消えていく街・1-6
←PREV | INDEX=消えていく街 | Home | NEXT→
1-1 | 1-2 | 1-3 | 1-4 | 1-5 | 1-6 | 2-1 | 2-2


 私が薬箱とタオルを持って戻ったのは、ちょうどセイズさんがズルズルと力を抜いて、自分の首を絞めているケイヴィスさんの腕から手を離した時だった。
 ケイヴィスさんは、セイズさんが気を失ってしまったのを――自分も息が続かないっていうのに、セイズさんの頬をペチペチ叩いた、念の入れようで確認して――そこでやっと、痛そうに腕の傷を押さえた。
「イタタタタ……」
 弱々しい声は、見てるだけでも痛そうな真っ赤な血の色よりもずっと、私の膝をブルブルと震わせた。
「マーサ、セイズ様に、毛布を……掛けてください」
 息を整えながら、ケイヴィスさんはセイズさんの真っ白な顔に浮かんだ汗を拭う。まるで狼の遠吠えみたいな声をあげて暴れていたセイズさんを、ケイヴィスさんは泣きそうな顔で眺めてた。
 私は震えながら――だってドジな私の事だ、毛布を掛けようとした拍子にご主人様を起こしてしまったら……そしてまたさっきみたいな大騒ぎになったら、目も当てられない――セイズさんの体にソロリソロリと長い毛足の毛布をかぶせる。もちろん、毛布の裾やセイズさんの足を踏まないように精一杯の注意を払って。
 真っ白で長い毛布の毛に埋もれた真っ白な顔のセイズさんは、まるで冬の山で遭難した人みたいだ。
「うー……こいつはしみるなぁ」
 囁くような声に振り返ると、ケイヴィスさんはさっさと私の持ってきた薬箱を開けて、傷口に腕の軟膏を塗りつけていた。ヨロヨロしてはいるけれど、もういつも通りの呼吸。やっぱりこの人、見かけより体が丈夫だ。
「マーサ、果物ナイフを拾って。今度からはちゃんとしまい込んでください。刃物は絶対にご主人様に渡さない事。いいですね?」
 この人は何度もこんな事をして来たのかな? 軟膏の上に当て布をして、手早く包帯を巻いてる姿なんて、まるでお医者さんみたいだ。
 いやいや、感心してる場合じゃなくて。本当なら私が手当てしてあげなきゃならないのに……あああ、もう終わっちゃった。
「マーサ、返事は?」
「あ……は、はい。すみませんでした」
 セイズさんがナイフを持って来いと命じた時、まさかこんな事態になるとは思えなかったけど……それでも、私が持ってきたナイフでケイヴィスさんが怪我をしたのは事実だ。
 謝ってすむ事じゃないけど、頭を下げるのは当たり前だ。
 そして泣きたい。何事もなく済んで、ほっとした。情けなくて、悔しくて、そして怖くて……いろいろ混ぜ込んで、泣きたい。
 そういや、昼間もこんな気分であのお花を拾ったんだっけ――そんな事を思い出しながら、うっすらと血曇りの残ってる果物ナイフを拾い上げた。あの背の高い人――ケイヴィスさんに似た人は、ちゃんとお花屋さんに辿り着けたのかな? 辿り着けなかったら、ますます自分が情けなくなる。今日きちんと出来た仕事が、一つもなくなっちゃうもん。
 ケイヴィスさんは、まだ床の上に転がっていたセイズさんを軽々と抱き上げてベッドに横たえた。ケイヴィスさんが力持ちなのか、セイズさんが痩せ過ぎなのか。
 腕の傷は大丈夫なのかと思ってぼんやり包帯を見ていたら、みるみるうちに真っ赤に染まっていく! 全然効き目ないじゃない、あの軟膏! 嫌だ、すごく痛そう……でもケイヴィスさんは平気な顔してる。本当はどっちなんだろう? 痛いのかな? 痛くないのかな?
 ケイヴィスさんは私の考えてる事なんてもちろん知らないから、私の前に、いつも介護の時に使っている木製の椅子を引き出して座るように促した。
 でも私の体は膝も腰も緊張にガチガチに強張っていて、満足に腰掛けることすらできない。びっくりした。自分の体が、こんなに繊細だったなんて!
 ケイヴィスさんが見かねて手を添えてくれたから、ゆっくりとだけど座る事ができたけど……もしあのまま自分の部屋に戻ってしまっていたら、着替えもできなかった。
 私がちゃんと座れたのを確認すると、ケイヴィスさんは深々と頭を下げた。
「申し訳ありませんでした」
 一瞬、私とセイズさんを間違えたのかと思った。いや、私じゃあるまいし、椅子とベッドの方向を間違えて頭を下げるワケがないんだけど。
「ご主人様の病気について、貴女にはもっと早めに、もっと詳しく教えておくべきでした」
 そういえば。ケイヴィスさんは最初の時に「染るような病気では無くて、体質のようなもの」ってしか言ってなかったっけ。私も納得して――病気の内容よりも、何日働けるかの方が気になっていてそれどころじゃなかったし――それっきり、セイズさんの体については知らずにいたんだ。
 ケイヴィスさんはずっと頭を下げたまま動かない。
 ……。
「……あ、ケイヴィスさん、もしかして……私?」
「そうとも言います」
 頭を下げたまま静かなお返事。ウソ、こんなシーン考えもしなかった!
「す、すいません。頭をあげてくださいっ! 私、全然気にしてませんからっ!」
 自分が謝られた事なんてないから、私が返事しない限り謝罪を受け入れた事にならないんだって気づかなかった!
 恥ずかしさと申し訳なさで頬を両手で押さえる。熱い。きっと真っ赤だ。昔からそう。子供みたいだから嫌いなんだけど。
 ケイヴィスさんはゆっくり顔をあげると、私の顔については何も言わず――どちらかというと事務的に話し始めた。
「かつてご主人様は、上風切羽ギルドでも高位に位置する魔術研究者でした」
 この魔術都市シラトスには、六つの魔術師ギルドがある。
 破壊や物質の変化を中心にした魔術体系を中心にした上風切羽ギルド。
 幻影や遠話のような実利的な魔術体系を中心にした中風切羽ギルド。
 治療と魔物の類型の研究を中心とした下風切羽ギルド。
 鉱物を利用した魔術工芸を製作する右尾羽ギルド。
 動植物を利用した魔術工芸を製作する左尾羽ギルド。
 そして、シラトス魔術学院が主催する総合的で学術的な研究機関である魔術学院ギルド。
 久しぶりに指折り数えると、凄く懐かしい。
 自分もついこの間まで、将来は六つのギルドのどこに所属しようかと考えていたのに、初めて聞いた名前みたいに聞こえる。
 悲しい事なのか、今の仕事に慣れたという意味では喜ばしい事なのか、今の私にはわからないんだけど。
 それにしても、線が細そうなセイズ様だけに、上風切羽ギルドに所属していたというのは驚きだ。上風切羽ギルドの人は、暴力的で怖い人ばかりだと思っていたから。
 ……いや、十分怖い人か、セイズ様は。ついさっき、目の前で見た通りに。
 思い出したらまた膝がガクガクしてきた。
「マーサは、上風切羽ギルドと聞いて思い出せる人はいますか?」
 あれ? なんだか、急に歴史の授業を受けてるみたいになっちゃった。なんで?
「えっと……『〈苛烈なる雷光〉のナルピン』とか、『〈見えざる劫火〉のミンダ』とか、ですか?」
 ケイヴィスさんの声の調子からすると、きっと真面目な話を始めるつもりだったんだろうけど……私の答えを聞いた途端、笑いを吹き出した。あ、やっぱり? 私の言った二人って、子供向けの御伽噺のモデルで有名な人だもんね。ナルピンがたった五人でお城を攻め落とすお話なんて、すっごく好きだったけどさ。何度も、お母さんに絵本を読んでってねだった覚えがあるもん。
 でも、また子供みたいなこと言っちゃったかな? ……反省。
「もっと有名な人がいるんですけどね」
 ケイヴィスさんはいつものニコニコ顔に戻りながら、少しだけベッドの上のセイズさんを気にした。
「そうなんですか?」
「ええ、凄い大物が」
 誰だろ? 私、よく大きな看板でも見落としたりするからなぁ〜。
 待ちきれなくなったのか、ケイヴィスさんは片手を伸ばして、大陸教会式の尊敬を表現する仕草をした。
「賢者級〈十二師〉が一人、ライル・カイデン様です」
「あれ? その人って……確かシラトス王室の?」
「はい、顧問魔術師だった方です」
 私は自分の勉強不足を悔やみながら、ケイヴィスさんを眺める事しかできなかった。
 ライル様と言えば、今のシラトスを作ったといっても過言じゃない人だ。二百年前の『シラトスの岩落し』の時には、後に教皇になったトゥラスト一世と、東国一の義賊になるファン・ライジと一緒に、シラトスに落ちるはずだった巨大な隕石を粉々に砕いて、シラトスどころか世界を滅亡から救った凄い魔術師。
 トゥラスト一世の子供の一人をシラトスに残して、シラトス王室を作ったのもこの人だった。ファン・ライジの義賊行為を陰から支援していて、そのお陰で大陸横断街道の整備が進んだし、東国のイメイ教じゃなくて大陸教会が街道を管理するようになったのは、大陸教会の聖書を編纂した一人であるライル様が街道の整備を一手に引き受けたお陰だとも言う。最終的には大陸教会に通行税が入るようにしたってわけで、枢機卿の連中もライル様には頭が上がらないって聞く。
 それになんて言ったって、大陸教会の女神様のお弟子だし。
 何千年も生きてるし、悪い人は見ただけで目がつぶれるほど綺麗だっていう。
 ……そんな凄い人が、魔術師ギルドに所属しているなんて考えられる? ないよねぇ?
 それにしても、ケイヴィスさんはホントに有能な執事さんだ。何も言ってないのに、私の顔を見ただけで聞きたい答えを教えてくれた。私の頭の中と顔が、何を考えているのかわかりやすいだけなのかもしれないけど。
「魔術師ギルドも、ライル・カイデン様が作られたが為に、最初に設立された上風切羽ギルドの最初の登録者として、ライル様の名前が載っているんです。そして、最初のギルド長になられた。今でも、上風切羽ギルドの長はライル様であって、世間一般で認識している上風切羽ギルド長というのは、ギルド長代行なんですよ。だから、ライル様は上風切羽ギルドに所属している有名な魔術師の一人なんです」
 納得。ケイヴィスさんは、セイズさんに関係あることはなんでも知ってるんだなぁ……。
「ご主人様はある日、そのギルド長としてのライル様に呼び出されてこのシラトスに来訪されました。ご主人様は高位の魔術師でもありましたし、ギルドの中でも貴族の会合でもライル様とも面識があったので、呼び出しに対して特に気負う事もなかったと覚えています」
 ニコニコしてるけど、どこか遠くを見てるような目でケイヴィスさんは囁くように続ける。
「用件というのは、とある魔術の実験の手伝いでした。私は魔術師ではありませんし、その実験室に立ち入ることを許されませんでしたので、何が起こったのかわかりません。実験が成功したのか失敗したのかさえもわかりません。わかっていたのは、その時の帰り道でも、セイズ様にはなんの変調も見られなかったという事だけです」
 領地のジャスパに戻った時にも、何もなかったのだとケイヴィスさんは言うのだ。
「最初にわかったのは、セイズ様が魔術を使う度に腹痛を訴えるようになった事でした。そのうち、少しずつ食が細くなって、些細な事で立腹されるようになりました。医者に見せても特に目に付く病魔は見当たらず、気持ちを落ち着かせる薬湯のレシピを処方されるだけでした」
 そりゃ……このシラトスに滞在して治そうっていう病気なんだから、田舎の医者にわかるわけがない。
 大体、そんな怪しげな魔術の実験の結果だなんて、シラトスの医者も魔術師もわからないんじゃないのかな?
 しかも、相手はあのライル様なんだし。
「ご主人様の体重が、かつての半分近くになった頃でした」
 ケイヴィスさんはそこで、辛そうにため息をついた。この人は本当に、心の底から、セイズさんに尽くしてる執事さんなんだ。まるでたった今、自分が同じ病気になったみたいにうなだれてる。
「ご主人様は、ご自身があのライル様の記憶を持っている事に気づいたんです」
「記憶?」
「ええ。最初はぼんやりとした夢みたいなものでした。ですが、何度も思い出すうちに、それを本当だと確信するようになりました」
 ケイヴィスさんは首を振って、自分の言葉を否定しながら続けた。
「もちろん、それが本当にライル様の記憶かどうかを確かめる術はありません。魔術師ギルドだって確認する術はないといいました。ですが、ライル様しか知らないだろうと思われる事さえも、ご主人様は思い出されてしまった。例えば、ギルド長の机の隠し棚と、その中身が誰からの手紙で何の用件であるのかとかね。もちろん、上風切羽ギルドに問い合わせました。返事は……信じられない事に正解であると。そしてそれがどういう事になるのか、わかりますか、マーサ?」
 そんな雲の上の人たちの事なんて、わかるわけ、ない。
 でも私なんて、いつだって自分の昔も思い出せないのに、もう一人分の昔の事が――それも千年単位で生きてる人の記憶が私の頭に詰め込まれたら……そりゃ、生きていけないかも、とは思う。私だったら思い出す前に詰め込みすぎちゃって、頭が破裂しちゃうかも。
「まず、ギルド側はご主人様の体について、口外しないように釘をさしてきました。ライル様が二人いるような状況になってるわけですから、上風切羽ギルドの秘密がご主人様の口から漏れる事を恐れた為です。その為に、ギルドはご主人様がシラトスに滞在する費用と治療費を全額負担すると約束してくださいました」
 なるほど。確かに偉い人がバラバラに二人もいたら、どんな命令を聞けばいいのかわからなくなったりするもんね。一箇所に集めておいたほうがいいのかも。
 そして納得。この人たちがこんな高いお値段のお部屋――というか、フロアを借りれる理由が。ギルドのお金が資金源なら、いくらでも良い部屋に、何日も滞在できるわけだ。そして、ちょっと中途半端なお値段のこのフロアを選んだのは、もっと高い部屋を借りたら目立ってしまうからかも。秘密にしておきたいんだから、あまりにも目立つような生活はできないんだろう。
「そしてもう一つ。こちらの方が私達には問題なのです」
 ケイヴィスさんは私の手を急に掴んで――あんまり急だったんで、驚いた私が手を引っ込めようとしたぐらい。でももちろん、ケイヴィスさんは振りほどけないほどしっかり手を握ってきて。
「ご主人様は、少しずつ、ご自身がライル・カイデンその人だと思い込みはじめてきてるのです。さっきの錯乱も、ご自分がライル様で……ライル様の仇の夢を見ていたからです。自分の命を奪われると思うようなんですね。今回ほどの大暴れは珍しくて、軽い錯乱はよくおこしてるんですが……その度に、病状は進行しています」
 ケイヴィスさんは私の手を自分の額に押し付けた。
 熱い。さっき触ったばかりの私の手なんか比べ物にならないほど。この人も風邪か何かひいてるんじゃないかと思うぐらい。
 でも実際は――顔をあげたケイヴィスさんの顔を見て、そんな風に思った自分を情けなく思った。だって、ケイヴィスさんは、うっすらと涙を浮かべていたんだもん。この人が真剣にセイズさんの事を私に説明してるのに、どうして私は余計な事ばかり考えちゃうんだろう?
「マーサ、ライル様はご自身の命を狙う輩から身を守る為に、ご自分の身の回りに非常なこだわりを持っていました。私達の務めは……その、ライル様に成りきってしまわれたご主人様の心と体を、出来る限り慰める事です。ご主人様の周りにいる私達は、決してご主人様を傷つける存在ではなく、安心して治療に専念していれば良いのだと納得してもらう事です」
 ケイヴィスさんは一度、私の目を確認した。
「でも……マーサ、あんな状態のご主人様を見たばかりの貴女には、無理にとは言いません。覚悟してあの方に仕えている自分ならともかく、ほんの数日前に契約した貴女には、無理に残っていただこうとは思いません。怖かったでしょう? 当たり前です、私も怖い。だから無理強いはしません。現に貴女の前に雇った人は、あの発作が出てすぐに契約を破棄しました。だから貴女も自由にしてください……もちろん、自分としては残っていただきたいのですが」
 初めて私は、セイズさんがケイヴィスさんを怒る気持ちがわかった。
 この人は基本的に、他人を自分の思い通りに動かしてしまうんだ。私がどんな気持ちでいるのか、確実に知っている。そして、その気持ちに沿って提案してくる。ずるい。いや、私の考え方が単純なんだろうけど。
 ここに残るのは怖い。だけど……辞めたくない。またこんな短い時間で辞めるなんて、悲しくて悔しくて。
 それに……次に私を雇おうと思う人が、ケイヴィスさんみたいにいい人だとは限らないし――ちょっぴり意地悪なところがあるかもしれないけど、ケイヴィスさんはいつも文句一つ言わない人だし。
 どうしようか迷う。
「一つ、聞いてもいいですか?」
「なんでしょう?」
「どうして、私を選んだんですか? もっとちゃんとしたメイドさんはたくさんいたのに……」
 私みたいに、何をやらせても不器用なメイドじゃなくて、ベテランで看護の経験もある人の方が適任だったと思うんだけど……特に、病気で気難しいセイズさんには。
 今日までの四日間で、ケイヴィスさんだって私がどんなに使えないメイドだかわかってると思うし、この機会に取り替えようと思ってもいいはずだ。それを、残って欲しいだなんて。
 ケイヴィスさんは一瞬ためらった後、恥ずかしそうに笑った。
「貴女が前に働いていたテス卿のお屋敷に、行った事があるんです」
 それは……どこだろう? すぐにやめさせられる屋敷が多いから、名前だけじゃわからない。情けないけど。
「貴女はね、お屋敷の中を駆け回ってた子供達の飛ばした帽子を、庭の池の中から拾い上げようとして落っこちてたんです。ボートの上からね」
 その時の事を思い出したのか、ケイヴィスさんは笑った。
 私は私で、その時のことを思い出してうつむいた。確かあの時は、そのまま溺れそうになって。ボートに掴まろうとしてボートをひっくり返して、ボートで待ってた子供達どころか屋敷のご主人もずぶ濡れにしちゃったんだっけ。ご主人は直りかけだった風邪をぶり返してしまったし、拾った帽子は泥と掻き裂きだらけで使い物にならなくなっちゃったし。
 あのお屋敷は他のところより雇われていた人がたくさんいたせいか、ちょっとした不手際に対しても優しくて、例のボート事件の事も怪我も何もなかったから構わないと言ってくれたんだけど……私が風邪をこじらせて長い間休むしかなくて、結局すぐ辞めてしまったはずだ。
 まさか、そんな場所でこの人と会っていたなんて!
 あんな無様に溺れていた姿を見られていたなんて! 鼻水が文字通り糸みたいに垂れ下がって、私のいる間ずっと、あの屋敷の子供達の笑いの種にされたぐらいなのに。
「貴女は一生懸命だった。簡単には忘れられないくらい」
 あ、やっぱり? 鼻水の事?
 ところが私の予想に反して、執事さんは私をまっすぐに見た。笑顔と不意の真面目な視線にドキリとするぐらいに。
「だから、ご主人様に、貴女の一生懸命な姿を見せてあげたかったんです。見てるだけで元気になる貴女の一生懸命な姿を、です。そして、ご主人様にも元気になってもらいたかった」
 良く考えれば、とても失礼な事を言われているような気もするんだけど、その時の私は、そこまで考えられなかった。
「貴女にはここにいて、一生懸命働いてくれればそれだけでもいいんです。そして、できれば笑っていてもらいたいんです。ご主人様に少しだけでも、笑顔のある明るい世界を見せてあげたいんです。私と二人だけでは、そんな余裕も隙間も出来ないんで。だから、私達には貴女が必要なんです。貴女のような女性が」
 私をセイズさんに見せたかった。答えとしてはそれだけで十分で。そうかそうかと納得して。
 私もなんだかやっと、自分にできる事を教えてもらったみたいで嬉しくて。少なくとも私は、もうしばらくここで働かせてもらえるんだってわかって。ケイヴィスさんは、そのつもりだからライル様とセイズさんの事を私に話したんだって気づいて。
 メイドになって以来、私にそんな言葉を真剣に告げてくれた人など、もちろん、いない。
「だから、ここで私と一緒に働いてくれませんか、マーサ?」
 この人はやっぱり意地悪なんだ。きっと。
 そこまで言われたら、返事なんて決まってるじゃない。




 騒動で汚れた床の掃除などを簡単にすませ、マーサが自分に割り当てられた部屋に戻った後。
 ケイヴィスはセイズの深い寝息を確認すると、主人の腹部の肌に直に触れて熱を確認した。他の部位より確実に温度を上げているそこは、ケイヴィスの眉を険しく歪めさせる。
 下風切羽《アンダー》の連中め、処方が全然効いてないじゃないか。
 強く押せばぐにゃりとのめり込んでしまいそうなほど柔らかい肌に、ケイヴィスはゆっくりと自分の耳を押し当てる。
 音。血液の流れる音と、主人とケイヴィス自身の息遣いだ。

 どうもマーサが来て以来、調子が狂っている。
 ケイヴィスが想像していた以上に、彼女の行動の展開が速いのだ。情報が漏れるのを警戒して、ライルの事を話すのは、もっと後にするつもりだったのに。
 とっさの事で、用意しきれてなかった作り話を語る事になってしまったが、彼女はちゃんと信じてくれただろうか?
 彼女の口から情報が漏れる事だけが怖いが、あの分ならしばらく大丈夫だろう。様子を見て、少しずつ情報を追加してやろう。語れば命にかかわる事だと、ゆっくり理解させてやり、頼れるのはこのケイヴィスだけだと考えるよう仕向けてやれば、すぐに逃げ出すような事もないはずだ。
 それにしても、彼女の行動が裏目裏目に出るだけのただの偶然である事はわかっているのだが、この危険な綱渡りの状況下で、こちらの予定通りに行かないのは不愉快だ。
彼女にはあんな風にいっておいたが、彼女が現実に請け負うべき仕事はあんな奇麗事じゃない。主人の事だ、彼女の手際の悪さに直接口を出さずにはいられまい。過分なストレスはやがて主人の体を蝕む病魔と繋がり、彼女の一挙一動に怒りを感じるはず。視線は自然に彼女へ向かうだろう。もちろん、彼女を叱り付けることで主人のストレスが発散されるなら、それはそれで良い事に違いない。
 そして、彼女にかかりっきりになれば、ケイヴィスの動きに注意を払う暇もなくなる。妙な勘繰りもされずに済むだろう。『準備』に忙しい事を悟られる事もなくなる。
 その為にも、主人にはもう少し生きていてもらわなければ。自分もギルドも、ここまで進めてきた準備が無駄になるというものだ。主人の体が悪化しているのは、想定の範囲内ではあったが、やはり不安は残る。
 やっと、ここまでこぎつけたというのに、肝心要の人物がいなくなってしまっては、何もかもがおしまいだ。
 ただ……下風切羽の連中は、気になる事も言っていたはずだ。ギルド長が代行を呼び出して、何事か支持を出したと。代行が青い顔で長の部屋から出てきた姿を、側近の連中が何人も見ていると。
 このタイミングで下風切羽の連中が気づいたとなれば、少々厄介な事になるかもしれない。ギルド同士の争いで住むなら構わないが、この状況に気づいた下っ端の悪意で、処方される薬に何か混入されるような事になったら……さすがに対処のしようがない。
 そろそろ別に薬の入手先を探しておいた方が良いのか? ジャスパの方には魔術学院出の医学者を手配済みだが、自分がシラトスで魔術学院《アカデミ》に出入りするのは危険だ。監視されてる危険があるのだから、下手に必要以上の行動をとらない方がいい。
 それに……天下の魔術学院だ。自分の正体に気づかれては、上風切羽《アッパー》にも下風切羽《アンダー》にも迷惑がかかる。そして……ライル・カイデンその人にも。

 やがて執事は主の体から身を起こし、丁寧に毛布をかけてやった。
 大事な、守るべき体だ。忙しくなる前に、今のうちだけでもしっかり休めてもらわなくては。主人の肌から手を離すのは名残惜しいが、きっとまた、以前のように触れ合う事を許されるはずだ。こんな風に惨めな気分で隠れて触れずとも。今のうちは我慢しなければ。
 さて、今夜の事も含めて、大至急手紙を書かなければならない。今週分の報告をしなければ。
 中風切羽ギルド《ミドル》のハンヌ事務長が、しびれを切らして待っているはずだ。
 腕の包帯をはずして確認。自分用に作ってもらった特別性軟膏のお陰で既に傷はふさがりつつあるが、明後日までは包帯を巻いておこう。
 あのメイドにまで疑いをもたれては面倒だ。





←PREV | INDEX=消えていく街 | Home | NEXT→
1-1 | 1-2 | 1-3 | 1-4 | 1-5 | 1-6 | 2-1 | 2-2
copyrights (c) 2001-2017 suzu3ne@CloudCollector'sVector(2CV) All rights reserved.