砂漠の魚
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 送られてきた絵葉書には、赤茶色の砂が一面に広がる様が写されていた。
『相変わらず、こんな場所をふらついてる物好きなオレ。あんたならイイカゲンにしろっていうんだろうな』
 サインペンで殴り書きされたそんな言葉と彼のイニシャル。
 この、誠次の葉書を受け取ったのは、三年前の事。
 千郷は今、その写真の光景が広がっている地の、すぐそばにいる。観光用に造られたよそよそしい街の、よそよそしいホテルに転がり込んでいた。明日にはあの絵葉書の砂漠へ足を踏み入れられるだろう。
 安さが最優先されたような部屋の、ロクに洗濯もされていないようなシーツの上に転がる。一日中歩いたおかげで、身体中が砂と汗でベタついていた。早くシャワーでもなんでも、せめて濡れタオルでも良いから埃を取り除きたい。だが、それをする気力もない。
 階下のロビーから案内人がなまりまじりで原形を留めていない英語で怒鳴っている。必死で動かない頭を回転させ、それが「朝食は出るが、今夜の夕飯はだいぶ後になってしまう。どうしようか?」と聞いてる事に気づいた。「夕食はいらない、外で食べてくる」と怒鳴り返すと、「いつ頃出かけるか? 自分は必要か?」とシツコイ。親切とサービスからなのだろうが今は鬱陶しいだけだ。
 ……もしかしたら、同情されているのかもしれないが。
 感謝したくても、今の千郷は、慣れない運動と熱にやられて、だるくて動きたくないのが本音だ。
 こんな所に、誠次は何を求めてやってきたのだろうと不思議に思う。
 千郷は何度も、職場の旅行代理店経由で誠次に飛行機やガイドの手配をしてきた。だが実際に現地に来る事など滅多にない。こんな辺境の砂漠地帯なら尚更だ。
 天井を眺めていると、強烈な眠気に襲われた。このまま眠ってもいいかなと思いはじめる。
 あの日も、こんな風にやたらと眠かった。息苦しくて、喉を掻き毟るほどだったのに。眠くて眠くて、眠ってしまったらそのまま永遠に目を覚ませなくなりそうな、そんな強烈な眠気。
 砂漠の絵葉書が届く数日前の、あの電話の時の話。




 誠次と会ったのは大学時代。大学の学園祭の準備で、初めて紹介された。
 運営委員だった千郷が、ポスターやパンフレットを製作する為に学生から公募したライターの一人だった。二つ年下で、特に目立った文を書いてきたわけではなかったが、丁寧な仕事をするヤツという点が垣間見えて採用が決まった。自分が採用したも同然だったから、最初の頃はいろいろと面倒を見たものだ。
 残っている印象は、『神出鬼没な面白い男』だった。バイトに明け暮れ、ちょっとでも金ができると授業そっちのけで各国へ出かけてしまう。現地につくたび、友人に「今、何処に居ると思う?」と電話をかけてくるのが楽しみのような男だった。
 そのせいだろう。千郷が旅行代理店に就職してからは、ちょくちょく連絡をとってきた。
 誠次の良くも悪くもある点は、感情をあまり隠さないところだった。加えて、彼は何事に対しても自分のやり方を心得てる人間で、それを簡単には撤回しない。自分勝手なそのやり方に反発を覚えるものもいるだろうが、誠次の場合は、何処か子供っぽい容貌もあって寛容に受け止められてきた。千郷は何度も、そんな誠次をうらやましく思ったものだ。まぁ、それは学生の頃の話。
 自分達はあまり親しい仲だったとはいえないから、彼を評する事は間違っているだろうし。
 それは……こういってみたいから言うのだが――今でも変らない。だが周囲の目は違かったようだ。それも仕方がないのかもしれないが。
 誠次と千郷は、四年ほどの間、同じ部屋で暮らしていた。
 実質的な期間は、一年にも満たなかっただろう。同じ部屋で暮らしていたといっても、誠次はふと気がつくと居なくなっていて、数日後に「何処に居ると思う?」と電話してくるのだから。
 そもそも、二人が同じ部屋で暮らし始めたのは、家賃を旅行資金につぎこんだ誠次が、たまたま近くに住んでいた千郷の家に転がり込んだ――というのが、その時誠次が説明していた話だった――というのに。それでも誠次の放浪癖は治らなかった。
 あの頃、誠次への連絡はほとんど千郷が管理する形になっていた。電話に誠次が出て初めて、二人が同じ部屋にいるという事を知った人間も少なくない。今思えばマネージャーのような仕事をしていた事になる。誤解されるのも当然だろう。
 その生活の後、誠次は何度か投稿していた旅行雑誌のライターとして職を手に入れ、部屋を出ていった。
 彼に対して何もやることがなくなった生活が、酷くつまらなく感じたのは……誠次が出ていってから一年も過ぎてからだった。それも、季節が変るになるたびに送られてきた、何処かの旅行会社のパンフレットが来なくなった事に気づいた時にやっと、だ。
 それ程までに、誠次は千郷のそばに居た人間ではなく、そして親しい人間などでは決してなかった。




 夕食をとりに街へ出ると、やけに視線を感じた。
 外国人が、アジア人が珍しいのかもしれない。そう思っていた。だが「セージ」と呼びかけられた声に、思わず振り返っていた。意識より先に、目や身体がその声の主を探していた。
 数人の若い現地の男が、千郷にはよく解らない表情で手招きしていた。その指が、胸ポケットから写真を取り出す。折れ曲がったりして、なかなかに悲惨な状況になったポラロイドだ。肩を組み合っておどけている男達。その一人を指差す。「セージ」もう一度、彼らは言った。
 千郷は写真の誠次を見る。目がそらせなかった。
「誠次」
 名前というのは、声にだして見ると、なんて安っぽい響きに感じるのだろう?
 やっぱりここに来たのか――そう思った途端、目頭が熱くなった。今日一日分貯めこまれた体内の熱が、一気に瞼に集中していくような錯覚さえ覚えた。そして、それが外に流れ出す。
 突然泣きはじめた千郷に、通訳も、写真をみせた青年達も呆然としているのがわかった。でも涙を止める事ができない。恥も外聞も、千郷には考えられずにいた。初めて、感情が見栄を上回る感覚を知った。




 「せい」に対して、淡白だといわれた事がある。
 「せい」は性、生、誠。
 自分にはよく解らない。確かに、これといった感覚も衝動もなく、成り行きみたいに女と付き合い、抱き、後先を考えない生き方をしてきたような気がする。解っているのは、意外にそういう、とても鈍感な部分を人が好いてくれているという事だ。客に愛想を振りまき、金を落とさせるツアーに引っ掛けるにはそれぐらい図々しい方が向いてるのかもしれない。
 とにかく、自分は空っぽな感覚で生きてきたのは確かだ。トキメキも衝撃もなく、思春期のイライラやナゲヤリな感覚は、喜ばしい事に経験していない。ただ「こんな感じ」というものや皆の流れに従っているだけだった。それが思春期らしい行動に見えた者もいるだろう。だが自分は、奇妙に冷めた目でそれを演じていた。恋人をつくるのも勉強をしているフリをしながらサボる事も、全てその延長線上にあったものだ。それが千郷にとっては一番簡単で安全なやり方だったし、楽な方法だった。
 それが普通であるとさえ、思っていた。どんなに体を抱いても、その空っぽのナニカが揺らぐ事はなかった。もしかしたら、この先も、そんな感覚を知らずにいられるのかもしれない。そう思っていた。
 それでも、たった一度だけ。
『誠次は――』
 サイゴマデ――
 今なら、あの言葉がこんな辺境に足を運ばせるキッカケの様にも感じる。
 でも、あんな思いはもう御免だ。自分が自分じゃない感覚。心に縛り付けられる身体。
 息が出来ない。砂に打ち上げられた魚のように、無様に喘ぐだけの身に成り果てるのは馬鹿げてる。
 他人は、どうしてあんな事に耐えられるのだろう? 他人の為に全てを奪われるなんてバカバカしい……。



 砂漠の一般的な進み方は、夜に移動する事なのだそうだ。昼は暑すぎて、下手すればエンジントラブルまで引き起こすらしい。全く、とんでもない土地だ。
 千郷達は、夕闇が迫るのを待って、ジープで街を出た。一時間ほどで目的地に着くという。
 千郷は絵葉書を取り出した。その絵と同じような光景が広がっているのが、嘘や冗談に見えた。
 誠次から絵葉書が届くようになったのは、そう最近の事ではなかった。学生の頃からそういうものを旅先から送ってくるような男だった。ただ、そう度々ではなくて、「気が向いたから」という程度なのはそっけない文面からも見て取れた――そう思っていたのは千郷だけだとしてもだ。
 だから、少しずつ増えてくる葉書の量と短くなるインターバルに気づかなかった。
 葉書を整理してみるとわかる。少しずつ、文面は堅苦しいものから砕けた口調へ。ふざけたポップ調の絵から風景画へ。出す日付の間隔は短くなって行く。
『相変わらず、こんな場所をふらついてる物好きなオレ。あんたならイイカゲンにしろっていうんだろうな』
 最後の葉書に書かれた誠次の言葉は、誠次の声に重ねようとしても、どうしても違和感が残ってしまう。どうしても。彼はこんな口調で、千郷に呼びかけた事はなかったから。
 どうして誠次は、世界中を、辺境を好んで歩き回ったのだろう? 人が生きていくには過酷なこの土地に、どうして誠次はやってきたのだろうか? 何を求めて訪れたのだろうか?

 どうして自分はそれを追っているのだろうか? どうしてここまで来たのだろう? 来てしまったのだろう?

 一時間、それを考える事に専念した。有給をとって、こんな辺境まで来て、それでも自分は――そこまでして何をしたいのか全く解っていなかった。
 青白いような錯覚を覚える夕闇に、ゆっくりと近づいてくる黒い塊が見えた。ドキドキするような神経など千郷にはない。ただ、妙に重苦しいモノが胸の中にある。未だに躊躇うナニカがある。
 肉眼でもはっきりと捉えられるほど近づくと、ため息が出た。斜めにそびえる塔のような影。
 墜落した小型機は、小高い丘のような大地に、斜めに突き刺さっていた。
 少し離れたところで、通訳と現地の青年の運転するジープは止まった。
 通訳は言うに及ばず、昨夜誠次の写真が縁で知り合った青年も、千郷がなんの為にここに来たのか知っている。黙って千郷の反応を見ていた。
 千郷は、その視線に押されるようにジープから降りる。まだ、何をすればいいのか解っていなかった。
 小型機に歩みより、残骸に手を触れる。こびりついた細かい砂が、千郷の手に昼の熱を伝えてくる。自分でも意外なほど自然に、言葉が口をついた。
「誠次」 やっぱり安っぽい響き。こんなものが彼を示す記号だなんて信じられない。
 風が鳴っている。砂漠の気温差が生む風だ。




『誠次は最後まで、あんたを選んだんだ』
 耳に声が蘇る。誠次の形だけの葬儀の中に叩きつけられた、誰とも知らない男からの罵声を。
 敵意むき出しの目が、自分の虚ろな瞳を写していたのを思い出す。
『いつもあんたの事を聞かされてたよ、写真も見せられた。すぐわかった。あの人がいってた通りの、普通の人だって、そういうケも感情も、全くないヤツだってさ』
『誠次が、どうしてあんたの家の近くに住んでたんだと思う? どうしてあんたの家に転がり込んだと思う? ……笑っちゃうぜ。あいつ、少しでもあんたの側に居たかったんだってさ! 今時、小学生でもしねぇような純愛だよな!』
 千郷には、全てが悪夢のように聞こえた。気が遠くなるような、それでいて目を覚ます事もかなわないような強烈な行使力をもった青年の声。今までの全てが、夢だったように感じられる言葉、その内容。
『でも、アイツはそういうヤツだったんだよ。あんた、知ってたか? 俺は知ってた。誠次の事は全部……どんなセックスするのかまで知ってた。けれど、あいつ馬鹿だから。絶対、あんたと一緒になんかなれないって解ってるのに、あんたを捨てられなかった』
『あの人が旅に出るのは、全部あんたのせいだったんだ。逃げてたんだよ、犬みたいに逃げるしかできなかったんだよ、あんたの側にいると自分が何するか解らないってさ! ……そんな事、今はじめて聞いたって顔してるけど、そういう鈍感なトコが、誠次をどんなに苦しめたかわかってんのか?』
 誠次は感情を隠すのが苦手だった。その誠次が、完全に千郷を騙し切る程、感情を隠しきった。それほどの価値が、自分にはあったのだろうか? 誠次は自分の何処が気に入っていたのだろうか?
 自分にとって誠次は、ただの……思い出に過ぎなかったのに。
『どうしてあんたなんだよ! オレだったら、あの人を一人になんかしなかったのに!』
 どうして誠次が、どうして自分を?
 わからない。誠次にそんな性癖があったなんて、そんなそぶりは一度も見せなかったし、大体、そんなに顔を突き合せていた仲ではない。
 でも、あの衝撃はなんだったんだ?
 全身から引いて行く血の気と、噴出してくる汗。息がつけなくなっていた。
 今、この砂漠に突き刺さった鉄屑のオブジェの前―千郷は同じ反応を起こす自分の身体を、奇妙な安堵と共に感じていた。息を整えようと、深呼吸をしようと必死でもがいていた。
「誠次……何処に居るんだ?」
 墜落した半壊の飛行機に、生存者は残っていなかった。パイロットと観光客の即死の死体が二体。乗客リストに照らし合わせても足りない。墜落前に脱出なりなんなりしたのか、助けを求めて砂漠をさまよったのか……とにかく、この機体に乗っていたはずの誠次は行方不明になってしまった。消え失せてしまった。
「……まだ、俺に話す事があるんじゃないのか……?」
 まだ生きているなら、どうして葉書を送ってこないのだろう?
 どうして自分は素直に、この砂漠で彼が死んだ事を認められないのだろう?
『相変わらず、こんな場所をふらついてる物好きなオレ。あんたならイイカゲンにしろっていうんだろうな』
 葉書の文句はとっくに覚えていた。筆跡ごと、脳裏に思い浮かべる事ができる。
『今、何処に居ると思う?』受話器越し、ノイズ混じりでそんな電話をかけてきたのに。
「誠次……何処だよ」
 あの頃は、そう聞けばすぐに答えが返ってきたのに。
 三年間。待っていた。
 電話で知らされた。彼の生存が絶望的だと知らされて、その日は一日中、やたらと眠かった。あれは逃避行動の一種だったのだろう。それでも表面上はなんの変哲もなく日を過ごしてた数日後――ポストに投げ込まれた葉書は、彼があの街で書いた物で……最後の葉書になった。
 それでもいつかは、自分の元に新しい葉書が来るのではないのかと待っていたのだ。もし、あの青年のいう通りに自分が想われていたのなら……自分にだけは何か生きているというサインをくれるんじゃないかと、小さな自惚れを抱いて見たりしたのだ。でも来ない。
 もう一度でいい。話がしたかった。
 彼が、本当は千郷をどう見ていたのかは解らない。だが今なら、昔よりは沢山話せるような気がした。
 保管してある葉書の山を思い出す。二人の間には、こんなに沢山の葉書があるのだ。少しずつ距離を縮めていった時間があるのだ。だから今なら、もっと違った会話ができるだろう。
 千郷のサラリーマンとしての平穏な生活の日々は続いてる。だけど、微かに揺れ動いている自分を知っている。誠次の言葉が揺らしたまま止まっていない振り子がある。それを話してやりたい。
 空っぽで何もないからこそ、与えてくれるものには敏感になる。心が揺れ動く事もある。たとえそれが、相容れないものだとしてもだ。人の関係は、そういうものじゃないのか? ナニカを伝えられて、そこから始まる関係だってあるだろう。自分達はまさしく、それだったのだ。誠次がどんな風に千郷を見ていたのか意識して初めて、生まれて初めて感じる感情があったのだから。『せい』を実感したのだから。
 今ならまだできる。たとえ決裂するとしても、誠次の抱く想いを聞くことはできる。だから
「出てきてくれ、誠次っ!」こんな中途半端なままじゃ、今以上に息が出来なくなる。
 手を伸ばせば届く距離にあったあの頃、どうして自分は彼に気づかなかったのだろう?
 どうして、息が出来なくなってやっと、自分が赤砂に打ち上げられ、もがいていた魚だと気づくのだろう?
 空っぽの自分の心を揺さぶったのは、ただ一度。彼があの青年に託しておいた、木霊のような彼の想いだけだ。最後まで千郷を選んだという、彼の悲痛な叫びだけ。あの声だけが、今の苦しみを取り除けるはず。
 暗くなってくる。冷気が肌を撫でて行く。この風の中、誠次は消えていったのか? 何を想いながら?
「俺を選んだなら、置いて行くなよ……――っ!」
 彼は砂地に残され、先に息が出来なくなった魚なのかもしれない。千郷が助ける事もできた、でも気づけずに助けられなかった魚。その報いを、今砂漠に残された自分は受けているのかもしれない。誠次は千郷に気づいていないだけかもしれない。砂の海の何処かで、千郷のこんな姿を見て笑っているのかもしれない。
『相変わらず、こんな場所をふらついてる物好きなオレ。あんたならイイカゲンにしろっていうんだろうな』
 あの言葉が聞きたい。誠次の声で聞きたい。話をしたい。
 その後の事はわからない。だけど、それだけが今の千郷の望みなのに。
「誠次……――っ!」
 どんなに目をこらしても――赤砂の丘が誠次を隠したままなのは、どうしてなのだろう?




 どれだけ、そこにそうしていたのか解らない。千郷は、手にしていたままだった最後の葉書に目を落とす。
 ポケットからジッポを取り出して、絵葉書に火をつけた。なせか、そうするのが当然に思えた。
 何度か誠次にねだられたジッポだったと思い出して、砂地に叩きつける。こんなの、いくらでもくれてやる。どこにでもある安物なのだから。葉書もジッポも、もういらない。
 その間にも、風にあおられて広がってゆく焦げ跡。それが全体を侵食する前に手を放す。砂丘に向かって風と共に駆け出す紙片が、酷くうらやましかった。見送っていると、脳裏にあの言葉が浮かび上がる。
『相変わらず、こんな場所をふらついてる物好きなオレ。あんたならイイカゲンにしろっていうんだろうな』
 やっとその言葉に応えられる。そうだ。自分はきっと、その為にここへ来たんだろう。
「ホントだよ……イイカゲンにしろ」
 この言葉を言う為に、誠次に言い聞かせる為に来たのだろう。
「もう、こんな場所をふらつくのはやめろ」
 誠次は死んだ。そして、もう二度と絵葉書は届かないし、話す事もできない。それを未だに期待している自分に向かって言い聞かせる為に来たのだろう。

 そう思った瞬間、何もかもが終わった。心の何処かが、スッと消えていった。痙攣を起こしていた感情が、綺麗さっぱり平らにされる。再び、透き通るような空白が千郷の中を埋めていった。葉書への執着が消えていた。息が――できる。誠次の言葉はもう聞こえない。もう、二度と聞こえないのだろう。それでいい。
 千郷は訪れた脳裏の沈黙に安堵する。肺一杯に埃っぽい空気を吸い込むと、それは大きなため息に変った。
 他人はどうしてこんな事に耐えられるんだ? 他人の為に心の全てを奪われるなんてバカバカしいのに。
 もうあんな思いはしたくない。あんな淋しさなど御免だ。あんな感情に支配される生活なんてウンザリだ。

 誠次の墓標のような、斜めの鉄屑に――三年分の感情を込めてケリを一つ。
 そして千郷は、自分を待つジープに向かって踵を返した。



<終>






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