カーニバル・ナイト Carnival Knight 〜R-T-X/11 Years After〜
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*お断り* この読み物は、連載小説「R-T-X」ならびにその外伝「カロリー・ハーフ」を踏まえて作成されています。
作品をより深く楽しむ為に、どちらかを先に読んでおくことをおすすめします。
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 レプリカ・クロノ2155年
 12月27日 午後9時58分

 佐々木和政は胃のむかつきを必死でこらえるあまり、奥歯を噛みしめた凶相でその扉の前に立っていた。
 三十分ほど前に一報のあった、雇い主からの緊急呼び出しに応じての事だ。人気の無くなった雑居ビルの一角で、フランチャイズの喫茶店の裏口である小汚い扉の中は、今や失われた技術を有する雇い主達の指定した待ち合わせ場所である。まだ営業時間内である為、少数ではあるが客の出入りもあれば従業員も――扉を開けて出入りする度、苦みを噛み潰した和政の顔を目の前にして驚き、次いで不信に顔を歪めながら店内に戻る事を繰り返している。店員が自分の前を素通りし、そして姿を消す度、和政は舌打ちを一つ。

 午後10時00分 

 和政は腕時計の秒針がカチリと時を刻むのを確認すると、おもむろに裏口のドアノブに手をかける。ノブを捻り、半身を入れるまでもなく、顔面に吹き付けてくる冷たく澱んでいた空気と漆黒の面前。
 闇の中へ歩みをすすめると、背後でわずかな光を提供していたドアが音もなく閉まり、和政は完全な夜の中へと放り出された。
 〈西方協会〉直属の代理人で構成された小部隊の、そのリーダーである和政にはお馴染みとなった状況だ。
 〈西方協会〉のメンバー自らが現れる空間。
 正確には、〈西方協会〉のメンバーが集う空間と、指定されたドアからつながる空間が直結されているのだ。魔術による空間の操作らしい。しかし、扱う者も限られてしまった魔術の技術はおろか、似たようなことをやってのける能力もない和政にとっては、この移動方法と――こうやって呼び出される度に押しつけられてきた難題を思いだす事もあって、苛立ちと不快感はつのるばかりなのだ。理解できない現象に身をゆだねるということ自体に、自らの肉体で窮地を切り抜けてきた和政の感覚が慣れていないと考えることもできる。
 闇の中、やがて前方に浮かび上がってくるぼんやりとした光。スポットライトに照らされたようでもあるその光の溜まりの中には、特徴的な黒いスーツを纏った男が三人、思い思いの姿勢で白い椅子にもたれ、同じく白い円卓を囲んでいた。
 円卓の上に置かれた透明な円筒の中には、めまぐるしく姿を変える三つの原色の塊が、苦痛とも怒りともあきらめともつかぬ踊りで身をよじり、和政に時間の流れを意識させる。
「ご苦労様」
 そっけない口調で、三人の中の一人――美しい少年の面影を強く残した男が、踊る三色のゲルから目を離さずに声をかけてきた。細い両の指先を組ませたその姿は、人間離れした調和でその場に佇んで動かない。
 彼の名前はヤクモ。和政にとってはやり辛い相手だ。表情が少ないだけでなく、接触する機会も少ない分何を考えているのかわからないからである。〈西方協会〉内部において一体どんな役割であるのかすらわからない。わからないことには触れないでおく、それが賢いやり方だ――そうやって和政は、いつもどおりに自分を納得させた。
「急な呼び出しですまないね。この二人が、どうしても君に頼みたいって聞かないもんだから」
 和政は不快を更に強める胃のむかつきを、ため息をつくことで紛らわせようとした。
 ヤクモの側で、だらしなく背もたれに身を預けたロイド眼鏡の男と、服飾関係の写真集を抱えてページをくる東方風の美男子に凶悪な視線を投げかける。
「アキオだけならわかるけどな……今回はあんたもグルかい、ミツヤさんよ」
 実質的に〈西方協会〉の人間を動かしているロイド眼鏡のアキオは、代理人である和政の直接の上司になる。レンズの奥で目を細めたアキオは、外見だけなら和政と歳の変わらぬ青年の姿のまま、意地悪い笑みを口元に浮かべて見せた。
「グルもグル、今回のオレは脇役なぐらいだぜ? ミツヤの方がノリノリなんだから。オレはここまでやる必要はないだろうって、一応は言っておいたぐらいだ。『一応は』、だけど」
 〈西方協会〉の肉体がアキオだとすれば、〈西方協会〉の精神と言っても過言ではない立場にいるのがミツヤだ。だが今のミツヤは、ニヤニヤと頬を緩めながら最新流行のデザインで身を飾る人々の画を眺める、顔立ちの整った長身の青年でしかなかった。
「否定はしないね。実際、アイディアそのものはすごく気に入ってる。私の性格はやっぱり父ゆずりらしい」
 アキオの言葉に対してか、それとも目の前のページでキリリとした眼差しを投げる女性モデルへの言葉なのか、どちらとも取れそうなぼんやりとした言葉の返答。
 和政は耐えられずに胃の辺りを片手で押さえた。
 その動作を見てもいないはずのヤクモが、不意に呟く。
「気分が悪そうだね。本当に大丈夫?」
 言葉とは裏腹に、顔を向けるどころかまったく心配していない口調だ。
「……あんた達三人が楽しそうな事っつーと、大抵オレが四苦八苦するような事だろうからな」
 それでなくとも昨夜から面倒な事態が起ってるっていうのに――という言葉を危うく言いかけ、飲み込む和政だ。まだ報告するに値する事態には至っていないはずだ。一日二日ぐらい、部下が連絡を断つ事など日常茶飯事なのだから。
 問題は、今回の失踪者が一人だけじゃないって事だが。
 ミツヤは意味ありげな笑顔で和政の表情を確認し、手の中の写真集を音を立てて閉じてみせる。
「そんなに君をいじめた覚えはないんだけど。確かに君を信頼して多少困難な仕事を依頼した事もあるだろうけど、それ以外は好きにさせてるでしょ? 依頼にしたって、君の本来の目的からそう遠いものじゃ無かったはずだ。僕らだって、〈クラウドコレクター〉を探すのに最も適した人間が誰かぐらいわかってるつもりだからね。『彼』を捜し出すにあたって無傷で済むとは、君も思わないでしょうに。僕らだって、そういう大事な依頼の時にはこんな風にヘラヘラ笑っちゃいない。違うかな?」
 正論だ。だが正論だから納得できるものでもない。和政は歯を食いしばってミツヤを睨んだ。
「オレの好きにさせてる? よく言うぜ、オレにあんな面倒な奴ら押しつけておいて」
「みんな君と目的を同じくしてる連中じゃないか。その中でも君と相性の良さそうな人物を選んだはずだ。実際、仲良くやってるだろう?」
「オレの精神的苦痛と引き替えに、な」
 ミツヤは不思議だといわんばかりに首をひねり、傍らで煙草をふかしていたアキオに振り返る。ごく自然に、子供が尋ねるような無邪気さで「そうなの?」
 対するアキオは、苦笑しながら片手を否定に振ってみせる。
「ないない。すっげー仲良し。俺たち三人ぐらいに」
 胃だけじゃなく、頭も痛くなりそうだと和政は歯ぎしりした。
 アキオはその和政の反応を面白そうに眺めて一服しながら、ミツヤに面白おかしくジェスチャーを交えて語る。
「考えてみろよ。こいつが一人で『奴』を捜し続けたとして、俺らがどんなに情報や手助けをしてやったとして、それで満足できる男だと思うか? 一人で悶々考えた挙句、勝手にズンズンずーっと突っ走って自滅しちまうタイプだぜ? それも俺たちみんな巻き添えにしてな。マゾなんだかサドなんだか、わかりゃしねぇ。それに比べりゃ、何人か押しつけて頭ん中引っかき回されて余計なこと考えずにいる方がずっと平和ってもんだ。少なくとも自分の事を悩む時間が十分の一に減ってるんだから、人事の采配には感謝してもらいたいぐらいだ」
「『マゾだかサドだか』? それって君が言える台詞かい? 僕に言わせれば、アキオだって相当のマゾだぜ?」
 それまで黙っていたヤクモがすっと手を挙げて一言。
「それには同意」
「……なんだよ、二人とも。人聞きの悪いこというなよ」
 和政には散々な評価をくだしておいて、自分の事を棚上げにするアキオだ。
 アキオは仲間の理解を得られない嘆きを大げさなため息に乗せると、胃の上を押さえ続けていた和政に目をやった。
「いいか、和政。今言ったように、お前に部下を預けてるのにはちゃんと理由があるんだよ。一つはお前の精神衛生の為。それだけは理解しておけ。俺たちはお前の前の飼い主達とは違う。お前の為にも、俺たち自身の為にも、お前を使い捨てにするつもりは全くないんだからな」
 ある意味、前の飼い主達とやらの方が楽をさせてくれたがなと、和政は皮肉に口を歪めた。
「二つめ以降の理由は?」
「そうだな……そいつはお前が知らなくても良い理由だ。俺たちの個人的な理由ってとこだ」
 アキオは煙草をどこからか取り出した灰皿に押しつけて消すと、おどけた調子で腕を振り上げ、ぱちんと甲高い音で指を鳴らしてみせた。彼が魔術を発動させる時によくやる仕草だ。
 そして和政の目の前に、地面からすっと姿を現す銀色のアタッシュケース。表面には大きく、詳細な地図が貼り付けられている。中央付近に付けられた赤い円と、乱暴に書かれた手書きの住所がすぐに目に飛び込んでくる。
「そいつを今夜0時に、地図の場所に届けてくれ。相手も同じケースを持ってくる。こちらのケースと交換したら、その場で中身がある事を確認しろ。一つしか入ってないはずだがな」
「そいつの内容は?」
「心配しなくてもその場で見ればわかる。万が一だが、間違いや手違いがあったとしてもお前を責めたりはしないから安心しろ。ちなみに、こちらのケースの中身を調べようとしても無駄だ。あちらの運び屋の〈人格波動〉で鍵がかかってる。波動認識錠とケースの表面には俺たち三人が保護をかけた。お前の〈カブラ〉や『陽の魔弾』でも壊せない」
 アキオの言葉は、和政の持っている技術――〈特務〉仕様の大型拳銃や、普段は使う気にもならない自分の能力じゃ、どうあがいても裏をかくことはできないと宣言されたも同然である。
 あやふやな依頼に対して腑に落ちない部分を抱えたまま、和政はケースを視認する。地図が貼り付けてある以外は、どこにでもあるアタッシュケースだ。世界の裏で暗躍している魔術師たちの、その中でもトップと睨んでも差し支えない実力者である〈西方協会〉の三人が、わざわざ手間をかけて用意したケース。しかもそれを、自分たちの代理人である和政を呼び出してまで直接届けさせようという慎重さ。
 『奴』がらみか――和政は一瞬、緊張で胃の痛みも頭痛も忘れた。ならば敵対組織に動向を掴まれにくい、個人への急な呼び出しも合点が行く。『奴』、つまり和政の親友は、どの組織も手に入れたがっている超のつく重要人物だ。〈西方協会〉が『奴』の動きを掴んだとなれば、その情報が漏れないよう慎重且つ迅速に行動するのは言うまでもない。運び屋役を振られた和政にも、情報を遮断する意味で伝えないのは当然だろう。
 曲がりなりにも自分を納得させた和政に向かって
「ああ、一つ言い忘れた」
 アキオは新しい煙草を口元に運びながら、事も無げに言ってのける。
「向こうの運び屋と、絶対に喧嘩するなよ。お前並に気難しい奴だからな」
 最後の言葉にミツヤが笑いを吹き出す。
 和政が自分が笑いものになっている不快感に顔をしかめると、ミツヤが姿勢を正して、しかし顔を笑いに歪めたまま、通りの良い声を響かせる。
「さて。僕らの依頼はそれだけだ。今夜は今年最後の週末になるね、『冬の大祭』の週末。君にも楽しい年末と新年が来ることを願ってるよ」
「おいおい、ミツヤ。その挨拶は早すぎるんじゃないのか?」
 呆れるアキオの言葉に、ミツヤは涼しい顔で「言い忘れないうちに言っておかないとね」と返した。
「良い夜を、佐々木和政くん」
 和政があっけらかんとしたミツヤの言葉に再び痛み出した胃を押さえ、ケースの取っ手を握った時だ。
 いつも通りの一貫したそっけなさと無表情で、ヤクモが呟いた。
「ミツヤもアキオも言い忘れてたけど、君の部下達や恋人もこの件に絡んでる。君も胃が痛くなるほど心配する事はないよ」
 一瞬にして頭の中身が真っ白になった和政は、もう少しで大事なケースを取り落とすところだった。




 地図で指定された場所は、市街地の中に放置された廃倉庫の中だった。中小企業の作業場であっただろうその場所は、広さだけは確保されているものの、赤錆だらけの壁と敷き詰められた白い砂以外、特に目立った機械も無ければ特徴もない場所で、こういったやりとりにはそれなりに使えそうな場所と考える事もできた。
 もっとも、和政の目線から見れば、いくらでも不意打ちを仕掛ける部分がかいま見え、痛む胃を更に痛ませる事となったが。
 たとえば、壁には一つだけ、小さな白熱灯がついている。防犯用に近くの住人が付けたものだろうか。建物の中は壁からの照り返しでぼんやりと明るいが、逆に細部の闇を暗くして、全く視認の聞かない先端を作り出しているのだ。輝く光の向こう側から狙われたら気づきにくい事は間違いない。
 相手より先に到着した事に気づき、和政はケースを手に立ちつくす。相手が悪意を抱いていた時に備え、暗闇の中では目印になってしまう煙草をうかつに口にする事も出来ない。
 相手を待ちながら、和政はヤクモの言葉を反芻する。
――オレの部下も恋人も、この件に絡んでる?
 部下はともかく、恋人……。
 和政は脳裏に浮かんだ、小柄で竹のようにしなやか且つ張り詰めた肉体と、猫のように物憂げでありながら鋭い眼差しで自分を眺める大きな瞳を思い出す。
 今は二木霞と名乗る、〈軍部〉の代理人である女性だ。二人の間柄を一言で言えば、商売敵である。
 和政は苦笑しそうになる自分の頬を平手で張り飛ばした。恋人? 彼女が? ふざけちゃ行けない。確かに何度か体を重ねた事はあったが、彼女は友人から託された大事な人に過ぎない。和政自身がどんな感情を抱いているかは二の次だ。二人の関係を恋人と称するには、あまりにも障害が多すぎる。
――恋人、ねぇ……。 
 ヤクモがどんなつもりで彼女をそう呼んだのかわからないが、和政自身としてはぬか喜びも甚だしい言葉である。
――恋人、かぁ……。
 ため息をつきながらも、ふとした拍子にニヤけている自分を見つけ、自己嫌悪に落ち込む和政だったりもする。こんなささやかな言葉に一喜一憂する自分が、惨めに感じられてしまうのだ。しかも事実無根の言葉となれば尚更だ。
 それにしても、霞だけではなく部下達さえもが絡んでいるとは、どういう意味だろうか? 心配する必要はないとは? 彼らが二日前から失踪している理由も、〈西方協会〉はとっくに掴んでいるということなのだろうが、ならばなぜ、今まで和政に黙っていた?
 心当たりを捜そうとして記憶をたどっていた和政は、建物の外から聞こえてくる足音に物思いから覚めた。
 足音から判断するに、女。踵の音が軽すぎる。ローヒールかスニーカータイプの靴。ロングコートの裾が擦れる音がわずかに聞こえる。武器を携帯している音はしないが、特殊なホルスターで音を立てぬようにしている可能性は捨てきれない。だが、不自然な歩幅と歩くテンポは、相手が携えてくるはずのアタッシュケースによるものだろう。大きな武器を携帯しているとは考えにくい。
 そう分析しながら待ちかまえている和政の視界の中、たった一つの白熱灯の光による照り返しに、ほんのわずかの間だが、相手の全身が晒された。
「そこで止まれ」
 内心ほっとしながら、和政は相手に声をかけた。言われるままに足を止めた相手側の運び屋は、和政の声に少なからぬ驚きを露わにする。
「兄さん、ですか?」
 漆黒のロングコートに全身をすっぽりと包み、男装した女は目元を覆っていた赤いサングラスを外して和政の姿を確認しようとした。和政もその動作に応じて、アタッシュケースを手に彼女の視界の中へ出て行く。相手の姿を見るに、背格好といい立ち振る舞いといい、初めて会った人間なら見目の良い男だと間違えても仕方があるまいと思う。それに見合った努力もしているのだろうと、和政は頑固な相手の性格を思いだして苦虫を噛み潰した。
 相手の名前は三条尚起――と現在は名乗っている、佐々木柚実。十年前まで、殆ど顔を合わせる事無く育った和政の双子の妹だ。現在は二木の部下として〈軍部〉の代理人をしている。和政としてはさっさと無難な生活に戻ってもらいたいのだが、彼女は頑として――男装も含めて、この生活と仕事を手放すつもりはないらしい。
 『冬の大祭』だっていうのに、なんだかわからない取引に兄妹共々引っ張り出されるとは――呆れてモノも言えない和政が、柚実と十分に距離をとって足を止めた時だ。
「……どういう事ですか?」
 低く、引き絞るような声に内心、ヤバイと叫ぶ和政だ。柚実がこの手の声を出す時は、そうとうトサカに来ている時と決まっている。
「アキオさんにも愛想がついたけど、お兄ちゃんがついていながらこんな事になるって、どういう事よッ!」
「な……ちょ、ちょっと待て!」
 チリリと肌に感じるナニカの気配に、和政は無意識に足を引いて半身になった。それでも首筋に感じるナニカを振り切るために思いっきりのけぞる。
 ほぼ同時に、慌てる和政の制止も聞かず、甲高い音が空気を切り裂いた。銀色の煌めきが和政の体をかすめて背後に飛んでゆく。足下や背後の壁に音を立てて突き刺さったのは、柚実の能力に応じて飛び出した銀色のカードだ。先に体を捻っていたから避けられたようなモノで、攻撃を喰らっていても不思議ではないタイミングだった。
「あっぶねぇーな! オレの話を聞け、この馬鹿ッ! お前はなんですぐにそれをやるんだ!」
「所長とエミちゃんをこちらに返してもらうまで、お兄ちゃんの身柄を拘束しますッ!」
 普段の低く落ち着いた男性口調から、女の子のように甲高い声を張り上げはじめた柚実の変貌に、和政は頭を抱えた。どうやら霞どころか、彼女の事務所の雇い人の一人まで行方不明って事らしい。しかも和政同様、一人残されていたと思われる柚実は怒り心頭で、兄を犯人と思い込んでいるときた。
 続いて飛んできた銀色のカードを、和政はショルダーホルスターから〈特務〉仕様の大型拳銃を抜きはなち、台座で叩き落とす。〈特務〉の早撃ちで鍛えた腕だ。射線上に妹が重ならないカードには容赦なく発砲し、それでも防ぎきれないものはかわすか叩き落とす。トップクラスの射撃の腕を誇る和政の早撃ちは轟音と反動も全く問題にせず、正確にカードを迎撃。〈特務〉の特殊弾丸〈カブラ〉が特徴的な複合波動の白い光を放ちながら、カード共々粉々に砕け散っていった。
 頭の中で弾丸の数を数えていた和政は、弾倉分の射撃を終わらせると身を翻した。身を隠す場所もないこの工場の中では、カートリッジを交換する時間を稼ぐこともできない。そもそも、手にしたままのアタッシュケースが邪魔で、何もできやしない。内容物がわからない以上、投げ捨てる事もできやしない。
 再び、チリリと首筋を撫でる嫌な感覚に、和政は足を止めた。拳銃を握ったまま、和政は首筋の感覚を手でぬぐう。防ぐ手段もなければかわす体勢をとる間もない
 その瞬間、腹の底から一瞬にして沸き上がる凶暴な感覚が、和政の脳裏を電撃のように貫き走る。その感覚のままに口をつく叫び。
「柚――イヤ、尚起ィィィィィィィッ!」
 首筋に向かって数センチと迫っていた数枚のカードが、瞬きの間に次々と砕かれた。まるでカードの間を縫うように、蛍火のように、オレンジの小さな球体が数個、次々と空間を飛び交い、暗闇に線を引く。
 和政の能力である『陽の魔弾』だ。貫通力なら〈特務〉の特殊弾丸にも引けをとらないどころか、〈西方協会〉の魔術でさえ貫くだろうと目される、強大な力を圧縮した塊だ。この能力を防ぐ事ができるのは、本気を出した柚実の『銀の壁』ぐらいではないだろうか。今は攻撃を重視して飛来させていた柚実の銀のカードだが、本来の、身を守る壁としての働きをしたならば、こんなに簡単に破壊することなどできやしないはずだ。
 和政は自分に向かって飛来していたカードを全て叩き割ると、『陽の魔弾』の一つを柚実の爪先の数センチ先に叩き込んだ。そこでやっと、兄の能力による反撃という思いがけない行動によって呆然と……やっと我に返って攻撃の手を止めた妹に怒鳴る。
「ふざけんなよ、こちとら霞の事もエミちゃんの事も知らねぇうえに、ついさっきアキオから荷物を預かったばかりなんだよッ! てめぇにこんな事されるいわれはねぇぞ!?」
 ひとまず攻撃を回避しきったと安心しつつ叫んだ瞬間、再び痛み出した胃を押さえてうずくまる和政。
「痛ツツツツ……どいつもこいつも、オレの言うことなんざこれっぽっちも聞きやがらねぇ……って痛っててててて……」
 アタッシュケースにもたれながら膝をつく和政を見下ろし、佐々木柚実=三条尚起は、それでも疑いをにじませて呟いた。
「……ホントに、兄さんがやったんじゃないんですか? アキオさんの――」
「こんな事、嘘ついてどうすんだよッ! イタタタタ……」
「本当に、兄さんじゃないみたいですね」
 それでもしばらくの間、苦しむ和政を無視して考え込んでいた尚起は、自分と和政を取り囲む形で『銀の壁』を張り巡らせた。銀色の煉瓦で囲まれた筒の中にすっぽりとおさまったような形で展開される彼女の能力に、和政の方が目を見張る。
「何してんだ、お前?」
「罠かもしれないんで」
「なんのだよ?」
「私と兄さんが邪魔になった誰かが、私たち二人が一緒にいるところを狙って仕掛けてくるかも知れないでしょう?」
「……バッカ。本気で二人まとめて殺るつもりなら、さっきドタバタやってる時に仕掛けてるっての」
「このケースの中身が必要なら、私たちが開けない限り攻撃できないはずです。ならばこの詰まった状況を打破する為にも、当初の予定通り中身を確認しなきゃならないらしい。兄さんにも確認をお願いします」
 言いながら尚起は、和政が身を預けていたケースを自分の身に引き寄せた。波動認識錠を起動させ、自分が持ち主だと確認させる。赤いランプが点灯し、重々しい音と共に錠が外れる音が響き渡った。
「待て、開ける前に話を整理させろ。まだ何がなんだかわからねぇ」
 和政は蓋に手をかけた尚起の手に自分の手をかぶせて制止しながら、自分も尚起の持っていたケースに手を当てた。再び解錠の音が鳴り響く。
「オレは二日前、酒上と弘志がそろって連絡なしで居なくなっちまって困ってたんだ。二人とも、〈西方協会〉が保護する予定の家族を迎えにいっただけなんだけどな。コサカっていう名前に聞き覚えは?」
 もしかしたら同じ人物を巡ってのトラブルかとも思ったのだが、尚起は首を振って否定した。
「そうか……何かトラブルに巻き込まれたとしても、酒上が連絡無しで動き回るのはいつもの事だから様子を見てた。失踪直前まで弘志も一緒だったから、そちらの方も大丈夫だと踏んだんだ」
 酒上純と逆井弘志は、共に和政の部下である〈西方協会〉の代理人だ。共にその辺の能力者には引けをとらない力を持っている能力者でもある。
 問題は……どちらも少し頭のネジを落っことして来たような性格であることなのだが。
 酒上は自信過剰で極端な解決方法を取り、弘志は少し問題が複雑になると腕力で解決しようとする。共に頭が痛くなるような、子供のように単純明快な行動を取ってくれるのだ。
 その二人がそろって行方不明である上に、これと言った事件が起っていないというのも不気味であり――本当にトラブルに巻き込まれていたとしたら、解決のために彼らがどんな破壊工作をするか想像がつくだけに、音沙汰のない時間が和政の胃を痛ませてきたのだが……。
「それが二時間前、〈西方協会〉に呼び出されて、このケースを届けるように言われた。二人の事も霞の事も、このケースの件に絡んでるから安心しろってな。お前はどうなんだ?」
 尚起は額に手を当てながら、遠い目で口を開く。
「二日前、〈軍部〉に報告に行った後事務所に戻ったら、出かける前まで居た二人がこのケースを残して居なくなって。コサカという名前にも聞き覚えはありません。〈軍部〉の報告も定例報告で、目立った変化はありませんでしたし。最初は所長に何か緊急の用件ができたんだろうと思ってたんですが、私ではなく素人同然のエミちゃんを連れて行った事が気になってました」
 気持ちが落ち着き、『〈軍部〉の代理人である三条尚起』としての思考ができるようになった柚実は、淡々と記憶を語り続ける。
「今朝になっても連絡がないので、独自に行方を捜し始めてたんですが、今日の夕方になってアキオさんが投影で現れて。事務所に地図をおいてきたから、0時になったらここにケースを届けろって。それまで所長とエミちゃんの身は〈西方協会〉が預かるって」
「オレは聞いてないぞ!?」
「アキオさんにどういう意味かって聞いたら、『〈スメラギ管理事務所〉と〈西方協会〉の全面対決だ』って笑ったまま逃げられてしまって。それでてっきり、『あの人』が見つかって、所長が〈西方協会〉に喧嘩を売った挙句捕まったのかと……所長は確かに凄いけど、〈西方協会〉相手じゃどうなるか予想できなかったし。そうなるとこのケースの中身は、もしかしたら『あの人』の使う例の機械の部品なんじゃないかと」
 あり得ない話じゃないなと、和政は笑うしかない。自分だってこのケースの品が『奴』がらみのものじゃないかと疑ったのだから。
 そう言えば……ケースを預かった時に、アキオが妙な事を言ったはずだ。相手の運び屋は『お前並に気難しい奴』だと。『喧嘩するなよ』とも……。
 和政はチラリと尚起=柚実の横顔を眺めてため息。なるほど、ミツヤが笑ったワケだ。そして、ミツヤも『相手の運び屋』が柚実だと知ってたということになる。
「それじゃ、このケースもアキオから預かったって事は確かなんだな?」
 尚起は黙って頷く。今となっては、二人ともアキオに騙された――という言葉を使うのもどこか変な気分だが、そろって攪乱された事は確からしい。
 しかしアキオは、今回の件は自分が脇役だと言っていたはずだ。となると、ミツヤが全体の首謀者というわけか?
 もしミツヤが首謀者なのだとすれば、ケースの中身もそう危険なモノになるとは思えない。
 アキオは実利的な思考で動く事も多々あるし、実際、彼の部下として仕事をしてきた和政には、どう言い訳しても不快な類の依頼がまわって来たことがある。しかしミツヤはその点、夢想家だ。比較的穏便に事を済ませようと考えるし、仮に自分たちを始末するような事を考えるとしても、そんな人の命を奪う作戦を、写真集を眺めながらのふざけた態度で命じる人物ではない。少なくとも、自分の知っている〈西方協会〉の精神たるミツヤは、の話だが。
「開けましょう、兄さん。ラチがあかない」
 納得のついたところで、和政も頷く。
 互いの手元に目をやりながら、「せーの」と声を合わせて二つのケースを同時に開けた。
 中身に目をやる間もなくあふれ出した閃光が目をさす。二人は真っ白になって痛みを訴える視界から逃げるように顔を背けた。
 ケースの内側に、白い紙が貼り付けられていた。その紙が光を放っているのだ。紙にはクレヨンのようなモノで描かれた少女のイラストが、ニコニコしながら二人を眺めていた。
 そのイラストが、ちょうどテレビのアニメーションのように、ぺこりとお辞儀をした。
「エミ……ちゃ……」
 即座に何が起ったのかを理解した尚起が、やっとの事でそれだけ呟く。
 同時に起動したせいで二重になった音声が、甲高い幼子のような声が、それほど広くもない廃工場の中に響き渡る。


 はい、こんばんは。尚起さんも和政さんも、夜遅くまでご苦労様です。
 こちらはご存じの通り、エミの『偶像作者《ピグマリオン》』です。
 画だからって馬鹿にしないでくださいよ?
 特に和政さん。
 いつだって紙から出て行ってゲンコツポカリってやれるんですからね。
 覚えておいてくださいよ?
 いつもエミの事、子供だって馬鹿にするんだから……べ〜だ。
 それではいつもどおり、伝言させていただきますね。
 お二人とも、すぐに〈スメラギ管理事務所〉に戻ってください。
 出来る限り全速力で。
 それと、お二人揃ってドアを開けること。
 二木所長からの指示はそれだけです。
 いいですね?
 急いで事務所に戻って、一緒にドアを開けること、ですよ。
 では、よろしくお願いします。
 あ、そうそう、和政さんには追伸があったんだ。
 手間を取らせた代わりに、いろいろサービスするからね……って所長が言ってます。
 早く来た方がいいですよ〜、所長が前言撤回する前に、ね。
 それじゃ、待ってま〜す。



 ケースに貼り付けてあった紙から光が消え、同時に少女のイラストもかき消えた。
 しばらくの間、双子の間を無言の時が流れる。
「あのな……」
 和政は髪の毛をかきむしって、それだけを言った。脱力してしまって、その一言だけでも大きな努力を要した。それは尚起も同じだったらしい。ため息をついて、自分たちの周りに張り巡らせていた『銀の壁』を解除。何百枚という銀色のカードが手品のように彼女の手に戻ってくるが、彼女の手の上にはずっと一枚の銀のカードがあるばかりで、髪の毛ほども厚みを増さない。全てのカードが手の中に消えると、彼女は残った一枚をいつもどおりコートのポケットに収めた。
「とりあえず、アキオのいうとおり、霞とオレのトコの小僧どもがグルなのは、わかったな」
「ええ……しかも、アキオさんまで……」
 関係者は二木霞、一ノ瀬エミ、酒上純、逆井弘志、アキオ、ミツヤ……そしてヤクモ、か。
 和政は煙草を取り出して口に運びながらそれらの名前を脳裏で並べる。
 すぐに妙な既視感にとらわれ、まさかと思いつつ煙草に火をつける。とはいえ、予感は消えない。
 予感を整理し、考えれば考えるほど、この状況には覚えがある。そう、それは昨年の今頃だったか? いや、数ヶ月のズレはあるが、そして規模が大きくなってはいるが、こんな風に変に回りくどく、それでいながら単純な行動には、イヤでも覚えがある。
 その時は、自分で意識を失わせた尚起を和政に押し付けて一晩中看病させた挙句、二木霞を巻き込んで和政を尚起から引き剥がし、最後にいたっては和政の自室を宿がわりにしていった。なんとも情けないほど振り回された和政だ。
 今回は……霞同様に和政が逆らえない人物、つまり〈西方協会〉のアキオとミツヤを巻き込んだだけで、基本的な作戦は変わってはいない。アキオに和政の行動をコントロールさせ、本来の目的である場所――前回は和政の隠れ家だったが、今回はおそらく〈スメラギ管理事務所〉なのだろう――から遠ざけておいたのだ。
 弘志やエミを巻き込んだ真意はわからないが、今回もやはり、なんらかの理由で尚起=柚実に関係することなのだろうか。少なくとも、ここでアキオを介して二人を引き合わせたという事は、この先の事態に対して尚起の保護も念頭においてのことに思える。そして今回もやはり、最後まで尚起に自分の手の内を見せたくないが故に姿をくらませたのに違いない。となれば裏で何かの準備をしているはずだ。おそらく、今夜の――『冬の大祭』に合わせて。失踪の二日間はその準備期間だ。
 紫煙を二度三度はき出して気持ちを落ち着かせた後、もはや能力の欠片も残っていないケースの紙を凝視して考え込む妹に声をかける。
「オレ、誰が犯人かわかったような気がする」
「……奇遇ですね。私もです」
 酷く嫌そうに顔を歪めて、尚起は自分のコートの襟を合わせて震えた。寒気というより、悪寒だろう。同じ答えに行き着いたのならば、だが。
 和政はそんな尚起に今まで以上の親近感を覚えつつ、相手の答えと自分の答えをすり合わせる為の言葉を選びながら、ゆっくりと話しかけた。
「なんか、こんな事、前にもあったような気がするんだよな。で、今回もそいつが犯人のような気がする。っていうか、そいつじゃなきゃ、アキオが面白がって首突っ込んでくる余地がない。アキオだけじゃなくて、霞まで安心して巻き込むことができるとなれば、もう一人しか居ないしな。霞のヤツ、なんだかんだいって、アイツの事、結構気に入ってるみたいだから」
「ええ。やっぱりそうなりますよね」
 やはり大きく頷く尚起と顔を見合わせ、二人は同時に互いを指差して口を開いた。


「酒上純だ」


 前回同様振り回された二人の怒りは瞬時に沸騰、同時に地面を蹴って走り出す。
「ちくしょう! あの馬鹿、今度こそ誰が上司か教えてやらぁッ!」
 和政は倉庫の裏に停めておいた愛車の大型バイクに飛び乗り、アクセルを盛大にふかして文字通り吹っ飛んで走り出す。その後に続いて、やはり近くに改造したセダンを、エンジンを起動したまま駐車していた尚起が追いかける。血の気を失うほど噛み締められた唇は、叫び声や表情よりも雄弁に彼女の怒りを語っている。
 もちろん、二人が目指すのは〈スメラギ管理事務所〉。
 二木霞と三条尚起=佐々木柚実が根城とする、〈軍部〉指定能力者保護支援活動業務現場事務所である。





 〈スメラギ管理事務所〉は、とある古いビルの三階に位置する。どれぐらい古いのかといえば、八階建てのビルが高層ビルと呼ばれる時代に建てられたんじゃないかと思われるほど、壁面はひび割れ、汚れ、くすみ、一昔も二昔も古いが故に目新しく感じるほどレトロなデザインで構築されている――といった具合に古いビルである。
 その三階の半分にあたる広さを、この事務所は占有していた。三面のフロアを有し、一面を二木が自分の居住スペースとして使用、残りの二面を事務所兼書類倉庫に使用しているのだ。
 この事務所の本来の所有者が、このレトロすぎるビルのオーナーでもあるスメラギという人物だ。書類上はそのスメラギからカガ・ヒサシが経営を託され、そしてヒサシから二木へ権限を譲り渡された形になる。ビルのオーナーの代理として居座っている意味において、二木はこの事務所だけではなくビルの大家代わりにもなっているのだ。
 和政は、駆け上がる度にいつか足裏で崩れてしまうんじゃないかという妄想を抱かせるタイル張りの階段を、一気に三階まで登り切る。このビルは五階建てだが、エレベーターと呼ばれる文明の利器は取り付けられていないのだ。飛び出すように踊り場から廊下へ向かい、見慣れた事務所のノブを見るが早いか押し開けた。見知った顔が勢揃いしている状況を想定して、怒り一杯の形相のまま突入。
 しかし意に反して、見慣れた事務所は見慣れた風景のまま、空っぽで闇の中に沈んでいた。
 勢いのまま事務所の中に踏み込む。事務所だけではなく、二木の部屋をも空っぽであることを確認し――とはいえ、二木の部屋には厳重に鍵がかけられていて、踏み込むことは出来なかったのだが――仕方なく事務所の入り口までうろうろと戻らざるを得なかった和政は、もどかしさが唇を動かすままに一声。
「酒上ィィィィッ!」
 力任せに叫んでガツンと壁を殴りつけると、齢何十年とも知れないビルのどこかで破片のこぼれる音がした。予想外の出来事に、慌てて壁に手を当て小さな崩落を止めようとする和政。
「何やってるんですか、兄さん」
 追いついてきた尚起が、呆れた響きを滲ませて呟く。投げ捨てるように駐車できる二輪車とは違い、四輪車の尚起は律儀にビルの地下二階にある駐車場へ駐車してから来たのだろう。
「誰もいやしねぇぞ!? どうなってんだ!?」
「だからって壁を殴ったって仕方ないでしょう? 昔はこんなことする人じゃなかったのに」
「うるせぇ、『本物』とオレは違うんだよッ!」
「とりあえず、最初からやりましょう。『一緒にドアを開けること』って、エミちゃんも言ってたじゃないですか。ノブに波動認識錠のような仕掛けがされているのかもしれない」
 尚起の言葉に、渋々ながら頷く和政だ。仕掛人の中に〈西方協会〉の二人が関係しているとなれば、いつものように、ドアと空間を直結することなど簡単にできる。今回もそのやり方なのだろう。
 舌打ちしながら事務所を出る二人に、突然、真横から声がかけられた。
「やれやれ。まさか本当に、アキオの言った通りになるとはね」
 そっけない口調は、つい先刻聞いたばかりのものだ。
 警戒に顔を強ばらせる尚起を片手で制して、和政は半透明の姿で現れた〈西方協会〉に皮肉な笑いを投げつけてやる。
「なんだい、ヤクモ。あんたも俺たちと一緒で、パーティーに招待されそこなったクチかい?」
「生憎だけど、僕は君たちの案内人であって主催者側の人間なんだよ。君たち二人が揃ったのを確認する門番係、別の言葉を使えば空間ナビゲーターさ」
 和政も初めて見る、自嘲にも似た笑みを浮かべたヤクモは、尚起に向き直って軽く会釈をした。
「君が『三条尚起』だね。なるほど……アキオが心配しているのは君か」
「あの人に心配されるような事をした覚えはありませんが」
 ヤクモに対し、何か気に障るところがあったのだろうか。喧嘩腰に返答する尚起にヤクモはわずかに頷いた。
「そうだね、確かにそう心配する事じゃないのかもしれない。アキオは昔から何でも背負いすぎなんだ、ちょうど君のお兄さんみたいにね。彼の悪いクセだと思うよ。でも僕らは、そこがアキオの良いところだとも思ってる」
 あっさりと自分の言葉を肯定された事に驚いたのか、尚起はそのまま黙り込む。その間に二人が出てきたばかりの事務所の扉が――半開きだったその戸が、音を立てて閉まりきった。ヤクモが魔術で操り閉めたのだろう。
 人を人とは思っていないような、全く変わらぬ口調のまま、ヤクモは淡々と言葉を繋ぐ。
「カガ・ヒサシが一時でも〈スメラギ管理事務所〉に留まっていた理由は、おそらく三つある。一つはここがスメラギ・ショウイチロウの持ち物だった為、一つはこの近くにギル・ウインドライダーが関係者共々潜伏していた為」
 尚起がわずかに息を呑んだ気配を、和政は見逃さなかった。彼女の探し人の一人がこの付近にいたという情報は、きっと初めて耳にしたものだったのに違いない。
「そしてもう一つ。それはこの事務所が空間断層の組み合わせによって偶然生じた、天然の閉鎖空間だからだ。外部から侵入するには、設定された〈人格波動〉の持ち主か儀術紋様の持ち主に限られる。だからこそ、二木霞の許可を必要としたんだ。彼女の許可がなければいくら〈西方協会〉といえども、この会場で長く楽しむわけにはいかないからね」
 ヤクモは半透明になった手のひらをドアに向けて差し出しながら、つまらなそうに呟いた。
「さあ、二人で扉を開けなよ。今現在、扉は僕ら〈西方協会〉が彼女の許可をもらって、部分的に利用させてもらっている。君たちを迎える演出のためにね。天然の空間断層って奴は、自己修復も早いから、僕でも長く操作するのは骨が折れるんだ。早くしてくれないかな?」
 和政はヤクモの目を見て確認。何を考えているのかは相変わらずわからないが、変わらぬ態度を見るに嘘をついているようにも見えなかった。
「兄さん、早く」
 さっさとドアノブを掴んでいた尚起が、じれったそうに短く叱責。
「一つだけ教えろ、ヤクモ」
 和政の問いかけに、ヤクモが迷惑そうに眉を寄せた。無言だが話しを聞くという態度を見せる。
「どうして霞をオレの『恋人』だなんて呼んだ?」
 瞬間、とても人間らしい狼狽の表情を見せるヤクモ。思いがけなくも子供のように顔を真っ赤にさせ、片手で頬を押さえて俯く――が、すぐに顔を上げる。すでに真顔に戻っていた。
「そうか、違うのか。なら君たちも誤解させるような言動は慎むようにした方が良いと思うけど。彼女にも忠告しておきなよ」
「ああ、伝えておくよ」
 〈西方協会〉に監視され続けているという事実をこんな形で知ることになるとは――和政は再びジクジクと痛み出した胃を押さえつけながら、尚起と共にノブを握り、捻り、押し開ける――。


 一瞬、視界が真っ暗になった。


 重ね合わされている唇と唇が目に入ったと思った途端、視界が再び暗くなる。目の前の光景が自分たちに向かって倒れてくる。
 尚起の悲鳴と共に、一緒にノブを掴んでいた左腕ごと彼女に振り回され、和政は部屋の中でたたらを踏んだ。
 さっきまで自分たちのいた場所に、一人の男が倒れている。
 特徴的なその黒いスーツは、小学生が使う蛍光色のビニールで出来たなわとび紐でグルグル縛られており、もう散々な目に遭ってきたことが想像できるほど、真っ白な粉やクリームで汚れていた。顔中はどぎつい赤の口紅による数え切れないほどのキスマークで彩られ、何よりも息も絶え絶えに全身を震わせていた。
「アキオ……?」
 和政が信じられがたい状況に思わず名を呼ぶ。
 尚起は呆然と、見慣れた事務所に取り付けられたミラーボールの回転と振りまかれる光の乱舞を見上げている。
 その光の下に集うのは、二十人前後の老若男女。職業や趣味、服装もバラバラの彼らの共通点は、この状況を心の底から楽しみ、語り、笑い合っているという事だけだ。事務所の四隅に所狭しと並べられたテーブルには、いくつものオードブルと各種の飲み物が設置され、ホームパーティーとしては場違いな程充実した食事を提供していた。
 唖然とする双子の二人の、その耳にイヤでも飛び込んでくるのは大音量のカラオケだ。皮肉なことに下手ではない。安定した音程と声量は、むしろプロ並みと言っても過言ではない……できればヘビメタより、せめてロックンロールにしてもらいたかったが。それともデスメタルよりは一般的だったと安心するべき何だろうか。
 誰が歌ってるのかと思えば、二木の事務机の上で仁王立ちになり、腹の底からシャウトしているスタジアムジャンバーとレザーパンツの若者――和政の部下の一人である逆井弘志だった。二十歳そこそこの彼は、ウォッカの小瓶を片手に、自分の歌に陶酔しきっていた。乱入してきた自分の上司にも全く気づいていない。ちょうど曲も終わったと思いきや、次に流れ出した曲にも機嫌良く美声を張り上げはじめた。どうもこの若者一人がマイクを占領してしまっているらしい。
 その歌声を押しのけて届くのは、酒に酔った男の快活な笑い声。
 応接用の対面ソファで手を叩いて笑うその人は間違いなく、〈西方協会〉のミツヤ、その人だった。
 左側に綺麗な巻髪の美女――彼女が二木の事務所で働いてる一ノ瀬エミだ――に酌をさせ、右側には少女と言っても過言ではない、制服姿の愛らしい娘を従えている。
 和政はその少女に見覚えがあった。酒上と弘志が依頼を受けて迎えに行った、コサカという名の娘だ。高揚した気分に瞳を輝かせて笑顔を見せている。資料写真や面会では見たことのない表情だ。能力者として〈西方協会〉の保護下に入った彼女は、本来ならとっくに、〈西方協会〉が関連企業に作らせている中学校に編入し、外見上は何事もなかったように一般の生活を送っているはずだったのだが……。
 こうやってミツヤも居る場で腰をおろしているところを見るに、それらの事情は〈西方協会〉も承諾済みなのだろう。
 そして彼女たちだけではなく、きらびやかな化粧とパーティーにふさわしい衣装でミツヤの周りに控えている女性陣。思い思いに談笑し、音楽に体を揺らし、グラスを傾けてる色とりどりの姿は、とても普段は事務所として使用している場所とは思えない艶っぽい空間を作り上げていた。ソファの一画は、美男子のミツヤにふさわしい両手に花束の世界だったのだ。
 和政の視線に気づいた一ノ瀬エミが、その大きく潤んだ瞳を瞬かせて、意味ありげに笑って見せた。彼女が人の気を引くべくとる動作は、いつだってその気のない男もドキリとさせる。自分とはまた違った才能を持つ天才を前に、和政は慌てて視線をミツヤに戻した。
 その視界の中、水を飲むようにグラスの中身を飲み干すミツヤは、倒れてるアキオを指さして笑っていた。
「あはははは、今日何度目のバツゲームだよ、アキオ! あは、あはははははは!」
 和政達の足下で、アキオがろれつの回らぬ言葉で叫ぶ。
「酒は……酒は、卑怯……きょッ」
「キス付きのウィスキーだもん、役得じゃん」 
「お、おまえ……おまえおまえおまえっ! ……お、男の、男のだぞッ!?」
 扉を開けたときに見えたキスシーンがアキオと誰かの、男同士のキスだったと知って、一瞬にして血の気が引く和政だ。宴会のバツゲームではありがちだが、そんな下世話なゲームで楽しんでるメンバーが、世界中の魔術師と能力者の一部を牛耳る〈西方協会〉であるという事実が信じられない。
 しかもそれを誰よりも楽しんでいる人間が、〈西方協会〉の精神と称される人物だなんて。
 床の上でビニールなわとびに拘束された身でもがくアキオに向かい、屈託のない笑顔と良く知る友へだからこそ投げつけられる残酷な嘲りといたわりを込めて、ミツヤは声高に叫んだ。
「アキオは昔っから、ジャンケン弱すぎなんだよッ!」
 和政はふと、いつだったかアキオがぼやいていた「絶対に賭け事したくない奴が居る」という言葉を思い出した。きっとアキオの頭にあったのはミツヤだ。
 ぐったりして反論することすら出来なくなったアキオに、尚起が半泣きで取りすがる。
「アキオさん、ちょっと、ちょっと、ねぇ、アキオさん! しっかりして! ねぇ、何がどうなっちゃってるのッ!? ねぇ、ねぇッ!」
 尚起というより、柚実の口調に戻りつつあるところが、彼女の混乱を申し分なく表現している。
 アキオが何かを語り出そうと口を開いた瞬間だった。
 和政は背後から急に右肩を掴まれた。反射的に、かつて所属していた〈軍部〉で学んだ通りに指を掴みへし折ろうとする――が、相手の手はそれを予期していたのか、和政の手をすり抜ける。屋内という動きづらい場に合わせ、振り返りざま右の肘を叩きつけようとする和政の、その攻撃の肘へ添えられた相手の掌。和政の動きに合わせて角度を誘導、肘鉄の軌道をそらせようとする。だがそれを見越しての和政の左手が伸び、相手の手首をがっちり掴んだ。
 細くとも骨太な中身を思わせるその手首の感触に、和政はその手首の持ち主をすぐに思い出した。この空間の持ち主である事務所の所長。
 顔を確認しようとした隙に、首に腕を回され前に引き寄せられる。あまりに強い引きにその場で膝を着いた和政が、相手の顔を見上げて
「かす――」
 「み」と続くはずだった言葉は、和政が唇で感じ取ったしっとりと濡れる彼女の唇、そして無理矢理こじ開けられ触れられた口腔の感触に消えてしまった。
 混乱、嫌悪、そして絶望。
 それらの感情がシグナルのように点滅し、おそらく三つ数える間もなく終わった二人のキスだ。
 ――が。
 和政は自分から顔を離し、ニンマリする二木霞の猫のような瞳を目にした。その耳に、彼女の「ウフッ、中身はサービス!」という詐欺のような言葉も捕らえた。
 そして次の瞬間、痛みを伴いながら急速に発熱する胃袋と、グラリと傾いだ視界と、ままならなくなった体を支えきれなくなった足腰と、それらの三つが同時に起ったが故の当然の結果として――前のめりに倒れた。
 バタバタと耳元で音がし、ぐらぐらする視界を更に揺らして、目の前に尚起が――すっかり狼狽しきってしまい、涙目の女の顔で「やめてよ、お兄ちゃんまでおいてかないで! 所長も変だし!」なんて叫んでる。
 尚起も、いつもこんな風に必死で素直なら可愛いのにと、周囲からシスコンの疑いをかけられている事も忘れて、半ばヤケクソの気持ちで考える和政。十年前に再会したのが自分だったなら、きっと彼女は今でも素直で優しく気の強い、でも泣き虫な女であったのに違いないとも思う。
「イヤッ、こんなトコで一人にしないでッ! やめてッ! お願いだから起きてよぉ!」
 騒がしい。嬉しいような恥ずかしいような気もするが、気持ちとは裏腹に顔の筋肉は笑顔はおろか動きもしない。体調は最悪なのに、耳だけは正確に動いているから不思議だ。
 だが、呼びかけと一緒に体を揺らすのは勘弁してもらいたい和政でもある。キスと一緒に流し込まれたブランデーが、胃袋どころか全身で暴れている最中なら尚更だ。吐き気がこみ上げて来るのを、大人として必死でこらえる。同い年とはいえ、仮にも妹である人物の胸元をアルコール臭い反吐で汚したくはない。
 ご機嫌の二木霞は、左手で酒瓶を揺らして見せながら「どう? すっごく甘くておいしいでしょ?」なんて、生来の下戸であるが故に味すらわからない和政に尋ねてくる。返事も待たずに――というか、答えたくても答えられない和政を放置したまま、ラッパ飲み。すぐに口から瓶を離すと「あら? 無くなっちゃった」と子供のように笑った。
 悪夢だと和政は思う。仮にもテロ組織〈E.A.S.T.s〉の一員であった二木霞が、無防備にも楽しみ、場にも酒にも酔っている状況なんて、不自然以外の何ものでも無いはずなのだ。
 誰なんだ、この女?――そんな言葉まで和政の脳裏に浮かんでいた。
「ちょっと、酒上ぃ〜! コレ、無くなっちゃったんだけどぉ!」
 拗ねた声で呼ぶ二木霞に、事務所中に詰まった群衆の一画がフッと反応した。
「ああ、すいません、二木所長。同じ瓶は切らしてしまって」
 ガツガツと近づいてくるその姿に、尚起がビクリと体を震わせるのが――胃と脳みその不快感に対して抵抗するものの、まだ彼女に抱えられたままでなければ体を起こしていられない和政には、イヤでもわかった。
 そして和政自身も、グニャグニャと小刻みに揺れる視界とは別に、頭を抱えたくなる。
 酒上純は、真っ赤なエナメルのハイヒールを慣れた様子ではきこなしながら、柄の長いパイプをプカプカと吹かせてやって来た。
 ピンクとも紫ともつかないスパンコールだらけのドレスにバラをあしらったストッキング、分厚い縁取りとワンセットの長い付けまつげ、ラメ入りの緑のアイシャドウ、真っ白で何重も積み上げられ蟻塚のような形をしたカツラ、羽根の付いたレースの扇子で筋肉以外なにもない胸をパタパタと仰いでる。
 その腕には霞に渡す為の新しい酒瓶が危なげなく抱えられていた。
 どこからどう見ても、自分の部下だが……これまたいつもにも増して気合いの入った女装だな――和政はそこまで考えた後やっと、彼の格好を称するにピッタリの「ドラッグクイーン」という言葉を思い出した。
 真っ赤な口紅を引いた彼は、戯けた口調で二木に勧める。
「こっちはドライジンみたいな感じでちょっと辛めですけど、いかがですか? 所長はこっちの方がいける口でしょう?」
 和政は頭の奥の方で動き出した鈍痛と、いっこうに治まりそうもない吐き気を自覚しながら、無理矢理体を起こそうとした。力なくその動きをサポートしようとする尚起の腕を視界の隅に意識しながら、和政は酒上の口紅の色とアキオの顔中に散らされたキスマークの色が同じ事を、妹は気づいているのだろうかとぼんやり思った。
 おそらく、アキオのバツゲームで酒上がやった事を、見ていた霞が面白がって真似たのだろう。
 まだ転がっているアキオを横目で確認し、あの格好の酒上に迫られた気分を想像し、非常に同情した和政だ。
 ……ということは、和政と尚起がこの部屋へやって来た時に目にした光景は、アキオと酒上の……。
 思い出さなくてもよいシーンを思い出し、和政がゲンナリとした時だ。
 突然、床に体を投げ出された和政は、強かに腕を叩きつけられ我知らず呻いた。
 自分の体を乗り越えて行く足とロングコートの裾が体を撫でる感触に引かれて顔を向けた和政の目の前で、さっきまで和政を抱えていた尚起が大きく腕を引くのが目に入った。
 次の瞬間――絶叫する逆井弘志の歌の合間にもかかわらず、確かにその音は聞こえた。その光景を目にしていた者達全ての耳に届いたのではないだろうか。
 仮にそれが聞く者の幻聴だったとしても、だ。
 三条尚起=佐々木柚実が、酒上純の頬を力一杯平手打ちしたビシャリという嫌な音が。
 騒々しい喧噪の中、衝撃でのけぞった酒上はゆっくりと尚起に顔を戻した。表情は殴られた瞬間の驚いた形で固まっている。ゆったりとしたその動きに向かって、尚起は叫んだ。
「お前が、嫌いだッ!」
 もう一度殴ろうとしたのか、今度はしっかり拳を握って腕を振り上げた尚起だが、思い直したのかすぐに腕を降ろした。
 二人の側にいた霞が、一瞬にして険しい表情に変わる。何か言いかけた女上司を制するかのように、尚起は叫んだ。
「心配したんだ! みんなのこと、心配したんだぞ! みんな、みんな……みんなのことを考えたんだ、なのに……なんでお前はいつもそうなんだ、なんで私の周りをぐちゃぐちゃにしていくんだ!」
 握り拳を酒上の面前に突きつけ、ブルブルと震える尚起。
「なんで私だけのけ者にして、なんで私に……私に……毎日ある連絡が突然なくなったら、関係なくても心配するだろ! 大嫌いな奴でも気になるだろ! なんでそういう事をするんだ! なんで私にするんだ!」
 そして和政は見た。ミラーボールで振りまかれた光と闇の境目で一瞬だけ目にする事の出来た、彼女の目一杯に溢れた涙がポロリと零れた瞬間を。
「なんで私に、なんだ!」
 霞が表情を緩めた。酒によって感情の起伏が大きくなった霞は、尚起が心の底から自分たちの身を案じていたという事実を目の当たりにして、瞬間沸騰した怒りを静めたらしい。
 だが、酒上はまだ変わらない。まだどこか呆然とした表情のままだ。息をしているのかすら怪しいほど、ピクリとも動かない。
 いまだ拳を握って睨みつける尚起を見下ろしながら、ゆるゆると腕を動かし、右手で抓んでいた長いパイプを口元に運ぶ。
 その、長パイプが真っ赤な唇で固定されたが早いか、目にもとまらぬスピードで右手が唸った。
 衝撃でよろめいた尚起が、そのまま倒れ込むほどの張り手。
 再びパイプをつまみながら、床の上で身を起こし怒りで飛びかからんばかりの尚起を見下ろす。
「お返しです」
 道化じみた滑稽なメイクの上にゾッとするような冷たい笑みを漂わせて、酒上は自身が恋い焦がれる女性に向かって言い放った。
「私のパーティーを興冷めさせるような振る舞いは認められません。私は私にだけ仕えます。私のやりたい事を邪魔する人を黙って野放しにするつもりはありません。たとえ貴女が相手でも、です」
 少しだけ首を傾げると、いつものヘラヘラとした笑い顔で
「でも、私の事もそんなに心配してくれたんですね。これからも時々やろうかな? 貴女が私の為に泣いてくれたなんて、今夜は興奮して眠れそうもないし。貴女もそうじゃないですか、尚起? 一緒にベッドで『アラビアン・ナイト』でも読んでみます? それとも『カーマ・スートラ』?」
「その態度が、大嫌いなんだッ!」
 尚起は床から飛び起きると、今度は酒上のドレスの胸元を鷲掴みにして迫る。
「なんでいつもいつも、そう馬鹿げた言葉しか――」
 その尚起の腕を掴み、彼女を止める三人目の人物。
 和政は身を起こして、二人の間に割って入った人影の正体を見極めようとする。その和政の耳に、いつの間にやら傍らにやって来ていたミツヤの言葉が飛び込んだ。
「やれやれ。酒上くんには悪い事をしちゃったね」
 まだ床で伸びていたアキオの体をヨイショと抱え起こすミツヤ。アキオの体を拘束しているビニールのなわとびを、独楽回しのようにクルクルとほどきながら
「それに、コサカちゃんにも、ね。主催者として責任を感じるよ」
 尚起の腕を掴んだ袖が中学の制服のものであることに気づき、和政は酔いも手伝って目を白黒させた。
 口紅だらけのアキオの顔を蒸しタオルで無理矢理こするミツヤは、まだ首も据わらないアキオの動きを楽しそうに観察する。アキオの弄られようが他人事ではない和政は、その観察行動を邪魔する意図も含めて声をかけた。
「どういう事だよ? いや、コサカの事も、アキオの事もだけどさ。そんなに飲めない奴だっけ、そのオッサン?」
「ん? 君も野暮だねぇ。なんだかアキオも言いだしそうな言葉だよ」
 腹話術の人形を扱うように、アキオにおどけたポーズを取らせるミツヤ。
「コサカちゃんの恋する乙女のオーラが見えないかなぁ?」
 恋?
 恋する乙女?
 ますます頭が混乱する和政だ。そんな彼をよそに、腕を掴んだ者と腕を掴まれた者が睨み合う緊迫した間。そして原因である当の本人はプカリプカリと煙をあげている。
「そうそう、アキオはね、元々飲めないんだよ。君ほどじゃないけど、あまり飲める体じゃあ、ないんだよね」
 酔っているのか、それとも酒上達の事はどうでも良いと思っているのか、ミツヤは真っ赤なぞうきんと化した蒸しタオルを執拗にアキオの顔に押しつけ続けている。汚れよりも息ができるのだろうかと心配になるぐらいに。
「だから普段は体に入った酒を、飲み込む前にどこかに転送してるのさ。アキオは空間魔術が得意だからその応用でね。でも僕のいる前じゃそうはさせないよ」
 意地の悪いような、呆れているような、でも不思議に優しい顔でミツヤは笑った。
「僕らの中で一番多く仕事を抱えてるのはアキオだしね。たまには人間らしく、前後不覚に酔っぱらってガス抜きしてもらわないと。じゃないと僕ら、本当に自分たちが神様だと勘違いしちゃう。どこかの誰かさん達みたいに」
 アキオの顔全体の口紅は落ちたというより引き延ばされていて、真っ赤なペイントになってしまったが、ミツヤは満足したようだった。襟首を掴んでずるずると引き摺りながら自分のソファまでアキオを運び、荷物を投げるような無造作な動作で、待っていた一ノ瀬エミの横に寝かせる。
「美女のキスで生き返らせてよ」
 エミはミツヤの言葉に小さく笑うと、アキオの頬を指先で押す。前後不覚であることを確認しているのだろうか。
「私のキス、高いですよ。所長とギャラの相談をしてから言ってください。〈西方協会〉だからって無料じゃイヤですよ」
「じゃ、このままでいいや。二木ちゃんにふっかけられたら断れなさそうだし」
 横になったまま苦しそうに呻き声をあげたアキオの足元近くに腰をおろし、ミツヤは自分を見ている和政に向かって指をさししめす。
「ほら、いいのかい、お兄ちゃん? 妹と依頼人の、どちらにつく?」
 そう、まだ尚起とコサカは睨み合っている。
 尚起の驚きと怒りで顔を歪めている姿とは対照的に、コサカは泣きそうにも見える表情をぐっと唇を引き締めて耐えているのが印象的だ。第三者としては何よりも、二人の様子をギラギラしたドレスのまま突っ立って見守る酒上の他人事とも言いたげな目つきが、とても気になる。
 和政の見守る中、コサカが何度か口をパクパクと動かした。当初は逆井弘志オンステージのBGMで聞こえなかったのかと思った和政だが、すぐにそれが彼女の予備動作だったのだと気づく。中学生が大人の女性に、それも怒りで我を忘れているような女性に、そしてその女性が男性並みの身長を持っていて自分を見下ろし、ビジネスマンよろしくビシリと男装しているのなら――あまり自分の意見を言いたいとは思わないだろう。気後れするのも当然だ。だが少女は尚起を見上げて言った。
「酒上さんは悪くないです!」
 言ってしまった後、ブルブル唇を震わせた少女は、尚起の腕から手を離した。
「私、『冬の大祭』ってお祝いしたことないんです。覚えてないんです。私、いつも一人で、いつも外に追い出されてたから」
 和政は知っている。コサカ・ナツミは比較的幼い頃から水を水のまま固定する能力を持つ能力者だった。しかしその能力で何か悪事を働いた事はない。幼い彼女は、悪事どころかその力を役立たせる方法も思いつかなかった。ただ、自分と姉妹で遊ぶ為の道具にしていただけだ。しかし水で人形遊びをする彼女に気づいた両親は、能力者である彼女を気味悪く感じた。当然のようにその事実を隠し、彼女の引き取り手を捜していた。お抱え能力者の縮小を計る〈軍部〉は、〈特務〉内へ編入する事を拒否し、能力者である証明の第三種免許を発行してもらったとしても年齢的にすぐに生計を立てられるわけではない。結局、両親は理由もあてもないまま、幼い彼女を自分の元から追い出すわけにはいかなかったのだ。
 この『追い出さなかった』という事実に、和政などは両親の中に残る小さな愛情を感じることもできるのだが、反面、目の前で自分をもてあます姿を見せられ続けた思春期のコサカ・ナツミとしては、とても辛く悲しい思いをしたのではないかと思う。
 ごく普通の人間である彼女の両親は〈西方協会〉との接触を願いつつも、その方法がわからず右往左往し、その間コサカ・ナツミは両親に疎まれ続けるという辛い少女時代を送っていた。かつて共に遊んだ妹達とは隔離された別の、親たちに振り回されるような月日を過ごして来た彼女。その彼女が『冬の大祭』を祝った記憶がないというのは、想像できる話ではあった。
 和政は思い出す。コサカと初めて面会した時、彼女の青白く、諦めきった目と顔を。〈西方協会〉の代理人として今まで何度も目にしてきたから気がつかなかったが、それは、その人間の人生が困難であった事の表現でもあるのだ。
 その顔を、今は生気と静かな怒りにみなぎらせた少女は、和政の見守る中、言葉を続ける。
「だから、酒上さんは私の為にお祝いしようって、言ってくれたんです。どうせ初めてなら、凄く楽しいお祝いにしようって。嫌な大人ばかりじゃなくて、楽しい事を考える大人もいるし、馬鹿みたいなことを一生懸命やる大人もいるんだって事を教えてあげるって」
 尚起は目を見開いて、コサカの顔をマジマジと見つめていた。
 尚起の事だ、きっと心中では言いたいことがたくさんあるに違いない。コサカが酒上に騙されているんだ、等の反論の言葉が。事実、和政もこのパーティーは酒上がコサカの為という名目で開いただけの、自分が楽しむ為のパーティーだったとしか思えない。
 しかし心の底から酒上を信じ切っている純粋な少女の心を、それでなくとも傷ついてきたであろう少女の気持ちを、無理に押しつぶす発言をする事などできやしない。おそらく尚起もそうだろう。
 沈黙するしかない尚起に向かって、少女の攻撃は続く。
「酒上さんと一緒で、すごく楽しかった。いろんな人に会って、みんな笑ってOKしてくれて、何もないところから少しずつ参加するって人が増えていって、道具が揃っていくのって、見てるだけで面白かった。今日なんてここの準備をみんなでやった時なんて、笑いっぱなしだし。だけど――」
 コサカは一度、言葉を整理しようとしたのか、大きく息を吐いた。
「酒上さん、ずっと『尚起は』とか『リーダーは』とか、二人の事を言ってました。きっとビックリするって。ビックリさせたいって。二人とも真面目過ぎるから、ちょっと大げさなぐらいビックリさせてあげないとちゃんと楽しめない人たちだからって。酒上さんが悪者にならないと、安心して遊べない人たちだからって。私、酒上さんがどれだけ――」
「コサカちゃん」
 酒上が厳しい声色で制止した。「もう良いんだ。ありがとう」
「良くないです! だって酒上さんの事、叩いたんですよ、この人!」
「良いんだ。私も叩いたから、もういいんだ」
 酒上がコサカの背後からゆっくり腕をまわして、少女の体をそっと抱きしめた。この男は時々、日頃のふざけた言動が信じられないほど優雅な動きをしてみせる。この時がそうだった。何の不自由なく育ったという酒上純だ、育ちの良さがこんなところから溢れてしまうのかも知れない。
「君を泣かせてまでする種明かしじゃないよ。君を楽しくさせる為のパーティーなのに、主役がそれじゃサマにならないでしょ?」
「泣いてなんか、ないです!」
「私には泣いてるようにしか見えないんだけど」
「泣いてなんか、ないですってば!」
「初めての『冬の大祭』のパーティーが泣きべそ顔じゃ、もったいないと思うでしょ?」
「だから、泣いてなんか、ないですって!」
 それまで黙って三人のやりとりを眺めていた二木霞が、無言のまま、片手でエミを手招きした。
 尚起と言えば、これらのやり取りですっかり毒気を抜かれてしまったようだ。コサカを抱きしめている酒上の肩を見下ろしたまま、ポカンと口を開いている。
 エミがやって来ると、霞は酒上にコサカから離れるよう身振りで示した。
「酒上、女の事は女に任せておいた方がいい時もあるって、覚えておきなさい」
「やだな、所長。今夜の私はオ・ン・ナ」
「オ・カ・マ、の間違いでしょ」
 エミがコサカの目線にあわせて腰を曲げ、にっこりとした。男を虜にするその魅力は、時に女同士にしかわからない連帯感を作り出す力にもなるらしい。その笑顔から何かを汲み取ったらしいコサカは、今にも泣きだしそうなクシャクシャの笑顔で頷くと、肩を押して誘導するエミと共にミツヤの元へ戻ってこようとした。
「コサカちゃん」
 酒上が驚いたように声をあげ、何事かと振り返る少女。
「あっちに!」
 突然和政に向かって指先を向ける酒上、そして突然やってきた視線にぎょっとする和政。慌てる間もなく、コサカの視線が和政と重なった瞬間――酒上が素早くコサカの頬にキスをする。その感触に驚いたのだろう、再度酒上にむかって振り返るコサカ・ナツミの唇に、更に触れるようなキス。
 何が起ったのかわからないコサカに、満足げに顔を上げた酒上は少女の頬に指を走らせた。「フェイスペイント。素敵でしょ?」と笑いながらコサカの頭を撫でる。
 それでも何が起ったのか理解できないのだろう、コサカは何度も酒上に振り返りながら、ミツヤの傍らに用意されていた自分の席へ戻ってくる。夢見心地と称するには少々正気でありすぎるが、それでも十分に、不思議に遭遇した顔をしていた。
「よくがんばったね」
 ミツヤが隣りにやってきたコサカに、群集の気を引かない程度の拍手をする。
 彼の言葉がどういう意味を持っていたのかはわからないが、コサカは小さく頷き目をこする。その頭を胸元へ抱き寄せたエミに黙って従った。
 こちらは一応の決着がついたらしい。
 ならばと和政は酒上と尚起に目を戻す。
 酒上はとっくに尚起と二木の傍からいなくなってしまい、気がつくと逆井と一緒に事務机の舞台に上って叫びまくっていた。逆井に新しいボトルを渡し、どんどん飲ませている。
 それにしても逆井は、いつまで歌っているつもりなのだろうか? 下手に腕力があるだけ、酔って暴れられるぐらいなら歌っていてもらった方が良いに違いないのだが。
 そして、残された二人の方は、ちょうど二木が尚起の背に腕を回すところだった。この事務所の所長は、指先で部下の鳩尾を突きながらジャッジ。
「今回はあんたの負け」
「所長……負けとか勝ちとか、そういうもんじゃないでしょう?」
「柄にもなく嫉妬しちゃって。中学生にキスなんて、挨拶代わりみたいなもんでしょ?」
「誰が嫉妬なんて」
 鼻で笑ったつもりなのだろうが、やや離れた場所で見守る和政にもわかるほど、震えた声だった。
「和政にはわからなくても、私にはわかるの。何年あんたの上司やってると思ってるの?」
「私はただ、中学生を誑し込もうとしたあの男に腹を立ててるだけです」
 ふーんと二木は気のない返事をし、酒上の持ってきた瓶を一口すすった。気に入ったのか、銘柄を確認すると、もう一度尚起の鳩尾を突く。
「だからこそ、あんたの負け。喧嘩は先に怒った方が負けなのよ。私が言うんだからこれはホントの事。西部劇だってそうでしょ? 先に動いた方が負け。だからあんたの負け」
「……所長、あの……言い辛いんですけど、相当、酔ってるでしょ?」
 二木は尚起へ意味深に微笑み返すと、くるりと振り向き、それらの会話を眺めていた和政に向かってバーンと拳銃で撃つマネをした。
 やっとの思いで身を起こしている和政には、その意味がわからない。黙って二木の次の動作を見守っていると、彼女はぐっと唇を尖らせる。
「こらっ、和政!」
「ん?」
「撃たれたんだから、ちゃんと死になさい」
 むちゃくちゃだと思いつつ、和政は黙って仰向けに倒れて見せた。酔っ払いに逆らってうまくいったためしなどありゃしない。気に入っている女の言う事なら尚更だ。ほどほどに付き合ってやるのが男の甲斐性ってもんだと思って、諦めるしかない。
「オレもホント、自分を誉めてやりたいよ」
 それぞれが自分の楽しみ方に夢中で、床に倒れる彼の言葉など誰も聞きやしないとわかっているからこそ、口に出してみる和政だった。




 どうせ朝までの話だよ――酔いが抜けてきた頃、和政にそう囁いたのは誰だっただろうか? 男の声だったような気がするから、ミツヤだったような気もするし、夜半過ぎから歌い疲れてウトウトしていた逆井弘志だったかもしれない。
 今夜の事はただのお遊びだからさ、後の事はサカガミ先輩がみんな全部キレーイにナントカしてくれるってさ――と、これを言ったのは弘志だったに違いないが。酒上の事を先輩だなんていうのはコイツぐらいしかいない。
 はたして。朝が近づくにつれ会場の人々は一人二人と減り始める。朝日が全身を現しきった頃には、この場の本来の使用者である〈スメラギ管理事務所〉の三人と、〈西方協会〉の二人、〈西方協会〉の代理人たる和政たち三人、そして今回の依頼人であるコサカ・ナツミだけになってしまっていた。
 残った九人だけでも少し狭く感じる事務所に、今まで一体何人詰め込まれていたのだろうかと和政は少し不思議に思う。もしかしたら〈西方協会〉が少し手を加えていたのかもしれないが、それにしても多くの人間が事務所を後にしたものだ。
 飲めや歌えやであけっぴろげな感情を露わにしていた人々だが、そこは百戦錬磨の〈西方協会〉と二木だ。普段から比べればのんびりとしているが、疲れらしい疲れの色は見せない。
 二木霞はお気に入りの甘い香りを漂わせる洋物煙草を口にしながら、テキパキと大皿を片付けはじめた。たまにつまみ食いをしているようだが、こっそり食べているようなので見なかったことにしておく。
 彼女の側でニコニコしながら床の掃除をしているのは一ノ瀬エミだ。彼女の周りでは、彼女の能力によって作り出された紐状の人型が大量に発生している。十人中八、九の人が美人と答えるであろうエミの美貌と小さな小人形の組み合わせは、おとぎ話のお姫様と七人の小人さながら。ちょうどジンジャーマンクッキーのような手描きの生き物は、ちょこまかと床を走り回ってはゴミを集め、協力し合っては二木の手から空っぽの大皿を受け取り、小さな形ばかりの給湯室で皿洗いをはじめている。和政は初めて、この事務所が慌ただしい日々の中でも綺麗に保たれている理由を知った。
「結局、『〈スメラギ管理事務所〉と〈西方協会〉の全面対決』は、ドローってとこだな」
 朝日の眩しさに眼鏡の奥の目を細め、アキオが自らの頭を小突きながらぼやいた。結局一晩中気を失っていた彼は、今頃になって動き出したのだ。何をどうやってるのか知らないが、顔の汚れも服のにこびり付いていたシミも、彼が魔術を使う時の動作――指を鳴らした一音と共に消えてしまっていた。二日酔いが残っているらしく、ブツブツと自分の体調不良とミツヤに対する恨み節をこぼしている。ミツヤのワガママを呆れながら付き合ってやったんだと言いたげな態度なのだが、昨夜の失態を目にしていたこの場のメンバーには、ミツヤの下僕以外の何者にも見えなかった。もちろん、本来ならばミツヤ以上に〈西方協会〉を取り仕切っているのはこのアキオだと、わかった上での話だが。
 アキオの言葉に和政が問いかけるよりも早く、ガサガサに傷んだ喉で声を上げる男がいた。
「え? なんの勝負っすか?」
 逆井弘志は、昨夜自分が散々お世話になったカラオケセットの一式を手早く移動用のキャリアに詰め込み、そして天井灯の代わりに設置されていたミラーボールを取り外しにかかっていた。
 この男、若いながらも職を転々とした経歴をもっている。〈軍部〉にいてもおかしくないような大きな体と肉付きの良い戦闘的な体格でありながら、手先は想像しがたいほどに器用だ。天井裏の配線を引きずり出すと、あっという間にミラーボールと切り離して接続し直してしまう。和政も感心するほどの早業だった。
 アキオもそんな弘志の手際にウンウンと頷きながら、残っている酒瓶の中から持ち帰る品を嬉しそうに選んでいた酒上をいぶかしげに確認。
 酒上は第三者が残らず立ち去ってしまうと、さっさといつものスーツに着替えカツラも化粧も落としてしまっていた。とはいえ、その「いつものスーツ」とやらも、蛍光とマーブリング模様の組み合わせで、見る者の目を痛いほど刺激する類の品だ。瓶の前でしゃがみこんでいても、どうしても視界にちらほら入ってくる。
 そんな悪趣味なスーツを着こなすこの男、何もない空中から自らの武器である『聖杯』の中へワインでもテキーラでもシャンパンでも、種類を問わず取り出してみせるというのに、それでもアルコール飲料が好きらしい。選んでいる間は大人しく動かないので、和政は放置しておくことにする。一度動き出すとうるさくてたまらない。ラジオのDJさながらで、いつまでも話し続けるし、酷い時には踊り出してしまう。事実、つい先頃までオネェ言葉で散々喚き立てながら二木と踊っていたぐらいだ。ここ数日散々な目にあった和政としては、祭りの後ぐらい、この男には静かにしてもらいたい。
 もちろん、和政としては今回の騒動の元凶と思われるこの男には上司としていろいろ言いたいこともあるのだが、その類の説教は今すぐでなくとも良いはずだ。後でたっぷり小言漬けにしてやるつもりである。
 アキオは酒上から目をそらし、ミラーボールの梱包に取りかかった弘志に近づいて苦笑い。
「飲み会の勝負って言や、『一気飲み』か『大酒飲み』の勝負に決まってるじゃねぇか」
「聞いたことないっすよ」
「ガキは知らねぇか。せいぜい『給食の牛乳一気のみ』ぐらいなんだろ?」
「……おおっと、あぶねぇあぶねぇ。思わずオレっちの〈フィストドライブ〉のサビにしちゃうトコだったぜ、おじいちゃん?」
「おおよ、やってみな。返り討ちにしてやらぁ」
 自信たっぷりに胸を張るアキオに、弘志は呆れ顔で首を振りながら、自分がステージ代わりに使っていた二木の事務机を丁寧に水拭きしはじめる。この若者、基本的にマメなのだ。それがどうして戦闘状況に置かれるとあんなに大雑把で後先考えない事をしでかすのかと、和政の方が首を振りたくなる。追跡相手の車を足止めする為だけに鉄橋の橋桁を破壊するのは、そしてその時の始末書を書くような経験は、一生涯に一度だけで十分だ。
「大体、飲み比べの勝負なら、酒の飲めないアキオさんとウチのリーダーだけで負け決定じゃないですか」
「うんにゃ、ミツヤと酒上が居れば、オレと和政の分を差し引いてもお釣りがくるわ。それよりもオレは、二木ちゃんの飲みっぷりの方が恐ろしいと思ったけどな」
 霞の飲みっぷりを思い出した和政は、こみ上げてきた吐き気と胃の痛みに思わず口元を押さえる。その耳に追い打ちのようなアキオの言葉。
「まさかミツヤと同じぐらい飲める男がいるとは思わなかったけど、それと同じぐらい飲める女がいるとは思わなかった」
 昨夜の馬鹿騒ぎの最中、誰彼かまわず手をとってクルクル踊っていた酒上と霞を思い出した。あの二人は和政が思っていた以上に似た者同士のようだ――かつて二木に「あんたと酒上は同じタイプ」と断言された和政だが。脳裏でクルクル回る二人の姿を再生しているうちに、二日酔いにはなっていないが、同じぐらい気分が悪くなってくる。
 和政は吐き気をやり過ごす為に新しい煙草を取り出し、毎朝の習慣である〈軍部〉や〈特務〉の情報をチェックに取りかかろうとした――が、携帯端末機を起動しながらライターを捜している間に、目の前のソファからゆらりとミツヤが立ち上がる。
 皆がそれぞれの作業をしている間、彼は目を閉じて瞑想していた。なにも知らぬ者なら眠り込んでいるか作業をサボッているようにも見えただろうが、和政はその所作の意味を知っている。『遠話』と呼ばれる魔術で、文字通り、遠方から発信されたメッセージを受け取り、送信する術だ。〈西方協会〉の精神たるミツヤのことだ、今頃様々な情報が脳裏を駆けめぐっていたに違いない。だが同じように情報を受け取っているはずのアキオが通常どおり活動している姿を見ると、一般的な情報の処理能力はアキオの方が上なのかも知れない。もちろん、アキオがそれらの情報を聞き流している可能性は無きにしもあらずだが。
「さて、と」
 和政の前から窓辺に移動したミツヤは、ブラインドを巻き上げると背伸びをする。
「ヤクモが言うには、砂糖にアリさんが群がって来たらしい。酒上君、そろそろ次の作業に移ろうと思うんだけど、どうかな?」
 ちらりと――昨夜から定位置と化したミツヤのソファでウツラウツラと船を漕いでいるコサカを気にした酒上は、ムッツリと黙り込んだまま壁のポスターやモールを片付けていた尚起にそっと近づき、その肩へ腕をまわした。
「申し訳ありません、尚起。気が進まないかも知れませんが、移動中のコサカちゃんの面倒を見てもらえませんか? 昨夜の事もありますし不快かもしれませんが、大人の女性と見込んで、是非、お願いします」
「断る」
 即答して、酒上の手をつまみ上げる尚起。
「コサカ・ナツミの移送はお前達と兄さんの仕事だろ。どうして私が手伝わなきゃならない」
 酒上が懇願するように霞に視線を送り、この場の所長はムッツリとした表情のまま腰に手を当てる尚起に追い払うような手で「行ってきて」と指示。
「しかし所長――」
「いいから行ってきなさい。あんただって、今夜の本当の目的がなんだったか気になるでしょう?」
 本当の目的?
 和政が二木に問いかけるより早く、ミツヤが含み笑い。
 そう、昨晩からの騒ぎは、このミツヤが――いや、この男に進言した和政の部下による犯行なのだ。二木に尋ねてはぐらかされるより、部下を問い詰める方がずっと効率がよい。無理矢理聞きだそうとして彼女に悪い印象を与える必要もないはずだ。
「どういう意味だ、酒上。てめぇの計画か」
 酒上は尚起の肩に手をやっては払いのけられ続けながら、和政を見もせずに即答。
「計画の骨子は私です。人選は二木所長とミツヤさんになります。アトラクションはアキオさんの担当、エミちゃんと弘志は会場のセッティングです」
「んなこたぁ聞いてねぇ。この後、何をしでかすつもりだ」
 酒上は唐突に腕を振り、ピシリとコサカ・ナツミを指さす。瞬時にコサカの周りを赤紫の液体が包み込み、まるで包装された人形かゼリーの中に閉じこめられた果物のように動きを止める。酒上の能力『酒神の舞台《ディオニュソスのステージ》』の発動だ。この液体のあるところでは全ての現象が酒上の意のままとなる。端から見る分にはかっちりと固められてしまったかに見えるコサカだが、制服に包まれた小さな胸を静かに上下させているところを見ると、息は出来ているようだ。酒上の想定するとおりに、物理現象すら超越して。
 これらの準備をするということは、彼女には聞かれたくない話なのだろう。
 尚起は酒上の能力の発動を確認すると、あからさまに嫌そうな顔をして見せた。彼女も酒上が能力を使用する時には、ろくでもない事を企んでいる時とわかっているのだ。
 酒上は嬉しそうに尚起の顔を見下ろすと、うやうやしく頭を垂れて宣言した。


「これから我々に仇なすであろう裏切者を炙り出します」


 二木がエミに目配せすると、『偶像作者《ピグマリオン》』のジンジャーマンがワイワイガヤガヤと――いや、声は出していないのだが、そんな喧噪を思い起こさせる動きで書類の束を和政に向かって運んできた。
「今回の集まりの一番のポイントは、そこの御二方です」
 酒上のさしのべる手の先には、〈西方協会〉のミツヤとアキオが、並んで場を仕切る酒上を見守っていた。どちらも酒上の種明かしをニヤニヤと聞いている。
「〈西方協会〉のスポンサー達も簡単には会えない、『生身の』ミツヤさんとアキオさんです。コサカちゃんのように辛い少女時代を送ってきた子に、ミツヤさんが仏心を出して面会する事は今までも多々ありましたし、我々はともかく他の人たちは誤解してますけど、ミツヤさんのボディガードとしてアキオさんが付いてくるのも想像にたやすい。しかも今回は『極秘に行う冬の大祭パーティー』という触れ込みです。比較的少数の参加者によって開催される。〈西方協会〉の御三方が目の上のタンコブな人たちにとって、襲撃にもってこいの状況です。しかも次に行われるのがいつなのかわからない以上、さっさと行動に移してしまうに限る」
 「同様に」と、二木が言葉を繋いだ。
「〈特務〉の中にも〈E.A.S.T.s〉と手を組みたがっている輩がいる。十年前ならいざ知らず、今は互いの領分を守って行動するべき時だというのにな。そういう輩は〈西方協会〉にも接近して、何らかの情報を手土産にしたがるもんだ」
 和政にも計画の大枠が見えてきていた。
「なるほど。それでミツヤと霞が選んだ人間をご招待したってわけだ」
 活動の怪しい人物をパーティーに招待し、ここを出た後どのようなリアクションを起こすかでフルイにかけるつもりなのだ。
「で、それを俺たちに伝えなかった理由は?」
「遊びだからだよ」
 弘志がため息をつきながら答える。
「サカガミ先輩と俺、それと所長たちが考えて仕掛けたお巫山戯だってことを強調する為。真面目一辺倒のあんた達二人が最初から参加してたら、遊びじゃないって気づかれるかもしれないだろ? だから参加させる人たちも、みんなミステリーツアーみたいな演出で連れ出してきたんだ。結構大変だったんだぞ。その上、あんた達兄妹が本気で騙されてれば、そして俺たちが本気で面白がってれば、奴らも本当にただのパーティーだと思って油断するだろうしな」
 でも、と弘志は続けた。
「オレは最初にこの話を聞いたとき、リーダーに連絡しようとしたんだぜ? なのに――」
「みんなが寄って集って簀巻きにしちゃったのよね、知らせるなって」
 エミがその時の様子を思い出したのか小さくクスリ。
「だから弘志のことは怒らないでくださいね、和政さん」
 弘志は思わぬエミの援護につかの間顔を赤らめたが、チッと舌打ちを一つ立ててそっぽを向いた。
 和政はエミの能力が運んできた書類の中身を確認。全て人物リストだ。その中の数人は確かに、〈西方協会〉を笠に着て暴利を貪っていると噂されている人物だった。ミツヤもアキオも、それを知っていて泳がせていたのだろうが……。和政の全く知らない人物や見当もつきそうにない意外な分野の会社社長も数多く存在し、自らの属する〈西方協会〉という秘密結社が想像以上に巨大なものであることを再確認させられる。
「そういうワケでして。この事務所を出たら何らかの攻撃が開始される可能性があります」
 酒上は肩をすくめながら、自分を硬い表情で見上げる尚起に囁いた。
「我々の基本的な目的は、あくまでコサカちゃんの移送です。とはいえ、〈西方協会〉の二人を狙う暗殺者を捕らえ、その記憶を探り、真の裏切者を捜し出すのも、〈西方協会〉の騎士《ナイト》たる我々三人の仕事であります。もちろん、〈特務〉の人間の差し金だとしたら、そちらは二木所長にお引き渡ししますけどね。そんなわけでコサカちゃんについては、私としては――」
「私の『銀の壁』でコサカを守るのが、一番安心できるというわけだな。少なくとも物理的には傷つけられずに済むと」
「ご明察」
 満足げな酒上を癪に感じながら、和政はメンバーの顔を一つ一つ眺める。
 ミツヤの実力は未知数だが、酒飲みを回避しようとしたアキオの魔術を止めるだけの力があるのは確実だし、アキオの空間を操る魔術がどれだけ厄介な代物であるか、十年前からの付き合いである和政は良く知っている。
 二木霞の能力『切り裂き魔《リッパー》』は間違いなく強力な攻撃手段であるし、三条尚起=佐々木柚実の『銀の壁』だって堅牢なる防壁の手段だけではない。一ノ瀬エミの『偶像作者《ピグマリオン》』は各人との連絡を取り合うだけでなく、敵側の攪乱にも大いに役立つだろう。
 逆井弘志の能力『紅い双剣』と『FD9−009』の組み合わせはビルの一つ二つなど問題としないだけの破壊力を持っているし、酒上純の『酒神の舞台《ディオニュソスのステージ》』は限られた範囲だけでなら万能とも呼べる汎用性を有している。それに佐々木和政自身の、絶大なる貫通力を誇る『陽の魔弾』。
 それらを確認した和政は、思わず声を上げて笑ってしまった。
 不思議そうな顔で振り返った酒上が、珍しいことに、普段なら絶対に見せない真面目な顔つきになって尋ねる。
「どうしました、リーダー? 道端に落ちてたタコヤキでも拾って食べたんですか?」
「……なんだそれ。お前の中のオレのイメージは食いしん坊か?」
 それでも笑いが止まらない和政。
「おいおい、ミツヤさんよ。あんたも主導の一人なら教えてくれよ」
「何を?」
「これだけのメンバーが揃ってたら、どっかの国と戦争できちまうぜ? 確かに〈西方協会〉のメンバーをなんとかしちまおうって奴らだ、並の人間じゃないだろうけどな。でもコレはやり過ぎだぜ? 〈E.A.S.T.s〉にだって殴り込みかけられるわ。年末年始だってのにおっぱじめる気か?」
 アキオが笑って自分の額を叩いて見せた。冗談とも本気ともつかない顔で、傍らのミツヤに振り返る。
「ありゃりゃ、本当だわ。一気にやっちまうか、ミツヤ? 〈バーンサザード〉を呼んだって良いぜ? ま、こっちに着く前に終わってそうだけどな」
「もちろん、君特有のお寒い冗談なのはわかってるよ、アキオ」
 ミツヤはアキオの提案を笑っていなすと、和政に向き直る。
「二木ちゃんがどういうつもりでいるか知らないけど、〈西方協会〉は守る為の組織だ。〈E.A.S.T.s〉に対して、こちらから撃って出る予定は今後もない。彼らも元は私たちの同士だからね、一時の感情で騙されている人たちを、進んで傷つけるつもりは毛頭無いんだ。レザミオンを説得する事だけが、私達に出来る唯一最大の攻撃手段だと考えている。アキオとヤクモにも私と同じ考えであることを求めている。君にもその気持ちをわかって欲しい」
「なるほどね。了解了解」
 確かに、そんな信念がなければ〈西方協会〉には居られないのだろう。機会をうかがって攻撃するだけなら、あたりまえのように〈E.A.S.T.s〉のようなテロ組織に成り下がってしまう。
「パパ・レザミオンが、今更あんたの言葉を聞くかしらねぇ、ミツヤさん?」
 霞が何本目だかわからぬ煙草をふかせて、誰にともなく呟く。
「でも今の私は、あんたみたいにとぼけたフリする夢想家も嫌いじゃないわ。少なくともパパ・レザミオンよりは好きね」
「ありがとう、二木所長。今後もそうあり続けようと努力するよ」
 ミツヤが軽く会釈すると、霞は猫のような瞳を細めて苦笑した。その霞の前に、ズカズカと足音も荒々しく駆け寄る尚起。
「見損ないましたよ、所長。昨晩から、貴女には呆れる事ばかりです」
 目の端をつり上げてみせた二木に、尚起は硬い表情を突きつける。
「あの子は、コサカはただの囮だったっていうんですね? 昨日のパーティーは、作戦の為だけの罠だったって。貴女は……いや、貴女たちは、あの子の気持ちを利用したんですね」
「そういう面もあるってだけよ」
「あの子にはそれだけじゃすまないはずだ! ……酒上ッ!」
 大げさに肩をすくめる仕草で無言の返答をする酒上に、尚起はコサカを指さして叫んだ。
「お前がこの子の人生に何をしたのか、わかってるのか!? この子にとって忘れられないヒーローになったんだぞ!? お前はこの子にとって、自分のためにしなくても良い苦労を進んでしてくれた大事な人なんだ、この子の中にこの先ずっと残ってる男になったんだ! それが、自分たちの為に利用しただけだなんて……ここから外に出た時、どれだけの能力者が襲ってくるかわからないなんて、この子には関係ないのに巻き込むつもりなのか!? この子がどんな悪いことをしたっていうんだ!」
「ならばどうしろと?」
 酒上の問いかけは、明らかに尚起の答えを予測している、笑いを含んだものだった。それに気づいてはいるのだろう、彼女は悔しそうに返す。
「彼女の記憶を改変しろ。お前ならできるんだろう? 私が彼女の護衛を引き受ける条件はそれだ。今回の事を全部、忘れさせろ」
「後で真相を知って辛い思いをするよりは、最初から何も無かった方が良いってことですね?」
 ニコニコしながら念を押した酒上は、戯けた風に胸を張った。
「お断りします」
「なんだと?」
「貴女だって知ってるはずですよ、私がワガママな男だって事は。私はみんな大好きだし、私を好きになってくれたコサカちゃんも大好きですよ。だからこそ、ずっと私を覚えていて欲しい。これは私のワガママなお願いです」
「だけど――」
「それに私は自分の記憶を大事にしている。辛いことも楽しいことも、恋も希望も絶望も死も、どれ一つだって欠けさせたくない。今回の事がコサカちゃんにどんな気持ちを残していくのかわからないけど、それを奪うのは、彼女の大事なものを盗み取るのは、彼女に対する冒涜です。私は彼女との出会いを大事にしたいから、彼女を汚すような事はお断りします」
 だからと、酒上は自分を睨みつける尚起の視線をやんわりと受け止めて続けた。
「だから貴女が必要なんですよ、尚起。この子を守ってあげてください。信頼できる大人として、どんなに大変な状況でも絶対に自分を守ってくれる人間がいるのだと教えてあげてください。貴女にはそれができる、だから貴女にお願いするんです。そうすれば、記憶を奪わなくとも、辛い記憶を持たずに済む。私達も彼女に巻き込まれたと気づかせないだけの早さで襲撃者を倒すつもりですし、だから貴女も、彼女に髪の毛一本の傷もつけずに守ってあげてください。その後の未来は彼女のものだ。真相を知った後の事は、彼女が考え、判断する事です。我々全員がそうだったように。後の事を憂いて今の彼女を傷つける事はない。違いますか?」
 違わないねと割って入ったのは、意外にもアキオだった。
「わかってるよ、柚実ちゃん。あんたが何を考えてるのかはね。自分の時を思い出してるんだろ? 〈特務〉の頃の?」
 尚起はアキオを横目で睨んだ。アキオは今でも彼女を柚実と呼ぶ数少ない人間なのだ。もちろん、その事が彼女にアキオに対する反感を抱かせているのだろうが、アキオの方は全く気にしていないようだ。
「だったら尚更、守ってやれよ。『三条尚起』や『佐々木和政』は柚実ちゃんを守りきれなかったかも知れねぇし、柚実ちゃんも辛い思いをしたのはわかってるけどさ。だからこそ、コサカちゃんの中のヒーローの姿を守ってやれるのは柚実ちゃんだけじゃねぇのか? それに――今はコイツもいる」
 アキオの指が和政に向けられた。
「この『佐々木和政』なら、柚実ちゃんもコサカちゃんも守ろうとしてくれる。あの頃の『佐々木和政』みたいに裏切ったりはしねぇよ、オレが保証する。だから……コサカちゃんはそのままにしてやれよ。二人で彼女を守ってやってくれ」
 尚起はアキオの指に沿って視線を移動させ、和政を捕らえた。
 彼女の目にあったのは困惑、それだけだ。
 頼りなく視線を彷徨わせた妹に、和政は――ぶっきらぼうに聞こえるよう心がけ、頼られた喜びを相手に知られないように伝える。
「やってやれ。オレだってコサカを次の家族の元に届ける義務がある。お前を守る義務もある。外がどうなってようと、それだけは忘れない。約束する」
 尚起は答えない。むしろ和政の発言に更なる困惑を抱いたようだ。
 何を迷っているのかわからないが、尚起は自分の拒否にここまでの反応があるとは思っていなかったのではないだろうか。
「私からもお願いします」
 エミが悲しそうに目を伏せ、頭を下げた。
「私も出来る限りのサポートしますから、尚起さんはコサカちゃんを守ってあげてください」
「エミちゃんまで?」
「ええ、私まで、です。私がお願いするって事は、弘志もお願いしてるって事です。ね?」
 再び思わぬタイミングで勝手に一組にされてしまった弘志は、狼狽しながらもウンウンと頷いた。
 若い二人にまで手伝いを申し込まれ、尚起は更に助けを求めるべく――自分の上司に目を留めた。
「所長」
「なぁに? あんたはまだ私の命令がなきゃ仕事ができないの?」
 苦笑する二木は、ショートトレンチを手にすると、細々とした道具をポケットに詰め込む外出の用意をはじめた。
「少しは酒上を見習ったら? もう心に決めてるなら、その通りにして良いのよ」
「……本当に見損ないましたよ、所長。よりにもよって喩えがこの変態男だなんて」
 言葉とは裏腹に、尚起のため息は嬉しい降参ともいうべき笑いの色を含んでいた。
「いいだろう、酒上。護衛はやってやる。でもお前のためじゃないぞ、コサカちゃんの為だし、私を気遣ってくれるみんなの為だ。お前の為じゃない」
 踊り出しそうな酒上の気配に、尚起は急いで言葉をつなげた。
「その代わり、彼女を怯えさせるような光景は他所でやってくれ。戦闘状態の目撃を防ぐ事までは、私でも保証できない。頼む」
「ありがとうございます、それでこそ私の愛する三条尚起だ。私に出来る限りの事はやりますよ、もちろん。私の心臓を捧げるべき女神は貴女だけだ。貴女の為に『舞台』を造り、その為に私が死んでしまおうとも、どうか悲しまないでください。その時私は、絶対なる満足の中で死んだのだから!」
「……そういうくだらない文句はどこで考えてくるんだか」
 呆れながら自分の赤いサングラスで目元を覆う尚起。彼女がこれをかけるのは、事務所を出る時の合図でもある。
 エミもジンジャーマンたちに、自分のトラ柄の毛皮のコートを持ってこさせた。女性陣達の準備に対し、男性陣たちにはほとんどといって良いほど準備はない。
 酒上が、自分の武器である『聖杯』をどこからともなく取り出し、コサカ・ナツミを覆っていた赤紫の液体を霧散させたぐらいだ。
 出かけるよとミツヤに声をかけられつつ肩を揺さぶられたコサカは驚いて飛び起き、寝ぼけながらも一刹那の間、顔を嫌悪に固めた。しかし探し求める姿を視線が捕らえた時――そしてその視線に酒上純が笑顔をもって応じた時――彼女は、何かを振り切ったように、涙目で笑った。
 別れを覚悟している顔だ。この少女は、自分の恋した相手がどんな世界の人間なのか、薄々気づいていたのだろう。次に会うことなど無いかもしれないという、当たり前の事実を。
 そのいじらしい姿に、和政がなにか言葉をかけようと考える。しかしその前に尚起が、彼女の肩を叩いて頷いて見せた。
「大丈夫だ、コサカちゃん。君に何かあったらすぐに、〈西方協会〉に連絡しろ。私にでもいい。私が酒上を必ず派遣させるから。いいな、何かあったら必ず連絡しろ。あの男は変態だし常識知らずで迷惑が服を着て歩いている人間だが、解決能力は高い。必ず君の力になってくれるから」
 「もちろん、直接私に連絡してくれてもいいですからね」と、無理矢理二人の間に割り込む酒上。その体を悲鳴と共に突き飛ばす尚起に、コサカが笑い声をあげた。
 この子はこの先も大丈夫だ。だってこんなに明るく笑えるじゃないか。失恋を目の前にしたばかりで、まだ何も心の整理が着かないまま別れなきゃならないっていうのに、笑うだけの力を振り絞れるのだから。
 和政があらためて目の前の少女の胆力に感心していると、ミツヤとアキオが戸口に向かって歩み出していた。
「では、みんなの意見がまとまったところで、行くとしますか」
「外で待ってる奴らも寒いだろうしな」
 さっと扉のノブを掴んで二人を迎えた酒上は、雇い主達の後ろに皆が並ぶのを確認し、最後にうやうやしく一礼した。
「さてさて皆様。それでは、年末の大掃除にくりだすとしましょう。お祭りは最後にパレードをやって、偽王《モック・キング》を燃やして終わるっていうのが流儀ですからね。行きますよ!」
 陽気に叫んだ酒上は、皆の先頭に立って事務所のドアを押し開ける。
 眩しい朝の空気に向かって、踊るように足を踏み出した。



<カーニバル・ナイト/了>
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