ハーメルンの黄昏・4

←PREV | Home | NEXT→
1 | 2 | 3 | 4 | 5


 ノヴァが廊下の突き当たりにあった扉を開けようとした時、その扉は音もなく内側から開かれた。
 出てきた男女の二人組は、ノヴァを見てさっと顔を強ばらせ、次にクロウとその手首にはめられた銀の腕輪を目にしてニヤリとした。男の方が意地悪く忠告。
「対策室長、この先、部外者の見学はできないはずですが?」
「見学許可を出すのは誰だったかな?」
「室長だけの権限では出ませんよね?」
「部長の許可は取ってある。彼は対策室に配属予定の男だ。IDがない以上、連行の形で案内することになっている。君の忠告はありがたいが、杞憂だ」
 ノヴァの台詞に驚いたのは、中から出てきた男女だけではない。
 ノヴァは憎たらしいほどの冷静さで、クロウの表情を確認。横に並んで歩くよう促した。
 二人組が立ち去り、入れ替わりで室内に足を踏み入れたクロウは、思わず毒づく。
「どこまで本当だ?」
「半分は本当です。連行するのは私の独断ですが」
 『世代間情報研究所』の廊下は、そのまま巨大な棚の連なる、貸し金庫のような場所へと続いていた。
 沈黙とどことなく不快な薬品の臭いが漂い、クロウは一瞬、遺体安置所を思い出す。
 同じような感想を抱いたのだろうか。
 クロウはノヴァの動きに、ある種の緊張が見えたことが気になって声をかける。
「この先で、何をたくらんでる?」
 答えない。歩調に乱れはない。
「この先で俺を殺すつもりなら、無駄だぞ?」
「遺書と告発文書でも、弁護士に預けてあるってことでしょうか?」
 今度はクロウが答えを失った。
 その沈黙に、ノヴァが話を切り出した。二人そろって、人影のない研究所の廊下を、抜き足めいた静かさで歩き続けながら。
「そろそろ、答え合わせをしましょう、クロウさん。互いに、どうしてこの場所にいるのか」
「答え合わせ? おまえら犯罪者が、本当の事を言うとは思えないな」
「私は上司に、ここまで突き止めた貴方を、福祉省に配属替えできないかと進言しました。福祉省は、常に優秀な人材を確保しようとしています。前例がないわけではありません。もっとも、警察機構からのヘッドハンティングは初めてですが。だから、身内となる予定の人に、嘘をつくつもりはありません」
 それが緊張の理由?
 いや、こいつはそれぐらいで緊張するような奴じゃない。
 刑事を前にして一ヶ月間、さらりと福祉省の不正を隠し続けてきた男なのだ。初めての引き抜きぐらいで動揺するような小心者のはずがない。
 もっと大きな事が、待ち受けているはずだ。
「JキャリアとIHW1型の関係に気づいたのは、貴方が最初ではありません。もっとも、大部分の人たちは、ドクター・バニヤンの修正手術に問題がなかった事に納得しています。信じられなかった人間も、福祉省が失踪に関与していると考えはしませんでした。我々との関連を示す証拠がなかったので」
「その先を考えたのは、俺だけ? まさかな」
「もちろん、貴方だけじゃありません。ただ、他の方々は、貴方ほど思いきった事をしてのけたりはしませんでした。だから我々も、監視の段階で済んだのです。誹謗中傷じみた形で言及されることはあっても、脅迫や公務執行妨害で済みましたから」
 我々全員が驚いているのですと、ノヴァは淡々とした口調で続けた。
「現役の刑事が、自分の職と生命をかけて、実の母でもない人物の行方を探るとは」
 それはそうだとクロウは笑う。
 もし、妻が自分の不人情をなじらなければ、そしてあの時痛いところを突かれて手を挙げた自分を恥じなければ、刑事として失踪者を探し出せない無力感にさいなまされていなければ、ここまで破れかぶれになって、不正な手段を行ってまで捜索しようとは思わなかっただろう。
 まあ、その不正な手段のおかげで、自分の同僚達に協力や相談を持ちかけるきっかけも失ってしまったのだが。
 結局、ここまでやってこれたのは、たくさんの偶然の積み重ねの結果でしかなく、クロウの挫折が引き当てた幸運でしかないのだ。
 そうでなければ、クロウだって割に合わないと思う。自分の体にメスを入れてまでの捜索なんて、いくら恩のある養母の捜索だとしても、手段が過剰すぎる。
「正直に言ってくれ。どこから、俺を監視していたんだ?」
「ドクター・バニヤンに会いたいと私の元にやって来た時から。今までの例でも、Jキャリア老人の失踪とバニヤンを結びつけて考える人が多いことはわかっていましたし、それが失踪者家族なら、カンづいたのではないかと考えます。彼の名前は、一種の目安なのです。だからこそあえて、彼に手術を一任させているとも言えます。そして、バニヤンについての調査が入れば、まず私の元に連絡が来るように手はずがついていました」
 あまりに素直な態度で答えるノヴァに、クロウは逆に不安になる。どこかで、なんらかの嘘を仕組まれたのではないか? でなければ、なぜここまで手の内のさらけ出す?
「確かに正直に教えてくれと言ったのは俺だが……いいのか? そんなにベラベラしゃべっちまって」
「貴方は我々の仲間になる人ですから」
「俺は承知した覚えはないんだが」
 ノヴァは数歩分だけ間をおいて答えた。
「ならば、残念な結果を迎えるだけです」
 突き放すような言葉――しかしその前にある数秒の空白。
 これこそが、ノヴァが真に恐れている事なのだろう。
「あんた……まさか、人が死ぬところを見たことがないのか?」
 クロウが死ぬと言うことが、恐ろしいとでもいうのか?。
 クロウは、自分を取り囲む巨大な棚をもう一度、遺体安置所のイメージで見回した。
 クロウが拒否した場合、そのままこの巨大な引き出しの中に入れられてしまえば、誰もクロウの行方を探し出せなくなるだろう。
 だが、ノヴァは怒っているかのように即答。
「逆です」
 見すぎたからこそ、もう見たくないのか。
 空間交差現象をくぐり抜けたもの同士だ。人の死を見たことがないなんてあり得ないと思っていたが。
 クロウは改めて、並んで歩くかつて少女だった男を見上げた。
 この男も、あの現象の被害者なのだ。
 クロウが自分たち二人きりの家族の保身の為に、犯罪というものに怒りを感じて刑事になったように、この男は死を見すぎて死を恐れ、人々を死から遠ざけるべく福祉省に入ったのだろう。
 そして今は、クロウが殺されることを恐れている。
 クロウが、この先の話如何で、殺されてしまうことを恐れているのだ。
 それがどんな類の感情に基づいての恐れなのかわからないが、ノヴァは、クロウに生きていて欲しいと判断したのだ。だからこそ、上司にも掛け合ったし、今も心中で震えている。
 ならばクロウはその感情を、最後まで利用させてもらう。
 とはいえ、クロウも悪い気はしていない。
 全く一人で体制に立ち向かっていると考えるよりも、少しでも自分を気遣ってくれている人物がいるというのは、安心できるものだったのだ。仮に相手が敵であったとしても、だ。
「貴方の要請でバニヤンに会わせた時から、私の部下を監視につけました。苦労したみたいですよ、貴方みたいな尾行のプロに気づかれないよう尾行するのは」
「そいつはどうも」
 全く気づけなかった。商売柄、多少胡散臭い連中が後をついてくればすぐに気づいたはずだ。相手も苦労したと言ってるから、ただの尾行ではなく、大掛かりな包囲網として監視されていたのだろう。その目に気づいていたら、横流しのIHW1型や偽造カードを手に入れようとなんて考えなかったかもしれない。考えついたとしても、もっと慎重に、受け渡しなり配送なりの手配を進めたに違いないのだが。
 もっとも、福祉省がそれほどまでに強い組織力で、自分を要注意人物と認定し、監視をおこなっているとは思いもしなかったのだが。
「貴方がIHW1型を探し始めた時にも、すぐに私に報告が入りました。捜査を諦めていなかったと判断したので、『刑事がIHW1型を探してる』なんて噂がジャンク屋に広がる前にこちらで用意して、貴方の子飼いの情報屋にそれとなく流しました。もちろん、最終的に貴方が買い取った修正プログラムも、我々の用意したものです」
「それじゃ……IHW1型を譲ってくれた医者は――」
「戦時中、バニヤンの部下だった医師です。修正プログラムの追加もスムーズに行えたのは、彼もバニヤンの元で修正作業を行った事があるからです。もっとも、今回追加されたプログラムの内容がどのようなものかまでは、わかっていないでしょうが」
 全て、ノヴァの手の中だったわけだ。用心深くやったつもりだったのだが。
「しかし我々は、貴方がIHW1型とプログラムを分析させるとばかり思って、そちらの方面に情報網を広げていました。まさか……あんなに早く、直接自分に埋め込むとは」
 その時だけ、ノヴァは恐怖と呆れを声に乗せた。
 クロウは相手の能面のような顔と表情豊かな声の組み合わせに苦笑。福祉省のエリートさんには、地べたを這い蹲り、泥をかき分けてでも、犯行当時の様子を再現しようとする刑事の捨て身の努力など、想像できないのか。
 ならば得意な分野で登場してもらおう。
「一つ、教えてくれ。お袋は、俺に時報のサイレンが聞こえると言っていた。今思うと、そいつはIHW1型の誘導音だったんだろう。だけど俺が使っている間、サイレンを聞いた事は一度もない。大体、誘導がいつはじまるのかすらわからなかった。わかっていたのは、早朝と夕刻が一番多いようだってことぐらいだ。発動条件は何だったんだ?」
「サイレン?」
「Jキャリア国家にはあっただろ? 夕方、さっさと帰れっていう時報のサイレン」
 ノヴァはしばらく考え、やがて一人納得したように頷いた。
「そのサイレンの音は、おそらく、MCFによる共振発動型誘導音です。MCFこそ、バニヤンがIHW1型に修正として組み込んだプログラムです。IHW1型から我々が実験的に開発した、人々を誘導するための記憶再生と研究室までの道のりを強制記憶させる、非聴覚音域の誘導催眠音を発生させるものです」
 クロウは、先に受けた音響兵器の強制力を思い出した。あれが引き出すのは悪夢の部分に調整されていたが、MCFはノスタルジックな記憶を引き出す強制力を放つのが、本来の仕事なのだろう。
「高齢者の一部には、人の声として認識する人もいたようですが……それは脳萎縮などによる、老化によって正常に機能しなかった認知能力による誤認でしょう。もちろん、個体差がありますから、音として聞き取れる人もいます」
「となると、お袋の聞いた誘導音はサイレンの音として認識されたけど、俺のように聞こえるようで聞こえないと錯覚することもあるっていうことも、あるんだな?」
「当然、あるでしょう。貴方のお養母様は、記憶の中から行動に関する音を探し出して、きっかけとなる誘導音に当てはめた可能性があります。それも個体差の範疇です」
 だから、行方不明になる前の老人達は耳を押さえ続けたのだ。
 自分が「帰る」ことに失敗したから、次のチャンスを伺うために。次に聞こえるであろう帰宅を促す合図を、聞き漏らさぬようにと。
「研究室には指揮官音の発生源があって、そちらに集まるよう、MCFが自動で判断し、行動させるよう音を発信するのです。受信する為に自動で発動するには、戦時中と同じく、共振発動を使います。IHW1型の共振発動についてはご存じですね? バニヤンも説明してましたし」
 全く思い出せないとクロウが答えると、信じられないとノヴァが呟いた。あいも変わらぬ、淡々とした口調で。
「なんで全く知らない機械を、体に埋め込んだりできるんですか? それに、貴方は刑事でしょう? なんでこんな重要なことを覚えてないんですか? 貴方の思考は、意外すぎる」
「失踪した爺さん婆さんも、戦争中に何が埋め込まれたのか、ちゃんとわかってる人間はいなかったと思うけどな。俺はあの人たちの聞いてたものが聞きたかっただけで、原理なんてどうでもいいんだよ。今だから気になるだけだ」
 よっぽどショックだったのか、ノヴァはしばらくの間、黙って歩き続けた。
 一つの扉の前で立ち止まる。エレベーターだ。しかも、地下へ向かっている。乗り込むべくボタンを押し、ノヴァはボックスがやってくるまでに続きを語る。
「IHW1型は、戦時中のJキャリアたちが開発した、固有集団内無線です。一定の密度でIHW1型が集合した場合、自動的にスイッチが入ります。つまり、IHW1型を埋め込んだ人間が二人三人と集合した場合、同時に全員のIHW1型無線が反応し、自動で音声交換が行われる品物なのです。特定の時間が発動条件では、一般人にも何か機械の仕掛けがあると思われますからね。時間ではなく、Jキャリア同士の密集度が、発動条件なのです」


 クロウは自分の機械が作動した時のことを思い返していた。
 不意に耳に聞こえ出す音。
 養母も似たような経験をしたのだろう。
 懐かしいサイレンの音と一緒に、ここに至までの道のりを、家路までの道のりだと信じて。
 養母は、何度もサイレンの音を探して歩き回ったのだろう。よもや、遠い昔に埋め込んだ補聴器のせいとは思わなかったのだろう。
 いつ、どうやって動き出したのかわからない機械の、偽りのサイレンの音を探して、昼と言わず夜と言わずさまよったのだろう。
 それは、うまく発動する時も、しなかった時もあっただろう。
 彼女は途方にくれもしただろう。座り込んで、サイレンや回想に浸っていた時期もあっただろう。
 それでも、養母は諦めなかった。
 そして、ノヴァの元にたどり着いて――。


 説明の全部ではないが、クロウの想像したことに近しい機能を有していたようだ。
「これは、まず兵士に配布されました。戦場で耳が聞こえない状況でも骨伝導を利用して意思の疎通を可能にするため。そして外部機械がないので無線として警戒されにくく、捕虜となった時にもJキャリア同士で連絡が取れるように。稼働電力は血中栄養素を使用した燃料発電ですから、停止の心配はありませんでした」
「現在は?」
「空間交差現象によって、電圧が一定以上保てないと、正常に機能しないことがわかっていますが、設計段階で発電能力を必要電力の三倍に設定していたらしく、健康体なら今でも問題なく機能します」
 敵勢力が電力を減少させる何らかの方法を見つけだした時でも稼働できるようにでしょうと、ノヴァは続けた。
「兵士への配布が進む中、本土決戦を想定した当時の政府によって、一般人にも配布が進められました。理由は兵士と同じように、国民の保身の為でした。戦況が思わしくないと考えたJキャリア国家は、本土決戦時には国民総出でゲリラ戦を行うという、非現実的な計画を持っていたのです」
 ただしと、ノヴァは息をついた。
「もちろん、Jキャリアの中には、現実的な見方をする知識人もいました。彼らは止めきれぬ非現実的な計画の中に、意味を見いだした。すなわち、強兵論に傾き、国民の文化を統一し捨て去ろうとした政府に対し、その文化をIHW1型で保存しようとしたのです。その理念に基づき、IHW1型を起動させるべくあえて雑踏に行き、IHW1型を共有する者に向かって口承文学や歴史的事実を語る一団が現れました」
 クロウは七歳の頃に眺めた、街の光景を思い出そうとする。しかし、それは簡単ではなかった。水色の空は夕方以外に見なくなって久しいし、色鮮やかな衣類をまとった人々の表情など、記憶の彼方のものだ。街の裏側で、地道な政治的活動が行われていたことを示す記憶は、クロウの中に残っていなかった。
 それでも、ノヴァの話には納得できる部分が多々あった。具体的な記憶にはないだけで、その戦々恐々とした重い空気を、クロウは思い出せる。IHW1型を巡る攻防のかけらは見いだせなくとも、大人たちが地下で戦っていただろう空気を思い出せる。
 それらが、ノヴァの話が本当であろうと囁く。
「彼らは、戦争がどんな形で終わるとしても、国家を取り戻すまでの文化の避難場所として、IHW1型を利用できると考えたのです。事実、IHW1型の修正プログラムには様々な種類が確認されています。音声ではなく、記憶や映像を転送するものもありました。MCFにも応用された技術です」
 クロウは、生みの母が語ってくれた寝物語の数々を思い出した。彼女の語る様々な教訓を含んだ昔話は、もしかしたら、雑踏の中で誰かから伝承された物語だったのかもしれない。
 養母の語った『姥捨て山』も、雑踏の中で流れていた物語だったのかもしれない。
「政府の思惑と世間の思惑は一致しませんでしたが、共にIHW1型を埋め込むという政策に同意したのです」
 ノヴァーリスは、やってきたエレベーターに乗り込むようクロウを促す。基本的に、クロウが逃げ出すという発想はないようだ。
 確かに、今のクロウは逃げ出すつもりなど無い。
 ここまで連れ出された以上、最後まで見届けるつもりだ。
 母たちの語っていた昔話の一つを思い出した。
 大量のネズミを駆除した笛吹き男に、報酬を出し惜しみしたが為に、街中の子供をその笛の音色で連れ去られてしまったという物語。
 自分も、今までの老人たち同様、このノヴァーリスという笛吹き男に連れ去られるのだ。
 戻るなんてことも考えずに。
 それともこれも、MCFの効果だろうか。音と記憶の映像で人間を操るのならば、操られているという意識や抵抗力を無くさせる操作が行われていても不思議ではない。むしろ、疑問を抱かせないようにしてから、必要な情報を流し込むのではないだろうか。
 ここまでフラフラと導かれてしまったクロウは、そんな風にも考えた。
 苦笑しながらも、ホルスターで釣られた拳銃を思い出す。警棒は役に立たなかったが、この先、同じようなことがあったとしても、切り札がないわけではないのだ。
 最後の最後まで、仮に拳銃を自分自身に使わなければならなくなる時が来たとしても、その時まで、クロウは刑事として真実を目にするまで諦めるつもりはなかった。
 ノヴァは地下へ続くボタンを押した。騒々しい音をたててエレベーターが作動する。
 この手の設備は、交差現象から百年近く前の技術にまで、先祖帰りしてしまったのだと聞いたことがある。騒々しいのはそのせいだと。
 滅多に使わないエレベーターと、慣れない浮遊感に耐え、到着した先は真っ暗なトンネルだった。
 二人の足音だけが響く通路で、ノヴァは告げた。
「ここは、第四外壁の地下です。この先の突き当たりで第五外壁との切り替えがありますが、その先から、地上に戻ります」
 外に出るというクロウの推測は、間違っていなかったのだ。



 地下の長い廊下は、足下に蛍光塗料のガイドラインと、道しるべ用の裸電球がポツンポツンと灯っている以外、なにもない道のりだった。
 足音は反響し、電球で生まれる影はすぐに長く延びて闇に同化し、そしてその闇の中、ノヴァの囁きが遠くとも近くともわからぬ場所から耳に飛び込んでくる。
「IHW1型の存在は、都市国家宣言時から、福祉省の中では知られていました。もちろん、Jキャリアの大人たちが極秘事項として取り扱いましたから、伝聞の範囲内ですがね。しかし、あなたも考えたように、IHW1型を埋め込み続けることによる障害の危険性を考えなければならないと検討する段階で、食料問題に取り組んでいたチームが待ったをかけたのです」
 クロウは意外な展開に目を見張った。
 自分の言い出した、姥捨てという言葉が脳裏に走る。
「我々のような高齢者の介護問題に取り組んでいる部署にはあまりなじみのないことでしたが、我々に接触してきた食糧問題対策チームは、働き手を増やす取り組みをしていました。食料を節約するのではなく、生産量を増加することを考えていたのです」
 一度言葉を切り、ノヴァは記憶を整理していたようだった。
「あなたはご存じかどうか知りませんが、空間交差現象で大きな損害を被った機械分野の反面、恩恵を受けた分野もあります。それが分子生物学や遺伝子工学の分野です。従来なら非常に厳しい条件下で生成されていた必須栄養素が、サプリメントとして簡単に増産できるようになった。同様に、動植物の発育期間が短縮され、生産量も増加し、そのおかげで、かろうじて食生活レベルを保っていられるのです」
 聞いたことが無いわけではない。クロウが子供の頃から囁かれている食糧危機が、未だに訪れないのは、生物工学の分野が発達したおかげだと。
 もちろん、それにだって限界がある、とも。
 都市国家内で、工場的に食料を生産するにも土地の面積が足りないのだ。動植物も生き物だ。人工の太陽光ばかりではうまく育たない品もあったし、狭い敷地ではストレスで十分に育たないのだという。
 だから、食料問題の対策チームが継続してことに当たっていることはわかる。
「それはわかるが、それとIWH1型と、どう関係してるんだ?」
「食料対策チームは、以前より遺伝子工学の研究に目をつけていたのです」
 二人は第四外壁の地下を渡りきり、第五外壁との切り替え地点にたどり着いた。
 第四外壁は、外敵に備えた、要塞の部分である。外壁そのものは堅牢な壁そのものであり、他の外壁のようなオフィスを兼ねている区画は少ない。
 その為、第三外壁と第四外壁の境目からしか到達できない地下に、防衛省のオフィスが広がる。そのオフィスからも独立したこの廊下は、壁そのものの厚み分しかないのだろう。
 第五外壁へのロックを、ノヴァは金の階級章付きIDカードで解除した。
 第五外壁は、第四外壁を持つ防衛省が、外敵駆除の為に備えている軍用機を納めた格納庫である。これまた、いつやって来るのかわからない外敵への備えだ。こちらは立派な機体がいくつも納められた巨大基地ではあるが、この軍備がクーデターに使用されることを畏れる議員たちの手によって、ほとんどの機体が整備中の名目でしまい込まれている。
 この格納庫の廊下は、とても長かった。刑事のクロウですら長く感じるのだから、老人たちには酷だったろう。
「こんなところを、よくも歩かせたもんだ」
 福祉省が老人を歩かせた事への非難だ――即座に察したらしいノヴァが、すぐに何か言いかけ、そして口をつぐんだ。
 そのまま続く、無言。
 クロウはその沈黙を、この事件がIWH1型を使用しなければならなかった理由に迫っているからだと理解した。
 食糧問題と老人問題。その両者を解決する方法があったのならば、素晴らしい快挙だ。なぜ、コソコソ隠れてやらなければならなかったのか。
 世間に公表し、協力を仰ぐことのできなかったような事柄が、その間に入っているからだ。非合法で、人に直接関わる問題が。倫理的、生物的に許され難い事情が。
 それは、なんだ?
 クロウはノヴァが口を閉ざすまで語っていた言葉を思い出した。
 遺伝子工学のおかげで、食料レベルが保たれているのだ、と。
「遺伝子工学……まさか、トランサー手術か!」
 トランサー手術にも、いろんな方法がある。
 外見的な性別を変えるだけで満足する者もいれば、心も体も、元に戻したい輩もいる。
 そういう者たちが、どんな手術をするのか。
 もっとも高価な手術だと、自分のクローンを作るのだそうだ。
 そして、その遺伝子情報に手を加えておく。そもそも、トランサーという存在が、空間交差現象で性別の情報に手を加えられた人間なのだ。その情報を書き換え直すと言ってもよい。
 そして、できあがった体に、脳の移植をする。
 ホルモンバランスがいきなり元に戻るのだから、副作用も激しいのだそうだが、自身の脳が自分の体だと認識すれば、後は問題ないのだそうだ。
 これらも、空間交差現象によって、それまで常識とされてきた生物学の内容が変更されたからこそ、できるのだとか。
 だが、もちろん問題がないわけではない。
 まずは倫理感の問題。
 自分の体を取り戻す為に、複製の自分を、生まれる前に殺すのも同然なのだから。
 それに、クローンの生成と手術までの維持。
 機械分野が後退している現在の文化では、培養液の温度を一定に保つだけでも、多額の電気代がかかる。できあがるまでの日数がどれほどなのか、興味のないクロウにはわからないが、気軽に作成できるような金額ではないだろうことは、容易に想像できる。
 ノヴァはクロウの答えに、真顔のまま続けた。
「トランサー手術をそのまま適応するには、老体に負担がかかりすぎます。そもそも、加齢による脳萎縮が起こっていた場合、そのまま移植しても痴呆が進むばかりです。健康体の意味がない」
「じゃあ、どうやって?」
「クローンはクローンのままに」
 あっけにとられた。
 簡単すぎて、一瞬、意味を見失ったぐらいだ。
「そのまま? 今までのクローンは、記憶転写が不可能だったから、脳移植が必要だったんじゃないのか?」
 脳の構造は複雑だ。しかも、クローンが本体と同じ記憶や人格を保有しているのかどうか、完全なる複製として存在しているかどうかを確認するには、クローンとの対話を試みなければならない。
 そして、対話が成立した瞬間――それが本体とは全く違う記憶や人格を有していたとしても、クローンは一個人として扱わなければならない。それが現行のトランサー手術に対する法令の一部だ。
 それを無視してトランサー手術に用いたのなら、それは殺人なのである。
 完璧な、記憶転写と性格転写も済んだ複製を作るまでに、一体、どれほどの数の「研究と言う名の殺人」が行われたのだろう?
 少なくとも今は、その段階を乗り越えてしまっている。掘り返して告発するには難しい事件になってしまっているだろう。
 ノヴァはサラリと後を続けた。
「記憶転写も、現在は可能です。その分、シナプスの繋がりを確認したり接続したりするので、手術用の体を作るより、四倍以上の時間がかかりますが。そもそも、働き手を作るための計画ですから、二十代から三十代の身体能力になるよう遺伝子情報に手を加えなければなりませんし、その時に加齢の情報を解除します。それ以外は復元されるので、記憶はそのままです。脳萎縮の起こっていない、七十歳の記憶のまま、復元されるのです。老人の脳では記憶が再生されにくいので、そこの神経も接続し直してしまいますから、我々なんかよりずっと、記憶力も良いですよ」
「だから、それ以外は、そのまま?」
 ノヴァは答えなかった。それが答えだ。
 三十代の身体能力を持ちながら、七十歳の知恵を持つ人間が、作り出されているのだと。
「本体はどうなってるんだ?」
「第六次海洋分断戦争中、外宇宙開発が停止しました。しかしそれまでに養われた冷凍睡眠や延命処置のノウハウは残されていたのです。電力の少ない現在、最も安全かつ低コストで使えるのは、投薬と姿勢維持用生理栄養素ゲルによる仮死状態の維持だけですが」
 体内の反射行動や外部刺激を最小限にまで押さえ、息をするだけの状態に眠らせているというわけか。
「本体の管理の為にも、クローンの身体管理と生成の為にも、あの独立したラボが必要だったんです。『世代間情報研究所』が」
 その言葉を耳にした時、クロウはゾッとした。
 自分たちが通ってきたラボの、広い壁面にぎっしり並んだ遺体安置所にも似た大型の引き出し。貸し金庫のようだと感じたあの棚の列。
 あれが、本体の眠るカプセルだろうか?
 だからあの場所に差し掛かった時、ノヴァの態度が変わったのか。
 確かめようと思うが、それを口にする勇気が出ない。
 あの中に、自分の養母も眠っていたかもしれないのだから。そして、居たのだとこの福祉省の男に肯定されてしまったら……自分は母の救出から遠い場所に来てしまっている。
 クロウの焦りに気づいたのか、ノヴァは何気なく呟いた。
「空間交差現象で起こったことを、人為的に再現しているだけです。そうは思いませんか? それとも貴方は、もう一度あの災害が起こった時……あなたのお母さんの性別が変化したからといって、見捨てる事ができますか? 奥様の体が十代のものになってしまったからといって、離婚しますか? 本体が残っているだけまだマシです。引き返せるんですから。我々は、引き返す手段を残したんです。それを使うかどうかは、本人が選べば良いことだ」
 クロウには答えられない。
 これはおそらく、トランサーであるノヴァだからこその視点だ。性別が変わっただけのノヴァだが、その事で家族にどんな仕打ちをされてきたのだろうか。少なくとも、一度は元の体に戻りたいと願ったことだろう。だが、叶わなかった。
 だから、他人にはどちらの身が必要か、選択させる、と。
 そもそも、悩む事はない。姿形が変わろうと、クロウなら、決して家族を見捨てたりはしないだろう。
 ノヴァはそう言っている。
「……やっと、わかったよ。お袋たちは、IHW1型にMCFを組み込んだ時、一緒に遺伝子情報を採取されてたんだな? そしてクローンが完成した後、あのラボに呼ばれて交換された。そして、クローンは今通っている通路を使って、外壁の外に出た。お袋自身として」
「その通りです」
 第五外壁の突き当たりが見えてきた。上昇するエレベーター。先と同じように、騒々しい音を立てて落下してくる箱を待つ間、クロウはノヴァに振り返った。
「クローンは一体しか作れないのか? お袋が二人ならともかく、三人も四人もいるのはイヤなんだが」
「これは我々も不思議なのですが、完璧なクローンは、一体しか作れません。何度やっても、二体目以降のクローンには生命活動が行えない、致命的な不具合が生じます。これは、瞬死と同じような原理ではないかと考えられています。世界が、全く同じ意識を持つ人間が複数存在する事を認めないという考えですね。だから、本体を仮死状態にして意識レベルを限りなくゼロにしないと、クローンの意識も上昇しません。現状では増やすではなく、体の入れ替えしかできないのです」
 エレベーターが到着し、先と同じように乗り込む。
 上昇の間、二人は黙り込んだ。
 ノヴァーリスは何を考えたのだろう?
 到着した先は、このエレベーターに乗り込む為だけの、小さなコンクリートの小屋だった。廊下ともいえぬ廊下を進み、先と同じように、ノヴァのIDカードでロックを解除して、扉を開ける。
 外へ、踏み出す。


 眩しい赤が、目を射った。
 それは、幼い頃の記憶にあるものによく似た、そしてもう二度と見ることはないだろうと思っていた、赤い斜陽とその光に沈む夕暮れの街だった。東には黒く淀んだ空が広がり、夜が間近である事を示している。
 その懐かしい太陽の残り火に照らされ、古くさいデザインの、三階建てのビルが見えた。
 その建物が、目の前の光景の中で一番高くそびえ立つ建物だった。通りに面した上部には、大きな時計盤が取り付けてあり、人々に現在の時間を伝えている。
 古い、歴史の教科書に載っていたような、Jキャリア国家の街並みだ。
 時計盤から視線をおろして見回せば、小型のアパートが建ち並び、駅前のような商店街が広がっている。
 商店街の一角は広場となっており、男女が腰を下ろして談笑している姿が見えた。
 ふいに、ノヴァとクロウの目の前を、自転車に乗った女性が横切っていった。クロウの顔を驚いたように見つめ、そのまま自転車の速度に連れられて去って行く。クロウを知っていた人物なのだろうか。クロウも彼女の顔立ちに見覚えがあったような気がするが、どうしても思い出せなかった。
 レトロ調の小さな街には、リヤカーに積まれた工事用具をしまいこむ男たちや、まだ泥のついたままの野菜の束が運び込まれて歓声をあげる女たち、自転車で走り抜けてゆく作業服の一団など、都市国家の中ではみた覚えのない、古い映画でしか見たことのない、夕時の活気に満ちた雑踏が広がっていた。
「あちらを見てください」
 ノヴァの指し示す方へ、驚きのあまり思考の停止したまま首を回す。
 都市の外れ、大きな農道を挟んだその先には、青々と茂った野菜畑が延々と続いていた。
 あの野菜畑の全てが収穫されたなら、都市国家の住人も、二ヶ月は安心して暮らせるだろう。
「これが、福祉省が極秘に行っていた計画の要です」
 食糧問題を解決する為に、都市国家の外壁の外を開発する。
 その人手不足を、都市国家内であふれる老人たちで補う。
 老人たちは、街を作る知恵を持っている。かつて若者として働いていた時の知識を元に、杭を打ち、コンクリートを固め、建物を造る。
 物理法則も科学反応の法則も変わった現在では、簡単にできる作業でもないだろう。だが、彼らには、かつてはできたのだという誇りと自信がある。老人となって無力さを噛みしめていた時間の記憶もある。
 この新しいチャンスに立ち向かう気力がある。
 土壌がシェイクされて斑になった地面を耕作し、同じ土壌の土地を広げて行こうと努力する気合いがある。
 それが、クロウにはなじみのない、古い街並みの活気に現れている。
「この街を、彼らは誰ともなくハーメルンと呼び始めました」
 先にクロウが思い出した物語の街の名を、ノヴァーリスは口にした。



 ノヴァは、街の西側を指さして、珍しく笑みを含む言葉を発した。
「真っ赤な夕陽は懐かしいでしょう? これも、この街の人たちのこだわりなんです」
 西側には、巨大な暴風壁がそびえ立っていた。強化プラスチック製と思われるそれは、赤いスクリーン状に広がり、一種のガレージのように街の一部に覆い被さっていた。展開は自由なのだろう。暴風壁の一部が、ゆっくりと下がって行く。
「あれを上げ下げする為に、六つある町内会が持ち回りで発電機を動かすんです。人力やら馬やら風力やら、使えるものは全部使ってです。それでも、この街の誇りなんですよ。夕陽は赤くあるべしというのが」
 ノヴァは街の中へ踏み出して行き、クロウも横に並んだ。
「JキャリアのIHW1型を使うのは、自発的に集合することで足がつくのを防ぐ目的もありましたし、連れ出す負担や手間も省けることもありました。そして何よりも、モデルケースとして、適度な人口であったこともあります。住民の中から全員が移動するまでの予定期間と人数の割合が、です。IHW1型は、あくまできっかけでしかありませんから、開拓村ができあがってからは、その村の開発スピードと作物の栽培量の推移が問題になります。それを確認する為に、多すぎず少なすぎぬ、ちょうど良い母集団だったのがJキャリアの高齢者人口だったのです」
 すれ違う人々のほとんどが、ノヴァを知っているらしく、簡単な挨拶や会釈をして去って行く。ノヴァは軽く頷いて彼らに応えながら、先へ先へと進む。
 思ったよりも大きな街だ。全体的には平屋が多いせいだろうか。
 クロウの存在は、街の住民たちにとって新人が案内されていると映ったらしく、何人かは自己紹介のような声を投げていった。
 朗らかな街の空気に圧倒されながら歩むクロウに、ノヴァはわずかに笑って見せた。
「元気で楽しそうでしょう? 痴呆老人の頃の記憶がある分、日常を支障無く過ごせることだけで嬉しいし、労働そのものが楽しいんですよ。あなたのお養母様も、元気に働いてます。半年も過ぎればまた違うでしょうが」
「お袋を知ってるのか?」
「調べておきましたから。あなたがこれほどまでに執着する養母さんとは、どんな方だろうと思って」
「普通のバアさんだよ」
「お綺麗な方ですよ。品があって、明るくて、素敵な方だ」
「おだてたって、お前の部下になんざならねぇからな」
 ノヴァはふっと鼻で笑った。ここ一ヶ月、顔をつきあわせっぱなしのクロウでも見たことのない仕草だ。
「この計画がうまくいったあかつきには、他のキャリアの老人たちにも、IHW1型を埋め込む予定です。もちろん、MCFにも改良を加えますし、共振発動の条件も変更して、キャリアが混じらないようにします。比較できる村を数個作り上げ、Jキャリア以外にも十分適応できる計画だという実績をつくります。その後に、世間にも公表されるでしょう」
「ここはあくまで、実験都市なんだな? あくまで開拓村で、まだ世間には公表できない、と」
「なにしろ、何の実績もありませんから。現段階であれば、クローンの意識レベルを低下させて、代わりに起き出した本体を順番に帰宅させるだけで済みます。しかし、ここで十分な食料を作り出せるとわかれば、まずはトランサー手術に対する理解を求める運動に取りかかります。高齢者の人口問題が解決しない限り、最終的に都市国家住人の全てがクローンに移行し、第二の人生を得て、なおかつ開拓村で過ごすしか、我々が生きていく為に十分と呼べる糧は得られないのです。それまでに、別の手段が見つかれば良いのですが」
 都市国家住人の全部が、クローンとなって若返る。
 クロウには信じられない話だ。しかし、クローンを作成する日数を考えれば、そしてその電力を確保するのがどれだけ大変かと考えれば、その計画は早急に発動しなければならない問題でもある。
「もしも今、この村の事が都市内部に公表されたら――」
「さっきまでの貴方と同じように考える人はいるでしょうね。『国家が老人の人生を勝手に操っていいのか』、『痴呆とはいえ、個人の意志を尊重せずに眠らせ、クローンを本人として扱うとは、倫理を無視する外道の仕業だ』、と」
 正論であろう。
 福祉省のやっていることは、間違いなく、人道に外れている。
 だが、これを始めなければ、都市国家という船が沈むであろうことも簡単に予測できる。
 どれかを選ぶとしたら――。
「あなたは、刑事だ」
 ノヴァーリスは足を止め、住人に配慮してか、今まで以上に声のトーンを落として囁いた。
「我々は間違っていることをしているかもしれないが、都市国家の未来も、この街の住民の生き方も、十分に考えた上でこの実験を行っている。法治国家としてはあるまじき事ですが、正義と慈悲の心を見失ったつもりはない」
 ノヴァーリスの目が、クロウを捉えて離さない。
 真摯で、誠実な、クロウの信じたノヴァーリスがそこにいた。
「だが、いつ、どこで足を踏み外すかわからない。己ではわからないうちに、正義を見失うかもしれない」
「……俺に、福祉省の内部で刑事を続けろって?」
「食料対策チームがこの実験を提案した時、私は反対しました。今はこれが正解だったと思ってます。でもこんな実験が必要以上に続いたなら、それは悪です。本来なら、こんな計画が発案されること自体が。そして仮にこの実験が中止になった場合、この街の住人が、この街を生み出した福祉省によって不当に害されるような事があってはならない。音響兵器で屈服させられたり、荒野に放逐されたりする事があってはならない。絶対に、です」
 ノヴァーリスの言葉には、苦痛すら漂っていた。裏を返せば、自分が少しずつ積み上げてきたこの街とその住人の未来を、自分の責任のように考えているに違いない。
 子供のいない、そして少女からのトランサーである彼にとって、この街とその住人こそが、彼の子供たちなのであろう。
「もちろん、この実験が成功した後、今度は別の問題が出現する可能性があります。都市の空洞化、外部開発村の反乱、本体の保存方法の効率化、クローンの高齢化。少し考えただけでも、福祉省が直面するであろう困難は多すぎます。それらに対処する為に、無謀な実験や法令の制定を始めるかもしれない。だからその前に、我々福祉省には内部における正義の基準が必要なんです。福祉省の都合ではない、外部からの正義が。少なくとも、私はそれを望んでます」
「それを、俺がもちこめってわけだ。先に楔を打っておく、と」
 ノヴァは頷いた。
「貴方は私の同類だ。悪いようにはしない」
 クロウは笑う。ずいぶん買いかぶられたものだ。
 己の守るべきものがあるなら、守るべき家族の為なら、法を犯しても守る。だからこそノヴァーリスは、一月もの間、刑事の目を騙し続けることが出来た。そしてクロウも、家族の為に自分の身も省みないで駆けずり回った。
 なるほど、確かに同類なのかもしれない。
 だが、悪い気分はしない。ノヴァが自分を殺したくないのだと態度でしめした時のように、どこか愉快ですらある。
 とはいえ、もしかしたらこれは、体のいい口封じかもしれない。この秘密を知った人物を、身近において監視する為の。
 仮にそうだとしても、相手はクロウが黙っているだけの男ではないと知っているはずだ。
 ノヴァが全面的にクロウを囲い込むつもりなら、本気で福祉省に入れるつもりなら、後悔させるぐらい暴れてやるのも悪くない。
 いや、この生真面目な男は、本気で勧誘している可能性も高い。本気で、本音で、助言者を求める、と。
 そうだとしたら、ノヴァはクロウにIHW1型のような機能を期待しているのだ。内部から、あるべき方向へ誘導する小さな音とも言えぬ音を発する存在であることを。
 そして、その音はノヴァが拡大させて皆に提示するだろう。二佐文官として、この実験に関わった関係者として。
「そうだな」
 クロウは二つ目の赤いパネルが下がって行く西の暴風壁を眺めながら、笑った。

 謎は解けた。自分の信じてた男は、信じていたままの男であった。母は幸福であるという。
 ようやく、ここ三ヶ月の間に抱えていた全ての重荷を降ろせる時が来たのだ。

「昔なじみの赤い夕陽をいつでも見られるようになるんだったら、考えてやってもいいか」

 この街の一件は、早急に解決しなければならない政治問題だ。自分が働き手として社会に残っている間に、全ての決着が付くだろう。
 ここまで来たのなら、最後まで全力でこの事件に付き合ってやる。
 そう、決めた。




←PREV | Home | NEXT→
1 | 2 | 3 | 4 | 5
copyrights (c) 2001-2017 suzu3ne@CloudCollector'sVector(2CV) All rights reserved.