 自分が刈谷なのではないかと思うほど。 だから、記憶がなくなったと気づいたときも、まっすぐ店の前まできた。 ――帰ってきた。 そう思った。安心して、ほっとして、鍵のかかった店の前でずっと待っていても、少しも苦痛ではなかった。 でも実際には、刈谷という男はそこにいて、刈谷に見覚えはないと告げられ、自分は何者か解らなくて。 途方にくれたまま、店の前で雨に撃たれてた。行くあてもなく、手持ちの金もなく、ただショックで立ち尽くしてしまって。そこが店先であることも、雨であるのことも忘れていたのだ。そんな自分に、刈谷は傘をくれた――。 『いつか、記憶が戻るまででいいから――』 喪服の彼は、ボソボソと呟いて、取ってつけたような笑みを浮かべた。 後日、その日が、刈谷の妻の葬式だったのだと知った。 町並みはすっかり、クリスマス一色だ。 今年のクリスマスには、何をプレゼントしようか? ――去年は、香澄ちゃんにおもちゃの電子レンジ、掃除機、洗濯機。刈谷さんには時計とコート。 その前は――その前は―― いなかったのだ。この土地に。もう何年もいるかの様に感じるのに、いなかったのだ。いつからか溶け込んでいて、自分でも忘れそうになるけど。 いつも同じ場所にいる猫に挨拶し、よく吠えられていた犬とも顔なじみになって。でも、変わらない日常だった。何年も前から変わらない風景。 変わったのは、自分だけだ――いや、違う。変わらない。 街のイルミネーションは季節事に変わるけど、自分は簡単に変われない。 雨だって、止めと念じても止むわけじゃない。 止んだとしたら、そんな気がしているだけだ。気のせい。気の迷い。 悲しいのは雨のせいだろう。 最初にそれを見たのは、去年の秋だった。 閉店になっても帰らない酔った女性客に、刈谷は従業員一同を先に帰らせた。 知り合いだったらしいその女性は、しきりに刈谷の名を呼び、絡んで、始末におえなかったのだ。 『アキラは香澄を寝かせてよ』 刈谷の付けた「アキラ」という名前が、やっと、自分だと思えるようになった頃。 ロッカールームではしゃいだまま眠ってしまった香澄を寝室へ運んで― 店へ戻ると誰もいなかった。 開けっ放しのドアを閉めようと、外へ身を乗り出すと―― 彼女と、目があった。 階段の中程で、刈谷の唇を味わいながら。彼女は刈谷の肩越しに、アキラをねめつけて。 人形の様に両腕をダラリとさげたまま、刈谷はされるがまま、求められるままに応えていた。 勝ち誇った目? 彼女の瞳は何かを見ていて、何かを語っていた。でも、解らない。解らなかった。今でも……よく解らない。 彼女は唇を重ねたまま刈谷の腕をとって、自分の腰を抱かせた。刈谷はゆっくりと彼女を抱きしめる腕に力を込めていって―― アキラは気づかれないように、きびすをかえした。 あの日も雨だった。 仕方が無い、そう納得した。 悲しいのは雨のせいだと。 『刈谷と? そりゃね、男と女の、自然の成り行きでね』 そう、けだるそうに呟いた彼女はその時、バーナーの火で覚醒剤を溶かしていた。 『何? 気にしてたの? ……まぁ、それなりにカリスマ性のある人だからね、彼。気を付けないと、どんどん取られるわよ』 あんたがどう思っているか知らないけどと、彼女は意地悪く笑った。 カリスマという言葉の意味が、アキラには解らない。 人を引きつける魅力を指すのだろうが、その魅力というのが解らない。 何かを期待させるモノを持っている人――とりあえず、そう考えている。 それは――沢山の人を引きつけて、期待させて、何をくれるのだろう? 沢山の人が、それぞれの欲しいものを求めて群がってる? それを与えてくれるから? それを包んでくれるから? 解らない――そんなの、ただの他力本願じゃないのか? それをカリスマと呼ぶなら、誰にだってあるものだし、誰にだって出来る。 一人に押し付けずに、勝手にやればいい。 勝手に。 一人に押し付けないで―― カリスマなんかじゃない。 雪と雨の様に、優しさはカリスマではない。 だから悲しませないで。 悲しいのは雨のせいだとしても。 行く道すがら、刈谷の弾いていた曲を口ずさむ。 曲名は知らないが、刈谷の最近のお気に入りの曲だ。 曲に合わせるように強くなった雨に、アキラは首をすくめる。手がかじかんだ。寒い。暖かい店が恋しい。……寂しい。 『よかったら、ウチで働くかい?』 解ってる。彼もきっと、あの時、寂しかったのだ。伴侶をなくして、心細かったのだ。 そうだ。 あの刈谷こそ、本当の刈谷だと思いたい。自分は知ってるのだ。あの寂しそうな、悲しげな笑顔を、他人に見せない刈谷を。 彼はアキラに傘をくれた。名前をくれた。居場所をくれた。 だからアキラもあの笑顔をしまっておく。誰にも、教えない。 彼が望まないのを知っているから。 刈谷の弾いていた曲を口ずさむ。刈谷の弾いていた曲は、刈谷の笑顔に似ている。人によっては冷たい感じがするピアノの音が、その曲を暖かく締めつけ、幾重もの響きとなって空に溶けていく様が浮かぶ。 口ずさむアキラの傘の上で、雨音が転がっている。 滴がこぼれ、アキラの肩を湿らせた。 悲しいのは雨のせいだ……? 二度目はロッカールーム。 帰ったと思っていたバイトの一人が、ロッカールームから出てきて。 彼はアキラを見ると、ロッカールームのドアを指して、鼻で笑った。 『オーナーなら、中で着替えてるよ』 着替えてる? 彼が立ち去り、何度もためらった挙げ句、ドアを開けた。 刈谷がいた。 何も見ていない目で、煙草をくわえていた。たち込める白煙を泳ぐように、もがくようにのろのろと手を動かして。 アキラに気づき、慌てるでもなく、乱れているシャツの前を合わせて―― 『……先に、休んでていいよ―』 そして背を向けた。 殺伐とした背中だった。アキラはその背に、どす黒いナニカを見た。 紫煙の見せた幻だったのか。 それは、黒い渦、黒い翼、黒い空、黒い――黒い―― 翌日の刈谷は、いつもどおり穏やかで、優しくて。アキラにも普段の様に笑顔を見せてくれた。 ピアノの音色も、いつものように静かに、華やいでいた。 乱れたシャツの下に散っていた、赤い印の影も見せずに……。 たどり着いた幼稚園に、香澄の姿は無かった。なんでも、近所の子供達をまとめて送っていくと申し出た父兄がいて、その人に任せてしまったとか。連絡したのだが、アキラの出た直後だったらしい。 「刈谷さんから、すみませんとの――」 「そうですか。わざわざ、すみません」 保母の言葉を遮って頭を下げる。解り切った言葉を聞くだけの事が、ひどく煩わしかった。 体よく会話を切り上げ、帰ろうとした矢先、まだ残っていたらしい園児が歓声をあげて飛び出してきた。 声を耳にし、アキラも空を見上げる。 雪だった。 水面に降り注ぐ白い水塊。 あの雪達は知らないだろう。彼らを、彼らという枠から解放する水という死神が、自分達と同じものであることを。 そして水達も知らないのだ。今夜中に、自分達が降り注ぐ使者達と同じ姿に、白く凍りついたベツモノに変わってしまうことを。 白く白く、清らかな濁りの中にかき消されてしまうことを。 でもアキラは知っている。 深く湛えられたプールの底には、澱んだままの暗い影が残っていることを。 雪達がどんなに手を伸ばしても、届かない深遠が渦巻いている事を。 届かない。 どんなに泣こうが、わめこうが、決して届きはしない。 届かないまま、溶けてしまうのだ。飲み込まれてしまうのだ。 それを悲しむ必要など、ない。 悲しいのは雨のせいだから。 刈谷さん……そうでしょう? あの日は……何度目だったろう? もう解らないほど、刈谷の一面を見せられた後の、ある夜だった。 手持ちの煙草が切れて、店の煙草を取りに行った刈谷がなかなか戻らなくて、ごねだした香澄に急かされて迎えに行った。 人の気配がした。刈谷と、明らかに他人の。 連れていた香澄に『お客さんみたいだから』といって、少女だけを部屋に帰らせた。声は少しずつ声高になり、不意に消えたり……状況は良く解らなかった。だから――。 扉を開けた時、最初は、何がどうなっているのか解らなかった。 例の、何も見ていない刈谷の瞳があった。瞬間、アキラの耳から音が消えた。 シャツからこぼれた肩が、何処か戸惑い気味に揺れていた。壁際。誰かの背中が刈谷の身体を、アキラの視界から隠している。誰のものとも知れぬ腕が、手が、刈谷の身体をまさぐっていた。うなじをたどっていた唇が鎖骨に落ちた時、刈谷の瞳がかすかに見開いてアキラを―自分を見つめた。 なぜ?と問いかける目―息が、つまる。 沸き上がる罪悪感が、アキラを現実に引き戻した。音が戻ってくる。 『な―な……何してるんです!』 アキラの声に、刈谷を抱いていた影は飛び退いた。刈谷の身体はずるずると壁に添って崩れ落ちる。 相手は数日前にバイトを辞めた青年。彼はアキラを見、刈谷の方をバツが悪そうに見、足早に店を出ていこうと扉に手をかけた―― 『待って! 待ちなさい!』 意外にも、刈谷は悲鳴のような声をあげた。痛々しさに、相手も、アキラも凍りつくような声で。 着衣を整えようともせず刈谷は立ち直し、困ったようにうつむいた。 『……アキラには俺から良く言っておくから。何かあったら、何時でもいいから、おいで……俺にできる限りのことは、するから』 彼は刈谷の言葉に、慌ただしく頷くと、逃げるように出ていった。 沈黙。そして……刈谷は大きく、息を吐いた。 『おしぼり、取ってもらえる?』 言われるままに、店のものを取って渡した。 『……何も聞かないんだね、アキラは』 聞いても、仕方がない。そう答えたアキラに、刈谷はニヤリとした。 『そうか……君は俺のコンナ生活、前から知ってたしね。……知ってたよ、君が気づいてたって事は。ま、タイミングの悪いときは何度もあったし、今回は特に悪かっただけ、か……』 身体に残っている赤い跡を拭いながら、刈谷は乾いた笑い声をあげた。 『あのさ……アキラは強いよね。記憶がないのに、かまわないってカンジ。君は一人で、完結してるんだ。褒め言葉だよ、念の為。……でも、弁解するわけじゃないけど、そうじゃない人だって沢山いるから』 違うと言い掛けた言葉は、刈谷の笑みに遮られた。 刈谷の瞳は、それ以上言うなと叫んでいた。 『君に、俺の助けはいらないだろ? 君からは……寂しいって音がしない』 寂しいって音。知らぬ間に問いかけていたのだろう、刈谷はアキラの顔を見て、すぐに言葉をつなげた。 『寂しい人に触ると、寂しい音がする。すき間のある音がするよ。鍵盤の調律があってないってカンジ、わかるかな?』 だからね、俺はその音を、俺の音で打ち消したかったんだ―そう言って、迷うように頭をかいた。 『俺のピアノで、俺の弾いている曲で、そのすき間を無くしてやりたかった……でも、そうじゃない人もいるんだ……寂しくて、寂しくて、俺がどんなに音を届けても、届かない人達が、いる。身体を使わないと、解らない、実感できない人達が、さ……だったら、俺を使ってもいいよって……俺のせいにしてもいいよって』 一言一言、確かめるように、探るように、刈谷はゆっくりとしたテンポで言葉をつないでゆく。 『わかってるよ。たかが飲み屋の三流ピアニストが、人を助けたいとか、助けるんだって、はりきる義理はないって。助ける人数だってほんの少しだろうさ。挙げ句、身体をはって――男娼だって、言われたこともあるよ――そんな事までして、ね。馬鹿みたいだよ……』 刈谷は自分の両の手に、顔を埋めた。 『でも……辛いんだ……寂しいって、あんなに言ってるのに、誰も気づいてくれないような人がいる。それを見て見ぬフリなんて、出来ないんだよ』 ――刈谷さんは、寂しいんですか? 『……俺には……香澄と、君がいるから』 アキラは、自分の名が出てくるとは思わなかった。 刈谷の中にある、亡くなった妻と香澄の存在は、それほどまでに大きく感じていたから。ぽつんとした刈谷の、影に潜んだ大きな、家族という義務。 『君は……ずっと、俺を見ててくれたから。俺のしていることを知っても、何も変わらなかった。……そんなトコ、家内に似てた。だから安心して香澄を任せてられるんだと、思う』 そうか。 自分でも気付かなかった。何時だって、自分は刈谷を見てたのだ。 そう、今だって。 唇も、その首筋も、その鎖骨も……誰かの手が触れたモノである刈谷でも、その全てが――アキラの前にあって、眩しい。 刈谷は、君は完結してるといった。でもそれは―― 二人とも解ってる。空っぽのアキラの中に、刈谷だけが詰まっているから、完結したのだ。刈谷がいなければ、大きな風穴があいてしまう。割れた風船の様に、壊れてしまう。 記憶を無くした段階で、すでに、入っていたのは刈谷だけだった様に。 『それとも……アキラ、それだけじゃ駄目かい? それじゃ、足りない? 埋まらない? フフフ……俺を抱きたい? 抱かれたい?』 試すように近付いた刈谷は、寂しそうに笑って、アキラの肩に手をまわした。天井を見上げたアキラに、刈谷が笑う。 アキラは――礼儀だと思ったからだが――黙って抱きしめ返して これで、十分です。 アキラには、刈谷の音が届くから…… 『……うん……ああ、そうだね……』 刈谷は満足そうに唸って、離れた。 『アキラ、君は、誰なんだろうね……他人のような気がしないよ。余計なことをベラベラ話して、俺らしくもないのに……そうだね、君は雪みたいな人だ。君は解らないだろうけど、俺に沢山のモノを届けてくれた。今まで、沢山。……だからさ……君にだけは嫌われたくないんだよ、俺は』 刈谷は、シャワーでも浴びてくると言い残して視界から消えた。 届けても、届けても――水面で、溶けてゆく…… プールの表面で同化する一片の白。 ワタシハアナタノナニニナレルノ? アナタノソコニハナニガアルノ? 刈谷は答えてくれないだろう。 あの寂しそうな笑顔で、納得する自分は―― オオバカモノ、ダ。 傘をたたむと、まだ雨粒が残っていた。 雨のように笑う人。 悲しさを肩代わりしている貴方のせいだ。 カナシイ、カナシイトフルアメヲタタエル、プールノヨウナヒト。 押し付けてしまってもいいよと、貴方は笑う。 だから自分は天を仰いで、雲間を睨むようにした。 悲しいのは雨のせいだ。 そんな努力が、何になるというのだろう? 伝えたい言葉を、いくつ捜して、広げて見せればいいのだろう? 刈谷のために出来るのは、彼が望んでいるのは、アキラの忠告じみた言葉じゃない。だから―― こんな事を考えるのは雪のせい。 雨と違って、雪には奇麗な幻想がつきまとうから―― 『君は……そんなトコ、家内に似てた』 「お帰り」 刈谷はカウンター席でアキラに声をかける。彼の膝では、香澄が幼稚園の制服のまま、オレンジジュースの入ったグラスを抱えていた。 「刈谷さん……帰ったら、まず着替えさせて下さいって、言ったでしょう?」 スカート、皺になるしねえと三上が茶々を入れる。 アキラが香澄を抱きあげると、刈谷は笑って香澄のグラスを取り上げた。 「ほら、言っただろ? アキラに怒られるぞって」 「刈谷さんもそろそろ休憩終わりだよ。いつまで休んでンの?」 三上の声に応じてやんわりと睨むアキラに、刈谷はペロッと舌を出した。 「じゃあ、そろそろ戻ろうか――」 「あ、刈谷さん……」アキラの唇が、勝手にそんな言葉を走らせた。 怪訝そうな刈谷と自分の言葉に、アキラ自身が戸惑う。 いつか貴方が、その笑顔を消して―― 自分の集めた雨のプールで溺れてしまったら―― ぽっかりと浮かび上がる溺死体の貴方の背中に―― ワタシハアナタノナニニナレルノ? アナタノソコニハナニガアルノ? 届けても届けても、届かない言葉を届ける自分を許してくれるだろうか? 雨に殺される雪の様に溶けて、貴方の背中に同化していく自分を。 その時を、他人の苦しみに壊れた貴方を、ずっと待ってる…… 「……クリスマス……何か欲しい物とか、あります?」 「え?」 「プレゼント」 「あ……ああ、そうか。えっと、ねぇ……」「カスミはサンタさんが欲しい!」 「香澄、サンタさんは、みんなのものだよ?」 言ってしまってから、にやっと、いたずらっぽく笑う刈谷。 「それ……いいなぁ……決めた! アキラ、俺、サンタになったおまえが見たい」 「……え?」 「それでいいよ。他になんにもいらない。アキラと一緒にいれれば、いいよ。何もいらない。じゃ、そういうこと。頼むよ」 ……。 一部始終を聞いていた三上が、ぷっと吹き出した。 「あはっ! アキラがサンタクロース? 随分仏頂面のサンタだねぇ!」 「ほ、ほっといてください!」 サンタの格好をした自分を想像して赤面しつつ、アキラは香澄を抱きかかえたまま、店とつながっている刈谷の家に向かうドアノブに手をかけた。と―― 「アキラ」 「はい?」 三上は、呼び止めておきながら、しげしげとアキラを眺めた。 「あんた……前から思ってたんだけど――」 「なんです?」 「――奥さんそっくりだよ、動き方」 『そんなトコ、家内に似てた』 「……そう、ですか? でも――」 「わかってる。あんたは奥さんの事知らないもの、真似のしようがない。でもね……ほっとするよ。奥さんがいるみたいで、なんだか安心する。あんたを見てると、全然違う人間なのに、奥さんが死んだんだって、信じられなくなる」 「……」 「刈谷さんも、きっとそう思ってるよ。だから……わかるだろ?」 三上の目は意味ありげで――明らかに、刈谷の二重生活の事を語っていた。彼女のような観察力のある人間なら、知っていてもおかしくはない。偶然とはいえ、あまり他人を気にしないアキラでさえ、知っているのだから。 「ええ」 解ってる。 刈谷の側に、いたい。彼が壊れないように。 それは矛盾だけど……いや、矛盾なんかじゃない。 そう、壊れた刈谷が……壊れ切ってしまわないように、いつ壊れてもいい様に、ここにいよう……。 きっとその為に、自分はここにいる。 刈谷の亡き妻の代わりに、最後の味方として、ここにいる。 この、刈谷への想いだけが詰まった身で。 ピアノの音が、店内を満たしはじめる。 あれだけ毎日音を奏でているというのに、刈谷は相変らず、おもちゃを与えられた子供の様に、夢中で鍵盤を叩いている。 他人のすき間を埋めようとしている姿には、とても見えない。 『よかったら……ウチで働くかい?』 あの顔を忘れない。アキラの全てをくれた人の、寂しさを。 アナタノソコニハナニガアルノ? ワタシハトケテユク―― 「? ……アキラ?」 香澄の声に我に帰ったアキラは、大きく息を吐いて―― 「ねぇ、香澄ちゃん。お父さんのこと、好き?」 「大好き! だって、ヨウチエンの先生より、怒ンないモン! アキラは?」 ピアノを弾いてる刈谷も、他人の為に体を捧げてしまう刈谷も、アキラには眩しすぎる―― 「ン……」 たとえ刈谷が、自分が、共にプールに溶けてゆくはかない雪片だとしても。 「……大好きだよ……」 <終> |
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