雨月の亡霊・1
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 ぬるり。

 長年住んでいた砂漠では、足下に水を感じたことはない。
 ペンキも剥げた木造の駅舎を出た直後、ユガリはサンダル越しの足下に、言いようのない違和感を覚えた。
 そっと、翠の長衣の裾をめくってみる。
 「墨のように黒い」と兄弟子に言われた事もある生まれつきの黒い肌に、何か、揺らめくようなものがまとわりついている。
 見えるような、見えないような、錯覚のようでもあるようなーーそんな、『何か』だ。
 ユガリは、砂漠の地中に産みつけられたばかりの蛙の卵を思い出す。砂に汚れてしまう前の卵は、こんな風に中の胚も見えるほどに透明で、生き物を感じさせる弾力があったな、と。
 しかし、ここは砂漠でも地中でもない。
 いかに辺鄙な山奥の、人の気配のない古ぼけた駅舎であったとしても、突然、人の足下に卵を産みつけ、さらには足首に絡ませてゆく蛙なぞいるものではないだろう。
 ユガリはそっと、長衣の裾を戻した。
 さて、どうしたものか。
 しかし、思考は長く続かなかった。
 ユガリは自分に向かってやってくる人の気配に、嫌でも気づかされる。
 いずれも、屈強な体躯の男性たちだ。老若問わず、祭りの最中とわかる半纏を身につけている。
「どこから来たんだい?」
 先頭に立っていた男に、喧嘩腰に問われる。なんと答えようかと言葉を探していると、続けて怒鳴りつけられた。
「今、この辺の村はみんなムゲツサマの時期だ。ヨソもんは入れちゃなんねぇんだよ! 帰りな!」
 男たちの数は、すでに二十人ほどに膨れ上がり、ユガリを取り囲む。
 それでも一定の距離を保っているのは、ユガリがこのあたりでは珍しい黒い肌と痩せた体躯、そして砂漠の部族の神官を示す翠と黄の長衣を身につけた異人であったからだろう。
 東方の人間は、どこでも結束が固い。
 いや、そうあれと、元より仕組んだものがいるのかもしれないが。
 気づけば、足下の違和感は消え失せていた。
 あれは何であったのだろうと思いつつ、ユガリは目の前の人々の為に、慎重に、言葉を探した。
「私は、遠い国の神官です。いろんな土地のお祭りを調べていて、『ムゲツサマ・ウゲツサマ』のお祭りを見学に来ました。見に来ただけです」
 同じ言葉を話しだした事に、村人たちは少なからず驚いたようだった。
「……あんた、言葉、上手だな」
「この国に住んでから、長いんです」
「でも上手だ。随分と勉強したんだろうなぁ」
 リーダー格の中年の男は、感心したように頷いたが、次の瞬間には手を否定にふってみせた。
「それでも見せられねぇ。悪ぃが、そういう決まりなんだ。次の電車は二時間後だから、そいつで帰ってくれ」
 今まで巡ってきた祭りの中にも、同じように排他的な祭りはあった。無理をしても良いことはないと知っているし、執着もしない。国を語るにまずは親切心が話題となる人々が、これだけ頭ごなしに拒否をしめすということは珍しいし、それだけ大事なしきたりなのだろう。
 そもそも、ユガリには、いくらでも見る手段がある。
 ユガリの出方を伺う男たちへ安心させるよう頷き返し、黙って駅舎の中のベンチへ戻ろうとした時だ。
「なんの騒ぎ?」
 線の細い、しかしどこか棘を感じる青年の声だった。
 屈強な男たちが、皆、一斉に驚愕に背を正し、声に向かって道をあける。
 祭りを知らないユガリでも一目でわかる、祭司の白の衣と水色の袴を身につけた青年が立っていた。年の頃は三十頃だろうか。肌の色もひときわ白く、美丈夫と呼ぶには体の線が細かったが、隙のない立ち姿は信頼できる神官のそれだった。顔立ちはどこか幼かったが、不快な類のものではない。
 それでも、ユガリは違和感を覚える。

 ユガリが調べてきたこの東方の国の祭りにおいて、ほとんどの男性の神官は髪を短く刈り込むのが常だ。
 しかしこの神官の青年のそれは、女性のように長い。近隣の大陸に住む呪術師の髪のように、髪そのものに力があるという思想なのだろうか。
 束ねもしない長い髪をバサバサと揺らしながら歩くその出で立ちは、優雅と言うよりも無頼の修行者のようでもあったが、明らかにこの村の祭りを取り仕切っていると知れる清潔感あふれる姿でもあった。

 リーダーの男が何か言い出すよりも早く、青年は村人たちに向かって、再び細い鋼線のような声を張り上げた。
「珍しいお客さんがいらっしゃったようですね。私も少しお話を聞きたいので、私に任せてくださいませんか?」
 あからさまに息を飲む気配が漂う中、男たちの一人が慌てたように告げた。
「でも雨月(うげつ)様、ウゲツサマは今夜ですよ?」
 前者の「雨月様」が青年を、後者が祭りの名称を示すと気づくまで、ユガリの思考はしばしの時間を要した。

 ユガリが見に来たのは、「ムゲツサマ・ウゲツサマ」という、対になった祭りである。
 「ムゲツサマ」は先日行われた祭りで、今月の満月の夜に行われた。村人以外を排除し、村中の人々が列をなして村中の家々を巡り、玄関に置かれた菓子や保存食のたぐいを集め、神社の境内に積み上げて奉納する。
 伝聞によると、村人は皆、白い衣と角や耳にも似た頭巾を着用し、臀部に魔除けであると伝えられる丸い玉飾りを着けるそうだ。
 この奉納された菓子や保存食は、次に行われる「ウゲツサマ」まで、大事に保管される。

 そして「ウゲツサマ」は今月の末日に行われ、村人たちが亡者に扮して、神社の境内に残った菓子を村中の家に戻してゆく。

 これまた伝聞によると、この亡者の姿に制限はなく、村人は特に力を入れて思い思いの衣装を用意するため、娯楽のすくない山村部の人々としては大事な自己主張の日なのだそうだ。それらを身につけ、暗く寒い山の村を、これまたカブから作られた手作りの提灯の明かりだけを頼りに歩くという。
 老若男女を問わず「菓子を喰え、ウゲツサマにイタズラされるぞ」と声を掛け合いながら菓子を配り、互いにそれらを食べさせあう祭りだ。

 ユガリの知っていたわずかな知識では、この祭りに神官がそう重要な役を担っているとは思えず、更に言ってしまえば、この修行者のようなザンバラ髪の青年に、ここへ集まった村人達の総意を覆すような力があるようには思えなかった。
 しかし、考えを改めなければならない。
 「雨月様」と呼ばれた青年は、大丈夫大丈夫と笑った。
「こういう、ヨソの国から来た人が邪魔をする気なら、もうとっくにしているでしょ」
 そうでしょうと屈託のない笑顔を向けられ、ユガリは戸惑う。
「私の顔に免じて、今回は特別に許可してくれないかな?」
 口ごもる、村人の返事も待たず、青年はユガリに振り返った。
「それと……あなた、お名前は?」
 雨月とやらの目には曇りがない。
 しかし、ユガリはあの『ぬるり』とした卵の感触を見出した。
「……ユガリ・スースーエンラと申します」
 雨月はなぜか驚いたように目を開き、なんだか煙のような名前ですねと首を傾げた。




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