正義の味方 ・その1
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 これから、とある少年の、とある夏の事件の話をしよう。
 少年の未来がどこへ続いているのか、今はまだわからない。だがどこへ続くにしろ、少年の中で一つの時代が終わり、始まった事件なのは確かなのである。
 たとえそれが、他人から見て小さく滑稽な事件と結末と、新たな幕開けだったとしても。


 その少年の名前は衛藤光紀《えとうこうき》。九歳。小学三年生。


 彼の住んでいる家は新教系の教会だった。『生まれた』ではなく『住んでいる』というのは、彼が生家の生活事情を覚えていないからだ。三歳から施設に預けられた彼の記憶は曖昧だ。父や母がどんな職業についているどんな人間なのか、どんな事情があったのかどんな生活環境だったのか、そんな事柄を教えてくれる大人もいなければ、彼自身も興味がなかった。曖昧な記憶の中に残っている唯一の情報は、彼らとした指きりの記憶――いつか光紀を引き取りに来るという、今となってはかないそうもない約束ぐらいのものだった。
 光紀を育てている養父は、金もないのに子供を養子を迎えるクセがある養子縁組マニア。普段は家庭菜園で野菜の手入れをしてるか、資金繰りやら出張説教――と呼べばいいのだろうか? どこかの団体に招かれて説教してくるらしい――やらで外出してるから、光紀はあまり養父と会話した事が無い。とはいえ、晩飯の時間には大抵同席してるし、その時に交わされる会話や身振りを見てる限り、養父が人の良い人物なのは確かだと思う。
 そんな衛藤家の子供は多い。もちろん全員養子だ。
 そして、どうがんばってもお金が足りない。
 子供は長男の空央《あきお》を筆頭に十人。なのに働いているのは空央ぐらいで、養父は聖職者らしくお布施と組合からの援助金のみ、長女の藍《あい》は大学生しかも家事を一手に引き受けてるからアルバイトに出る時間もない。しかも一家の大黒柱である空央すら『ホウロウヘキ』とかいうやつで、時々不意に姿を消したまま長い間帰ってこなかったりする。
 はっきり言って生活は苦しい。小学三年生の光紀にだってわかる。しかし中学二年生で次男の晴彦が言うのだ。
「いいか、みんな。不満があったら施設の事を思い出せ。そうすりゃわかる。俺達、あそこの奴らなんかより、ずっといい生活してるじゃねぇか。あそこにはオヤジもアキ兄《あきにぃ》もアイ姉《あいねぇ》も、誰も居ねぇんだぜ?」
 親に捨てられ、保護され、どの大人をどれだけ信用してどれだけ甘えればいいのかわからずオドオドして過ごす生活よりはずっと楽だった。たまに叱られたり小言を言われたりはするが、絶対に自分たちを守ってくれて最終的には甘えさせてくれるとわかっている大人達との、駆け引きなしの苦しい生活の方がずっといい。規則ばかりで心のどこかでは満足に足を伸ばす事もできないような場所よりずっと。
 それでもお金が無いのは、やっぱり辛くて悲しくなる時がある。
 いつだったか、大和《やまと》と悠太《ゆうた》と幸《さち》の小学六年生三人衆が、小遣いが少なすぎると藍にくってかかった事がある。珍しい事に、日頃は無口で影が薄い幸までも真っ赤になって抗議してたから覚えているのだ。当時六年生の間では対戦型の携帯ゲーム機が流行ったから、どうしてもそれが欲しかったんだろう。三人が団結して、しかも興奮気味に抗議した裏には、なんらかの事件があったのかもしれない。
 晴彦はその時こう怒鳴った。
「うるせぇ! 金がないなら作れ、無い物も自分で作ればいいだろ! オヤジが野菜作ってるみたいにすりゃいいじゃねぇか!」
 晴彦は絶対空央に憧れてると、光紀は晴彦の怒鳴り声が響くたびにそう思う。本人は否定するかもしれないが、彼の最近の言動は空央のものによく似ている。彼が長男を意識しているのは誰の目から見ても明らかだった。無いなら自分で作れなんて、一見もっともらしいけど投げやりな言葉は、いかにも空央が言いそうな台詞である。
 だけど、どんなに頑張ってみても、野菜のようにゲーム機を作る事はできない。
 晴彦も言ってから思ったのか、それ以降、六年生組と晴彦の間ではちょっとした売買が行われるようになった。晴彦の仕事だった藍の夕食の仕度の手伝いと全員分の寝床の用意は六年生三人の仕事、晴彦はその分の報酬を現金で三人に支払う。
 三人組は知らないけど、この現金を用意する為、晴彦は新聞配達のバイトを始めた。
 なんでそれを光紀が知ってるかというと、バイトを始めたと晴彦が養父と藍に報告した時、その場に居合わせたからだ。
 ……正確には、隣りの部屋で一人ぼんやりしていたので、よもやそこに人が居るとは思われていなかっただけなのだが。


 みっちゃん、石ころみたい。
 衛藤家十人兄弟の四女である七歳の愛――通称・ミニアイに言われたのは、先週の事だった。ちなみにみっちゃんとは光紀の事だ。光紀の一つ上の三女・ミチルをミッチー、光紀は「ミツノリ」と間違えて呼ばれた事がある事を記念して――なぜ記念になるのか光紀にはわからないが、ミニアイからは『みっちゃん』と呼ばれてる。
 何が楽しいのかわからないが一年中歌って踊って走り回ってるミチルから、ミニアイと二歳のチビ太――本名は直太《なおた》だ――の面倒を押し付けられた日の事だった。こんな事は時々あるから、光紀もいつもどおり本を読んだりテレビを見たりしながら、二人が思い思いに遊んでいる様を監視していたのだが……。
「みっちゃんね、そうやってると置物みたいなの」
 チビアイはもう一度、幼い子特有の大声で告げた。自分でも意外だったが、その一言は、ぼーっとテレビを眺めていた光紀の胸に、ヤケに深く突き刺さった。
「石ころ? 置物?」
「うん」
 さっきまでチビ太と部屋中を匍匐前進レースをしていたチビアイは、擦れて赤くなった膝の様子を気にしながらまくしたてる。
「愛ちゃんね、さっきみっちゃんにぶつかっちゃうところだったもん。じ〜っとしてるから、いるなんてわからなかったの。いっつもそうなの、みっちゃん、動かないんだもん。一緒に遊んでくれないし」
 小さな子供と遊ぶのは嫌いだった。そこには彼の欲しいものが何一つ無いような気がしたからだ。
 欲しいもの――それは彼自身にもわからない。でもそれは、本やテレビの中にあるような気がした。自分をいつか迎えにくるからと言って姿を消した両親のいる現実なんかより、紙や電波で広められている共同幻想の方がずっと信用できて、ずっと安心できた。
 知識は光紀を傷つけたりはしないから。
 絶対的に正しく信じられるもの――光紀にとってそれは、本やテレビの中で告げられる知識だったのだ。
 だから彼が動かない、つまり行動しない。欲しいものは現実の中にはないから。
 テレビのリモコンと本さえあれば、彼はどこでだってジッとしていられる。孤児院にいたころ、ずっとそうしていたように。
――石ころでも置物でもいいよ。
 本を読んでいる間は彼をそっとしておいてくれれば、なんて言われても構わない。自分でもわからない『欲しいもの』を探している時間だけは一人にしておいて欲しい。光紀は自分をそんな風に納得させていた。


 長男の空央がいつもの『ホウロウヘキ』で姿を消したのは、夏休みに入る直前の事だった
 長女で空央と血の繋がった妹である藍は、やはり思うところがあるのだろう。子供達にもわかるほどがっかりし、そして苛立ちを持て余しては些細な事で機嫌を損ねていた。やっぱり一家の大黒柱が居ると居ないとでは落ち着きが違うらしい。次男の晴彦はそんな藍を見て不満げだ。早く大人として一人前に扱って欲しいというのがありありとわかる。
 義父は相変わらずマイペースな生活ぶりで、藍にも「そんなに心配することじゃないよ」と笑っていた。「気まぐれは若いうちにしておくのが一番なんだから」なんて。
 義父がそんな風だし、空央が居なくなったからといって子供たちの生活状態が急変するわけでもない。光紀たち小学生以下の子供達は、すぐに普段どおりの夏休みを過ごし始めた。
 丸一日が自由になる日々だ。自宅勤務者の上ぶっきらぼうだけど子供達の面倒見が良く、仕事の忙しい時以外は一緒に遊んでくれる空央の事が全く心配じゃないといえば嘘になる。だけど、外で遊びたくないというのも嘘だ。
 夏は光紀たちに何もかもが生きている世界を広げてみせる。葉の一枚一枚にも、そこに通う血ならぬ樹液の気配が溢れ、子供から大人に変わった小さな生物が空を飛び、走り、光紀たちに負けずおとらず精一杯、季節の恩恵を受けているのがわかる。
 普段なら部屋で本を読んでいる光紀も、この季節だけは別だった。図鑑に載っていた昆虫たちの姿を求めて、義理の兄達と一緒に、家の裏手にある公園――こいつは市民の憩いの場として、散歩コースが設置されているほど広い――の中を駆け回った。
 普段インドア派の彼はすぐにバテて、みんなからはぐれてしまうのが常だったのだけど、それでも夏は楽しいことで溢れていた。


 決定的な事というのは、どうしてあんなにあっさりと目の前で起こるのだろうか?
 養父が養子にする子を選ぶ為に施設に来た時――そして光紀が引き合わされた時、彼はとてもぼんやりとした視界で養父の顔を見ていた。養父は今まで施設に来た人間とはどこか違っていて、偉そうでもなければオドオドもせず、そこに光紀がいて養父の言葉を聞いているのが当然のように、そして文句を言われるのが当然のように話していたのを思い出す。強いて言うならば学校の先生みたいだと感じたのだ。その時や、何度か面会した時に何を話したのか覚えてないけど、決定的な瞬間だけは覚えている。養父はしばらく言葉を切って光紀を観ていた後、おもむろに院長に向かって「この子に決めました」――そう言った。
 なぜだろう? とても世界がゆっくり動いているように感じた。
 その時起こったのも、そんなゆっくり動く世界の中での出来事だった。
 その日も、公園で遊んでいた光紀は暑さと体力不足で皆から置いてかれて、木陰のベンチでぼんやりしていた。はぐれるのは日常的になっていたから、光紀は虫籠と虫取り網の他に小さな肩下げ鞄を下げていて、その中に小さな昆虫図鑑と雑学の本を入れておくようになっていた。その二つさえあれば日が暮れるまで、彼はその場で動かなくても済むからだ。
 ゾウムシ、カミキリムシ、カナブン、マイマイカブリ……何度も観た図鑑のページを、気が向いたものだけ読んでいた時だ。

 目の前の茂みの奥、しかも樹の根元付近で、白い物が動くのが見えた。白い物といっても、ビニール袋や犬のように、ありふれた色じゃない。
 洗い立てのワイシャツの色だ。
 白い袖の先には、細く引き締まった手が、指先が、何かを確かめるように蠢いていた。
 茂みの根元には、公園の管理人が雑草を刈ったばかりなのか、葉液の滲んだ切り株が並んでいる。その青臭い臭いが熱と興奮を帯びて光紀を襲った。世界が急速に回転を緩め、目の前の光景がノロノロとした重い水の底の風景のように見え始める。
 そのぼんやりとした光景の中、光紀は考える。目の前の情報を。
 もう一つの腕が押し上げている地面を。丸く切り取られた地面の、その上に乗っていた雑草たちの今にも崩れそうな姿を。地面にかけられていた指先に力が入り、白い袖は一気に肩まで姿を現す、その一連の動きを。
 白いワイシャツ、黒いベスト、限りなく黒に近い焦茶色の長い髪。馬の尻尾さながらに一つに束ねられていたそれが、背中で揺れているその弧の動き。
 地面に開いた穴から這い出してきたその姿を、光紀は普段どおり、ジッと見ていた。石ころのように、置物のように、ただそこにいて誰にも認識されていない物体として。
 不意に世界が鮮明になり、そして動き出す。
 視線。地面から現れたワイシャツの人物との視線が合った瞬間、暗闇に散った火花のように世界が照らされる。
 人が現実を認識するというのは、かくも複雑だ。見ているものと記憶の姿を照合するのは簡単にできるのに、その事実を受け止めるのには更なる時間を要する時がある。
 目が合った途端、相手は体を振るわせた。
「……光紀、か?」
 誰にも言わずに姿を消し、連絡が取れなくなったばかりの義兄の姿がそこにあった。
 長男の衛藤空央はいつの間にかナイフを握っている。マンガや写真でしか見たことの無い、銀色で尖った刃物の類だ。
 光紀の視界で、世界が再びゆっくりと動きだしていた。


「光紀、気持ち悪い」
 帰るなり、既に帰宅していたミチルがそう言った。ミチル曰く「『どちらが早く虫眼鏡でアリを燃やせるか競争!』なんてしている野蛮な連中とは、一緒に遊んでられないわっ!」だそうだ。大和と悠太の事に違いない。あの二人、小学六年生の割にはまだまだ子供っぽい遊びをするのが大好きなのだ。それに、どうせ自慢の巻き毛に「髪切り虫〜!」なんて言ってカミキリムシを張り付かせられたのだろう。去年も一昨年も、大和達は同じ台詞と同じイタズラでミチルを泣かせていたし。
 ミチルは、大げさなまでに顔をしかめて、光紀の顔をじろじろ眺めた。
「なんでニヤニヤしてるのよ。いつもぽけ〜っとしてるクセに」
「別に……」
「嘘だぁ〜! 絶対、何か隠してる!」
 よっぽど、光紀の言い方が気に食わなかったのだろう。だが、ミチルは光紀が普段から余り自分の事を話さないことを知っている。
 これ以上追求するのは経験上無駄だと判断したのだろう。あっさり引き下がったミチルは芝居がかった身振りで膝をつき、天に向かって――というか、年季の為に黒く汚れた天井の一角に向かって嘆く。
「なんでアキ兄がいない時に限って、みんな私のいじめるの? 野蛮人はいつもの事だけど、光紀まで変になっちゃって! 私、この先この家で生きていけるのかしら? ……あぁ、空央兄さん、どうして私も連れて行ってくれなかったの?」
 ミチルにとって、空央は自分を守ってくれる王子様なのだ。空央も面白がってミチルのお嬢様ごっこに付き合ったりしていたし。
 そんなミチルの一人芝居を眺めて、光紀は更に笑みが零れるのを自覚する。
「何がおかしいのよ!」
 キッと睨みつけられ、光紀は慌てて目を逸らした。自分の中の興奮を逸らそうと家の中にある本を、もう何度も読み返してページの端が手垢で黄ばんでるぐらいの図鑑を物色してみる。
 だが、どれを手にとって見ても面白くない。
 だって、誰も知らない事を自分は知っているのだ。どの本にも載っていない知識を。
 アキ兄が、地面の中の秘密基地に隠れてるなんて!
 ミチルが遠い国の王子様みたいに思ってるアキ兄が、すぐ側の公園の地面でセミの幼虫みたいにこっそり生活してるなんて、誰も思っても見ないだろう!
 秘密基地の中には入れてもらえなかったけど、アキ兄は光紀に、自分の持っていたナイフを見せてくれた。想像していたよりもずっと重くて、ずっと硬くて、ずっと鈍い色をしていたナイフ。
 「ここに居るって、誰にも言うなよ」と空央は笑った。いつもみたいに大きな伊達眼鏡をしていない分なんだかいつものアキ兄らしくなかったけど、それでもニヤリとしたその顔は、どう見ても空央の顔だった。藍に内緒でみんなでお寿司を食べに行ったり、ケーキの食べ放題に連れて行ってくれたり、ずっと欲しかった図鑑や野球のグローブを買ってくれたり……そんな事をしてくれた長兄の顔。
 その空央の秘密を、光紀だけが知っている。今はそれ以上に面白い事なんてない。
 現実の方がずっと面白いんだ。光紀は初めてそう思った。



 その日から毎日、光紀は空央と遊んだ。
 正確には、空央のしている事を横で眺めていただけだったのだが、光紀にとっては全てが目新しくて楽しい事ばかりだったから、それは遊んでいるのと同じ意味を持っていた。
 それは普段空央が家に居る時と同じ、二人だけのルールで過ごす空間だった。空央は以前から光紀が一人で遊んでいるのが好きな子供だと知っていたし、自分の意見を口に出すのが苦手な子供であることも知っていた。いつだって二人きりの時、空央は黙って自分のやりたい事をし、時々光紀を見る。光紀が空央の作業に興味を持っている時は簡単に説明し、関心が無いようなら放っておく。
 そんな今までの関係がそのまま屋外に持ち出されただけだ。
 でも光紀はこの新しい遊びに夢中だった。
 まずは一緒に遊んでいる兄弟達を出し抜く。走っているのが苦痛になったフリをしたり、縦横無尽に駆け回る兄弟達に置いて行かれたような素振りをして、空央の隠れている穴の側に行く。なぜか義兄はそれだけで光紀が来た事を察して、そっと地面の蓋を持ち上げた。その度に蓋の上に被せてあった土や草はずり落ちてしまうのだが、次の日に光紀が行く頃には元通りの、平凡な地面に戻ってしまっていた。そこにあると知っていなければ見逃してしまうような、芸術的なほど丁寧な造作で。「毎日、夜中にこっそりなおしてるんだぜ?」と空央は苦笑する。
「別の出口から出て、ここをなおして、また戻るんだ。面倒くせぇったりゃありゃしねぇ!」
 その別の出口の事が気にならないでもなかったが、今の光紀は取り立ててそれを捜索つもりなどなかった。空央は光紀が何も言わなくても出てきてくれたし、この隠し事が終わることなど微塵も考えなかったからだ。
 そして空央は、初めて見た時のように穴から這い上がる。にこにこしながら「さて、今日はどうする?」と挨拶。いつものことだ。そして光紀もいつものように答える。「アキ兄のしたい事でいいよ」
「またそれかよ?」
 呆れながら空央は先にたって歩き出す。公園に居ると他の兄弟達に見つかってしまうから、他の場所に移動するのだ。ずっと前に空央が無くしたといっていた中古の自転車が公園の自転車置き場で二人を待っていて、光紀を後ろに乗せた空央は自転車を漕ぐ。目指すは兄弟達が足だけでは追ってこれない、十キロ先の山の中だ。自宅勤務者とは思えない体力で空央は自転車を漕ぎ、鼻歌を歌っている間に山中へ。空央の鼻歌は、光紀の聴いた事のない歌ばかりだった。楽しそうだったり勇壮だったり、時々酷く悲しい調子になったり。
 一度だけ何の歌かを尋ねたら、光紀の知らない国の名前を言われた。辞書で調べると二年前に無くなってる国の名前だった。
 人気の無いその山の中腹で二人は自転車を降りる。儀式のように二人は顔を見合わせて笑った。それは秘密を共有している気恥ずかしさのようなものだったのかもしれない。
 光紀と二人で家に居る時の空央がしていたのは、会社の資料の整理だったりメモだったり、時には藍から頼まれた電化製品の修理だったり小さな繕い物だったりしていたのだが、今の空央は全く違っていた。
 格好は家に居る時と同じなのに、服やベストの裏からは次々といろんな物が出てきた。数本のナイフは言うに及ばず、小型のラジオ、ボイスチェンジャー、ボールペンに見せかけた小さなナイフ、数枚のバンダナ、包帯とガーゼ、軟膏、バネで飛び出す警棒、折りたたみ式の吹き矢、撒き菱、油紙、非常食、小さな串……それ以上思い出せないほど、空央はその身に様々な道具を仕込んでいたのだ。
「アキ兄、忍者だ」
 思わずそう呟いた光紀に、空央は「まあ、そんなトコだな」と頷いた。
「とりあえずこれだけ持っておけば大丈夫っていうのは揃ってるから」
 そして空央はその道具の手入れをするところを光紀に見せてくれる。真剣な目で道具を検分する時の空央が、光紀は大好きだった。表情が消えて、道具の奥の奥まで見通しているような眼差しを手にした道具に注ぎ込む。そんな顔をする空央なんて、家じゃ滅多に見られない。
 空央はいつだって表情豊かに振舞う。コロコロと気分を変えて見せる道化のようにおどけて。
 光紀はずっと、空央はそういう性格なんだと思っていた。世間が明るいことに満ち満ちてると信じてる楽観論者だと。でもそんな表情を知ってからは考えを改めざるをえなかった。
 空央は自分たちに合わせて、表情を変えていたのだ。ミチルに合わせて王子様ごっこをするように、藍にはだらしないけど稼いでくる兄として、晴彦には理想的な長男として、大和や悠太たちにはガキ大将たちのボスとして、ミニアイやチビ太にはいつもエキセントリックな遊びを教えてくれるお兄ちゃんとして――そして光紀には、自分の邪魔をしない気楽な相手として、空央は様々な役を演じ分けていたのだろう。
 そしてこの真剣な表情と一見荒唐無稽な一連の行動こそ、本当の空央の顔なのだ。
 それに気づいた光紀は、自分の胸が高鳴るのを感じた。
 現実ではないと思っていた現実が、自分の身内の生きている現実なのだと知った興奮だった。
 だから彼は尋ねた。純粋な好奇心が唇を動かすという、初めての経験に無自覚なまま。叫びだしたいほどの喜びを、駆け出したいほどの衝動を必死で押さえながら、自分から話のは苦手である自分を忘れて。
「アキ兄は、何やってる人なの?」
 トンボやバッタを捕まえる時のように、興奮を抑えて静かに尋ねる。
 空央は手にしていた銀色の串を手首の返しだけで投げた。十メートル先の正面の幹に、ストンと突き刺さるのを確認し、空央は首を傾げる。
「どういう意味だよ? 今は『的あて遊び』ってトコだけど?」
「……どうして忍者みたいなことしてるの?」
 独り占めしたい。家族の人気者の空央の秘密を独り占めしたい。彼の事をもっと沢山知りたい。
 空央は続いて、小さなナイフを下投げで放る。無造作すぎるほど無造作なその腕の振りに反して、刃物は先に刺さっていた鉄串の真横に迷い無く突き刺さった。
「聞いたら、びっくりするぜ?」
「しないよ」
 地面の中から手が出てきたのを見た今となっては、そう簡単には驚けそうにも無かった。
 あの時の事を空央は苦笑混じりで教えてくれた。あの穴の周りにある生垣状の植え込みは、ずっと長い間、下方が丈の高い雑草で覆われていて外からは見えにくかったらしい。あの日は朝早くに公園の管理人たちが雑草を刈っていったのだが、空央はそれに気づかず出ていったのだ。おまけに、あの時の光紀は『石ころ』状態で全く気配がなかったから、視線に気づくのも遅れたんだとか。「ありゃ才能だな。本当に物みたいだった」と感慨深げに感心されたが、ミニアイに言われた時とは違って、悪い気はしなかった。ミニアイの言葉は一緒に遊んでくれない不満が滲んだ皮肉だったが、空央は年上、しかも純粋に「すげぇ特技じゃねぇか」と誉めてくれたからだろう。
 そんな空央は、ニヤニヤしながら次に投げるナイフの刃を調べつつ、ゆっくりと口を開く。
「何をしてるの、か……何してると思う?」
「わからないから聞いてるんだよ」
「そうだな……絶対に秘密だぜ? 誰にもいわねぇって約束するなら、教えてやってもいいかな?」
「うん。言わない」
「……約束破ったら、もう二度と遊んでやらねぇぞ?」
「うん」
「絶対に、絶対だぜ? 誰かに教えたら、お前を殺さなきゃならなくなる。死ぬのはイヤだろ、光紀? 痛くて苦しくて、でもどうしようもねぇんだぜ? そんなのイヤだろ? だから絶対誰にもいうなよ?」
「うん、絶対に絶対。わかったから早く教えて」
 空央は手にしていたナイフを立て続けに放り投げた。規則正しく幹に突き刺さった小さなナイフの群れは、一番最初に投げた串を取り囲むように螺旋の形に並んでいた。
「俺はな、光紀――」
「うん」
「俺は……お前らが平和に生活できるように戦ってる、『正義の味方』なんだよ」
「『正義の』……え?」
 せいぎのみかた?
 想像もしていなかった意外な言葉を思わず反芻する。突然広げられたテレビやマンガの世界の言葉。それはどこか、呪文じみた響きを持っている。そう、それは現実的じゃない響きの証だ。どこか滑稽で、けれど衝撃的な意味や部分を含んでいる音。
 だがその呪文を空央は当然のように口にする。
「おう、『正義の味方』だ。テレビみてぇにカッコ良く変身はできねぇけどな」
 冗談めかして笑った空央に、光紀も微笑する。だがあくまで付き合いの笑いだ。
 本当は知っていた。空央が酷く真面目にそう言った事を。
 その真剣な眼差し、熱っぽい瞳の光、張り詰めた視線の気配……全てが、彼の台詞が真面目に語られたものだと語っていた。
 彼は『正義の味方』なんだと。
 



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