カロリーハーフ・6
←PREV | MainStory=R-T-X | Home | NEXT→
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | あとがきがわり


 
 酒上純の事を、真剣に考えた事がないわけじゃない。
 ただ、彼の言動はあまりにも佐々木柚実の理想からかけ離れていた。全てが偽善に見え、全てが演技に見えた。今でもそれは間違っていないと思う。彼が『何か』を演じているのは確かなのだ。本当に不真面目な男は、あんな風にチョコを渡すためだけに恥らったりはしない。寝起きの人間にキスするのをためらったりはしない。
――おそらく、自分でもわからなくなってるんだろう。
 どんな人間を演じているのか、ヴィジョンが不明確になる瞬間がその些細な『真面目さ』の根源なのだ。
 だが『真面目』な人間が誠実とは限らない。自分の、更に大きな欲の為に自分を律し、自分にだけ誠実であろうとする者もいる。自分に向けられた頑強な精神を、他者が誤解するという罠が潜んでいるかもしれないのだ。彼がそのタイプでないとは言い切れない。
――彼は『「三条尚起=佐々木柚実」を好きな自分』を演じているのかもしれない。
 その演技と自分の差がわからなくなっているのかもしれない。自分が本当に、本気で柚実を好きなのだと自分の本心を塗り替えてしまっただけで、本当は何か別の目的があるとか……。
――でも
 柚実は思う。自分の力が停止したあの瞬間、あの感覚を。
――私は彼を殺せなかった。
 自分の体の上に馬乗りになっていたあの男を跳ね飛ばした時――彼の顔面に飛ばした一枚のカード。壁に突き刺さるぐらいの破壊力は持っているカードは、彼のメガネを粉々に破壊した。
 でもそれだけだ。
 その気になれば彼の頭部を輪切りにする事もできたはずなのに、自分はその絶好の機会を見送った。
――私は甘すぎるんだ。もう子供じゃないのに。
 二木霞ならためらわずにその頭部を横なぎに切り払い、首を落としていたはずだ。和政なら〈カブラ〉を叩き込み、殺してしまった自分への嫌悪をつのらせていたかもしれない。酒上はたぶん、虫の息の相手を前に勝利の高笑いをあげているだろう。
 なのに自分はどうだ?
――やっぱり中途半端だ。
 自分は酒上純が嫌いなのだ。そして彼は敵組織に繋がる者なのだ。どうしてためらう必要がある? どうして彼のささやきが、自分を操る為の換言だと思いつつも殺せない? 人を殺すのをためらうような時期はもう過ぎた。自分の身を守る為ならしかたがないと割り切ることもできるようになったはずだ。今の和政とは違って、今の自分は精神を嫌悪感から守れる。
 それなのに殺せないのなら、それは彼への気持ちの整理が出来ていないのだ。自分は彼を消したくないのだ。彼にまだ生きていて欲しいのだ。 
――彼はどうして自分を必要としているの?
 候補者であり、そう簡単に打ち破ることの出来ない支配的な力を有する彼に必要なものは、一体なに?
――それはおそらく秩序。
 即座に浮かんだ答えに、自分自身で驚く。その時間の短縮は、自覚していた以上に自分は彼を観察していた証拠なのだから。
 彼に必要なのは、不安定で気まぐれな彼の心と、その強力な力を制御する外部からの枷。
 彼の『真面目さ』が現在封じられている物ならば、その『真面目さ』が歪みの原因なのかもしれない。彼のその道化の仮面の下に隠された『真面目さ』が、彼がいつか手に入れるかもしれない巨大すぎる力を恐れているのかもしれない。そのカオティックな力を手に入れる権利に、押しつぶされそうになっているのかもしれない。
 力を持つものが必ず通る試練に、何か支えを欲しがっているのかもしれない。
――もし私に秩序を求めているのなら……
 世界を支配する男を支配できるなら――自分は何も望まない。ただ、酒上は大恩ある二木霞の恋人をいつか蹴落とし、例の機械を作動させるかもしれない危険な男でもある。
 彼を制御することで、そんな事態を回避することができたなら。彼を抑えることで、二木達と酒上が争わずに済むのなら……
――嘘だ。
 確かにその一面があるのは認める。それを理由にしてもいい。
 でも、何よりも酒上は自分を必要としてくれている。能力者としてでも、義務としてでも、生活のパートナーとしてでも、女としての自分でもない。彼は、もしかしたらずっと傍にいてくれるんじゃないか? 彼は『「三条尚起=佐々木柚実」を好きな自分』を演じている男かもしれないのだ。その拘束力は二重三重に彼を柚実に縛り付けている。それなら彼は、今まで会った男達とは違って、自分を道具以外の存在としてみてくれるんじゃないだろうか?
――そんなわけない。
 もう一度、最初からよく考えなければ。自分の気持ちがどこにあるのか、自分の気持ちをどこに仕舞わなければならないのか……
――でも、もし私が思っている以上に私が彼を気に入っているのなら……
 彼を殺せなかったのは、殺人への嫌悪なんかではなく、ただのためらいだったわけでもなく、やはり彼の事が少なからず気に入っているからなのなら……。
 この先も酒上が自分を求め続けるなら、二人の利害は一致するんじゃないだろうか?
――今日はどんな気持ちだった?
 自問すると、浮かんだ記憶は差し出された包みと血のにじんだ瞼、そして優しく細められた目と悪戯っぽい口元。
――嬉しかったのか。
 ずっと誰かのお荷物で――昔の和政のお荷物で、ギル達のお荷物で、今は二木霞の荷物である自分を……自ら欲しがってくれる人がいる。
 自分が投げかけた言葉を、今までずっと考えてくれた人がいる。今は無理だと返した気持ちを、素直に受け取ってくれた人がいる。自分を待っていてくれると言ってくれた人がいる。
 彼女は心に浮かんだ言葉を、自ら確認する為に呟く。
「私はやっぱり、嬉しかったんだ……」
 彼の言葉が話半分だとしても、やっぱり嬉しかったんだ。



――馬鹿っていうのはどこにでもいるんだよな。
 佐々木和政は黙って、静かにため息をついた。せっかく人がいい気分で家路についたというのに、ちょっかいかけてくる馬鹿。何も日付が変わろうとしているって時に、わざわざ訪ねて来ることはあるまいに。なぜこんな時間を選んで仕掛けてくる? 人目? そんなのと時間は関係無い。この街の中で誰かが見ていない場所など存在しないに決まってるんだ。自分だってそうやって監視されているデータを確認する恩恵に預かってる。どこでどんな小競り合いがあったかぐらいなら、すぐに確認できるのだ。だったらいつどこでだっていいじゃないか。
 今日は珍しく機嫌のいい霞が相手で、食事はおろかホテルでもなかなか積極的で面食らったぐらいなのに。こんないい日は滅多にないと思ったら、反動がこの馬鹿どもというわけか。
 大体、世の中には馬鹿が多すぎる。
 女を友人に押し付けて逃げ出す馬鹿、バイセクシャルの変態研究馬鹿、世界をぶっ壊したい夢想家の馬鹿、自分の力に溺れる肉体改造趣味の馬鹿、うまく人を殺せる事しか考えられねぇ馬鹿、そいつの言いなりになってる馬鹿、後先考えねぇでヒョコヒョコついてくる馬鹿、不真面目に振舞いたくてしょうがねぇ馬鹿、昔の男が忘れられねぇ馬鹿、自分をごまかして男装してる馬鹿……そして根暗でシスコンで自分の影に怯えてる馬鹿。
 後ろからつけてくるのは、どんな馬鹿なのやら。気配は一、二……三つ。
――俺に用なのか、それとも『本物』に用があるのか。
 相手にとってはどうでもいい事、どちらも同じ事なんだろうが、和政にってはとても大事な事だ。この先もずっと、『本物』と間違えられて狙われ続けるなんてごめんだ。自分はまだそんなに恨みをかうような事はしてないというのに。それでなくとも、アイツ――カガヒサシを追いかけてるだけで手一杯、命のやりとりしてるのだ。余計なトラブルなんて願い下げ、殺人狂の『本物』でもあるまいし、スリルなんてこれっぽっちも欲しくもない……はずだ。もっとも、これが『本物』を殺してしまった『偽物』にはふさわしい罰なのかもしれないが。
 和政はできるだけ人気のない路地を通り、深い宵闇に沈む廃校を目指す。こういう時に利用する為、大抵の廃校は頭に入れてあるのだ。広い校庭とどこでも同じような作りをしている校舎、そして大抵の騒ぎは近所のガキどもの仕業か怪奇現象の類にされてしまうこの手の場所は、和政にとってある種理想的な戦闘場所なのだ。
――もっとも。
 仮にも『〈特務〉の切り札』と呼ばれた和政を尾行するのに、これだけ下手糞な馬鹿者どもに、ここまで場所を整えてやる必要はないと思うが。
「さて、と」
 校庭の真ん中まで歩いたところで、和政は全力で走り出す。背後からずっとつけてきた三つの気配が動揺を露わにして駆け出す。やっぱり馬鹿だと、和政は心の中で舌を出した。罠の一つや二つ、警戒しやがれ。
 校舎の角を曲がり奴らの視界から逃れつつ、そこにあった非常階段を駆け上る。二階まで達したところで和政は立ち止まった。目元を硝煙と排莢から保護する為、持ち歩いているスナイプグラスをかけなおす。丸いレンズのそれは、知らない人間から見るとファッショングラスにも見えるデザインで、和政のお気に入りの品だった。
 準備が半分整ったところで、彼を追って姿を現したのは濃紺の腕章をつけた二人の男だった。
――やっぱり〈E.A.S.T.s〉か。
 各地で反政府活動を行っているテロ集団だ。私的軍隊を形成している段階で既に警戒対象として認定されている集団なのだが、特に有名なのは強力なTS能力者を開発してるとのもっぱらの噂もとい事実。それは元々この組織に所属していた二木霞を見れば明らかだ。いま襲ってきている連中は、彼らを裏切った『本物』や霞を処分する為に動いている奴らの一部だろう。全く『本物』も、尚起といい霞といいコイツラといい、とんだ置き土産ばかり残してくれる。
 そう考えている間にも、和政の体は習慣的に懐の大型拳銃を取り出す。〈波動認識錠〉のランプが、〈人格波動〉の持ち主を和政と認定して点灯――するが、そのランプを指先で隠すのを忘れない。安全弁が外れる音を聞きつつ、和政の人差し指はトリガーを引き絞る。
 敵の二人は素人あがりの能力者か、実戦初投入の若造なのだろう。なぜ和政がわざわざ非常階段を選んで逃げ出したのか、考える余裕もないのか。
 非常階段の上り口だけが街頭に照らされていて、丸見えだからだ。反面、和政自身の姿は明順反応と逆光で奴らからは見えない。おそらく奴らは、マズルフラッシュと轟音でやっと和政の居場所を確認できたに違いない。視認までできたかは定かではないが、事実がどうであろうと、確認できたときにはすでに決着がついていた事だけは確かだ。
 強烈な反動を和政の腕に残しつつ飛び出した特殊弾丸『カブラ』が、四種の〈人格波動〉を同時に放っている印の白光を放ちつつ、その圧倒的なスピードと熱量をもって着弾。一人の肩口をズタズタに吹っ飛ばした時にはもう、次の弾丸がもう一人の上腕部を千切り飛ばそうとしていた。
 ほぼ同時に絶叫が響き渡る。能力者の力は思考の力に大いに依存するものだ。痛みや雑念で意志力が低下すれば、その意思を物理的な力として発現する事はできなくなる。二人はこれで戦闘不能だ。
 ――と。
 最後の一人を警戒する和政の周りに、唐突にいくつもの人影が出現した。どれも同じ顔と格好をした男達。その腕にはまった紺色の腕章が揺れる。あざけるように和政の周りを取り囲み、銃を突きつける。その中の数体が弾丸を発射――だが和政はそれを甘んじて受けてみせる。弾丸が和政の体にのめり込み、そのままスッと消えていく。
 和政はそれを冷めた目で見ていた。口元は嫌悪に歪み、相手の能力で作り出された目の前の、偽物達に言葉を吐き捨てる。
「幻惑系TSか……大方いい気分でポンポン出してんだろうが、ふざけんじゃねぇぞ」
 どれもが虚像だとわかっている和政には、放たれた弾丸が実体を持っていない事も理解できている。仮に弾丸のどれかでも本物だと思っていたら、人によってはショック死しているだろうが、和政には無駄な事だ。敵さんの戦略としては、この虚像の弾丸に紛れて本物を撃ってくるつもりなんだろうが、それすらも〈死神カズマサ〉の前では無力だと気づいていないらしい。
「ったく、能力者って奴は……だから能力者は嫌いなんだ。自分の力を信じすぎて、自分の体を磨こうとしねぇ」
――気配がまるわかりなんだよ。一つだけの気配がはっきり動いてら。
 和政の腕は階段の斜め下で笑う敵に向かって、だらしなくポイント。和政自身の目は、自分の前にある映像を睨みつけたまま動かない。
――まるで、俺たちだ。
 虚像として存在する自分。それを生み出した『本物』。ただし、目の前に立ちふさがる大勢の虚像と佐々木和政の違いは、『偽物』が『本物』に対して抱いた感情――憎悪と呼ばれる類の強烈な感情を持つか否か。
 その感情を持たない虚像たちに、和政は哀れみと恐怖と怒りを感じる。口をついて出た言葉は
「目障りだ、失せろ」
 四年前『本物』に突きつけられた言葉を無意識に選択して、虚像たちに投げつける。
 指先に力を込め引き絞る。轟音と共に男の肖像はいっせいに揺らいで消えた。
 が。
 手応えに違和感を感じ、和政は最後の敵に目をやる。撃つ時に見ていなくとも、和政の感覚は確かに敵の頭部を吹っ飛ばすよう照準を合わせていたはずだ。それが……。
 地面に伏してもがき苦しむ男の頭部は、まるで古い宇宙服のように丸い紫の球体に覆われていた。ゴボゴボと不愉快な音を立てて敵が空気を吐き出すのを、紫の液体の中で気泡が沸き溺れているのを確認した和政は、その全てを悟る。
「さ……酒上、どこに居やがるッ!?」
「呼びましたか、リーダー?」
 唐突に返ってきた呑気な響きと気配に向かって、和政は即座に愛銃を向ける。まるで自分の優位を示すように和政の上、非常階段三階の踊り場に現れた部下は、コートの襟についたフワフワと揺れるピンクの羽に顔をうずめてご満悦。どこで落としてきたのか、自慢の伊達眼鏡を外した彼は、繊細そうなその切れ長の目をいたずらっぽく笑みに形作っていた。
 いつの間に自分達の戦闘に割って入ったのか、いつの間にこの一帯を『酒神の舞台』に変えたのかわからなかったが――だからこそ危険極まりない部下でもあるのだが――それを追及する暇はない。
「さっさとアレを消せ! 溺れてるぞ!」
 返す言葉は「なんで?」と、無邪気そのものだ。
「いいから消せ! 殺す気か!?」
「え〜? 私の大事な和政を殺そうとした奴なんて、始末した方が簡単ですって」
「大事でもなんでもいいが、そいつは殺すな」
「でも――」
「俺はむやみに殺しはしねぇ主義なんだよ! さっさと消せって」
「……殺す気まんまんだった癖に。私がカブラを受け止めなきゃ、とっくに頭部破裂で死んでましたよ、そいつ」
 そういいながらコートのポケットから抜き出した手には、発光し終えて沈黙した『カブラ』の残骸。大人の男の手にも三つもてるかどうかという巨大弾丸をポンポンと手玉にとりながら「どうせ殺すなら、私がやったって構わないでしょう? あ、わかった! 拷問でもするんでしょ? 私にやらせてくださいよ〜」
 和政は自分の苛立ちが限界に達したのを感じた。脳裏に金色の閃光が閃くような錯覚に襲われる。
「うるせぇッ、俺は『本物』と違うんだよ!」
「!」
 酒上は自分の背後へ瞬時にして現れたソレ――和政の能力で出現したオレンジ色の球体『陽の魔弾』に気づいたのだろう。一瞬だけ真顔になったその顔は、和政の力を警戒してか、切れ長の目から冷たい視線を投げかけてくる。いつもの伊達眼鏡がないせいか、その視線は和政を驚かせるほど硬く、確固とした力強さで上司を見下ろしていた。和政は緊張の中で見たその目に驚きを覚える――彼はいつもこんな綺麗な目をしていただろうか? 彼はいつもこんな澄んだ目で自分を見ていたのだろうか? この男は本当に、この先このままの性質で生きていけるほど強い人間なのだろうか――なぜか急速に湧き上がった不安と不思議ともいえるその戸惑いを必死で噛み殺しながら、和政は無言の抗議を続けた。
 やがて、酒上はフウと大きく息を吐いた。とりなすように
「参ったな、そんなに怒らせるつもりはなかったんだけど」
 酒上は口とは裏腹のニヤケ面のまま、手の中のゴブレットを軽く持ち上げる。もがいていた男はすでに動きを止めていたが、その頭部からヘルメット状になっていた紫色の液体が飛び散る。それを確認して、和政も酒上の背後に発現していた自分の能力を消した。
「……生きてるんだろうな?」
「ちょいと肺から出しておきましょう。あとは彼次第って事で」
 酒上の言葉と同時に、倒れた男の口から逆流した葡萄酒が溢れ出た。その量と、数メート離れているにもかかわらず匂ってくるワインの香りで不愉快になる和政。彼も妹と同じように、酒を受け付けない体質なのだ。
「さあ、これでもう気が済んだでしょう? さっさと帰りましょう。貴方の撃った二人のわめき声、さっきからうるさくて耳が遠くなりそうだ」
 確かにうるさい。そしていくら廃校とはいえ、誰かが警備部に連絡なんてしたら面倒だ。さっさと逃げ出しておいた方が無難である。
 苦痛にのたうち回っているテロリスト達は放置し、言われるままに廃校を後にしながら和政はのほほんとついて来る部下に向かって口を尖らす。
「……どうして俺の居場所がわかった?」
「アキオさんに問い合わせただけです。相変わらず〈西方協会〉に信用されていないんですね。まだ監視されてるようですよ、貴方」
 雇い主との信用問題は聞き流して、和政は自分より頭半分ほど高い青年を見上げる。
「おい、お前、怪我してるのか?」
 瞼の周りで小さく固まった血に気づき、和政は思わず声をあげた。普段ならこの程度の傷、自分の能力であっという間に回復させてしまう男だ。伊達男というかキザな酒上らしくない。部下は「名誉の負傷ですよ」なんてとぼけながらも、指先で傷に触れてみたりして、それなりに気にしているようだ。
「大丈夫、ちょっと痛みますけど、皮が切れただけです。問題ない」
 言うが早いか、和政のかけていたスナイプグラスをひょいと取り上げ、まるで長い間自分の物であったかのように自分にかけなおす。彼がこんな悪戯をするのは今に始まった事ではない。面倒なので放置しておく和政だ。どうせ一日二日たって飽きると、和政の隠れ家のどこかに、こっそり返却してあるに決まってる。そういう事をするような部下なのだ。
「尚起はどうした?」
「えへへ、半分ふられちゃいました……なんでそこで笑うんですか?」
「いや、笑ったつもりはないんだけどな。そうか、ふられたか」
「せっかくホテルまで取ったのに」
「そうかそうか、ふられたか。そうかそうか」
「せっかくですから、これから二人で泊まりません? スイートですよ?」
「なんで野郎と二人で、いちゃつく為にとった部屋なんぞにいかなきゃならねぇんだよ」
「貴方と過ごすのも悪くないなと思って……なんで早足になるんですか」
「俺にそのケはねぇって言ってんだろうが」
「私だって、貴方にキスしたいぐらいでその気はありませんよ」
「じゅ・う・ぶ・ん・だ、キスで十分、変態だ」
「え〜、それは偏見ですよ〜」
「うるせぇ」
 漫才のような会話を続けながら、和政は酒上の顔色をうかがう。この男が自分の妹に対して、一体どんな愛の言葉を囁き、彼女がどう答えたのか……気になって仕方がない。下手に想像しようとすると、どうしても普段の言動を思い出して笑ってしまうし。
「なあ、『半分』ってのはなんだ?」
「え?」
「『半分ふられた』って言ってたよな。どういう意味だ、そりゃ」
「言葉どおりですよ。私の言葉の、熱意の半分は彼女に蹴られたんです」
「はあ?」
「そして私は彼女の気持ちの半分をいただきました」
 酒上はコートの中から小さな包みを意味ありげにのぞかせ、ニヤリとした。
「半分だけ私たちは相思相愛なんですよ、お兄ちゃん」
「気色悪い呼び方すんな。結局ホテルにも誘えなかったクセに」
「そうなんですよ。だからって家まで帰るの面倒だし。だから今日はリーダーのアパートに泊めてくれません? この近くにありましたよね?」
「……スイートがあんだろ? 俺んちはホテルじゃねぇよ、さっさと帰れ」
「一人きりで行ったらふられたって思われるでしょ? だったらキャンセルしますよ。貴方と一緒ならカップルになるんでしょうが」
「冗談もその辺にしておけよ、小僧。叩き出すぞ」
 彼との言葉のやり取りに応じながら、和政はほっとする。もし、先刻自分が余計な一言を妹に告げたが故に二人の関係がこじれていたりしたら、後々面倒だし。もしあのアドバイスが悪い方に転がって、尚起に酒上と自分を十羽一絡げで考えられたら目も当てられない。霞の事務所に行っても気まずいではないか。もっともそんな事は杞憂だったようで、どうやら尚起も口で言うほど酒上を毛嫌いしているわけでもないらしい。二人の中がどうなろうと最終的にはどうでもいい和政だが、このどちらにも適度に緊張して接していられる自分の周りの空気が、今日を経ても変わらなかったとわかっただけでも安心できた。
 何よりもいつもと変わらぬ酒上の姿に、上司としての和政は安堵する。たった今、戦闘によって浮上した『偽物』という立場の後ろめたささえ、彼とのやり取りで氷解するのを実感する。
――これか。
 自分が彼を気に入ってるのは、この安堵感のせい? それとも、彼との会話の間は素直に笑える喜び?
――こんな風に笑いあえる相手なんて、他にはアイツしかいなかったからな。
 たった一人で逃亡生活を続けている友を思い、少しだけ胸が痛んだ。友の女にちょっかいだして、バレンタインなんていう日を共に過ごした自分は、彼を裏切っているような――彼に託されたとおり彼女を守っているような、こそばゆい苛立ちに身が焦がれていく自分を感じる。
 その焦燥を忘れさせるのもまた、並んで歩く自分の部下の、マイペースな言葉だった。
「でも随分進展したと思わないですか? 少なくとも殺しあわずにすんだ。やっぱり彼女も私の事が好きなんですよ」
「前から思ってたんだがな……お前のその自信は一体どこから出てくるんだ? どうして素直にアイツがお前を嫌ってるって思えねぇんだよ」
 そうですねと、部下は首を捻った。敵の一人を溺死させようとしたのと同じ無邪気さで。
「自信も何も、私は世界の王になる男ですよ? 私に惚れない人間がいると思うんですか? 尚起だってそうですよ」
「……言ってる意味が全然わからねぇ」
 和政は応えながら笑い――罪悪感のループがその間だけプツンと切れる、そんな音を聞いたような気がした。一気に広がる開放感。すぐにその感覚が薄れてしまうのを経験から知りつつも、他人から与えられるその感触は、何度も和政を危機的な心理状態から救ってくれた。そんな彼の耳に飛び込んでくるのは、今回彼を救い上げてくれた部下の、つけっぱなしのラジオのような言葉。
「そんな心配しなくても、私は誰にでも愛される男だってわかりません? あ、もしかして和政、他の人に嫉妬してるんですか? 大丈夫、私が適応者になったら、ちゃんと和政の願いもかなえてあげますって。大好きな和政のお願いですからね、今土下座してくれたら、いの一番に。あ、なんなら今のうちに整理券でもどうです? 今なら三番あたり、かな?」
「いつまでもベラベラうるせぇな、本当に泊めてやらねぇぞ」



 その夜。
 二木霞が自分の棲家でもある調査事務所に帰る頃には、三条尚起がすでにソファの上で横になっていた。
 先に連絡があった通りだ、驚く事ではない。酒上に今の棲家がばれてしまったから、次の家を探すまで泊めて欲しいと頼まれていたのだ。
 身体に巻きつかせた毛布にしがみつきながら眠る彼女は、いつもよりずっと幼く見えた。いつも硬く引き締めている頬を、少女のように緩ませているせいだろう。冷たい印象の残る普段の顔立ちからは別人のようにさえ見える。霞が彼女の上にもう一枚毛布をかぶせると、柔らかく、くすぐったそうな笑みを見せた。
 酒上が見たらどんなに狂喜するだろうかと霞はぼんやりと思い、そして過保護な和政の苛立ち顔を想像して微笑む。
 ついさっきまで一緒に遊んでいた和政は、どうしているだろうか? ディナーの時は珍しく奮発して銘のあるワインなんぞ奢ってくれたが、今月の生活費は大丈夫だろうか? いつもナンダカンダと月末には金を借りにやってくるというのに。件のワインは値段に見合った口当たりの良い物で、酒には強いと自負している霞もつい杯を空ける手も進んで、今や珍しくほろ酔い気分だ。妹共々酒を受け付けない体質の和政は、彼女が次々空にして行く瓶の数に真っ青になり、酔うどころの話じゃなかったようだが、まあそれも彼にはいい勉強になっただろう。
 その彼は今ごろはもうベッドで眠っているのだろうか? 彼はいくつかある寝床を転々としているから、もしかしたらまだ帰宅途中かもしれない。もしかしたら、帰り道で誰かに殺されてるのかもしれない。
 普段なら思いつかない彼への気遣いに、霞は笑う。これも酒上のいっていた「今日一日だけの魔法」の効果だろうか?
 あの青年は言っていた。いつもとは違った時間を、違った世界を楽しむのが祭日なのだと。それは、日常において人ではない生活をすごす者も、一般人としての心と生活を楽しんでも良い日なのだと。
 人生の半分を能力の練磨に費やしてきた霞さえも、一般人のような日常と喜びをもって良いのだ――そう諭してくれた。
――それは油断じゃないの?
 そんな風に気を抜いている時間を作ってはならないはずだ。自分たちが仕事と称して傷つけてきた人達の恨みが跳ね返ってくる時は、場所も時間も選びはしない。むしろ、そんな時間を持っていると知られてしまったが最後、次の機会を楽しむには自分の命と天秤にかけなければならなくなる。それを無視して『一日の魔法』なんて事を言ってくる酒上の考え方は、素人そのものの発想なのだ。
 だが、彼の詭弁に乗ってしまった自分もいるのが事実でもある。
――もしかしたら、そう諭してくれる人が欲しかったのかもしれない。
 『あの人』ではなく、他の誰かと楽しみを共有する後ろめたさがあったから、誰かに自分の行動の責任を擦り付けられる事が必要だったのかもしれない。
 そしてわかったのは、自分がこんな特別な日を過ごしても、何も変わらないという確認。『あの人』への気持ちも、和政との関係も変わらないという自信。
 特別な日を特別に過ごすという、普通の楽しみを一つ覚えたというだけだ。
 酒上には、こんな日ぐらい恋人ごっこを楽しむのもいいのかもしれないと思わせてくれただけでも、感謝するべきなのかもしれない。もちろん、そこには和政との確かな友情という前提があっての事だが。
 でもその魔法も、もうすぐ消える。日付が変わるまであと数分も無い。
 そして、おそらくもう二度と、この日にこんな魔法をかけられる事はなくなるのだ。
――そして、明日になればまたいつもどおり、さみしい独り身ってわけね。
 自分を置いて姿をくらませた『あの人』――彼女の想い人を探す日々も再開されるのだ。
 そう考えると気分がムシャクシャしてくる。原因のわからない苛立ちが彼女の心をかき乱し、戸惑わせる。その気分が冷蔵庫にある買い置きの缶ビールを思い出させるまで、大して時間はかからなかった。
 彼女は気持ちを落ちつかせる間だけ飲もうと自分に言い聞かせながら、冷蔵庫の取っ手に手をかけた。大きく開け放ちながら、その中身を覗いて動きを止める。
 冷蔵庫の真ん中には、見覚えのある包みが一つ。
 正確には大きなタッパーの中に転がされた、包み紙の塊。こちらに向かって鎮座している様子は、雑多に詰め込まれていた他の食料品とは別に、丁寧に保管された事がうかがえる。その中身の包装紙には見覚えがあった。昼間に酒上が用意していた、チョコの包み紙と同じ物だ。
――半分は……食べたのか?
 しかし、あの慎重で考えすぎとも思える尚起が、そう簡単にプレゼントの品など口にするだろうか? ましてや、昨夜彼女の事をさらった男なのだ。簡単に信頼できるようになるとは思えないが、まさか……。
――何も入っていないって事は見ていた私が保証するけどさ。
 問題は行為だ。本当に食べてしまうほど、自分の部下が世間知らずだとは思いたくない霞だったりする。
 変わった男に目をつけられたと思っていたが、自分の部下もなかなかどうして、男装癖の他にも変わった性格の持ち主なのかもしれない。伊達に『死神』の妹でもないという事か?
――ま、いいか。
 ほろ酔い気味の彼女は、それ以上考えるのが面倒になる。あっさりと思考を投げ出した。
 何はともあれ、彼女は彼の気持ちを受け取ったのだ。気持ちが変わらずにいられるほど彼女は世間慣れしていない。そして、簡単に心変わりできるほど、優柔不断な女でもない。しばらくの間は、まだあの男との間で揉める事になるだろう――兄のことも含めて。
――でも惚れたはれたなんて、案外あっさりとケリがつくもんよ。
 霞は自分の楽観的な考えに苦笑しながら、買い置きのビールとつまみに手を伸ばす。
 そして彼女は二本の缶ビールを取り出すと、音を立てないよう静かに扉を閉めた。



<カロリーハーフ・終>


(「この作品面白いかも」と思ったらポチリとお願いします)
←PREV | MainStory=R-T-X | Home | NEXT→
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | あとがきがわり
copyrights (c) 2001-2017 suzu3ne@CloudCollector'sVector(2CV) All rights reserved.