ヒサシのとある一日(9周年記念テキスト)
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 季節はゆっくりと寒さを緩め、心なしか日差しの温もりが体に残る時間も長くなりつつあった。
 約二年もの間、旅から旅の生活が続いていたが、カガ・ヒサシの中には疲れも焦りも無かった。
 元より目的とする土地も時間もない。追いかけてくるものから逃げるだけ、行動そのものが目的の生活だ。
 その追っ手すら、自分の能力で目くらましをかけたり、自称ヒサシの従者である魔術師の技術で、如何様にも逃げ出すことができる。ストレスが無いといえば嘘になるが、 全くない生活など期待もしていない。むしろ、多少のトラブルは良い刺激になっていた。
 新しい街に到着すれば、目に付いたホテルの中から適当に選んでチェックインし、気の向くまま滞在し、追っ手に見つかりそうな気配を感じたらすぐにチェックアウト。そ れが今の彼の暮らしだ。
 金額は気にしない。従者の魔術師には、彼の技術に対していくらでも金を払う後援者と団体が、数え切れないほどついている。底なしの財布だ。もっとも彼らは、魔術師へ のお布施を、見ず知らずのカガ・ヒサシという男が気ままに使っているとは思いもよらないのだろうが。
 ヒサシは背伸びをすると、ガラスの向こう側に広がる街の光景へと目を向けた。
 今朝もまた、次の宿へ向けて旅立つ時間が迫っていたが、チェックアウトの催促はない。
 半ば嫌がらせのように高級ホテルを選ぶヒサシと、顔色一つ変えずに賛成した魔術師――中小の男二人組というその組み合わせも去る事ながら、飛び込みでスイートを選ぶ 状況も異常だ。
 手ぶらな上に旅の途中であることもあからさまだったが、身なりも素行も、一流とは行かなくともそこそこ品の良い二人だ。ホテルマンたちも二人をただ者ではないと察し たのだろうか。
 いや、普通なら宿泊拒否するだろうから、魔術師がパトロンの名前を出したのかもしれない。
 昨夜からの丁寧な対応は続いていて、立ち退きの催促がないのもその一環なのかもしれないが、それでも、旅の生活のリズムとして身に付いた立ち去りのタイミングという ものもある。
 チェックアウトの前にシャワーを浴びるよう促されたヒサシは、上の空でシャツを脱いだ。無理に湯に浸かる必要は無かったが、断る理由も特に無かったのだ。
 昨夜、面白そうだという理由だけで酔っぱらいの喧嘩を仲裁した時、力任せに殴られた上腕部が黒いアザになって残っていた。引きつる痛みに思わず顔を歪める。
 その喧嘩の際、街路樹の植え込みに倒れ込んだおかげで泥まみれになってしまったシャツは、寝る前に脱ぎ捨ててあった。アザの痛みで、部屋の隅に丸めてあったシャツを 思い出して目を向ける。
 その視線に気づいたトレイルは――ヒサシの従者だと名乗る魔術師が、肩をすくめた。常に手放さない紅玉のはまった黒杖にシャツを引っかけ、すくい上げる。吊すように してヒサシの目の前に差し出した。
「何が楽しくて、普通のマネをするんだか……。これは捨てておきます。新しいシャツを用意しておきますね」
 ケガなどせずに、そしてシャツを汚さずに仲裁する方法などいくらでもあったはずだと非難しているのだ。
 だが内心、シャワーを浴びるのも普通のマネじゃないかと思うヒサシだ。トレイルなら、体表面の汚れだけを排除させることだって出来るだろうに。体臭すらも変化させる ことが出来るのだから、必要とあれば風呂に入らず過ごすことだって可能だろう。
 それでもトレイルは、時にヒサシが驚くほど頑固に入浴の習慣にこだわるのだ。
 となると疑うのも人間だ。もしや、トレイルがこだわるこの人間的な習慣の全ては、ヒサシの目の届かぬところで良からぬ連中と連絡を取る為の、ただの口実なのではない かと、深読みしてしまう。
 だがもちろん、そんなことはおくびにもださずに答えるヒサシでもある。
「普通の喧嘩に割ってはいるんだ、普通にやるのがスジだろ。魔術師相手なら能力者として喧嘩しても良いだろうがな。まあ……良さがわからないなら、お前もやってみたら どうだ? たまには体を動かすのもいいもんだぞ?」
「くだらない。お断りします」
 シャワールームの扉に近づくと、開ける為に近寄ってくるトレイル。小柄な体つきだが、その中身にどれだけ凶暴な感情と力が納められているのか、ヒサシは嫌になるほど よく知っている。伊達に長いつきあいではない。
 この魔術師の最終目的がヒサシの命そのものであることもわかっているし、それまではヒサシの命を身を削ってでも守るであろうこともわかっている。
 それだけに近寄られるとどうしても警戒したい気分になるが、反面、寝所を共にできるほど信じることも出来るのだ。寝首をかかないことがわかっているからこそ、旅を続 けることもできるというもの。
 トレイルはトレイルで、こんな従者の気分をも楽しんでいるのではないだろうか。そうでなければ、これほどまでに甲斐甲斐しい行動を取れるとは思えない。
「毎度のことだけどな……ドアぐらい自分で開けられるんだから、そっちに引っ込んでろよ。お前はオレのオフクロかよ」
「はて? あなたのお母様は存じ上げてますが、そんなことをするような方ではありませんよね?」
「あっちじゃねぇよ。カガのお袋さんだ」
「ああ……そちらの方でしたか。残念ながら、お会いする前に亡くなられたので、存じ上げませんでした。申し訳ありません」
 知らなくていいさと、ヒサシが呟きながらシャワールームに踏み込むと、背後で扉が勝手に閉まった。もちろん、自動ドアでもなければ、ヒサシの能力でも誰かの魔術でも ない。
 当然、控えていた従者の手の仕業だ。
「……お前、オレの話、聞いてたか?」
「え? 何か言いましたか?」



 チェックアウトをした後、二人はホテルの周りを見渡した。
 夜の最中にたどり着いたが為にあまり意識してはいなかったのだが、明るくなった周囲は中央通りに面した一等地だったのだ。
 すでに活動をはじめた多くの車体がけだるそうに走り抜け、歩道では老若男女が思いおもいの速度で歩みを進める。
 トレイルの魔術でどこかの空間へと押し込められた荷物は、ヒサシの尋常ではない感覚でも、空中に付けられた小さな、そして移動してくる傷跡にしか見えず、それはいつ だって、視界の中にうつりこんでしまう眼球の傷を思い出させていた。
 その空間の傷を気にしながら、手ぶらでホテルを出る。とりあえず南へ延びる通りへ沿って歩き出した。ホテルを出る前に、南方に大きな公園がある事を確認していたから だ。
 まずはそこへ向かい、次に進むべき場所を――ヒサシの感覚が行くべきであると命じるまで、情報を手に入れることにする。
 トレイルは相変わらず、手放さない杖で石畳の一枚一枚をコツコツと突きながら、ヒサシの横を歩み続ける。
 黙っているのは常の事だ。彼は基本的に、自分から進んで口を開くことはない。
 もちろん、何も語らないということはない。ただ、役割をわきまえているというだけだ。
 通りはウィンドーの並ぶブティック街へとさしかかる。冬へさしかかる季節だ。今シーズンのファッションを提案するマネキンたちが、女性とはかくあるべしと各々ポーズ をとる。
 それを横目に、ヒサシはラズベリーを思い出させるハーフコートに、よく知る女性の顔を重ね合わせている自分に気づく。
 小柄ながら猫のようなしなやかさと強靱さを備えた彼女に、とても似合うと思った。
 ふっと、彼女の泣き顔を思い出し、ヒサシは胃袋の更に下の奥からこみ上げてくる恋慕に、慌てて口元を押さえた。
 ため息と共に、彼女の名が漏れそうになる。
 トレイルが目を向けず、しかし表情を伺っている気配を感じる。それだけに、うかつなことはできない。ヒサシにとって彼女の存在が、皆の思っている以上に大きいものだ と悟られたが最後、彼女の危険は今とは比較にならないものになるのだから。
 もちろん、彼女が多少の危険などものともしないとわかってる。ある意味において、ヒサシ以上に危険な立場にありつづけているのだ。これ以上、一つ二つ増えても気には しないだろう。
 それでもやはり、危険を付加するわけにはいかない。
 ならばせめてと、ヒサシは彼女に買ってやれる土産はないかと、ショーウインドウの中を覗きながら歩く。
 そして思い浮かべる。
 彼女の笑顔。彼女が自分だけに見せようとする子供のようなはしゃぎ方。
 しかし、ヒサシは知っている。彼女が心の底から求めている人間が、自分ではないことを。
――私、わからなかった。
――あんなに見てたのに、気づけなかった。
――違うよ……悔しいだけだよ、ヒサシ。
――アイツと、あいつが、全然違うのに、今の今まで、わからなかった!
 ヒサシはもう一人の人物を思い出す。血だらけの姿で、傷の痛みに息も絶え絶えで、それでも己の存在に恐怖した男の顔。愛用の銃で、自らの命を絶とうとまでした男の顔 。
 生きろと、ヒサシは手を差しのべた。
 久しぶりに出会えた、今となっては唯一の、ヒサシの身を損得なしに気遣ってくれる生身の友人。
 だからこそ、くだらない実験の末に死んでもらいたくなどなかった。
 そして、彼の死によって、あの子猫のような女性がどれだけ悲しみ、傷つくであろうかと想像するだけでも、彼を救う理由になり得た。
 だから告げた。生きろ。
 そして自分にも。
 彼らの為にもと決意したのだ。決して、トレイルには屈しないと。トレイルが自分を監視するように、自分もトレイルを監視するのだと。囮となって見せると。
 あの二人の限られた年数しかない人生を、トレイルの野望の前に散らせるわけにはいかないと。
 愛してるという言葉を想う。きっと自分は、その言葉の意味を、あの二人の存在に重ね続けることで、この世界を肯定しつづける事ができるのだ。
「ヒサシ」
 トレイルが不意に言葉を投げかけてくる。
「何か買いたいものでもありましたか? 歩調が乱れてますが」
 トレイルなりの警告だ。ヒサシがトレイルの存在に否を唱える度――ヒサシが決意を新たにし、トレイルの悪意に倒れぬと言い聞かせる度に、トレイルはそれを察している 事を何気ない言葉で告げてくる。
 思考そのものを読みとる術など魔術にはない。
 それができる存在は、非常に限られている上に、大きなリスクと歪みの影響を覚悟しなければならない。
 歪みを作り続けるのが常である魔術師なら、なおさら、その反動は大きくなり、困難な作業となる。
 それでもトレイルは、何らかの方法で、思考の揺らぎを察しているのだ。四六時中。
 ヒサシは思わず苦笑い。
 こんな時にはある意味、素直に語ってしまった方が互いの為でもある。互いにどこまで情報が漏洩しているかを探る為にも、そしてその探索を打ち切る為にも。
「土産物でもないかなぁと」
「例の彼女に?」
 脳裏で、ラズベリー色のハーフコートをまとった彼女が笑う。
「あの子じゃなくても、次の街で会うかもしれない子に、とかな」
「なんの為に?」
 さあなと、ヒサシは天を仰ぐ。
「オレの自己満足だろうな」
 それは嘘でも何でもない。
 誰に渡すにせよ、ただ通り過ぎるだけのヒサシの好意は、返ってくることなど期待できない。
 他人の好意を受け取りたくても、受け取れやしない。
 トレイルとの決着をつけぬ限り、ヒサシが立ち止まれる時間など無いに等しいのだから。



 中央通りのブティック街を通り抜けると、緑化認定された公園へとたどり着く。公園の雑誌スタンドで地図を買った。
 旅の生活なら毎日使うはずの地図だが、ヒサシは毎回使い捨てにしているのだ。所持し続けることで、何かの隙に自分の行き先を地図から読みとられることが起こらないよ うにであり、そして一回きりの使い捨てにすることで、古雑誌を扱う浮浪者の小遣いにできるよう手渡すためだ。
 財布が底なしなのだから、その程度の無駄遣いは無駄遣いのうちに入らない。
 特に食欲はなかったが、チェックアウト同様、習慣的に昼食をとる。緑化公園内のベンチに腰を落ち着け、地図を広げながら、トレイルにサンドイッチを買ってくるよう命 じる。
 トレイルも反論はしない。サンドイッチの移動売店が目の届く範囲にあったからなのだろうか。手放さない黒杖で石畳をコツコツ叩きながら離れて行く。
 それを見送ると、ヒサシは地図に目を落とし、声をかけた。
「珍しいな。あんたが来るなんて」
 その声が合図だったかのように、ヒサシのベンチには客が現れた。もし、その時の光景を目にしていた人物が居たのなら、こう証言したかもしれない。
 瞬きさえしなければ、目を一瞬でも閉じなければ、見えていたんだろう。でも、気がついたらもう既にそこに座っていたんだ。ずっと同じところを見ていたはずなのに―― と。
 黒い特徴的なデザインのスーツを身にまとった、美しくも少年の面影を残す小柄な青年が、そこに座していた。
 小柄とは言っても、トレイルはどこかあどけない子供のようですらあったが、この青年には折れそうで折れない鋼のような線の細さであり、両者はまったく異なる存在感を 持っていた。
「『投影』で失礼」
 スーツの青年は、既知故の気軽さで頭を垂れた。
「オレ相手に礼儀はいらねぇよ」
「こちらがやりたいだけさ。トレイル師にも挨拶しようと思っていたんだけどね……ずっとブロックされていたから、諦めたんだ」
 その気配はヒサシも感じていた。だからこそ、昼食を買いに行かせたのだ。
 そしてそのヒサシの気遣いを察したからこそ、トレイルも術を解いて立ち去ったのだろう。
「ギルに聞いた事があるんだけど、あんたはトレイルのお師匠さんの一人に似てるんだと。生き写しみたいに。だから会いたくないんじゃねぇのか?」
「……その人なら知ってる。会ったことはないけど、血が繋がってるらしいからね。仕方ないか」
 無表情に正面を見据えたまま、二人はベンチに並んだまま目を合わせずに会話を続ける。
「で? 今日はなんの用だい? いつもの〈西方協会〉に入れって話ならお断りだ。大体、それはアキオの仕事じゃねぇか。ヤクモの仕事じゃないぜ?」
「そんな難しい話じゃないさ。少し気になった事があってね。忠告だ」
「じゃあ、もったいぶらずに話せよ。トレイルが帰って来ちまう」
 ちょうど犬の散歩で通りかかった老夫婦が二人の前を通り過ぎる。彼らが十分に離れるのを待って、ヤクモは口を開いた。
「三大聖霊が活性化している。警戒段階を一つ上げなければならなかった。どういう意味か、わかるね?」
「あんたたち三人の力が、その分大きくなるって意味だろ?」
 ヤクモは小さく、非難するようにため息をついた。間違いじゃないけど、合格点ではないね、と。
「聖霊の力は、魔術師と同じ原理で発動している。つまり魔術師の力も総じて増大するという事。君のお友達の力も大きくなるって事だ」
 ヒサシはトレイルの姿を確認するべく、一度だけ顔をあげた。
 魔術師は既に紙袋を抱えながらこちらに向かってきていた。ヤクモの姿に気づいているだろうに、一向に焦る様子はない。二人に対する挑発にすら感じる。
 再び地図に目を落とし、ヒサシは囁く。苦笑する余裕すらなかった。
「もしかして、二年前の、オレの発動のせいか?」
「例の機械のせいだけとは思えない。あれも原因の一端なんだろうが、聖霊の反応を見るに、ギルたちが、もしくは彼の弟子に連なる者たちが、別件で引き起こしている可能 性もある。もちろん、今の段階では推測でしかないけれど。ミツヤが調査させている。結果は少し待ってほしい。だけど、今僕が言いたいのはそこじゃない」
「トレイルがオレの予測以上の力を手に入れてる……話はそれだけか? 違うだろ? あんたがオレと話すってリスクには見合わない」
 もちろんだと、ヤクモは地図の一点を指さす。
「夕食はここの創作料理がおすすめだ。東方風の精進料理がベースで、味はもちろんな上に、体に優しい。見かけより神経使ってるんだろう? 体ぐらい、少しは労った方が 良い」
「……あんたが冗談言うとは思わなかったよ。それとも罠か?」
「本気のオススメなんだけど」
 心なしか傷ついたような返事をしながら、ヤクモはベンチから姿を消した。
 だが、なにもないその場に、声だけを漂わせる。
「魔術師の力の増加は、世界の人格波動の揺らぎの結果だ。波動の振り幅が大きくなり、人の介入する隙間が広がり、変貌しつつある。このままでは、加速度的にトレイル師 が望む世界へと向かいつつあるって事だ。つまり――君の存在は非常に大きな希望でもある。わかるね?」
 なるほどとヒサシは内心うなずき、地図をたたんだ。オレにしばらく踏ん張れというわけだ。
 それをわざわざ言いに来るということは、ヤクモの予測している最悪の事態までに、彼らの対策が間に合わないという意味だ。
 裏を返せば、時間さえ稼げれば、彼らなりの解決策によって最悪の事態は免れるという意味だ。
 ヤクモたちがやろうとしている事は、ヒサシにとってもおそらく、悪い話ではないはずだ。
 現時点で、ヒサシと<西方協会>の目的はとても似通っている。全てとは言えなくとも、ヤクモの警告を信じても良いだろう。
 ヤクモも信じさせるために、リスクを押して姿を現したのだ。
 とはいえ、元より、ヒサシ自身の命が尽きるまで、トレイルの好きにさせるつもりはない。
 ヤクモの警告はある意味ありがたく、ある意味無意味でもあったが、自分を気遣ってくれている人間が一人でも多くいるという事実は、ほんのわずかだとしてもヒサシの気 持ちを明るくさせてくれるものだった。
 買い物を終えたトレイルが、ヒサシの目の前で足を止めた。
「ヤクモが来てたんですね。珍しい」
「毎日毎日、でかい鳥の世話してるのもイヤになったんだろ。たまには良いんじゃねぇの?」
 差し出されたサンドイッチを受け取り、頬張りながら、ヒサシは隣に――ついさっきまで、ヤクモの映像の座っていたベンチへ腰掛けたトレイルに――振り返る。
「あんたは、オレの世話がイヤになったりしねぇのか?」
 軽い期待を込めて尋ねるが、トレイルはあまり気にしていないようだった。
「あなたより面倒な人の世話もしてましたから」
「レザミオンとか?」
「あなたの方が、従兄弟さんより面倒ですよ。間違いなく。別の人です」
「あ……そう……」
 トレイルもヒサシにならい、自分用に買ったのであろうホットドックにかぶりつく。
 ヒサシは空を仰いだ。真っ青な空が、木々とビルの向こうにどこまでも広がっている。
「いい天気だな」
「そうですね」
 気のない返事だが、ヒサシは続けようと試みる。
 通常、トレイルとの会話は、続ければ続けるほど、ヒサシの気持ちを逆撫でしてゆく類のものだ。
 トレイルの選ぶ言葉が、皮肉と悪意に満ちているからこそ――そして、ヒサシの心の中にも、彼の言動に同意したくなるものがあるからこそ、ヒサシは自分の心を覗き込む ようであり、ままならない現実への悪意を突きつけられる事でダメージを受けるのだ。
 それがトレイルの目的であるからこそ、彼との会話を続けるのは得策ではない。それがわかっているから、会話の終着の度に、ヒサシは自分の安堵と緊張の正体に気づいて 驚くこともしばしばなのだ。
 だが、イヤだイヤだと避け続けているわけにもいかない事も、よくわかっている。
 会話を続けたくないのも本音だが、ヤクモの話を聞いた以上、トレイルが自分自身の力の増加に気づいているのか、全く気にしていないのか、探りを入れたいのも本音なの だ。
 ヒサシは――とりあえず、思ったままのことを口にする。
「こんな天気を見ちゃうと、この世界がヒビだらけだなんて、信じたくないな」
「現実ですよ、ヒサシ様。信じる信じないじゃなく」
「『様』は付けるなって言ってるだろ。オレはそんなに偉かねぇよ」
「そう思ってるのは、あなただけです」
「そう言ってるのは、お前だけなんだけどな」
 トレイルは悪びれず、鼻で笑った。
「わからない奴には、一生わからない。ただそれだけですよ」
「オレも一生わからないってことか」
「そうなるかもしれませんね」
 ヒサシは一つ目のサンドイッチをさっさと食べ終え、二つ目に取りかかる。
「でもさ……せめてお前の事は、わかってやりたいよな」
「え?」
「オレ自身の事なんか、どうがんばってもわかりようがないけどさ。でも、オレにくっついて来て、したくもない苦労ばっかりしているお前のことぐらいは……せめて半分ぐ らいは、わかってやりたいなって事。わかれば、お前がやろうとしていることもはっきりわかるだろうし、別の方法を考えてやることもできるだろうしさ」
 探りをいれる目的があったのは本当だ。だが、今語った言葉も、本音の一つだ。
 敵対せずに、彼の怒りと力を別のものへとそらすこと。
 もしそれができるなら、ヒサシは彼との旅を続けずにすむのだ。
 トレイルが目を白黒させるのがわかった。予想外の言葉だっただろうか。食べかけのホットドックを眺めたまま、動きを止める。
「……いったい、ヤクモに何を吹き込まれたんですか? 気持ち悪い」
「別に。強いて言うなら、オレってお前の事、あんまり知らねぇのかもって、思い始めたぐらいかな」
 悪意があることはわかっている。巨大な力が宿っていることもわかっている。
 でも、その最初は?
 彼がなぜこんなにも自分に執着するのかもわかっている。世界を破壊する為。でもその先は? そして、その前は?
 ヤクモの話は、時間が無くなりつつあると告げている。
 自分が最後の砦となりかねない事態へと進みつつある事もわかっている。
 そして、自分がどれほどまでに耐えられるのか、確とした答えを出すこともできない。
 だから急がねばならない。
 トレイルが自分の計画を実行する前に――どんな形になるかはともかく、ヒサシと親しい人々に危害を加え始める前に――別の方法もあるのだと提示してやれないかと。
 その為には理解だ。他人を納得させるには、その他人の本当に望むものを、せめて納得できる品を探し出してやらなければならない。
 そして、それを知る方法は、限られてくる。少なくとも、人の身である自分たちには。
 確かにトレイルもヒサシも、他人にはできない事をしてのける魔術師と能力者である。
 ヒサシが本気になれば、相手の肉体や精神を破壊してでも、相手の思考を読みとることだって出来るだろう。
 トレイルだって、確かな思考は無理だとしても、大方の判断が出来る程度に読みとることが出来るのはわかっている。
 だが、どんなに高い能力と技術を持っていようと、これはいうなれば達人と達人の、腹のさぐり合いだ。下手にそれらの力を使えば、互いの命に関わる可能性もある。
 最後の最後まで、その決定的な手段は残しておきたい。
 となると、やれる事など、そう多くはない。
「もう少し、お前と仲良くしてもいいんじゃないかと思い始めた。それだけだな」
 トレイルは顔をしかめ、もう一度、気持ち悪いとぼやいた。


 二枚目のサンドイッチの後、三枚目をうわの空で食べ終える。既にホットドックを完食して待っていたトレイルが、ベンチから立ち上がった。
「さあ、ヒサシ。今日はどちらへ行きましょうか」
 ヒサシは目の前をゆっくり、力無く歩いていく年輩の女性浮浪者に、地図を丁寧に畳んで差し出した。
「今夜の飯代の足しにしなよ」
 浮浪者はどんよりした目と動きでそれを受け取ると、もごもごと何事かつぶやいた。
 ヒサシはそっと、自身の能力の手を伸ばす。彼女の胸中にあるモヤモヤとしたものに手を伸ばす。
「ああ……確かにコーヒー一杯にもなりゃしないかもしれねぇけど、無いよりましだろ?」
 浮浪者は一瞬、強く息を飲み――そして、ヒサシが何度も見てきたように、足早に彼の前から立ち去っていった。
「脅かすなんて、あなたらしくないですね」
「たまに使わなきゃ、忘れちまうからな。地図は詫び代だ」
 言いながらそれまで見ていた地図を脳裏に浮かべると、指先を宙に向けた。
「あっちの方にさ、うまい店あるらしいぜ。ヤクモのオススメの。夕食はそこにするとして、あっちの通りでも覗いてこようぜ」
「あっちって……それにヤクモのオススメって……」
 さすがに呆れたのか、苛立ちながら杖を自身の手のひらにパシンと振りおろす。抗議とも威嚇とも取れるその動きに、ヒサシは慌てて付け加えた。
「大丈夫。お前らと違って、ヤクモは不意打ちも罠もかけないから」
「彼とミツヤがやらなくても、アキオはやるでしょうが」
「そりゃそうだけど、やらないと思うぜ? あいつは表に出さないだけで、いろいろと忙しい奴だから、割に合わないことはしない。そのつもりがあっても、もっと良いタイ ミングで仕掛けてくるだろう」
「確かに」
 じゃあ決まりだなと、ヒサシは背伸びをした。
 さて、あらためてこの魔術師と対峙するべく、精進料理でもなんでも食ってやろう。いろいろと考えなければならない事は多いが、その前に自分自身を労らなければ。
 とはいえ、たった今、軽く食事をしたばかりだというのにもう夕食の計画を立てている自分に、おかしさがこみ上げてくる。
 もし、ヤクモたちの解決策とやらが、トレイルにとってヒサシ以上に役立つことならば、今、この瞬間にも殺されたって仕方のない身だ。
 なのに、数時間後の飯の心配をするなんて、どこまでも人間は動物でしかないのだなぁと――世界を変えられる男は、苦笑する。
 もし世界を変えなきゃいけない事態になっても、三度の飯は残しておこう。みんな、食事の度に右往左往するのは、おかしいけど悪い事じゃない。
 想像すると笑みが漏れる。
 四六時中、ヒサシの思考の揺らぎをモニターしている魔術師にも、それが伝わったのだろうか。
 トレイルは何度かいぶかしげに首を捻り――最後には諦めたのだろう。
 ほんの少しだけ、笑ったような気がした。


<了>



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