カロリーハーフ・1
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 扉を開ける前から、嫌な予感はしていたのだ。
 彼女がこの部屋のあるアパート前に愛車を止めた時から既に、その、ある種異様な匂いが鼻腔を強烈に刺激し、脱力するような鼻歌がかすかに聞こえていたのだから。
 二木霞(にきかすみ)は咥えていた煙草の灰を玄関前に落としながら、口を開く気力を失っていた。もちろん、呆れていたのである。
 彼女の目の前には、やたらと装飾過多なエプロン姿の男が一人。一揃いのスーツ――蛍光紫色と言えばいいのだろうか? 失笑スレスレの微妙な色使いだ――の上からエプロン。いわゆる一人暮し用の六畳一間に備え付けられた玄関先直結のキッチンで、ご丁寧に三角巾までかぶって作業する長身の男。
 切れ長の目を伊達眼鏡の奥から覗かせた青年は、見た事もないほどご機嫌な様子だった。
「酒上(さかがみ)……何やってんの?」
「見てわかるでしょう? 料理ですよ、お菓子作り」
 酒上純(さかがみじゅん)は、どちらかといえば小柄な部類の霞をにこやかに見下ろしながら、手にしていたヘラを立てて見せた。先端にはこげ茶色の液体がペットリ張りついている。
「チョコね」
「ええ、チョコです」
 部屋中に充満している甘ったるい匂いに、霞はため息をついた。そう、完全密封状態だった彼女の愛車の中にまで染みとおってきた、濃密な甘さをもった空気の塊。
「人の家に来てまで、チョコ作り? 自分の家でやればいいじゃない」
「人の家でやるから楽しいんです。私の敬愛するリーダーのアジトだからこそ、こうやってチョコを作ってるんですよ」
 そう、この部屋は二人の共通の知人、佐々木和政(ささきかずまさ)の隠れ家の一つなのだ。だが、部屋の主の姿は見当たらない。どこに追い出されたのだろうと霞は心の中だけで首を捻る。最近は特に目を見張るような情勢的変化はなかったし、霞にも黙っているような別の住居に行ってるのか。それとも彼の雇い主である〈西方協会〉にでも呼び出されたか。今日は半日待っても霞の事務所に来なかったし、少し心配だ――もちろん、部外者の彼には事務所に通う義務などないが。
 突然やってきた霞などどこ吹く風の、気味が悪いほどのニヤケ面でチョコ作りに勤しむ青年に向き直る。
「酒上、あんたはここ使う許可もらってるの?」
「ええ、まあ。チョコ作るとは思っていないと思いますけどね」
「怒られると思うけど? いいの?」
「いつもの事です。あの人、私のやる事は何でも気にくわない人ですから」
「そうさせてるのはあんたでしょうが」
「そうとも言えます」
 酒上は手にしていたボールの中に白い粉末をまぶしながら、説明を続けた。
「ここを使ってる理由は、簡単に言えばですね……自分の家を好きでもないチョコレートの匂いで汚染したくなかったし、どうせ作るなら義理チョコ一つもらえれば感涙するようなリーダーに、日頃の感謝を込めて嫌がらせの一つでもしてみようかと思いまして。それでここで作業をしてるんですよ」
「……私には関係ない話ね、たぶん」
「ええ、貴女には関係ありません。大丈夫、私はリーダーと貴女の恋路を邪魔するようなつもりはありませんから」
「勘違いしないで。アイツはともかく、私にその気はないんだから」
「どうだか」
 ニヤニヤとしながら、酒上はちらりと彼女の表情をうかがった。
「ところで、今日はどうしました? 和政が無駄な努力をはらって貴女の事務所に通ってるのは知ってますけど、貴女が彼の元に来るなんて、聞いた事もない。明日は雨どころか、ミサイルが降ってきてもおかしくないですね」
 霞は黙って、抱えていたバックから安い包装紙の包みを取り出した。酒上の顔面に向かって放り投げると、包みは彼の前でピタリと止まる。空中に張りついた四角の箱は、何事もなかったように空中を漂い、酒上の背後にあったダイニングテーブルの上にすとんと落ちた。
「なるほど、自分の身の周りは常に臨戦体勢ってトコロか」
「私もこの業界に入って四、五年になるところですからね。私を憎んでる人の上司なら、多少は警戒しておかないと身が持ちませんから。……箱の中身はチョコですね。本命?」
「義理チョコに決まってるでしょ? そこのコンビニに寄ったら、今日が当日だったって思い出してね。あの鈍感男は寂しい日を送ってるんじゃないかと思って買ってきたの。あんたにあげるわ」
「いいんですか?」
「あんただって、誰にもチョコもらえない寂しい一日なんでしょう? だから作ってんじゃないの」
「まあ、そんな所です。では、ありがたくいただきます。愛してますよ、霞さん。大好き、すっごく大好きですよ〜!」
 投げキッスの嵐を浴びせ掛ける男を無視し、霞は携帯灰皿に短くなった吸殻を押しこむ。
「あのさ……その、誰かれ構わず『愛してる』っていうの、やめなよ。だから本命に信じてもらえないんだよ」
「ナオキの事ですか? 彼女の事は特別好きなんですよ。それに他の人の三倍以上は囁いてるし。一日三度はメールで『大好きですよ(ハート)』って送ってるし」
「あんたのメール見て、心底軽蔑してたけど。軽い男に思われてるみたいね、みんなに言ってまわるから」
「あ、やっぱり?」
 あはははと軽薄な笑い声をあげるフリフリエプロンの男。
「でも好きなんですよ、彼女の事。ナオキの事はもちろん、貴女も和政もね。それを口に出して言っておきたいだけなんです。この先何があるかわからないからこそ、その前に伝えておきたいなって」
「それが好きの安売りになってるんだな。誤解されるのも当然だ」
 言葉を吐き捨てた霞に、酒上は含み笑い。
「誤解されるのも人生の楽しみじゃないですかね。ところで霞さん、これからご予定は?」
「商売敵に教える予定なんてないね」
「それは残念。チョコの材料が余ってるんで、貴女も和政に一つ作ってみたらどうか思ったんですが」
「……あんたね……命のやりとりするような相手と一緒に、仲良くバレンタインチョコ作りなんて、どうしてできると思うわけ? 和政ならともかく、あんたみたいな能力者に背中向けられるほど、私はお気楽な思考回路をもってるつもりはないの」
 酒上は唐突に作業の手を止め、哀れっぽい仕草で両手を合わせて祈りのポーズ。
「ああ、何てことでしょう! 愛する人々に憎しみしか得られない人生、それが私の人生なのであろうか! 手に手をとって喜びを分かち合う事もできないとは残念無念、なんたる苦痛、なんたる鈍痛、なんたる拷問であろうことか! 我が終焉の地において、このちっぽけな人生の最後を抱き我が魂を浄化す高貴なる魂は、いかなる者の身に潜むものか!」
 うつむき芝居がかった三文台詞の余韻に浸っていた酒上は、ふと顔を上げ、呆れ果てて聴く耳を持っていなかった霞に視線を合わせる。
「……でも霞さん、貴女は勘違いをしている」



 唐突に、開けっぱなしだった玄関のドアが音を立てて閉まった。
 甘い香りにまじりだしたほのかな酒精の香り。
 無言で酒上を睨みつける霞に、彼は涼しい顔でチョコと白粉のついた手を差し伸べる。
「申し訳ない、貴女はすでに『酒神の舞台』(ディオニュソスのステージ)に立っている。私の能力(テリトリー)内にある物がどうなるか、知ってますよね?」
 危機感に駆られた霞は、自分の武器を取り出そうと腰に手を伸ばした。その腕がピタリと止まる。彼女は舌打ちを一つ。
 〈人格波動〉という生体エネルギーの一種を操れる人々――通称・能力者またはTS。彼らの力は、それぞれの個体だけが持っている思考と一体化した力で、この世界を構成している波動そのものに干渉し、物理的なエネルギーとして発現する。
 そんな特殊な力である〈人格波動〉の中でも、この酒上純という能力者が操る能力は極めて特殊だ。誰が名付けたのか――おそらく自分自身だろう――『酒神の舞台』といい、その範囲内に存在する全ての法則を捻じ曲げ、支配下においてしまう。彼の言葉を借りれば、無機物有機物の区別なく、全てを『酔わせて』しまうのだとか。そう、物理法則ですら彼の『舞台』では酔ってしまうのだ。
 そして今、『酒神の舞台』に立っている彼女の身体は、既に彼女のものであって彼女のものではない。彼女の利き腕は、とっくに酒上の支配下にあり彼のものになっていたのだ。絶対的な支配力を持つ彼の力は、霞の腕を完全にロックした。肩、肘、それどころか指の一本すら動かす事ができない。
 霞は自分の能力を急いで展開。全身から飛び出した青白いエネルギーの刃が、彼女の身にまとわりついてきた己の〈人格波動〉以外の〈人格波動〉の塊を、一瞬の間に切り刻む。
 自由になった腕の感触を確かめながら酒上の出方をうかがうと、彼はかぶっていた三角巾をとりながら笑った。
「へえ……これが名高い『切り裂き魔』(リッパー)ですか。私の『舞台』を破壊されるとは、思いもよりませんでした。対〈特務〉能力者用の訓練を受けているという噂は本当だったんですね。あー怖い怖い。貴女と本気でやりあうのは勘弁して欲しいな」
 霞は心中で毒づく。
 もし彼が本気で能力を展開していたなら、自分はどうなっていただろうか? 本当に彼の能力は、自分の能力で切り刻める類のものなのだろうか?
 このヘラヘラ笑っている男からは、とても本気が見えない。彼女の出方を見て、遊んでいるとしか思えないのだ。
――これじゃ、和政やナオキも腹立てるのも当然だな
 和政はともかく、生真面目過ぎるほど生真面目な霞の部下が、酒上の人を小馬鹿にした態度を許容できるはずがない――霞はいつでも酒上を攻撃できるよう、能力を展開させたまま苦笑。
 酒上は霞の笑みに気づき、一瞬だけ不思議そうな表情を作った。だがすぐに、いつものような芝居がかった動きで両腕を広げて見せる。
 同時に、閉まっていた玄関のドアが、再び何の前触れもなく開いた。
「さあ、これでわかったでしょう? 貴女は私の『舞台』にずっといたけれど、私は何もしなかった。そして仮に私が何かしようと思っても、貴女の能力なら私の攻撃を跳ね除けられる」
「何が言いたい?」
「だから〜、私と一緒にチョコを作りましょうよ。嫌ならそこの出口からどうぞ。でも私としては、貴女としばらくの間おしゃべりに興じたいんですけど」
「……」
 たった今、いつ命を奪われてもおかしくない緊張が走ったというのに……チョコレート?
 顔にこそ出さなかったがあっけにとられる霞に、彼は続けて訴えかける。
「作り方なら教えてあげますよ。失敗しても私のせいにすればいいじゃないですか。ねぇ、一緒にバレンタインチョコ、手作りで渡しましょうよ」
「……」
「あ、霞さん、こういうバカバカしいイベントはお嫌いですか? じゃあ、別にチョコクッキーの作り方でも覚えようと思った日って事でいいじゃないですか。実はそっちも用意してるんで――」
「……どうして、私にチョコを作らせたいんだ?」
「決まってるじゃないですか!」
 再び大げさな身振りで嘆きを表しながら、彼は叫んだ。
「作っている間に、おしゃべりする為でしょうが! 貴女から私の素敵なアイドル、我が愛しのスイートハニー、私の前に現われた甘い呪いの正体たる三条尚起(さんじょうなおき)の、その華麗なる日常生活を聞き出す為ですよ!」
「……」
 なぜだか知らないが。
 霞はこの瞬間だけ、彼の上司である佐々木和政に同情した。心の底から。
 そして、彼のターゲットである自分の部下の、大いなる不運を想って憐れんだ。
「あ、それともう一つ。一人で手作りチョコ作って渡すのが恥ずかしいというのもありますけどね。貴女も和政に渡せば、お仲間が一人できあがりってワケです。それでですね――」
 仲間が欲しいぐらい恥ずかしいなら、作らなければ良いのに――そう霞は想ったが、口に出すのは止めておいた。なんだか話がこじれそうな気がしたからだ。
――なんでこんな男が
 霞は大きくため息をひとつ。
――なんで『あの人』の後継者候補なんだろう?
 霞が探し続けている、世界を変えるほど強力な能力を持ったTS(能力者)である『あの人』。『あの人』も随分変わった性格の人間だったが、少なくともコイツほど自分勝手な人間ではなかったはずなのだが……。
 作業そっちのけでチョコの種類やら作業手順を説明し出した酒上にやる気なく頷く霞は、自分の懐中深くに落ちこんでしまった煙草ケースを探し出そうとやっきになっていた。






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