ある日のThanks
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 その、大通りを見渡せる三階の喫茶店は、待ち合わせ前によく利用していた。
 佐々木柚実は抱えていた書類ケースの蓋を閉じ、腕時計に視線を落とす。約束の時刻まで十五分ほど余ってしまった。窓の外から待ち合わせに指定したバス停のベンチを確認、まだそれらしき人の姿は無い。バス停とはいうが、路線上の都合で設置されたとおぼしきその場所は、いつだって待ち人の姿は無い。そう、そのベンチに腰掛けている人間はいつだって彼女が連絡を取った人間ぐらいだ。
 冬の、その昼の日差しは澄んでいて眩しい。柚実は薄い緑色に染まったサングラスをかけ、痛みそうな瞳を隠した。
 平和だった。少なくとも表面上は。

 落ち着いてはいるが静かにざわめく街の光景を眺めていると、彼女はいつだって不安に襲われる。
 十六の頃に体験した戦いの全てがどこに行ってしまったものなのだろうかと。
 いや、この光景はどこから出てきたのだろうと――自分はどこからここに迷い込んでしまったのだろうと、胸をかきむしるような焦燥感に奥歯を噛みしめる。
 第二次〈カタストロフィ〉の時にさまよった死臭と瓦礫に満ちた世界はたった十年のうちに消えうせ、傷一つ無い街並みと排気ガスに満ちた都市に逆戻りしている。
 十年たったのか、十年戻ったのか。それすら柚実の中では曖昧だ。そして、今や自分の性別すらも曖昧になってしまった。
 そんな時は決まって、十年前のあの日、もしかしたら自分は死んでしまっていたんじゃないかと考える。これは全て自分か、もしくは誰かの夢みたものでしかなく、現実の自分は〈フリーク〉によって噛み砕かれ、グチャグチャにすりつぶされている時分ではないかと思う。

 だけど、と何かが囁く。

 何年もたったというのに、未だに手に残る感触を思い出す。
 微笑んでくれた子供の柔らかい手、涙を零す名も知らぬ女性の温かい手、夜半の警備に冷え切った青年の手、水を分けてくれた同世代の子のガサガサの手、苦痛を押しても戦い続けた強い人の手、そして――己の血に濡れた優しいあの人の、大きくて熱い手のひら。
 今、自分がここに居るのは、あの人たちの手と感謝の言葉のおかげだ。本音もあろう、同情もあろう、社交辞令もあろう――でも自分は、その行動と言葉だけで、『今』に進む事ができた。
 あれは夢か。いや、現実だ。現実だった。そしてこれからも現実だ。忘れそうなこの平和の輝きに埋もれた、ささやかな記憶の光だ。
 その光が消える時など決してない。なぜならそれが、柚実の見ているこの世界を支えているからだ。夢であろうと現実であろうと、今の柚実の住む世界はここにしかないのだから。


 柚実は再び時計に目を落とし、続けて窓の外を注視する。
 バス停のベンチには、いつの間にか待ち人が腰を降ろしていた。
 会計を済ませて喫茶店を出ながら、柚実は知らぬ間に表情を引き締める。表面上は冷静を心がけているが、少しばかり、相手の黄緑と黄色の蛍光色に彩られた派手なコートに腹を立てていた。
 本来ならば互いに敵対している組織へ所属しているのだ。今回はとある人物の警護として、極秘に手を結んでいる状況なのであり、大っぴらに柚実と一緒に行動している姿を見せるわけにはいかないはずである。それをこんな風に目立とうとするなんて、一体何を考えているのか。損はすれども益はないはずだ。ベンチに腰掛けている長身の彼が満足するだけで。
 相手は柚実の姿に気づいた途端、跳ね上がるように立ち上がり、そそくさと柚実の横に並んだ。
「遅いじゃないですか尚起。時間まちがえたかと思って焦っちゃいましたよ〜」
 待ち人・酒上純の甘えるような声にますます怒りが湧き上がる。上司の命令でなければ、そして彼の能力が今回の任務に役立つ事を説明されていなければ、顔をあわせるのも嫌だ。
「そんなに遅れてもいないだろ。それはともかく、もっと離れて歩け」
「いいじゃないですか、恋人同士なんだからくっついて歩くのは当然でしょう?」
「誰がお前と恋人だって?」
「私と、貴女が」
 首筋に腕をまわして抱きついてきた酒上に、柚実は――三条尚起は天を仰ぐ。大男の行動に呆れながらも、彼女は高い空を眺めて息をつく。
 普段なら嫌悪感に振り払う腕だが、この時の柚実はそれをしたくなかった。なぜかと問われれば彼の腕をほどくのも面倒だったとしかいえない。
「あれ? どうしました? いつもみたいに『触るなッ!』とか『やめろッ!』とか、何かリアクションは無いんですか? 貴女の怒ってる姿も素敵なのに」
 いつもならこの酒上のとぼけた声にも苛立ちを覚えるのだが、柚実は何もない青空を睨んで答えた。
 今、この空の上から自分たちを見たら、どんなに滑稽に映るのだろう。
 派手好きな上に女装好きでもある能力者と、男装している長身の女能力者。自分の欲望にだけ忠実な男と、忘れられない男性の名を騙る女。はみ出し者を守る為に戦う男と、規律を守る為に特権を持って争う女。
 一体、どうしてこんな事になってしまったのだろう。その時々に最良と思われる選択をしてきただけなのに、いろいろな事がごちゃごちゃになってしまって、どうすれば落ち着いた生活に戻る事ができるのかわからなくなってしまった。
 酒上の事情は知らない。知りたくも無い。だが柚実は十年前から、気持ちも状況も何も整理できないままここまで来てしまったのだ。
「別に。こんな日には時々……思い出すんだ。それだけだ」
 何をとは言わない。言ってしまったら、大事な記憶に傷がついてしまうような恐れがあるから。
 相手だってまだ大切なものを何も晒していない。経歴的にも感情的にも弱みになりそうな情報を、こちらから先に差し出すわけにもいかない。
 何よりもこの、常々柚実を悩ませては気持ちをかき乱して去っていくこの軽々しい男にだけは、絶対に言えないと身構える。
 どんなに誰かに伝えたくとも、誰にもわかりはしないのだ。相手がどんなに優しくとも、自分がどんなに信頼していようとも、一人で抱えておかなければならないものは存在するのだ。
 酒上は柚実の首から腕をほどいた。柚実の中にある何かの温度に怯えたように、そっと。
 しばらく、二人は黙って歩いた。
 涼しさが寒さに変わりつつあるこの季節、道を行く人々の表情も、心なしか言葉少なに何かを想っている哲学者の相を持っている。その沈黙の後ろを、うなるビル風と走る落ち葉がカサカサと足音を立てて通り過ぎた。タイルの敷き詰められた通路を暖める日差しだけが、ふわふわとしたなごみの場を提供していた。
 そして酒上は歩きながらそっと囁いた。あくまで柔らかく、子供に諭すかのように。
「なんの事かわかりかねますけど、思い出してもらえるという事は、過去の人たちにとって大変名誉な事だと思いますよ。思い出を今を生きる力に変えているのは、貴女に係わった人達にとって最高の賛辞じゃないでしょうか」
 柚実の左肩にそっと手を乗せて、確信を持っているものだけが語れるはっきりとした口調で告げた。
「どうか、今の貴女の強さを支えている思い出をずっと大事にしてあげてください。貴女の記憶も含めて、私は貴女が大好きなんですから」
 柚実がこの男のどこが嫌いかというと、こんな風に知ったような口をきくところなのだ。柚実の欲しいありきたりな答えを、なんの臆面もなく広げてみせるからなのだ。
 そして、柚実がさらけ出せない感情を、怒りという形で紐解く機会をくれる。
 何がわかるというのか。大好きだなんて簡単に口にできるほど、この男はいつだって本気で柚実の事を考えていやしないのに。まるで柚実の行動の全てを見透かしているかのようで、気分が悪い。
「お前の言い方は、いちいち癪に障る」
 なのに、なぜ自分はほっとしているのか。いつだって酒上と話していると、この矛盾した感情が柚実を惑わせる。
「だけど心配してくれたことに対する礼だけは言っておこう。ありがとう」
 あの時には言えなかった言葉を、あの時にも言った言葉を、この先ずっと抱いていく言葉を唇に乗せる。
「そうだな。大事にするよ、ずっと」
 酒上に感謝する機会の少ない柚実の言葉に驚いたのだろうか。彼はさっと頬を赤らめると、そんな自分を打ち消すように胸を張って笑った。
「できれば私の事も毎日思い出してくれないかな〜なんて、こっそり考えちゃうんですけど」
 苦笑交じりの酒上に、柚実はさりげなく肩を抱いていた彼の腕をやんわりと摘み上げる。
「まあまあ、尚起。そう慌てて離れることもないじゃないですか。せっかくですからもう少し恋人気分で行きましょうよ。依頼人と合流するまでに間もありますし、さっそく打ち合わせも兼ねてそこのホテルで休憩とか。玄関先から鏡も電球も一杯で、どことなくゴージャスでしょ?」
 柚実は酒上の指差している、どう見てもカップル専用のホテルから目をそらした。
「お前はどうして毎回その結論になるんだ?」
「今更何を言ってるんですか。貴女が好きだからに決まってるでしょう?」
 照れ隠しのせいか早口になる酒上の腕を急いで振り解き、柚実は足を速めた。
「いい加減、そのくだらない事しか言えない口をどうにかした方がいいぞ」
「なんで?」
「お前をますます嫌いになりそうだからだ」
「そ、それはつまり、私の事をそれなりには好きだと言う事ですね? ホテルもOKだと」
「……だからどうしてお前は、いつもそうなるんだ……」
「だから貴女が好きだからと――ちょっと、待ってくださいよ! そんなに、逃げるみたいに早く歩かなくってもいいじゃないですか!」
 思い出す事は辛いことも多い。だが、その中には宝石のような喜びの記憶もある。
 そんな記憶への感謝を抱きながら生きる事も、そう悪い事じゃない。忘れなければ、それはいつだって自分を救ってくれる優しさを持っている。これが現実なんだと確認してくれる。この世界で生きろと囁いてくれる。
 そして、それを認めてくれる人が、ここにいる。
 彼女は彼に背中を向けたまま、声に出さずに感謝の言葉を紡ぐ。
 もう一度天を仰ぐと、高かった空が触れそうなほど近くに見えた。


<了>



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