おかしな二人 (拍手御礼テキスト)
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ジャスパという土地は、羊毛の産地だという。穏やかな気候と、地平線まで続く草原。時折やってくる風は遮蔽物がない分強いが、のんびりした日差しのせいか、とりたてて辛いとは感じられない。広い空間を提供する大地には、人々が生活の知恵で植えたのか、一定の距離をおいて生えた立木と、その下に設置されたベンチ。そこに腰掛けて深呼吸をすれば、乾いた空気が肺を満たし、頭の中のモヤモヤした悩みを吹き飛ばしてくれる。そんな、開放感に満ちた場所だ。
ジャスパの統治者であるセイズ・L・カームジャスパ卿は、その大地の中に大きな館を構えていた。見渡せば隣家の屋根が小さく見えるが、実質的な意味では一軒家と変わりない。外見こそ若いが、セイズの体は大病を患って以来普通の生活もままならない体だ。ジャスパの政治は腹心に任せ、田舎であるジャスパの更に田舎であるこの草原へ、必要最小限の付き人だけを従えやって来た。療養に費やす日々を三年ほど続けている。
その時、セイズは日課としている午前の散歩に出ていた。三年前までは車輪のついた椅子と付き人がいなければ、数歩先の枝にさえも触れる事が出来なかったが、今は杖をついて歩けるまでに回復している。これも皆、献身的に尽くしてくれる付き人たちのお陰だ。誰もいない庭先でセイズは感謝に目を伏せる。
一軒家は広い庭を高い壁で風を遮り、その内側では様々な植物が、ジャスパの環境に耐えるたくましい花々たちが、思い思いに蕾をほころばせては花弁を開いている。ジャスパの吹き荒れる風の為に灌木の背丈は小さいが、体の不自由なセイズには、自分と同じ背丈で生命を謳歌しているそれらの方が、高くそびえる木々の群れよりも親近感をもって接することができた。花びらに指を滑らせ、咲くという一大事業をやりとげた植物をねぎらってやる。
「セイズ様!」
不意に頭上から降ってきた声に、セイズは顔をあげた。見上げた青空には黒い人影。鮮やかな青緑のコートの表面と左目を覆う緑の片眼鏡が陽光を反射し、セイズは誰がやって来たのかを悟った。
魔術に過剰反応するセイズの病気に配慮し、この館の周囲には魔術的な防御を施していない。自分の館だから良かったようなものの、他所ならどうなっていたのだろうか。セイズは他人事ながら心配しつつ、やって来た魔術師が目の前に着地するのを見守った。
当の魔術師は、声をかけてから魔術を受け付けないセイズの身に思い当たったのだろう。上空で飛行術を解いたのだ。高所からの着地で足裏をしこたま打ち付けたのか、何度もぴょんぴょんと飛び跳ねて痛みをごまかしている。芝生の上だから石畳よりはマシだったろうが、あまりにも浅慮な行動だ。呆れるより笑ってしまうセイズ。脳裏を彼の仮師匠の姿が横切り、目の前の魔術師が根本的に仮師匠と同じ性格であることを再確認し、更に笑ってしまう。
不振な人影に気づいた警備兵が険しい形相で駆けつけてくるのを目にし、主は急いで制止。人払いに手のひらを振ってみせると、警備兵らも素直に引き下がった。もしかしたら、魔術都市で行われる教会主催のパレードで、来客の姿を見たことがあるのかもしれない。
「そんなに急いで、一体どうした? あの男がまた何かやり出したのか?」
片眼鏡の奥の瞳を涙で潤ませながら、賢者級〈十二師〉の一人トレイル・トリルアーガスは肩で息をしていた。どこから魔術で飛んできたのかわからないが、相変わらず無茶な事をする若者だ。いや、実際は二百年ほど生きているのだから若者とは呼べないのだが、その少年のようにも見える外見と行動パターンが、いつまでも彼を若造に仕立て上げる。
「あの男って、誰のことですか?」
「お前が必死になって私のところに駆け込む用事なんて、あの男が暴れた事ぐらいしか――」
セイズはそこまで言ってから、別の可能性に気づいて口をつぐんだ。
まさかと思う。反面、やっとかとも思う。
普段は身に着けない魔術工芸品の片眼鏡を持ち出してきたのは、魔術の発動を容易にさせる為だけではなく、正装のつもりなのかと思い至る。
そんなセイズの頭の中も知らず、キョロキョロと周りを見渡し、息を整える間もなく、落ち着かなく体を動かすトレイル。
セイズは庭の一角にしつらえた温室と、その中のカフェテーブルの一式を思い出して手招きする。
「あいにくだが、館の掃除当番と護衛以外の人間はみんな買い出しに行ってしまってる。飛んでくる時に見えなかったか? そろそろ帰ってくるころだろうから、紅茶の一杯にでも付き合ってもらおうか」
「それどころじゃないんですよ! 僕、今じゃなきゃ、今じゃなきゃ無理なんです!」
まだ涙目だ。足の痛みだけじゃないのかもしれない。
「わ・た・し・が、紅茶を飲みたいんだ。準備してくれるな?」
「だから、そんな事してる場合じゃ――」
「手足の不自由な私を放って、何かしようというんじゃないだろうな? そんなこと、『あの子』が許すかな?」
効果は覿面だった。トレイルの顔は一瞬にして真っ赤になり、瞳は驚きにまん丸になった。予想が当たったことにセイズは満足し、温室に向かって歩き出す。若い外見だが、杖をつくセイズは普通の人間より歩くのが遅い。先に歩みのスタートを切っておく。
ここまで来たら腰を落ち着けてトレイルの話を聞きたい。そして、トレイルには話す義務がある。
「紅茶と『あの子』は、か、関係ないでしょう?」
「じゃあ、何をしに来たんだ? 私をここに放り出させるのなら、紅茶の一杯ぐらいの誠意は見せてもらいたいんだが」
傍らでトレイルが俯く。心の揺らぎが口をつく。
「やっぱり、そうなりますよね……」
「お前の決心を責めているわけじゃない」
セイズは安心させようと頷いて見せた。
「かつてはお前を放り出した私だ。お前を責める権利などないし、元より責めるつもりはない」
「違います」
セイズはそのきっぱりとした物言いに驚いて歩みを止めた。
「貴方の事は関係ない。これは僕の、私自身の問題なんです。貴方を許そうとか、許してもらおうとか、そんな事は考えてません。貴方は――」
トレイルは、セイズの目を覗き込んで言った。
「貴方は私と彼女にとって、大事な人です。貴方が居なければ私たちは出会えなかった。だからそれ以上、それ以下じゃありません。じゃなきゃ、悲しすぎます」
「しかしトレイル――」
トレイルはセイズの言葉を最後まで聞かず、彼の前に背を向けてしゃがみ込んだ。セイズを背負うつもりだ。セイズがためらっている間にも、トレイルは語る。
「感謝してるんです。どうか感謝させてください。貴方が今の僕を作ってくれたんだ。貴方にとって僕は良い子じゃなかったけれど、貴方の邪魔ばかりしてきたかもしれなけれど……そして『あの子』を連れて行ってしまうから、貴方に迷惑をかけてしまうけど、それでも――」
セイズは断るつもりでトレイルの肩に手を置いた。魔術師は地面に目を落としたまま、セイズの手に自分の手を重ねてきた。
「僕は『あの子』と一緒にいたい。そして貴方を心の底から憎めない。きっと貴方と僕は、どこかで似てるからだと思います。だからもう、互いに負い目に感じるのはヤメにしましょう。『あの子』の為にも」
セイズは笑った。笑うしかなかった。
「まいったな」
いつだってトレイルは、セイズの予想外の行動を取ってきた。いつだって、どんな時だって、トレイルはセイズの予想していた以上の成長と精神力で、セイズの画策した計画を台無しにしてしまう。
今日だってそうだ。自分は『あの子』を連れ出しに来た彼を咎めるつもりはなかったが、それ以上に、トレイルは咎めるどころか感謝すらしてきてしまう。
予想できないという事は、自分の想像力と器の小ささを見せつけられる。
そして、いつまでも成長できない事ぐらい惨めな事はない。
だからセイズは笑う。自分の矮小さと自らの敗北を認めて。
だからセイズは――申し出どおり、トレイルの背に自分の身を預けた。
「トレイル」
「はい」
触れ合った背から胸に直接響く声。こもって聞こえるが、体温を感じられるせいか、とても柔らかく澄んでいる。
「『あの子』は、簡単にウンという子じゃないぞ」
「わかってます」
ゆっくりと、丁寧に歩み出すトレイルからは、晴れ晴れとした誠実さだけが感じられた。
「私に泣きついてでも、ここに残ると言い出すかもしれない。私も後で心変わりするかもしれない。あれはあれで、私には便利なんだ」
「覚悟は出来ています。でも構いません。まずは会って話をしたいんです」
「本当に話せるのか? お前が? 舞い上がって何も出来なくなるんだけじゃないのか?」
トレイルは小さく笑って立ち止まると、胸元から小さな小瓶を取り出した。
「笑ってもいいですよ。彼女と話す前には、景気づけに一杯いただきます」
「飲めるのか、お前?」
「飲めないから効果があるんじゃないですか。それにコレ、ある人から餞別にもらった品なんです。ここで飲まなきゃどこで飲むんですか」
小瓶をしまい込んで、再び歩き出す。
「本当に、覚悟は出来てるんです。僕と彼女じゃ生きてる時間が違いすぎるけど、それでも……僕らはうまくやれると思ってます。彼女を一人で悲しませるような事はしません」
温室の扉を開け、トレイルは大きく息をついた。
「貴方だって、何度も覚悟を決めてきた。三年前は知らなかったけど、今ならわかる。貴方はいつだってその覚悟を決めて、誰かを愛して、そして一緒に時を過ごしてきた。いつか一人残される事を知っていて、それでも誰かと一緒にいたいと願ってきた。僕は今まで一人だったからわからなかっただけなんです。でも、大好きな人ができた今はわかります。僕は貴方を尊敬します。たくさんの小さな子供を育てて、見守って、看取ってきた貴方の覚悟を、ですけど」
ゆっくりとセイズを温室の椅子に座らせ、トレイルは側の棚にしまわれていた茶器を広げはじめた。手慣れた様子を見るに、彼は自分で茶を淹れる機会が多いのだろう。
意外な事にセイズは、彼の背にもう少し長く触れていたかったと感じた。大きくも広くもなく、セイズを支えるだけで精一杯の幅しかなかったが、そこにあったのは確かに信頼できる大人のものだった。
あんなに小さかった子が、こんなに大きくなったんだ――人生で何度目になるかわからない言葉を心中で呟き、セイズは息をつく。安堵と、感傷を振り切る息を。
「トレイル」
「はい」
言いたいことを言った後のせいか、気の抜けたような返答。思わず苦笑するセイズ。
「ありがとう」
苦笑が本当の微笑みに変わるのを自覚しながら、セイズは頭を下げた。
「彼女を連れ出す決心をしてくれて、ありがとう。お前が来てくれなければ、私はいつまでもあの子を自分に縛り付けてしまうところだった。あの子の好意に甘えていた自分が恥ずかしい」
「やめてください、セイズ様。僕は感謝されるような事なんて――」
「負い目を感じるのは無しにしようと、お前が言ったばかりだぞ」
「いや、それとこれとは話が別――」
「違わないさ。感謝させてくれ。私の目を覚まさせてくれた事に」
次の瞬間、流れるように茶器を並べていたトレイルの手が止まった。
温室の入り口に立つ、メイド服の人影。思いがけない来訪者の姿を目にし、驚きに口をパクパクさせる彼女。
三年ぶりに顔を合わせた二人だ。きっと、互いにはその姿が眩しくうつっているに違いない。トレイルはともかく、ごくごく普通である彼女の事だ。この再会が現実であることを疑っているのかもしれない。もしかしたら、セイズの意地の悪いいたずらだと思っているのかもしれないが。
彼女の表情を前に、トレイルは震える手で胸元の小瓶を取りだした。彼女から片時も目を離さぬまま一気に中身をあおると、テーブルに向かって乱暴に手をつく。
一拍の間。そして、悲鳴のようにうわずった叫び。
「結婚しよう、マーサ!」
『一緒に暮らそう』でも『一緒に来てくれ』でもなく、相思相愛とはいえ手紙をやりとりしてただけの相手に向かっていきなりその言葉とは……単純明快、大胆不敵、無謀無策は仮師匠とそっくりだ。
そしてやっぱり、予想外の行動。大人だと認めたばかりだというのに、まだまだ子供の一面があるのを確認させられる。
どこまでも大真面目なトレイルと、重なる驚きに口を動かすことすら忘れたマーセティア。
第三者からすれば間抜けとも言える二人の姿を目にしたセイズは、自分の笑いを押し殺す事に精一杯で、彼女の返事を聞き漏らした。
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