<September 9>
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 <September 9>《セプテンバー・ナイン》というのは、毎年冬の最中に落ちてくる隕石の事だ。大抵、十二月の大祭前後に落ちてくる。
 ただし、この隕石の出現はきわめて特殊で、夜空が数分間、完全に真っ黒になってしまうのだ。物理学者や天文学者の研究分野だからよくわからないが、空間が歪んで星の光が曲げられてしまうんだとか。<クローニング・ゲート>と名づけられたこの空間から、我々が<September 9>と呼ぶ岩が落ちてくる。
 流れ星みたいなもので、途中大気で粉々になってしまう程度の石なのだが、必ず燃え残りが地上に届くんだといわれている。誰がそんなロマンチックな事を言い出したんだか知らないが、その燃え残りの石は宝石みたいにキラキラ光っているんだそうだ。



 俺は信じないけど、それを拾うと幸せになれるんだとか。



「そろそろTVでも<September 9>の話が出てきましたね」
 俺の秘書である切子《きりこ》は紅茶を用意しながらそんな事を言い出した。毎年この時期になると、様々なメディアで<September 9>の情報が流れ出すのだ。星や月の光が完全に消えるこの現象は格好のニュースになる。
「今年は、この付近に落ちるそうですよ」
 たとえ小石である<September 9>だとしても、建物や人体に直撃すれば当然大惨事になる。マスコミ連中はそれを警告する為に落下予想地域を発表するのだが、実態は石を拾いたい「にわか占いマニア」へ情報を提供するのが関の山だ。実際、毎年<September 9>落下地域は彼らマニアに押しかけられ、騒音、暴動、公共物の破壊など大変な迷惑をこうむる事になる。もちろん、町おこしや村おこしに利用しようと積極的に宣伝する自治体も無いわけではないが、観光名所となるには今ひとつインパクトが薄いのが現状である。所詮、数日限りの祭りみたいなものなのだ。
 それがこの近所に落ちるという事は……この付近が今年の祭りの会場というわけだ。
「おいおい、大丈夫か? ここ、郊外とはいえ都市部なんだぞ? 人に当たったり奪い合いになったら大事だろ?」
 口では他人の心配をしてみるが、祭りの興奮と喚声なんぞには生来興味の無い俺には大迷惑極まりないというのが本音だ。郊外という不便を承知でこの場所に事務所を構えたのは、この付近が普段は閑静な住宅街だからなのであって、ビジネス街の喧騒や活気とは無縁だということに尽きる。夕刻の子供たちの遊び声をのぞけば概ね平和な環境である。たった数日の祭りに神経質だと笑われるかもしれないが、苦手なものは苦手なのだ、どうにかして回避したい。
「そんな事をおっしゃられても困ります。じゃあ、晃《あきら》さんが落ちてくる石にお願いしたらどうです? 『他の場所に落ちてください』って」
 切子はクスクス笑いながらティーカップを差し出す。彼女は秘書だが俺の事を名前で呼ぶ。それは切子と俺が幼馴染みで、「社長」とか「新庄くん」なんて呼び合うのがどうにも気まずいからだ。俺の命令で二人だけの時は名前で呼ばせている。切子もそんな些細な隠し事を楽しんでいるようだ。いや、切子に限らず女というのは、いつだって他人との隠し事を楽しむ生き物なのかもしれない。俺のお袋もよく親父の弱みを握っている事を匂わせては、見せ付けるようにニヤニヤしていたもんだ。
「ねぇ、晃さんはあの石、欲しいと思いません? 業績アップとかの為に」
「いらん。あんな物で上がる業績なんざ、どうせ気休めだろ? 石を探しに行くぐらいなら、金になるデザイナーの一人でも探してくるほうがよっぽどマシだ」
 親父から新しいブランドシリーズのプロジェクトと子会社を預けられてもうすぐ二年。国内ブランドとしては大手である我が企業〈シノヤ〉も、流行を取りいれつつも個性を出すべく四苦八苦しているのだ。思った以上に成果が上がらない事に、俺も親父もピリピリしている。
 切子はそれを知っているから、石の話なんて持ち出してきたのだろうか。それとも<September 9>の研究をしていたという彼女の父親の事でも思い出したのだろうか?
「気休めで良いじゃありませんか。時には気晴らしも大事ですよ?」
 俺は用意されたカップを手にしてみる。程よく温かい。
 そういえば切子は午後になると必ず紅茶をいれて、世間話や俺の忘れがちな季節行事の話をしてくれる。今日だって、切子が言ってくれなければ<September 9>の事なんて忘れていた。
 その忘れていたという事実そのものに軽くショックを覚え、俺はどおりで寒いわけだとぼやきながらカップに口をつける。切子は呆れてるのか、よりいっそう笑みを深めながら茶菓子を差し出してきた。俺がこの最初の一口の後、必ず茶菓子をつまむのを知っているのだ。行動を先読みされているのは癪に障るが、液体だけが胃袋に納まっているという感覚が嫌なのだから仕方が無い。どうしても茶菓子を放り込まずにはいられない俺だったりする。第一、切子がわざわざ勤務外の時間を使ってまで俺の為に用意してくれた菓子だ。それを簡単に無視できるほど、自分が礼儀知らずの人間だとは思いたくない。『親しき仲にも礼儀あり』という一言は、落ち着きの無い俺が常に頭に置いておく言葉の一つなのだ。
 俺が茶菓子として出された小さなクッキーを二つ三つまとめて口に放り込むと、切子は「子供みたい」と笑った。
 切子は、幼馴染の俺がいうのも変な気分だが、なかなかの美人だ。険が無いというのか、人好きのする印象というのか、要するに得する人相の持ち主である。何がそんなに楽しいのか、仕事中はおろかプライベートの時間でさえ、いつでもニコニコしている。
 だがその雰囲気がどこかぼんやりした顔形を作っているのか、どうしても昼行灯のような印象が強いらしい。おかげで社内では『顔で秘書をやってる』なんぞ陰口を叩かれているようだが、なかなかどうして、これが俺の秘書にはもったいないぐらい有能だったりする。有能過ぎて俺の作業が間に合わず、彼女の勤務時間が余っているぐらいだ。そんな余裕があるからこそ、茶をいれたりビジネスに繋がりそうな世間話を仕入れて来れるのかもしれない。
 俺もそんな余裕が欲しいのだが、家系的に事務処理能力は高くないらしい。非常に残念だが、親父譲りのアバウトな判断と何にでも首を突っ込む悪癖にも足を引っ張られ、いつだってギリギリのスケジュールをこなしていくのに精一杯なのだ。
 念のために言っておくが、これは切子の怠慢のせいじゃない。同業者の噂話や切子からの情報で、面白い企画や面白いデザイナーがいると聞きつけると、居てもたっても居られなく俺が悪い。会いに行く為に無理にスケジュールを変更させてしまう俺が悪いのだ。『そりゃもしかしてワーカホリックじゃないか』と指摘された事もあるが、仕事の為にやってることじゃない。もちろん業績に繋がるなら一番良いんだろうが、世の中そうそう上手くはいかないもんだ。どう表現すればいいのかわからないのだが、今じゃこれは趣味なんだと割り切っている。その趣味の時間の埋め合わせを、たった今、机に向かって必死になってこなしているだけなのだ。自業自得とはこの事だろう。
 よく考えれば子供の頃から俺は、夏休み最終日に溜め込んだ宿題を必死になって攻略していたタイプなのだ。大人になったからといって、面倒な仕事を後回しにしがちな性分がおいそれと治るわけが無い。そして、昔から隣りに座ってのほほんと手伝っていた幼馴染が、何を隠そうこの切子だ。もちろん、コイツは宿題なんざ夏休みの第一週目に終わらせてある。どんな事柄であれ、自分にとって面倒そうな事はさっさと片付けておく――切子というのはそういう奴だ。
 そんな余裕たっぷりの切子が厳選して買ってくる紅茶はありがたいが、どこかで「こんな茶飲み時間があるなら仕事の続きを」と思っている課題だらけの俺がいる。
 彼女はそれを知ってか知らずか
「ねぇ、晃さん。<September 9>って、どうして<September 9>なんでしょうね?」
「……何を言いだす?」
「だっておかしいじゃありません? 十二月なのに<September 9>《九月九日》」
「旧暦なんじゃないのか? あれって、冬の大祭と同じぐらい起源が古いって聞いたぞ?」
 世界中に広がる神話や民話には、「隕石落下型」と呼ばれる系統があるんだそうだ。「神様が大きな岩を落として、一度世界を粉々にしてからもう一度世界を作りなおした」という話だ。<September 9>で真っ暗になる空に恐怖を観じた古代人が、皆一様に神の怒りを感じたのかもしれない。
「違いますよ。旧暦なら十月あたりのはずですもん」
 うっとりと、切子はティーカップを手にして微笑む。
「九月――過ぎ去りつつある夏を想い、実りに感謝し、時には無くしてしまった何かに不意に気づいてしまう季節……」
「……お前、そんな言葉口にしていて、恥ずかしくないのか?」
「? どうして恥ずかしいんですか?」
 俺は切子の、こんな夢見るところが大嫌いだ。
 そんな事を考えられないほど余裕の無い自分が、なんだか惨めに思えてくるからだ。






 俺がはじめて本物の<September 9>を――<クローニング・ゲート>を見たのは、七歳だか八歳だか、その頃だ。
 当時小学生だった俺のクラスでは、真っ暗になる<クローニング・ゲート>の間に肝試しをする企画が持ちあがっていた。<クローニング・ゲート>の発生時間は三十分から一時間。その間に、墓場の奥に置かれた目印の布を取ってくるという、実に伝統的な肝試しである。ただし、十二月の寒空を考慮してか、誰もお化け役をやらない肝試し、純粋に暗闇を進むだけの肝試し。小学生になったばかりの俺が、ちょっとした冒険心を起こすのに適度な怖さだった。
 その日はちょうど冬の大祭パーティーで、親父もお袋も家を空けていた。そしてその頃、まだ改築前だった俺の家は木造の旧家屋、それもお屋敷クラスのでかい家で、当時の俺みたいな小さな子供にとってはどこからでも出入りできるような家だった。問題は家中を歩きまわるメイド――というより、お手伝いさんというか女中というか家政婦というか、まあ、そういう類の人達だ――彼女達の監視の目をどう潜るかという点だけだった。
 考えあぐねた俺は、今思うと随分大胆な作戦をとった。女中達の休憩所を突っ切れば、勝手口から外へ行ける、幸い家はパーティー会場の増援に人手が少なくなっているし、隙を見れば簡単に出ていけるはず――そう思ったのだ。よく考えればそんな状況になるのを待つなんて、他力本願で計画性のない、計画とも呼べない計画だ。実に子供らしくて思い出すたび赤面してしまう。
 俺はなにくわぬ顔で屋敷を歩き回り、休憩所の様子をうかがっていた。俺の部屋の隣りにある女中部屋の様子も真剣に探った。やがて、一人減り二人減り……俺は部屋に残っている人達と出ていった人達の顔を記憶の許す限り照らし合わせ、誰もいなくなったと確信した。少なくとも、名簿上では誰もいなくなっているはずだったのだ。
 すっかり安心して休憩所に足を踏み入れた俺の足は、そこで一度止まることになった。
 休憩所にはまだ一人残っていたのだ。
 それは俺と同じ年頃の女の子だった。初めて見た女の子。通ってくる女中の一人が連れてきた子供だろうと刹那の間に脳みそが囁いていた。女中達がこっそり、育児所に預けられなかった子供をつれてくる事がある事ぐらい、世間知らずの俺でも知っていたのだ。
 相手は熱心に本を読んでいて、まだ俺の存在に気付いていないようだった。
 一瞬迷った俺は――なんで子供は自分の都合の良いように解釈するのだろう?――全速力で部屋を横切った。急いで通れば見られないと思ったのだ。
 すれ違う時、顔をあげた女の子と目が合った。
 可愛い子だった。丁寧にカールされた長い髪は、こんな所にいるのが似つかわしくないほど高貴な存在に見えて、俺はコソコソと外へ出かける自分を恥じた。
 彼女の姿が目に入ったのはその一瞬だけで、俺は弾丸になった気分で勝手口に走った。今にも背後から彼女の悲鳴やなんらかの騒ぎがおこりそうで、俺は犯罪者になった気分のまま文字通り転げそうな勢いで走った。
 だがなぜか予想されていた事態は起こらず、屋敷はいつまで待っても静かなまま。俺はあっさり脱出に成功した事に拍子抜けしていた。あの子が俺の事を告げ口するかもしれないという懸念はあったが、それも家を出て仲間と合流するまでの恐れでしかなかった。みんな家を抜け出してきた興奮と〈クローニング・ゲート〉を目にできる楽しみに浮かれていて、俺もいつしかその熱気に当てられていたのだ。口々に肝試しに対する虚勢と豊富を語る仲間達を眺めているうちに、あの女中部屋の見知らぬ女の子の事など――自分が居なくなる事で何が起こるかなど、綺麗さっぱり忘れてしまっていた。
 俺達は軽口を叩きあいながら、そして笑顔で、墓場の入り口で<クローニング・ゲート>が起こるのを待った。
 星空の一角に、ポコンと真っ黒な染みができて、それが水面を濁らすように暗闇を広げて行くのを息を呑んでみていた。星が消えて、見渡す限り真っ黒な空に変わって行く、そんな俺たちの世界の神秘を眺めていた。
 でもそれは、子供の俺達が期待していたような空なんかじゃなかった。
 俺達の住む街の明かりは、そんな不思議な現象の下でもずうずうしく光り続けていたのだ。黒いスクリーンになった空にはぼんやりとした白い亡霊のような、オーロラ状の光が照り返していた。
 そこには、俺達の見ていたようなスリルを演出する空間など広がってはいなかった。
 自然の脅威なんて、もう俺達の側には転がっていなかったのだ。そこにあったのは惨めに広がった灰色の空気、それだけだった。






 <September 9>って、どうして九月九日なんだ?
 その時俺は、外回りのついでにと一人の昼食をすませていた。その時食べた三年ぶりのリゾットのせいだとは思わないが、なんの気まぐれか、その足で側にあった本屋の扉をくぐる事を決意していた。自分でもどうしてそんな事を思い立ったのかよくわからない。外回りの時には一緒にいた切子には、別件を処理するよう頼んだ事だし、久しぶりに仕事も気にせず一人になれたという開放感が気持ちを動かしたのかもしれない。
 <September 9>って、どうして九月九日なんだ?
 切子があんな事をいうから気になってしまったのだろう。
 天文学関係の書籍を探す。こんな姿、切子にだけは見せられない。あいつは俺が仕事以外の無駄な事をするのを観ているのが、三度の飯より好きなのだ。ティータイムの時のニンマリとした得意げな表情が良い証拠だ。あとで仕事が詰まってしまい、てんてこまいになるのは二人一緒だというのに……まったく、妙なところでひねくれてる。
 時期が時期なので、大抵の科学雑誌には<September 9>の話題が載っていた。試しに中を覗いてみると、大きなフォントで数式が書いてあり、それを確認しただけで気が遠くなった。
『――つまり、現在最有力とされる膜宇宙論的でも、この観点から突き詰めて行けば明らかな矛盾が生じてしまうのである。これを打破するべく――』
 俺は雑誌を閉じた。何のページを開いたのかわからないが、一行読んだだけでわかる事もある。
 つまり、ここに書かれている言葉は俺の理解の範疇を超えているという事だ。
 もっとわかりやすい物――子供向けの科学雑誌や天文書籍でいい、そんな物を探してみる。
『<September 9>とはなんでしょう?』
 これだろう。小学生向けの科学雑誌というのが気になるが、俺にもわかるように説明しているのはこの雑誌ぐらいしかない。
『<September 9>という名前をつけたのは、十一世紀の医者ギルバート・W・ローダーだと言われています。この時代の医者は星の動きを観察して、それに沿った方法で病気を治していたのです。不思議な事ではありません』
『ですが、なぜ<September 9>と名づけられたのかは、よくわかっていません。大昔の暦は現在のものと違うので、今の十二月が大昔の九月だったという説や、この現象自体が昔は九月におこっていたのだという説もあります』
『まめ知識――今は年月をセプテンバー・ナインと読みますが、昔はセプテンバー・ナインスと読んでいました。ですが、セプテンバー・ナインの読み方が定着してしまい、本来の暦の読み方も変わってしまったのです』
 なるほど。
 今の子供達が俺達の子供時代よりは勉強しているという事もわかった。聞いた事のない話ばかりが並んでる。もっとも、俺は勉強より遊び優先の子供だったから、忘れているだけでちゃんと授業で教わった可能性もあるのだが。
 なら切子は知っているんだろうか? あいつは勉強も良くできたから。それとも、研究者だった父親から教えられたりしたんだろうか?
『空が真っ暗になる現象を<クローニング・ゲート>と名づけたのもギルバートでした。彼はこんな風に言っています』
『「真っ暗な空の向こうからやってくる小石が、その暗闇の向こう側から投げられた物だとしたら、こんなに嬉しく切ないものはない。私達以外の者が向こう側にいて、私達にもう一人の私がいる事を教えてくれているのだ。だが我々はそれに応える術を未だ持たないでいる」』
『<クローニング・ゲート>の仕組みは今でもよくわかっていません。大気圏から八千メートル上空付近で光を吸いこんでいるようですが、どのような原理で吸い込んでいるのか、吸い込まれた光がどこへ行ってしまったのか、わからない事が沢山あります。今わかっているかぎり<クローニング・ゲート>は、真っ黒な板がこの星を包み込んでいるような現象だということだけです』
 ご丁寧に炭の塊にしかみえない衛星写真まで載せてある。こんな宇宙からの画像まで撮れるってご時世だというのに、たった数十分の現象がわからないという事らしい。自然現象はおろか、なぜ九月九日なのか、人が名付けた理由すら手に入らない現象だと。
 現代に生きる俺たちは、こんな得体の知れない事柄に一喜一憂しているのだ。
 ふと、俺は先に開いた科学雑誌に書かれていた、全く理解できない字面を思い出した。あの雑誌を読む人たちは、<September 9>だ<クローニング・ゲート>だと騒ぐ世間をどんな目で見ているのだろう。
 まだいろいろ記事が残っているようだが、これ以上時間がかかると切子が勘付くかもしれない。俺はその雑誌と、他に仕事で使えそうな雑誌をまとめて買った。
 車に戻ってから気がついたのだが、買った雑誌を切子に見つかると何を言われてからかわれるかわからない。ほんの数秒だが迷った挙句、地図と車検証以外ほとんど何も入っていないサイドシートのボックスに突っ込んでおく。
 なんで<September 9>に対するあいつの気まぐれに、雇い主である俺がビクビクするのかわからないが……妙な事に悪い気はしないのが不思議といえば不思議な事だ。俺には自分の子供はおろか小さな子供をもっている知り合いは一人もいないが、娘や息子にプレゼントを用意する時はこんな気分になるのかもしれないとも思う。もちろん、切子にプレゼントするつもりでも喜んでもらいたいわけではないが。
 だが、この大事なブツを不用意にボックスに突っ込んでおいたのは失敗だった。考えれば一番危なそうな場所じゃないか。
 まさかあのタイミングで見つかるなんて……最悪だ。






 思ったより盛り上がらなかった肝試しを終えて帰宅した俺を待っていたのは、怒りに顔を真っ赤にさせたお袋だった。俺の姿が見当たらないと気付いた女中達が、パーティー会場のお袋を呼び出していたのだ。誘拐や迷子を心配して、警察に連絡する寸前だったらしい。
 俺は自分の部屋にあった押入れに、罰として閉じ込められた。今なら古風だと笑うところだが、その頃の家庭じゃ当たり前のお仕置きだったのだ。しかもその押し入れとやらは名ばかりの代物で、引き戸の内側にあるのは錠前つきの小さな蔵だった。俺の部屋周辺を建て増しする時、その以前から建っていたその蔵を取り囲む形で増築されたのだ。ガラクタばかり置かれているその蔵の中は冷凍庫のように冷たく、入り口付近に積まれている俺の布団は寒さのあまり鉄のように硬く強張っていた。
 お袋が俺を押入れに叩きこみ、ガチャガチャと金属の錠前がかけられてから数十秒――つまりお袋が俺の部屋の電気を消して出ていってしまうまで、俺は冷たい床を温めるのに必死だった。押入れの戸の隙間から漏れるかすかな明かりを頼りに手探りで自分の布団の山を崩し、その上に座って掛け布団を体に巻きつけた。その隙間からは明かりだけでなく、床暖房で温められた部屋の空気もかすかに吹き込んでいたのだが、圧倒的に広い蔵の中を温めるにはあまりにもささやかな熱源であり、すぐに俺は自分の体温が最も温かいものだというのに気づかされた。
 そんな隙間からの光にぼんやりとした照らされた蔵の中で、同じようにぼんやりと胸に浮かんだ不安は、この事態の原因になった肝試しよりよっぽど緊張と興奮を引き起こす類のものだった。初めての経験したこのお仕置きを――結局、真っ暗になるといわれていた<クローニング・ゲート>さえちっとも暗くも怖くもなかったのだ、家の中のお仕置きなんてと――俺はどこかで楽観視していたのだと思う。
 だがお袋が消灯すると共に姿を消し数秒もたたないうちに、俺は友人達と肝試しなんぞした事を後悔しはじめていた。
 そこにあったのは、はじめて見た真っ暗な闇だった。
 暗い小さな空間は俺の息遣いしか聞こえず、どこからどこまでが押し入れなのかは当然の事、どこからどこまでが俺自身であるのかさえわからなかった。
 俺は他の布団と積み上げられた沢山のガラクタ箱の隙間に張り付きながら、少しずつ自分の中の恐怖が膨れ上がっていくのを感じていた。俺の息遣いは次第にその恐怖のそのものの声に聞こえ始め、俺は自分自身の声にさえ怯えて涙をこぼした。
 一度泣きはじめると後は止まらなかった。果てしない闇に自分の声が吸い込まれる錯覚に、こんなところには誰も来ないとわかっている絶望感に、俺は力いっぱい声をあげて泣いた。怖いから泣いているのか、助けが欲しくて泣いているのか、どうすればいいのかわからなくて泣いているのか、この時間をやり過ごす為に泣いているのか……いろいろな事がグルグルと脳裏を駆け巡り、わけのわからなくなった俺はただひたすら、泣き喚くという行為に専念していた。
 そして突然
「大丈夫?」
 くぐもった声が聞こえたのだ。柔らかで穏やかで、この暗闇の中に消えていきそうな暖かな声が。






 切子はいつもどおり、クスクス笑いながら例の子供向け科学雑誌を、自分の膝の上に乗せた。
「シマリスは、自分の埋めたドングリの場所がわからなくなるといいますけど?」
「俺がシマリス並の脳みそしかないって?」
「あら、可愛いじゃないですか、シマリスの晃さん。私は見てみたいかも」
「……」
 俺は車を山道の端につけて停めた。切子が手にしていた地図を広げる。
 この地図をボックスから出してくれと、サイドシートの切子に頼んだのが悪かったのだ。見なれない袋を見つけた切子の、とんでもないイタズラを考え付いたときのような笑顔といったら……。
 今日は<September 9>予定日。
 まだ<クローニング・ゲート>も発生していない。冬の夜空は晴れ渡って星を煌かせている。
「まったく、近道なんてするんじゃなかった。なんで冬の大祭だってのに、こんなトコで迷子にならなきゃならねぇんだ」
 〈シノヤ〉主宰の冬の大祭パーティーなんぞに誘われて、ひょいひょい遠出したのがいけなかった。いつもなら大人しく花輪ぐらいで済ませておくのだが、隕石騒ぎで近所が騒がしかったせいもあって、今日一日ぐらい別の場所で過ごしたかったのだ。だが会場で突然、親父から明日本社の会議に出席するよう言われちゃ……社に戻るしかあるまい。本社の経営者会議なんて参加するのは久しぶりだ。最近どんな動きがあったのかチェックできるほど俺は有能な経営者じゃないし、これから無事に家にたどり着いても徹夜で議事録を頭に叩き込まなくてはと思うと気力も萎える。こんなんで俺は本当に、伝統ある〈シノヤ〉の看板を支えていけるんだろうか?
 考えれば考えるほど自分がイヤになって、俺は何十にもたたまれていた地図を、苛立ちを込めて広げる。荒っぽい手つきになったのは自覚していたが、まさかそのまま真っ二つに裂けるとは考えもしなかった。
「ああ、もうっ! 役にたたねぇ!」
「少し休みましょう。イライラしてるから、どこかで看板を見落としたのかもしれないし」
「そういうなら、お前が運転しろよ。どこ行っても同じようなカーブばっかりで、家なんかほとんどないし、遭難なんかしたら洒落にならんぞ?」
「私の免許、AT車専用なんです。だから晃さんが運転してもらわなきゃ困ります」
 なんて役に立たない免許だ。俺も見栄など張らずにAT車で来れば良かった
 俺はドアを開けて外に出た。車内のこもった空気では落ちつこうにも落ちつけない。いつもなら頼もしい落ち着いた切子の言葉も態度も、今の俺には意味もなくイライラさせる要素の一つだった。
 深夜だが森林浴としゃれこもうか。幸い、数百メートルほど先――カーブ二つ分先には、街灯と果樹園の看板が見える。そこの住所と地図を照らし合わせよう。
 振りかえってみると、切子が車内灯の下、破けた地図と格闘していた。切子にしては珍しく、モタモタしている。見ていると膝の上の雑誌が邪魔になっているのが明らかなのだが、なぜか彼女は膝からのけようとはしない。まさか俺がとり返すと思ってるわけでもあるまいし。
 俺はブラブラと果樹園に向かって歩き出した。後ろで慌てたようなドアの開閉音。
「置いていかないでくださいよ、晃さん!」
 断っておくが、俺は置いていった覚えはない。彼女が地図を見ているから、散歩に行こうとしただけだ。
 俺は足を止めて振りかえってやった。トテトテと歩いてくる切子。こんな時でもあの雑誌を抱えているなんて、変に律儀な奴だ。
 いや、それよりもなによりも。
「切子、出てくるなら車内灯切ってくれよ、バッテリーあがっちまうだろ!」
「え? なんて言ったんですか?」
 こんなところで動けなくなったら、本気で洒落にならない。
「ああもう! わかったよ、俺が切るよ!」
 何もかもうまく行かない。果樹園の地図を見る事も投げ出したくなり、俺は側にあったガードレールを一蹴りして車内に戻る。車内灯のスイッチに手を伸ばしてから気がついたが、切子の奴、俺を車に戻すためにワザと車内灯を着けっぱなしにしていたんじゃないだろうな。笑って謝罪する切子の顔からは、真意が見えないが。
 何もかも面倒になった俺は、シートを倒して横になる。切子のいうとおり、どこかで目印にするべき看板を見落としたのだろう。苛立っていても仕方が無いし、このままがむしゃらに車を走らせていても更に迷うだけだろう。まずは落ち着かないと、慣れない山道で事故をおこしかねないとも思う。
「意外でした」と、唐突に切子が言い出す。
「何が?」
「こんな物を買ってくるなんて……なんだか嬉しいです」
 切子は大事に抱えていた、例の子供向け雑誌をぱらぱらとめくった。
「……お前のせいだぞ。お前がはしゃぐから、<September 9>がなんなのか俺まで知りたくなった。それだけだ」
「わかりました?」
「わからないね。ますますわからなくなった。結局、ただの隕石なんだろ? ただ<クローニング・ゲート>が珍しくて不思議な現象だってだけで、<September 9>自体はなんでもない石ころなんだろ?」
 彼女は意味ありげに笑って見せただけで、俺の意見には何も言わない。
「覚えています? はじめて晃さんとお話した時も、<September 9>の日だったんですよ?」
「そうだったか?」
 俺はとぼけて見せたのだが、彼女は自分の記憶を確信していたようだ。それも仕方のない事かもしれないが。
 彼女にとって<September 9>は、父親との大事な思い出の日なのだ。その日に起こった事を忘れているとは思えない。
「ええ。ここで……こんな真っ暗で小さな場所に閉じ込められていると、私、あの頃みたいに小さくなったような気がします」
 ここはあの押入れより暖かですけどね。
 切子は車内暖房に曇ったガラスに向かって、そっと指を伸ばした。ガラスの表面にその細くて白い指を滑らせる。

 9/9

 すぐにかき消えてしまう曇りガラスの上にそう書きとめた彼女は、「これがセプテンバー・ナインです」と呟いた。






 押入れの暗闇の中。
 俺は壁のように立ちはだかる、積み上げられた重いガラクタ箱の向こう側から響いてきた聞きなれない声に動きを止めた。気のせいかと――それとも、俺の知らない悪霊でも出てきたのかと思って身構えたのだ。
「高篠晃さんでしょ? ここの家の人だよね?」
「……誰?」
「私、切子。今日このお屋敷に来たの。さっき会ったでしょ?」
「?」
「さっき、お勝手口から逃げたでしょ? その時会ったでしょ?」
 俺はそこでやっと、あの本を読んでいた女の子を思い出したのだ。
「……キリコちゃんは、どっから話しているの?」
「押入れ。女中部屋の」
 俺はあまり覗いた事のない女中部屋の様子を思い出そうとした。確かに女中部屋は俺の部屋の、ちょうど蔵を挟んだ反対側にあるのだ。蔵の入り口はこの押入れを除けば庭に向いた大扉しかない。部屋としては隣り部屋にあたるのだ。俺の身に何かあった時、女中達がすぐ駆けつけられるように。
 向こう側の押入れもまた、俺の押入れと同じようにこの小さな蔵に繋がっているのだろう。
「大丈夫?」
 再び声をかけてきた切子に、俺は自分がどれだけ大声で泣いていたか、そしてそれが彼女に筒抜けであったろう、そんな諸々の事を思い出して一人赤面した。その時の恐怖を思い出した俺には、同じ年頃に見えたはずの少女が、どうしてこんなに落ちついていられるのか不思議に思えた。
 自分だけではなく一人でも他人がいると、人は意外に強くなれるものなのだろう。彼女と話ができると気がついた途端、俺は自分の中で膨れ上がっていた恐怖を押さえつけることに成功した。
「怖くないの?」
「どうして怖いの?」
「……こんな真っ暗な場所、何が出てくるか、わかんないだろ?」
「出てきたのは晃さんだけだったけど?」
 クスクスと笑う声は別世界からの声にも似ていながら、俺を不思議な安堵感で一杯にした。
「どうして押入れにいるの? 怒られたの?」
「違うよ。面白そうだったから」
 随分後になってから聞いたのだが、やはり彼女は俺のせいで怒られていたのだ。
 俺がいなくなった時、女中達は彼女にも俺を見なかったかと問い詰めたのだが、彼女は見ていないと言い張ったという。俺が真剣な顔で走っていたものだから、よっぽど大事な秘密の約束があったのだろうと考えたらしい。俺が見つかって逃走経路を暴露した時、彼女のウソもばれたというわけだ。一歩間違えれば大事件に成りかねなかっただけに、お仕置きされる事になったらしい。
 でもその時の俺は彼女の声色にすっかり騙されていた。彼女の「違うよ」という声の響きには、彼女が自分から押入れに潜りこんだと信じたくなるほど遊び心たっぷりに聞こえたのだ。
「私は暗い所、好きなの。何が出てくるかわからないし」
「どういう意味?」
「今だって、晃さんが出てきたじゃない。晃さんが出てこなかったら、ウサギとかリスとか、可愛い動物が出てきたのかもしれなかったでしょ?」
「そんなバカな事、あるわけないよ」
「じゃあ、お化けや怖いモノも出て来れないと思うよ? 怖いモノが出て来れて可愛いモノが出て来れないなんて、不公平でしょ?」
 そういう理不尽な事がまかりとおりそうで怖いのが、闇の中の怖さなんじゃないだろうか?
 でも彼女の言葉には妙な説得力があって、その時の俺は彼女の理論にしがみついた。文字通り、彼女の声を伝えてくれるガラクタの山に張りついて。
「そうか……じゃあ、怖くなんかないんだね?」
「うん。私のお父さんが言ってた。真っ暗な世界の向こう側には、いつも私達の想像もつかないものがあるんだって。それは私達が怖いと思えば怖いものになって、綺麗だと思えばいつだって綺麗なものになるんだって。それは私達がどう想像するのかで決まっちゃうの。だから私、いつも綺麗なんだって思う事にしてるんだ。どうせ何か出てくるなら、綺麗な物の方がいいし」
「嘘だ。そんなの、本当かどうかわかんないだろ?」
「うん、わからない。だから私のお父さんはそれを確かめようとしてるんだ」
「確かめる?」
「うん。<クローニング・ゲート>の向こう側に行こうとしてるの。幸せの石が降ってくる向こう側の世界が、どんなに綺麗なのか、みんなで確かめに行くの」
 俺はついさっき見てきたばかりの<クローニング・ゲート>を思い出してげんなりとした。想像していたよりもずっと静かでつまらなくて幻滅させられた灰色の空間。その向こうに、綺麗なものはおろか怖いものすら存在するとは思えなかった。
「俺、今みてきたけど……<クローニング・ゲート>なんて全然怖くねぇよ? 全然暗くならなかったし、怖くもなかった。あんなもんから出てきた石で幸せになるなんてウソだよ。<September 9>だって俺、全然落ちてくるところ見えなかったもん」
「本当? 本当に怖くなかった?」
「うん」
 あんな空より、今いるこの押入れの闇の方がよっぽど怖い。
 街の明かりというのは、それだけで誰かの存在を感じさせてくれる物なのだ。
「なら晃さんは、まだ本物の<クローニング・ゲート>を見てないんだよ」
「本物? 偽物とか本物ってあるの?」
「私の見たのは本物。だからこんな押入れの中なんて全然怖くない。私は<September 9>が落ちてくるところも見れたし、その時思ったもん。アレを拾えれば幸せになれるって、本当かもしれないって」
「ふーん……」
 見てきたばかりで幻滅していた俺は適当に相槌をうつ。そんな俺に向かって、壁の向こうで、切子は囁いた。
「でもお父さんは言ってた。アレはわかりやすいように光っているやさしい<September 9>なんだって。本当の<September 9>は、毎日落ちてくる。私達が気づかないだけなんだって」






 疲れが溜まっていたのだろうか。
 いつ会話が途切れたのかもわからないうちに、俺は眠り込んでいたらしい。パーティーでいれたアルコールも手伝ったに違いない。ノンアルコール飲料だったはずだが、あの手の飲み物は「ノン」とついているクセに微量のアルコールは入っていると聞いた覚えがある。検閲に引っかかるほどの酔いはなかったはずだが、それでも眠気に作用したのかもしれない。
 まぁ、どうでもいい事だ。問題は何時間眠ってしまったのかという事と今が何時なのかという事だろう。現状を把握できていないまま会議に出席して、盛大に冷や汗をかくのは誰でもない、俺なのだ
「……何時だ、切子?」
 傍らにいるはずの切子に声をかけたが返事がない。サイドシートにはあの子供向け科学雑誌だけが残されている。俺の眠気は一気に吹き飛んだ。
「切子!」
 ガラスにはぼんやりと、切子が書いた「9/9」という文字が浮かび上がっている。少なくともあの時まで、彼女は俺の側にいたのだ。
 慌てて車を降りた俺の目に、ぼんやりと動くものが見えた。懐中電灯の明かり。車内に常備してあるライトだ。
 切子のやつ、なぜか車道脇の小さな小道を降りて、崖下の少し開けた所へ移動しようとしているのだ。何を考えてるのだろう? 懐中電灯を持ってるとはいえ、こんな真っ暗な場所で、山道を降りるなんて。何か狂暴な動物でも寄ってきたらどうする気だ。俺は助けてやれないぞ。
 慌てて――でも慎重に小道を降りながら、俺は叫んだ。幸い今日は満月だ。月の光というものは普段は気がつかないが、こうも真っ暗な場所だとどれだけ明るい物かを実感する。
「切子!」
 切子は振りかえったようだった。懐中電灯がこちらに向かってフラフラと揺れる。
 だが次の瞬間。
「!」
 月明かりがはっきりと陰った。雲が横切ったとか、そういうレベルではない事がはっきりわかる消え方だった。
 <クローニング・ゲート>の発生だ。
 中空に浮かぶ月のすぐ横で、真っ黒な空間が渦巻いていた。あっという間にそれは広がり、周りの星々を黒の中に飲みこんでゆく。澄みきった清水に落とした一滴の毒薬のように、禍禍しい気配を振りまきながら空が覆われてゆく。
 そして俺達の周りの空気さえも。
 街の明かりも見えない山の中で、俺はあらためてこの現象の真の姿を見たのだ。ガキの頃に見たまがい物なんかではなく、切子の言っていた「本物の<クローニング・ゲート>」を。
 それまで与えられていた全てが一瞬にして奪い去られる絶望感、孤独感、焦燥感。なぜ光がなくなっただけで、こんなにも恐ろしく感じるのだろう? どうして周りに光が一つもなくなってしまっただけで、こんなにも悲しい気分になるのだろう?
 古代の人間達に世界の終末や神々の怒りだとか、そんな発想が出てくるのも当然だ。どう考えても人間の理解の範疇を超えた現象。
 あの、押入れの暗闇に入れられた時の事を思い出した。どこからどこまでが自分で、どこからどこまでが空気なのかわからない。どこまでも俺で、どこまでも空っぽのような気がした。触れているものさえも、本当は触れている気がするだけで、実は何一つ無いのが現実じゃないかと思えた。感覚は信じられるだけの重さを持たず、空っぽの中に浮かぶ俺という名の意識が、実在しているという妄想が、ぐるぐると渦巻いているだけの不毛で恐ろしい感覚を覚えて恐怖した。
 いや、違う。どこまでも空っぽなんかじゃない。俺の視線の先には、ついさっきまで切子の姿が――彼女の持つ光が見えていたじゃないか。ここには俺だけじゃなく切子もいたはずじゃないか。
 だが空から大地に視線を戻した俺は、思わず声をあげた。
「切子ッ!」
 光がない。さっきまで確かにあった切子の目印がない。だが俺の名前を呼ぶ切子の声は聞こえたような気がした。ぼんやりと、遠くから。
 そう。あの押入れの時のように、暗闇の壁の向こうから。
 例え幻聴だったとしても、それが俺にとって唯一の慰めであって希望に感じられた温かい声。
 <September 9>が輝くように、切子の声は輝いているようにも感じた。
 黒い空の向こう側から。




 空が真っ暗になる現象を<クローニング・ゲート>と名づけたのもギルバートでした。彼はこんな風に言っています。
『真っ暗な空の向こうからやってくる小石が、その暗闇の向こう側から投げられた物だとしたら、こんなに嬉しく切ないものはない。私達以外の者が向こう側にいて、私達にもう一人の私がいる事を教えてくれているのだ。だが我々はそれに応える術を未だ持たないでいる』


『うん。私のお父さんが言ってた。真っ暗な世界の向こう側には、いつも私達の想像もつかないものがあるんだって。それは私達が怖いと思えば怖いものになって、綺麗だと思えばいつだって綺麗なものになるんだって。それは私達がどう想像するのかで決まっちゃうの。だから私、いつも綺麗なんだって思う事にしてるんだ。どうせ何か出てくるなら、綺麗な物の方がいいし』


 9/9
「これがセプテンバー・ナインです」




 俺の中で突然、それらの言葉がつながった。
――そうか!
 <クローニング・ゲート>は、あの蔵に詰まれた雑多な諸々のような物だったのだ。同じような存在である俺達を隔てていて、それでいてつなげてくれた唯一の物。
 そして、あるかどうかわからない向こう側からの声、言葉――暗闇の中からの切子の声――それが<September 9>だったのだ。
 あの小石が、この暗黒の向こう側から投げられた切子の言葉。だとしたら――俺はそれを知りつつも、それに応える言葉と声を持たない。「我々はそれに応える術を未だ持たないでいる」のだ。
 9/9
 それは、同じ場所にいながらも壁に隔てられている二人の姿だったんだ。
 あの闇の向こうで、俺を待っていてくれるものがいるかもしれない。それはただの気のせいかもしれないし、魔物の声かもしれないけれど、綺麗な物だと信じたいもの。
 そういう希望と、隔てられているせつなさ。
「切子……」
 俺達はあれから何度も――家が改築されるまで何度も、こっそり押入れの中で話し合った。
 切子の父親が<クローニング・ゲート>の向こう側を探索する研究の為に多額の借金をした事、その金を返す為に切子の母親が俺の家の女中になった事もあの中で聞いた話だ。
 でも、俺は何もする事ができなかった。彼女の言葉を受け取る事しかできなかった。
 ごく稀に家の中ですれ違っても、俺達は互いに知らないフリをしていたし、学校でも滅多に会話する事はなかった。俺達は主人の息子と女中の娘であって、外では気軽に話す事を禁じられている空気があったのだ。その分、俺達はあの押入れで話し合った。
 いつだって俺とあいつの間には、壁があったんだ。
 壁を隔てていないと、姿を消していないと、俺達は互いに互いの本音を語り合う事すらできなかったのだ。
 そして今でも――こうして暗闇に一人投げ出されないと、俺はあいつの存在の大きさに気づけないでいる。あいつと一緒でいるのが当然だと思いこんでいた自分の浅はかさに気づかされる。
 俺にとって切子がどんなに必要であるのかを痛感させられる。
「切子……っ!」
 この闇の向こう側には彼女がいる。見えなくてもいるのだ。
 側に行ってやりたい。そして側にいて欲しい。俺はずっとそう思っていたんじゃないのか。あの時、初めて話したあの時から俺は、ずっとそれを願っていたんじゃないのか。
 黒の中、あいつの見えるわけのない姿を見ようとして顔をあげた俺の視界を、白い物が横切った。
 天を斜めに駆ける光の矢。
 <September 9>が闇の中に白い線を引き、かなたへと消えていった。



 空の端から、チラチラと星が瞬き始める。ゆっくりと月の光が戻ってくる。まるで発生した時の逆回しのフィルムを見ているように、冬の星空は元へ戻ってゆく。
 パチンと響く音と共に、俺の前で光が灯った。切子の奴、自分から懐中電灯の灯りを落としていたのだ。落ちてゆく<September 9>が見えやすいようにだろう。
「晃さ〜ん」
 切子の声だ。俺は再び勢いを取り戻した月明かりを便りに、再度小道を降りようとする。だがライトを持っている切子の方が圧倒的に早い。あっという間に駆け寄ってきた切子は、浮かれた声をあげた。
「見えました? <September 9>?」
「バカヤロウ!」
 滅多に怒らない俺が怒鳴ったから驚いたのだろう、さっと肩をすくめる切子の腕を掴む。衝動的に抱きしめた俺の腕の中で、切子は強張っていた筋肉をゆっくりとゆるめていった。ああ、掴める。ここに彼女はいたんだ――その実感が俺を脱力させた。
「……なんで勝手に出ていくんだ。ビックリさせるな」
「ごめんなさい、晃さん。すっかりお眠りになられていたから、起こすのもなんでしたし……」
「ああ、そうだろうさ、そうだろうさ!」
「どうしたんです? 何をすねてるんです?」
 怒鳴った事で俺の気が済んだと看破した切子は、いつものようにクスクス笑う。彼女は腕を掴んでいた俺の手を取ると、そっと、自分の握っていたものを俺に握らせた。
「はい、私からのプレゼント。<September 9>ですよ」
 今年は、俺達の事務所の近所に落ちると教えてくれたのは切子自身のはずだ。それに宝石のように光ってもいない。なんの変哲もない、握るのに程よい大きさの小石だ。
 これを拾いに、あんな崖の下の方にいったのか? 確かにこの大きさの石は車道の周りになんぞには見当たらないが。
「……何が<September 9>だ。ただの石じゃないか」
「そうですか?」
 悪びれない彼女に、目を白黒させる俺。
「じゃあ、どういう意味だよ?」
「ねぇ、晃さん。こう考えた事はありませんか? このなんでもない石も、何億年も前に降ってきた<September 9>かもしれないって」
「……」
「この世界が、砂時計の砂みたいに、少しずつ降ってきた<September 9>の集まってできた星ならば……<September 9>が本当に幸せをもたらしてくれるなら、この世界は幸せの塊なんじゃないですか?」
 幸せの塊? この星が?
「私達はそれに、気づいていないだけかもしれませんよ? 何もないかもしれない場所に怖いものが出てくると思ってしまうように、この何もかもそろっている世界に何もないと思いこんでいるのかもしれません。探すのが難しい<September 9>を、みんな見つけられないだけなのかもしれませんよ?」
 俺の手に切子の手が重なる。ポケットに入れていたのか、切子の手は暖かで、凍え冷え切っていた俺の手をじんわりと溶かしてくれた。
「でもきっと、貴方なら見つけられるはずです。きっと」
 なぜだろう?
 彼女が確信をもってそう言ってくれると、俺はなんとなく、そう、根拠もないのにそれを信じたくなってしまう。あの闇の向こう側から教えられたように、怖いものなど本当はないのだと思いたくなってしまう。
 それは幻だったり魔物の声だったり、本当は俺の知らない何かの声なのかもしれない。
 それでも俺は切子の声を、言葉を信じる。信じたくなる。
 俺はあの押入れの中から、未だに生身の彼女に出会っていないのかもしれない。



 今、切子の拾ってきた<September 9>は俺の仕事机の引き出しに転がされている。
 相変わらず俺は要領の悪い仕事ぶりで、いつもギリギリのスケジュールをこなしている状態だ。なのに切子は相変わらず、定時に紅茶を用意してくれる。
 あの後は何とか地図と照らし合わせて帰る事もできたが、もちろん、それが切子の拾ってきた石のおかげだなんて思っていない。今年の<September 9>を拾ったという人だって、雑誌でインタビューされているのを見た。アレは本当にただの小石なのだ。
 それなのに。
 本当にそれはなんでもない石だし、俺は今でも<September 9>が幸せを運んでくれるとは思っていないのだが……なぜかそれを未だに捨てきれないのだ。
 そして時々、それに目を留めて思い出すのだ。
 あの暗闇の中で感じた孤独と、壁の向こう側にいた切子という存在の大事さを。
 自分達はいつか、あの壁を超える事ができるのだろうか?
 この星の住人は、いつかあの<クローニング・ゲート>の向こう側を見る事ができるのだろうか?
 そこは綺麗な世界なのか恐ろしい世界なのか?
 この世界は本当に幸せに満ちているんだろうか、空っぽなのだろうか?
 いつか<September 9>なんていう、隔てられた二つの星というせつない神話は終わりを告げるんだろうか?
 小石を見るたびにそんな――どうでもいいような事に思いをはせている。本当にどうでもいいような事ばかりを考えている。
 切子は用意した紅茶をボーっとすする俺を見て笑っている。
 ああ、なんだか壁の向こうのように現実味のない風景だ。白くて眩しくて、手を伸ばせば雲まで掴めそうなこの空気。現実味のないこんな現実の幸せを、俺はずっと忘れていたような気がする。
 もしかしたら本当に、<September 9>を拾った人間には、こんな世界が見えるのかもしれない。



 俺は最近、ティータイムという無駄な時間が嫌いじゃなくなった。



<終>



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