ハーメルンの黄昏・5

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 黄昏はたそがれ。そして誰そ彼。
 誰が彼なのかわからなくなる境界の時間。
 そして、境界の時間に現れるのは化け物である。
 いつだったか、母はそう教えてくれた。だから、時報のサイレンが鳴ったら、すぐに帰るようにと。
 誰が化け物になって、お前を騙してさらってしまうのかわからないから、すぐに帰るんだよ、と。
 結局さらわれ、帰らなかったのは母だったのだが。
 夕暮れ時の、旧い街角を行く人々は、クロウの知らぬ者たちばかりだ。
 たった今、すれ違った女性は、いつからこの街の住人なんだろうか。
 この街に足を踏み入れて、初めて目を合わせたあの女性は、少し驚いたような自転車のあの人は、やっぱりクロウも良く知る人物だったのだろうか。
 この街のどこかで、母も生きている。
 だが、その母と顔を合わせたとしても、この薄暗い通りでは、互いに誰かもわからず、通り過ぎるかもしれない。
 それでもいいんだと、クロウは夜に染められつつある雲を見上げて、息をついた。
 母が、この原始的な活気に満ちた街で幸福に生きているのならば、クロウはここから引き返すべきなのだ。
 母は帰りたいと何度も言っていた。
 もちろん、例のMCFの効果でその言葉を口にしたのだとしても、母は本心からそう願ってたとクロウは思っている。
 そして母は、この街に帰れたのだ。
 交差事件の起こる前の、若々しい肉体と精神を持った三十年前に。
 どうして、無理に連れ戻す必要がある?
 クロウは自分の人生を捨てる覚悟で、この街に来た。養母と同じ方法で。そして、彼女らの幸福を目の当たりにした。
 だから、この街で新しい人生を与えられた人々の姿を、自分の事のように感じられる。
 ここから帰りたくないと願う気持ちもわかるし、そっとしてあげたいとも思う。
 もしかしたら自分は、この文官に刑事の魂を売り渡したのかもしれない――そんな風にさえ思う。
 これは犯罪だ。国家レベルで非人道的な実験。だが、滑稽なほど必死で、優しい、巨大な犯罪でもある。
 今のクロウには、刑事として、この状況を摘発する勇気がない。
 それは、紛い物でも与えられた幸福を謳歌しているこの街の住民の全てを、そしていつかやってくる自分たちの老後を、破壊してしまう綻びともなりかねない。
 だからこそ、今は思う。
 「木を隠すには、森を」という言葉を。
 この街が成功し、民間的にも技術が解放され、同じような開拓村が幾つも作られた時に初めて、このハーメルンの街も国民に解放され、現実となる。
 そしてそれは、食糧問題が深刻化している以上、そう遠い未来の話ではない。開拓村の成功は早急に達成されなければならず、そしてその労働者として、老人の肉体を再利用する。人間として、第二の人生を、いや、第三第四の人生もありうる。食糧問題が解決するまで、これ以上の解決策が見つかるまで、開拓村は広がり続けるだろう。この場所の最初の一歩から。
 これは、大きすぎる一歩だ。クロウにはその一歩を止める自信も気力も必然もない。
 そしておそらく自分も、老いてはこの街に帰ってくるようになるのだ。その第二の人生を過ごすであろうこの街を潰す必要など、感じない。
 やがてこの街が現実になるまで、障害なく母と再会できるまで――無理に潰そうと声を張り上げる必要はない。
 そしてその時、母の帰りたいという言葉を無視し続けた自分を許してもらうべく、会いに行けばいいのだ。自分よりもずっと若返ってしまった母に。
 その時には、妻も連れて行こう。
 郵送した離婚届をすでに出していようがいまいが、母の安否を気遣っていたのは彼女も同じなのだから。
 そう、母よりも先に、まずは彼女の許しを得なければ。
 許してくれないのも当然かもしれないが、母の無事を伝える為に会いに行くことぐらいは、許してくれるだろう。勝手な男だとなじられるかもしれないが。
 ノヴァが足を止め、クロウもつられて止まる。
 全く記憶にない住宅街の光景に、どれほどの時間を思考に浸っていたのかと慌てる。
 刑事の癖で、思いだそうとするとここまでの道のりを辿ることもできたが、余りに無防備な自分にぞっとした。確かにこの実験都市の中でなら、何か起こってもノヴァが何とかしてくれるだろうが、危機感がなさすぎる。
 もしかしたら、既に自分の感覚は、このニ佐文官を仲間として認識しているのかもしれない。無防備な己の身を預けるに値する、信頼できる仲間として。
 黄昏の薄闇はまだ残っているから、何時間というものではなさそうだが、その間の沈黙を、ひとときでも遮らないのが、ある意味ノヴァーリスらしいとも思えた。
「あなたには、特別に教えましょう」
 ノヴァは黙って、二つ先の通りにあるアパートの窓を指し示した。
 カーテンの隙間からは微かな明かりが漏れ、誰かが内にいることを告げていた。
 あそこにいるのか。
 遠すぎて、人がいるのかすらわからない。黄昏は闇を濃くしている。仮にカーテンと窓が開いて顔をだしたとして、若返った母をそれとわかる保証はない。
 何よりも、あの窓をそうだと告げるノヴァの言葉が、嘘かもしれない。
 だが、クロウはそれを信じた。
 IHW1型とMCFを渡し、IDカードを流し、拘束及び連行という名目でこの街を歩く――それが、この文官にできる最大級の譲歩と犯罪であり、クロウへの好感の現れだったのだ。それがわかった今、一つの嘘があるとしても、それが毒だとしても、飲み込んでやろうと心に決めていた。
「最後にもう一つだけ、聴いて良いか?」
 更なる無言の促しに、クロウは相手の目をとらえたまま、問いかける。
「そのうち、俺もあんたもジジイになって、ここの住人みたいに無理矢理に体を再生させられるとして。……あんた、クローンだけじゃなくて、トランサー手術を受けたりはしねえのか?」
「なぜ?」
「理由が無いから手術を受けないって言ってたろ? 人生やり直すっていうのは、理由にならないか?」
「考えたこともありませんでした」
「考えるつもりは?」
「男女二種類の人生っていうのも、悪くないかもしれませんね」
 どちらの風邪薬を買おうか迷ってるといった風に、淡々とした言葉だった。


 およそ心地よいとは思えぬ音域から、低く重く空気を震わせて時報のサイレンが鳴り響く。
 母の求めた、懐かしいサイレンの音だ。
 重い音に耳が麻痺し、轟音と言う名の無音に叩き込まれた街が、無声映画のように黄昏の中に佇む。
 母が拝むように呟いていた言葉を思い出す。
 仰ぎ見たノヴァの顔は、黄昏の闇の中、メガネのレンズに写る残光ばかりが強調され、顔のない生き物のようだ。
 この化け物にあちらの街から誘われたのは母だったが、今この街から誘われるのはクロウだ。
 そして、近いうちに福祉省の門をくぐり、この化け物と同じ笛吹き男になるのだろう。
 この街へ人をさらってくる笛吹き男に。少し毛色の変わった笛吹き男に。
 自分はともかく、ノヴァは化け物に喩えられてるとは思うまいと心中で笑いつつ、クロウは声をあげる。
 もう、いいや。行こうぜ。 
 クロウがノヴァに呼びかけた声も、渦巻く音の中に消えてしまう。伝わっているのかどうかもわからぬ不確かな手ごたえ。
 だが、見慣れた無言の頷きが、黄昏の景色の中に、木霊となって戻ってきた。



<了>


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