フラミンゴの話・5
←PREV | INDEX=消えていく街 | Home | NEXT→
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6


 〈鳥〉が意外な言葉を口にしたのは、初めてのフラミンゴ狩りから半月ほど過ごした後だった。
「ナグサは、この近くの産婆さんって知ってる?」
 想像もしなかった話題にぽかんとしていると、〈鳥〉は少女のように声をあげ、体を折って笑った。
「違うわよ、ナグサ。なんか勘違いしてるでしょ? 大体、私と貴方じゃ、産婆さんが必要になるような事してないじゃない」
「……じゃあ、なんで産婆に?」
「子供を持ってる女はね、人間でも翼人種でも、産婆さんが必要な時があるのよ。お産の時だけじゃなくてね」
 身近に女の家族をもたなかったナグサは、〈鳥〉がどんな意図を持って産婆に会うのか想像もできなかった。〈鳥〉が冗談めかして女の秘密だというなら、そういうものなのだろうと納得した。
「この辺りで産婆といえば、みんなバッツ婆さんだって言うな」
 一日に五回も教会に行って祈る、妄信的な大陸教会信徒。人が良くて、愛想良くて、昔話に出てくる優しい祖母の像をそのまま取り出したような、腰の曲がった婆さんだ。全く関係ない職業のナグサですら知っている熱心な教会参りは、初めてあの村を訪れた四十年前から変わらなかった。
 今度連れて行ってやるよと約束すると、〈鳥〉は嬉しそうにスラに語りかけた。
「よかったね、スラ。みんなでお出かけなんて、初めてだね」
 スラは迷惑そうに眉を潜めたが、頬を赤く染めたのは照れ隠しだというのが明らかだった。なるほど、スラはナグサの弟子として何度か里村に行ったこともあったが、母親を皆に見せるのは初めてなのだ。
 ナグサはその反応に、スラの子供らしい一面と母親への誇りを見つけて、ニヤつく――が。
 唐突に脳裏に差し込むのは、あの集落の惨状だ。
 美しいフラミンゴ達がなす術も無く、魔術弾丸で木っ端微塵に撃ち砕かれてゆく光景。死の衝撃で濁った瞳、強張った表情のまま木々の梢を睨むフラミンゴの死体。転がっていた小さな手足の持ち主は、どんな笑顔を浮かべていたのか。
 ナグサは自分の目の前に立つ一対のフラミンゴにその光景を重ねている自分に気づいて、一人、平和の中に戦慄した。
 それだけは避けなければならない。この二人だけは守らねばならない。この二人にだけは、自分がしでかした事を知られてはならない。
 表情を凍りつかせたナグサを、スラがじっと見ていた。
 それは今でも忘れられない目だ。あの頃の事は、櫛の歯が欠けるようにボロボロと忘れたナグサなのに、忘れたい光景の一つであるあの目が、どうしても忘れられない。


 第一婦人の容態が好転しない事から、ケリィ候は何度もムルベの山に足を運ぶようになった。もちろん、フラミンゴの為である。
 その度にナグサはガイドを命じられた。しかし今度はナグサも考える時間がある。ケリィ候たちがシラトスとムルベを往復する間、暇を見つけては近くに滞在している集落にはそれとなく退去を勧め、それがかなわないようならクルト達に合流するよう説得していた。予想外の速さでケリィ候が戻ってきた時には、スラを伝令に、集落へ移動するよう伝えた。もちろん、ナグサ自身もケリィ候を散々引っ張りまわし、あらかじめ確認しておいたフラミンゴ達の野営跡を見せては運が悪かったと思わせるよう心を配っていた。
 空振りの続くフラミンゴ狩りにケリィ候が苛立ちはじめれば、ナグサは例の伝染病で床に伏せる者の多い集落へ案内した。そういう集落は消滅するのも時間の問題で、若く健康な者はほとんど別の集落に移動させられていたから、後ろめたい気分は少しだけ和らいだ。
 とはいえ、やはり気分のいいものではない。
 形ばかりで銃を構え、引き金を引いてはいたが、ナグサは一人も撃つ気にはならなかった。獣を撃つ事には慣れていたが、人の形をしているものを平然と撃ち殺すには、あまりに時間も経験も足り無すぎた。
 ケリィ候と一緒にやってきたペリーク山の猟師ゼマンジャは、ナグサにこう言ったもんだ。
「俺は金になるし、有名な魔物のフラミンゴを撃てるからって来たけどな、正直、もう参ったよ。ムルベはペリークより景色が単調だし、危険も多いし、退屈っていうか、気が滅入るんだ……ここに住んでるあんたにゃ悪いけどな、これはホントだ。よくこんな場所で何年も暮らせるなって、感心してるんだぜ。……でも、何よりも、今回はフラミンゴ狩りだってのがいけねぇ。だってよ、奴ら、教会で聞いてたみたいな『体がデカくて爪は尖ってる、羽根だらけで人を見りゃ襲ってくるバケモン』なんかじゃねぇんだもんな。生まれたてのウリボウの方がまだ怖ぇよ。あれじゃ人間さまを撃ってるとしか思えねぇんだ」
 大体なと、ゼマンジャは嘆いた。
「フラミンゴは一羽なのか一匹なのか一人なのか? 俺は空飛ぶ罰当たりな生き物は一羽って数えると思ってたんだけどな、あいつらほとんど飛ばないだろ。翼人種ってのは、そんなに飛ばない奴なのか? あれじゃまるで人間だ。俺たちは何を狩りに来たんだ? 人間が相手なんだったら、俺たち猟師じゃなくて、偉そうにふんぞり返ってる教会の僧兵か皇帝の軍隊でも連れてきた方がよっぽどマシだぜ」
 自分と同じように感じている猟師がいる事に、ナグサは胸を撫で下ろしたもんだ。
 ゼマンジャは辛抱強くケリィ候に同行し、三つの集落を潰してからはもう参加してこなかった。同じダブ地方とはいえペリーク山は遠く、体調を崩したからという理由が本当かどうかを確かめる術は無かったが、ナグサは本当なんだろうとぼんやりと思った。きっと彼は、人間を撃つ事が、嫌で嫌で堪らなくなって、心も体も狩りから逃げ出したのだ。
 ナグサも逃げ出したかったが、それではやはり後ろ盾を失う事にかわりはない。お家騒動も絡んでいる以上、ここで逃げ出せばケリィ候の家臣達に追われ続ける事になるかもしれないのだ。安全な場所でスラを育てたいし、そんな目に会うのはごめんだった。


 麓の村に二人を連れて行くまで、一悶着があった。〈鳥〉の着ていく服がなかったからである。
 まさかフラミンゴの衣装で行くわけにもいかず、彼らの所属を表す派手な刺繍は目立ちすぎた。仕方なくナグサの持っている中で一番大きなマントをポスガンツユクサの紫がかった色に染め直し、女物らしく飾り立ててすっぽりと纏う事にした。
 マントを纏ってくるりと一回転してみせた〈鳥〉は、嬉しそうに尋ねたものだ。
「見て、見て見てナグサ! 変じゃない? フラミンゴならこれって凄く素敵な色なんだけど、私は、貴方から見ても綺麗に見える?」
 当たり前だと思った。〈鳥〉が美しくないわけがなかった。そう確信する理由はわからなかったが。
 〈鳥〉がバッツ婆さんの家を訪ねている間、スラとナグサは鍛冶屋の店先で火薬と鉛を注文していた。
 何度か顔を見せた事のあるスラの自慢の母親が来ていると聞いて、鍛冶屋のオヤジはナグサに目配せした。
「行き倒れだかなんだかしらねぇが、なんだかんだ言って、あんたも所帯持ちになってるってわけだ」
 そんなんじゃないと思ったが、口を噤む。説明が面倒だったからだ。スラは弟子であり息子のような存在だと思われていたから、皆がそう思っているならそれでいいと思った。
 両腕に抱えるような布の包みを抱えてナグサたちの元へ戻ってきた〈鳥〉は、その肢体に見とれる鍛冶屋のオヤジの視線を不思議な顔で受け流しながら、用が済んだ事を告げた。
 その包みはなんだと尋ねたナグサに大事な物とだけ答えた〈鳥〉は、スラの誕生日が間近だった事を教えてくれた。
 フラミンゴの皆が皆そうだとは思わないが、〈鳥〉にとってスラは、行動の源、生き方の全てだった。


 ケリィ候の第一婦人の容態は一向に良くならず、ナグサは憂鬱なガイドを続けなければならなかった。
 ナグサの努力にもかかわらず、フラミンゴ達はドンドン減少していった。伝染病の災禍もとどまるところを知らず、クルトの頭を悩ませ続けているようだった。ナグサの指示もあって、すっかりムルベにやってきたフラミンゴ達のリーダーと祭り上げられてしまった若いフラミンゴは、気になる話だと前置きしてからナグサに語った。
 幾つかの小さな集落が、一夜にして消え失せている事。何者かに襲われた形跡がある事。だが死体の一つ、羽根の一枚も残さずにいる事。
 クルトは、犯人が人間であろう事は悟っていた。だが、あまりにも正確に――襲撃の日には、人間が周辺を歩き回った形跡の無い事――を気にかけていた。もし、フラミンゴが別の集落のフラミンゴを襲うとするなら、なぜなのかわからないと。そもそも、死体を持ち去る理由がわからないとも。予想通り人間が犯人であったとしても、高価に売り買いされる羽ならともかく、今や珍味中の珍味であって食したがる者もいないフラミンゴの肉を大量に必要とする理由も情報も入って来ない事が、楽観的な翼人種の中では慎重な類の思考回路を持つクルトを混乱させていた。
 どちらかといえば聡明なフラミンゴであるクルトが、事態を見極めるべく動き出す事は予想できた。だが、狩りしか学ばず生きてきたナグサが、彼の行動を阻止する術を、隠れる術を思いつけるわけがなかった。
 ナグサが恐れている事件が起こるまで、日はなかった。


 その日、ケリィ候は先頭に立つナグサの背に、こんな言葉をかけてきた。
「いつも見送りに来る子供と女は、どういう関係なんだ? 結婚してたのか」
 行き倒れていたのを助けただけで、そんなんじゃないです――そう答えたが、ケリィ候は構わず続けた。聞き慣れたシラトスなまりが、急に悪意を帯びた。
「あれは、本当に人間なのか? フラミンゴに見えるんだが」
 意地の悪い質問だった。数少ないフラミンゴの集落を、十も潰した頃だ。クルト達の大きな集落が残っていたが、彼らの数が危険なほど減った事に変わりは無い。それだけの数のフラミンゴを見てきたケリィ候だ。〈鳥〉の身に着けている衣装や立ち振る舞いで、ナグサの女がどのような素性なのかを察する事は容易だったに違いない。
「あれは、巡礼の親子です。ウチで休んでるだけで、子供がもっと大きくなったら、シラトスへ行く予定ですから」
 大陸教会三十三巡礼地の一つであり、西方の玄関口であるシラトスである。比較的近くにある聖地とあって、ダブの人間だって巡礼の為に旅立つ者は多い。ナグサの言い様は不自然ではないはずだった。
 だが、ナグサの背後でケリィ候が笑った。息遣いからも、気配からもわかった。
「隠さなくてもいい、ナグサ。あの二人は見逃そう」
「……」
「余計な事を考えるなよ。私は、あそこに行けば二匹分の成果が上がるって知ってるんだからな」
 ゼマンジャの言葉を思い出す。フラミンゴは人か。どう数えるのか。
 ケリィ候は二匹と答えた。少なくとも、彼の中で翼人種は地を這う獣でしかないのだ。
 ナグサは暗澹たる気分で慣れ親しんだ山道を歩んだ。ケリィ候はこう言っている。今日、フラミンゴが手に入らなければ、あの二人を手にかけると。
 ならばと心中で即、決意を固めた。山中の集落を頭の中で整理し、犠牲を捧げるべき集落を選び出す。
 ケリィ候の脅迫に屈している事はわかっていた。今回はともかく、次回も同じように釘をさされるだろう事も想像できた。だが、他に抗う術はなかった。この山から、いや、この世からケリィ候を排除する以外に。そして、ナグサにはそれができなかった。そんな勇気があるなら、とっくに実行していた。
 ナグサはぼんやりと、〈鳥〉やスラとの別れを思った。このまま家に置いておくには、あまりにも危険すぎた。クルトに事情を説明して、二人を連れて行ってもらうか、一部のフラミンゴ達のようにシラトスへむかった方が得策に思える。どちらにせよ、近い将来、ナグサが一人になってしまうのは明らかだった。
 その事実を受け入れようとした瞬間、強烈な寂しさがナグサの中に湧き上がった。ただの行きずりだと言い張るには、既に思い入れが強くなりすぎていた。〈鳥〉の笑顔は魅力的だったし、スラの成長は楽しみだった。三人で過ごす何気ない生活が、彼らに出会うまでは一人でやってきたものだなど信じられないほど、三人で過ごした時間は濃密過ぎた。
 ナグサはケリィ候を少なからず憎んだ。彼に助言した下風切羽ギルドも恨んだ。第一婦人に毒を盛った人間も呪ったし、それらを口にしてしまった第一婦人も蔑んだ。
 だが、全てはもう手遅れだった。どんな形にせよ、ナグサは一人にならなければならないのだ。
 そして、憂鬱なナグサを他所に、更に憂鬱な、いつもの時間が始まろうとしていた。

 そのフラミンゴの集落は、ちょうど移動の準備に荷物をまとめている最中だった。
 数人の青年フラミンゴの指揮で数少ない若者や少年少女が、立ったまま打ち合わせをしたり病人たちを運び出したりする大人たちの周りで、忙しく梱包作業を行っていた。巡礼の民であるフラミンゴだ、テキパキと作業するその姿には、手慣れた者だけが見せる安定感とリズムがあった。
 そのリズムをかき乱すべく、ケリィ候が最初の一撃を――隠れているナグサ達に気づかず、目の前で鮮やかな幌布を畳んでいた少年の背中に、機械的な一撃をくらわせた。魔術弾丸は少年の小さな背中を無残に破壊し、上半身を弾き飛ばして地面に転がした。年月を重ねて白く色落ちしてはいるものの、精緻な刺繍で威厳を湛えていた幌布は、少年の血液で瞬く間に斑に、そして一面に赤の液体を塗りたくられていった。
 これの、どこか人間と違うのか?
 ゾッとしたナグサの意識とは裏腹に、猟師仲間達は黙って引き金を搾り出した。次々と血煙を吹いて倒れるフラミンゴたち。逃げ惑う者、立ち向かってこようとする者、誰かの死体に取りすがって泣き喚く者、飛び立とうと紅に輝く魔術の翼を広げる者、吹き飛ばされた自分の腕を探してウロウロする者……パニックに陥った魔物など、その十分の一にも満たない人数の狩人達にとって、格好の獲物以外の何ものでもなかった。
 立っている姿も、上空からの恐るべき翼の影も見られなくなった頃、ケリィ候はいつもどおり片手を上げて出て行く事を促した。止めをさしてまわった後には、死体を適当なところに集めて、ケリィ候の持っている魔術工芸品の葛籠に押し込むのだ。中東獅子戦争中に作られたという年代物の葛籠とやらは、今のように魔術師ギルドが発展していない頃に作られた代物で、当然、魔術師ギルドが禁じている術法を制限無く使っている品――本当はこの世に無いはずの籠の空きを無理矢理作り出す品なのだそうだ。その分、葛籠は見かけよりも沢山の物を入れる事ができるし、本当ならこの世にない部分なのだから、重さもこの世ではない場所に行ってしまうと、ケリィ候は――その時は少なく見積もっても三十体分のフラミンゴを詰め込んだ小さな葛籠を背負って笑った。
 そしてまた、その小さな葛籠に一つの集落をそっくり詰め込んでしまおうとした時だ。
 たった今、散々響き渡りそして聞き慣れた、あの嫌になる程背筋を掻き毟る断末魔の絶叫が響きわったったのは。
 声に向かって振り返ったナグサの目に、大きな赤い塊が低空を横切る様がとらえられた。炎のようなそれは、まさに紅色の輝く鳥のようだった。だが、それは日焼けした浅黒い、筋肉質で太い手足を持っていた。
 唖然とするナグサの見ている間に、クルトは飛行しながら右腕を振り上げた。力強く振り下ろされた大きな掌は、ケリィ候の連れてきた狩人の首を易々と圧し折る。彼らの体は全て、人間を破壊できるように作られているのだ。見掛けは人間そのものだが、その腕力には絶対的な違いがある。クルトにとって、人を殺す事は引き金を引くことぐらいに簡単な事だ。
 フラミンゴの長は、憤怒に満ちた瞳で人間達を屠っていた。まさに神の鉄槌として、神の代理人として、そして消え行く種族の長として。
 倒れた狩人が血の泡を吹きながら痙攣するのを一瞥した、クルトはその横腹を力一杯、踏みつけた。
「貴様らがッ!」
 口下手な彼は、それだけを言うのが精一杯だったようだ。肋骨が折れるのも構わず、その死にかけた猟師を踏み台に再び滑空するクルト。大きな紅色の光の翼に、次のターゲットに選ばれた猟師は当然の事ながら、ケリィ候も、他の猟人も一斉に銃を構えた。
 今までもに、襲い掛かってくるフラミンゴに遭遇した事は何度かあった。だからこんな状況に対する経験が全く無かったわけではない。ただ、仲間が死んだ事が初めてだったのは確かだ。
 それが、狙いを震わせたのか。それとも、クルトの輝く翼が致命傷への軌道を逸らしたのか。
 本来ならとっくに上半身を吹き飛ばされていただろうに、奇跡的にもクルトは猟人達の死の一撃から逃れる。だが、散弾の幾つかが翼に小さな風穴を空け、翼人種の持つ魔力の翼をパッと散らした。山桜が散るように、その光の欠片はクルトの身から離れると同時に無数の結晶体となって、ヒラヒラと風に舞って地を飾る。
 もちろん、その攻撃を受けたクルトは翼を傷めただけでなく、自身の胸元にも傷を負っていた。苦しそうに胸を押さえながら滑空する。
 本当なら、誰が次のターゲットだったのだろう?
 ままならない体を風に乗せて動いたクルトは、人間達の前で不本意にも小さく旋回し、腕を伸ばして目の前で怯える人間の襟を掴んだ。
 そう、ナグサの襟を。
 目が合った。
 クルトの眼球は、死にかけの獣が見せる必死さから、絶望の相へと変わった。
「裏切ったのか」
 かろうじて、そんな言葉を聞く事ができた。
「〈鳥〉たちに、なんて――」
「違うッ!」
 ナグサはクルトの胸元に腕を突き出した。襟から手を離してもらいたかった。手を離してもらえば、まだ間に合うと思っていた。誤解を解く為に話し合う事もできると思った。
 だからナグサは、両手を突き出した。
 手の中にある猟銃は、使い慣れたルーディ工房の品で、さながら小さな槍のようにクルトの鳩尾に食い込んだ。
 そして、あの恐ろしい魔術弾丸が発射された。
 引き金を引いた記憶はない。だが、現実としてそれは起こってしまった。
 クルトの顔が歪んだ。驚きと、恐怖と、そして何も無い表情に。肺が無くなってしまっても、着弾と爆発の衝撃で頭部へ押し出された血液は、クルトの顔面にある目や口、鼻、耳といった外部に繋がる場所から噴出してナグサに降り注いだ。
 若いフラミンゴの長は、ナグサの襟から手を離した。上半身だけとなって宙に弧を描いて、落ちた。
 その真っ赤な表情が、裏切られた者の最後の姿が、ナグサを決定的に責め続けていた。



 クルトの死に顔は、それからしばらくの間、ナグサの寝つきを悪くした。確実に。
 瞼を閉じれば、まだ燭台の光が眩しく残る闇の中にぼんやりとクルトとの会話が思い出され、そしてあの死顔が浮かぶ。眠る時だけではない、夕の暗がりや血抜き小屋の物陰にもそれを見出せそうな妄想に囚われ、ナグサは自分の神経が限界まで痛めつけられたのを自覚した。
 消耗するナグサを気遣う言葉を発しながらも、〈鳥〉は相変わらず嬉しそうにスラの誕生日への準備を始めた。ご馳走の仕込みから、その日に着せる為の衣類の調達、染色から縫製まで、〈鳥〉は昼夜を問わず忙しそうに立ち振る舞っていた。
 狩りに出る元気も出なくなって銃の手入れをするばかりのナグサに代わり、罠師として成長しつつあるスラは仕掛けの見回りをかって出た。日々の食事は、スラが獲ってくるシマウサギが二羽もあれば十分間にあう。ナグサが動けずとも、三人が生活するには全て事足りていた。
 何も知らずに無邪気に、そして一生懸命に日々を過ごすフラミンゴを見ているだけで、ナグサは気持ちが落ち着いて行くのを感じた。弱っている自分を励まし、活力を回復する事に専念させてくれる環境はとてもありがたく、ナグサを安堵感で満たしてくれた。この生活には、クルト達の命と引き換えにしても惜しくない魅力があったのだと納得できたのだ。
 そして何よりも、ナグサは自分に言い聞かせていた。
 この生活の、どこがフラミンゴなのかと。この生活は人間そのものの営みだった。つつましく、か弱く、素朴に自然の片隅で生きる人間の生活。
 ケリィ候も言っていた。「フラミンゴは人を喰う」と。だから撃たなければならないと。
 だが、この共に暮らす二人はどうだ? ナグサが見ている間、人を口にした事があるか? 食べたいと言った事も無ければ、ナグサをそのような目で見た事もない。
 人を喰うから魔物なのだ。人を喰わなければ無害なる生物だ。
 ナグサは自分に言い聞かせた。
 彼らは人を喰わないから人間だ。ナグサは人を救う為に、フラミンゴを撃ったのだ。フラミンゴの魂を売り渡したのだ。人を喰らうものだけを撃つ――そう決意したのだ、自分は。
 愛しい人々、愛しい家族。それは〈鳥〉とスラの事だ。
 フラミンゴは撃つ。人を喰うモノは撃つ。だが人は撃たない。人を喰らわないモノは撃たない。
 クルトのように、容赦なく命を奪い、人を喰らうモノだけ撃つのだ。
 フラミンゴ達の野営地でクルトが集落に戻らないと聞いた〈鳥〉は、不安そうにナグサに語った。
「最近、人間が私達を狩ってるみたいなんだけど……ナグサは知ってる? 心当たりはない?」
 もちろん、知らないと答えた。〈鳥〉は人間だ。〈鳥〉の仲間とは人間の事だ。そしてナグサは、人間を狩った事がなかった。



 その日、スラは七歳になった。
 何日もかけて準備してきたかいもあって、フラミンゴの伝統的な祭儀服に着替えたスラは、いつもより大人びていて、胸を張る仕草は誇りに張り裂けんばかりに見えた。
 〈鳥〉も正装しており、いつも以上念入りに白粉を叩き紅を差したその横顔は、美しい異国の姫君を思わせてナグサを振るわせた。
 彼らは朝早くからテキパキと儀式を進めていった。七歳のスラは今日の夕刻、日没と共に子供時代の名前を捨て、新しい真の名を得るのだ。子供時代と手を切る為の儀式はいくつもの抽象的な儀式を持って完了しなければならないという。子供時代に見守ってくれた数々の精霊や先祖に対し、名前を返上する報告をし、これまでの礼に供物としての料理を捧げなければならない。〈鳥〉はそれら多くの供物を一人で用意したのだ。日没へ向かって何度も繰り返される同じような儀式に、見ているだけのナグサは辟易した。それらの準備をしてのけた〈鳥〉に感嘆し、主役として嫌な顔一つせず付き合うスラに畏怖を感じた。
 それは西日が赤みがかって来た午後だった。
 〈鳥〉は、それまで大人しく見守っていたナグサに向かって一瞬、明らかに狼狽し躊躇した。
「ナグサは小屋で待っててくれない?」
 確か〈鳥〉はそのように言っていたはずだ。
「この次の儀式はとっても大事なものだから、ナグサには見られたくないの」
 〈鳥〉は一抱えある包みを大事に携えると、スラを従えて森の奥へ向かってしまった。ナグサはその時、自分がどんな返事を返したのか、全く覚えていない。
 ぼんやりと二人の帰りを待ちながら、ナグサは〈鳥〉の抱えていったものがバッツ婆さんからもらって来たものだという事を思い出していた。狂信的な大陸教会信者であり、麓の村の産婆であるバッツ婆さん。そんな人物から、一体何をもらってきたのだろう? てっきり避妊に使うものだとばかり思っていたのだが――よく考えれば、自分たちはそういう行為をおこなった事すらないのだから、そんな事に気を配るはずがないのだ。だがよりにもよって、スラの成人の儀式に使う代物だとは。
 ナグサの脳裏に、フラミンゴという単語が浮かんだ。フラミンゴ。自分が撃った人の形をした魔物。
 フラミンゴなのに、なぜ人間の産婆の助けがいるのか?――いや、なぜ『フラミンゴなのに』と自分は思ったのか?
 なんでこんな事をしているんだろうと、ナグサは急に腹が立ってきた。フラミンゴをフラミンゴでなくする為、そしてフラミンゴを人間として匿う為、ナグサは数少ない異種族の親友すらも手にかけたのだ。なのになぜ、こんな儀式をしている? なぜフラミンゴとして成人をすまそうとしている? スラは人間として育たなければならないのだ。人間として成人するには後五年は必要であり、フラミンゴとして成人する必要などないのだ。それはむしろ、人間であり続けるスラにとって障害となるだろう。フラミンゴとしての自覚は、クルトの激情のように自らの正体を晒し、その力をふるわせ、スラの命を脅かすかもしれない。
 急いで中止させなければ。スラをフラミンゴにしてはならない。
 ナグサは二人の後を追って走った。悪寒が背筋を這い上がってきていた。してはいけないという無言の囁きが何度も脳裏に浮かんだ。してはならない事とは何か? ナグサにはわからなかった。わかってしまえば、自分がどうすればいいのか、どこに行って何をすればいいのかすらわからなくなってしまう事を知っていたが故に、理解する事を拒否した。
 二人の姿はすぐに見つかった。家から歩いて五分とかからない雑木林の中だ。
 よく知っている山の中の、よく知っているぽっかりと開いた木々の間の、よく知っている広場だった。
 山の中を歩きなれている〈鳥〉とスラだったが、儀式をそんなに遠い場所で再開するとはあるまいと思っていたナグサの推理が当たったのだ。
 〈鳥〉は、神官が信者に聖別された食物を与えるようにすくっと立ち、膝をつくスラの唇の中に、優しく何かを押し込んでいるところだった。赤い餅のような、弾力のある小さな塊。落とさないようにスラが突き出した舌の色にも負けない鮮やかで艶やかなもの。
 スラは神妙な顔でそれを受け取り、飲み込んだ。
 ナグサ踵を返した。
 自分でも何をしているのか、何が目的なのか、何もかもがわからなくなっていた。
 いや、わかっていたのかもしれない。ただ、それから十何年もたってしまったナグサには――あの頃の事をいくつも忘れてしまったナグサには、その心情や思考回路が思い出せないだけなのかもしれない。
 ナグサは獣を追う時のように走った。来た道を静かに、二人に気づかれないように引き返した。
 どんな時でも手入れだけは怠らなかったルーディ工房の銃は、クルトを撃った時以来一度も家から運び出されず、それでも毎日磨き上げられ、ジッと主が手に取る時が来るのを待っていた。そして、その時が来たのだ。
 家から森の中に戻りながら、ナグサは祈った。どうか逃げ出していてくれ。それが叶わぬなら、せめてさっき見たような光景を片付けてしまってくれ。何もなかったかのように二人でいてくれ。何もかもが元通りでありますように。
 だが、現場に戻った時にも、まだ儀式は続いていた。

 ナグサは見た。
 二人の間に横たわっている、赤黒い物体を。
 ハラワタを引き出され、胸と腹の肉を失った小さな小さな赤ん坊の死体を。
 〈鳥〉が神妙な顔で鋭いナイフを振るい、力強く子供の肉を切り取る姿を。
 初めて口にする食べ物を目にした時の、恐れにも似た表情をスラが浮かべている場面を。

 ナグサは構えた。もちろん、抱えてきた大事な愛銃を、だ。
 人の肉を食べるのは魔物だ。狩らなければならない。
 でなければ、自分は今まで何をしてきたのか? 何の為にあれだけ大量のフラミンゴを殺害してきたのか? 直接撃ったのはナグサではないが、それでも、自分がいなければフラミンゴたちは死なずに済んだ。クルトも死なずに済んだのだ。
 目の前の二人を助ける為に、二人を人間にする為にフラミンゴを殺してきたのに、彼らはフラミンゴである事を選んだのだ。
 裏切りだった。
 それを自覚した瞬間、かぁっと全身がほてった。真っ赤な怒りが自分を駆り立て、なさねばならない事と押し留めようとする力が拮抗した。その結果が全身と思考を焼く熱だった。
 その熱に浮かされた脳裏に溢れる一年、いや、初めて言葉を交わしたあの日から今日までの間の記憶とナグサの想いが尽きる事なくナグサの心情に押し寄せ、かき鳴らされた心の琴線は不協和音に揺れ、それが悲しくて苦しくて、ナグサは図らずも声をあげそうになった。
 だが堪えた。獲物の前で声をあげるなど、猟師としてあるまじき行為だ。

「ナグサ!」
 〈鳥〉は悲鳴をあげた。だが、何と返答したのか、よく覚えていない。
「私たちはフラミンゴなのよ? フラミンゴは人の肉を食べなきゃならないの」
 わかってる。
「本当に人間になることなんかできないの」
 わかってるんだ。擬態してるだけなんだから。なんてタチが悪い……。
「せめて、せめて成人の時ぐらいフラミンゴらしい事をさせて」
 その度に、誰かが、どこかの人間が殺されるんじゃないか。
「じゃなきゃ、私たち、いつかフラミンゴである事を忘れちゃうじゃないの!」
 忘れてしまえ、そんな事。
「……ナグサは、フラミンゴが人を食べるから嫌いなの?」
 嫌いなわけじゃない。人を食べるから、狩らなきゃならないだけだ。

「人間だって人間を食べるのに」
 何を言われたのか、数瞬の間、理解できなかった。

 〈鳥〉は言った。叫ぶように、空を切り裂いて鳴くように。
「バッツ婆さんはいらない子供をおろす事も引き受けてるの。ほとんどの村の産婆さんはそうなの、男の人は知らないかもしれないけど、産婆さんはお腹の中の赤ちゃんを、赤ちゃんになる前に生ませる事ができるの。もちろん、そういう赤ちゃんは死んじゃうわ。それだけじゃない。生まれたばかりのちゃんとした赤ん坊でも、家族が育てられない時があるでしょ? そういう時にも産婆さんは、赤ちゃんを苦しまないように死なせる方法を知ってるの」
 それにね、ナグサ――〈鳥〉は自分の足元の、肉の塊である赤ん坊を気にした。
「そういう赤ちゃんを、いろんな人が欲しがるの。私たちフラミンゴだけじゃなくて、いつまでも若くいたい女の人とか、精力をつけたい男の人とか、血を塗ったり飲んだり、内臓を食べたりするの。そういう赤ちゃんを、薬として欲しい人が、どこにでもいるの。ダブの産婆さんは、そういう人達に赤ちゃんの死体を売るのも仕事なのよ」
 その話が本当なら、人間も、人間を食べるのだ。
 ならば……ケリィ候の、そしてナグサの狩っていたあの人の形をした生き物は、なんだ?
 目の前の女の姿をした生き物は?
「だからバッツ婆さんは毎日何度もお祈りに行くのよ。自分のやっている事が後ろめたい仕事だから」
 ナグサは、山の神以外の誰にも祈った事などない。助けてもらいたいなどと思った事がなかったからだ。
 だが、今は?

 迷うばかりで構えた銃を下ろせないナグサの隙をついて、〈鳥〉はスラを抱きかかえた。しっかりと、スラが苦痛にフュッと小さく息を吹いた程に強く腕をまわして。
 そして輝いた。黄昏の風景に溶け込むこともなく、発光したように見えた。まるでそこに小さな太陽が現れ、彼女の背後からナグサの目を貫いたかのように。彼女の背中が熱く燃えさかる炎の様をとって広がり、場の空気を叩いて伸び上がった。
 ナグサの面前で、二人は天空の一点に躍り出た。風の流れを掴むまで紅の光翼を羽ばたかせ、ナグサを見下ろした。
「ナグサは、違うと思ったの」
 ナグサの覚えている限り、〈鳥〉が最後に口にした言葉はその一言だ。
 長く伸びる影もかくやという速度で、スラを抱えた〈鳥〉は空を滑り出した。あっという間に木々の梢を飛び越え、ナグサの視界から遠ざかって行く。逃げていく。
 ナグサは銃を抱えなおした。〈鳥〉の姿を見失わぬよう、照準をしっかり、紅い翼の間の細い体に重ねてゆく。そして、自分に言い聞かせる。
 あれは鳥なのだ、と。今まで何度も撃ってきた鳥と同じもの。体が大きい分、マナナミガンを撃つよりずっと簡単だ。あれをはずすぐらいなら、猟師なんてやってられない。
 そう、あれは鳥だ。それもとんでもなく凶暴な。あれを逃せば……逃せば……。
――いつか、自分が殺される。
 あれだけのフラミンゴを見殺しにしたナグサだ。直接ではなくとも、手引きをした張本人だ。今はまだ知らなくとも、いつかスラたちが知る可能性もあるだろう。今、黙って見送れば、ナグサはいつ訪れるとも知れない復讐に怯え続ける事になる。そして、喰われてしまうかもしれない。
――嫌だ。
 猟師であるナグサは、自分が狩られる獣になるという思考をすんなりと受け入れた。その恐怖も、苦痛も、自分が観てきた獣達の所作から自分の事のように察する事ができた。
 それだけに、絶対に嫌な死に方だった。
――あれは鳥だ。〈鳥〉……。
 フラミンゴ。水辺に居る紅い鳥。人のようで人ではない鳥。鳥のようで鳥ではない鳥。ナグサが今、こうやって銃を構えた時から鳥だと名付けられた鳥。〈鳥〉。
――あれは〈鳥〉だ。
 風が止まったような気がした。その瞬間はナグサにとって馴染み深い瞬間であり、体で覚えた間合いであり、考えるよりも早く指先が引き金を手前に叩き上げる刹那であった。
 ほぼ同じタイミングで、ナグサはクルトの死に顔を思い出した。恨めしそうな、それでいてすぐに全てを放り出した空ろな眼で血を流しだした眼窩と鼻、そしてゴボリと血潮を溢れさせる口元。
 すっと、手元が上向いた。脳裏のクルトの顔を打ち消すように、〈鳥〉の体からその上の、肩の上にある小さな造型の丸い物体に。
 バッと何かが飛び散り、大きな翼の根本が折れるように消え失せた。高濃度の魔力を放出している翼人種の翼の根本は、魔力の流れが速すぎるが故に物質化されていない。先端に行くにつれて結晶化する。ナグサの一撃で折れた大きな翼は、既に物質化されていた先端の羽根を除いて、全て、赤い発光体となって飛び散り消えた。
 太い木の枝を折りながら落下した体を追って、ナグサは歩き出した。格別高い位置から落下したというわけではないが、幼いスラには大きなダメージであっただろう。だが、この手で直接撃ったわけではない。
 ナグサは痺れるような脳みその奥で考えた。どこで止まればいい? いや、このまま止まらず、衝動に流された方が良いのか?
 落下の見当をつけた場所からは大分離れて、〈鳥〉の体が転がっていた。柔らかな若枝に跳ね飛ばされ、運良く木の間もすり抜けて跳んだ為らしい。
 白く細い手足は、赤黒く汚れていた。たった今ついたのだろう、尖った枝で引っ掛けたらしい細長い線状の傷からは朱色の血が滲んでいた。
 その肢体に生命の気配は無かった。
 何よりも、首から上の部分が無くなっていた。
――これは〈鳥〉だ。
 ナグサは自分の思考を確認した瞬間、息を飲む。
 思い出せなかった。彼女の名前を。何度も呼んだ、思いやりと愛情を込めて存在した者の、その愛しい名前を。
 今は存在しない顔すら思い出せなかった。ぼんやりとした笑顔の印象だけが、霧がかった脳裏の姿として焼き付けられている。ナグサの中で、彼女の存在が急速に薄れてしまっていた。そう、打ち砕いた彼女の頭と一緒に、ナグサ自身の記憶も吹き飛ばしてしまったかのように。
 無意識にスラの姿を探しながら、猟師は先と同じように自問自答する。
 これは〈鳥〉。この女は〈鳥〉――いや、本当はなんだった? この体の本当の名――だけどそれを思い出したら、この死体は〈鳥〉ではなくなってしまう。
 だとしたら自分はただの人殺し……いや、やはりただの鳥撃ち、ただの猟師、ダブのナグサであって、ならばこの女はやはり……〈鳥〉?
「人殺し!」
 〈鳥〉ではなく、人?
「おとうちゃんの人殺し! 知ってんだ、おとうちゃんは人殺しなんだ!」
 スラが泣いてる。あんなに草を揺らしながら走ったら、獣に気づかれてしまうって教えたのに。しょうがない奴だ――ナグサはスラの背中を追って走りながら、心中でため息をついた。立派な猟師になるには、まだまだ教えなければならない事がたくさんある。
「おかあちゃんも知ってたんだ、おとうちゃんがみんなを殺してたんだって!」
 おかあちゃんて、誰だ? それにしてもシマウサギのようにちょこまかと、よく走るもんだ。追いつけないわけではないが、手を伸ばしにくい岩場や立ち木の間をうまく選んで走って行く。きらびやかな儀礼用の衣装が、幹に擦れ、苔に濡らされ、踵から跳ねた泥に汚れていく。
「おとうちゃんの具合が悪くて、家に居なかった時に、シラトスの偉い人が来たんだ。みんなの所に案内しろって!」
 それは、ケリィ候の事だろう。クルトを撃ってしまった後の、情緒不安定な頃に訪れたのか。そして運悪く、ナグサが家を空けていたいた時――気晴らしに罠を見に行った時にだろうか、ケリィ候が案内を求めてナグサの元へやって来たのだろう。
「あいつら、みんなの事を殺したんだ! みんな、いっぱい死んだんだ! おかあちゃんとオレを見逃す代わりに、みんなを殺すんだって! もう、ムルベのフラミンゴはオレたちしか居ないんだって、ダブ中探したって、俺たち二人しか残ってないだろうって!」
 スラが言ってるのは、どの集落だ? もう、そんなに沢山のフラミンゴがいる集落なんて、クルトの集落しかない。元々数の少ないフラミンゴの群れだ。それを、ムルベに来た時にはクルトの集落へ行くよう、一箇所に集まるよう案内したのはナグサでもある。
 まさか、そこが、潰された?
「ダブ中探したんだって。でももう、ムルベ以外には居ないんだって!」
 スラが、息を切らせながらナグサを引き離そうともがいている。手足の擦り傷に血が滲んでいるのがはっきり見える。落下した衝撃を考えれば、まさに死に物狂いの逃走なのだろう。
 それでいて、スラはナグサを追い詰めていた。ナグサを断罪し、立ち止まらせようと叫び続けた。命乞いよりも先に、スラは攻撃を続ける事を選んだのだ。
「おとうちゃんが殺したんだ! あいつらと一緒に殺したんだ! でもおかあちゃんは、おとうちゃんがみんなを殺したのも全部許すって言ってた、優しいから、オレたち二人の事は守ってくれるはずだって! あいつらとは違うって!」
 苦しそうに咳き込み、スラは叫んだ。痛んだ喉を振り絞って
「なのに、おかあちゃんも殺したんだ! オレが見てたのに、頭がなくなっちゃったんだ! おかあちゃん、おかあちゃんまで!」
 ナグサの精神も限界だった。これ以上スラの言葉を聞いていたら、自分をどうにかしてしまいそうだった。
 適当に背を狙って引き金を引くと、スラの右腕が前方に吹っ飛んで行った。その勢いに押されてスラも前方の薮へ転がり落ちる。子供の甲高い悲鳴を頼りに後を追うと、薮の先が急に開けた。吹き付けるような風は、下から上へ立ち上るようにすら感じられる。
 急な崖の棚の上、強風の吹きすさぶ中、スラがペタンと座り込んでいた。涙をぽろぽろ零し、なくなった右肩の付け根をギュッと、そうすれば痛みがなくなってしまうかのように押さえていた。
「飛べないんだ」
 スラは逃走の果ての荒い息の隙間から、泣きながら呟いた。言われてナグサも気づいた。切り立つような崖だが、翼人種なら飛び立って逃げる事ができたはずだ。すぐに撃ち落されるとしても。だがこの子供は、それができなかった。
「おかあちゃんが、『人間になるんだから飛び方なんて知らなくていい』って、教えてくれなかったんだ」
 ナグサの顔を見て怯えを露わにしながら、スラは――話している間はナグサが撃たないと思っているかのように、急いで口を開く。
「本当は五歳には飛べるんだ、でもオレは翼の出し方も知らない。何も教えてもらえなかった。旅をしていた頃なんて覚えてないし、フラミンゴの祈り方も知らない。人の肉だって、さっき食べたのが初めてなんだ」
 スラがこんなにたくさん話せるとは、ナグサは知らなかった。きっと〈鳥〉も知らなかっただろう。
「オレはフラミンゴだけどフラミンゴの事なんて全然知らないんだ。オレはずっと人間だと思ってた。今までも、これからもずっと、人間だよ! だから……」
 だから、なんだ? この子はナグサのしてきた事を全部知ってる。復讐するかもしれないフラミンゴの、最後の一人。
 この子がなんと言おうと、この子はフラミンゴなのだ。
 それは、この子がいなくなれば、ナグサを恨む魔物など一人もいなくなるという意味でもある。短絡的だったが、もう二度とこの騒動に振り回されたくないと感じていたナグサには、とてつもなく魅力的な考えだった。自分の感情も含めて、誰かの思惑に振り回されるのはこりごりだった。何もかも終わらせて、どんなに辛くとも平穏だった一人の生活に戻るのが正しいやり方に思えた。
「やめてよ、おとうちゃん。お願いだからやめてよ」
 今までどおり、いつもどおり、ルーディエの銃を構え、引き金に指をかけ――
「おとうちゃん!」
 ――引き絞る。
 肩にかかる衝撃と共に、スラの表情が一瞬にして弾け跳んだ。クルトの張り詰めた筋肉の胸板をも吹き飛ばした猟銃と魔術弾丸の組み合わせは、小さな子供の体を逆風の中、一片の憐れみもなく崖下へ伸びる宙空へ放り出した。首を無くした少年は、クルクルと回転しながら落ちていった。



 ナグサは、〈鳥〉の死体を背負って帰った。
 首が無くなっていたのは幸いだった。死に顔を見ずに済んだからだ。クルトの壮絶な死の表情は、何度思い出してもナグサの気持ちをささくれ立たていた。それが大事な〈鳥〉の顔であったなら尚更だ。
 ナグサにはまだ、自分が自分の家族を殺したのだという実感がなかった。後悔よりも恐怖の方が強かった。フラミンゴの生き残りが自分に復讐してくるという想像上の恐怖だ。もちろん、誰が知るわけでもない。フラミンゴは一人もいなくなってしまったのだから。だが四方八方から感じられる静寂そのものが、ムルベの山そのものが、ナグサを強く非難していた。色の無い山はその嘆きを、沈黙をもってナグサに叩きつけていたのだ。
 ナグサはその非難をヒシヒシと感じながら、〈鳥〉の体を家に運んだ。
 〈鳥〉の体を小屋に吊るし、全ての血が地面に滴り吸い込まれて行き流れて行くのを、ナグサは一晩中眺めていた。〈鳥〉の体は均整の取れた美しいものだったし、それが少しでも動いてる――血が移動しているだけだが――を見ているのは嬉しかった。振り返って考えてみれば、どう解釈してもその感想は常軌を逸していたとしか思えなかったが、確かにあの時、ナグサはそう感じて興奮していたのだ。長い間表情が強張っていたのか、ニヤついていたのか、頬が引きつるように痛かったのを覚えている。ずっと見ていたかった。食事を取るのも忘れていたぐらいだ。もしも永遠に血が流れていたなら、きっとナグサは餓死してしまったに違いない。手も触れずにフラミンゴ達の復讐は叶っただろう。だが、〈鳥〉はあくまでただのフラミンゴでしかなかった。だからナグサにとっては残念な事に、その幸せな作業は翌日の昼までに完了してしまった。
 血の気がなくなり真っ白に変わった〈鳥〉の素肌は、山の中でも時折見られる、磨耗した白い石の表面を思い出させた。
 一晩かけて十分に血抜きをすませると、大きな獲物を運ぶ時に使う荷車へそれを乗せた。何度も何度も、しっかり血抜きが済んだ事を念入りに確認し、献上する獲物を仕留めた時どおり、機械的に体を油紙で包み更に絹布で覆って荷車に縛り付けた。
 シラトスに向かう時に使うケリィ候の馬車を拝借し、ナグサは馬車に積んであった非常食にも手をつけずシラトスへ向かった。〈鳥〉の体はしっかりと抱えていたが、その反面、さっさと手放してしまいたくてたまらなかった。
 早くケリィ候に押し付けてしまいたくていてもたってもいられず、それでいて全ての元凶であり、何よりも〈鳥〉とスラにナグサのやってきた非道な行いを教えてしまったケリィ候に、美しく大事な〈鳥〉の体を見せたりなどしたくなかった。
 迷いながらもナグサは、喉の渇きを潤す事すら忘れて魔術都市を目指した。たまにウトウトと眠り込んでは目を覚まし、自分の腕の中にある大きな包みが人の形をしている事を、そっと肌に触れては確認した。
 半日後にはシラトスにたどり着くといった距離までやってきて、ナグサはある分かれ道の看板に気づいて馬車を停めた。
 シラトス方面から外れて進むその小道は、細工職人であるシームの工房がある郊外の農村へ向かっていた。
 夢の中のようにぼんやりと、ナグサはそちらへ向かった。無意識でも意識的にでもなく、ただ「シームなら」と考えたのだ。完璧主義者のシームなら、〈鳥〉の事もそう悪いようにはしないに違いない。シームに渡したなら、ケリィ候だって文句は言えまい。ナグサにとってケリィ候が大事な買取客であるように、ケリィ候にとってシームは特殊できらびやかな小道具を造る大事なお抱え職人だ。彼の品はいつだって他の貴族とは一線を画すオリジナルであり、他の貴族の羨望を集める。それ故にケリィ候自慢の装飾職人として確固たる地位を築いている。出来上がった品をケリィ候に渡すとシームが約束すれば、さすがのケリィ候も声高に批難することはなくなるはずだ。
 ナグサは〈鳥〉の肉を喰わせるつもりはなかった。絶対に、ケリィ候にだけは喰わせないと誓っていた。だが狩ってしまった以上、何かに利用するのが猟師のしきたりでもある。シームに引き渡すのは苦肉の策ではあったが、この重荷を誰かに預けられるという安堵の方が大きかった。
 突然現れたシームは、何度もナグサ本人である事を確認した。後にシームに尋ねたところ、人相まで変わっていたからだという。
 その時に交わしたはずの彼とのやりとりはあまりよく覚えていない。ただ、おそらく最後のフラミンゴである事、つまりもう二度と手に入らないかもしれない材料である事、〈鳥〉がどんなに美しいフラミンゴであったかという事、スラの事をどんなに大事に育てていたかという事、ケリィ候には会いたくないという事……そんな事を支離滅裂に語ったような覚えはある。長い間語ったような、とても短いものだったような、時間の感覚は曖昧だ。
 最後には無理矢理毛布を被せられ、それでなくとも機能していなかった脳みそが痺れるほど眠りこんだ。
 何度か目を覚まし、シームの調理した、食べる事そのものが目的のような味気ない冷めた食事を口にし、そしてまた眠った。シームは新しい材料に夢中で、シラトスから腕のいい魔術師を呼ぶと、〈鳥〉の体を真っ白な氷の中に閉じ込めた。満足の行く作品に仕上げる為、長年研究してから解体するつもりで保存したのだという。嬉しそうな彼の声は、ナグサの落ち込んだ精神にとって唯一の、外界との接点だった。耳障りとも思える彼の声は、何度も危機的な感情の波を乗り越えて修復不可能と思われたナグサの心を、少しずつ揺り動かしていった。
 シームのところに転がり込んで三年目、ケリィ候の使いがシームに伝えたのは、第三婦人の子が落馬事故で死んだというニュースだった。
 ケリィ候が本当に後を継がせたがっていた第一婦人の子は、その前年、魔術学院の卒業研修という名目で東方へ向かったまま行方がわからなくなっていた。
 全く予想されていなかった流れで、ケリィ候の若き頃のあやまち――西方三国一とはいえ、所詮一介の商売人に過ぎないグスティーヌ酒造主の娘を孕ませてしまった時の子供が、第二婦人の子としてケリィ候の後を継いだ。
 全てが終わってしまっても、結局第一婦人の体調は回復せず、彼女は寝たきりのまま息子の帰りを待ち続けた。フラミンゴの肉は、シームがそうしたように大事に保管されており、その当時はまだケリィ候の食事に混ぜられていたという。もしかしたらクルトの肉も、その頃はまだ屋敷の中に残っていたかのかもしれない。
 ケリィ候の跡継ぎ問題が解決したのを確認して、ナグサは自分の家へ帰った。三年間放置した家は年月相応に荒れており、一週間はナグサを忙しくさせてくれた。遠い昔になったような例の事件は、もやは叩き落とした埃や擦り落としたシミ同様、どうでもいいものになってしまっていた。
 そうして、それから二十数年、ナグサは一人で暮らしてきたのだ。
 ケリィ候は二度とフラミンゴの話題を口にしなかったし、シームはまるっきり獲物の話としてフラミンゴの話をするものだから、〈鳥〉の話をされているような気分にはならなかった。そういう意味では、平穏な日々が過ぎていたといえるだろう。その間に遭遇した幾つかの危機的状況――全て狩りの間の話だ――など、また別の話だ。
 ただ一度だけ、その平穏な生活が乱された事がある。
 五年前、ケリィ候がシーム共々、シラトスの屋敷へナグサを呼び寄せたのだ。
 埃に胸を張ったシームには、傑作を作り上げた満足感と恍惚感が入り混じっており、ケリィ候の笑顔にはわずかな希望がぶら下がっていた。
 ナグサが案内されたのは、第一婦人の寝室だった。
 シームが、この二十年間どれだけ苦労して調べあげたかを語りだす。彼の話の後には、ケリィ候がこう言った。もしかしたらこれで、今度こそ彼女の病が治るかもしれないと。
 第一婦人の枕元には、ムルベの魔除け楽器フラヴィットがあった。
 竪琴にも似たその楽器は、ナグサも古老の昔話でしか聞いた事がない品だった。フラミンゴを材料に作る唯一の品。シームが二十年もの歳月をかけて調べ上げたのは、失われたといっても過言ではないこの楽器の製作工程なのだろう。たった一つしかないフラミンゴの体を、彼は見事に使いきったのだ。
 細くともしっかりした下部は緩やかな弧を描く翼が下部を支えている様は、か弱い外見と強靭な体力を持つフラミンゴそのもの。異国の鳥を象り、右の上部には祈りに目を伏せた乙女の仮面は質素で清楚な『紅の信者』そのものだ。
 だがナグサは知ってしまっている。禍々しい工程と、この品の材料が動き、笑い、語りかけてきた日々を。
 吐き気がした。第一婦人がか細く荒い息をついてる傍らで、ナグサは鳩尾を押さえて座り込んだ。バラバラにされた〈鳥〉の姿が容易に想像できて、ナグサは涙ぐんだ。
 そして、耳元で声が聞こえた。楽器が鳴ってるとは思えない、はっきりとした声。
『見て、見て見てナグサ! 私は、貴方から見ても綺麗に見える?』
 幸せだだった日々の声は無邪気そのもので、その後の悲惨な未来を知らないものだった。
 ナグサは病室を飛び出して嘔吐した。

 それ以来、ナグサはケリィ候の屋敷に行った事はない。
 第一夫人は昨年亡くなったと聞いた。彼女の息子はとうとう戻らなかった。




←PREV | INDEX=消えていく街 | Home | NEXT→
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6
copyrights (c) 2001-2017 suzu3ne@CloudCollector'sVector(2CV) All rights reserved.