正義の味方・その4
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 力一杯振り下ろした光紀のナイフは、すっと上体を逸らした八雲の前を斜めに横切って通り過ぎた。
 もし当たっていたなら空央の場所を聞き出すどころではなかっただろうに、その時の光紀にはそこまで考える余裕などどこにもなかった。ただひたすら、目の前に立つ十六歳の少年の抵抗力を奪い、然る後に空央の居場所を聞き出す事しか頭に無かった。八雲が空央の居場所を知らない可能性もあったはずだが、小学生の光紀にとって、空央の失踪に第三者が関わっているとは思いもよらない事だったのである。身近な人間である空央が、自分の確認できないような複雑な状況下に置かれているという認識がなかったのだ。
 一撃目がかわされたと悟るよりも速く、光紀はナイフを横にはらう。八雲はわずかに目を細め、それも後ずさってかわした。追いすがって突き出した攻撃は、黒い皮手袋に覆われた八雲の左手で腕ごと跳ねあげられ、目標から逸れていった。次いで、ジンと痺れる右手。九歳と十六歳では腕力差がありすぎる。同じ学年の子から掃除用具で思いっきり殴られた時より痛い、芯まで痺れる八雲の『攻撃』だった。
 痛みが光紀の興奮に水を差し、ゆるゆると動いていた世界が一気に日常のスピードへと加速する。
 その時間差の中、光紀の中に湧き上がったのは、単純かつ明快な恐怖だった。
 取り返しのつかない事を始めたという自分への恐怖、相手が何を仕掛けてくるのか全くわからない未知の状況と自分の無知さに基づいた恐怖。
 光紀は跳ね除けられて痛む右腕を左手で押さえた。Tシャツの中が汗でべとつくのがわかった。手首から五センチぐらいの場所が、腫れ始めていて、熱を帯びていた。骨折という言葉が痛みと一緒に浮かんで、光紀は身体的にも精神的にも一気に打ちのめされ、潤んできた目元を必死で堪えた。
「……何のマネ?」
 腕を掴んで痛みをやり過ごそうとする光紀の前で、それでも警戒を解かない八雲は問いかける。
「誰かに命令されたの? いつ? 誰に? ……空央?」
「違うッ!」
 むしろこちらが質問したいぐらいだ。聞きたいのは空央の事だけ。そして敵に答えなければならないほど、自分はまだ負けちゃいない――たった一撃で負けを認められるほど、光紀は大人でもなければ経験もなかった。
 正義は必ず勝つのだ。どんな困難があろうとも、必ず勝てる。
 負けるのは諦めた時だけだ。
 そう、光紀は信じていた。どの本にも、どの物語でも、どの番組でも、ヒーローはいつだって勝利してきたではないか。真実がその中の数割にも満たないとしても。
 自分は衛藤空央の弟だ。『正義の味方』の弟、そして彼の味方だ。空央の居場所を掴み、助けに行かなければならない。それができなくて、何が『正義の味方』だ。
 だから負けない。負けられない。
 光紀は鳩尾のあたりにわだかまる冷たいモヤモヤを吐き出そうとした。恐怖や諦めを吐息と一緒に吐き出そうとする。声が出た。でもそれは、発した光紀にも何を言っているのかわからなかった。
 それは光紀の、物心ついて初めて発した絶叫だった。
 光紀は痛みを堪えて腕を振り回した。意識できるのは腕の痛みだけだった。何も聞こえなかった。あれほどうるさかったセミの声も、頭の中で鳴り響いていた警告も、全てが消え失せていた。その静寂の中、光紀はがむしゃらに腕を振り回した。勝算も何もなかった。ただ、八雲に反撃する、八雲に攻撃をさせない、八雲を自分に近づけさせない、それだけが頭にこびりついていた。
 八雲は相変わらず無表情のまま、光紀を見ていた。ゆっくり後ずさり、光紀との間に一定の距離を置いてそれ以上寄せ付けず、それによって光紀のナイフに空を切らせ続けていた。
「……どうやら、君は昔の僕みたいなもんだね。どうしようもなく無知で、浮かれてて、自分が正しいと思い込んでる。そっくりだ」
 不意に八雲はそんな事を言った。冷たく、そしてどうでも良い世間話のように。それは同時に、光紀へ対する警告だったに違いない。襲撃という事実に動じない、そして世間話をするだけの余裕がある態度。それは圧倒的な力量の差――苦もなく山肌を登っていく空央に見出したものと同じものを彼の動きの中から感じ取るべく、敵である八雲が用意した推考の時間であるはずだったのだ。だが、光紀の熱に浮かされた頭には何も思うことなどできなかった。話しかけてくる八雲の言葉すら、正確には聞き取れていなかった。
 なんとか聴力らしいものは回復してきつつあったが、それは全く邪魔にしかならないものだった。耳の中で脈打つ自分の血液と、自分たちが動き回るたびに鳴るアスファルトとスニーカーの音だけが耳障りで、ただひたすら苛立ちを強めていくばかりだった。自分が発している絶叫すら、光紀の耳には届いて居なかったのだ。
 当たらないナイフに業を煮やして、狙いも定めず八雲の脛を蹴り飛ばそうとする。それさえもすぅっと、幽霊のように後退した八雲にはかすりもしなかった。むしろ、勢い余って無様に転倒したのは光紀の方だった。立ち上がろうとしてアスファルトの上で膝頭と手のひらを擦る。小石が手の中に食い込み、ピリリと痛みが走った。おそらく膝頭共々血が滲んでいるのだろうが、そんな事に構っている暇などなかった。痛みだけなら跳ね上げられた右腕の方がずっと痛かった。
 八雲は冷たい眼差しでそんな光紀を捕らえ、言葉を繋ぐ。
「どうして君がそうなったか知らないけど、そんなのつまらない勘違いだ。だから、学習してよ。自分のやってるのがどういう事なのかさ」
――うるさいッ! うるさいうるさいうるさいッ!
 聞き取れない彼の言葉の、一体どこに腹を立てたのかわからなかった。もしかしたら、彼が自分に向かって話しかけてくるという行動そのものに腹を立てていたのかもしれない。とにかく、光紀は激情に駆られ、いっそう大きく腕を振り上げた。力を込めてナイフを振り下ろす事を選択したのだ。
 その一撃。
 初めて、手ごたえがあった。ごく微かだが、ナイフの先端が何かを引っ掛け、引き裂いたのがわかった。
 そして光紀は目を疑った。
 世界が揺れる。ゆっくりと動き出す。
 黒い袖口。節くれだった指の根元にある荒れた手の甲。黒とも赤ともいえない溝が記され、そこからジワリと真っ赤な液体が滲み出る。それが滴り落ちるまで、時間はいつもにも増してゆったりと流れ、その中でもがく光紀にとってはひどく長い時間が過ぎたような気がした。
 光紀がやったのだ。
 これは光紀が切った『人体』であり『血液』だった。
――あああ。
 光紀は自分の握っている物を意識した。体温で熱せられ、すっかり温かくなった鉄の塊の硬さを認識した。
 それは武器だった。光紀が用意した、光紀だけの武器だった。光紀だけの、人を傷つける為に存在する道具だった。
 そう、武器とは人を傷つける為に存在する道具なのだ。身を守る為の道具というのは補助的な意味でしかない。持つ者が振るう暴力を拡大させる為の道具なのだ。
 光紀はあらためてそれを認識した。自分が何を欲しがっていたのか、何をしていたのか、それを目の前に突きつけられたのだ。
 今の光紀は、他者を傷つけるためだけにそこに居た。八雲を一方的にいたぶる為に道具を持ち出していた。『正義の味方』――その名目など、目の前で起こっている出来事の言い訳にならないことを悟っていた。少なくともこの時の光紀の見ている光景の中で、直接的に味方するべき正義など、どこにもありはしなかった。
 バタバタと音を立てて、零れた血液はアスファルトに落ちた。ゆっくりと。そして血潮の流れには止まる気配が感じられなかった。
 光紀は思わず左手を差し出した。できるなら零れた血液を受け止めて、元の位置に戻したかった。筆箱から転げ落ちた鉛筆を仕舞いなおすように、何も無かった事にしてしまいたかった。
――おとうさん。
 声にならない声で光紀は呼んだ。
 大きく切り裂かれた手の甲を押さえ、牧師服の養父がそこに立っていた。彼の痩せた体の向こう側には、ペタンと地面に尻餅をついたミチルの姿。彼女はパニックに満ちた目で光紀を見つめていた。
 光紀は、最後の一撃がミチルに向けられていたのを悟った。どんな手段かわからなかったが、八雲は幻術のようなもので光紀を騙したのだ。光紀が八雲だと思っていた人間は、途中からミチルにすり替えられたいたのだろう。信じられないが、そう考えるしかなかった。どんなに取り乱していたとしても、自分がターゲットとして選んだ八雲の姿とミチルを間違えるはずがなかった。そもそも、背丈からして違うのだ。思い込みだけでは説明できない何かがそこに介在しているのは明らかで、光紀は相手が悪すぎた事を今更ながら実感していた。
 そしてぞっとした。もし養父が彼女をかばって割って入らなければ、光紀の手製ナイフはミチルご自慢のその顔を切り裂いていたかも知れないのだ。
 手の痛みに顔を引きつらせた養父は、光紀に目もくれず、傍らに立っていた――そしてわずかに驚きの表情を浮かべた八雲を憤怒の表情で睨みつけた。
 そんな顔をした養父を見たのは初めてだった。おそらく、その場にいた全ての人間が初めて、普段は温和なこの牧師の怒りの相を目にしたに違いなかった。誰もが動きを止め、誰もが押し黙った。
 その空気の中、牧師は八雲に迫る。
「貴方は――」
 そう何か言いかけた養父だったが、次の瞬間、彼は傷ついた手で八雲の頬を張り飛ばしていた。
 激しい衝撃によろめいた八雲は、頬についた牧師の血を指先で拭った。変わらぬ無表情のまま「でも、秋人さん――」と反論しようとする。養父はそれを「黙りなさいッ!」と一喝した。
「貴方の意図はわかってます。だけど、その為に私の子供たちを傷つける事だけは絶対に許さない!」
 八雲は牧師の様子をうかがい、やがて彼の怒りに恥じ入ったのか、微かに視線を地面に落とした。
 養父は厳しい口調のまま、続けて言った。
「今日は、もう帰ってください。後で連絡しますから」
 八雲は黙って頷くと、素直にくるりと踵を返した。遠ざかっていく足音には全く乱れが無く、とても今しがた刃物で人に襲われた人間のようには見えない。光紀はあらためて自分が喧嘩を吹っかけた相手がタダ者ではなく、知らない世界の人間である事を認識した。そしてあらためて、連絡の付かなくなった空央の身を案じた。
 養父は去っていく八雲が視界から消えるのを確認し、背後で転んだままだったミチルに向かって手を伸ばす。
「もう大丈夫だよ、ミッチー。ケガは?」
 グスッとミチルが鼻を鳴らした。見る間にその表情が崩れ、大粒の涙がボロボロと零れ落ちる。
「おとうさん、ケガ……痛い? 痛い? 血ぃ、一杯出てるよ!」
「大丈夫大丈夫。ああ、でも痛いから触らないで。ちゃんとバンソウコ貼っておけば治るから、大丈夫だよ。ほら、血も止まってきたし」
 苦笑しながらミチルの側にしゃがみこみ、養父は痛そうに右手の傷を左手で覆った。傷口を見たミチルが、途端にガタガタと震えはじめたからだ。前にも増して、ミチルの涙は溢れ出た。
「バンソウコじゃダメだよ! お医者さんに行こう! ね?」
「しょうがないなぁ。じゃあ、ミッチーが一緒に行ってくれるなら行こうかな?」
 あははと笑いながら、養父はミチルを抱きしめた――服の汚れを神経質なまで気にするミチルの為に、右手を頼りなく宙に浮かべたまま。
「ああ、怖かったね、ミッチー。もう大丈夫だよ。おとうさんがいるからね」
 それでもミチルはまだ怖かったのだろう、歯を食いしばって声を堪えているのは、泣き声が次の攻撃――それが何によるかは彼女にもわかってないだろうが――のきっかけになるようで怖いからじゃないんだろうか。光紀はぼんやりとそんな事を考えつつ、ミチル同様、養父の手の傷を気にした。
 あれは自分がつけたのだ。
 もしかしたら、ミチルの体に取り返しのつかない過ちを犯すところだったのだ。
「光紀」
 養父の手招きに応じ、光紀は素直に歩み寄った。今更逃げ出すわけにはいかなかった。自分の為にも――『正義の味方』らしくない行動は取りたくなかった。まだ光紀は、その言葉にしがみついていたのだ。自分の身内を傷つけたという事実を、認めたくないが故に。
 だが、光紀が歩き出した途端、ミチルは怯えて養父にしがみついた。今のミチルには、光紀が悪人にしか見えないのだ。それは光紀の胸をドキリとさせた。光紀の信念を打ち砕くのに――全ては空央を助ける為という『正義』だったはずなのに、無力な義姉の身を脅かしたという『悪』に変わってしまったという事を示すのに、十分な動作だった。
 牧師はミチルをなだめながら、側にやってきた光紀の手を、まだ傷口から流れてる血で生々しく濡れる右手でそっと持ち上げた。
「渡しなさい」
 手製のナイフの事を指していると気づいて、光紀は躊躇した。一生懸命刃を研いだ日々を思い出し、同時に工場で鋏を分解してくれた大林の髭面を思い出す。全てが無駄だったのだとは思いたくなかったが、現実としてそれらの過去は無駄になってしまいそうだった。その喪失感が逆に、光紀に訴えた。光紀の犯した失敗に、なんらかのケリをつけなければならないという事をだ。
 光紀はしっかり握り締めていたナイフを、戸惑いながら養父に差し出そうとした。腕は光紀が驚くほどはっきりと震えていた。ナイフが生き物のように動き、光紀の手から離れまいとしているようだった。そして光紀の指もまた、光紀自身の意思に反してガチガチに固まり、ピクリとも動かない。予想外の自分の身の反応に光紀はうろたえた。助けを求めて顔をあげると、養父がミチルを抱いて背をさすってやりながら、こちらを見ていた。
 既に養父は怒ってなどいなかった。冷静な眼差しは悲しそうではあったが、決して怒ってなどいなかった。
 そもそも、養父は最初から光紀の事を怒ってなどいなかった。彼はあくまで、八雲が幻術を用いて光紀にミチルを襲わせたのを怒っていたのであり、自分の手を傷つけた光紀を怒っていたわけではなかった。もちろん、元々は光紀が八雲を襲った事から始まったのだから、それを知れば叱り飛ばされても当然だったろう。だがこの時の養父は、この事件の始まりを把握していなかった。彼の目には、自分の振るったナイフの威力に呆然としている、小学生の息子の姿しか映っていなかったのに違いない。それを思うと光紀の胸はかき乱された。息子を信じる養父の眼差しに、真に悪いのは自分だという自責の念が渦巻いていた。
 牧師は黙って光紀の手を裏返し、固まった指を丁寧に一本一本、伸ばした。薬指を半分ほど持ち上げた時、手製のナイフは自重で道端に落下する。
 自らの手を離れたナイフは、酷く不恰好な代物だった。そして刃に残った微かな血曇りを確認した時、光紀は激しい衝動に襲われた。こみ上げてくるものは水っぽい嗚咽になり、鼻の奥が痛いほど緊張した。目の端が熱くなり、すぐに涙に変わった。
 その時にはわからなかったが、何かが決定的に終わってしまったのを知っていたのかもしれない。
 養父は転がった手製のナイフを拾い上げ、ポケットから取り出したハンカチで丁寧に包んだ。彼は自分の傷を押えるよりも光紀のナイフを優先し、まるで壊れ物のように大事にポケットにしまいこんだのだ。
「光紀。ミチル。もう全部終わったよ。もう大丈夫だから」
 泣きじゃくる二人の子供たちの肩をそれぞれ叩き、養父は傷ついた手をかばいながら微笑んだ。
「もう、帰ろう」



 その直後の事を、光紀はあまりよく覚えていない。
 食卓にもつかず本棚の前にある光紀の定位置で気が済むまで泣いた事、大和や悠太が周りで囃し立ててた事、心配性の藍がグチグチ怒りながら養父の手の傷に包帯を巻いていた事、何事も大げさに話すミチルが何を思ってか誰にも何も言わずにいた事、幸がすまし顔で居ながらどことなく怒っていた事、チビアイが何がなんだかわからずジッーと光紀を不思議そうに見てた事、反対にチビ太が光紀の不穏な空気に反応して泣き喚きだし、家族総出であやしはじめた事……そんな事ぐらいだ。
 気がついたら、布団の中に寝かされていた。寝返りをうとうとすると腕が痛み、その痛みで彼ははっきりと目を覚ます。八雲に打たれた右腕は青黒く変色し動かすと鈍痛が走ったが、光紀が恐れていた骨折という事態にまでは至らずにすんだようだった。窓から漏れる日差しは朝のもので、光紀は自分が泣き疲れて眠ってしまったことに気づいた。狭い部屋に敷き詰められた布団はぐちゃぐちゃにされ、男の子――晴彦、大和、悠太、光紀の四人が、寝苦しい夜に暴れた痕跡として残っていた。
 光紀は何をするともなしに布団から這い出した。新聞配達のバイトに出かけた晴彦の姿だけがなく、大和と悠太が部屋の中央で大の字になって眠りこけている。光紀はそれをすっかり覚醒した頭で眺めながら、これからどうしようかと途方にくれた。ぐっすり眠ったおかげで寝直す気にもならなかったし、義理の兄弟達が起き出すのを待ったとして、彼らとどんな顔をして接すればいいのかわからなかった。養父やミチルが彼の眠ってしまった後にどんな説明をしたのかもわからなかったし、とにかく、ただひたすら居たたまれない気分のままジッとしている事にも耐えられなかった。
 彼はあてもなく、着たままだった昨日のTシャツと半ズボンのままいつもの図鑑入りのバックと水筒を抱えて玄関に向かい、靴を履いた。
 どうすればいいのかわからなかったが、養父を傷つけ、義姉を怯えさせておいて、のうのうとこの家に居てはいけないような気がしていた。出て行かなければならないという感覚は強制に変わり、すぐに悲しみに変わった。
 この家にそれほど強い愛着があったというのは、光紀自身にも思いがけない発見だった。
 涙ぐみながら、彼はとぼとぼ歩き出した。誰かに見つかる前にどこか遠くへ行ってしまいたかった。そして、誰かに頼るあてなどない光紀は、漠然と空央の居るところに行きたいと思っていた。
 自分は間違ってしまったのだ。どこでかはわからないが間違い、どこかで正しいことから逸れてしまったのはわかっていた。だから戻りたかった。まだ戻れるはずだと信じようとしていた。
 そして空央なら、自分にきちんと『正義の味方』のあり方を教えてくれるような気がした。
 朝の澄み切った空気の中、光紀はいつもの公園のベンチへ向かっていた。今の彼と空央の接点は、ベンチの裏にあるあの隠れ家の入り口しかないのだ。
 もちろん、心中では諦めていた。八雲を襲ってまで居場所を聞き出し、会いたいと願った空央に、今更会えるとは思っていなかった。会ったとして、一体どんな顔でどんな会話をすればいいのかわからなかった。
 朝露に濡れたベンチに腰掛け、光紀は明るい朝の風景を眺めた。手持ち無沙汰のまま水筒の中の水をチビチビ飲み、ただひたすら、ぼんやりする事に専念していた。さっさと時間が過ぎてしまえばいいと、そればかりを願っていた。時間が過ぎたからといって何か期待していたわけではない。ただ、その時の光紀にできた事がそんなくだらない願いをグルグル考える事だけだったのだ。
 朝の公園は、想像していた以上に色彩と音に溢れていた。緑の隙間から漏れる向こう側の枝葉は日を照り返して白に輝き、黄緑の先端からは時折水滴が光と影を同時に内包して滴り弾けた。公園内に住み着いているだろう小鳥達はそこかしこでかしましい朝の挨拶を交わし、静けさは少し離れた大通りを走る車の風切る音を伝えて波打った。何人かの大人たちが朝の散歩を楽しんで歩く姿が公園に設置された散歩コースの向こう側に見え、その笑顔は自分たちがこの朝のサイクルに組み込まれているという幸福感を前面に押し出していた。
 全てが夢の中のようだった。そして、これこそが現実だった。何も無く、普通に始まる朝。光紀がどんなに悩み、どんなに焦っても、勝手に動いていく時間。それこそが現実だった。光紀は認めざるを得なかった。空央の見せてくれた『現実』が、この世界のほんの一部を形成しているものでしかないことを。自分が信じようとしていた『現実』が、実際は限りなく『非現実』に近しいものであること。それでもそれが空央と光紀の『現実』でもあるということをだ。
 朝露にズボンが湿り、それが体温で生温かくなり居心地が悪くなっても、光紀はそこに座っていた。
 動けなかったのだ。いつまで待っても、目の前の風景は自分とは無関係の、自分が踏み込んではいけない世界のように感じられたからだ。平和な風景は光紀を拒絶し続けていた。光紀を行動に駆り立てた手製の刃物はそこになく、『正義の味方』なども必要とされておらず、頼りにしたい空央も居なかった。今の光紀は、他に何もできないクセに大恩ある養父に切りつけた愚かな小学生でしかなかった。その光紀を、目の前の光に溢れた自然のサイクルが受け入れてくれるとは思えなかった。この少年がそこで無邪気に走り回る余地など、公園の完璧な風景の中には存在していなかった。惨めな木々の陰を更に黒にする影としてのみ、光紀はそこにいることを許されているようだった。
 どれぐらいたっただろう。
 光紀は突然引っ張られた手に驚いて顔を上げた。手にしたままだった水筒の、水を湛えた器が上方に引っ張られていくのを唖然として見上げた。
 目の前には黒い人影があった。古い映画に出てくる飛行機乗りがかけるような風防ゴーグルをかけている。白いシャツと黒いスラックスの姿は、奇妙なほど朝の日差しの風景になじんでいた。
 それは光紀の待ち人だった。
 煙草の煙を吐き出した空央は、当然のように手にした水を飲み干した。プハッと息を吐き、器を光紀に返しながら義理の兄は言う。
「あいかわらず、居るのか居ねぇのかわかんねぇな、お前は」
 いつ切ったのか、長かった黒髪は肩口でばっさりとなくなっていた。頬と首筋に大きなガーゼが張り付けられており、捲り上げられた白いシャツのそでからは包帯の巻かれた細くとも筋肉質な腕が覗いていた。そして光紀は自分が今まで義兄の生身の腕を見た事がほとんど無い事に気づかされた。
 そんな傷だらけの姿だったが、空央は涼しげな顔で光紀の隣に腰をおろした。
 光紀は手を伸ばす。空央の手、膝、肩、胸、そして頬。全てがそこにあるのを、光紀は自分の掌で感じた。八雲にまた騙されているんじゃないかという懸念が胸を過ぎったが、光紀は自分の肌を信じることにした。夏休みの大半を共に過ごした長兄の、自転車の後ろからしがみついた彼の筋肉の感触を忘れてはいないと信じたかった。目の前の人間が本物だと思いたかった。
「おい、やめろよ。気持ち悪ぃなぁ……って、イタタタタ! バカ、怪我してるトコをつまむんじゃねぇよッ!」
 苦笑しながらも、空央は光紀の行動を無理に止めさせようとはしなかった。かけていたゴーグルを額の上に引っ張りあげながら、空央はガキ大将の顔で笑った。
「今日はまた、えらく早ぇじゃねぇか。藍も起きてねぇだろうし、お前、朝飯食ってねぇだろ。いいのか、腹減っちまうぞ?」
 何も変わらない。昨日の事件前から全く変わっていない。空央がそこにいて今までと同じように話しているだけで、光紀は拒絶されていた朝の空気に受け入れられたような気がした。
 この時、間違いなく、光紀にとって空央は『正義の味方』だった。



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