正義の味方・その2
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 長女の藍に好きな人が居るというのは、晴彦以下の子供達の共通した見解だった。
 相手は、空央の親友である高篠光矢である。彼が相当なお金持ちだというのは養父や空央から聞かされていたが、子供達にはどうしてもピンと来ない話だった。光矢は子供に対しても物腰柔らかで、ちょくちょくやって来ては、一緒に家庭用ゲーム機で遊んでくれる大事な遊び仲間だったからだ。とてもお金を持っているように見えないし、実際、彼は現金を持ち歩くタイプ人間ではなかったから、子供の目には「いつもお洒落で汚れのない服を着ている人」ぐらいの認識しかなかった。
 空央や藍が彼と楽しそうに話しているのを見るのも、子供達には嬉しいことだった。三人の会話は他愛ないものばかりだったが、そこには子供達の知らない大人の世界があって、空央や藍がそういう空気に羽根を伸ばしているような気がしたからだ。
「光矢さんとアイ姉が話している時は、絶対に邪魔しないこと。いいな?」
 晴彦からワザワザそういうお達しが来た時、全員で「当たり前だろ」と返したのは、みんな同じように彼らを見ていたからだろう。
 そんな三人の間がギクシャクしだしたのは、衛藤家の敷地内にある教会が半壊し、それに巻き込まれた光矢が大怪我をした頃だろう。
 それはちょうど、夏休みに入るより二ヶ月前の頃――光矢の職場で働いているという、八雲という人物が現れた頃からだった。
 成人した人間から見ればまだまだ十代の面影を色濃く残している八雲だったが、いつだって無表情で他人に接する彼は、小学生の光紀の目から判断すれば「怖い大人の人」だった。養父も大事な人を接待する時のようにかしこまっているのがわかったし、それは同時に、八雲を警戒しているようにも見えた。
 何よりも、空央が彼を嫌っているのがヒシヒシと伝わってきていた。理由はわからない。空央も語らない。大人たちは何も言わない。だが空央をガキ大将と仰ぐ衛藤家の子供達が、彼を招かざる客として認識したのは当然だろう。
 しかも、空央が家から姿を消して程なく、八雲は毎日衛藤家を訪れるようになり、空央の部屋で何事かしているときている。藍はやたらとため息をついては誰だかとのメールにかまけだし、養父は以前よりも忙しく外出するようになり――夏休みの楽しみとは別の部分で、子供達にとって実に面白くない事態がおこりつつあった。



 『自分は正義の味方なんだ』と告白した日から、空央の行動は変わった。
 光紀があまり動揺しなかったのに安心したのか、ずっと見ているだけである事に安堵したのか、どんな心境の変化があったのかはわからない。仮に「正義の味方」という言葉が嘘だったとして、その嘘の裏づけだったのかもしれない。
 まず空央は、光紀にナイフの砥ぎ方を教えてくれた。ナイフの柄にはめられていた小さな砥ぎ石で、ナイフの刃を磨く。角度をつけて何度か石の上を滑らせると、鈍かった刃の輝きがほんの少し――時にはキラリと光を反射するようになり、新たな切れ味が生まれてくる。ただそれだけでも光紀は興奮できた。カマキリやクワガタ、ザリガニやサワガニに咬まれたり鋏まれる危険とは違った感覚、小さな刃のバランス良い重さと日頃は目にしない鋼色の輝きは、光紀に大人の世界をほんのわずかでも見せてくれているような気がしたからだ。夏のむせ返る熱と土に反した人工物からは、ミニアイやチビ太の子守なんかでは決して覗けない世界の匂いがした。
 一通り砥ぎ方を教えた後、空央は軽く運動してから山の奥のどこかへ消えていった。光紀は初めて、自分の義兄がとんでもなく足腰が強く、歩くのが速い事に気づかされた。後を追うにも、日陰の急な山道は思ったより崩れやすく、少しでも移動すれば元の位置がわからなくなりそうな恐怖感が襲い掛かってくる。空央が軽々と道なき山肌を登っていくのが、夏の日差しの中を駆け回り続ける義兄弟達を見ている以上に信じられない光景に見えた。基礎体力不足だけでは説明できない、明らかな技術の差を見せ付けられ、光紀は渋々ながら、待ち合わせ場所である空央の自転車の側に戻るのが常だった。
 空央が山の奥でどんな事をしているのか気になったが、そんな事は新しい遊びである刃物砥ぎに熱中している内に綺麗に忘れてしまっていた。それに、光紀が一日分として預けられた小さな投げナイフを研ぎ終える頃にはちゃんと、空央が汗だくで戻ってくるからだ。
「なんつーかさ……自主トレしているところを身内に見られるのって、恥ずかしいんだよな」
 空央は光紀が持ってきた氷水をチビチビ飲みながら笑った。最近の光紀は、空央の為に水筒を持ってくるようになっていた。毎朝フリーザーの中にある製氷機から水筒に氷を移すたび、台所を預かる藍には不思議そうな顔をされたが。
 でも約束した以上、大事なアイ姉にもアキ兄の居場所を教えるわけには行かない。光紀がナイフで遊んでいたと知れたら、そしてアキ兄が遊ばせていたと知ったら……少々過保護気味のアイ姉のことだ、二人揃ってこっぴどく怒られてしまう。もしかしたら、いつだったか大和と悠太が車にはねられて腕を骨折した時みたいに、泣かせちゃうかもしれない。自分はそんな事、絶対にしたくない。
「訓練ってさ、仲間の前だとあんまり意識しないんだけどな。光紀の前だと思うと、余り見せたくねぇんだよ」
「……なんで?」
 『仲間の前だと意識しない』けど『光紀の前では意識する』という事は、光紀は仲間だと思われてないわけだ。
 義弟のカンに触ったのを感じたのか、空央は苦笑しながら慌てて付け加える。
「だってさ、敵をやっつける練習してるんだぜ? 相手がいないのに、腕をぶん回したりキックしたりしてるのって、ただ見ていると変だろ?」
「そんな事してるの?」
「まあな。シャドウとかイメージトレーニングって奴。わかるか?」
「……変なの。変な人みたい。マヌケ」
「だから見せたくねぇんだよ。延々腹筋したり、スクワットしてるの見たって、光紀はつまんねぇだろうし」
「そんな事ないよ!」
「わかったわかった。そうムキになるなって。……あのな、俺はこういう事を、お前を面白がらせる為にやってるんじゃねぇって事なんだ。自分の為にやってんの。だから俺が好きなようにやるの」
「……」
「すねんなよ。お前だって、チビ太が読んでる本を破いちまったり、晴彦に無理矢理リモコン盗られたら嫌だろ? 俺も、今までやってた事を変えんのは嫌なんだよ」
 それにな、と空央は付け加える。
「必殺技っていうのは、味方にでも簡単に見せるもんじゃねぇだろ?」
「そんなのあるの!?」
「あるかもしれねぇぜ?」
 意味深に笑って、空央はクシャクシャと光紀の頭をなでる。
「なんせ、俺は『正義の味方』なんだからな」


 いつからか、空央に向かって最近の衛藤家の様子をポツリポツリ説明するのも、光紀にとっては水筒を持ってくるのと同じぐらい大事な仕事になりつつあった。空央は真剣な目で時々砥ぎの悪い部分を直したりしながら、光紀の報告に耳を傾けてくれた。藍の外出が多くなったこと、光矢以外に好きな人が出来たらしい事、晴彦が高校進学時に奨学金を得るため最近は真面目に勉強してること、幸とミチルが外出する藍の代わりに料理を作るのだがどうしても変な味になってしまうこと、大和と悠太がミニアイとチビ太をお風呂に入れたとき危うく溺れさせるところだったこと……そんな事を思いつくまま報告する。
 光紀は自分から話すのが苦手だ。だから言葉はどんどんあいまいになり、話は支離滅裂になっていく。それでも空央は辛抱強く聴いてくれたから、光紀は下手なりに一生懸命報告した。
 一通り伝え終えると、いつも空央は
「……八雲は?」
 そう尋ねる。それが報告会の最後の合図のように。
「今日も昨日と一緒。俺が帰った時には帰っちゃってた」
「そうか」
 八雲の事になると大抵どこか不機嫌そうな空央に、光紀はうっすらと『空央の敵』の存在を感じとっていた。
 その時、光紀がずっと思っていた事を自然に口にしたのは、敵の気配に不安を感じたからだろうか。それとも、気まずい空気をなんとか好転させようとする子供なりの配慮だったのだろうか。
「ねぇ、アキ兄」
「なんだ?」
「コレ、もらっちゃダメ?」
 砥ぐように渡されていた小刀の一つを手にとって見せると、空央は即座に「ダメだ」といった。
 光紀としては、空央の手伝いをしているご褒美や、なんだかわからないけどカッコイイと感じる刃物の一つを自分の物にしたかっただけだったのだが、空央はけわしい顔で諭した。
「そんなの持ってたって、練習もしてないうちは怪我するだけだぜ? 手を切ったら血が一杯出るぞ? 大体、あんな狭い家のどこに置いて置くんだよ。ミニアイやチビ太が遊んでるうちに、あいつらの耳とか指とか切り落とされて無くなったっていいのか、お前?」
 想像しただけで気持ち悪くなったのは、空央の言い方だけでなく、以前見た刑事ドラマの生々しい死体描写のおかげもあったのだろう。
 光紀自身の経験も拍車をかけた。いつだったか、幸がばら撒いてしまった彫刻刀を、みんなで慌てて拾った時の事だ。光紀も皆に倣って彫刻刀の一本を拾い上げたのだが、ふとした拍子に先端が深く指先に食い込み、見る間に血があふれ出して止まらなくなった。ちょうど藍は授業があって外出していて。幸は取り乱し過ぎて無言のまま養父を呼びに走り、大和も悠太も血相を変えて血止めに救急箱を持ってきたり傷口を洗うのに洗面所に光紀を引っ張っていったり、ミチルはペタンと座り込んでチビ太たちと一緒に泣き喚くし、光紀はジクジクとする指先がどんどん痛みを増していくのにボロボロ泣いた。あの時は結局、家庭菜園にいた養父が飛んできて、傷口を一目見るなり大丈夫だといって笑って、すぐに手馴れた様子で手当てしてくれたおかげで、ようやく騒ぎが沈静したけど。
 でも――。
「ヤだ……」
 自分より年下の子供達の指や耳が取れてしまうと思うと、どんなに痛いんだろうと光紀は思う。転んだだけで泣き出すミニアイやミチルが、痛みや沢山でる血が止まらなくて死んじゃったら、悲しくて悲しくて、どうすればいいのかわからない。光紀は小さい子の面倒を見たり相手をするのは嫌いだけど、それは決して居なくなれという意味なんかではないのだ。彼ら自分の邪魔をしてこなければ、なんとなく見ていて嬉しくなる兄弟なのだ。家の中に居るのが自然な存在なのだ。彼らが痛がれば辛いし、居なくなったらと思えばぞっとする。
 そんな大きな怪我をしても、『正義の味方』の空央ならマンガみたいになんとかしてくれるかもしれないけど、もし間に合わなかったら……その前に、いつものあの地面から出てきてくれなかったら……。
 そんな連想の数々はただの想像に過ぎないはずだったが、光紀は記憶の中から引き出された経験の名残からか、自分の指が痛くなるようなリアリティを持ってそれらを受け止めた。
「ヤだよ……」
「だろ? だからあげない……って、おいおい、泣くことかよ!?」
 想像の中で実感した痛みや恐怖や喪失感は、光紀の目を潤ませた。だが空央はその理由を別のところにあると思ったらしい。
「もらえないぐらいで泣くなよ、バカ。うーん、そうだな……しょうがねぇ、これで勘弁しろよ。な? コレだってあんまり持ってる奴居ないぜ? な?」
 空央が持っていた小さな円盤状の砥石と棒状の砥石の二種を差し出し、困ったように光紀の肩を抱く。
「ほら、こっち二つやるから。ナイフは勘弁しろよ」
「……」
 別にそんな物が欲しくて泣いたワケじゃないし、どうしてもナイフが欲しかったわけでもなかった。だが黙り込む光紀に対して大いなる勘違いをしたまま、空央は二つを光紀の手に無理矢理握らせて謝り続けていた。
 そして光紀も、誤解を解かなければならないような危機感を感じたわけでもない。握らせられるまま、二つの砥ぎ石を受け取った。受け取らないと、誤り続けている空央にすまない気分にさせられたからだ。


 空央に話をする事を意識して家に戻るようになると、部屋の中はなんだか今までとは違って見えた。一人で過ごしていた頃は意識しなかった家の狭さを感じ、バタバタと走り回るミニアイやゴロゴロ転がるチビ太がヤケに大きく見えた。気配も無く廊下を横切りそっと大和と悠太の背後から二人の様子を伺う幸の姿を見る事ができたし、ミチルと晴彦が一つのラジカセで流行のCDを仲良く聴いてるのも初めて知った。そんな些細な事すら知らなかった自分は、今までこの家のどこに居て何を見ていたんだろうと、光紀自身が不思議に思ったぐらいだ。

 そんな自分の指定席だった本棚の前は、かつては光紀によって積み上げられていた児童書の代わりに、空の虫籠と水筒と、例の図鑑の入ったバックが置かれている。
 それを見て、光紀は確認する。
 自分はアキ兄の代わりに、この家を見ているのだ。自分はアキ兄と一緒に『正義の味方』をしているヒーローなのだ。
 アキ兄は明日から一週間、あの『秘密基地』には戻って来れないと言っていた。きっと悪い奴の基地に乗り込むんだろう。だから武器の手入れをしてたり、家から出て行ったりしてたに違いない。その間、アキ兄が安心して戦えるように家を守るのは仲間の――アキ兄が認めてくれなくても、自分はアキ兄の仲間だ――光紀の仕事であり使命であるはずだ。
 だから、アキ兄がいつも警戒しているあの八雲という奴を見張って、あいつからこの家の人間を守るのも、ヒーローたる自分の仕事なのだ。
 光紀は図鑑の入ったバックを肩からさげ、夕食の仕度に追われている藍の目を盗んで裁縫箱に近づいた。
 戦うには武器がいる。どのマンガやゲームの主人公だって武器を持ってる。空央ですら持っている。素手で戦っているのは拳法家か魔法使いぐらいだ。何もできない光紀には武器がいる。
 大きな裁ちバサミをつまみあげると、鉄の擦れる嫌な音が響いた。誰か気づいた者はいないかと慌てて皆を振り返るが、誰一人として彼の行動を気にする者は居ない。その不自然さをあえて幸運と受け取りながら、光紀はハサミを自分のバックに押し込む。大きすぎるハサミは小さなバックの中に入りきらず、無理に入れようとすると図鑑の一部が刃の先端で引き裂かれた。その音にザワザワとした不安をかき立てられ、光紀は急いで玄関に向かう。このままバックの端から裁ちバサミの柄が覗いていては、誰がハサミを持ち出したのが一発でわかってしまう。大体、このバックを家の中に転がしておいて、飛び出した刃に触ったミニアイ達が怪我をしたらどうするんだ。昼間に空央にきつく言われたばかりなのに。ハサミをどこかに隠さなければ――それも外に。
 バックを手で押さえながら玄関から外へ飛び出すと、既に真っ暗になった庭先の家庭菜園から養父がやってくるのに出くわした。畑仕事に使う道具や収穫物を放り込んでいる大きな竹籠を背負い、日焼けした養父は光紀の足音に気づいて立ち止まった。
「……光紀?」
 彼が一人で外にいるのがそんなに驚く事なのだろうか。養父は走って逃げ出す光紀を呼び止めることもなかった。それが逆に光紀を怯えさせる。敷地の端にある門を出て道を曲がっても、養父の視線が追いかけてくるような気がして、光紀は息が切れ喉が痛くなり太ももがガクガクと震えても、全力で走り続けた。空央の自転車の籠にバックを突っ込み振り返るまで、彼は怖いほどの興奮と罪悪感で一杯になりながら、養父の視線を背に感じ続けていた。
 こっそり家に戻り夕の食卓に着いたが、光紀の行動を咎める者は誰一人として居なかった。養父ですらいつもどおり、ニコニコとしながら皆を眺めているばかりだった。
 この家の中での光紀は、この場に居ない空央と同じような存在だったのだ。



 その小さな鉄工所を、光紀はとても近くにあるものとばかり思っていた。
 ピカピカに光るアルミ色の板が、錆びてペンキも剥げ落ちてしまっている壁に何枚も立てかけられているそこは、毎日空央と自転車に乗って山に行く途中に見かけた場所だった。
 昨夜に全力で走ったおかげで筋肉痛になってしまった足を引きずり、光紀はその鉄工所に向かって歩いていた。空央と自転車なら五分もせずにたどり着くのに、夏の炎天下をヨロヨロと歩く光紀の足では午前中一杯を費やした。
 鉄工所はちょうど昼休みに入ったところらしく、プレハブの事務所の中に汚れた作業服の男達が何事かガハガハと笑いながら弁当を頬張っている。それを眺めながら、光紀は水筒の氷水を空央がするようにチビチビと口に運んだ。
 喉が渇いていた事もあるが、何よりも、彼らにどうやって声をかければ良いのか全く見当もつかなかったからだ。
 口下手な自分を知っているだけ、見知らぬ他人にどうやって何を伝えれば全てがうまく行くのかわからなかった。何を話してもけなされたり怒られたりするような、そんな恐ればかりが先にたってしまい、彼はプレハブ小屋の前に突っ立ってジッと――心の中では半泣きになりながら、誰かが自分に気づいてくれるのをずっと待っていた。
 小屋の中の男達は、自分たちの話と付けっぱなしのTVに夢中で、光紀に気づいてくれない。疲労と気温により、全身からはとめどなく汗が流れる。日陰に入りたかったが、それでは鉄工所の人間に気づいてもらえないと考え直し、眩しい日差しの中に立ち尽くす事を選択した。
 ぼーっとしてくる頭の中で、ぼんやり、空央の鼻歌が蘇ってきた。既に無くなってしまった大陸中央部の、砂漠の国の歌。彼はあの、二年以上前の地図にしか乗っていない国に行った事があるんだろうか。こんな風に暑くて辛くて息も出来ないような目に会った事があるんだろうか――その頃はもう、『正義の味方』だったんだろうか。いつから長兄は『正義の味方』だったんだろうか。
 自分は本当にそんな言葉を信じているんだろうか?
 なんでこうやって待っていると、こんなに悲しい気分になるんだろうか?
 そんな事を考え続けて、どれぐらい待っただろう。
「おい」
 背後から急に肩を叩かれ、光紀は慌てて振り返り――慌てすぎてその場に尻餅をつく。
 ガリガリに痩せた髭面の男だった。作業服にはところどころ真っ黒な汚れがこびりつき、光紀は熱でうまく動かない脳裏に、墨汁の汚れが落ちないと嘆く藍の姿を思い出す。
 胸元に縫い付けられた『大林』の名前も、機械油と思われる汚れで色を曇らせていた。
「誰かに用なのか?」
 大林は淡々とした口調で尋ねながら、立ち上がろうとした光紀に手を貸す。差し出された手はちょっと汗ばんではいたが、シワシワで凹凸を肌で感じられた。問いかけに対して首を否定に振ると
「じゃあ、帰りな。ここにある機械や材料は危ないもんばっかだ。おめぇの首なんざ簡単にちょん切れる。怪我する前に帰れや」
 男の言ってる言葉そのものはわかったが、その言っている意味は何がなんだかわからなかった。文字通り、無我夢中だったのだろう。
 光紀は急いで肩下げ鞄から裁ちバサミを引っ張り出した。
「な……なつやすみの――」
 用意してきた言葉が出てこない。昨日感じた養父の視線を、今はいないはずの父なのにその視線を再び背に感じながら、必死で声を絞り出す。指の節が真っ白になるほど握り締めたハサミを大林に突き出して。
「――宿題で、自由研究……の、バラバラにして、部品を……」
 大林は自分の髭をつまんで、光紀の前にしゃがみこんだ。
 また、あの世界がゆっくり動く錯覚に襲われる。景色が歪む世界。プールに潜った時のように、全てがぼんやりとスローペースで動き続ける。なのに声はきちんと聞こえる不思議さ。
「何もしねぇから、ちゃんと言ってみな。俺ゃ、こんな髭してるけど、何もとって食うわけじゃねぇんだから」
「……」
「ガッコの宿題なんだろ?」
 大林は光紀の手からハサミを受け取った。その触感が、光紀をゆったりとした世界からせわしないの世界に連れ戻す。
「ガッコの宿題で? どうしたいんだ?」
「自由研究の――」
「で?」
「いろんな道具を、バラバラにして……部品を調べて、持っていこうと思って……」
 大林は裁ちバサミを眺めた。
「これをバラバラにすればいいのか?」
 無言で頷く光紀に「ここを外せばいいのか?」と作業所の男は中央部の支点を指差し、念を押した。二つの刃を繋ぎとめている丸い金具は頑丈で、家庭にある道具や光紀の手ではとても外せそうになかった。大林は唸りながら
「これかぁ……この丸い奴だけ外すってワケにはいかねぇなぁ」
「……」
「丸いのは取る時潰れちまうけど、刃のところだけあればいいか? じゃなきゃ、ハサミ作ってる工場に行ってもらって来るしかねぇんじゃねぇかなぁ?」
「潰れても、いい、です……」
 必要なのは止め具なんかじゃないのだ。


 そして今。
 光紀は家の側の公園ではなく、少し離れた児童公園のベンチに座っている。
 環境整備だとかなんだとかで設置されたはいいが、付近に住む子供が居なくなってしまい、ほとんど放置されている場所だ。猫の額ほどの大きさで、ホームレスすら住み着かないその荒れ放題の公園のベンチ。そこで光紀は、大林に分解してもらった裁ちバサミを眺めていた。
 バックの奥では、分解してもらったお礼に渡すつもりだった二千円が潰れていた。衛藤家の子供にとって、現金そして二千円は大金だ。光紀の三ヶ月分の小遣いになる。使う当てもなく取っておいたその現金は、ぐしゃぐしゃになっていつものありがたみを失ってしまっていた。そして大林は、そんなささやかな謝礼金を受け取らず、代わりに光紀の名前を顧客名簿に書かせた。仕事で機械を使った理由を書類に書いて提出しなければならないからだと言って。
 そして、しどろもどろに礼を言って頭を下げる光紀に向かって「元気出して、宿題がんばれよ」と励ましてくれた。
――ごめんなさい。
 光紀は記憶の中の大林に謝る。
 これは自由研究なんかじゃないんです。大事な武器なんです。
――ごめんなさい。ごめんなさい。
 光紀は更に、バックの奥から空央にもらった砥石を取り出す。
 分解されたハサミは、刃の潰れたナイフや包丁のようなものだ。新しく刃を付け直してやれば、不恰好ながら新しいナイフができあがるはず――そしてそれは、この世界にあるたった一つの、光紀の為だけに作られた武器になるはず――彼はそう考えたのだ。
 水筒の水で石を湿らせ、光紀は背筋を伸ばす。空央が教えてくれた事を思い出しながら、ゆっくりと刃の角度を決め、石の上を滑らせる。様々な抵抗の感触が光紀の指を伝ったが、彼は手の動きを止めようとはしなかった。
 止めたからといって、通りすがりの誰かが都合よく彼に武器をくれるわけではないのだ。空央以外、誰も光紀や衛藤家を守ってくれたりはしないのだ。
――何から?
 空央は、光紀たちを何から守るというのだろう?
――八雲から。
 なら、八雲は自分たちに何をするというのだろう?
 わからない。そもそも、八雲が本当に敵なのかどうかすら確証は持てない。
 わからないけど、今は『正義の味方』という空央の言動を信じて、これを完成させるしかないのだ。空央の敵は光紀の敵、空央が正義なら光紀は正義、正義である自分たちの敵は悪である。
 そして、肉体で戦えない自分はせめて刃物の一つだけでも身につけておかなければ、空央の足を引っ張るだけなのだ。
 自分は正しい事をしているはずだ。なんせ『正義の味方』なのだから。『無いなら作れ』――そんな衛藤家のやり方に従って、無い武器を調達しているだけのはずだ。
 だが何故だろう? ガンガンと脳裏で響く自分の声は、全く正反対の事を叫び続けている。
――ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい……。
 誰に対して謝ってるのかわからないまま、光紀はただ黙々と全身で刃を砥ぎ続けた。
 暗くなっていく空と、みんなが待っているはずの食卓を気にしながら。



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