消えていく街・2-2
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 トレイルの小屋までの道のりを、一行はほとんど話さずに進み続けた。十五分の道程は、ほとんど変化のない広い草原のお陰で更に長く、酷く苦痛に感じられたが、緑色の瓦を敷き詰めた小屋の屋根が見えた時までの事だった。我知らず緊張していたトレイルの安堵のため息に対し、船長がのんびりとした声で「あれが君の小屋かい?」と尋ねたのがきっかけになったのだ。
「思ったよりちっさいですな」
 ターキスが指を広げて景色と合わせ、距離の見当をつけようとする。
「よく見ろ、ターキス。横にあるのはカイライグルミだ」
 ヒルラの囁きにギョッとしたターキスは、小声で前言撤回と呟いた。カイライグルミは北方の森林地帯に群生する木々の一つで、その巨大な洞と木の実は北の街道を旅する者の宿にも食料にもなるというありがたい樹木だ。名前の由来は、東方六十州の一つにおいて、とある策士が自分そっくりの人形をこの木で大量に作り、死後何年も生きていると見せかけた、またはその人形に魂を乗り移らせて長い間采配をふるっていたという昔話からである。
 船長もターキスにならって建物や木のサイズを測りながら
「カイライグルミがこの辺で育つようになってから、どれぐらいなのかな?」
「三十年ぐらいです。あの木は北の教会からの寄進で、数年おきに移動させながら運び込まれたものらしいですから、正確な樹齢はわからないんですけど」
「各地で気温が低下しつつあるってのは本当なんだねぇ」
「ええ。でもアオイロセイチョウソウの分布が東に移ったのは、ダブの山脈で冷気の南下が止められてるからって発表した学者もいました。局地的にはまだ昔と変わらない環境が残っていて、それがかえって気候図や生育分布図を作成している人たちの悩みになってるみたいです」
「となると、ダブより東または南の方は当分温かいままなのかな?」
「仮説でしかないから断言はできませんけど、そうなるかもしれませんね」
「ではあちら方面に、この辺りの植物を移動しようって輩も出てくることになるね。少しでも昔の環境に近い土地で育てたいっていう、たとえば君の教え子みたいな人が」
「……そう、なるんでしょうね。学院ギルドの閉鎖空間棟、それも植物区画を借りる事ができないなら。でも東方に移動するにしたって、途中で――」
「私の船の倉庫なら閉鎖空間を発生させられる。君の教え子リストがあれば十数年は食べていけるさ」
 何を考えてるのか、嫌になるほどわかる言葉だ。本来の目的そっちのけで商売の事を考えだすなんて、どこまで本気でライル捜索の密命を考えているのだろう? 師匠からの命令である以上、本気でやっているのは確かなのだが。
 無言と呆れ顔というトレイルの返答に満足したのか、何度も頷く船長。
「話は戻って。あのカイライグルミ、三十年どころかその十倍ぐらいの年輪があってもおかしくないんじゃないかな? 切り倒すときには私に連絡してくれよ、あれだけ立派なら、どこにだって売りつけられる」
「いやいや、先生。いらないなら是非学院ギルドへ!」
 ターキスとヒルラが、形相を変えてトレイルに食ってかかる。
「龍脈紋と気候の変化による植物群の変遷は、学院ギルドの薬学部にとっては死活問題の研究です! あんなにうまく定着した巨木の類は、教会に独り占めさせるわけにはいきません! 今すぐにでも学院ギルドへ!」
 寄進の品だからそう簡単に処分するわけにもいかないし、処分するつもりもないトレイルだ。しかし、今現在、周囲からの視線と言葉で切ることが決まってるかのように話されると、やっぱり切らなければならないのかと考えてしまう優柔不断なトレイルだったりもする。
 特に、普段はおとなしいヒルラの断言口調にタジタジとしながら、トレイルはチラリと船長に目をやる。
 船長は面倒そうに、鼻息荒い二人の若き研究者を眺めた。そして、一言。
「でも譲らないからね」
 再び頭を抱えるトレイルだった。


 二時間近くかかってまとめた荷物を、日頃全く手をつけていない小屋の中に運び込むには、その倍近くの時間を要した。必要最小限の手入れをする時以外は訪れない小屋の中は、まずは掃除しなければ蜘蛛の巣と埃で息をするのも一苦労で、次は今まであった植物や蔵書の整理をして新しい荷物の運び場所を決めなければならず、そして小屋とは名ばかりの広い邸宅のあちらこちらでは、自由に出入りする小動物や植物の蔦に征服された小部屋がいくつもあったからだ。
 トレイルと二人の若者が悪戦苦闘しながらそれらと戦っている間、船長は大きなカイライグルミの大枝の上で横になり、はみ出した足を気分のままブラブラさせていた。
 一度だけ、トレイルが埃だらけになってしまった袖を叩きながら
「船長――」
「私は勘弁させてもらうよ」
 あまりの即答ぶりに、それ以上は言えなくなるトレイルだったりする。スゴスゴと小屋の中の作業へ戻ったトレイルに、イスマルヘビナシヤシの大きな鉢を引き摺っていたターキスがため息。
「ヨワヨワですがな、先生。もうちょいガツンといってやらなぁあきまへんがな。あんだけガタイがよけりゃ、ワシの二人前分は働けまっせ?」
「うーん……でもちょっとだけほっとしてもいるんだよね。船長は大雑把だから、なんにも考えないでどんどん運んだり、鉢や薬草の一つや二つ握りつぶしても平気だろうし」
「そりゃ勘弁ですわ。売りモンだめにされるぐらいなら、寝ててもらうしかありまへんなぁ」
 ターキスがやけになって笑う傍らで、ヒルラが首を捻る。
「っていうか、あの人、誰なんですか?」
 思わずトレイルとターキスはヒルラを凝視。
 よく考えれば、船長がやって来た時のヒルラは荷馬車を取りに中風切羽ギルドへ赴いていたのだから、特に紹介もしなかった以上、船長については何も知らないのだ。東方の雑技団と暴れていたことすら、ヒルラは知らないはずである。紹介を忘れたトレイルとターキスも間抜けだが、そんな状況で知らないまま黙って船長を同行させて来たヒルラもヒルラだ。肝がすわっているのか無頓着なのか。
「トレイル先生の仮師匠だったお人や」
「では〈十二師〉?」
 同じ会話を先刻したばかりだよなぁと、トレイルは天井のシミを眺めて思った。
「うんにゃ、もっとスゴイ奴や。〈十二師〉じゃない〈十二師〉なんやて」
「じゃあ、幽霊? 軍神ミタララとか国無王ゲイヴとか?」
 どうしてそうなるんだろうかと、トレイルは教え子の発想を本気で心配した。ヒルラはターキスと違って無口な分、長い間教師として付き合ってきたトレイルでも何を考えてるのか掴みかねる部分があるのだ。
「アホか。そんな奴がなんで昼間から化けてでなあらへんのや?」
「だってあの人、人間っぽいけど人間じゃないし」
「『人間じゃ』って――」
 ターキスは笑いとばそうとしたのだろう。だがすぐにその言葉の意味に気づいて硬直した。
 もちろん、トレイルも心中穏やかではない。
「わかるの?」
「わかりますよ」
 あっさり認めて、ヒルラは
「私の一族は元々、南の妖術師の家系でしたから。四代前のご先祖が変わり者で、魔術を学びたくてシラトスに来たんです」
 妖術師とは、魔術師のような体系と学問に基づいた術ではなく、伝統と感覚で発動する術を操る人々の事だ。大抵の場合一人につき一つの術しか使うことができず、主に感覚的なその術は伝承したり学んだりするような類のものではない。血縁によって多く発現しやすい一族があると信じられ、魔術や医術が広まるまでは、狭い地域においては神官に近しい存在として、絶大な権力をふるっていた人々も居たのだという。
 だが魔術の存在が世界で認知されてしまった現在では、ほとんど駆逐されてしまった存在と言っても良い。妖術でできる事の大半は、魔術によって出来てしまうからだ。特別でもなんでもなくなってしまった妖術師の一族も、ことさら自分を宣伝しなくなって久しい。
 ましてや、ヒルラは無口な部類の人間だ。聞かれもしなかった家系の事など、自分から語る必要がなかったのだろう。
 長いつきあいであるターキスも口をポカンとあけてしまうような、ヒルラの告白だった。
「私の妖術師としての才能はどこにあるのかわかりませんが、誰がどんな性質の存在なのかぐらいはわかりますよ。植物でだってどんな気性の植物なのかわかるんですから、人間かそうじゃないかぐらい簡単です」
「じゃあ、あの人が誰だか、わかるんだね?」
 そんなに簡単にわかるのならば、この先の行動にも制限が出てくる。同じような能力や魔術を扱える人間が、必ずしも船長に好意的だとは限らないのだから。
 しかもこの地は、天下の魔術都市シラトスなのだし。
 ドキドキしながら問いかけるトレイルに、ヒルラは照れ笑い。
「最初はわかりませんでしたけど、ターキスと話してわかりました。この世に存在してはいけないって意味では、幽霊みたいな人です」
 なるほど。トレイルはヒルラの回避に感心した。ヒルラは確実に船長の正体に気づいている。ただ、ターキスよりも慎重なだけだ。正しい解答をトレイルの口から聞くまでは、自分の腹にしまっておくつもりに違いない。正確な分類を心がけるヒルラらしい答えだ。
 同時に、トレイルも幾分かほっとする。正体の何もかもが丸見えになっているわけではないらしい。ならばいくらでも手はうてるだろう。この魔術都市の中でなら、妙な魔術要素を体に付着させていても平気な人間など、いくらでもいる。たとえば、左右の尾羽ギルドや魔術学院の工学部など、錬金術もあつかってるお陰で魔術的素養に影響を及ぼし、感化範囲を制御する体内のクラッフェン核の反応が過剰だったり鈍磨している人間がとても多い。それに船長の格好は奇抜な部類だが、衣類の奇抜さなど、外部からの流民が多いシラトスにとってはなんの問題にもならない。
 安堵のままあらためて教え子を眺めるトレイルは、飄々としたヒルラのたたずまいにターキスの時とは違った反応を見て首をかしげた。
「君はあの人が怖くないの?」
「怖い? なぜ?」
 この質問は本当に理解できなかったらしい。ヒルラはターキスとトレイルを眠たげな表情で確認して、もう一度首を捻った。
「ああ。だからターキスがビクビクしてたんですね? 彼が誰だか知ってたから」
 一人納得して、ヒルラは事も無げに言ってのけた。たとえるなら風が吹いたおかげで背の高いサトウキビの束が揺れたというような、ちょっと驚いたとはいえ当然だと言いたげな面持ちで。
「自分たちは彼にやましいことなんて何一つしてませんから。私がおばあちゃんから聞いてる限り、あの人達はいつだって使命に忠実な人たちだ。それを邪魔しない限り何もしてこないでしょう? それに、自分たちにはトレイル先生がいます。だから何があっても大丈夫」
 信頼されているのだろうが、その信頼に応えられるのだろうかと、知らぬ間に頬を歪めてしまうトレイルだったりする。どんなに偉くなろうが、どんなに巨大な魔術が扱えるようになろうが、誰よりも一番自分を信じられないのが、トレイルという男だったりするのだ。
 言外に船長と喧嘩する羽目になった時を考えさせられては、尚更だ。
 ターキスは知らなかった幼なじみの特性に、好奇心一杯の目で尋ねた。
「わいの事とかも、いろいろわかるんか?」
「気をつけてなきゃわからない。船長さんは知らない人だったから、注意してみてただけ」
「でもなんかあるやろ? わいのご先祖さまなんぞ見えへんか?」
 食い下がるターキスの顔が面白かったのだろう。ヒルラは口元を押さえて笑い飛ばした。
「お前に使うわけないだろ? 膝よりも小さな頃からなんでも知ってるのに」



 荷物運びの全てが終わった頃には、薄暗かった朝もとっくに陽が昇り、強すぎるぐらいの日差しがシラトスに降り注いでいた。夜とは違ったざわめきに包まれ、シラトスの大通りは一日の始まりに出た人々の、洗い立ての衣類が日を反射して眩しい。
 シラトスの地下に整備された数々の畜力器と管理された上下水道は、他の土地にはない様々な恩恵を、日常の些細な場面で提供している。「聖オムレオの蒼い軍勢攻防戦」を境に、城塞都市の形態をとって発展したシラトスの街は、優れた都市設計者でもあった第三十九代宰相ワルズメントの基礎設計を基に、ライル・カイデンという長命の指揮者が存在したお陰で、初志を貫徹したのだ。
 幾何学的に走る大小の各坑道は都市機能を最大限に発揮させるべく、上下水道を優先しているだけでなく、一部の物資を中心部へとスムーズに運ぶ役割も担い、人工的な魔術龍脈として蓄力器同士を繋ぐラインともなり、そして災害時には人々の非難するシェルターともなる。
 それらの安定した力の供給とそれを利用する術の数々も、他の都市ではもてあましてしまうに違いないが、魔術都市にはすぐに利用できる環境がある。研究者達は自らの研究の成果を、この非常に稀な、魔術的エネルギーのあふれた都市の中で、すぐに試す事ができるのだ。
 皆が簡単に衣類を洗濯し、その汚水をすぐに浄化するシステムがあり、それらが一斉に行われても処理できるだけの都市能力が地下に内包された街。それがシラトスだ。シンリュウ大陸の他の都市では、このように彩り鮮やかな朝は望めないだろう。
 そして、警備兵が各通りの混雑を解消すべく整理に動き、魔術学院の幼年部の生徒が手をつなぎあって登校し、それらを眺めながら巡礼者たちが目を潤ませて教会へとむかう。
 雑多であるが故に力強く、出入りの激しい都市であるからこそ、生活に疲弊した人々だけが溜まって行くのではない、いつまでも生気に満ちた輝く朝という奇蹟があった。
 先と変わらず無愛想な西の門番達に形ばかりの挨拶をし、街の中へ戻ってきたトレイル達も、否応なくその奇蹟に巻き込まれていく。
 向かうは、学生達の向かう先――魔術都市シラトスの中心にそびえる大伽藍、シラトス魔術学院である。
「君たち、荷下ろし遅いよ。ウトウトしちゃったから、体がだるくて仕方がないじゃないかぁ」
 空になった荷台でだらしなく寝そべりながらブツブツと文句を言う船長に、他の三人の誰もが、作業を手伝ってもらいたかったと思ったに違いない。
 トレイルは頭を抱えながら、やけになって返答。
「不眠症なんだから、少しでも眠れて良かったじゃないですか」
「こんな最悪の気分になる睡眠なら、ない方がよっぽどマシだよ」
 ターキスがふと思いたったように、グテグテと寝返りをうつ船長の背に尋ねる。
「そういや船長はん、どうやって門番をだましたんですかい?」
 ヒルラの言葉一つでターキスの言動が真逆に変化する。そこに幼なじみに対するターキスの信頼が現れていると言えるだろう。
 船長もターキスの変化に気づいたのだろう。少しだけ不思議そうに眉をひそめた。しかしそれが、何かの悪意を意図しての変化ではないと察したのだろうか。すぐに元の面倒そうな表情に戻ってしまう。
「何のことだい?」
「トレイル先生の依頼書ですがな。本物なんでっしゃろ? トレイル先生見てれば、船長はんが持ってるはずのもんじゃなかと」
「まぁね。そうだなぁ……君は、トレイルが誰かに手紙を書くところ、見たことあるかい?」
 だるそうに身を起こし、船長は円筒帽をとって頭をかいた。気だるさのあまりどうすれば良いのかわからず、自分自身でも自分の体をもてあましているようだ。
「酷いもんだぜ? 少なくとも一度は下書きして、最低でも二度は清書して、良くできた方を送るんだ。いい大人が知らない仲でもない相手に、子供がラブレター書くときみたいにムキになってやってるんだぜ? それも『明日の夕刻、ご注文にありました薬草三束をお届けにまいります』みたいな、何十年も何百回も書いてるような文章をだよ? それを眺めてるこっちがイライラするぐらい、丁寧にだよ? うまく書けない時なんて何時間もやってるんだ。昔からそう。私と旅してる時から、手紙となると時間ばっかりかかる。馬鹿馬鹿しくて見てらんない」
「……そいつはすみませんでしたね」
 御者台で聞くとも無しに聞こえてきた会話に、トレイルが思わず口を挟む。
 一瞬だけ気まずそうな顔をした船長だが、すぐに元のだるそうな顔つきでターキスへ語る。
「そんなトレイルのことだ、手紙じゃないけど君らに店番を任せる時の委任状の一枚二枚なら、捨てるなり書き溜めしてるなりしてると思ったのさ。今はそれなりに忙しいトレイル君――いや、トレイル先生、トレイル様の事だ、毎回時間をかけて作るわけにもいかないからね。案の定、金庫の二重底の中に二枚ほど入ってた。ゴミ箱をひっくり返す前に見つかってよかったよ。これ幸い、何かの役に立つかなぁと思って失敬してきたってワケ」
 満足げに自分の手際を語る船長に、ターキスは感心とも呆れともつかない引きつった微笑で応じる。
「一体、いつの間に漁ってたんですかいな……」
「朝、君らが私そっちのけで店の荷物をこの馬車に積んでる時だよ。誰も私の相手なんかしてくれないから、自分で遊ぶしかないじゃないか。遠路はるばる訪ねてきたってのにさ」
 どうやらすねてるらしい。見かけが三十である大人の男がすねてみせても、全く役に立ちそうもないのだが。
「……あ、遊ぶってのは――普通、人の物をくすねることじゃないでしょうがっ!」
 さすがに我慢できなくなって荷台に振り返るトレイル。ちょっと涙目になっているトレイルの感情の高ぶりが予想外だったのか、その場で硬直する船長とターキスだ。
「門のところであんなもの取り出された僕の身にもなってくださいよ! ホント、信じられない! 下手に偽造がバレたらどうしようとか、ライル様の名前なんか出しちゃって、船長が捕まったらどうしようとか、僕はともかくこの子達はどうしようとか。なのに船長はなんにも考えてないみたいにヒョイヒョイ話しを進めちゃって! 僕ばっかり心配していて、バカみたいだったじゃないですかッ!」
 トレイルが興奮にまくし立てる言葉には、さすがに少しは反省したのだろう。船長は再び頭をかく。唇を尖らせて、だが。
「だってしょうがないだろ、教えるタイミングがなかったんだから。それにほら、万事うまくいったんだからそんなに怒らなくたっていいだろ? あとでカノンが作ったオヤツあげるから、そう怒るなよ」
「オヤツなんていらないですッ! いつまでも子供扱いしないでください、カノンが怒るのも当たり前ですよッ! もう……もうッ! もうイヤだッ! 次に船長がウチの物をくすねたら、出入り禁止にしますからねッ! 教会の敷地でもなんでも、テントでも張って野宿してくださいッ!」
 目元をゴシゴシと袖でこすりながら、トレイルがもう一言二言釘を刺しておこうと口を開いた時だ。
 当の船長はすでに、あっけらかんとした様子で道行く女の子に手の中の杖を振っていた。
「おーい、お嬢ちゃん。私の事、覚えてるか〜い?」
 円筒帽も外し、ヒラヒラと振ってみせる。朝に混雑した道の、その端を人ゴミにもまれながらも必死に駆けていたメイド服の娘が、驚いたように顔をあげる。船長の姿を認めた途端、走っていたが故に上気した頬が一瞬にして別の意味で真っ赤に染まり、次いで御者台から振り返っていたトレイルの顔を確認してぽかんと口を開ける。立ち止まった拍子に背後からやってきた人々にぶつかり、突き飛ばされ、小さな悲鳴を上げながらクルクルとその場で回転してしまったが、それでもトレイルから目を離さず、口は開きっぱなしだ。
「ヒルラ、馬車止めれや、止め!」
 ターキスの声に、手綱を握っていたヒルラは無言で応じた。人の流れに沿って緩やかにスピードを落とし、邪魔にならないよう停車した荷馬車へ向かって、我にかえったメイドの少女も駆け寄ってくる――と思った途端、目の前の石畳に躓いて派手に転んだ。
「おやおや、大丈夫かい?」
 船長は荷台から飛び降りると、少女が立ち上がるのに手を貸す。さっきまでだるいだるいと騒いでいた人物とは思えない素早さだ。相手が女の子だからとか、トレイルとの会話を打ち切りたかったというわけでもなく、ただただ単純に、偶然再会できたというアクシデントを面白がって飛びついただけだろう。
 トレイルは御者台の上から意外な相手の姿に驚いて、目をパチクリ。
「シラトスでそんなに若い方と知り合いなんですか? でも船長、ここに来たばかりじゃ?」
「ちょっとした顔見知りってとこだね。君の店に行く途中で道を尋ねたんだ。ありがとう、お嬢さん。貴女のおかげで古い知り合いに再会できたよ。本当にありがとう」
 丁寧に頭を下げる船長に、少女は突然、ガタガタと震え出す。顔を上げた船長もいぶかしがるような、引きつった表情の彼女。
「? どうしました?」
「せん、先生ッ? やっぱり、せんせいッ!?」
「?」
 船長は少女の目線を確認。トレイルに向いたまま、自分の事など目に入ってないメイドの姿にワケを悟る。面白そうに目を輝かせ、トレイルにむかって振り返った。
「お〜い、トレイル君。どうやら彼女、私より君の方がよく知ってるみたいだぜ? 隅に置けないな、君も」
「え?」
 トレイルが尋ね返し、よく見ようとあらためてメイドの顔に視線を走らせた瞬間だ。
「わ、わた、わたし、私ぃ、い、急いでますぅッッッ!」
 悲鳴のような声をあげて、少女は一行の傍らを走り抜けていった。去っていく後ろ姿を見ている間にも二回転んだが、後ろも振り返らずに駆けて行く。
 後に残るのは、一陣の風が舞う数秒の間。
 あっけにとられるトレイルに、船長がため息。
「……トレイル君。私は君に、女子供はなるべくいじめないよう、ちゃんと教えておいたはずなんだけどね? 一体彼女に何したんだい? またお得意な癇癪玉の『暴走どっかーん』で、あの子の一張羅と窓ガラスでもボロボロにしちゃったのかい?」
「ちょっと待ってください、船長! 冗談でも言って良いことと悪いことがありますよッ! 僕だって何がなんだかわからないのに、勝手に何か犯罪でもしたような言い方しないでくださいって」
「じゃあ、どう説明つけるんだよ、彼女のことは? ありゃ怯えてるっていってもいいぐらいだぜ?」
「言ってるでしょ、身に覚えがないんでわかりませんって」
 船長が荷台に戻ってくるのを待って、ターキスがトレイルに真顔で囁く。
「いや、わからんこともありゃしませんぜ、先生? ほんまにわからんと? ま、格好が全然違うんで、わいも最初は迷ったに。でも先生がわからんはないっしょ?」
「な……なんだい? 君まで変な事言い出さないでくださいよ」
「変な事は話しまへんが、トレイル先生が薄情なのは確かですわ。なー、ヒルラ。気づいたやろ?」
 ヒルラは荷馬車を動かしはじめながら、眠たげにウンと返答。
「確か、マーサって呼ばれてた」
「そうや。センセ、ありゃ、先生の教え子だったマーセティアですわ。ウチら、先生の助手で何度かお手伝いしたさかい、見た覚えがあるんですわ」
 「何度か、店に花を買いに来てた」とヒルラ。
「向こうは私に気づかなかったし、落ち着いてたところを見ると、トレイル先生の店だとは知らなかったんだろうな」
「いつぐらいの生徒さんじゃったろ?」
「五年ぐらい前の、教養学部初等科、だったと思う。ある意味有名人だから、彼女は。覚えてる」
 ターキスとヒルラの会話に、まったくついて行けないトレイルだ。
 目を白黒させる彼を放っておき、船長は荷台から興味深げに二人の会話に耳をそばだてる。
「そうそう、有名人じゃった。なんもないとこで転ぶ特技だけじゃなくて、なんせジェミニックの一人娘。ライル様が議会派の首を切りまくってた頃の、アレやからな」
「ジェミニック事件は、まだ冤罪だって騒いでる輩が多すぎる。街の中だ、あまり大声で話すもんじゃない」
「ほな、この話しはとりあえずここでお開きや」
 ターキスは興味津々で黙っていた船長に振り返り、残念でしたと満面で苦笑。照れて顔をこする仕草はますます赤毛の猫だ。
「すんませんね、船長はん。ま、続きが気になるなら店に戻ってセンセに聞いておくんなせ。いくら世間に疎い先生はんも、この事件ぐらいは知ってますきに」
「信用できないね」
 ぷっと頬を膨らませ、船長は御者台のトレイルを杖で指して見せる。
「トレイル君は数年前の教え子の顔も覚えてないような奴だぜ? 自分の興味がない世間さまの事件を、私が満足できるほど語れるような頭を持ってるとでも思うかい? いくら脳天気な私でも、思っちゃいないよ」
 今回ばかりは、なんの反論もできないトレイルだった。




 シラトス魔術学院は、シラトスの中心部にそびえる大伽藍だ。中央の大講堂では、半年に一度、一ヶ月の期間をもって開かれる各分野の学術会議が開催され、各地の魔術師や研究者が鈴なりになって見学する。大講堂を取り囲むように円状に広がった敷地はシラトスの総面積の五分の一を占め、大陸教会の敷地に次いで二番目に大きな施設を誇る。この魔術都市では、王室よりも学術機関の方が大きな財力を保有するのだ。
 きらびやかな装飾で輝く大講堂は、所属する魔術師や錬金術師たちの寄進だけで飾られるという伝統があり、その文化的価値も高い意匠の数々は、雑多な学問を保有する学院ギルドの性質を現しながらも、誇り高く自由に広げられる人間の探究心が表現された力強い様相を呈している。
 大講堂から連なる総務部門の大きな建物は、中心となる大講堂のきらびやかさとは反対に、質素な白い外壁を持つ長方形の建物だった。四隅に中東風の丸い尖塔が建てられていることだけが、わずかなアクセントとなっている。その三階建ての細長い建物から更につながる、大講堂を二回りほど小さくしたような建物。これが、魔術学院の学院長に与えられる専用の研究塔だ。大講堂が傍にあるが故に小さく見えてしまうが、個人の建物だと思えば十二分に大きな代物である。
 これらを中央に配置し、コの字型に配置される黒と白の四角い建物の連なり。手前右の幼年科棟、左の初等科棟、それらの裏側に配置された計6つの運動場。これらを挟んで中等科、高等科、大学科が、さらに大きなコの字型で建物郡を囲んでゆく。中央奥には、各研究部と学院ギルドが同じ建物に内包され、この敷地内でどこが一番重要視されているのかを言外に物語っていた。
 トレイルは、やってくる学生達に元気よく挨拶している顔見知りの門番に手を上げて合図。
「ウックス、おはよう」
「あ、トレイル先生! おはようございます!」
 幼年学級の子供たちへ手を振ってやりながら、若い門番は学院自治部の警備員章を揺らしてトレイルたちの荷馬車にやってくる。ヒルラやターキスとも顔見知りの門番は、二人とも明るく挨拶を交し合った。船長とも型通りの挨拶をし、少しだけ怪訝そうな顔をしてみせたが。
「お早いですね。たしか今日の講義は二時からですよ。うちの娘が『押し花ができてるんだ』って喜んでましたから」
 ウックスの娘のタリスは、今年からトレイルの学級の生徒になったばかりなのだ。すぐにでも講義を休校にするつもりだったトレイルだったが、先日の講義中に眺めたプラチナブロンドの巻き毛から覗くタリスの藍色の瞳を思い出す。その顔が悲しそうに色を失うのを想像してしまうと、今日の分の講義は出てしまおうと考え直した。たった一時間の講義だ、急ぎとは言え、割けない時間でもない。
「ちょっと学院長に用があって。荷馬車を預かっていて欲しいんだけど」
 学院長と聞いて、ウックスが驚きに目を見開いた。「生徒の親と教師」という関係が、瞬時に「大陸教会の信者と教会認定賢者」の関係に変化。
 この瞬間を、トレイルは何度経験しても後味悪いものだと感じてしまう。他の兄弟子やライル、それに船長なら――今は荷台の縁から顔だけ出し、登校中の子供たちに見境無く手を振っては逃げられているが――トレイルの立場に置かれてしまっても、むしろ気分良く堂々と胸を張っているのだろうが。
「今日は朝から教会のお仕事ですか?」
「そんなもん、かな? 学院長と会長は、二人とも塔の中?」
「会長は閉鎖研究棟の方に三日ほど前から篭りっぱなしです。学院長は研究塔にいらっしゃると思いますが」
 教会の、簡単には説明できない大きな仕事だと早合点したのだろう。うろたえながら硬い声で返答するウックスに、トレイルも苦笑するしかない。
「そんなに大げさにしないでよ。兄弟子から渡すように頼まれた品があって、届けに行くだけなんだから」
「は、はい」
 トレイルの合図で、一向は荷馬車から降りた。船長は面倒そうにノロノロと――マーセティアを見つけた時とは正反対に、一番時間をかけてノンビリと地面に足をつける。ウックスは長身の船長を見上げつつ、ますます胡散臭そうな目を向けた。門番として、そして生徒を通わせている親として、得体の知れない人物を学院に入れたくないのだろう。
 船長はその視線に対してポンと、自分自身の肩を、手の中にあった杖で叩いた。それが彼自身への合図だったかのように突然、だらけていた全身をピッと伸ばしてから弛緩させ、柔らかく優雅に会釈してみせる。
「馬車をよろしくお願いしますね、ウックス殿。なぁに、すぐに戻ってきますのでお手間は取らせませんよ」
 その丁寧な言葉にまた、せっかちな門番は何か勘違いしたのだろう。ヒルラの手から手綱を預かりながら、ウックスは顔を強張らせる。今度は嫌悪からではない。目上の者から仕事を預けられた部下の顔つきだ。どうやらウックスは、船長を教会上層部に関係する魔術師として解釈したようだ。まるっきり間違っているとは言い切れないが。
 二人のやりとりに嫌な予感を覚えたトレイルは、慌てて二人の間に割ってはいる。
「じゃあ、研究塔にいってみるから。ありがとう、ウックス。ご苦労さまです」
 教会の人間がやってきたと周囲に言いふらされては、ウックスの勘違いだとはいえ偽者だったと知れた時に船長の容貌が教会関係者に筒抜けだ。
 だが時すでに遅し。ウックスはキビキビとした動作で、学院ギルドの敬意を表する印を指先で描いて会釈。
 勘違いさせたままなのもかわいそうだが、船長の事を素直に見たまま変人としてに噂されるよりはマシだとトレイルは無理矢理自分を納得させる。空っぽになった荷馬車を待機小屋の傍に移動させながらずっと一行を見送り続ける門番の視線に、何とも言えないこそばゆいものを感じながら、トレイルはキョロキョロと辺りを見回す船長の燕尾の裾を引く。
「船長、あからさまに部外者な行動は控えてくださいよ」
「そうだね、一応、努力しようとは思ってるよ」
 言ってる傍から船長は、始業前で窓辺に腰掛けて談笑する高等科の女子に向かって手を振っていた。
「船長ッ!」
 高等科の女子達の中にも、トレイルの教え子たちが成長して混じっている。逆光の位置でよく見えないが、そんな生徒たちが相手だったのだろう。見知らぬ男の隣に教師の姿をみつけて安心したらしく、船長へ手を振り返してしまう。調子に乗った船長は、今度は口に指を当てて甲高い口笛のメロディを吹き鳴らした。トレイルは慌てて、船長が窓辺に向かって大声で呼びかけようとした口を手のひらで塞ぎ――手が届かないので無理矢理、襟首を引き寄せてからだ――窓辺の女子達に怒鳴った。
「君達、高等科は今の時間、朝の自習時間のはずだぞッ! 席に着きなさいッ!」
 黄色い悲鳴をあげながら教室の中へ逃げ込んでゆく女子生徒を見送り、なぜかターキスがチッと舌打ち。あわよくば船長と一緒に女子生徒をからかいたかったのだろう。反射的に睨みつけると、ターキスはニヤリとしながらも後ずさり。
「冗談、冗談ですがな、先生。ちょいのま合いの手に舌打ちしてみただけですがな」
 口を塞がれていた船長は、トレイルの怒声に目を白黒させ、口元を解放された後もパチパチとまばたきした。何度も確認するような目つきに、トレイルはため息混じりに訊ねる。
「何ですか、その目は?」
 船長は上の空で乱れた襟元を正しながら、トレイルの顔を覗き込む。
「いやね、今の光景、カノンに見せてやりたかったなぁって」
「なんでカノンに?」
「だって本当に先生みたいな事してるんだもん。目の前でやられたらビックリするじゃないか!」
 まだまだ目をパチパチさせる船長に、トレイルはもう何度目ともわからぬ深いため息。
「……僕が先生だってこと、信じてなかったんですか?」
「いや、信じてなかったわけじゃないよ。でも見ないと実感できないことってあるだろ? それとも意外に人望とか威厳があるみたいでびっくりしたって言った方がいいかな? たぶんカノンも私と同じように思ってるはずだからね。見せてやりたかったなぁ!」
 確か昨日、再会した時には「大人になったんだと思えるようになった」と言ったはずの船長だ。
 だが、まだまだ船長の中のトレイルは、危なっかしい子供のままなのだろう。その子供と現実のギャップに驚いているということに、トレイルは言いようの無い脱力感を覚えた。
 本当の目的であるライルの探索はおろか、その下準備すら本格的に始まってもないのにこんな事が続いては、トレイル自身の神経が持たないと確信する。
「船長……」
「なんだい?」
「お願いですから、取引させてください」
「ほぉ? トレイル君が私と取引?」
 船長の目の奥が興味に底光りする。
 船長にとって商談とは、命と使命の次に大事な趣味のはずだ。長い人生を商業契約に奔走して過ごすという、暇つぶしとしての行動であり、自由に動くための資金を調達するための仕事でもあり、そして師匠の手による品を集めるための情報網として存在する。行動の大半をこれらに費やしている船長にとって、商談という趣味は、はからずも彼の生き方そのものとなってしまったと言っても過言ではない。
 その大事な趣味の為に、昔のトレイルも随分振り回されたものだ。いや、船長そのものが、商談に振り回されたくて無茶な話題に乗っているのだから、当たり前である。
 だから彼はどんなにくだらなく些細な商談であっても、大概の取引には首を突っ込んでくれる。少なくとも内容を話し終えるまでは聞いてくれる。
 船長のこぼれるような笑顔を見る限り、その生き様は今でも変わっていないらしい。
 それを確認して、トレイルは力なく続けた。
「銀貨五十枚……いや、金貨一枚で手を打ちますから、僕のお願い事を聞いてください」
 各国の商売人があつまるシラトスで、金貨はそう珍しいものではない。だが、贅沢をしなければ二月分の食費に間にあうぐらいの価値はある。ヒョイヒョイ出せるものではないはずだ。
 船長はますます笑みを深くし、杖をくるくる回して興奮を紛らせる。
「どんなお願いだか知らないけど、なかなか結構な額だね。で、内容はなんだい?」
 上着の内ポケットをさらって、数枚の硬貨の中から一枚だけあったワラムズ協定金貨を摘みあげる。船長に無理矢理しっかりと握らせながら――こんなことまでして、一体何をやってるんだろうかと考えると、ちょっとだけ涙声になってしまうが――トレイルは頭を下げた。
「一時間だけ、一時間だけでいいから、学院をでるまででいいですから、どうか生徒の前では静かにしてもらえませんか? 金貨一枚で、お願いですから、ほんのしばらくでいいんで、僕の言うこと聞いてください。僕、もうただの弟弟子じゃないし、まだここの先生なんで……ええ、僕、先生なんで」



 学院長の秘書長であり、学院ギルドの総務部員でもあるカククォ・ハルルラは、南方人らく黒い肌のこめかみの上に、その色に負けないほどの陰影をもつ皺をくっきりと浮かべていた。怒りも露わにトレイルを見下ろす。
 船長ほどの背丈ではないが、南方人の多くはきわめて細長い体格と顔立ち、そして長身を誇っている。女性であるカククォでも、トレイルを上回るのは当然として、シラトスの一般男性と同じぐらいの背丈だ。
 それもあってか、カククォはどこかぎこちなく首をもたげ、彼女と同じぐらい不服そうな表情の船長を睨みつけた。彼女の仕草は、シラトスにやってきて以来、こんな風に他人を見上げる機会もそうは無かったのではと思わせる。もしかしたら、カククォがトレイルに抱く怒りの根本は、連絡も無しに面会を求めてきた無礼さだけではなく、付き添いの船長の身長に対抗してのことかも知れない。南方女の苛烈さは民謡に謡われるのが常だ――特にプライドを傷つけられた時には酷いのだと。カククォにとって、彼女自身の身長がどれほどのプライドとなっていたかを想像して、トレイルは一人冷や汗をかいた。船長だってその辺りの事情は察しているのだろうが、いかんせん、まだ彼の手の中にはしまい込む間もなかった金貨が握られている状態だ。ジョークはおろか愛想笑いの一つも出てきそうにない。
 一触即発と言っても良い険悪な空気を、カククォが冷たい響きで切り裂いた。
「こちらへどうぞ……ですが今後、またこのような事があっては困りますからね、トレイル先生」
 数分の間でしかないが、トレイル達は研究塔へと続く総務部の廊下を歩きつつカククォの小言を聞くはめになった。
「いくら教会の仕事とはいえ、一報をいれる手段はいくらでもあるはずです。しかも学院の中では、貴方はあくまでも一講師でしかありません。多忙な学院長の時間を無理に割かねばならないようなマネは、今後一切お断りします。せめて教会の仕事の時には、教会の委任状の一枚ぐらい用意していただかないと。こちらの立場もありませんし、他の先生方にも示しがつきません。学院長と面会したくても出来ない他国の方々が、どれほどいるかわかってらっしゃるんですか?」
「……はい、すいません」
 ちらりと船長達を見やると、ターキスが哀れむような目つきと半笑いでこちらを見ており、ヒルラはいつもどおりのどこ吹く風で淡々と歩き続けていた。船長を挟むように並んだ二人は、いつでも船長の腕や服の裾を掴めるように待機している。この二人は、トレイルの店の従業員として、店長の指示にしたがっているまでだ。
 そして船長はというと、口元をへの字に結んだまま、杖を肩に担いでダラダラと後をついてくる。トレイルとの契約が邪魔で仕方がないと、言外に語っているのだ。それでも暴れ出さずにおとなしくついてくるのは、彼の商売人としての意地に違いない。口約束とはいえ金貨を受け取ったという事実が、商売人としての船長を縛り付けているだけだ。
 カククォは、何度も船長を振り返っては仰ぎ見、嘆かわしいと言いたげに首を振って見せた。
 何度も言葉を変えつつ、呟き続けるのは同じような小言の羅列だ。
「いいですか、みなさん。学院長は朝の書類整理の時間を利用して会ってくださるのです。お話だけですからね、学院長のお手元を止めたり邪魔するような事は、くれぐれもお控えください。本来ならば、貴方がたのように礼儀をわきまえない輩とは顔を合わせることもない方なんですから、挨拶できるだけでも光栄と思うべきなのですよ」
 何度目かすらわからぬほど、目一杯釘を刺す。
 さすがに船長がムムムッと顔を歪める。機嫌が悪いところに気分の悪い状況なのだから、当たり前と言えば当たり前の反応だ――それと同時に、ヒルラがさっと燕尾を引いた。無言の静止に対し、船長は勢いよく振り返りヒルラを睨む。自分の歩調で行動するヒルラは、涼しげにその視線を受け止めた。船長に対する信頼とも取れるが、どちらかといえば何事にも動じにくいヒルラ自身の性格の問題だろう。一方的ではあるが張り詰める二人の空気に、まあまあと、取りなすようにターキスが間を遮ってみせた。
 船長の顔に向かって手を振りながら
「学院長がどんだけ偉いってんだ――でっしゃろ? わかってまさぁ。でもこらえてくりゃんせ。魔術学院と魔術師ギルドしか知らんようなお堅〜い世間知らずで田舎もんの司書さんには、長生きしとる学院長が神様みたいに見えるんですわ。たとえ中身がただのミイラだったとしても、厄介事のた〜んびにいちいち拝んでまさぁ。ま、それもしかたありまへんがな。学院長は大抵の事は知ってるし、そうそう間違わんでな。秘書さんたちの脳ミソも、働かんうちにメシの種がなんだったか、忘れてんでっしゃろ」
 冗談とはいえあまりにも無礼なターキスの言葉に、一瞬にして真っ赤になったカククォが振り返る。何かわめき出しそうになった彼女を、今度はトレイルがまあまあと割って入った。
「無礼さは重々承知してますし、この件については私から後でよく言っておきますから。とりあえず学院長に会わせてください。時間が無くなってしまいますから。本当に急いでるんですよ、私自身は」
 鼻息荒く先頭に立って案内するカククォは、一行との距離がどんどん開いていくのも構わずに進んで行き、最終的に廊下の突き当たりにあった扉を開いた。
 別の若い女性秘書が控えている待合室に一行を引き渡し、カククォは挨拶もなく去っていった。よっぽど、このメンバーの言動が気に入らなかったらしい。
「昔のベルーそっくりだ。今のお嬢さんは、あいつより隠す気もなけりゃ品もない分だけ、ずーっとタチが悪いね。礼儀のレの字からやりなおせってんだ」
 船長が小声で呟いて、カククォの去っていった扉にむかって舌をだす。
「船長」
 はからずもトレイルとヒルラが同時に呼んだ事で、船長はつかの間ばつの悪そうな顔をしてみせた――が、すぐに元の、口元をへの字型に曲げてあらぬ方向を睨むポーズへと戻ってしまう。
 どうにもこの取引について、船長自身は失敗したと思い直しはじめているようだ。それこそが、トレイルの望み通りの展開なのだが。
 カククォから案内を引き継いだ若い女性秘書は、何も言わずにもう一枚の扉――つまり建物の奥へと通じる扉を開いて中へ入るように促した。
 円形の塔の壁一面に並んだ書架の連なりと、その前を互い違いに走り抜けるキャットウォーク。天井と壁の一部が開閉式の鎧戸で囲まれ、それを開くと温室のように外界の光が差し込んでくる。朝日のさすこの時間は、東側と南側の鎧戸が開放され、程よい熱と白い朝が差し込んできていた。
 その日差しに包まれ、眩いぐらいに輝く書き物机は赤茶色に磨かれて生気に満ち、金色の調度品はさながら小さな太陽のように四方へ煌めきを振りまき続けていた。
 トレイルが初めて訪れた時から、学院長は二度ほど入れ替わっている。それでもこのたたずまいは、まったく変わっていく気配がない。代々の学院長たちは、この建物を注文した初代学院長の趣向をも受け継いだのかもしれない。
 いつでも温かく落ち着いた、光の乱舞に満ちている場所。それがシラトス魔術学院学院長室だ。
 書き物机の上には、山と積まれた手紙と書類の束。その向こう側で、学院長は一通の手紙に目を通しながら、朝食がわりの紅茶を口に運んでいた。
 高く上品に結い上げられた真っ白な銀髪と顔に刻まれ始めた皺、サラサラと鳴る衣擦れの音も不愉快に感じさせない、質素で上等な青いドレス。真剣に仕事に打ち込んでいる者の張り詰めた気配を身に纏い、真っ青な瞳の初老の女性はただただ静かに、手紙の上に視線を走らせ続ける。
 一行に気づいているのかどうかすら怪しく、落ち着いた物腰に声もかけられずに戸惑っていると
「トレイル・トリルアーガス」
 柔らかで皺枯れているが鋭い声色。そんな声に不意に名を呼ばれたトレイルは、慌てて姿勢を正す。
「お、おはようございます、学院長」
 魔術学院ギルドの挨拶の印を指先で描こうとして、間違えて市場の挨拶を描きそうになった。それも、一緒に挨拶しようとしたターキスとヒルラの仕草で間違いに気づいたぐらいだ。仮にも雇い主の前で、どうにも緊張しているらしい。
「教会の仕事だそうですね。ならば今の私達は兄弟同然のはずでしょう? そんな作られた挨拶なんて堅苦しい事は抜きにして頂戴。それより――」
 紅茶の器を皿に戻し、学院長は大きく深い、そして心底から呆れたといったため息を盛大に吐いて見せた。
「あの人の事は、なんて呼べばいいの? 〈シラトスの守護者〉が聞きつけないように、別の呼び名を名乗ってたでしょう?」
 トレイル達とは離れ戸口で一人佇み続けていた船長に向き直り、第二十一代シラトス魔術学院学院長は背筋を伸ばす。
 船長もそれに応じて、すっと背筋を伸ばした。機嫌の悪さを表現していた眉間の皺や力一杯閉じられていた唇が、酷く生真面目なものへと変わっていた。
 恐れのような、尊敬とも呼べそうな、それでいて悲しそうな目で初老の婦人に真っ直ぐな眼差しを投げる。
 先とはうって変わり、大人としての余裕を持った唇が、機械的とも言えそうな硬い声を紡ぎ出してゆく。
「私の事は『船長』と呼んでいただければ結構」
 脅かさないように、だろうか。静かでゆっくりとした所作をもって学院長に歩み寄る。学院長も席を立ち、ドレスの裾をそっと抓むと机を回り込み、その歩みの前に立ちはだかった。
 しばしの間、部屋の中央で二人は視線を交わしあった。互いに互いの姿が本物である事を確認するかのように。
「『船長』……飛行船『白月』の船長さん、って事でよろしいの?」
「まさにその通り。あれの制御は今現在、カノンから私に委託されているのでね」
「『シラトスの岩落し』以来、シラトス周辺の空間断層は師匠の保護下にあるはずです。なぜ貴方がここに来れるというの?」
「その異層の管理者である師匠ご自身の命令だといえば満足かな? 師匠はもう少しの間、私を道具として利用する事をお望みなのだよ」
 学院長は無言で、背の高い来訪者を見上げ続けた。何度も瞬きをし、ゆっくりと口元を両手で覆った。
「では……許されたのね、やっと。全てを」
 震える声とガタガタと揺れる腕で、学院長は船長の袖に触れた。触れて、手繰り寄せるようにその手首を握る。何度も手に力を込め、そこにいるのを確認する。
 船長はその仕草を、まるで子供がしているのを見守るようにニコニコと眺めている。つい先まで、この部屋の扉が開くまで見せていた不機嫌さが嘘のようだ。マーサの時といい門番の時といい、この気持ちと行動の切り替えの早さは、船長の才能の一つなのかもしれない。
 都会の伊達男風に、船長はフッと自嘲気味に肩をすくめて見せた。
「許し? そいつはどうかな? 昔と同じように、妙な雑用を押し付けられたってだけさ。それ以上のことは話してくれなかった。君はともかく、私が安心するのはまだ早い」
「それでも……生きているうちにここで、この私の部屋で貴方と再会できるなんて、夢にも思わなかったわ」
 その時、学院長はトレイル達も驚く姿を見せた。いきなり飛び跳ねて船長の首筋に抱きつき、その頬に親愛のキスをしたのだ。
 船長の方はその行動を予測していたらしく――ということは、学院長は若い頃からずっと、こんな挨拶を船長にしていたのだろう――跳ねた婦人が地面に足を着く前に両腕で抱き留めると、その年齢の刻まれた額に頬を寄せて「ありがとう」と囁いた。
 老いたとはいえ、まだ張りを失っては居ない彼女の体をゆっくりと地面におろしてやりながら、船長は冗談めかして続ける。
「『夢にも思わなかった』、それは僕もだよ。しかも、あんなにちっちゃくて、凍えていて、野宿のたびに泣くかわめくかしか出来なかったお嬢さんがずっと語っていた夢だ。その真ん中に自分が入り込める日が来るなんて。大陸中の人間が魔術を学べる日が来るなんて、それが実現する日が来るなんて……きっと、師匠だって思わなかったさ」
 船長は眩しいものを見るように、そっと体を離して数歩下がった。
「もっと、もっともっと胸を張りたまえよ。君は凄い。彼女の弟子の中で、子供の頃から今まで、目的を変えずに進んできたのは君だけなんだから」
 ゆっくりと学院長全身を眺めた後、彼女の手をとると片膝をつき、うやうやしく、その皺だらけの手の甲に口付けた。
「偉大なる魔術学院の初代、そして二十一代目学院長にして賢者級〈十二師〉が一人、ベルー・メイ殿。どうか道を失った哀れな大陸商人に、進むべき道を御指導くださいませ。……でも私が干からびちゃうような、真昼の砂漠へ行けと命じるのだけは勘弁してくださいませ。どうしても行かねばならぬというのなら、貴女様が立派な干物になってから行くように御命令くださいませ」
 馬鹿ね――ベルーはどこまで本気で思っているのか、涙ぐんでいた目元をぬぐいながら、笑ってそういった。
「ほんとに、ばかみたい。かわってないのね、おばかさん。おばか、おばかおばか、おばかおばかおばかさんっ!」
 トレイルの見ている限り、その時の女賢者は、湧き上がる数々の感情に振り回され、それしか言えない様にも見えた。
 それは、部外者ながらも立ち会ってしまったターキスやヒルラも頬を緩めた、温かい光景でもあった。





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