〈ローズ〉の末裔・6
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凍えた地表が、半日をかけて夜を抜け出す。
地平線から昇り始めた太陽は、真っ暗だった空をゆっくりと群青色に変えてゆく。山の向こうの地平線には、常に漂う赤の可視光線。
深く深く青暗い空と赤い地平線、黒い雲。
その景色の中を、フィンはキャンピングカーを走らせた。
自宅の倉庫の前へ、乗用熊を進ませる。
いつもの通り、倉庫を開ける。屋根を開き、植物たちにほんのわずかながら光を届ける。
グスタフとこの場所を後にした時、地熱ヒーターと倉庫の電灯のスイッチは入れたままにしておいた。出力は押さえていたから火事になる心配はしていなかったが、獣や日光不足で植物がダメになっていないかだけが心配だった。
おそるおそる見回した景色の中、萎れているのはごく一部だった。
フィンは改めて、この植物たちの生命力に感心する。
植物たちが少ない日光を貪っている間に、フィンは倉庫内の全ての食料を、キャンピングカーに積み込んだ。
すぐに収穫できそうなベリーも摘んでしまう。
倉庫が空っぽになった事を確認すると、フィンは作業場に足を運んだ。〈偽枝〉を作った場所だ。
〈偽枝〉の設計図と、工具の一式もまとめてキャンピングカーに積み込んでしまう。
アグリが振り回していた銛も、目立たないように、網棚へ括りつけた。
気がつくと、見慣れた輪の太陽は、頭上高くへ移動していた。
黒い陰でしかない〈ローズ〉が、そこにあった。
あの太陽を遮るため、〈ローズ〉は高速で稼働している。この星の面積の、何倍もの大きさで広がっている人工物。
それを造った旧人類。
この星にたどり着き、この星を開拓し、この星を見捨てていった生命体。
あんなものを作れるというのに、どうして自分たちが作り出したと言っても良いこの星を捨てしまったのか。
作り直そうとは思わなかったのか?
『カミよ、カミよ、なぜ私をお見捨てになられた?』
旧人類たちがあがめる有名な文章。
〈ローズ〉が我々を無視するなら、我々も〈ローズ〉を無視するだけだ。
今まで通り。あるがままに。
屋内で白湯を沸かして飲んでいると、メイ夫人がソリでやってきた。
見慣れた光景にフィンは苦笑する。
転がるという形容詞そのままに、メイ夫人は赤土クッキーの缶を抱えて駆け寄ってきた。
「先生、遺産はどうなりました?」
その喜びの笑顔を目に、フィンはグスタフの嘘をようやく思い出す。
彼女は、フィンが一ヶ月半もの間、行方をくらましていた理由を、遺産の受け取りに行ったものだと勝手に解釈していたのだろう。
「おかげさまで、しっかり受け取りました」
この美しい夜の世界の全てを。
「それでメイ夫人、ちょっとお願いがあるんです」
「なあに、先生?」
フィンはメイ夫人を連れて、キャンピングカーに戻った。〈偽枝〉が縛り付けられている事を、メイ夫人が不思議そうに眺めている。
キャンピングカーの中に横たわっていたグスタフを抱き起こす。彼を驚かせないようにゆっくりと背負い、メイ夫人のソリまで運ぶ。
「旅行中の事故で、怪我をしてしまったんです。酷く衰弱してます」
「弁護士さんじゃない!」
「ええ……でも、もう、自分が弁護士であった事も忘れています」
グスタフは記憶の消去以来、突如現れた何百年後の未来世界に気づいてからは無口になってしまっていた。体も本調子ではないらしく、ここ三日ほどはアグリの言う風邪の症状を引き起こして寝込んでいた。簡易検査上は全く問題なかったが、副作用の可能性は否めなかった。
フィンはグスタフが持っていた財布をメイ夫人に渡した。
「遅くとも半年後までに戻ってきます。それまで彼の面倒をみてほしいんです。謝礼はその時必ずします。当座はこれで……彼は酷い目にあったので側についてやりたいんですが、私はまた、旅に出なければならないので」
「どこに行くの?」
「遺産を受け取りに」
「もう受け取ったんじゃないの?」
フィンは笑った。
そして、思い出す。
「フィン、見て! これが太陽! 太陽そっくり!」
モニターに映し出されたブースターロケットが、黒い雲と青暗い空を目指して浮かび上がった時――彼女はそう叫んだ。
「覚えていて、フィン! 私達は、光の中で育ったの!」
光に照らされる雲は白く、その奥の空は全て水色だった。
夜を裂いて突き進むブースターの炎は、遠ざかっていくにつれ、ゆっくりとその輝きを失って行く。
光は大地にまき散らされ、アグリの望んだ塊ではなくなってしまう。
それでもアグリは、暗闇が戻るまでのほんの数十秒、明るい空を目を輝かせて見つめていた。
「残りの遺産を、伝説の続きを確かめに行くんです」
メイ夫人はきょとんと一拍おいて、破顔した。
「研究を再開するのね! 遺産のおかげで、資金ができてよかったわね!」
「まあ、そんなところです」
「どんな研究? 本が出たら教えてちょうだい」
フィンは笑って、約束しますよと請け合った。
「もう一つ、植物たちの様子をお願いします。昼と夜に、屋根を開け閉めするだけで大丈夫です。水や温度は、自動で行えるようにしてありますから。やり方と鍵は、この中に入ってます。気持ち悪いでしょうから、外で屋根を開け閉めするだけで結構です。お願いします」
手作りの解説書と倉庫の鍵を入れたアルミ封筒を渡し、キャンピングカーの制御室に乗り込む。
「もういっちゃうの?」
見送ろうとするメイ夫人に振り返る。
「早く行かないと、伝説が消えてしまうので。街でどんな話題になっているのか、確認したいんですよ」
「伝説って一体、何? なんでそんなに大事なの? 大昔の事でしょ?」
「大昔であって現在進行形の、〈ローズ〉に消しゴムをぶつけようとした伝説ですよ」
「……何を言ってるのか、全然わからない。私、呆けたの?」
「ちゃんとお話できるようになったら話します。とりあえず半年間、お願いしたいんです。他に頼める人が居ないので申し訳ないのですが」
「そんな事はいいのよ。お隣さんなんだから」
メイ夫人の赤土クッキー缶を受け取り、フィンはキャンピングカーを動かし始める。
背後で手を振るメイ夫人に手を振り返し。
フィンは前方に目を向けた。
自宅のある丘の下、〈ブランチ〉まで続いていた青白い氷の平原が広がる。地平線は赤く染まり、頭上にはわずかながらも光輝く星が点り、沈黙が重く漂っている。
その平原を、雪煙を立てて一台のバギーが横切って行く。
厚着した防寒服、昆虫のようなゴーグル、呼気を調節するマスク。
その衣装の下にある栗色の巻き毛を思い浮かべる。
『覚えていて、フィン! 私達は、光の中で育ったの!』
その言葉を思い出す度、彼女の無邪気さがフィンの心を闇に落す。
フィンは自分だけの夜と満月を再び目にする。
彼女の喜びに対する嫉妬。
彼女が真に求める世界がわからぬ苛立ち。
彼女を理解できない己への絶望。
グスタフがアリスに見たものはこれかとも思う。
だが彼女の、自分へむける信頼の眼差しに出会う度、自分だけの夜が明けることも知っている。
彼女がフィンの太陽であり、フィンの中に陰を落とす〈ローズ〉であることを知っている。
夜だけの世界を行く、愛しい愛しい光の子。
フィンはその姿に向かって、ハンドルを切った。
<了>
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