正義の味方・その6
←PREV | MainStory=MemoryBlood | Home | NEXT→
本編未読の方へのガイド | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | あとがき





 こうして、衛藤光紀の九歳の夏休みは静かに終わった。
 人から見れば些細で、小さくて、どうでもよい事件も終わった。
 だが、衛藤光紀の選んだ道がどこへ続いているのか、まだ誰も知らない。


 空央はまだ家に戻ってこない。
 そして、最近元気がなくなっていた長女の藍が、突然いなくなってしまった。養父は子供たちに「少し遠いところに、住み込みで勉強する為に出かけたんだよ」と説明していたが、それが藍の恋人に関係しているらしいのはみんなもわかっていた。今まで藍が居ない間行っていた分担に従い、台所は幸とミチルが取り仕切っている。相変わらず味付けがうまくいかず、晴彦以外の男子は不満タラタラだ。
 八雲はあの事件以来、ほとんど衛藤家に顔を出さない。
 代わりに空央の親友の光矢がよく出入りするようになった。光矢は何があったのか、気軽な遊び相手のお兄さんというより、急に落ち着きある大人の人になってしまっていた。はしゃぎまわる子供たちと一緒にテレビゲームで遊んだりする事はなくなり、養父の書斎で長い間話し合う事が多くなった。かつては彼が来る度に喜んで足にしがみついていたミニアイも、その光矢の纏う空気に躊躇っているようだ。そんな衛藤家の子供たちの雰囲気に光矢も気づいたらしい。帰り際にはいつも寂しげに笑っていた。
 きっと一緒に話せる空央や藍が居なくなってしまったからだろうと、晴彦と大和が話していた。



 光紀は、学校から帰ったまず靴を履き替える。大和のお下がりの、軽くて走りやすい競技用の靴だ。確か大和が去年の陸上大会に助っ人として参加した時、空央がプレゼントしたものだった。光紀にはまだ少しサイズが合わないが、気にするほどの差でもない。
 光紀が靴を取り替えるのは、夏休みが終わって最近できた習慣だ。ランドセルを玄関先の姿見の陰に押し込んで、また外へ向かう。
 最近の空は暗くなるのが早い。今日はどこまで行けるだろう?
 家の門を出ようとすると、ちょうどやってきたばかりの光矢に出くわした。彼は黒光りする大きな車から降りたばかりで、驚いて立ち止まった光紀を見て小さく微笑んだ。
「こんにちは、光紀君」
 運転手に向かって何事か指示すると、去っていく車には見向きもしない。光紀は初めて、彼が金持ちなんだという言葉を認識する。少し猫背の立ち姿は以前と変わりなく、けれどどこか張り詰めていて、威厳があって……急にとても偉い人になってしまったように見えた。
 その雰囲気に呑まれていたのだろう、気が付いた時にはもう、光矢は肩を叩けそうなほど目の前に迫っていて、光紀は挨拶を返す余裕もなく、背の高い彼を見上げていた。
「八雲と喧嘩したこと、八雲と衛藤牧師から聞いたよ」
 光紀は八雲の顔を思い出す。無表情に、養父に頬を張られた時に付いた血を拭っていた姿を。『今はまだ敵ではない』と空央は言った。『何を考えてるのかわからない』とも。少なくとも空央は、八雲と戦う時があってもおかしくないと思っているのだ。
 つまり、あの十六歳の少年も『誰か』と戦っているのだ。あの人も別の『正義の味方』なのだ。
 光矢は両膝を折って中腰になり、光紀と目線の高さをあわせた。
「僕がいうのは筋違いだってわかってるけど……八雲のこと、許してもらえないかな? 本当は自分で来たいっていってるんだけど、君やミチルちゃんが落ち着くまで待とうって、衛藤さんと話し合ったばかりだから」
 光紀のような少年にも礼儀正しく頭を下げる。いや、それは光紀が少年だとか大人だとかをこだわっているような立ち振る舞いではなかった。自分自身の落ち度のように、責任を背負っている姿で頭を下げていた。光紀にとっては得体の知れない八雲――彼の為に、よく知る光矢が丁寧にわびる姿。それは少年にとって見慣れぬ光景であり、彼を少なからず動揺させる。
「あ、あの……俺も、ごめんなさいって……言ってないから……八雲って人に、ごめんなさいって、言ってくれませんか? お願いします」
 ありがとうと光矢は答えて、同じように頭を下げていた光紀が顔をあげるのを待っていた。姿勢を正した途端に目が合い、気まずさに目を逸らす光紀に対して光矢は笑った。これで事件の話はお終いだという証拠に。
「じゃあ……衛藤牧師はどちらに?」
「畑にはいなかったから、書斎にいると思います。それと、たぶん幸っちゃんが台所にいるんで、わからなかったら聞いてください」
 光矢が戸惑ったように光紀を観察しているのがわかった。マイペースな彼は、自分もまた光紀にじっくり眺められている事に気づいていないらしい。日に焼けていない青白い肌や大きな瞳、優しげな口元にそこそこ厚みのある胸板、バランスの取れた長い手足……。以前はこの高篠光矢という人物に興味がなかったから理解できなかったが、藍が憧れていたのがなんとなくわかった。浮世離れしたこの存在が、生活感と騒がしさで溢れている衛藤家とは別世界の人間に見えたのだろう。
 そして思う。この人は藍がどこへ行ってしまったのを知っているような気がすると――最近の光矢の変貌ぶりを思い返して、光紀はうつむいた。確証の持てない事で行動する事の無意味さと危険さを知った今の光紀には、まだ何もできそうもない事態だと悟ってるが為に。
 ようやく観察に納得がいったらしく、光矢は落ち着いた口調で語りかけてきた。
「光紀君は、このままどこかに行くの?」
「えっと……山まで走ってきます」
「山?」
「あっちの、アンテナの立ってる山の横の、ちっちゃい山です」
 光紀は空央と一緒に自転車で通った山を指差した。すでに薄っすら紅色に染まった空に浮かび上がった黒い山の陰に、光矢は「遠いねぇ」と、感心したのか呆れたのかわからない口調を返した。
「四時になったら中学校の時計が鳴るから、それが聞こえるまであの山に向かって走ってくるんです。聞こえたら帰ってくるって決めてて……」
「マラソン大会でもあるの?」
「ないです。でも俺、足遅いし、筋肉ないし。ハルヒコが、『体を鍛えるんだったらまず走れ』っていうから」
 最初は晴彦と一緒に新聞配達でもやろうかと思ったのだが、その晴彦に『お前みたいに鈍足で体力ねぇ奴には無理』と、あっさり切って捨てられたのだ。代わりに、時報を使って走るよう教えてくれた。『歩いてもいいから、できるだけ走るよう心がけるように』というアドバイスもくれたのだ。空央に憧れてる晴彦としては、今まで光紀に頼りにされた事がなかった分、相談をもちかけられて嬉しかったらしい。
 それらを聞いた光矢はもう一度、光紀の発言に慌てたような目をした。
「光紀君……」
「はい?」
「君、変わったよね? 前はもっと――」
 そこで光矢は少し笑った。光紀はそれを見て思い出す。空央がこの友人を、家族同様守ろうとしていた事をだ。そして思う。こんな風に素直に感情を表に出す人間が、悪い人だとは思えないと。
「もっと……君はもっと大人しい子だと思ってた。こんなにおしゃべりだとも思わなかったし」
 光紀も笑い返した。なぜだかわからなかったが、嬉しかったのだ。
「俺も、そう思ってました」
 誰かが光矢を呼ぶ声がした。書斎の窓から義父が顔を出している。立ち話をしている間に気づいたのだろう。光紀は「それじゃ」と会釈して走り出す。
 日が暮れるまで、どれだけ走れるだろう?


 思いっきり駆けると、自分の体の揺れるリズムにあわせて風景が変わる。遠くの木々が一歩ごと、揺れるごとに側へやってきては光紀の横をすり抜けてゆく。景色はまるでゆったりと動く世界の一面となり、ギクシャクとして走りなれない光紀の面前に、連続写真のように画一的で変化していく様を焼き付けては通り過ぎていった。
 走る事は、光紀にはお馴染みのゆったりとした時間の流れに良く似ていた。自分の体の所々を意識しながら、力の配分を調節しながら走る事は、昆虫を捕まえる時に仕掛ける蜜の罠やそっと網を近づける技術、体をどの角度から近づけるかなどの作戦を連想させた。
 世界は何か一つの糸で繋がっていて、何もかもが良く似たもののようにも思えた。
 光紀は夕刻で人通りの多くなった大通りを走りつつ思い出す。
 あの日。
 空央と別れた光紀が家の門をくぐると、庭の隅の家庭菜園で動く人影があった。それが養父の姿だと気づいた光紀は黙って、緑の中でテキパキと剪定作業を進める養父に近づいた。
「おはよう、光紀。良いお天気だね」
 養父はチラリとも光紀を見ずに声をかけてきた。
「……おはよう」
「空央に会ってきたね」
 光紀は、嫌そうに唇を尖らせる空央の表情を思い出す。どういうわけだか、この養父に隠し事はできないらしい。観念した光紀は小さく「うん」と答えた。
 しばらくの間、養父は黙って長く伸びた植物の蔓と格闘し、その頑固な植物を地面に突き刺した細い竹に巻きつけた。その必死で間抜けな姿は、光紀になんとも言えない居心地の悪さを与えた。
「これだけは言っておくよ」
 再び余分な葉をむしり取り始めた養父は、うっすらと額に汗を浮かべて微笑んだ。苦笑の形に。
「少なくとも私は、空央がやっている事に賛成できない」
「……うん」
「だけど、反対する事もできない。お前たちの事も大事だからね」
「……ん」
「どっちにも味方できない私を、お前はズルイと思うのかな」
 光紀に答えられるはずがなかった。一つだけわかったのは、空央のやっている事をわかっていても何もせず、この家で空央の帰りを待っていること――それが養父の見つけた答えであり、養父の見つけた『正義』なのだ。
 養父は黙々と、手を動かし続ける。光紀も黙って手を伸ばし、枯れかかった葉をむしりとった。
 家の中から甲高いわめき声が聞こえた。おそらく、チビ太が何かの拍子に泣き出したのだろう。外からでも騒がしくなった家を、光紀は少しだけ気にした。騒ぎの渦中にいると気づかないが、あの家の中の喧騒は平和の音でもあるのだ。
「光紀」
 手を止めていたのを見咎められたのかと慌てる光紀を無視して、養父は静かに続けた。
「八雲君があの時、どうしてお前にミッチーを攻撃させたか、わかるかい?」
 光紀は黙っていた。黙っているのが、今までの光紀にとっては自然なことだった。本を読んでいる時もテレビを見ている時も、何も話す必要なんか無い。一方的な情報を享受する事に会話なんていらないのだ。
 でも今の光紀は違った。黙って聞いているのがどこか窮屈に感じていた。
 養父の問いかけの答えもわからず、かといって見当もつかないわけでもなかった。あの時にはわからなかったが、今振り返ればなんとなくわかる。
 八雲は、暴力を振るった後の怖さを教えようとしていたのだ。
 そんな風に感じた事の全てを相手に伝える言葉を知らないという事実が、今の光紀の窮屈さの正体なのだ。誰かに話したいという欲求を得た光紀の、それがかなえられないが為に生じた苛立ちなのだ。
 じれったいながらも口を開けない光紀に向かって、養父は今までと同じ調子で答えを投げかけた。
「八雲君はね、もう知っているんだよ。誰かを傷つけようとしたら必ず、自分や自分の大事な人も傷つけるって事をね。暴力を受けた人間が何かの力で反撃してくるのは当然だろ? 相手が怖いからって、代わりにミニアイやチビ太みたいな小さくて弱い子を怪我させるかもしれないだろ? ……八雲君はね、お前がまだそれを知らないってわかってたから、ミッチーを使って教えようとしたんだ。お前が誰か傷つければ、お前だけじゃなく大事な人も傷つくんだよ、って」
 あの子も悪い子じゃないんだけどねと、養父は首を捻る。あの子はただ、少し急いでいるだけなんだと。
「でも空央は、もしかしたらこの家が襲われるのをわかってやってるんだ。空央は、この家を守ろうとしてるけど、同時にこの家を危険に晒してもいるんだよ。逆になっちゃってるんだ、わかるかな?」
 だから私はあいつのやってる事に賛成できない――牧師はそういって、大きなため息をついた。
 そこで初めて顔をあげ、光紀の視線に自分の視線を重ねる。
「お前にはその覚悟があるのかい?」
 『正義の味方』として、誰かを傷つけ、そして傷つけられる覚悟が。
 自分だけの正義の為に、他人を巻き込む覚悟が。
 それでも貫く『正義』を、自分は持っているのか?
「俺は……」
 どうしたい? どうすればいい?
 空央は考えろと言った。考える……何を? 自分が今やらなきゃならない事? それは何だ? なんて答えればいい?
「俺は――」
 言葉を探す間、むしりとる葉の枚数ばかり増えていった。
 養父は作業の手を止めて、静かに光紀の答えを待っていてくれた。
「でも、俺……このままじゃダメだと思う……」
「そうか」
「アキ兄が戦ってる相手もわかんないし、どうやって戦ってるのかも知らないし、なんか全部嘘のような気もするし、でもオヤジも本当の事みたいに話すし……八雲って人はなんだかわかんないし」
「そうだね」
「俺、馬鹿だから何が本当でどれが嘘かわかんないけど――俺は、今は何もできないから。だから――」
 みんなの為に何をするのが正しいことなのかわからないけれど、その答えが出た時に、それがどんな答えであろうとも行動できるように――。
「だから、強くなりたい」
 少しでも強くなりたい。丈夫な体とどこまでも動ける技術を手に入れておきたい。誰も傷つけずに済ませられるような知識と技を身に付けておきたい。
 養父はただ笑っていた。賛成も反対もしなかった。不健康で痩せていてほとんど日にも焼けなくて、そんな今まで運動とは無縁の光紀が言い出した無謀な夢を、養父は頭ごなしに嘲るような事もしなかった。
 光紀はその超然とした姿に、理由のわからぬまま、尊敬の念を抱いた。


 自分の足音は、まるで催眠術のように光紀の記憶を引き上げる。辛い息遣いで走りながら、光紀はぼんやりと思い出す。
 ミチルに謝ったのは、彼女が一人で音楽を聴いている時だった。晴彦の持ち物であるラジカセを胸の前に抱えて、居眠りするような格好でお気に入りの曲を聴いていた。
 ミッチーと声をかけると、それが光紀の声だとわかったからなのか、警戒に震えながら跳ね起きた。
「な、何よ、あんた?」
「ごめんね」
「え?」
「ごめんね、あんな事になっちゃって」
 ミチルはさっと青ざめて、目の前にあの時の光景があるかのように肩をいからせた。いつもの彼女なら大げさな表現をまくしたてて光紀をなじるところなのだが、そのまま黙り込む。
 光紀は初めて、彼女が女の子なんだと思えた。女の子というのは、女の子らしい言葉や表現を多用するから女の子なのではなく、その素振りなのではないかと思った。
「あのさ……あんな事した後で信じられないかもしれないけどさ」
 ミチルの前に置かれたラジカセの音量を気にしながら、光紀はできるだけはっきり告げることを考えて口を動かす。話すというより、唇を開閉させる事に専念する。
「俺、ミッチーの事、守るよ。アキ兄より弱いしちっちゃいし頼りになんないけど、でも頑張るよ。もう怖い事にあわないようにさ。もう、あんな事に巻き込まないようにするよ。俺、ミッチーの王子様になれるぐらい頑張るから。俺、ミッチーの味方だから」
 ミチルがぽかんと口を開けて、光紀を睨んだ。どうすればいいのかわからないようだったが、ミチルが光紀に対して好意だけではなく敵意も抱いたのだということだけはわかった。
「……あんた、ちょっとぼんやりしてると思ってたけど、本当に馬鹿なんじゃないの? あんたなんか一生かかっても王子様になんかなれないでしょ? こんなちっちゃな家に住んでる王子様なんて、どこにいるわけ? いないでしょッ!?」
 どうやらミチルをからかっていると思われたらしい。
 ボロ家屋に住む王子様がいるわけないなら、ミッチーの王子様である空央はどうなんだろうと――戸惑いの中に思いながら、光紀は続けた。
「うん、俺じゃ王子様になれないかもしれないけど――」
「けど?」
「ミッチーを守る『正義の味方』にはなれそうな気がする」
 ミチルが笑ったような気がした。確認できなかったのは、間髪いれず憐憫に顔を歪めて見せたからだ。
「あんた、本当にお馬鹿ね。可愛そうに……脳みその足りない弟の代わりに、私が神様にお願いしてあげるわ。少しでも頭が良くなりますようにってさッ!」
 ミチルは怒っているようだった。あれから一週間以上たった今も、まだ怒っているらしい。朝、忙しい時にワザワザぶつかってきたり、光紀の歯ブラシを取り上げて返してくれなかったり。
 しかし光紀は、ミチルが光紀の姿に怯えなくなっただけでも、とても嬉しかった。


 四時の鐘が鳴った。
 今日も目標地点までには届かなかったらしい。はるか彼方で、壁に立てかけられた鉄板がキラキラ輝いている。いつか四時までにあの鉄工所まで走れればいいなぁといつものように舌打ちし、光紀はまだ動きたがっている足を止めた。鋏を分解してくれた大林は今頃何をしてるだろう? 工場の就業時間は五時らしいので見かけたことすらなかったが、相変わらず髭を撫でながら、ぶっきらぼうに鉄板と向かっているような想像が浮かんだ。そうであったらいいなと光紀は一人、道端でニヤニヤと頬を緩めた。
 そんな表情に反し、喉はヒリヒリゼーゼーと警戒を鳴らしている。その痛みを自覚しながら、今まで走ってきた道を逆に辿りはじめた。遊ぶのも楽しいが、こうやって一人で走っている間にいろいろ考えるのも悪くはなかった。考えたくなくても、頭の中に勝手に浮かんでしまうイメージを追うのが楽しかった。
 歩道から眺めた道路の端に、丸いマンホールがあって、光紀は空央の隠れ家を思い出す。重くて自分一人では持ち上げられない鉄の蓋を、大和と悠太に開けてもらった時の事を思い出す。
 誰がやったものだろうか。空央の隠れ家だった穴は、真新しいコンクリートで塞がれてしまっていた。
 空央の秘密ごと、それを知った自分の存在までもがその下に埋められてしまったような想いに襲われて、光紀はまた涙を流した。空央が自分の想いを全く無視した行動をとったような気がして悲しかったのだ。
 もう二度と会えないような予感に再び囚われて涙する光紀を、悠太が笑った。悠太だって事情を知っていたら違う反応を見せたのだろうが、光紀が泣きながら『秘密基地』という言葉を繰り返す様が、彼の笑いを誘発したらしいのだ。
 気がついたら、悠太の顔を殴っていた。
 本気になって怒った悠太と取っ組み合いの喧嘩をしたのは初めてだった。喧嘩慣れしていない上に体格にも劣る光紀は、すぐに馬乗りになられて何度も殴り返された。大和が止めに入らなかったら、頭の上のタンコブだけではすまなかったかもしれない。
 しかしその一件から二人の態度が変わった。昔なら渋々といった調子で、そして光紀が断るのを前提に遊びに誘っていた二人だが、今は来るのを楽しみにしているようだ。何を企んでいるのかわからないが、良くも悪くも、光紀という人間に二人が興味を抱いたらしい。
 光紀も悪い気はしなかった。今は走り込みたいからと断っているが、いつか大和と悠太が遊んでいる仲間にまぜてもらって、一緒にサッカーでもやってみようかと思う。以前は二人が大声あげながらボールを蹴っているのを、ルールもわからず遠くから眺めていただけだが、今は違って見えるかもしれない。何よりも、いつも追いつけなくなってしまう二人の姿を、今度は見失わずに追いかけられそうな気がした。自分を試したくなったのだ。
 空央に追いつく前に、悠太にそして大和に、さらに晴彦に追いつかなければ。
 ……いや、悠太に挑む前に、今までは幸はおろかミチルよりも足が遅い光紀だったりする。
 光紀がこなさなければならない課題は沢山あるらしい。
 そんな事を考えているうちに、疲労が光紀の体を重くさせてゆく。重い体は光紀の思考力を奪い、そして全ての意識を光紀自身の体と地面との戦いへ向かわせる。
 立ち止まろうという考えが時折浮かんだが、嫌だと首を振り腕を振りがむしゃらに足を進めた。
 帰るんだとだけ念じながら、黙々と走り続けた。


 家に戻れた頃には、とっくに陽が落ちてしまっていた。
 ぐったりとした体を早く休めたくて、しかし動かさなければ帰る事もできず、光紀はヨロヨロと玄関に転がり込む。ほぼ毎日走っているのに、未だにこの苦痛には慣れる事ができなかった。格好悪く情けないと思ったが、それが今の自分の実力だから仕方がないと自分を慰めた。大人になるまでに、空央のようにスイスイ山道をあるけるようにすればいいと。
「あ、ミッチャンだー! おかえりなさーい!」
 居間から飛び出してトタトタと駆けてくる愛を抱きとめると、幼い妹は「やめてー、離してよー」と満更でもない声を上げた。光紀は這い上がるように靴を脱ぎ、廊下で大の字になる。
「おかえり、ミッチャン」
 催促する愛に、ガラガラになった喉で「ただいま」と返す。口を動かすのも辛くて上手くいえなかったが、ミニアイは気にしなかったらしい。嬉しそうに奥のほうへ走っていくミニアイが何かわめいているのはわかったが、それを聞き取る気力はない。転がっている冷たい床板は気持ちよかったし、自分の呼吸と血の流れる音が耳元でハアハアドクドクとうるさかったからだ。
 バタバタとスリッパの音と人が歩く振動が床につけている頬に響き、側に人がやってきたのを察した光紀は顔をあげた。
 台所に立っていたのか、エプロンをつけた幸がジッと光紀を見下ろしている。光紀は黙って右手をあげた。幸はため息をついてその手を掴み、ぐいっと引っ張りあげる。
 何か言いたそうな幸の顔に、光紀は自分が何か幸を怒らせたような事を忘れているのかと、荒い息で上手く考えがまとまらない中で考えた。思い当たるような事は一つもなく、どうやって対処すればいいのかわからない。
 居間の方でミニアイがチビ太に話しかけているのが聞こえた。
 そして光紀ははっとする。ああ、そうか。さっき口にしたからみんなに、幸にも言ったような気がしていただけだ。
「ただ、い、ま」
 ちゃんと言い直そうと、光紀は唾を飲み込んでから叫んだ。
「ただいまッ、幸っちゃんッ!」
 幸は、はにかむように笑みを作り、嬉しそうに呟いた。
「おかえり」
 そして「みんなもう帰ってきて光紀を待ってたんだよ」と、どうでもいい事のように付け加えた。




<『正義の味方』・了>


・web拍手導入しました。「この話おもしろいかも」と思ったらポチリとお願いします(別窓)

←PREV | MainStory=MemoryBlood | Home | NEXT→
本編未読の方の為へのガイド | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | あとがき
copyrights (c) 2001-2017 suzu3ne@CloudCollector'sVector(2CV) All rights reserved.