カロリーハーフ・2
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 三条尚起は、ゆっくりと目を開けた。
 悪夢を見たような気もするが、内容がうまく思い出せない。カーテンの隙間からすべり込んで来た光が天井で跳ねかえり、『彼女』の瞳を刺す。痛みが尚起の中で弾け、光が脳髄で乱反射しているような錯覚におちいる。尚起は両手で目を押さえ、頭を抱えてうずくまりながら痛みに唸った。真昼の光が敵になったようだ――そんな風に考えて、ほんの少しだけ笑う。昼が敵になったのはずっと前。それに敵になったんじゃない、自分が敵にしたのだ。
 もがきながら尚起は考える。
 ここはどこだ?――自分の家のベッド?
 どうやってここに帰ってきたんだ?――うまく思い出せない。
 この強烈な吐き気と頭痛は何?――経験した事のない痛みだ。
 それにこの匂いは一体どこから?――酒精(アルコール)の匂い、ベッドの側にたたまれた、自分のジャケットからの香りだ。気のせいかもしれないが、自分の体臭までこの匂いに染められているような気がする。この匂いは……ワインだろうか?
――ワイン?
 思い当たる人間が一人いる。細面の神経質そうな青年。丁寧に手入れされたたてがみのような髪と、冷たく澄んだ瞳をおさめた切れ長の目。それを伊達眼鏡の奥から覗かせ、彼女を見るたびに嘲笑う男。彼女の今の生活を否定する男。誰にでも『大好きですよ』と囁くかわりに、本当は誰も愛してなどいない男。
 その面影を思い出しただけで不愉快な気分になり、彼女は顔をしかめた。
「……酒上ッ!」
 うまく思い出せないが、この状況は彼が尚起を落とし入れた結果なのだろう。ご丁寧に家まで運んで、上着まで脱がせて……
――!
 彼女は慌ててカッターシャツの上から胸元を探る。とはいえ、気持ちばかり急いてうまく指先が動かない。頭痛と吐き気と全身を覆う倦怠感で、腕を動かすのも億劫なのだ。
「起きたのか?」
 突然かけられた声に、彼女は跳ね起きた。脳天を突き刺す光の矢が再び目を襲ってきたが、そんな事は言ってられない。
 彼女は自分の能力を展開する。生体エネルギーの一種が銀色の輝きとなって彼女の指先に灯る。『銀の壁』と名付けられた彼女の力に反応して、たたまれていた上着のジャケットから銀色のカードが飛び出した。
 どういう原理なのか、一枚だったそれは一瞬にして己と全く同じ複製を作りだし、空中に張りついた。銀のカードの群れはさならがら大型の蝶のように彼女の周りを飛び交い、対峙する相手の攻撃に備える。
 だが、目の前に立つ人物はぼんやりとそのカードの動きを見守った。
 彼女の見知った顔だ。自分で切ったのか先の揃っていない短髪、やや角張った顎には薄っすらと不精ヒゲが浮かび、親譲りの大きな目を頼りなさげに宙へ漂わせながら、口元の煙草の長さをほんの少しだけ気にする。シャツ一枚にだらしなく緩められたネクタイ、肩から下げられたホルスターとそこに収められた巨大な拳銃――それだけでも相手が、少なくとも平和に生活しているタイプの人間ではない事を察する事ができる。
 奇妙なのは、そんな物を携帯しているにも関わらず、何事にもやる気のない様がその立ち姿からたちのぼっている事である。柚実の防衛反応に対しても、これといった苦言も表情も返さない。
 ただひたすら、厭世的な無表情。
「お兄ちゃん? どうしてここに居るのよ!」
 意外な人物の姿に、尚起は思わず口を滑らせた。怒鳴った瞬間、自分の声が自分の脳髄を叩きのめす激痛に変わり、彼女は我知らず突っ伏してそれに耐えた。身体をつの字形にした途端、今度は圧迫された胃が不快感を訴えた。逆流する内容物の反応を、歯を食いしばりながらやり過ごす。
 尚起は自分の周りを飛び交う銀のカードの中に、苦しむ自分の姿を見る。兄とは全く違う、尖った顎、厳しい光を放つ細められた瞳、ボーイッシュに切り揃えられた髪。胸元には女性を示すふくらみがくっきりとあらわれ、彼女はそれを隠すように我が身を抱きしめた。
――やっぱりコルセットが外されてる……!
 胸元を絞めつけ、彼女を外見上男性に仕立て上げてきた器具がない。誰に外されたのだろうと考えようとしたが、すぐにそれが無駄な事のような気がした。どうせ『ここに運んできた誰か』に決まっている。ただ、目の前の兄なのか、彼女が嫌っているあの酒上なのか、選択肢が増えただけだ。どちらにしても彼女的には好ましくない相手である。
 男はそんな尚起の一人相撲を無視したまま、淡々と、まるで眠っているかのような危うさで答えた。
「俺はお前の『お兄ちゃん』なんかじゃない。お前が『佐々木柚実』(ささきゆみ)じゃないようにな」
 彼女の二卵性双生児の兄・佐々木和政は、顔を合わせる度に呟く決り文句を吐きながら、大きなため息をついた。
「酒上に呼び出されて来てみれば、酔いつぶれたお前のお守と来たもんだ。……あいつ、なんか勘違いしてねぇか? 俺が上司なんだぜ、本当は。少しばっかり珍しい能力が使えるからって、俺をアゴで使うなんざ、最低でも百と八年は早いはずなんだがな」
 ぼやく和政に対して、尚起は頭痛をこらえつつ、自分のペースを取り戻そうとする。
 いつもの自分は違う。いつもの自分は、兄の姿に動揺したりはしない。彼の姿に安堵したりはしない。
 この目の前に立つ男は商売敵。〈西方協会〉の代理人、つまり調査員がわりの何でも屋。〈特務〉や〈軍部〉の為に働く自分達の対極にいる存在、敵側の人間。そして今は自分のテリトリーに踏み込んできた敵だ。
 いつもの自分ならこんな時、彼になんて言ってのける? どんな行動をしてのける?
 空中を浮遊していた銀色のカードの数枚が高速で飛来。ほぼ同時に、和政がするりと片足を引いてそれをかわした。カードは和政の肩があった場所を通り抜け、連続して背後の壁を叩き、突き刺さる。
「……物騒だな、おい」
「物騒なのは兄さんの方です。能力を使ってもないのに、どうしてアレがかわせるんですか。納得できない」
「カンだよ、カン。他にどう言えば納得するんだよ」
 何事もなかったかのような口調で和政はぼやき、ホルスターから大型拳銃を引き抜いた。〈波動認識錠〉が点灯、安全弁が外れる。トリガーに指をかけたまま、和政はダラリと腕を下ろした。
「いいか、お前が何もしないかぎり俺も何かするつもりはねぇ……だけど、次に俺を攻撃したら、遠慮なく撃つぜ?」
「やれますか? 『カブラ』なんかでは、私の能力を拡散させる事はできませんよ」
 『カブラ』は〈特務〉の開発した対能力者用特殊弾丸だ。兵器開発を主に手がける〈軍部〉アカデミーの、大別法分類項目による大カテゴリー四種類の抽出波動を同時に放射、ゼロ波動と呼ばれる白い〈人格波動〉を発しながら着弾する。大抵の能力者が操る〈人格波動〉ならこれだけで拡散、無効化できる優れものだ。その構造の複雑さやコストの問題から滅多に使用される事もなく、〈特務〉の対能力者戦における最終兵装とも言える武器だが――その万能さゆえに、少々相手のレベルが高くなってくると完全に成す術をなくしてしまう欠点もある。
 能力者の能力よりも自分の軍人としての知識や技術を重視する和政は、昔からこの特殊弾丸を好んで使う傾向があった。入手先は不明だが、『〈特務〉の切り札』『死神カズマサ』と呼ばれた兄なら、どこからでも手に入る類のものなのかもしれない。
 尚起の言葉が、能力者に否定的な見方をしてきた彼の癪に触ったのだろう。生気のない気配に一瞬だけ苛立ちが混じった。
「あのな……こっちはな、あのバカ酒上とお前のおかげで、貴重な半日を潰されてるんだよ。どいつもコイツも、能力者になった途端偉そうにしやがって。あんまりイライラさせんな、ぶっ放すぞ」
「やっぱり酒上か」
「やっぱりも何も、酒も煙草もヤクもやらねぇお前が酔いつぶれてるなんて、アイツじゃなきゃ誰がやるんだよ、他に誰がいるってんだ。『銀の壁』を力づくで破壊できる能力者なんてそうそういねぇだろ。それとも試してみるか? こいつで? ん?」
 和政は拳銃を尚起に突きつけた。そのまま、ゆっくりと彼女に歩み寄る。
「近づくな!」
 自分の悲鳴が再び脳天を貫いたが、予測していた分だけ耐え切る事ができた。
 尚起と和政の間を遮るように、一列に並ぶカードたち。尚起の恐怖を反映したのか、カードの数は一気に何十枚と増加して彼女の周りをキラキラと舞い始めた。
 それでも和政は動きを止めない。そもそもそんなに広い寝室ではないのだ、あと一歩でも近づけば、和政の銃口は尚起の額に食い込む。動きと同じように、ゆったりとした口調で和政は続けた。
「酒上に決まってるだろうが。お前の能力を力づくで破壊したら無傷で済むわけがないだろ? 幻覚系の、しかも高位の能力者か、それに順じた酒上みたいな能力者じゃなければな。そんな事も考えられないのか?」
「来るなといってるでしょう!」
 和政は歩みを止めた。拳銃を突きつけたまま、そろそろと尚起のベッドに腰をおろしはじめる。
 ――と、ポンと拳銃をベッドの端に放り投げた。和政は咥えっぱなしで灰の落ちるに任せていたままのタバコをつまみ、空中のカードに押し当てて火を消した。人の家であるのも構わず、吸殻を床に転がす。意図の見えない彼の行動への戸惑いが気配に出ていたのだろう。彼は柚実の顔を見ずにボソボソと答えた。
「撃ってもいいが、めんどくせぇな……『本物の俺』なら本当に撃ったんだろうけどさ。俺は今、お前をどうこうするつもりはねぇよ」
 じゃなきゃ、半日もお前が起きるの待ってねぇからな――兄は警戒する彼女に対して、ゆっくりと手を伸ばす。おそるおそるというその仕草と真剣な眼差しから、彼の好意を汲み取る事が出来る。彼の手が尚起の肩にそっと置かれた。尚起としては残念な事に、ここで彼の手を拒否できるほど兄を信用していないワケでもなかったのだ。
「大丈夫か?」
 そっと彼女の背をさする手は温かく、言葉以上に尚起を心配しているのを伝えてくる。心の中では気を抜いてはいけないと思いつつ、彼女は信頼している二木霞に話すように、彼の質問に応えていた。
「少し気分が悪いのは確かです……でもどうして、こんな事になったんだか……思い出せない」
「だろうな。アイツの事だからお前の記憶だっていじれるんだろうさ。全く、面倒な能力だよ、伊達に候補者じゃないって事なんだろうな。どうりで〈西方協会〉が欲しがったわけだよ。……酒上は昨日、霞の事務所から帰る途中のお前を襲撃したんだ。あいつの能力は、普通に酔わせる事も可能だからな、お前を酒漬けにしたらしい。俺に相談も無くな。何がしたかったんだか俺にもわからんが、ぶっ倒れたお前をここに運んで、それから俺に連絡してきやがった。『今日一日は二日酔いで動けなくなるはずだから、看病をお願いします』ってさ。そのままどこかに行きやがった」
「じゃあ、ここに運んだのは、あいつ――」
 慌てて自分の身体に異常がないか確認をはじめる尚起を見て、和政は唐突に子供のような笑みを浮かべた。
「アイツはお前にそういう事はしない。俺が保証する、安心しろ」
「胸が――」
「コルセット外したのはアイツだ。苦しそうに見えたらしい。神に誓ってそれ以上は何もしてないってさ」
「そんな誓いなんて、あの男にかぎっちゃ何の役にも立たない! 保証もです、兄さんは男だからそんな事が言えるんだ」
「自分の身体を大事にしたいなら、さっさとギルを探すのは止めろ。男装してまで『三条尚起』の名前を騙るのもやめるんだな――そんな事をしてもあいつらはひっかからねぇ、絶対お前の前に戻らねぇよ。いいか、お前は今まで幸運だっただけだ。みんながみんな、酒上みたいに紳士的なワケじゃない。今ならまだ間に合う。〈西方協会〉の保護を受けて表面的には普通の人間の生活に戻るか、〈特務〉警備部に帰れ。今よりは安全なはずだ。大体、どうして――」
「私の決めた事です、兄さんには関係ないでしょう。それにアイツが紳士だと思ったことは一度も無いです」
「アイツはお前に対してだけは紳士だよ。そして真剣だ。俺が見てる範囲ではだけど」
「兄さんの話なんて信じられるワケないでしょう! お兄ちゃんは十年前もそうだった! 私の前で嘘ばかりついて、本当の事は何も教えてくれなくて、いつも邪魔者扱いして! 私が何をしても反対するし、理解しようとしないクセに! そんな人を信じられるワケないでしょう!?」
 尚起は兄を睨もうとしたが、目に力を入れた途端に酷くなった頭痛で断念する。それ以上に、自分の発言が兄に与えた影響が気になった。
 一度はガキ大将のような笑みを浮かべた彼だったが、尚起の発言に顔を強張らせて黙りこんでいる。
 彼は自分を『佐々木和政の偽者』だという。様々な理由から離れ離れに暮らしていた二人は、十年前に偶然再会した。だがその時に会った和政が本物で、今、尚起の前に立っている男は別人なのだと彼は言う。それがどういう意味なのか、本当なのかただの比喩なのかどうかを尚起に教えてくれる人間はいない。
 だが少なくとも、今の彼は確かに彼女の兄だった。彼女の身を心配し、半日の間彼女が起き出すのをじっと待っていたような――そんなお人よしの兄。
 昔の兄は確かに信じられがたい人格の持ち主だったが、今の兄は違う。彼は信頼できるのかもしれない。それはいつも思っている――だが〈軍部〉の発注で能力者の調査を行う二木霞の事務所で働く以上、〈西方協会〉の所属で同様の調査を行う和政は、今でも自分の敵でもあるのだ。
 信じたい反面いつ裏切られてもおかしくない状況のジレンマが、二人の間には常にある。
 それは二木霞と和政もそうだ。かつての盟友でありながら敵同士になった二人は、傍から見ていてもどかしい心の交流を交わしている。
 自分と酒上もまたそうなのか――。
――そんなはずは無い。
 自分は彼を信じたいわけじゃないはずだ。酒上と和政達とは違う。
 二人の間に無言のままの時間が過ぎる。一度落ちた沈黙を無理矢理壊す作業にこの二人は慣れていなかった。
 その中、この沈黙を引き出した尚起は意を決して、言葉を発する。
「……すいません、兄さん。言いすぎました。混乱してて――」
「いや、気にするな。『本物』がやった事も、今生きてる俺の背負う義務があるんだからな。当然、聞いておくべき事だ」
 尚起は『銀の壁』の展開を解除、無数の銀のカードが一枚となってジャケットに納まるのを確認する。
 兄に対する誠意と信頼を態度で見せたつもりだった。もっとも、もし何か攻撃を受けたとしても、〈特務〉の銃器に頼る兄の攻撃なら『銀の壁』で受け止める自信がある。それ以上の攻撃をしてくるなら、それなりの準備が必要なはずである。そして準備しているぐらいなら、本当に兄は彼女を殺そうと覚悟しているのだ――そこまでされるなら仕方がないなと尚起は思う。
 『銀の壁』が展開している間はまだマシだった酔いが、解除した途端ぶり返してくる。どうやら『銀の壁』が酔いを緩和していたらしい。酒上の能力による擬似的な酔いである事が関係しているのかもしれない。
 光が自分の脳髄を焼く錯覚に再び襲われ、目を閉じながら「申し訳無いが休ませてください」と兄に頼んだ。彼は黙って、横になった尚起の首元にシーツを引きあげる。
 兄はシーツの中で丸くなった尚起を見下ろし、ゆっくりと、静かに、最初のような夢遊病者の投げやりな口調で囁く。
「返事しなくても言いから、ちょっと聞いてくれるか? ……酒上の事だ」
 ズキズキする痛みに混じって響くその名に、彼女は再び酒上のニヤケ面を思い出す。
 兄は淡々と話を繋いだ。
「俺が預かってるからかばうってワケじゃねぇけど……アイツ、多分お前が思ってるような男じゃねぇぞ。キザで嫌味で服の趣味悪ぃけど。お前、本当に酒上の事、真剣に考えた事あるのか? そりゃ、アイツがムカツクのはよくわかる。俺だってうざったくてぶっ殺したくなる時があるからな。……でも、どうしてアイツがそういう行動をとるのか、お前は考えた事はあるか?」
 酒上の事を考えた事があるか。彼の過去を考えた事はあるか。彼がどうして自分に付きまとうのか理解しようとしたか。
――無いわけじゃない
 無いわけじゃ無い分だけ、彼の言動に腹が立つ。自分ばかり真面目に考えさせられているような気がしてくるのだ。自分だけ無駄に振りまわされているんじゃないかと思って嫌になるのだ。
 あのありきたりな言葉を尋常じゃない熱心さで自分に投げかけてくるその行為そのものが、自分だけではなく他人にまで向けられているんじゃないかと思うと……彼の大げさな言動を分析するのが馬鹿馬鹿しくなってしまうのだ。
「敵だとか味方だとか、そんな事はこの際抜きにしてな。お前らはあくまで軍の下請け業者だし、俺達は利害が一致して〈西方協会〉に所属しているだけだ。どちらもその気になれば取引を中止できる立場なんだ。……よく考えて結論出せ」
 一度言葉を切り、兄は続けた。
「俺と霞の方は、『あいつ』を探し出すまで何も進められない。だからお前達だけでもケリをつけて欲しい……俺のワガママなのは承知してるがな」
 二木霞が探してる『あの人』を、和政は彼女の為に探しているのだ。彼女がその人を忘れられない事や、自分自身もあの人に再会したいが為だけに――和政は〈西方協会〉に所属している。それが二人を互いに敵同士にしてしまったから、全く皮肉なもんだ。だがそんな男だからこそ、なんだかんだ言って妹である佐々木柚実を大事にしてくれるのかもしれない。
 兄はそのまま立ち尽くす。もしかしたら彼女の反応を待っていたのかもしれない。
 だがそのまま、再び舞い降りる沈黙。



 尚起は想う。
 酒上純と会話するたびに思う。彼にとって、この世界は永遠に続く舞台なのだ。この世界を楽しむ為に、彼は自分自身に役を振っている。それがあのおどけた言動、おどけた仕草。好意の言葉が小道具の人物を、演じているだけの男。
―― 一言で良いのに。
 想いを伝えるなら、一言で十分のはずだ。彼はその言葉を何度も繰り返すから、信じられなくなる。一番大事な想いを伝える言葉は限られているというのに、なぜそれを安売りしてしまうのだろう?
――ようするに、中身がないんだ。
 だから軽々しく扱えるのだ。
 彼の言葉は彼の演じる役が話している言葉だ。信じてはいけない。言葉が増えれば増えるほど、その言葉は重さを失って虚飾に変わっていくような気がする。
 彼にとっては尚起もまた、舞台上のただの舞台装置でしかないのだろう。
 そうでなければ、どうして自分を選ぶ? 『酒神の舞台』を使えば、大抵の事はしてのける強力な能力者が、どうして自分のような、女にも成りきれず男にも成りきれない中途半端な存在に興味をしめす?
 二木の事務所の所員だからか? 和政の妹だからか? 『銀の壁』の能力をどこかで使いたいからか?
 どこかにワケがあるはずだ。まだ尚起にはわからないワケが。
――でも
 それを知ってしまったら、自分はどうすればいいのだろう?
 これまでと同じ生活が続くだけなのに、どうしてこんなに不安なんだ?



 和政は頭の後ろをかきながら、だるそうに呟いた。
「まったく……なんで俺がてめぇらの心配しなきゃならねぇんだ。自分の方も手一杯なのにな。まあ、いいさ、酒上が俺に連絡とってきたときから、どうせ一日潰れると思ってたんだ。あいつにしては珍しくまともに連絡してきやがったから、『あいつ』でも見つかったのかと思ったぐらいだったんだぜ? ……だから心配も遠慮もするな、何かあったら呼べ。隣りの部屋にいるから」
 答えない尚起に向かってそう声をかけると、兄は部屋を出ていった。ドアが閉まる音が鳴り響くのを聞きながら、尚起は酒上に関する会話を続けずにすんだ安堵に息をつき――相変わらず彼女を苦しめている頭痛に絶えるべく、眠るという行為に専念した。



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