正義の味方・その5
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 光紀の座っている隣りへ朝露も気にせずドカッと腰を下ろした空央は、それまで吸っていた煙草をベンチの端で押し消すと、当然のようにズボンのポケットから新しい煙草を取り出し口にした。シュボッと音を立てるライターとその灯は、光紀の見ている中、朝の日の中で――まるで光紀の心を取り出したかのように、頼りない陽炎を作り出しては自らの生み出した風に揺れた。
 光紀はおずおずと好奇心に打ち伏せられて尋ねる。聞いてはいけない事なのかもしれないとは思いつつも。
「……ねぇ……どこ、行ってたの?」
「どこだろうな〜。お月様の真裏あたりじゃねぇかな?」
 長兄は楽しげな様子で答えをはぐらかし、真上に向かって紫煙を吐いた。姿かたちは見慣れぬものながら、その動作はよく見慣れた兄の姿で、光紀はぼんやりとその違和感を面白いと、そう感じる自分を他人のように観察していた。
「……敵の基地でしょ?」
「おいおい、どうしてそういう発想になるんだよ? まあ……そうだな、似たようなもんかな?」
「真面目に答えてよ」
「いつだって大真面目だぜ、俺は?」
「……嘘つき」
「あれ? ばれてんのか?」
 正解のご褒美とばかりに、片手を伸ばし光紀の髪の毛をクシャクシャにする。その手を怒りをあらわにして振り払うと、空央は声をあげて笑った。唇を尖らせながら光紀は不満で胸を一杯にする。彼がどんなに心配したのか、絶対に空央はわかっていないと思う。
 だがここは我慢どころと踏みとどまる。今聞きたいのは別のこと。自分がこんな風にベンチでぼんやりしなければならなくなった原因の事だ。
「……ねぇ、敵って、なんなの?」
「敵は敵だろ。俺やお前を邪魔だと思ってる奴」
 そんな『奴』とやらがなんなのかわからないのに。
 ふと、光紀は脳裏を過ぎった人物像に、不愉快な気分にさせられた。自分を捨てた二人の大人の事だ。勝手な想像ながら、それは瞬時に光紀の気分をささくれ立たせる類のものだった。
 次いで、学校で本ばかり読んでいる大人しい光紀を、暴力にうったえてバカにする悪ガキどもの顔が浮かんだ。だがそれは夏休みで彼らとの接触のない光紀には遠い世界のものに感じられ、何よりも大人である空央の敵になりうるはずが無かった。以前より眼中になかった連中だったが、ますます彼らの行動が子供じみて感じられ、光紀はあらためて自分が全く違う世界の住人となった事を意識した。
 そして、三番目に出てきた人物の名を、光紀は期待を持って発する。
「あの、毎日ウチに来る八雲って人は、敵じゃないの?」
 しばし考え込んだ後、空央はきっぱりと断言した。
「今は敵じゃない」
「……それはホント? ウソ?」
「こんな大事な事、ウソつけるかよ」
 その胡散臭いまでにはっきりとした返事を、光紀はとりあえず本当の事なのだと受け取っておく。
「『今は』って?」
「アイツの目的がはっきりしたら、どうなるかわからねぇって事。今んトコはオヤジの味方らしいから、一応味方なのかな?」
「……じゃあ、あの人とは連絡とったりしてたの?」
「とるわけねぇだろ。あんな、何考えてんだかわかんねぇ奴なんかに」
 内心、困ったと悩む光紀だ。自分が完全に空回りしていたと断言されたのだから。
「ねぇ……じゃあオヤジは、アキ兄が『正義の味方』だって事、知ってるの?」
 空央が自嘲で鼻を鳴らす。その動作一つで、白いシャツを透かして見えている、張り詰めた空央の腹筋がグッと波打った。
「知らねぇワケねぇだろ」
「アキ兄が教えたの?」
 否定に首を振りつつ、空央は嘲りを含んだ笑い声をあげる。過分に自分への嘲笑を滲ませながら。
「あのオヤジの事だ、俺がこんな事はじめてすぐ、奴の耳には入ってたんだろうな。立場上そういう事ができる奴なんだよ、アイツは。全く、やり難くいったらありゃしねぇ」
 光紀の脳裏に、八雲の頬を張った養父の姿が浮かんだ。
 あの時、彼は『許さない』といった。『私の子供たちを傷つける事は許さない』と。
 何故だかわからないが、あの時の事を思い出すと息苦しい気分になった。不覚にも目頭が熱くなり、今泣き出してしまうと空央にからかわれるという懸念から、必死で歯を食いしばる。感情をやり過ごす為、光紀は次の質問を急いで口にする。
「……じゃあ、あの八雲って人のこともいろいろ知ってるの? 悪い奴だとか、良い人とか?」
「さあな。知ってるかも知れねぇけど、俺達に教えてくれるとは限らねぇな」
「どうして?」
 空央はその質問に答えてくれなかった。代わりにポカッと、上に向かって煙の輪を吐いた。
「なあ、光紀」
「……何?」
「お前さ、わかってるよな? 俺が今、こうやって出てきた理由」
 戸惑う光紀の前で、空央は自分の後頭部に手を伸ばし――考える時に自分の長い後ろ髪を引っ張るのが空央のクセだった――その髪が今や切り落とされている事を思い出したのだろう、糸が切れて放り出されたように腕を下ろした。
「オヤジから聞いたよ。昨日の事」
 一瞬、頭が真っ白になった。
 でもそれは、ストロボライトの様にほんの一瞬のもので、光紀はいつものように静かに、ゆったりと動き出した風景に気づかされた。ぼんやりと遠くで鳴っているクラクションの音や、足早に立ち去っていく遠くのサラリーマン風の大人たちが、絵空事のように現実味を失っていく。
 でもそれは、決して不愉快な類のものでも、興奮から来るものでもなく、そして危機感から来る現実逃避でも無かった。それはあくまで、自分の中の情報を整理する為に設けられたスローペースの時間だった。
 空央はいつもと変わらぬ調子で、よくチビ太にせがまれる煙の輪を唇を尖らせて吐いた。そして、ごめんと言った。
「オレ、お前の事、見くびってたわ。喧嘩なんてできねぇ奴だと思ってた」
 突然手を伸ばし、空央はもう一度、光紀の頭を力強くゴシゴシと撫でた。
「見直した、マジで。まあ、やった事が良い事か悪い事かは別としてな」
 予想外の言葉に光紀は戸惑う。
「それって、誉めてんの?」
「おおよ、誉めてる誉めてる。オヤジも誉めてた」
「嘘だ」
「嘘じゃねぇよ」
 空央はプカッと煙を吐いて、ニヤニヤしながら光紀の肩に腕をまわした。
「ハサミだとかナイフだとか、全部お前が自分から進んではじめた事だ、今までそんな事なかっただろ? オマケに、他人に怪我させちまって泣けるだけ、お前ん中に優しい血が流れてるんだって確認できたんだ。オレは嬉しかったし、もちろんオヤジにとっても、そう悪い事じゃなかったんだろうさ」
「でもオレ、オヤジに――」
 ケガをさせちゃったんだ――そう続けようとした光紀の言葉を、空央は先読みして遮る。
「あれぐらい、お前やミチルの事を考えれば、なんでもないってさ」
「……オレやミチルって? 俺たち、怪我なんかしてないよ?」
「したんだよ。オレやオヤジがぞっとするような大怪我したんだよ。交通事故みたいなもんだけどさ」
 空央は苦笑して、それ以上教えてくれなかった。
 そして光紀には、その意味がわからなかった。いや、昨日の事を話し始めた時から、空央の言ってる意味が理解しがたいものになりつつあったのだ。
 どうして怪我させられても構わないなんていうんだろう? なんで怪我していても、光紀がナイフを作ったりしていても、それが嬉しいなんていうんだろう? どうして光紀が泣いた事をみっともないとおもわないんだろう? 何もしてないのに、泣いてるだけで優しいなんていえるのだろう?
 悲しいことに、空央や養父の考える事は今の光紀には受け入れがたいものだった。
「光紀」
「え、なに?」
「昨日の喧嘩の時、八雲は怖かったか?」
「喧嘩じゃないよ、俺、勝負してたんだ。アイツをやっつけて――」
「喧嘩だよ。誰も死んでないし、誰も怒ってないなら喧嘩でいい。俺の知ってる限り、八雲もお前の事は怒ってない。俺の事はどう思ってるかわかんねぇけど……お前の事は怒ってない。絶対な。だから喧嘩にしておけよ」
「何でそういえるの?」
「ん……カンかな? 簡単に言えば、アイツがオレならそう考えるだろってこった。本当の敵が誰かぐらい、アイツだってわかってるはずだ」
「あの人の本当の敵って、アキ兄の事?」
「んにゃ、違う。もっと別のところでふんぞり返ってる奴さ……おいおい、話が元に戻ってるぞ?」
 で、怖かったのかと、空央は重ねて静かに問う。どこか皮肉げでどこか満足げなその口調は、光紀の答えをいつまでも待っているという余裕にも感じられた。
 そして光紀は、今の上機嫌の空央には、何を言っても許されそうな気がした。その顔を見ていると、ずっと、誰かにあの時の話をしたくてたまらなかったのだと気づく事ができたのだ。
 八雲に対峙した時の興奮、自分の力が及ばないと悟った時の絶望感、相手がミチルだったと知った時の恐怖――全て、自分の体験してきた事を全て誰かに語っておきたかった。日頃刺激らしい刺激を受けずに日々を過ごしている彼にとって、昨日に起こった数分間の出来事は、たった一人で抱え込むには大きすぎる経験だったからだ。
 今までどんな本を読んでも、どんなテレビ番組を見ていても感じなかった『誰かに話す』という行動への衝動。だがそれは、光紀が決して記憶から逃げ出そうとしているのではなく、その経験を光紀自身が咀嚼したという確認の為に必要だった。
 だが、光紀の少ない語彙では、その確認された経験を全て伝えるのは不可能に等しい。言葉にできる範囲は、極めて小さく、単純な言葉の内に収められてしまう。
「……うん、怖かった」
 たった一言でしか言えない。
 空央は頷いた。静かに、まるでいけない話をしているかのように小さく囁く。
「どれぐらい?」
「えっと……わかんないぐらい。前にプールで溺れた事があるって言ったでしょ? あの時よりずっと怖かった。溺れてた時はね、なんだかわかんないうちに溺れてたけど、昨日は目の前にあの八雲って人がいて、何してくるか見えてるんだもん」
 正確には見えていたつもりでも、全く見えていなかったのを後から知ったはずだ。しかし光紀は、あの時の自分が見て感じたものを伝えるだけで精一杯だった。
 空央もその辺りは理解しているのか、興奮気味の光紀に向かって苦笑いを浮かべつつ応じる。
「そうか。じゃあ、随分がんばったんだな、お前」
「そう、かな……? 全然カッコ良くないよ? オレ、泣いちゃったし」
「いつも隅っこでまーるくなってるいじめられっ子の光紀にしちゃ、十分過ぎるほど十分、上出来だろ?」
 そう言われてみれば、そうなのかもしれない。
 素直に吐き出した感情をそのまま受け取ってもらえた安堵に、光紀の唇はちょっぴりとだけ関を切る。
「全部、アキ兄の為だったんだ」
「へぇ? オレの?」
「うん。オレ、アキ兄がなかなか帰ってこないから、悪い奴を捕まえて、どこに隠したのか聞き出そうと思ったんだよ。八雲っていう人が悪い人だと思ったから」
「オレ、の?」
「アキ兄の、『正義の味方』のお手伝いをしたかったんだよ」
 空央はニコニコしたまま少し口をつぐみ、そして「そうか」と呟いた。
「じゃあ、もう一度謝っておかなきゃな……ごめんな、光紀。心配させるような事して」
 少しの間、二人は黙って前方の景色を眺めた。
 光紀は恐る恐る、隣りの空央の表情をうかがう。いつも以上に穏やかで笑顔の空央は、包帯こそ痛々しいが、その場にいるだけで光紀を安心させる存在だった。
 それが光紀の背中を強く押す。今なら言えると。
「ねぇ、アキ兄」
「ん?」
 血を吐くような叫びというのだろうか。ギュッと顎の下が締め付けられるように痛み、息を荒げ、光紀は空央以外の誰にも言えない望みを口にした。
「オレも『正義の味方』になりたい。悪い奴をやっつけられるようになりたいんだ。ねぇ、どうすればなれるの? アキ兄のお手伝いをしてればなれるよね? 教えてよ、アキ兄。オレでもなれる? ねぇ? どうやってなるの?」
「ちょっと待てよ、光紀――」
 空央が慌てて手を広げて制止しようとする。だが光紀は叫んだ。ただ一人、その望みをかなえる方法を知っていると思われる人物に向かって哀願した。
「オレもアキ兄みたいに『正義の味方』になりたいんだよ! 『正義の味方』って強いし、カッコイイし、いじめられたりしないし、昨日みたいな失敗もしない。そうすればみんな――」


 きっとみんな、オレを一人で置いていったりしないから。


 空央の顔つきがかすかに変わったのを、光紀は瞬きの間に眺めた。
 それは恐怖にも苦悩にも後悔にも似ていて、口を滑らせた事に息を飲む光紀よりも、ずっとずっと傷ついた顔をしていた。

 光紀の見つめる中、表情をあっさりと、いつものニヤニヤ笑いに戻す『正義の味方』。彼は片手で陽光を遮りながら、遠くを眺める素振りをする。思わず叫んでしまった光紀の本音など聞いてなかったように。
「……なあ、光紀」
「?」
「怖い思いをするのは、大人の俺だけでいいんだ。お前はまだ、イロイロやらなきゃならない事が一杯あるんだから」
「……それって、オレは『正義の味方』に、なれないって事?」
「違う違う。なる前にやっておかなきゃならない事が沢山あるってこった」
 勉強したり、体操したり、友達と話したり……そんな事を指折り数えながら、空央の視線は遠くで霞む高いビル群を眺めたままだ。
「こうやって数えると、ガキのやらなきゃならないことって結構あるんだよな。なあ、どうしていろいろ勉強しなきゃならないのか、お前わかるか?」
 フルフルと否定に首を振る光紀に対し、空央は口元のタバコを唇だけでぴょこんと立ててみせた。まるで指を立てる仕草のように。
「いいか、光紀。よく聞けよ?」
「うん、なに?」
「あのな……『正義の味方』なんて、本当はどこにもいないんだ」
 特に何の感慨も無く、いつもどおりに語る空央は――自分が『正義の味方』だと語ったあの日と同じものだった。光紀に向かって真剣に、本当の事を語っているのだという確信を持たせる圧倒的な説得力を裏に隠しながら、空央は普段どおりに口を開く。違っているのは、眩しいほどの笑顔ぐらいだ。ずっと見ていると泣き出したくなるほどの、優しい微笑みだけだ。
「『正義の味方』っていうのは、作るものだ。俺自身が、お前自身が作らなきゃいけないものだ。どうしてかっていうと、『絶対に正しいもの』なんて、この世にはないからなんだよ」
 光紀はどんな顔をして空央を見ていたのだろう。空央は遠くから視線を戻し、光紀の目を真っ直ぐに覗き込んだ。
「『正しい事』っていうのは、いろんなものを見て、考えて、それでお前が決める事だ。そして、お前以外誰も知らないものを作っていく事だ。なのにお前、まだ何も見て無きゃ考えてもねぇだろ? 学校で教わってる事も満足に覚えてなくて、挙句に俺の話鵜呑みにしてちゃ、お前の正義もタカが知れてる」
「……ウノミって、何?」
「何だよ、お前、鵜呑みも知らねぇのか? しょうがねぇなぁ……誰かが言った事を、そのまま信じ込んでるって事だよ」
 ウソツキの俺の言葉を、そのまま信じこんでんだろ――そう空央は笑う。
「アキ兄、嘘つきなの?」
「嘘つきでもあるし、正直者でもある」
「どっちなの?」
「どっちでもあるんだよ」
「……わかんないよ」
「俺にもわかんねぇよ」
「そんなの、ズルイ」
「そう言って答えを考えないお前の方が、もっとズルイんだ」
 わかるかと長兄は光紀の顔を覗き込む。光紀が言葉を正しく受け取っているかを確認するかのように。そして光紀も目を見ながら応える。
「俺、ズルイの?」
「あったりまえだろ。楽な方法を見つけるのとズルイのは違うんだぜ? 楽な方法を見つける奴は、いろいろ勉強して、何度も間違ったりして、自分自身で抜け道を見つけてるんだ。ズルイ奴みたいに最初から勉強する事を投げ出しちゃいない。お前は、最初から俺の言う事をそのまま受け取って勉強しないズルイ奴だ」
 愕然とした。
 空央の言うとおりなら、ズルイ奴である光紀が『正義の味方』であるわけがないではないか。
 だから考えろと空央は続けた。
「考えろ、光紀。もっと勉強して、もっといろんなものを見て、そして自分にできる正義を考えろ。答えを見つけたら、どうすればそれができるのか考えろ。何を用意して、自分が何をできるようにしておかなきゃならないのか考えろ。それが誰を助ける力になるのか、誰を傷つける事になるのか考えろ。準備する事は沢山あるし、覚えなきゃならない事も沢山ある。見つけなきゃならない答えも沢山ある。そいつに大人だからとか子供だからとかは関係ないんだ。ただ、子供は大人よりもっともっと準備しなきゃならないだけで」
 空央は光紀の肩を抱きながら囁く。
「そいつを忘れなきゃ、お前もきっとなれる。オレなんかよりもずっと立派なヒーローになれる。ケガをすれば痛い事、誰かを傷つける時には怖い事、大好きな人が泣く事は悲しい事……全部、今のお前はわかってるだろ? だからなれる」
 再び光紀の頭をクシャクシャにする空央。まるで、自分の言葉を光紀の頭に押し込んでるようだ。だがそれだけ空央が光紀を弟として可愛がっているんだと解釈する。空央がもう二度と語らない事を語っているのだと感じる。
 その直感は光紀の目に涙を滲ませたが、彼はそれをぐっと堪えた。『正義の味方』が泣いてたまるかと。空央が泣いたところなんて見た事がないから。
「考えた後は簡単だぜ。大人になるまで忘れなければいい」
 空央はそれで話は全部終わったと言いたげに、額にあげていた風防ゴーグルを目元に引き下ろす。まるで仮面をつけたかのように他人と化した長兄は、唇の端をニィッと引き上げた。
 そこで初めて光紀の様子に気づき
「なんだ、お前? どこか痛いのか?」
 光紀は否定に首を振る。何かいうと涙が零れそうだったからだ。


 もうそろそろ戻らねぇとな――空央は腕時計を見ながら立ち上がる。
「光紀」
「……何?」
 光紀の中の興奮は既に過ぎ去っていた。だが、いつまた涙が出てくるかもしれないという怯えに声を潜める。
 空央は背伸びをしながら、世間話のように続けた。
「またしばらくここには来れなくなるから」
「うん」
「オヤジによろしく言っておいてくれよな」
「うん」
「みんなの事、頼むな」
「……え?」
「またいつか、みんなの話を教えてくれって事だよ」
 それが嘘なのは光紀にもわかった。
 傷だらけの兄は、またどこかに戦いに行くのだ。
 死ぬかもしれないのだ。まだ光紀にはわからない敵と戦って。
「なに黙ってんだよ。『うん』って言えばいいんだよ」
 空央が明るく言えば言うほど、光紀はうつむいて頷くことしかできなかった。
「じゃあな、光紀。もう失敗するんじゃねぇぞ」
 最後にポンポンと光紀の肩を叩き、兄は歩き出す。どこに行くのか、何をするのかわからないが、帰って来れないかもしれない場所へ向かって、だ。
 行かないでと言いたかった。置いていかないでと言いたかった。自分を置いていなくなった大人たちと同じように、空央がいなくなってしまうような恐れがあったからだ。
 でも言えない。言ってはいけない。きっとそれは、空央をいたずらに困らせるだけだろうから。
 まだ自分は空央の役に立てそうも無い子供だとわかったから。自分の『正義』を見つけるまで、空央は自分を連れて行ってはくれないとわかったからだ。
 だからせめて――。
「アキ兄ッ!」
 答えが返ってくるとは思わなかったが、それでも一つだけ確認したい。自分がこれから歩みだす為にも。
「一つだけ教えてよ、アキ兄。嘘じゃなくて、本当の事。全部信じてもいい事、教えてよ! 俺にだけ、置いていくかわりに教えてよ、アキ兄!」
 既に数歩歩き出していた空央だったが、光紀のかけた声に振り返り
「なんだ?」
 言外に短い質問にしろという強制を滲ませた空央は、ポケットに手を突っ込む。光紀は長兄の白シャツに照りかえる朝日を眩しく感じながら、必死になって口を動かした。
「アキ兄は……アキ兄の考えた『正義』って、なんなの?」
 空央は口元をニヤニヤさせたまま力強く胸を張る。確固とした自信に溢れたその動作は、彼がたった今光紀に教えてくれたように、彼なりの正義を抱いている事を言葉にせぬまま語っていた。
「お前は、光矢が、沢山の人が死ぬような悪い事をしていると思うか?」
 光紀は否定に首を振った。ちょっと気弱に笑う空央の友人が、そんな悪人には到底見えなかった。むしろ、悪い人に簡単に殺されてしまう運の悪い人間というイメージの方が強い。
 空央は確認に一つ頷く。
「じゃあ、藍や晴彦や大和、悠太、幸、ミチル、ミニアイ、チビ太……そしてお前も、みーんな、誰かに殺されるほど物凄く悪い事をしたと思うか?」
 もう一度、光紀は首を振った。衛藤家の人間は、いつだって普通の生活を維持するので精一杯だ。そして皆、親のいない事に後ろめたさを感じている。自分たちに非があるのではないのかと感じている。その分だろう、皆、悪事に対して嫌悪感を抱いている。悪戯こそあれども、意図して悪事を為すような感覚は苦手なのだ。決して、ヤケになって悪事を為す事もない。衛藤家の教育方針でもない。間違いを恐れずに推測するならば、衛藤牧師が意図して、そういった意識を強く持った子供を集めてきただけなのだろう。
 光紀の答えに、空央はそうだろと笑った。
「何もしてないのに悪い奴らに狙われてるお前らを、お前らに気づかれないように守る事が俺の選んだ『正義』だ。俺の作りたい『正義』だ。だから、それを実現させようとしている俺は『正義の味方』だ。お前たちだけの、独りよがりでちっぽけなヒーローだけどな」
 相変わらず要領を得ない答えだったが、光紀はそれを受け入れ納得した。
 きっと空央は、光紀がついさっきまで感じていた孤独感を知っているのだ。あの眩しい『普通の世界』から拒絶されている感覚を、既に通り過ぎて、そして答えを出してきたのだ。そして彼は『正義の味方』であることを選んだのだ。兄弟の誰にも気づかれないうちに一人で選んで、辛い事や痛い事があっても、変わらぬまま笑って日々を過ごす事を選んで。
 無理だと思った。自分にはとてもできないと光紀は感じた。少なくとも今の光紀には到達できない場所に兄はいた。
 そんな空央のぼやけた返答は、光紀に明確な答えを与えない為なのだ。空央の答えを光紀が盗んでしまわないように避けて出されたヒントなのだ。
 どうしても知りたかったら、光紀が見つけ出すしかない。空央のいうように勉強し、考え、作り出すしかないのだ。『無いものは作れ』――それが衛藤家のやり方、言外にある衛藤家の家訓だ。今更目新しい事でもない。鋏からナイフを作った時のように、いつか光紀も不恰好ながら手に入れる事ができるだろう。
 だから光紀はそれ以上訊ねなかった。
 かわりに光紀は、空央に向かって笑った。
「ありがとう、アキ兄」
 助けてくれてありがとうと言った。自分に道を教えてくれてありがとうと、どうすればいいのか教えてくれてありがとうと。
「戦ってくれて、ありがとう」
 再び潤みだした目元を擦ってやり過ごすと、光紀は精一杯顔の筋肉を動かし、もう一度だけ笑った。もう大丈夫だと伝える為に。
 空央は一度肩をすくめると、足早に、面倒そうな素振りで引き返してくる。そのぶっきらぼうな姿が兄の照れ隠しであることぐらい、さすがの光紀にも理解できた。
 空央は一度だけ、光紀を両腕でギュッと抱きしめた。海外ドラマで見たような愛情表現に戸惑う光紀にはお構いなしに、空央はそのまま身を翻す。
 そして何も言わずに、家とは反対の方向へ去って行く。ダラダラと歩む彼の背中からは、聞き覚えのある鼻歌のメロディが響いてきた。あの、自転車の背で聞いた歌だ。
 光紀は脳裏でそのメロディを追いながら、自分の膝に視線を落とした。一瞬、歩けるかどうか不安になったのだ。
 そんな光紀の気持ちなどどこ吹く風。履き慣れた靴に覆われた足元はしっかりと大地を踏みしめた。まだ視界の端にいる空央が気になったが、爪先は家の方を向いたままふらついたりはしなかった。
 まるでそうなるのが当然のように。



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