正義の味方・その3
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 砥石にも、相性というものがある。
 砥ぐ労力はその相性で大きく増減する。ましてや、鉄の鋏とは元来、物を二つの塊で押し切る為の道具である。この道具の片刃のみでの切れ味はタカが知れている。オマケにこの鉄の塊は、刃を造るというより形を作るという、切れ味ではなく頑強さを重視して造られている品なのである。それは光紀が最初に思っていた以上の硬度を持ち、彼の予定していた作業時間と労力の配分を大きく狂わせた。
 結局、光紀は空央の居ない一週間の全てを費やし、必死になって刃を磨き上げる事になってしまった。もっとも、曲がりなりにも満足の行く輝きを持ったのは先端の数センチだけだったが。おおよそ武器とはいえない代物となってしまったが、光紀は自分自身にむかって道具の完成を宣言した。空央のくれた砥石が――元々が小さかった事もあり、光紀の小さな手の、更に小さな親指の爪ぐらいの大きさしか残らなかったせいもある。これ以上ナイフらしい形状にするには道具が足りなすぎたのだ。
 それでも光紀は概ね満足だった。
 完成した証に、光紀は取っ手に滑り止め用のビニールテープを巻いた。作業費用になるはずだった貴重な軍資金二千円、その中から買ってきたテープの色は、ヒーローらしく赤を選んだ。地味な武器に、少しでも彩を添えてやりたかった事もあっての選択だった。
 片刃の鋏を握って振り回せば、公園にあった木々の葉は引き千切れるのとはまた違った、直線的な傷口を晒して裂けた。力任せに幹に向かって投げれば、鋭い先端は一度こもったような音を立てて突き刺さり、そして自らの重量に引かれて地面に落ちた。幹についた刃の傷は、石をぶつけた時の様に潰れたり凹んだりしてはおらず、痛々しいほど白い幹の内部を垣間見せる隙間になっていた。
 その威力は、ほんの少しだけだが光紀を安心させてくれた。


 家族は誰も、光紀のしている事に気づいてはいなかった。
 一度だけ大和が「お前さぁ、最近どこで遊んでるんだ?」なんて聞いてきたぐらいで。光紀はいつもどおり「別に……」と言葉を濁す。大和も衛藤家の人間だ、光紀が自分から話す事が苦手なのは知っているし、そんな時に無理矢理聞き出そうとすればますます話さなくなるのを知っている。大和の問いかけはそこであっけなく終了した。
 八雲はあいかわらず、衛藤家にやってきては空央の部屋で何事かして帰っていく。養父から、彼が空央の部屋にいる間、子供達はそこに行ってはならないときつく申し渡されていた。
 養父はどっちなんだろう?
 光紀は夕刻になって帰っていく八雲の背中を見送りながら、ぼんやりとそんな事を思った。
 空央は養父を――普段から付かず離れずの関係ではあるが、少なくとも敵視しているわけではない。
 だが、養父がやたらと八雲に気をつかっていたり、こうやって毎日家にやってきて部屋の一室に閉じこもるのを許しているところを見ると、養父は八雲の味方なのだろうか。
 なら、空央を養父は敵同士になる。だが養父は空央の敵ではない……。
 養父は敵なのか。いや、それ以前に空央のしている事を知っているんだろうか。
 光紀は子供なりに頭を悩ませた。
 光紀も養父の事は嫌いじゃなかった。むしろ少しだけ好ましいと思っていた。
 養父はあまり子供たちのする事に口を出すこともなく、牧師ながら自分の信じる宗教の教義を押し付けることも無く、マイペースに自分の生活を続ける事が生きがいの人間だ。その生活の中に自分たち子供と会話し、共に食事をとるという日課がある。彼はいつだって物静かで、でもしっかりと子供たちの後ろに立って支えてくれるというイメージがあった。
 光紀が頼りにできる、数少ない大人だった。多くの子供の中から光紀を探し出してくれた、たった一人の大人だった。
 だからだろう。もうほとんど覚えていない実父だが、もし今になって目の前に現れたとしても、光紀の抱く『父親』のイメージは完全に養父の姿であり、実父がどんなにがんばってもそれを塗り替える事が出来ないであろうと――光紀自身が感じていた。
 それだけに養父を敵にまわしたくはなかった。でも仮に空央の敵だとしたら、どうすればいいのだろう?


 そんな事を考えていたせいだろうか。
 夕食時、養父はいつもどおりに微笑みを湛えながら皆の様子を眺めていたが、不意に光紀に向き直り、その視線を捕らえた。
 いつもどおりの目だった。優しく細められ、口元にはどこか疲れたような小さな笑みを浮かべた。
 それが今の光紀にはもどかしい。空央が『正義の味方』としてこっそりトレーニングをしているというのに、この義父はのんびりと畑を耕したり、なんだかわからない説教を口にするだけで、何もしていないのと同じなのだ。
 本当に自分たちの敵ならば、裏で何をしているかわからない。空央が地下の隠れ家に潜んでいるのが今の光紀の認識する『現実』というものだ。穏やかな物腰の養父が、子供たちに隠れて何をやっていても、それは決して変な事ではない。だがそれは同時に、得体の知れないものに対する恐怖を光紀に教えてくれる。
 反面、もし味方なら……彼は空央の苦労を――正義の味方であり続ける為、皆から隠れて生活し、技を磨いている長男の苦労を見てみぬフリをしているのだ。
 それは本当に味方と言えるのだろうか?
「光紀」
 光紀と目を合わせたまま、ゆっくりと柔らかにかけられた言葉。養父の無力さそのもののように、脆いもののイメージを光紀に与えた。
「最近、帰りが遅いようだけど、どこに行ってるんだい?」
 傍らで悠太とミチルが、最後に残ったコロッケをどちらが食べるかで争っている。チビ太はなんだかわからないまま嬉しそうに手を叩き、ついでにその振り回した手で自分のコップをひっくり返した。慌てて隣りに座っていた大和が雑巾を取ってぶちまけられた牛乳をふき取り始める。藍と晴彦は呆れながらコロッケ争奪戦の仲裁に入っていた。騒がしい。だがいつもの食卓だ。光紀も養父も気にしない。その中で幸だけが、じっと光紀たちのやりとりに耳を澄ませているのがわかった。
 養父は大和に怒られて泣きわめきだしたチビ太の大声の裏で、光紀に囁いた。
「無理に言えといってるわけじゃない。でも遠くに行く時には誰かに一言いってからにしなさい」
「……はい」
 誰に言うつもりもなかったが、とりあえず素直に返事をしておく。養父は光紀の真意を知ってか知らずか、ウンと頷いた。
「それと……大林さんって人から電話があったよ」
 一瞬、誰のことを指しているのかわからなかったが、「夏休みの自由研究のことだけど」という言葉で合点がいった。
「道具を調べたりしたいなら私にいいなさい。一人で工場に行ったりして、怪我したらどうするんだ。宿題でそういう危ない所に行かなきゃならないようなら、私が手伝ったり連れて行ってあげるから。それに昨日、鋏が見つからなくて藍が困っていたぞ」
「……」
 アイ姉が困ることぐらいなんだ。アキ兄はもっと大変な事をしてるんだ。悪い奴からこの家を守ってるんだ。どんな敵かわからないけど、あんなに沢山、武器を持っていなきゃ戦えないような奴らと。鋏の一個や二個がなんだっていうんだ。
 光紀の中で、急速に怒りがこみ上げてきた。無知なままで『本当の現実』を知らない家族が、些細なことにこだわっている養父が、くだらない存在のように思えた。
「わかったね?」
 念を押されて、渋々ながら「はい」と返答する。
 表面だけでも素直に。そう、空央が表面で失踪しているように見せかけているように嘘をつく。
 正しい事をするには、どうしても嘘が必要なのだ。光紀は、テレビで見たヒーローが自分の正体を隠す為についたいくつもの嘘を思い出しながら、そんな言葉を脳裏に描いていた。


 約束の一週間が過ぎ去ったというのに、空央は例の穴から姿を現さなかった。
 光紀は空央に嫌われたような錯覚に陥り、一日に何度も穴の側に駆け寄った。最初に隠れ家を見つけた時に腰を降ろしていたベンチに一日座って、秘密基地の上蓋が土を押しのけて開く時を待ち続けたりもした。鋭く尖った手製のナイフで、兄弟の誰かが描いたラクガキで汚された新聞広告を切り刻んで待ち続けた。タイムサービスで格安になった食料品の品揃えを無意識に読みながら、光紀はその馬鹿馬鹿しいPOP文字を鼻で笑った。くだらない事を大げさに書きたてる大人たちの世界が――日常が、自分たち子供よりも弱々しく間抜けなものだと思ったのだ。
 それだけに、『現実』を教えてくれた空央が姿を現さない状況に恐怖を覚えた。
 一人で待ち続けながら光紀は考える。空央の身に起こったアクシデントを。見た事のない敵の姿を。どうしてもマンガチックになってしまう敵の姿に重ねて、光紀は空央と一緒に戦う自分を夢想した。空央がやるように、ナイフを投げたら狙い違わぬ自分の技術を、刃を一閃させればバタバタと倒れる無能で悪い大人達を想像した。空央のピンチに颯爽と駆けつける頼りになる仲間である自分を思うと、唇が笑いの形に歪んでしまうのがわかった。
 そこにあるのは物語だった。だが光紀にとってはいつか現実になるはずの、確実な未来だった。
 その未来にいるはずの空央が姿を現さない事は、未来が完成しないことでもあった。待ちくたびれてベンチの前を行きつ戻りつしつつも、光紀は絶対に戻ってくるはずの空央を待って、一人手製のナイフを振り回し続けた。
 そんなある日。
 いつもどおり、光紀がぼんやりとベンチに腰をおろしていると、不意に影がさした。
「アキ兄ッ!」
 勇んで顔を上げた光紀の目に飛び込んできたのは、意外な事に幸だった。
 いつも物静かに大和と悠太を見、後をついて行く幸。ここには居ないはずの義姉の姿に、光紀は自分の口にした言葉の重要さも忘れて彼女を見つめた。
 幸は光紀の前に立ったまま、おもむろに口を開く。
「何してんの?」
「……別に」
 幸はしばらくの間、黙ってそこに立っていた。光紀も黙って彼女から目を逸らし、隠す為に急いで肩下げ鞄の中に突っ込んだ手製のナイフを気にして黙った。二人とも、衛藤家の中では寡黙な部類の人間だ。そして互いに会話する事も滅多になかった。日常生活に支障をきたさない程度の付き合いといったところだろうか。衛藤家の住人総数からいって、そういう家族が居ても決して不思議ではないのだ。
 光紀は内心、腹を立てていた。幸がいる限り空央は姿を現さない。秘密基地の秘密を知るのは自分だけなのだ。自分だけが見つけてしまったものであり、空央が他の義兄弟達に隠れ家を教えるとは到底思えなかった――光紀の思い込みかもしれないが。とにかく、幸はさっさとどこかへ行ってしまえばいいのにと、光紀は我知らず唇を尖らせた。
 だが幸は、帰るそぶりどころかむしろ堂々と胸を張って、場に居座り続ける。
「私が」
 幸ははっきりとした口調で囁いた。
「どうしてあの二人を見てるかわかる?」
 あの二人というのはつまり幸と同じ六年生の二人だろう。光紀は黙って否定を表す。六年生三人組の内情など、全く興味が無かった。昔はアクティブな三人の行動に体力的について行けず、そして今は三人よりも空央の方に興味があるからだ。
 幸はあからさまに不満を表す光紀をじっと眺めて、ニコリともせずに告げた。
「居なくなって欲しくないから」
「……そう」
「私の親、凄く仲が悪かったの。いつも喧嘩ばっかりしてて、そのうち、お父さんが毎日どこかに出かけちゃうようになって」
 光紀は少なからず驚いた。衛藤家で元の家族の話はタブーだ。施設の話はすれども二親については尋ねないというルールを、光紀は施設を出る時に養父から言い含められていた。ただし、自分から言いたい時――相手が自主的に話しだした時は別だ。それでも語りたがる衛藤家の住人は居ないに等しかった。
 だから光紀は、幸の親のことなど聞いた事がなかったし、聞く気にもならなかったのだ。この瞬間までは。
 幸は気負いも何もなく、ただ天気の話をするように呟き続ける。
「そしたら、お母さんもどこかに出かけちゃうようになった。私、どうしようか迷った。私、まだ小さかったからちゃんとご飯も作れなくて。ガス台は危ないから触っちゃダメだっていわれてたし、学校には必ず行きなさいって言われてたから、ちゃんと登校してた。でもね、そのうち、家に帰ってもどちらも居ない日が続いて。私、毎日帰ってから泣いてた。どうしてこんな事になっちゃったんだろうって」
 そこで一度幸は語るのを止め、ベンチの端に、まるで光紀を避けるようにちょこんと腰をおろした。気のせいかもしれなかったが、幸は微かに笑っているようだった。
「そのうち私、泣くのに飽きて。学校に行くのも怖くなっちゃって。だって、私が居ない間に誰か帰ってきて、また出て行ってるのかもしれないでしょう? そしたら私、ちゃんと『一緒に連れてって』っていうつもりだった。お父さんでもお母さんでも、どっちでもよかった。玄関の前に足音がするたび、私じっと待ってた。お父さんかお母さんなら、鍵を開けて入ってくるから。でも、いつまでたっても、そういう音はしなかったの。そのうち私、ぜーんぶ面倒になっちゃって、ずっと寝てた。
 それなのに、ちゃんと鍵の回る音で目が覚めたの。変な話だけど。眠りすぎて頭がぼんやりしてたと思ったけど、ちゃんとお帰りなさいって言うつもりだった。でも、入ってきたのは大家さんで……私、横になったままじゃ失礼だと思って起き上がろうとしたけどできなくて。大家さんは私を一目見て『死んでる』って叫んで腰抜かしちゃった。私、その時、餓死しかけてたみたい。酷かったみたいだよ、下痢とかデキモノとかで。
 だから私、せめて私がずっと見ていられる人たちだけはちゃんと見ておこうと思ったの。大和や悠太がどこかへ行っちゃう時には『私も連れてって』って言えるように」
 幸はそこまで言って、光紀の反応をうかがうように言葉を切った。
 光紀は――自分同様、普段はあまり話さない幸の長い語りに呆然としながら、幸の言わんとしている事柄を探すのに必死になっていた。幸になんて言ってやればいいのかわからず、光紀は空央ならなんて声をかけるのだろうとシミュレーションしてみようとする。
 だが、光紀の想像の中の空央は、黙って幸の頭を撫でるだけだ。幸より小さな自分には出来そうもない、余裕からくる仕草で。
 慌てて光紀は言葉を捜しなおす。自分の言葉で、自分なりのやり方で彼女を慰めるにはどうすればいいのだろう――それもアキ兄のように、『正義の味方』らしく。だが悲しいことに、光紀には自分の感情や相手を思いやる為の言葉も、自分でそれを作り出す為の経験も、絶対的に少なすぎた。
 内心で苦悩する光紀にむかって幸は、ヒントを出すようにゆっくりはっきりと、言葉を追加した。
「今の光紀は、あの人たちそっくり。大人の人みたい」
「……え?」
「私を置いて出て行く前の、親と同じ。気がつくといっつも怖い顔してる。そしてどっかに行っちゃってて。そのうち本当に居なくなっちゃうみたい。……時々大人の顔してるから、アキ兄みたいに居なくなっちゃうみたいな気がする」
 不意に幸はベンチから立ち上がり、怒鳴った。
「そんな顔ばっかりしてないで、ちゃんと帰ってきなよ!」
 そして彼女は、光紀の返事も待たずに走り去った。
「……何だよ」
 一体何なんだ――光紀は鞄の中からもう一度手製ナイフを取り出しながらぼやいた。人の気も知らないで、言いたい事だけをぶちまけて去っていった幸の意図が、うまく掴めずにいた。無性にイライラしていたが、それがどういう理由から発生している感情なのかわからないところが更にイラついた。


 光紀が、空央の行方を知っている可能性のある人間に思い至ったのは、夏休みが終わる三日前の事だった。
 味方が誰も居ないなら、空央に接触している人間は反対側の人間しかいないではないか。


 その日、光紀は手製のナイフを念入りに磨いた。尖っている先端を何度も指先で押して強度を確かめた。家の中にいるのはミニアイとチビ太を除けば自分とミチルぐらいだ。養父は相変わらず庭先の家庭菜園で作業しており、藍は友人に呼ばれたとかで外出してしまった。年上の子供たちはそれぞれ好き勝手に遊びに出てしまっている。
 陽が傾き出すにつれ、光紀の胸はゆっくりとリズムを早めていく。静かに、だが確実に興奮が自分の体を振るわせていくのを、彼は不思議な安堵感と共に受け入れていた。
 そして待ち望んでいた時間がやってくる。西の地平に触れた太陽が、急速に投げかける色を失い、そして夜との境目の時間が辺りを支配し始める。ヒグラシの鳴き声がアブラゼミの響きをどこか間延びしたタイミングで打ち消し始める。
 光紀は大きな子供部屋の片隅、本棚の前にある自分の特等席の床に座り込んだまま、そっと玄関から出て行く人影を目にした。知らぬ間に口で息をつきながら、光紀は立ち上がり――汗でベトついた手に気づいて、ズボンの裾でそれを拭った。音を立てないように気をつけながら廊下を小走りに渡り、玄関先に脱ぎ捨ててあったスニーカーに履き替える。ふと視線を感じ顔を上げると、出かける前に身だしなみを整える為に藍が設置した姿見の中の自分がいた。
 痩せて小さく、夏の日差しに日焼けした貧相な少年が、今の光紀だった。骨ばった指先がしっかりと握り締めているのは、同じぐらい情けない刃の付いたナイフだった。
 半眼で睨みつけるその表情には、緊張で強張ったまま永久に動かないかのように見えた。どこを見ているのかわからない眼差しには、得体の知れない決意だけが場違いにもはっきりと漂っていた。
 「時々大人の顔をする」と幸は言った。それはこんな顔だったんじゃないだろうか。
 自分自身を見ているうちにむず痒くなった目を擦り、光紀は玄関から外に飛び出した。門を駆け抜け、目指すは前方にいる白と水色のコートを羽織った人影。夏だというのに厚手のコートを羽織っていて、それでいて汗一つかかない不思議な少年の姿。いつもどおり、一日中衛藤家の一室に閉じこもって、そして帰っていく八雲の姿だ。
 光紀の履くスニーカーの厚いソールはアスファルトを打ち鳴らした。まるで心臓の高鳴りに負けまいとしているかのように、光紀は自分でも驚くほど大きな足音を立てて突進した。
 その異様な音に彼もすぐに気づいたのだろう。衛藤家の招かれざる客である八雲は、ごく自然に振り返った。
 空央の敵。そして自分の敵。
 敵のしっかりと結ばれた唇と赤く腫れた瞼が、光紀の目に飛び込んでくる。だがその意味に気づく暇は無かった。むしろ、その眼差しの底知れない空虚さが光紀を怯えさせた。同時に、八雲の全身には、はっきりと自分の意思がみなぎっていた。
 そして光紀の中で、世界がゆっくり動きはじめる。
 八雲が自分を見つめる眼差しには、子供を相手にする余裕など見当たらなかった。かといって、走りよる光紀を無邪気な子供の行動と受け流すつもりがないのも、迷惑そうな目つきやそっと形作られた握り拳、しっかり対峙するべく開かれた両脚から察する事もできた。
 八雲も気づいているのだ。今の光紀が敵として駆けて来るのを。
 初めて光紀は、空央が彼を嫌う理由をわずかながら理解できたと感じた。確かに八雲は自分たちとは違う存在だった。それは無邪気さを完全に否定した行動であり――子供である光紀に対しての機械的な筋肉の動きの中に、自分たちへ開かれるべき心や感情を、見出し引き出す事など、到底無理であるような気分にさせられた。
 だが彼なら――敵である彼なら、もしかしたら空央がどうなったのかを知っているのかもしれない。この一週間以上の間に敵として接触していたなら、義兄の現在位置を知っているかもしれない。
 もちろん、すんなり教えてもらえるとは思っていない。『無いなら作れ』――そう、教えてもらえないなら自分なりのやり方で無理矢理聞き出すだけだ。
「……君は衛藤家の……」
 確認を取ろうとする八雲の響きは鋭く光紀の耳を打った。はちきれそうな心音と一緒に。
――うるさい。
 耳の中が痛い。セミの声も葉鳴りの音も血管の濁流も、感覚の全てが耳の中で爆発している。止めたくとも止められない勢いで、何もかもが警告の音色を奏でている。
 相変わらずゆっくり動き続ける世界の中、光紀は無言で不恰好なナイフを振りかざした。



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