フラミンゴの話・4
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 〈鳥〉と初めて言葉を交わしたのは、ナグサが例のマチスンオオヒグマを狩る為、一人で山に残った時だった。
 今や築二十数年となるナグサの家は、当時はまだ小さな掘っ立て小屋でしかなく、強い風が吹けばぐらぐらと揺れる天井の様は、中にいる人間に船のような錯覚を覚えさせる酷い代物だった。腰を落ち着けて熊を狩ろうと決意したナグサが建てた小屋は、それを作り上げたナグサ自身でさえ、鳥撃ちの時に作る茅葺きの仮屋の方がまだ安心できたような建物だったのである。
 当然、住むのはナグサ一人しかいない。どうせ長くとも一冬の間、熊を狩る間だけだ。雪の重みで潰れない程度の頑丈さなら構わない――むしろ、雪が厚く積もれば積もるほど、重みで屋根は柱に食い込み揺れを止め、隙間風だらけの壁の周りは補強されて温かくなるだろう、降ってくれる方がありがたい――そんな風にさえ思っていた。
 そんなあばら屋の前に、〈鳥〉がふらっと姿を現したのは風も強くなり始めた秋の終わりだった。
 「色が無い」と詠われるダブの山に、旅人らしく所属を現す派手な刺繍を施した桜色のケープを羽織る旅装束の女の姿。それは少なからずナグサを驚かせ、警戒させた。
 彼女は一晩泊めてくれと、早朝の狩りから帰ったばかりのナグサに言った。冬が間近とはいえ、まだまだ宿を探すには早すぎる時間だ。やっと陽が全身を見せたぐらいの時間なのだから。
 ナグサが彼女に向かって初めて発した言葉は、「あんた、本物かい?」だった。
 山には様々な怪奇が潜んでいる。オムレオ・タントもそうだが、視界の端を跳びまわる光の塊―むろん、しっかり見ようと振り返っても何も見えないのだが――や、傍らの草むらに潜んでいたナグサにも気づかれずに出来た、大群の通ったばかりの獣道、そしてどこからともなくナグサめがけて飛んで来た無数の小石。そう言った類の驚異に、山で育ったナグサは慣れすぎていた。
 シラトスの貴族の一人が偉そうに言ってたが、それは磁場と空気の質と風の流れの結果だという。ナグサには本当かどうかはわからない。わからないから気にしなかった。
 ただ、普通の山育ちの娘が立っているには余りに不自然な場所で、不自然な格好で、不自然な申し出であり、そして不自然に美しかった。
「本物って、どういう意味?」
「……幽霊じゃ、ないよな?」
 〈鳥〉は急にほっとしたように肩を落とした。疲れた顔を上げて笑うと、まだ生きてると答えた。
「旅をしてる者なんですが、子供が熱を出してしまって。一晩でいいですから、屋根のある場所で寝かせてあげてください」
 旅人がムルベの山奥に何の用かとも思ったナグサだったが、思いとは裏腹に、彼女へ向かって一歩踏み出していた。
「そのガキっていうのはどこだい?」


 今でも思う。あれはもしかしたら、郷愁のようなものだったのではないかと。
 もちろん、〈鳥〉のように美しい者を前にして、見栄を張りたい気持ちもなかったわけではない。その頃のナグサはまだ三十半ばの、猟師としてはやっと一人前の稼ぎを手に入れられるようになった若造である。しかも長い山生活で女を目にする機会はほとんど無かったのだから、下心が無かったといえば嘘になる。とはいえ、ほんの少し人間らしい事を、人として良い事をしてみたいという程度の下心だった。人とのふれあいに飢えていたのだ。
 それにしても、ナグサにも理解できないほどの早さでの決断だった。
 だから、郷愁ではなかったかと思う。
 ナグサの母親も旅の女だった。ムルベより北に七十キロ程離れた、ダブの山脈に連なるチナ山でナグサは育った。ナグサを育ててくれた猟師は、大陸街道を西へ向かう小さな旅団が山村で食糧を調達した際、東の良質な火薬と共にナグサを買い取ったのだ。ナグサの母親は彼を産んだ時に死んでおり、生まれたばかりの赤子の存在は、まだ長い旅を続ける予定の旅団としては手に余る荷物だったのだろう。一方、子供のいなかった猟師は自分の後継者として男の子を欲しがっていた。探せば里の村から養子をもらう事もできたのだろうが、タイミングが良かったのだろう。その時一緒に買い取ってきたという母親の形見である黒羊皮の防寒布は、ナグサの幼いころの思い出を詰めた小さな小箱の底に敷き詰められ、今でも寝床の下に埋められている。
 いや。あれは『旅の途中にある母』という立場に感じた、憐憫であったのかもしれない。
 今となっては確かめようのない感情だが。


 高熱でぐったりとした小さな子供は、毛布に包まれたままナグサに抱きかかえられて、おんぼろの小屋に入った。
 子供の名前はスラ。ダブの人間だと思えば変わった名前だが、それも当然。スラは幼名だった。彼らの一族は七歳で第一成人の儀式をするまで幼名で過ごす。それまでは先祖の一人と同じ名前で生活し、その死んでしまっている先祖の力を借りて成長するのだと言い伝えられていた――後に〈鳥〉からそう聞かされた。だから、やっと一歳になったばかりの男の子の名前は、〈鳥〉の祖父の幼名と一緒だった。山を歩き回っている少年らしく、泥と日に焼けた肌は黒く汚れていた。服の下からのぞいた肌の白さに驚かされたほどだ。病自体は子供にありがちな突発的な高熱で、最初こそ重い病かと戸惑ったナグサだったが、〈鳥〉が落ち着いて病状を捉えている事と、彼女が必要としているものが子供を休めさせる場所なのだと悟って安堵した。気休めかと思いつつもナグサは精力をつける薬酒――カンタツキの実とメノマイタチの肝を自家製の果実酒で煮込んで作ったものを渡し、そしてありったけの夜具を重ねた寝床を提供してやった。そこまでする義理はないと思いつつも、翌朝になっても熱が下がらない時には医者を呼びに行こうと考えていた。
 どれがどのように作用したのかわからないが、子供の人騒がせな高熱は、一晩ですっきりと消えうせていた。
 けろりとした顔で立ち上がった我が子の、その姿を見たときの〈鳥〉といったら。
 その時のナグサは、彼女が翼を持つ種族だとは知らなかった。だが喜びに顔を赤らめて伸び上がった時には、そのまま飛んでいってしまうんじゃないかという錯覚に襲われたものだ。
 翌日は様子を見る為に留まった二人は、更に次の日の朝になって出立した。
 〈鳥〉は何度も頭を下げ、お礼にと、自分の背負い袋の奥から複雑な繰り返し文様を刺繍された袋を引っ張り出した。何度も指先で印を切り、何度も祈りを捧げてから、〈鳥〉はその袋を開けた。
 中に入っていたのは、数え切れないほど多くの骨の山だった。
 驚くナグサに〈鳥〉は、「私の一族の骨です」と事も無げに告げた。
「私たち、巡礼の為に山々を渡り歩いてるんです。一年かけて、ダブの東端の尾根から西端の尾根に歩いて。その途中で死んだ者の骨を、西から東に行く途中なら東の端で、東から西に行く途中なら西の端に埋めるんです。今は二人きりなんで、何年もかけて西に向かってるんですが」
 話の悲壮さの欠片も感じさせない微笑で、〈鳥〉は穏やかに語ってくれた。
「一昨年の流行り病で、一族は私たち家族を残してみんな死んでしまって。夫と二人でなんとか西に向かって旅を続けてきたんですけど、その夫も先月あっけなく死んでしまって。この袋の中に入ってるはずだけど、もうどれが誰なのかわからないの」
 思いがけない話が飛び出してきた事に対しあっけに取られたナグサの目の前で、〈鳥〉は袋の中から一つの骨を取り上げた。
「これなら、ナグサを守ってくれる。受け取って。この辺りの猟師には二つとないお守りになるから」
 そこで初めて、ナグサは気づいたのだ。ダブの猟師が大事にする貴重な骨のお守りといえば、それは一つしかない。
「あんた達、まさかフラミンゴなのか……」
 〈鳥〉は幼い我が子と手を繋いだまま、どこか恥ずかしそうに、それでいて誇り高く胸を張って、小さく頷いた。
 

 元気になって旅立っていった二人は、翌年再びナグサの家を訪れた。
 連れの子供が小さい為、〈鳥〉は西の尾根の先端に一族の骨を埋葬すると、東の端まで旅を続ける事は断念したようだった。代わりにムルベの山で、巡礼生活を続ける事にしたという。
 来年、また泊まりに来てもいいかなと冗談交じりで聞いてきた〈鳥〉に、ナグサは勝手にしろと答えた。
「だけど、どうして俺の家なんだ?」
「簡単。ナグサがいい人だから」
 数日後に手を振りながら去ってゆく二人の背中を見送った後、ナグサが家を建てかえようと決意するまで時間はかからなかった。
 毎年夏、ケリィ候がムルベの別荘に狩りへ来た時のガイド料も、各地の問屋に卸す毛皮や肉の代金も、旧式の弾丸を使用するナグサにとっては余るほどの報酬だった。マチスンオオヒグマを仕留めた報酬も、使う道も無くほとんど残されたままだった。しかも、山育ちのナグサにとっては、一日や二日、飲まず食わずで過ごす事など当たり前だったから、適度な量の食べ物さえ確保できていれば、無理に食料品などの生活必需品を買う事も使用することもなかった。
 無駄に溜まっていた小銭をかき集め、ナグサは里村の猟師仲間達に頼んで、本格的に住み着く為の山小屋を建てた。
 今住んでいる家が完成した翌月、〈鳥〉は三歳になる幼子を連れて再び訪れた。
 様変わりした小屋の様子に怯える〈鳥〉とスラに、ナグサは手招きして言った。
 もしよかったらしばらく、いや、何年か泊まっていけと。


 フラミンゴとの生活は、思っていたより難しくは無かった。
 翼人種というものが人間に擬態しているのは、人間を喰らう為だと聞かされ続けていたが――それでいて彼女達を泊めようと思ったナグサは、見かけ以上にお人良しのケがあるのかもしれない――〈鳥〉に言わせると全くそんな事は無いのだという。誤解を恐れずに言ってみれば、女神が強力な力を必要とする時に、人間よりももっと力のある『人間』を使いたいと思っただけで、各部分において人間と大差ないのだそうだ。
 むしろ、フラミンゴの中の魔物としての荒々しさは、巡礼の翼人種という行動様式を取るうちにすっかり無くなってしまったのだと言う。今のフラミンゴは、人を襲って喰らう事はおろか、里村に行くことすら稀な生き物だった。魔物に対抗しようとする人間の武器と魔術の発達がそれに拍車をかけていた。つまり〈鳥〉とスラは元々、限りなく人に近い形に進化したフラミンゴの末裔だったのだ。
 ナグサが山での生活のルールを教えると、〈鳥〉とスラは大人しくそれに従った。対して、〈鳥〉が自分たちの部族に伝わる毛織物や染色で飾られた温かな衣類をナグサに着せたり、寒々しい床一面に敷き詰めたりした時にも、ナグサは特に反対しなかった。反対する理由も特に無かった。殺風景だった家は、それだけでフラミンゴの長達が使う豪華なテントの様相を呈して、柔らかく明るい空気を抱いた。
 フラミンゴの生活を維持する為、〈鳥〉は時折、側の峰を通りかかった他の一族に接触しようと家を出る事があった。心配したナグサが、スラ共々同行すると、心配性だと言って笑った。
 フラミンゴの人々は、〈鳥〉が人間と生活している事に驚きはしたものの、とりたてて反対したり軽蔑するような態度は見せなかった。少なくとも、ナグサの前では礼儀正しく、同種族の憐れな親子を救ってくれてありがとうと頭を垂れた。ある一団の長であった老婆など、ナグサの手を両手で握り、何度も自分の額に押し付けては涙を流した。その老婆に言わせれば、消えてゆく種族である『紅の信者達』に対して哀れみを抱いたナグサは、フラミンゴにとって希望でもあるのだそうだ。人間とフラミンゴの共存。それ以外、この先フラミンゴが生きていく道は無いのだとも。
 大袈裟なとナグサは笑ったが、フラミンゴたちは真剣なようだった。既にいくつかの部族が連絡を取り合い、若者の数人がシラトスへ向かったようだが、皆連絡が取れなくなって久しい以上、過剰な期待を寄せる事はできないというのだ。
 少しずつでも、人間の中にフラミンゴを残して行きたい――その為には、ナグサのように協力を申し出て、人間のルールを教える人間が必要なのだ。
 そうやって何度も引き合わされるうち、ナグサはフラミンゴたちにも同胞として受け入れられていった。特に同い年だという若い長・クルトとは、ウマが合った。クルトもナグサ同様、無駄な会話を好まないタイプであったが、一緒に鹿狩りに行った事から、二人は互いに素晴らしい腕の猟師だと認め合い、杯を交わしあったのだ。
 ナグサはクルトから、フラミンゴたちが狩りに使う魔術工芸品を幾つか見せてもらった。主にウサギ皮やトチの木で組み合げられる魔術罠の数々は、シームの作る道具のように洗練された都会風の品々ではなかったが、その威力たるや絶大なるものであった。
 天然の蓄力器であるフラミンゴの羽根は無尽蔵にあったから、それらを動力として稼動する魔術工芸の罠は、動物を傷つけずに捕らえる風霊や土霊を際限なく使用する事が可能であったのだ。ある意味、ケリィ候の持つL&Mの銃や魔術弾丸などよりずっと高価な材料で、しかし仕組みは実に素朴な昔ながらの道具を用いて狩りを行っている事になる。何の変哲も無い木の枝や石を踏みつけた途端、大地や空中に出現する魔術円は、ナグサが知らないだけかもしれないが、品物の卸しの為に何度か足を運んだシラトスの、偉大なる六大魔術師ギルドの中で見た魔術工芸の、どれとも違っていた。
 クルトは何度もナグサを自分のテントに誘い、朝まで互いに杯を重ねながら、ナグサと語り合った。口下手な者同士の会話だったから、要点だけを語って終わる事もしばしばだった。たまにだが、当日の狩りの成果を尋ねあっただけで黙り込み、ひたすら口当たりの良い馬乳酒を飲み続けた事もある。
 それでも、クルトはナグサと飲む事を楽しみにしていたらしく、最終的にはムルベの山に何ヶ月も滞在する事になる。そう、彼が死ぬその日まで。
 そんなクルトが酒の肴に語っていたのは、部族の長らしい様々な知識だった。フラミンゴたちが行う伝統的な狩猟術の陣形から、部族同士の戦争術、用兵術まで、ナグサにもわかるよう動物に喩えて教えてくれた。
「なぜそれを俺に教えてくれる?」
 クルトがいつもどおり、フラミンゴたちの使う奇襲のやり方を説明し始めた時、たまらずナグサが尋ねると、クルトは顔色一つ変えずぶっきらぼうに答えた。
「今、フラミンゴたちの間には、奇妙な病気が流行っている。どこからはじまったのか、どうやって感染するのかわからない。お前の〈鳥〉の一族が死んだ病だ。突然羽根が付け落ち、高熱で倒れた後は背骨が曲がり、子供のように小さく縮んで丸くなる。生まれた時のような体制で死ぬんだ。そういうと神秘的だろうが、実際は惨めなものだ」
 一度言葉を切り、クルトはナグサの目を見た。フラミンゴの大部分がそうであるように、彼の瞳は漆黒で艶々と輝いていた。
「私の父がそれで亡くなった。それ以来、まるで順番を待つように一人一人と病で倒れて行く。昔からフラミンゴは没落の種族だから近いうちに死に絶えるという者はいたが、それが現実になりつつあるのを感じているのは私だけではない」
「それと俺とがどう関係するってんだ?」
「お前はスラを育てる事ができる。人間になろうっていうフラミンゴに、無理に我々の伝統を教え込む事はない。ただ、思い出話代わりに今までの話を語ってもらえれば、それに勝る嬉しい事は無いというだけだ」
 クルトは語らなかったが、ナグサはその言葉に彼の長としての立場を感じた。クルトは、運良くフラミンゴの生活から切り離された親子とナグサに、フラミンゴの未来を託していた。流行り病の原因も感染方法もわからない以上、隔離された二人はクルト達よりも感染する確立が低いと考えたのだろう。
 厄介な期待を背負わされたとナグサは内心腹を立てたが、その反面、オオヒグマを倒した時のような「自分がやってやろうじゃないか」という意欲も湧いた。
 ただ普通に、スラを育てれば良いのだ。クルトに指摘される前から、ナグサは子供を育てるつもりだったし、すぐに手放すつもりも無かった。フラミンゴたちが期待しているように、人間として育て、たまにフラミンゴの知識を教えれば良い。生活上の風習は〈鳥〉が教えるだろう。一介の猟師である自分がフラミンゴと人間の架け橋になるなんて大それた事はできやしないが、そうやって育てられたスラならできるかもしれない。
 ナグサは自分がそうであったように、スラに狩りを教えはじめた。最初は簡単な、細い木の枝を組み合わせた罠の組み方。そして竹篭の編み方、鉈の研ぎ方、トラバサミの油の挿し方。
 罠の構造を教えながら、ナグサはスラを連れて山道をあるいた。どこにどんな罠を使うのか、罠を有効に使うため、銃を持って敵を追い詰める時にはどのように獣を動かす事を意識するのか。まだ理解できなくとも、ナグサは言葉少なに語り続けた。自分がそうだったように、スラもいつかナグサの言葉の意味を理解できるようになると思っての事だった。
 スラは無口な子供だった。単純に、同い年の人間もフラミンゴもいなかったせいだろうし、ナグサも必要以上の言葉をかけることがなかったせいかもしれない。母親はあれこれとさえずる様に世話を焼いたが、彼女が話せば話すほど、スラは無口になっていった。
 無口な息子の事を〈鳥〉があんまり心配するものだから、ナグサも少しずつ不安になった。自分の事を家族として拒否するが故に話さないのかと思ったのだ。五歳になった時、ナグサはクロマチシカの皮で出来た猟師の見習い服を手渡しながら、それとなく尋ねたものだ。
「この服を着たら、俺とお前は猟師の師弟だ。師弟といえば、親も同然。お前は俺の事をオヤジだと思えるか?」
 スラは黙って頷き、受け取った服の袖に腕を通した。
「お前は俺の事を、父親だと思えるのか?」
 重ねて尋ねたナグサに、フラミンゴらしい猫のような瞳のスラは、琥珀色の虹彩の奥から面倒そうに答えたものだ。
「おとうちゃんを、なんでまた『おとうちゃん』だって確認しなきゃなんないの?」
 ナグサの方が、自分がこの家族の一員になった事を確認させられたのだ。

 それからの一年間は、単調であるが故に幸せな時間だった。
 スラはまだ幼くてナグサの後をついてくるだけで精一杯だったし、鳥を狙う為に長時間座り続けるのも苦手だったが、よく我慢していた。獲物を仕留めると、こわごわと近づき、興味を湛えた眼でナグサの手さばきを見ていてくれた。スラがいくつかの簡単な仕事をこなせるようになると、ナグサにとって狩りとは、その成長を見る大切な場になっていた。
 仕事が終わると、〈鳥〉が待っている家へ肩を並べて帰った。〈鳥〉が作る料理は、村の旅館の女将ほど多彩でもなければ格別うまいといえる品でもなかったが、飽きの来ないよう繊細な味付けで日々の変化をつけていた。旅生活の知恵から来た料理なのだろう。簡単ではあったが、ナグサの一人暮らし時代から見れば十分にご馳走と言える温かい料理が、労せずして夕食の席に並べられるというのは幸せ以外の何ものでもなかった。
 陽が落ちれば、明日の早朝からの狩りの準備に鉄砲を磨き、罠の手入れと荷物の確認をしたら揃って寝床についた。肩を寄せ合い、互いの体温で夜の寒さをしのぐ事が遠い昔の幼い記憶にしかないナグサは、自分もまたスラのように小さな子供になって〈鳥〉の腕の中にいるような錯覚をおこした。眩暈にも似たそれは、迷惑な事に心躍る類のものだった。
 〈鳥〉もナグサも大人ではあったから、夜の営みに励む事があっても良かったのだろうが、不思議とナグサにその気はなかった。心のどこかに魔物の一種であるという気後れがあったのかもしれないとは思うが、どちらかといえば、この美しい一対の母子を自分が割って入って崩してしまうのはいけないという感覚が、ナグサの胸中に残り続けていた。〈鳥〉がどういうつもりでいたのかわからないが、ナグサは彼女の美しい肢体を自由にしたいという欲求を失っていた。出会ったばかりの頃こそあった劣情だが、彼らを守ってやってるという使命感に満たされるようになってからは、綺麗さっぱり、消えうせてしまった欲望だった。
 本当の親子というものをナグサは知らなかったが、きっとこんな感じのはずだと、確信していた。




 ケリィ候に呼び出されてシラトスへ向かったのは、その単調な一年が終わろうとしていた夏のある日だった。
 シラトスまでの長い道のりを、ナグサはケリィ候の夏用別荘にあった八頭立ての馬車を使って移動した。ケリィ候のガイドとして毎年訪れるナグサの事を別荘の管理人たちはよく知っていたし、ケリィ候自身が「シラトスへ用がある時にはいつでも使って良い」と許可を出していたからだ。ナグサのような獣臭い猟師が貴族の乗り物を使う事は多少後ろめたい気分になったが、実際、往復で二ヶ月かかるシラトスまでの道のりが半分以下になる馬車の速度は魅力的だった。
 あまり何度も使って、その美しい貴族の道具を汚したりしてはいけないと思いつつ、ナグサは度々シラトスへの足にしていた。シラトス近くの雑木林に工房を持つシームに材料を届ける時、〈鳥〉の為に何かを買ってやる時――そう、後にあの丈夫で大きな窓ガラスを買った時も、この馬車がナグサを運んでくれたのだ。
 ただし、ケリィ候に呼び出された今回は違った。血相を変えてやってきたケリィ候の使者は、すぐにシラトスへ向かう旅支度をするよう命令し――その使用人は、普段そのような言葉遣いをする人間ではなかったのだが――その剣幕に肩をすくめる〈鳥〉とスラの様子には目もくれず、ナグサが旅行用の道具が一式詰まった皮袋を引っ張り出してくるのをイライラしながら待っていた。
 明らかに、ただ事ではなかった。
 がむしゃらに馬を駆る使者の姿に、ナグサは不安を覚えずにいられなかった。ケリィ候の身に何か起こった事は嫌でも理解せざるを得なかったが、それがどうして、ある程度名が知られているとはいえ、一介の猟師であるナグサを必要とするのかわからなかった。
 干し肉と硬く焼きしめたパンを齧るだけで、温かい食事一つ取らず、各地で馬を交換しながら夜通し走り続け、二人がシラトスにたどり着いたのは四日後の事だった。驚異的な速度に、何度も馬車を利用したことのあるナグサでもため息をついた程だ。
 人目を避けるようにシラトスの中にあるケリィ候の別荘に迎え入れられた馬車は、慌しくナグサをケリィ候の前に押し出した。身だしなみを整える時間など、当然のようになかった。
 久しぶりに対面したケリィ候は、憔悴しきった様子でナグサを眺めていた。頬がこけ、髪も掻き毟った事が容易に想像できるほどに乱れていた。
 彼はナグサのたどたどしい挨拶――ムルベの山の中ならともかく、シラトスの屋敷でいつもの猟師式挨拶を交わすのはまずいと思ったからだ――も遮り、開口一番、こう言った。
「ナグサ、フラミンゴを狩る事はできないだろうか?」
 その時の感覚を、なんと表現すれば良いのだろう?
 大きな獣を撃ち損じた時のように実感できる恐怖とはまた違った、爪先の方から震えがくるような、徐々に息がつまり、心臓が締め付けられて行くような恐怖感。
 大きな失敗をしでかしたような、これからしてしまう事がわかっているような。
 でも、どうしようもないというこの諦めにも似た悲しみ。
 驚きで言葉も出ないナグサに、ケリィ候は語った。
 第一婦人が重い病に倒れた事。しかしそれは表向きの理由であり、本当は何らかの呪術的な毒物を食べ物に混入され、体内から弱りつつあるのだという事。西方諸国一の医療技術を誇る下風切羽ギルドでも、使用されている毒物が南方系の品なので手を出せないとの事。自然の治癒力に任せて、奥方の体力をつける方法が最善だといわれた事。
 近々、ケリィ候には跡継ぎを決める大事な会議と儀式が待っていた。今回正室が倒れた背景には、第三婦人との政治的な攻防があったと考えるのに不自然はない。第一婦人がいなければ会議を有利に進められるだけでなく、他の側近達へ実力行使も行いかねないという牽制にもなる。病欠だと発表すれば、そんな体の弱い婦人の子供を後釜に据えられるかと、体つきだけは立派な第三婦人の息子の健康さをアピールし、相手を蹴落とす為の糸口にもなる。
 もちろん、ケリィ候としては魔術学院の一般教養部で勉学に励む第一婦人の子を推薦したいところだったが、この平和な世の中、未開の毒物を使用してまで地位を狙う第三婦人の行動力に、のんびりした地方の政治に慣れきっている地元の貴族達は恐れをなし、陣営を鞍替えする輩が増えつつあった。
 もっとも、これら一連の騒ぎが第三婦人陣営の仕業だとする証拠があるわけでもない。あくまで推測なのだ。
 悩んだケリィ候は――本当か嘘かはともかく――下風切羽ギルドの長であり、女神の弟子であり、数百年を生きているという女魔術師パエラに相談をもちかけた。ケリィ候としては、跡継会議とその儀式の間だけでも、第一婦人の体力を回復させたかったのだ。
 パエラは面会に応じる事ができなかったが、その弟子筋であり、現在の下風切羽ギルドの実質的な長である会計長のカルナと話す機会を作る事はできた。カルナは自ら往診し、第一婦人の容態をその目で確認した後、ケリィ候に告げた。
 このご婦人は手遅れです、と。
 ただし――より強い魔力を持つ食べ物を与えれば、もしかしたら、その呪術を打ち消したり弱らせたりする事があるかもしれない、と。
 賭けも賭け、不確かな推測の話だったが、ケリィ候は尋ねた。それはどこに行けば手に入るのか。
 カルナはもしかしたらだと念を押して、はっきりと答えた。
「魔物の長である翼人種とか……この辺りで手に入るとすれば、フラミンゴと呼ばれる翼人種の肉なら、もしかしたら」

 ナグサは呆然とケリィ候を眺める事しか出来なかった。
 フラミンゴは消えていく種族であるとクルトたちは語っていた。その言葉が頭の中で渦巻いた。同時に、打算も浮かんでいた。ムルベの猟師たちは後援者を持つ。自分たちの狩った動物を買い上げてくれる得意客だ。この仕事を断ったら、確実に大事な客が一人いなくなる。新しい客を捕まえるには、ナグサは年を取りすぎていたし、愛想も良くなかった。昔かたぎの鉄砲撃ちが、貴族の後押し無しでどこまでやっていけるのか、見当もつかなかった。
 フラミンゴを、狩る。
 狩るにはどうすればいいのか、誰を狩るのか。
 いや、狩らずに済む方法はないのか?
「フラミンゴの居場所は、知っているのか?」
 ケリィ候の言葉に、ナグサは頷くしかなかった。家族の、一族の為に必死になっているケリィ候の気持ちが、クルトたちから聞かされた滅亡する種族の最後のあがきがとてもよく似たものだと理解したが故に、ナグサは侯爵の気持ちを潰す事ができなかった。
「でも、狩る事は、できません……」
「何故だ?」
「……フラミンゴは、もうほとんどいません……狩ってしまったら、本当にいなくなって……」
 ナグサの様子に、何かを感じ取ったのだろう。ケリィ候は、口調をがらりと変えて、子供に諭すように優しく話しかけてきた。
「ナグサ、フラミンゴは人を食べるんだ」
「……はい」
「いつ、ムルベの山の村が襲われるかわからない。そうだろう?」
 もうそんな事はないと知っていたが、なぜ知っているのかを語りたくないが為に、ナグサは頷いた。
「フラミンゴは、神に命じられてこの世に生まれた魔物だ。人にとっては敵なんだ。だが神がこの地から立ち去った今となっては、いてはいけない生き物だ。違うかな?」
 そんな事はない、そんな事はない――体は全身で否定していたが、ナグサは頷くしかなかった。
 どこかで線を引かなければならない。ケリィ候を捨てるか、フラミンゴを捨てるか。
「でも……俺には――」
「撃てない、か?」
「あれは、人が関わっちゃなんねぇです、今は、ダメです」
「それは、ムルベの猟師みんなの、宗教的な事なのか?」
「違います、でもダメです、あれはそっとしておくのが一番だ。あいつらが人間を喰った話なんて、ここ何年も聞いちゃいません、何もしちゃいないんです。だから何もしないでくだせい」
 ケリィ候はナグサの言葉に耳を貸さず、執事に狩りの仕度を始めるように命じた。そして、戸惑うナグサに言った。
「なら撃たなくてもいい、私たちをそこに案内するんだ」
「え?」
「お前は我々のガイドをして、たまたまフラミンゴの群れに遭遇した。それでいいだろう。後の事は私と仲間達に任せておけ。お前はお前の信じる宗教に従って、黙ってみてればいい。もっとも、フラミンゴが我々の仲間としてお前を襲うかもしれないがな」
 屋敷の中が騒然とし始め、どこかに集められていたらしい、ナグサ同様ケリィ候が抱える五人の猟師たちがぞろぞろと隣室から外へ移動していくのが窓の向こうに確認できた。
「襲われたら――その時は、撃ち殺せ。大丈夫だ、お前の鳥撃ちの腕は、私が保証する」
 大きな仕事が動き出してしまったのを感じ、ナグサは自分のしでかした事、そしてしでかそうとしている事の大きさに震えた。どうにかしてクルトや〈鳥〉にこの事を知らせなければならなかったが、ケリィ候が命じたのか、ムルベに移動するまで、ぴったりと側に張り付いている侯爵の部下や猟師仲間の為に、何をどうする事もできなかった。何よりも、どんな手段を用いれば彼らより早くフラミンゴたちに事態を知らせる事ができるのか、わからなかった。
 来る時と同じ馬車に詰め込まれ、来る時と同じようにほぼ飲まず食わずで移動した。一緒になった五人の猟師たちが今まで狩った獲物の自慢話をしている最中も、ナグサは考え続けた。考えたがどうしようもなかった。諦めと絶望で、何度も頭が真っ白になり、全てが夢の中のような気分がした。
 その後はもう、ただ無我夢中だった。尋ねられるままに答え、歩き、見慣れたムルベの山の中を彷徨った。いないでくれ、移動していてくれと祈りながら、わざと遠回りしながら。
 だが、彼らはそこにいた。
 十人にも満たない、小さな集落。この一群に、ナグサも〈鳥〉も何度か挨拶した事がある。幼いスラの為に、彼らの持っていた木の実細工のおもちゃと玉飾りをくれた、小さな少女の姿が脳裏に浮かんだ。

 最初に撃ったのはケリィ候だった。
 凶暴な獣を追い込むときのように、待ち伏せる組と追い立てる組に分かれて、ケリィ候は合図でもある最初の一撃を放った。
 何事かわからず、鮮やかな天幕から飛び出してきたフラミンゴたちの姿は、人間そのものでしかなかった。だが皆は必死になって引き金を絞り、弾を込め続けていた。狩りでもなんでもなかった。何人かが背中から魔力の翼を放って空へ逃れようとしたが、当時にはまだ出来たばかりだった魔術弾丸と、腕利きの猟師たちの狙いから逃れられるわけもなく、あえなく地面に落下した。二手に分かれる作戦も何も、凶暴な魔物に対峙するという意気込みが滑稽なほど、あっけなく全てが終わった。水辺から追い立てられた水鳥たちだって、こんな風に群れを消された事はないだろう。
 ケリィ候の指示で、他の猟師たちは天幕の中を探し始めたが、ナグサは全身の震えを押さえながら歩くだけで精一杯だった。
 二度、天幕の中から銃声が聞こえた。例の伝染病で寝込んでいたフラミンゴを殺した音だった。
「こいつらは……人間だ」
 ナグサは呟いた。そこかしこにばら撒かれた獲物の肉片は、どれを取っても人間の欠片だった。
 違うぞ、ナグサ――笑いながらそう言ったのは誰だったか。ケリィ候か、仲間の猟師だったか。
「こいつらは鳥だ。でっかい鳥だ」
 山の小道具をいれて運ぶ竹細工の籠一杯にフラミンゴを詰め、他の人々に見られないよう蓋をした。嬉々としながら今撃った魔物について語り合う皆と離れ、ナグサは一人、うち捨てられたフラミンゴの集落を歩いていた。取り返しがつかないとわかっていたが、これで第一婦人の病が治り、他のフラミンゴの犠牲がなくなるなら、仕方がなかった事なのだと自分に言い聞かせながら、ナグサは皆のもとに戻った。
 だが、拾い集めた体の一部に、すらりとした、〈鳥〉を思い出させる細く小さな腕を見つけた時、もう一度、スラに土産を持たせてくれた少女の顔を思い出した。
 その時の事で覚えているのは、それまでだ。
 どうやって帰ったのか、報酬をどれほどもらったのかわからない。自分の小屋に戻ってから一日寝込んだという事も、後から〈鳥〉に聞かされて思い出したぐらいだ。
 それが悪夢の始まりだった。
 第一婦人の病が、彼らの肉で進行を停める事は無かったのだ。
 小さな集落の犠牲は無駄になったのだ。





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