カロリーハーフ・4
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 酒上純はサイドシートに深く腰掛け、二木霞が戻ってくるのを待っていた。
 彼女の愛車は真紅のオールドカー。小さなその車体は、外見上の類似から甲虫の名前をつけられて愛されている名車の一つだ。リバイバルブームに乗って再発されたこのタイプのオールドカーは、柔らかな外装ラインが新たな女性層の人気を勝ち得ていて、順調に売上を伸ばしているらしい。たしか内装も極力かつての車内に近づけているという話だったのが、実際のところはどうなのだろう? なにせ、持ち主が二木霞という、トップクラスのTSでありTS関連の調査員である。後部座席に積まれたいくつかの機材とオーディオに繋がれたいくつものナビやモニターのおかげで、内装に関してははっきりいって原形を留めていない。おまけにそのゴチャゴチャした機材でかなり狭く感じられるのだ。百五十センチ強の二木のように小柄な女性なら十分なのかもしれないが、百九十センチ弱の酒上の身体では、彼がどちらかと言えば細身体型とは言え、少々窮屈に感じられる車内である。
 酒上はそのコードだらけの密室で、できるだけ身を縮めながら思い出す。自分を睨みつける、三条尚起の瞳を、昨夜彼女から投げつけられた言葉を思い出す。
『何も考えずに「好きだ」とかぬかすな! 一言で言ってみろ、一言で!』
 ごもっとも。
 酒上は小さくその言葉を口にしてみる。
「ごもっとも」
 彼女の気持ちもわからないでもない。
――だけど不安なんだ。
 自分の気持ちが彼女に届いていないと思うと、いてもたってもいられなくなる。
 自分の事をわかってもらえる前に、もし彼女が誰かの手にかかって抹殺されてしまったとしたら……自分は二度と、彼女に自分の想いを伝えられなくなってしまうのだ。
――あの時みたいに。
 そう。能力者になった、あの時のように――。
 大体、一言で気持ちを表す事なんて、本当に出来るのだろうか? 例えば、真っ白な紙を塗りつぶすには、たった数文字の「好き」では足りない。何度も、何十、何百という言葉を書き連ねて重ね書きして、そしてやっと真っ黒になる。その時、きっとそれは「好き」という言葉を認識できないぐらい「好き」を現す記号になるのだ。
 彼女への言葉も想いもそれと同じだ。彼女の真っ白な気持ちに自分の言葉が残らないなら、残るまで言い続けてやる……。
――子供の独占欲。
 酒上自身の理性が囁く。
 彼女を独占して、何が楽しい? 彼女まで意のままに動かしたいとでもいうのか?
 だったら、さっさと行動に移してしまえばよかったんだ。彼女の意識を自らの能力で奪った、あの時に。和政に連絡などせずに、どこにでも連れ込んで犯ってしまえば良かったのに。体が欲しいなら、それで十分だったはずだ。
――いや、違う。
 自分が欲しいのは、意のままに動く三条尚起なんかじゃない。
 自分の能力が他者への支配力を持つ能力だけに、酒上は十分過ぎるほど十分に「他人を支配する」という感覚を知っている。その楽しさも、そのつまらなさも。
 その感覚が、酒上に囁いている。彼女だけは操ってはいけないと。その代償はきっと大きくなるはずだと……酒上純自身の身をも破滅させてしまうかもしれないほどに。
――所詮、ただの直感だけどね。
 直感なんて信じる信じないは人の勝手だ。そして酒上は自分の直感を信じてる。ただそれだけだ。



 彼は自分の展開する能力内に入ってきた異物――他人の〈人格波動〉を感じとって顔を上げる。〈人格波動〉は、この世界がそれによって構成されているように、人の存在をも構成している諸要素の一つだ。仮に能力者でなくとも、その能力を展開していなくとも、測定機や〈人格波動〉を感知できる類の能力を持つTSなら苦も無く察知する事が出来る。酒上の操る『酒神の舞台』は、その能力範囲内の空間を彼の思考と直結した支配空間に置く為、その内部に侵入したものを異物として察知できるのだ。
 そして今、酒上は三条尚起の住むマンションから現われた二人の姿を感じ、その目で見る。
 二木霞に引きずられらながら、渋々やってくる自分の上司の姿だ。その困ったような怒ったような、どこか情けない表情に酒上は湧きあがる笑みを隠しきれない。〈死神〉と呼ばれた男も惚れた女には逆らえないらしい。いや、相手があの高名なるテロリスト『切り裂き魔』(リッパー)だった事を考えれば、逆らいたくとも逆らえないのが実情か?
 酒上は車から降りて、二人を迎えた。
「ご苦労様です、二木所長。ご迷惑をおかけします」
「ああ、そうだね。迷惑この上なかった」
 霞に引きずられていた佐々木和政は、酒上の姿を目にした途端、霞の腕を振り解いた。
「どういう事だ、てめぇ!? なんでお前と霞がつるんで――」
「あんたは黙ってなよ、シスコン」
 霞がうんざりした口調で口を挟む。酒上が言ったこの単語が気に入ったらしい。
「だ・か・ら、俺は違うって、シスコンじゃねぇって言ってんだろッ! うが――ッ!?」
 霞は和政の口を無理矢理手で塞ぎ、酒上に振りかえった。
「私はあんたに、一度だけチャンスをやる。……チョコ作りのお礼にね。明日からはまた敵同士。いいね?」
「はい」
 できるだけの笑顔を作って頷くと、二木もかすかに笑ったのがわかった。
「結構。あんたがいなければ、適応者は『あの人』だけですむんだ。あんたを殺すのが『あの人』の身の安全の確保に繋がるなら、私はあんたと殺り合うつもり。今回の事は全部忘れてね。それだけははっきりさせてもらいたかったんだ」
「もちろんです。でも私は、貴女のような素晴らしい輝きを放つ魂と殺し合うのは避けたいな。いずれそうなった時の為に言って置きますが、私としても貴女と戦うのは不本意です」
 世辞ではなく心からの思いだ。彼は尚起が慕うこの女性を以前から気に入っていた。尚起は不安定な心構えのまま強がる人間だが、彼女は不安定を完全に凍結して思考できる強さを持っている。彼女が「今回の事を忘れて殺し合う」というなら、本当に殺すつもりなのだ。そのキッパリとした性格が彼女の魅力であり、見かけや実績以上に脆弱な神経を持つ和政を引きつけてやまないのだろう。酒上もその魅力を好ましく思っていたが、三条尚起に心をとらわれている現在では、その好意が恋愛感情になる余地はなかった。
「そうね、私もあんたとは殺し合いたくないかもしれない。でもどうしても避けられない時ってあるからね。その時の話よ」
 そっけなく答える二木霞は、口を塞がれてもがく和政を押さえつけたまま、重ねて忠告した。
「それと、尚起に無理矢理何かさせようとしたら、タダじゃおかないから」
「承知してます」
 霞は笑みを湛え続ける酒上の顔を見上げ、しばらく黙った。やがて
「……じゃあ、あんたの上司は預かってく。うまくやりなよ」
「ありがとうございます」
「おいコラ、勝手に――」
 霞の能力が瞬時に展開された。彼女の肩口から飛び出した青白いエネルギーの刃が、怒鳴り散らさんばかりに大口をあけた和政の喉仏に突きつけられる。
「……!」
「酒上が見えなくなるまで、ヘタな動きはしないで。殺しちゃうから。それでも彼を行かせたくないなら、死ぬほど嫌いな『例の能力』を使ってみなさいよ、あんただって今やTSのクセに。いつまでもダダッコみたいに毛嫌いする事ないでしょう? そんなにこの男と尚起が会うのを止めたかったら、力づくで止めてみなさいよ」
 和政はその大きな瞳を憤怒に見開いて、霞と酒上を交互に見比べた。何か良いたそうに口を開け閉めし、諦めたように二人から顔を背ける。
「っったく、どいつもこいつも俺の気も知らねぇで……もういい、勝手にしろッ! ……尚起に何かあったら、二人ともぶっ殺すからな」
 霞は和政の捨て台詞を聞いて、酒上に目配せする。酒上も目配せで返し、尚起の部屋に向かって足を踏み出す。
 ――と。
「ちょっと待って」
 霞の声に振りかえると、彼女は腕組みして彼の問いかける視線を受け止めた。
「聞こうかどうか迷ったんだけど……あの話、あんた自身の事なんでしょう?」
「何がですか?」
「チョコ作ってる間教えてくれた、彼女を〈軍部〉に殺されて復讐しようとした男の子の話よ」
 和政が驚いたように霞の表情を覗きこんだ。次いで酒上に目を向ける。
 おそらく、和政はその話を知っているのだろう。酒上の上司なのだから、知らない方がおかしいのかもしれない。彼はそれを霞に話した事に驚いているのだろうか。
 酒上は肩をすくめて見せる。今の表情はうまくおどけていられたか、かすかな不安が彼の心中をよぎった。
「な〜に言ってんですか。噂話ですよ、ただの。私がそんなに誠実な男に見えます?」
「見えるから聞いてるの。私の目を馬鹿にしないで」
 伊達に調査事務所の所長ではないらしい。酒上は彼女の眼力に、自分の中にあるドロドロとした不安まで見透かされたような気分になる。
 だがそこまでだ。酒上は落ちついて自分自身を見つめなおす。ここで怯んでは「候補者の酒上純」らしくない。
「……ではやはり、貴女は何か勘違いしてるんですよ。私は世界中の女性が恋人候補の男なので。尚起がすんだら、次は貴女かもしれませんよ」
「へぇ……私を?」
「本気ですよ。恋に時間差はないんですから」
「なるほどね。それでこの私?」
 面白がるその声と表情からは、酒上の言葉を完全に嘘だと見抜いている余裕があった。それどころか、そんな事ができるわけないという挑発さえも滲んでいる。
 残念ながら、この件に関しては相手の方が役者が上だ。あまり会話を続けても、自分の中の尚起への思いを測られるだけ、損をするだけだろう。
「だから本気ですってば。それにしても、貴女ほどの女性を放っておける『あの人』が、たまにうらやましくなりますね。では、失礼させていただきますよ」
「ま、せいぜい頑張りなさい」
 二木は酒上が歩き出したのを見て、再びもがきだす和政を抑えつけながらそう言った。



 尚起のマンションはオートロックに守られていたが、酒上の前では無いに等しかった。彼の能力で『酔わされた』ロック機能は、支配する酒上の前にあっけなく道をあける。
「ごくろうさま」
 茶目っ気を出してドアに囁きながら、酒上は愛しい女性の部屋に乗り込む。能力を部屋一杯に展開すると、即座に彼女の気配を感じ取る事が出来た。
――月のように冷たい。
 彼女の〈人格波動〉を彼なりに表現すると、その一言に尽きる。ぼんやりとして、手が届かなくて、それでもそこにあると感じさせる神々しさだ。
 彼は部屋が自分のテリトリーにある事を利用して、自らの体を浮かばせる。足音を警戒しての事だ。すでに『舞台』の上にあるこの部屋の中で、酒上にできない事はないと言っても過言ではない。
 寝室の扉も勝手に彼へ向かって開け放たれ、酒上はスルスルと空中を滑って彼女の眠るベッドにたどりつく。
 シーツの中で丸くなってる彼女を見下ろし、酒上は一瞬、彼女が死んでいるような錯覚に陥る。
 酒上純にとって、死とは完全なる断絶だ。手を伸ばしても相手に触れられず、話したくとも相手への言葉を見つけられないもの。死体は彼に向かって反応してはくれない。それは、彼の支配している『舞台』の上の人間のように個性を引き剥がされ、酒上が与えてやらなければならない人形となってしまう。
――それじゃダメなんだ。
 酒上は彼女の身体に潜む酒精(アルコール)を便りに、自分の能力を彼女の中に滑りこませる。
 程なくして、彼の見つめる中、ゆっくりと彼女の瞼は動き出しはじめる。三条尚起=佐々木柚実の体内を蝕んでいたアルコールは、たった今、酒上が彼女を罠にかけた時と同じように彼の能力で無効化されたのだ。
 昨夜、彼は彼女に気づかれないようその能力内に誘いこんだ後、他の物体にするように彼女を酔い潰した。同じように今、動けない彼女を自分の『舞台』に入れ、酔いをコントロールしたのだ。
 だから彼女が目を覚ます時には、いつもどおりの柔らかな目覚めを体験するはずである。
 酒上は血の気の引いていた彼女の白い肌がピクピクと震え、瞼の奥から姿を現しはじめた黒い瞳に自分の顔が写るのを見ていた。横たわる彼女の頭の側に両腕を置いて覆い被さり、すぐにでも抱きしめられるように身構えながら、彼女が意識を取り戻していく課程を見ていた。
 この、四歳年上の女性を意識するようになったのはいつ頃からだったか。
 初めて顔をあわせた時には特に意識していなかった。なぜ男装し男の名前を名乗っているのか、なぜ自分の兄を毛嫌いしているのか、そんな事が気になるぐらいで意識していたわけじゃないのだ。それを女性として意識し始めたのはいつだっただろう?
 〈西方協会〉の命令で彼女の手助けをした時触れた体の柔らかさか、霞の怒鳴ったスラム風の卑猥なジョークに頬を染めた彼女の愛らしさだったか、それとも彼女がぼんやりと物思いにふけっている姿を見た時に感じた寂寥感か、圧倒的に不利な状況でも彼の助けを拒否したきつい目の輝きだったか……思い出そうとすると、自分の見てきた彼女の姿が次々と浮かんでしまい、どれが本当に「最初に彼を虜にした彼女の姿」なのかわからなくなる。
 もっとも、当の本人にいわせればそんな事はわからなくてもいいのだ。結局、彼女への思いは彼の中にある積み重ねの結果なのだから。
 それは一目惚れのような、事件から彼女を目に入れ始めたんだと考えるよりもずっと――彼自身にも説明不可能なほどつのってしまった彼女への愛情が、絶対に偽物ではないのだという安心感を与えてくれていた。
 一時の強い感情に押し流されてミスをするぐらいなら、ゆっくりと自分の感情を確認してからでも遅くない。かつて想い人を殺された時にやってしまったような、自分の身も心も裏切ってまで復讐するような事はもうしたくない。そんな自分を成り行きとはいえ助けてくれた『あの人』――二木霞の想い人――への感謝も含めて。
 やがて、焦点の合っていなかった彼女の視線と、彼の観察の眼がぶつかった。きょとんとする彼女に――尚起はそういう無防備な顔をするとたまらなく可愛らしいと、酒上は常々思っていた――彼はできるだけ自分の喜びを表現する笑顔を見せた。彼女の視線はオドオドと揺れながら彼の身体に沿ってゆっくりと下がっていき最終的に、ピタリと止まった。その時やっと彼女は、自分が『彼に押し倒されている』格好であると理解したようだ。
 次の瞬間、彼女は部屋いっぱいをビリビリ震わせる悲鳴をあげた。
 信じがたいという表情が顔に刻まれたと同時に彼女の力が発現、その両脇へ瞬時に現われた銀のカード『銀の壁』が一瞬にしてその数を増して二人の間に割り込み、その頑強な身で風を切って酒上に襲いかかる。
 対する酒上は、彼女が攻撃に出たのを察知し、手の中に色硝子でできたゴブレットを出現させる。これは彼の〈人格波動〉を増幅させる道具で、〈ギル・コレクション〉と呼ばれる一連の〈人格波動〉を利用した道具の一つである。尚起の持つ銀のカードと同じ類の物だ。
 だが彼はそのゴブレットを握り締めたまま、動きを止める事を選択した。本能的にゴブレットを手にしてしまったが、彼は今彼女を傷つけるつもりはないのだ。今の彼女は手負いの獣みたいなもの、言葉より先に行動でそれを示さなければ。
「――ッ!」
 銀色のカードが、身をかばって上げた腕にストンと突き刺さる。数枚のカードが彼の腕を切り裂いて背後に飛び去り、一枚のカードが酒上のかけているスクェア型の伊達眼鏡のレンズに突き刺さって粉々に破壊した。レンズなのかフレームなのかわからないが、破片が目の周りをチリチリと傷つける。残りのカードが一斉に白光を放ったのを目にした途端、鳩尾のあたりにタックルをされたような大きく鈍い痛み。跳ね飛ばされる自分の身体を感じながら、酒上は彼女の『銀の壁』が自分を拒絶したのを察知した。物理防御ならトップクラスの彼女の力が、酒上の身に密着させられて発現したのだ。例えるなら、身体に密着させたシャワーヘッドから突然溢れ出した水流で跳ね飛ばされたようなものだろう。格別大きな攻撃力を持つわけではないが、勢いだけはある。
 狭い寝室だ、跳ね飛ばされた酒上の身体は高速で壁に叩きつけられそうになる。酒上は激突する瞬間、自分の能力を発動。自分の先にある壁を『酔わせ』、彼の身体を受け止めさせる。硬いはずの寝室の壁はトランポリンのようにグニャリと歪み、酒上の身体はその中に埋もれて止まった。腕に突き刺さった銀のカードを引きぬくと、あらためて自分の身の回りの物理法則を変化。彼の身体は逆回転されたフィルムのようにスルリと――不自然に身を起こして、ベッドの上の彼女に囁いた。
「い……痛いなぁ、スイートハニー。おはようのキスが毎朝それじゃ、たとえ世界の王にもなれるこの私でも、身が持たなくなりそうだよ」
 腕の傷周辺の細胞を『酔わせ』ると、その分裂速度を加速させる。あっという間に傷口がふさがるのを、彼はその身をもって確認する。目の周りの硝子片を払い落していると、尚起が震える声で
「な、な、な、なななな――!」
「何ですか」
「何……何を、私に何をしたッ!? なんでここにいるんだ!」
「別に。何もしてませんよ? お姫様を起こす為に目覚めのキスを一つ二つ――」
「貴様ッ!――」
「待った、待ってください! いや、お目覚めキッスもやりたかったんですけど、その前に起きちゃったんですよ、貴女が。だから何もしてませんってば」
「信じられるか、この、変態男ッ!」
 彼女は、目の周りに食い込んだ破片の傷に手を当てる酒上に叫んだ。血の滲んだ小さな切り傷にため息をつきながら、酒上は大きく両手を広げて見せる。
 彼女のお怒りはよくわかる。自分だって目を覚ました時大嫌いな女に馬乗りにされてちゃ、張り手の二十や三十は容赦無く飛ばしてしまうかもしれない。反面、彼女のその怒った顔がとてもチャーミングに見えて、彼の中のイタズラ心は簡単に飛び出してきてしまうのだ。目の周りの些細な傷など、その衝動を抑えるには何の障害にもなり得ない。
「ああ、尚起……貴女も疑りぶかい人ですね。まるで私の人生に対する挑戦のようだ。それが貴女の存在意義なのかな?」
「話をそらすな、そんな事を話したいんじゃない」
 落ちついてきたのか、彼女の頬に見えていた朱色の興奮はゆっくりと白い肌に同化しつつある。その驚きにゆるんでいた表情がいつものように冷たい無表情の仮面に変わるのを見、酒上は心中で何度も舌打ちした。酒上を睨みつけながら、キビキビとした声で彼女は尋ねる。
「……ここにいた兄さんはどこに?」
「ああ、申し訳ないですけど、和政は霞さんとデートです。だからあんな薄情アニキと上司は――」
「一言多い」
「え?」
「お前はいつも一言多すぎる。兄さんと二木所長を説明以上に貶める必要はないはずだ」
 まったく……なんだかんだ言っても、彼女は兄と霞を慕っているのだ。どちらも一度は彼女を殺そうとしたっていうのに。
 それに比べれば、酒上の方がよっぽど安全なのに。せいぜいハグの一つ二つしたぐらいで、なぜそこまで警戒されなきゃならないんだろう?
「え〜? 二木さんはともかく、和政ぐらい文句言わせてくださいよ〜。彼にはいつも虐げられてるんですから〜」
「どうせ、お前の行動が原因だろう?」
「そりゃそうですが、今、私に監禁されている貴女に言われたくないなぁ〜。一言多いのは貴女ですよ。その気になれば、私が貴女をどうにでもできるのは知ってますよね? 今みたいに暴れたりしないで。あまり私を怒らせないでくださいよ、こっちも紳士的にやろうと一生懸命やってるんだから」
「……そうだな……ではその紳士的な部分に、大いに期待したいものだ」
 歯ぎしりしそうな顔で彼女は言い、ベッドの上で膝を抱えた。その尚起の周りを、銀のカードがヒラヒラと踊りまわる。彼女の周りを、まるで衛星であるかのようにクルクルと。
 酒上はスーツの袖についてしまった血の染みを気にしながら、手の中のゴブレットを尚起に見えるように消失させてみせた。出現した時と同じように、ゴブレットは一瞬にして光の粒子となって彼の手の中へ消えて行く。ゴブレットは彼の〈人格波動〉に同化できるよう調整されているものだ。彼のある種の人格波動値が規定以上まで上昇すると、出現するようになっている。彼がゴブレットを消して見せたという事は、攻撃する意志はないという表明だ。
 腕を組みながら――そして呆れを意識して声に滲ませながら――酒上は先に激突しそうになった壁にもたれて囁いた。
「全く……いつもいつも、手間かけさせてくれますよね、貴女は。でもそんな所が結構楽しかったりして。人生に張りがでますよ」
「お前がしつこいだけだ。私はお前なんか――」
「大好き? それとも愛してる?」
「……さっさと死ね。嫌いだといつも言ってる。私の前からさっさと消えろ」
「あーん冷た〜い! でもそこが素敵」
「理解力の乏しい男だ。馬鹿? 阿呆?」
「貴女が言うなら馬鹿でも阿呆でもいいや」
「……」
 大きなため息をついて、彼女は抱えてる自分の膝に顎をのせた。
「それで? 私になんの用だ。兄さんまで巻きこんで、私をさらったと思ったら私の部屋? 一体、何がしたいんだ」
「巻きこまれた人をもう一人、忘れてますよ」
「?」
「二木さんに和政を連れて行くようお願いしたんです。そうじゃなきゃ、あの妹狂いのお馬鹿さんが、私だけを残してここから出て行くワケないでしょう? 二木さんは快く承諾してくれましたよ。もちろん、謝礼も準備していた以上にたっぷりもぎ取られましたけどね。そういう事で、彼女は私と貴女が二人だけで会う事を了解したんです。もし彼女が助けに来てくれるとでも思っているのなら、さっさとあきらめた方が良いですよ。これは嘘でもなんでもありません。何よりも、私は貴女に対しては紳士的に接するつもりですからね、貴女には本当の事しか話さない。つまり、二木さんも巻き込まれた人間ですが、私の協力者だという事です。わかりましたね?」
 尚起は無言で目を見開いた。何かわめき出すかと思った酒上だが、彼女はそのまま沈黙。兄がこの事に関わっていると知るより、ずっとショックが大きかったのだろう。尚起は頼る者がなく放浪していたところを二木霞に保護されて以来、彼女を実の姉のように慕っている。その彼女に裏切られたとでも思っているのだろうか。
 酒上の能力を尚起が打破するのは難しい。物理攻撃ならともかく、酒上の能力は彼女の精神さえ危うくさせる。それを、勝敗のほぼ見えている二人を当人だけで会わせるというのは――まず思いつく理由は、尚起の力を信じているか、尚起がどうなろうとも構わないという考えの二つだ。悲観的な考え方をするという意味ではそっくりの佐々木兄妹だから、おそらく後者を選択し、「見捨てられた」とでも思って落ち込んでいるのであろう。
 酒上自身としては、霞は酒上の真摯な思いを信じてくれたのだと思いたいところだが。
 想像以上の落ち込み様に、酒上はからかいが過ぎたかと少しだけ反省した。ほんの少しだけ。声をやわらげながら
「まあ、いろいろ手間がかかった理由はですね……今日が特別な日だからなんですよ」
「特別な日?」
「そう、誰にでも魔法が使える素敵な日だからです。貴女をさらわなきゃならなかったのも、すべて今日という日の魔法を貴女が使ってしまうかもしれないという怖れからなんですよ。私は小心者なのでね、お姫様。貴女が舞踏会にいってしまうかもしれないと思うと、この身は葡萄酒を詰め込み過ぎた皮袋のごとく、真っ二つに張り裂けてしまいそうでしたから」
 落ちつこうと思いつつも口早になってしまう酒上に、尚起は目を白黒させながら
「……何を言ってるんだ? わからない……お前がわからなくさせてるのか?」
「まあまあ、落ちついてくださいよ。ちょっと考えればすぐわかる事です。貴女の名前の由来ぐらいに、貴女がすでに知っている事なんですから」
 釈然としない表情で――それでも考えるべく宙を睨む彼女。どうも単純で明快な答えを素通りしているようで、悔しそうに酒上を見る。無言で解答を促すその表情は、負けん気の強い子供のようだ。
 その愛らしいスネ方に、酒上は抱きついてしまいそうになった。小学生でもあるまいし、好きな女をいじめる趣味はないはずなのだが……彼女がわずかでも彼女自身として行動するその瞬間が見れるのは、こんな些細な時間しかないのだ。
 尚起はよく酒上を「道化を演じている信用できない男」と批難するが、とんでもない。彼女の方がよっぽど「冷血を装っている信用できない女」なのだ。
 抱きつく為踏み出した足を慌てて引っ込め、あえて彼女の『嫌いな』、大げさな身振りを意識して両手を広げる。
「さあ、ちゃんと聞いてくださいよ、尚起? 今日は……」
「……今日は?」
「今日はバレンタインなんです!」
 顔がほころぶの抑えきれず、酒上は笑顔で囁いた。
「この国において、時にはチョコレートが金よりも価値あるモノと化す魔の日、魔の時間です」
 うやうやしく頭を垂れた酒上は、そのまま彼女の反応を待った。
 数秒……いや、数十秒。
 予想に反して何の応えもない事を不思議に思った酒上は、しびれを切らして顔をあげる。そんな酒上の目に飛びこんできたのは、彼とは対照的に膝に顔をうずめて頭を抱えた、彼女の姿だった。
「どうしました、尚起? 二日酔いが残ってますか? そんなはずは無いんですが」
「どうしたもこうしたも……ない……」
 力ない声の調子から察するに、酒上の行動に呆れてものも言えないらしい。呆れられるとは思っていたが、ここまで徹底的に脱力されると、ちょっとだけショックな酒上だ。最上級のジョークを口にしたらオヤジギャグだと言われたような虚しさを覚える。
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ、尚起! 私は真剣なんですよ?」
「お前な……どこの世界に、殺しあうかもしれない相手とチョコの交換をする馬鹿がいる!?」
「ここですよ、ここ。ここに居ますって、馬鹿が一人。言われてみれば、交換も素敵だなぁ〜。尚起、私とチョコを交換してくれるんですか? やだな、両思いみたいで最高じゃないですか!」
「……脳みそ、どうかしてんじゃないの?」
「エヘヘ、実は私もそうなんじゃないかと思う時があります」
 答えながら、酒上は片手を差し出した。そのまま己の能力を発動させる。ゴブレットが出現した時のように現われたのは、赤と金に彩られた包み紙で丁寧に梱包された箱だった。ゴブレット同様、彼の〈人格波動〉に同化させられていたそれは、突然の出現で彼女を驚かせたのだろう、彼女の身体はピクリと反応した。
 直方体のそれを、酒上は慈しむように両手で抱いた。
「どうせ、貴女からチョコをいただけるとは思っていませんよ。だから私が貴女にさしあげようかと思いましてね」
「私はいらない」
 即答する彼女に、酒上は断言した。
「いいえ、貴女は受け取ります。貴女はそういう人だ」
「絶対に――」
「絶対に受け取ります。だってこのチョコは、貴女がずっと私に要求してきた物なんですから」
「……はあ?」
 酒上は目を伏せた。先に眼鏡の破片で傷ついた瞼がジリリと痛んだが、目を伏せなければちゃんと話せないような気がした。



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