消えていく街・1-3
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 トレイル・トリルアーガスは、いつもどおり、くたびれた緑のスーツに赤革のバックを抱えた姿で帰宅の路についていた。
 彼は魔術学院幼等部非常勤講師で、本草学を教えている者だ。普段は『白猫のほおずき花店』という花屋を経営している。一応、魔術師だ。滅多な事では魔術を使う気にならないのだが、それでも魔術師である印にスーツを何着か持っている。魔術学院で本草学を教えている以上、それらしい格好をしなければならないと思って、奮発して買ったスーツだ。あれから随分月日が流れ、そろそろ買い替えを検討するべき時期に差し掛かっている――トレイルはよれよれになった襟の生地に触れながら、このスーツを着てすごした日々を思う。
 そういえば、そろそろ自分の誕生日だ。たまに贅沢をして、高めのスーツを作るのも悪くないな……そんな事を考えつつ、帰り道をブラブラと歩いていた彼だが、通りの一角にある骨董品屋のガラス窓に映った自分の顔に気づいて足を止める。黒髪黒瞳という、シラトスでは珍しい色を持っているトレイルの姿は、ガラスに映った人波の中からほんの少し浮いて見えた。二十五歳――と、世間には言っている――自分の頬をつるりと一撫でして苦笑。次の誕生日までには、まだ十代のような童顔がもう少し大人っぽくなってくれればいいのにと嘆いてみる。いまいちスーツが似合わないのはこの顔立ちのせいに違いない……小柄な背丈はもう諦めているから、考えることもしないけど。
――そうだ、誕生日が近いって事は、そろそろタナザワジョチュウギクの剪定をしなきゃ
 魔術工芸品を作るのに必要な薬草を栽培・販売するのがいつものトレイルの仕事だ。
 適度に忙しく適度にマイペースの、ノンビリとした生活。この日々が日常となって、もうどれぐらいたったのだろう?
――その前といったら、毎日なにかしら事件があったからなぁ……
 再び歩きだしつつ、トレイルは過去を思い出して苦笑する。あの当時は己の身の不運を嘆いたものだが、こうやって自分の生活を持ってしまうと、めちゃくちゃな周りペースに流されるだけだったはずの日々が、なんだかとっても楽しいことばかりだったような気がしてしまうから不思議だった。
 実際は……変わり者の仮師匠の下で魔術を学びつつ――その仮師匠が起こした騒動の尻拭いに、半べそをかきながら奔走していたはずなのに。
 仮師匠とは、簡単に言えば教師役の兄弟子の事だ。大勢の弟子を持つ魔術師が、自分が教えるまでもない基礎的な知識を兄弟子に教えさせる時に、師匠役を代役させる意味で仮師匠を任命する。通常、一人に対して一人の兄弟子が付けられる。トレイルの仮師匠も、師匠の信頼厚い――と言えば反論する人も出てくるのは承知の上だが――兄弟子であり、幸か不幸か、同門の中でも変人として有名な男だった。中には、そんな男を仮師匠にさせられたトレイルに同情する者もいたぐらいだ。
 だが、トレイルは彼の元で修行できた事を、そう悪くなかったと思っている。彼は「この子は魔術師にはなれないだろう」といわれていたトレイルに、初歩とはいえ魔術師の世界を見せてくれた最初の人間なのだ。それだけではなく、田舎育ちで大陸の事を何も知らなかったトレイルを旅に同行させ、様々な土地を見せてくれた。花屋をはじめると言った時も、知り合いの業者を紹介してくれた。魔術学院の職を紹介してくれたのも仮師匠だ。
 迷惑する事も多々あったが、感謝することも同じぐらいあったんじゃないかと思う。
――あの人、今頃なにしてるんだろ?
 なぜか仮師匠が『大声で笑いながらどことも知れない路地裏を走って逃げるさま』しか想像できない事に、トレイルは苦笑していた。
 そんな懐かしい事柄を思い出したのは、何かの予感だったのかも知れない。
 いや、もしかしたら……神とまで称された彼らの師匠の、心理操作の技によるものだったのかもしれない。それを確かめる術はなかったが。



「トレイル?」
 ぼんやりと歩いていたトレイルは、聞き覚えのある声に体を震わせた。
「トレイル君だよね、トレイル・トリルアーガス! み〜つけた!」
――まさか!
 居るわけがない。
 というより、冗談じゃない。どうしてこの声、頭上から聞こえるんだ? この通りはアーケードじゃないから、店の屋根の上?
 この地方で――特にシラトスでは、高い場所は嫌われる。特に屋根の上は、だ。マンションなどは床を踏むという動作や屋根の下という事で黙認されているが、空に接する屋根の上は『女神を追放した者のテリトリー』として嫌われている。それぐらい誰だって知ってるはずなのに……嫌がらせか?
 いや……トレイルの記憶が正しければ、この声の主に『追放者のテリトリー』としての屋根の上はふさわしいのかもしれない。
「トレイルくん、私だよ。お〜い、聞こえないのか〜い?」
――いや、聞こえてる聞こえてる。
 聞こえてるから、お願いだからそんなに大声で騒がないで。この辺りはご近所で、いろいろとお世話になっている店も多いんだから。
 トレイルは声の方向に目を向ける。見上げた空は夕闇に赤と黒のグラデーションを広げ、家々の屋根を闇色に染め上げている。
 そんな紅色の空を背に、円筒帽の影絵が浮かんだ。トレイルの大事な『白猫のほおずき花店』の屋根の縁に腰掛けてる、のっぽの人影。フラフラと細長いステッキが振り回されてトレイルに合図している。
「遅かったじゃないか。もう日が暮れちゃうよ?」
 なんで彼が居るんだ? 彼はシラトスに戻って来れないはず。師匠の命令に逆らってまで、彼がシラトスに来るわけがないのに。
「もしかして、私の事、忘れちゃいましたか? ひどいなぁ、トレイル。一緒に旅した仲じゃないですか。君が魔術師になるまで、私がどれだけ苦労したと思ってるんです?」
 忘れるわけない。この声、この言動。
「船長、やめてください! どうやってそこに登ったんですか!?」
「やあ、やっと思い出してくれたみたいだね」
 呑気な声で船長は応え、円筒帽が頭から落ちないよう手で支えながら立ち上がった。
「覚えていてもらえていたようでうれしいよ。君と別れて以来、生活に刺激がなくなってね。爆弾を抱えてるようなスリルがなくて、つまらないといったらなかった。カノンは遊び相手としては申し分ないんだが、君みたいに素直じゃなくて、からかいがいのないヤツなんだ。それにあの道化は、私を楽しませる前に苛つかせる事の方がずっと多いし。コソ泥としては超一流だけど、道化としては三流で――」
「そんなのどうでもいいですから、そこから降りてください。それと、大声を出すのもやめてください、近所迷惑でしょう? 大体、カノンはどこです? あの子をどこに置いてきたんですか? まったく……これじゃなんの為に船長の側に張り付かせてるのか、わからないじゃないか」
 トレイルのぼやきもどこ吹く風。船長は目線をトレイルからシラトス市街に向けた。
「シラトスは変わったね。僕の知っているシラトスは、まるでこの風景の中に消えてしまったかのようだ。見知らぬ街のようで、ここに来る事すら出来ずに迷ってしまったよ」
 その感慨深げな言葉にトレイルは一瞬、自分の怒りを忘れる――が、感想は降りてきてからでも十分聞けるはずだ。見物人が出てくる前に、さっさと屋根から引き摺り下ろさなければ。
「迷った話は後で聞きますから、早く降りてきてくださいよ! 船長の大声じゃ、近所迷惑なんですよ!」
「降りろ? どうして?」
 近所迷惑なんだといった先からこれだ。都合の悪い事は聞かない体質も変わっていないらしい。
「一緒に旅した仲なら、僕の話ぐらい、ちゃんと聞いてくださいよ」
「そう嘆かないで、トレイル。ここは結構見晴らしがいいんだよ、光線の角度さえよければ、大聖堂の鐘の模様まで見えそうだ。お詫びにいい事を教えてあげよう。ほら、三つ先の通りの家具屋で、窓から顔出してる娘が君好みの顔してる。今度ヒマになったら行ってごらん」
 顔を真っ赤にさせるトレイルも見ず、長身のシルエットはゆっくりと辺りを見回した。風に吹き流された二房の前髪が、鋭く細長い線を描くススキの葉のように揺れる。燕尾服の裾も広げられた尾羽のように風にふわりと浮かび上がった。急に静かで落ち着いた言葉が、見上げるトレイルに向かって降り注ぐ。
「空に居るという事は、少し角度を変えて見ただけでも、地上では見つけられなかった事が沢山あるんだということを教授される手段でもある。だから私は昔からこの、風を肌で感じられる高さというものを愛してきたし、その気持ちが揺らぐ事はこの先もないだろう。そして今、このシラトスの街を吹き抜ける風は、新しい風景を告げるかのように私を包んでくれている。そう、これが自由というものだ、解放という名の歓喜の姿。私は誰にも縛られないよ、この街を創ったあの女(ひと)の言葉以外にはね――」
 船長の顔は逆光でよく見えなかった。だがトレイルは、彼がニヤリと笑ったのを確かに感じた。もしかしたら、船長との付き合いの長さと経験からくる思い込みだったのかもしれないが。
 暗闇に浮かぶシルエットは、応える前に胸を張った。ステッキをクルリと回し、自信たっぷりに
「だから君の命令でここから降りるなんて、絶対にイ・ヤ・だ・ね〜!
 あはははははははははははははははははははははははははははっ!
 誰がトレイルなんかの言う事なんか聞きますかってんだ!」
 トレイルは片手を額に当ててうつむく。こめかみが痛い。何年ぶりに聞いただろう、この人の子供のような言動――。
「船長……船長、全然変わってないんですね。もう、なんて言えばいいのか、誰に訴えればいいのやら」
 大きくため息をつくトレイルを見、船長はあごに手をあてて考えるポーズ。
「ん? そうかなあ? 私は随分変わったと思うよ? 前より短気じゃなくなったし、酒量も減ったし、タバコも止めたし。『砂糖と塩』や『火薬とコショウ』を間違える事も少なくなったよ。何よりも――」
「?」
 見おろしてる男はゆっくりと、そして満足げに、トレイルの姿に瞳を動かす。つま先から頭のてっぺんまでじっくりと観察した後、いぶかしげなトレイルと視線を合わせ、恥ずかしそうに帽子で目元を隠した。
「――何よりも、君を一人前の魔術師だと思えるようになったようだ。久しぶりに会って、君がもう子供じゃないんだなって、そう思ったよ。寂しい事だけど嬉しい事でもあるね。だから今回は特別、素直に降りる事にしようか。全ては君の成長に敬意を表して、だ」
 クルリとステッキを一回転させると、船長は屋根の上から飛び降りる。首からさげていた緑色のペンダントが輝き、その光に照らされた船長の体をふわりと支えた。魔術工芸品と呼ばれる、術式と蓄力器を内部に収めた品物だろう。魔術を使えない人間でも簡単に魔術を使えるようになるが、製作する為に専門的な知識と錬金術的手腕が必要になる為、容易に手に入るものではない。ここ魔術都市シラトスでも、専門店で並んでいるのを見る事ができるぐらいだ。
 発動された術式の簡易重力プレートによって物理的な落下スピードを無視し、何かに導かれるように足から降りてくる燕尾服の男。するりと地面に降り立った船長は、帽子を脱いで一礼した。
「大陸商人として、賢者級〈十二師〉が一人、トレイル・トリルアーガス殿にご意見をいただきたく参上しました。この道を失った哀れな商人に、今後進むべき道をご指導願えませんか?」
「や、やめてくださいよ、船長! 船長の方が兄弟子なんだし、僕は船長に――」
 船長は唇に指を押し当てる『沈黙』のジェスチャー。言葉を切ったトレイルに、ふっと微笑みながら
「私はただの商人です。しかもいやしむべき根無し草の大陸商人ですよ、魔術師殿。ここから先は商売の話になりますので、よろしければお部屋を貸していただけませんか? 今日は風が強い。イタズラな風精が、我々の囁きを思わぬところに届けてしまうかもしれませんので」
 慇懃無礼な物言いにトレイルは戸惑う。船長がこの口調で様々な商人と会話しているところを聞いたことはあるのだが、それが自分に向けられる日が来るとは思わなかったのだ。彼の言葉がトレイルへ対する皮肉ではなく、主に船長自身へ向けた自嘲の言葉であることを知っていたのにもかかわらず、賢者級の魔術師は狼狽した。
「え? あ? うぁあっと……部屋を貸すのは構いませんけど……この時間じゃ、『船』に帰れなくなるんじゃないんですか? 泊まっていきます?」
「そうさせていただけたら嬉しいですね。とはいえ、一応、大聖堂の敷地内にテントを張る許可はもらってあるから、無理にとは言わないよ」
「えっと……僕は構いませんよ。ただし、夜間は静かにするって『魔術師の誓い』(呪術書式)で約束してくれるならですけど。そういや、シラトスにはどれぐらいの間、滞在する予定なんですか?」
「私の質問に君がどれだけ答えられるかによるよ。君の答えによっては、明日にでもシラトスを出るつもりさ」
 かつて日常的に見てきたイタズラっぽい笑みを浮かべる船長に、トレイルは自分が若返ったような錯覚を覚える。そして、彼の依頼に対する興味と興奮が沸きあがって行く。
 彼がこんな笑みを浮かべる時は、決まって何か事件が起こっている時だ。良くも悪くも、何か日常とかけ離れた出来事が起こっている証拠である。
 ノンビリとした生活に浸りきっていたトレイルにとって、久しぶりの非日常的刺激への予感を見逃す手はなかった。
 日常に不満があるわけじゃない。ただ、たまに羽目を外したくなるだけだ。船長と一緒に居ればその機会が嫌でも訪れることを、トレイルは経験上よく知っていた。ほんの数日でも冒険してみたくなるのは、人としてそう珍しい感情でもないだろう。
 となったら、善は急げだ。トレイルはポケットの中の鍵を探す。この『白猫のほおずき花店』の二階がトレイルの自宅なのだ。鍵を探り当て、錠前に突っ込みながら
「なんだかよくわからないけど、内密の話があるって事はわかりました。僕に出来ることならなんでもお手伝いしますから、なんでも聞いてください」
「ありがとう、トレイル」
「あ、そうだ! その前に――」
 大事な事を忘れてた。
 トレイルは錠前から手を離す。急いで歓待の印を指先で切ると、おもむろに船長の前で腕を広げる。
「シラトスにお帰りなさい、船長。また会えて本当に嬉しいです、僕の仮師匠殿」
 おそらくシラトスの住人は、誰もこの男の帰還を喜ばない。この燕尾服の商人はそれだけの事をしてしまった男だ。それが例え冤罪だったとしても、シラトスの住人のほとんどがその話を信じているのは確かなのである。
 だからこそトレイルは、彼を歓迎してやりたかった。
 この都市に一人だけでも、事実を知り、彼の静かな帰還を心から祝ってる人間が居るということを、相手に教えてやりたかった。
 抱きつかれた燕尾服の男は、驚いたように動きを止めた。自分の教え子にこんな歓待を受けるとは思っていなかったのだろう。
「困ったな、そうくるとは思わなかった……ありがとう、トレイル。そういってもらえて嬉しいよ、とっても」
 抱きしめてるトレイルから相手の顔を見ることは出来なかったが、ゆっくりと呟かれた船長の返答は、喜びの色にほんの少し震えていた。



「そして神は翼ある者を集められ、おっしゃられた。『私がお前たちを作った理由を話すがよい』翼ある者の一人が進み出て答えた『我々は神の下僕、我々は神の意思を現す者、我々は人を喰らう者です、我が神よ』」
 ケイヴィスは大陸教会聖書を読みながら、目の前のベッドに横たわる主人を観察する。
 彼の主人はずっと不機嫌そうな顔で窓の外を見ている。その姿は聖書の言葉を聞いているようにも、全く聞かずにこの時間をやり過ごそうとしているようにも見えて、ケイヴィスは主人の真意を測りかねていた。
「『よろしい、ではお前たちの為すべき事をするがよい。その為に、私はお前たちに人と同じ姿を与えたのである』神はそう命じられ、翼ある者たちは一斉に飛び立った。彼らは七百日の間飛び続け、人は喰らわれ、両手で数えられるほどになってしまった」
 そこまで読むと、主は執事の持つ聖書に手を伸ばした。乱暴な手つきで数ページをめくり、聖書の二、三節の分を飛ばして読むよう無言で指示する。その肉の落ち始めた白い指先に、ケイヴィスは一瞬ドキリとさせられる。主人の体が、その命が削られていくのを確認してしまったようで、執事は主が必死に隠してるその衰弱ぶりを垣間見てしまったという罪悪感と、主の死が現実的になって行く恐怖に胸を締め付けられた。
 動揺を笑顔で隠しながら、彼は指示された続きを読み上げる。
「……神は尋ねられた『お前はなぜ人を喰らわぬのか?』子供は答えた『人は我々と同じ姿をしているからです』神は続けて尋ねられた『私はお前たち翼ある者を、人を喰らう者として作った。なぜその本性に逆らう?』食べるべきものを食べられず、衰弱した子供は答えた『ならば私は翼ある者ではないのでしょう。人として死ぬなら、私は本望です』その答えを聞いた瞬間、天は轟き叫んだ『これぞ彼女の求めし者。選ばれし者に祝福あれ』そして神は子供を自らの家に呼び、御技の一部を教えられた。これが〈最初の魔術師〉である。
 天が〈最初の魔術師〉の出現を告げた時、翼ある者たちは嘆きに墜落した。彼らは傲慢だったので、選ばれるのは、真に神に仕えるべきは自分であると思い込んでいたからである。神に作られた翼ある者たちは、すでに神の声によって〈最初の魔術師〉が同類である事を知っていた。相手を殺してしまえば自分がその座につけると考えていたので、彼らは同類と見れば殺し合い、喰らい合った。世界は彼らの流す血で真っ赤に染まり、空は彼らの翼で蒼く輝いた――」
「……人は我々と同じ姿をしている……か……」
 かすれた声の呟きに、執事は朗読を止めた。主は変わらぬ不機嫌顔で、その頬は熱の為か、ほんのりと紅潮している。執事が額に手を伸ばすと、主は黙って目を閉じた。掌に伝わってくる体温は、いつもに比べて少し高い。
「お加減がよろしくないようなので、今日はここまでにしましょう」
 セイズは黙って頷くと、居心地悪そうに寝返りをうった。聖書をサイドテーブルの引き出しにしまい、動かなくなった主に振り返る。体が冷めぬように首元にシーツを上げてやると、主人は壁に向かって
「……青い花を見た」
 主人が青色を嫌っていることなど、執事はとっくに知っている。その理由もだ。
 それで不機嫌なのだと察して、執事は顔を苦笑に歪める。だが主人の心中がどれほどにかき乱されているかを考えれば考えるほど、執事の声は硬質で咎めるものに変わった。
「そうでしたか。私は存じ上げませんが、いつ、どこででしょうか?」
「昼にお前の連れてきたメイドが持ってきた。次にやったら追い出すといっておけ」
「承知しました。厳しく言いつけておきます」
 これは盲点だった。彼女、そこまで気のきく娘には見えなかったのだが――全く、タイミングの悪い娘だ。まだ緊張してるようだし、当分の間は何もしないと思っていたのだが、これは執事の読みが甘かったらしい。
 それにしても、よりにもよって青い花とは。この季節、他の色も飽きるほど咲き誇っているというのに。
 ご主人様は呪わしいほど青の色に好かれているのだろうか。
「……なんであんな女を連れてきたんだ? 窓拭きすらまともに出来ないぞ、あの女」
「おわかりになりませんか?」
 無反応の背中。ケイヴィスはシーツ越しに主人の肩を優しく掴む。
 さて。心中穏やかでないご主人様の為に、思考に少し隙間をつくってやらなければ。人間、思いつめるとろくな事が無い。心のガス抜きするのも、彼の管理の全てを任された執事の自分の役目だ。
 第一、この主の心が過去に浸っている姿など見たくはない。
 執事は肩を掴む手と同じように、出来る限りの優しさと悪意をこめて、主人の耳に囁く。
「貴方ほどの魔術師が、私のような下賎の者の意図がおわかりにならないと?」
「離せ」
「お答えになってませんよ、セイズ様」
 あえて意地悪く応じると、主人は背を向けたままきつい口調で再度「手を離せ」と命じた。執事はその命令を無視し、主人の体を仰向けに引き倒す。
 服用している薬の副作用だろうか。色が抜け、白金になってしまった髪の奥から覗いてくる、澄んだエメラルドの瞳。それが執事を映し、疑念に細められる。
 主の細い首筋に指を滑らせると、執事を睨む眼差しが険しくなった。
「この手はなんのつもりだ」
「お体の調子を確認してるだけです。何か深い意味があるとお思いでしたか? 私がご主人様に何かよからぬ事をするとでも?」
 ケイヴィスは枕に沈んだ主人の表情を上から覗き込む。出来るだけ笑顔を崩さぬように、細心の注意を払いながら。
「……やだな、ご主人様。まさか何もわからないのですか、私の心を読むことができないと……? 魔術師もこうなれば普通の人間と同じなんですね。いや、それ以下なんでしょうか?」
「ケイ、いい加減にしろ。お前は私の執事だ、お前に私を評価するよう命じた覚えは無いぞ」
「はい、うかがっておりません。ですが、私はご主人様の身体と精神をお守りするべく仕えている者ですので、私なりのやり方でご主人様の精神をお守りしようかと思いまして」
「お前のやってる事は、ただの嫌がらせだ」
「本当にそう思ってるなら、もう少し抵抗なさったらどうですか? これはいつものゲームです、そうでしょう?」
 そして熱の出てきた額に口付ける。
 汚いものを見るかのように執事の目を見返したセイズは、黙って舌打ち。そのまま目を閉じてしまった。
 ケイヴィスは覆いかぶさっていた主人の体から身を起こす。どうも今日はうまくいかなかったようだ。
「いつもの戯れにも興じてくださらないとは。本当にお加減が悪いようですね」
 扉のところまで引き下がり、頭を垂れながら
「ご機嫌を損ねてしまったようなので、私は退室させていただきます。御用の際にはメイドのマーセティアが――」
「ここにいろ」
 ケイヴィスは唇の動きを止める。その執事に向かって、病人は続けた。
「この部屋にいろと命じたんだ。聞こえなかったのか?」
「よろしいのでしょうか、ご主人様」
「青い花を見た。お前ならそれだけでわかるだろ? 一人でいるのは嫌だ、お前がいる方がまだ我慢できる。仕事が残ってるならこの部屋で作業しろ」
「……承知いたしました。では必要な物を取ってきますので、しばしお待ちください」
 ドアノブに手をかけた瞬間、背後から
「ゲームなんだろ?」
「え?」
 振り返り見ると、主人は目を開けていた。ぼんやりと窓の外を眺めながら続ける。
「あのメイドも、お前のゲームの駒なんだろ? お前が執事をしてるのと同じだろ?」
 ケイヴィスは再び扉に向かい、引き開けながら一度息を吐いた。一瞬真顔になった表情を笑みに変える為に。
 満面の笑みを浮かべて、ケイヴィスは主に振り返った。
「ええ、そうですよ、ご主人様。では、失礼します」
 執事はそのまま扉を閉めた。



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