消えていく街・2-1
←PREV | INDEX=消えていく街 | Home | NEXT→
1-1 | 1-2 | 1-3 | 1-4 | 1-5 | 1-6 | 2-1 | 2-2


 シラトスの街が、どれだけの規模をもった都市であるかを把握している人間は少ない。
 なぜならこの街は、大陸街道の西の玄関口の一つであり、大陸教会の巡礼地の一つであり、世界中の魔術を学ぶ志を持った人間があこがれと大志を抱いて集う夢の都であるのだから。その百八ある主要商店街《アーケード》の中は、人気の無くなる深夜においても完全に絶える事は無い。人の出入りは常に行われ、故にこの都市の規模を推し量るには三つある大門を閉鎖するしかないという意味で現実的ではなく、そして意味がないのだ。
 深夜に街へ辿り着く旅人達もあれば、夜を急いで街を出る後ろ暗い人々も居る。まずは歓迎の一杯としゃれ込む一団もあれば、明日発つ友人と別れの杯を交し合う一組もある。
 幾つかの後ろ暗い路地では、長い旅の終わりや始まりにつきものの享楽を貪る光景も見られ、耳打ちを交し合った男女が目配せし合ってはそっと闇に紛れていく。見目の良い少女や少年の手を、興奮に目をぎらつかせて引く大店の親父や女主人の姿も良く見られた。背徳的な快楽は、寂れた農村の名ばかりの商店街であろうが聖地シラトスの片隅であろうが、お構いなしにはびこっては夜を彩っていた。
 もちろん、このシラトスの地で生活する人々が、日頃の疲れを癒し明日への活力を体に吹き込むべく、ジョッキを高らかに打ち鳴らしあう光景も当然、そこかしこに存在した。彼らが居るからシラトスの日常は機能し、巡礼者たちも安心して滞在出来るのだ。彼らの働きなくてはシラトスは立ち行かず、それ故に真に夜の楽しみと恩恵を受けるべきなのは彼らであった。
 そんな人々の集うパブの連なりを基点にして縦横無尽に走る無数の名もなき通りや商店街にも、その歓喜の余波はやってくる。そこでは、早起きの商売人たちと毎朝のように挨拶を交わす酔っ払いや大陸商人の姿も、そう珍しい光景ではない。
 そして、偉大なる魔術師の最後の弟子であるトレイル・トリルアーガスの本業は、そんな名もなき道端に店舗を構える花屋であった。
 他の商売人同様、日の昇らないうちに動き出す彼は、雇っている二人の研究生と一緒に市場へ花を運んだり、店先に並べる品々を仕入れてきたりする。
 副業として魔術学院の講師を勤めるトレイルが忙しい時には、彼の代わりに雇っている二人――今は学院ギルドに名を連ねる、十数年前のトレイルの教え子だ――この二人だけが市場へ行ってくれる時も多々あるし、元々は研究生である二人の本業を邪魔しないよう、時期によってはトレイルだけが店を仕切る事も多々ある。二人とも、魔術学院を出てるぐらいだから家も裕福であるし、自分の学費以外の諸経費を稼ぐつもりで店員をやっているのだから、忙しい時期に多少収入が途絶えても全く意に介さないのだ。
 そもそも、この『白猫のほおずき花店』は魔術工芸の制作や薬学に使用する植物を専門として取り扱う店である。固定客もあるし、交渉するべきギルドや店舗、工房もシラトスには溢れている。よっぽどの失敗が無い限り、大きく儲かる事も無ければ倒産する事もない。大口の依頼は断るし、こちらから御用聞きにむかう事もない。ほどよく適当で投げやりな、肩の力が抜けた経営でもある。
 本業の事情だけではなく、副業の講師の仕事から発生する収入も安定してるし、大陸教会からは〈十二師〉としての年金までもが支払われている身としては、生活に余裕が出る分だけ、どうしても真剣味が薄れてしまうのだ。
 まじめに商売をやっている人達には申し訳ないのだが、いつもノンビリとした商売をさせてもらっているトレイルである。
 だが今は、仮師匠がやって来たほどの非常事態である。いつもどおりはおろか、のんびり気ままな商売などやっていられない。
 そう、彼は既に一つの結論を出していた。船長がライルの居場所に関する情報を手に入れるまで、船長側に協力する事を。
 神とも称される自分達の師匠だ。ただの酔狂や嫌がらせで船長を派遣したとは思えない。ライルを探し出す役目は他の弟子の誰でもなく、船長でなければならなかったはずだ。ならばその理由を知ってからどちらにつくか考えても悪くは無い。
 それに――約二百年前、田舎の薬草売りだったトレイルがシラトスを救った時だって、状況そのものは今現在の状況とほとんど変わらなかったのだ。何がなんだかわからないままライルと船長の争いに巻き込まれ、気がついたらシラトスへの恐ろしい攻撃を防ぎ、女神の弟子になっていた。あの時だって元々は船長と行動を共にしていたからこそ、自分が真にやるべき事が見出せたのだ。船長がこの、身寄りを無くし師匠も失った哀れな〈傷持ち〉《暴走経験者》を最後まで信じ、背中を押してくれたからこそできたのだ。
 世の理を組み替える術を知る魔術師がゲンを担ぐというのも変だが、今回も同じように、この事件の道程の途中までは、船長の供をしてみようと思う。付き人であり船長の監視役のカノンも居ない事だし、〈十二師〉としても『裏切り者』である彼の監視を続けなければならない。もちろん、トレイル自身は彼を『裏切り者』だなんて思った事もないのだが。
 そんなわけで。
 習慣的に早く起き出したトレイルは、いつも通りやって来た雇い人二人に今月分の給料を渡しながら、しばらくの間は店を閉める事を告げた。いつもどおり出掛けている間に店番を頼む事も出来たのだが、船長と一緒に行動している事でよからぬ輩に目をつけられ、果てはこの雇い人たちに被害が及ぶ事を恐れたのだ。
 学院ギルドに身を置いている二人の男は、それぞれの研究に没頭できる予定外の時間が出来た事に一度は喜んだものの、すぐに不安そうな顔をした。
 普段から陽気なおしゃべり男であるターキスが、いつもどおり、どこの方言ともわからない言葉でトレイルの顔を覗き込みながらこう言ったぐらいだ。
「顔色悪いですがな、先生。何か大変な事があんでっしゃろ? いやいや、エエです、無理に聞き出そうとは思ぉとりませんわ。先生、ホントはウチらの相手なんぞしてもらえへん偉ぇ先生ですけん。その先生が店ぇ閉めるほどの大仕事じゃけん、ウチらの出る幕ありゃしませんでっしゃろ。そんな大博打に出る先生が、ウチらの事役立たずだと思ぅて店閉めるんで気ぃ悪ぅすんは、物の道理のわからんガキだけでっしゃろ、ウチらは大人です、構いまへん。でもな、先生、仕事が終わったら、キレぇな体で後からちゃぁ〜んと、雇ってくださるんでっしゃろな? ヤですわ、トレイル先生。ここよりいい職場はそうそうありゃしませんでな」
 怒っている時の猫みたいな顔で捲くし立てるターキスは、トレイルと大して代わらぬ小柄な男である。トレイルはぼんやりと、船長ぐらいの身長があれば、赤毛のターキスは本当に赤い猫みたいに見えるんじゃないだろうかと考える。
 それを言うなら、もう一人の雇い人であるヒルラは薄茶色の一見地味な南方風のローブに、ところどころクセ毛で飛び跳ねた砂色の髪をしているものだから、見方によってはトレイルよりも大きな藁の束がフラフラ立っているだけのようにも見える。
 どちらかといえば無口な部類の男に入るヒルラは、ぼうっとした表情も変えずに、ターキスの言葉に何度も頷いた。
 初等部の頃からそうなのだが、ヒルラが表面的には何もせず話さない分だけ、ターキスがコロコロと表情を変化させては話していると言っても過言ではない。
 言葉使いはぶっきらぼうだったり無関心そうでも、取り乱しているらしいとはわかる二人に向かって、トレイルは安心させる為に笑って見せた。
「そりゃ……私も最初からそのつもりだし。もう大丈夫だと思ったら、必ず連絡するよ」
 会話の度に思うのだが、元生徒が相手であることだし、雇い主としては少しでも威厳とうまい言葉を捜して披露したいところなのだが、いつだってどうにも格好がつかないような気がするトレイルだ。
「ホンマでっしゃろな? 頼んますわ、ホンマに、堪忍してくださいな。ここのお給金先三カ月分、ガクレンゲのミミデヴァル産栽培セットのローンに全部まわりよってからに、ホンマ、頼んまっせ?」
「大丈夫だって。でも……もし困ったことがあったら、大陸教会の事務長に話してくれれば、私の名義で少し貸し出してもらえるように言っておくよ。確か、名前はフューゴさんだったと思う。どうせ教会の敷地にコレを持ってかなきゃならないんだし、今日中に文言証明書も作るつもりなんだ」
 トレイルは店先にずらりと並んでいる様々な鉢を視線で示して肩をすくめて見せる。先に乾燥させて販売している類の品はともかく、人の背丈ほどもある大型の鉢などは運ぶ事そのものが大変である事は目に見えている。
 教会の一角にある〈十二師〉としてのトレイルへ与えられている個人的な敷地は、今までも倉庫代わりとして雑多な研究書や歴史書が詰め込まれてきたから、これらの商品を全部持っていっても置ききれるかどうかわからないが……貴重な品種の株もある事だし、大事なものから運んで行くしかない。今は深夜と呼んでもおかしくない時間帯であることや、さすがに寝ている担当員を叩き起こすほど緊急の要件であるとはとても言えない状況だから、教会本部に連絡する事も控える事にする。あまりトレイルの動きをあからさまにしてしまうと船長の行動にも障りがあるだろうからだ。もっと明るい時間になれば、正式な手続きで教会の中に別の敷地を用意してもらえるのだから、まだそこまで焦らなくても良いはずだ。
――肝心の船長の姿も、寝室に無かったし。
 案の定というか、当たり前というか。シーツには横になった気配もないし、玄関口には変化も無い事を考えるに、トレイルと別れてすぐに、窓辺から屋根を伝って出かけたに違いない。
 とはいえ、船長がいない間に店の準備をしておけるのはありがたい。居たら居たで何らかの邪魔をして来るはずだから、荷造りに専念したいトレイルとしても都合がいいのだ。
 ターキスが運び出すために梱包された鉢――もちろん、トレイルが二人が来るまでに、最優先の品だけを包んでおいたのだ――を一通り確認すると、腕組みして頷いた。
「ほんじゃ先生、ウチらも運ぶの手伝いますよってに。教会のお偉いさんに顔覚えてもらわんといかんけんからにぃ。おい、ヒルラ、いつもの荷車じゃ小っさいわ、デカイの、右尾羽からもっとデカイ荷馬車でも借りて来いや。先生の名前の一つ二つ出しゃ、あすこも何もいわんて」
「構わないけど、そこのナミダミソウ亜種三つの鉢はオレが運ぶから。触るな。絶対触るな。触るなって」
「ワイが簡単に触っていいようなガサツな植物じゃないんだからってか? 誰がガサツじゃ、ボケッ!」
「念の為に言っただけ」
「だったら三度も連呼する必要あらへんやろ!」
「念には念をいれただけ」
「『念』『念』言うけど、『念には念を』じゃ『念』は二回しかあらへんがな。『念』に『触るな』で一組なら、三度目の『触るな』は余計じゃろが、ボケナスが」
 顔つきからして勝気で、多年草の改良と繁殖の研究に関しては右に出る者がいないターキスに対し、重たげな瞼を半分だけこじ開けているようなヒルラは、植物に関する事なら百科事典もかくやとばかりの知識を詰め込み引き出す事ができた。動的な交配研究と静的な分類研究という意味でも、二人は全く正反対なのだ。
 席を外すという合図に、トレイルに向かってぺこりと会釈したヒルラが右尾羽ギルドのある左手方向に歩き出し、近道の路地に入って見えなくなってしまった矢先の事だった。
 突然、寒さの残る朝の路上に、金属的な笛の音が鋭くも間抜けな音色を響かせ始めたのは。


 シラトスにざわめきの無い場所などほとんど無い。だが、その集団の勢いは明らかに常軌を逸した気配を、曲がり角の通りの向こうから放ちつつやってきた。大声でわめく声、笑い声、女の艶っぽく陽気な笑い声もある。足音高くトレイルの店がある小さな商店街へ近づいてくる一団。同じような衣装を羽織っている様子を見るに、どうやらその黒地に桃色の派手な衣装は制服のようなものらしい。やや黄色がかった肌の人々と東方風の衣装で颯爽と夜風を切るその一団は、見た事の無い楽器を各々手にしては思い出したように軽快なフレーズを短く、そして騒々しく鳴らしては何事かわめいた。一際目立つ筋骨隆々とした髭の大男二人と、艶やかな衣装と露わになった肩と胸元を見せつける三人の美女を中心にして、二十名ほどの不思議な団体はゆっくりとやってくる。
「……なんじゃ、ありゃあ……」
 小さくターキスが呻いたのが聞こえたのと同時に、トレイルは目元を手のひらで叩いてため息をついた。
 集団の先頭には、衣装の様子から察するにリーダーらしい褐色の髪の男が陽気にクルクルフラフラ踊っており、その男と肩を組んでケラケラ笑いながら共に踊るのは――いわずと知れた、長身と円筒帽、そして危険なほどグルングルンと振り回される黒杖の組み合わせだ。
 リーダーは、酔って呂律が回らなくなっているのか訛りのせいなのかわからないが、不明瞭な街道共用語で一声叫んだ。
「船長ぉ〜、次はアイツ〜だ〜ッ!」
「おおお、いいぞいいぞ、行ったろか!」
 船長は明らかに酔っている陽気さで返事を返す。トレイルには信じられない光景だ。いつもならいくら呑んでもほろ酔い程度で終わってしまう船長が、浴びるほど飲んでも平然としている船長が、明らかに酔い狂っている。長い付き合いのトレイルでも見た事の無い姿だ。一体どれだけの量を飲んできたのやら。
 ふと、こんな状態の船長と行動を供にするのかと思うと、背筋が寒くなるトレイルだったりする。何をしでかすかわかったもんじゃない。
 トレイルの想いも知らず、船長は嬉しそうに肩を組んだままリーダーと一緒に道を横切り、トレイルの店の向かい側の並びにあった雑貨店――この『イタチの小包雑貨店』にはトレイルも鉢やラッピング素材の調達にお世話になっているのだが――の前に積み上げてあった、空の木箱に杖の先端を向けた。商品搬入用の木箱は、店主達が開店直前になってから軒下に並べる安売り用の品を入れるべく使われている物で、まだ市場に行く時間帯である今現在は、邪魔にならないようひっそり片付けられていた。
 船長は、外見だけなら自分と同じ年代に見えるリーダーに、肩を叩きながら大声で言い聞かせた。
「ツクト、一緒に蹴るぞ、蹴れ! 足を出せ! 『せいの』で右だ、右! 馬より強いお前の右を見せてみろ!」
「わかってら、まかせろ! 腰も入れて、三本目の足ごと、船長にくれてやらぁ!」
「んなもんいらねぇ! さっさと故郷《くに》に返してきやがれ!」
「船長……あんたバカですかい。シラトスのオンナが泣いてありがたが〜る俺の三本目の足が、あんたの売り物にならねぇってんですかい! そりゃ〜ねぇ〜ぜ! あんた絶っ対、商才ねぇよ!」
「無くてもいい。いいからいいから、ああ、北海沿岸の呪リボンつけて返してやるから、僕に汚い代物を見せるなってんだ!」
「ほんとに失礼だなぁ、あんたは!」
「ツクト程じゃないぜ。紳士的な発言をしただけだ、そう、紳士として!」
「嘘つけ、なぁ〜にが、紳士だ馬鹿野郎、このペテン師野郎が! 大陸商人なんざ、ペテン師ばっかりだぁ!」
 あはははははは……と勝手に盛り上がっている。
 唖然としているトレイルとターキスの目の前で、二人は仲良く『せいのッ』と声を掛け合い――綺麗に積まれていた木箱の壁を一撃。バラバラと崩れ落ちる木箱たち。
 当然あがる盛大な崩壊音、振り返る通行人、リーダーの行動に手を叩いて笑う例の集団が、駄目押しとばかりに高らかな勝利のフレーズを鳴り響かせる。その音楽にのって、船長とリーダーは木箱を一つ一つ各個撃破しては大声で笑い合っているのだ。船長が杖を振り回すたび、リーダーが奇声を発しながら足を振り下ろすたび、乾いた板が澄んだ甲高い断末魔を発して真っ二つにされては木屑を撒き散らす。しかもどこが楽しいのか一つ壊すごとに腹を抱えて笑っては次の箱を破壊に行く。簡単に終わりそうも無い。木箱全部を粉々にするまで止まるつもりも無いのだろう。
 思わずため息をもらすトレイルだ。『イタチの小包雑貨店』には、どんな言い訳をして謝りに行けばよいのだろう?
「先生、まさか知り合い、ですかいな?」
 見物人がちらほら集まりはじめる中、ターキスが露骨に変なものを見た顔で、トレイルの表情を覗き込む。
「先生、いつも静かですけん、あんなぎょーさん暴れる知り合いがいるとは、思いもしませんでしたわ。いやはや、意外意外」
 さすがのターキスも、いつものように流れるような言葉は出てこないらしい。トレイルももちろん、いつも以上にしどろもどろ。
「いや、知り合いというかなんと言うか……」
 あんな酔っ払いを、仮師匠だと紹介したくなどない。
 ここは赤の他人を装って、こっそりこの場を立ち退くのが先決だ。
「ターキス」
「はいな、先生」
「ヒルラと一緒に荷馬車を借りてきて。私は店の二階にいるから、裏口から――」
 とりあえずこっそり店の中に避難することを念頭に指示を考えていたのだが。
「トレイル君!」
 裏返った船長の声。見つかった!
 トレイルは急いで「ターキス、早く逃げて!」
 リーダーの襟首を捕まえると、二人に向かってフラフラとやって来る船長は、最上級の笑顔でトレイルに声を投げる。
「おや、そっちの方は、ど、どなたかい? こちらの方はぁ、東方の雑技団のみなさまだ! そんで、で、この人が一番偉ぁ〜いツクトさん。ご挨拶したまえ、トレイル君! さあ、ご挨拶!」
 声の大きさがコントロールできないのか強弱激しく、そしてところどころドモリながら、船長は肩を組んでいるツクトの頭を手で下げさせる。
「はい、こんにちわぁ〜、だ!」
「やめろぁ、船長、やめやめ! ふざけんなよ、こんちくしょう! あいさつぐれぇ、団長としてぴかーと光るの一発お見舞いしてやらぁ!」
「いや、そのままでそのままで。お願いですからそのままで」
 ツクトはトレイルの静止に納得いかない顔で――でも相当酔いが悪い方へ行き始めたのだろう、何度か口をもぐもぐさせるとガックリと頭を垂れた。
「先生……この人、一体……」
 逃げるよう指示したはずだが結局場に留まっていたターキスが、ツクトの体をガンガン揺さぶって意識を確認している船長を指差す。船長はツクトの首が揺さぶられるままにカクカク動くのが楽しいらしく、ターキスの様子には気づいていないが。
 もうどうでもいい。これからしばらくの間は店の管理についてターキス達の世話になるだろうし、紹介しておいても構わないだろう。いずれはバレてしまうのだろうし。
もうどうにでもなれ。
「私の、仮師匠です」
「先生の?」
「はい」
 ターキスだって馬鹿ではない。トレイルが本来、どのような人間であるかなどとっくにご存知だ。
 それでも数秒考え込むのは、言動に反して、ターキスがどれだけ真面目であるかの証拠だろう。だからこそ、トレイルも彼を雇う気になったのだが。
 案の定、結論が出た瞬間、ターキスは目をむいてトレイルの胸倉を掴んだ。
「じゃ、じゃあ、このオッサン、〈十二師〉の一人なんですかいッ!? マジで!?」
「手、手離して! 苦しいから!」
「えええ、マジでマジで!?」
 色めき立つターキス。それもそうだ。大陸教会では生きた聖人とされ、知識と武力と魔術の権化ともされる賢者級魔術師の、しかも女神の直弟子達が〈十二師〉である。
 トレイルはまだまだ新米だが、そのトレイルの兄弟子となれば確実に千年単位で生きる魔術師である。魔術師として、研究者として、〈十二師〉の存在に直に触れあえる貴重な機会に、胸を躍らせないわけがない。
 そんな夢見心地になりかけるターキスを、やっと襟から手を離してもらったトレイルは咳き込みながら否定。
「ゲホッゲホッ……いや、この人は……〈十二師〉じゃないんだけど……ゲホッ……まあ、〈十二師〉みたいなもの、なのかな? ゲホッ」
「だって先生の兄弟子さんなんでしょ? じゃあ〈十二師〉なんじゃないですか!?」
「うーん。でも教会はこの人の事、破門された事にしてるから。師匠がこの人の事を破門するなんて考えられないんだけど、そういう扱いにする事になっちゃっただけで。だからこの人、シラトスじゃ偉くもなんともないんだよね、本当にただの大陸商人ってだけで。実際に凄いのか凄くないのか、僕でもわからなくなる時があるし」
「それって、まさか……」
 ターキスの顔からさっと血の気が失せた。彼もシラトスに長年滞在している以上、シンリュウ大陸全土に広がる伝説を知っているはずだ。そして、二百年前、シラトスで起こった事件の事も。
「ありえへん! 絶対ありえへんわ、あの化け物がこんなオッサンやなんて!」
「あ、他言無用にね、ターキス。僕もあんまり言いふらしたくないし、今は事情が――」
 船長が「そこ! ブツブツブツブツ、何言ってんだい!」と、トレイルとターキスに杖を構えた瞬間だ。
 ツクトがうっと呻いたかと思うと、そのまま腰を折って路上に水っぽい吐瀉物を撒き散らした。
 呆然とするトレイルとターキスの前で、船長と騒々しい一団が笑いと楽器の慌しい音色を響かせた。



 ツクトの嘔吐で、ただでさえ酒臭かった船長がどことなく酸っぱい匂いを漂わせるようになってしまい。
 トレイルは自分の店の前の吐瀉物と、雑貨店の前にばらまかれた木箱の破片を片付けている間、船長を無理矢理風呂場に連れて行き体を洗わせた。
 『イタチの小包雑貨店』の店主は、頭を下げて弁償代を差し出すトレイルと、寝ぼけ眼をこする騒動の張本人の船長を交互に何度も見ては「大変だねぇ、先生も」と呆れた呟きを漏らしていた。雑伎団の面々はぐったりしたリーダーを二人の大男に担がせ、柳腰の美人が三人揃って必要以上と思えるほど丁寧に謝罪し、七色に光る東方の珍しい焼物で出来たカンザシや櫛と一緒に弁償金を支払ってから立ち去った。だからこそ尚更、トレイルと船長の組み合わせはみすぼらしく見えたに違いない。
 もちろん、いざ体を洗えとなったら、酔っぱらっている船長はかなり抵抗したし、着替えさせるにも替えの服を取り出すにも――船長は自分の替えの服を魔術工芸品の一つの中に封じ込めて常備しているはずなのだが――子供のように拗ねて素っ裸のまま十数分座り込んでいたりと、なかなか思うように作業は進まなかったわけで。
 有り難いことにターキスと荷馬車を借りて合流したヒルラが手際よく雑用を済ませてくれたおかげで、船長がようやく着替えを終え、ウトウトとした浅く短い睡眠から目覚める頃――船長が例の集団と共に姿を現してから、時間にして二時間ほど過ぎただろうか。その頃には全ての準備が整っていた。
「で? どこ行くんだい?」
 船長は顔をしかめて真水の入ったガラス瓶を片手に、もう片方の手で常に手放さない杖を抱えて馬車の荷台から、運転席のトレイルに尋ねた。自分の頭を小突く仕草は、頭をはっきりさせたいのか二日酔いの兆候でも出ているのか、トレイルには判断しかねた。
「大陸教会の敷地に、僕の店の品を置いてくるんです。何かあった時に、めちゃくちゃにされちゃ堪りませんから」
 船長は低く唸った後、馬車の手綱をとるヒルラと自分の側で大きな鉢がひっくり返らないように支えているターキスを眺めた。
「……じゃあ、私は来なくても良かったんじゃないか」
「駄目ですよ。またあんな暴れかたされちゃ、僕が困りますから!」
「まさか。まだ朝焼けが出たばかりだろ、すぐにはやらないよ」
「今の貴方がその気じゃなくても、そのうちその気になる事を、よーく知ってるんです、僕は」
 運転台から振り返り、荷台の船長の視線を捕まえる。絶対に譲らないというトレイルの無言のパフォーマンスに、船長は頬を膨らませて不満を露わにした。
 だがそれも通用しないと理解すると、肩をすくめて諦め顔。
「教会には行きたくないんだよ。あいつら頭堅くて。私の素性が知れたら、何されるかわかんないし」
 その言葉に対してターキスが落ち着きなさそうに視線を彷徨わせるのを、船長を睨んでいたトレイルは視界の端で捕らえていた。やはり気にしているようだ。正体を明かすにはちょっと早すぎたのだろうか?
 そして、敵か味方か定かではない他人の挙動には敏感な船長の事だ。ターキスの様子にもトレイル同様気づいているのだろうが、何事も無かったようにトレイルの肩に腕を回す。その腕がまだほんのり酒臭いのは、仕方がない範囲だろう。
「なあ、トレイル。私がこの街に、一体何年ぶりに帰ってきたと思ってるんだい? 顔見知りもいなければ、今はどの宗派が有力なのかすらわからないんだぜ? 穏健派ガルジャーヅ党の現党首の顔どころか名前すら知らないのに、その懐に飛び込めなんて冗談、聞いてられないぜ?」
「裏門から入りますから。船長は何もしなくていいんですよ。僕の顔見知りは、僕だけで対処しますから」
「君の教え子だっているんだろ? 私は先に魔術学院に行ってるから、三人で行ってこいよ」
「魔術学院がこんな時間に、学院長以外の身内もいない船長を入れてくれるわけないでしょう? 行っても徹夜明けの学生がフラフラしてるのを観察できるぐらいですよ」
 睨み合う二人をよそに、ヒルラが「先生、もうすぐ教会外壁の西門に着きますけど。どうします?」と、いつもどおりの落ち着いた抑揚のない言葉をかけてくる。
 シラトスの大聖堂は、三十三巡礼地の最東端として有名だ。主神ティルマ・アギエがこの世界に最初に降り立った場所であり、そして立ち去った場所であるこの敷地は、聖地に部外者がむやみに入られぬよう高い壁に囲まれている。内部は広い草原と小さな四季ごとに色を変える季節時計式庭園が一つ、聖地である記念碑が一つ、そして大司教使の館であるシラトス大聖堂とそれに関する無数の小堂、そしてそれらを取り囲んでまばらに配置された〈十二師〉用の小屋が八棟。〈十二師〉の小屋の数が十二に足りないのは、大陸教会の世話にならないと宣言している者や、すでにこの世にいない〈十二師〉の小屋は建築されなかったからだ。
 外壁西門は、トレイルの為にある小屋へ最も近い事からよく利用していた。とはいえ、広い教会敷地内と比較しての事だから、その西門から小屋までだって徒歩で十五分はかかってしまう。傾斜は緩やかとはいえ坂の多いシラトスとしては、とても信じられないほど平らな草原を横切る事になるのだが、大聖堂そのものの巡礼者による賑わいが嘘のように人気もなく、トレイル一人だけでやって来るには、少々心細い風景の中に立つ小屋であった。トレイル本人に言わせれば「欲しくもない小屋を押しつけられて楽しくもない場所に住んでいるより、思い切って物置小屋にしてしまうのも当然」なのである。
 門番が荷馬車に気づいて止まるよう合図するのを目にし、船長はトレイルに向かって市場でよく見かける、ドケチ野郎を示す節約の神への印を切って渋々ながら頷いて見せた。
 船長の了解を得て、トレイルは御者席から降りた。できるだけ柔らかく、商売人として学んだ物腰で挨拶。
「おはようございます、騎士さん」
 トレイルの呼びかけに、西門両脇に控えた門番は鷹揚に頷いて見せた。
「私は大陸教会聖人認定階級賢者級登録類〈十二師〉の一人、トレイル・トリルアーガスです。私の持ち物である建物にまで用がありますので、門を開けていただきたい」
 二人の門番は揃ってジロジロとトレイルの体に視線を走らせる。トレイルはくすぐったい気分でそれに耐え、少しでも自分の姿を立派な肩書きにふさわしい印象に近づけようと、さほど大きくも立派でもない胸を張った。
 門番は互いに顔を見合わせた後、滑稽なほど同じタイミングで、兜のバイザーを下ろした。
「聖人様の名を語る前に、まずその証明をしていただきたい」
 トレイル達から向かって右側に控えていた門番から響くその声は、驚いたことに女性のものだった。
「証明が出来ぬのなら、そのまま帰られるか、日が昇るのを待って正門から入られるがよろしい。嫌ならそれ相応の対応をさせていただく」
 意外な成り行きに面食らったトレイルは、途方に暮れて立ちつくす。荷馬車の手綱をしっかり握ったままのヒルラがいつもどおり「どうしましょうか、先生?」
 ヒルラの冷静な言葉は、大抵の場面ではとても有り難い助け船となるのだが、こんな時には小心者のトレイルの混乱に拍車をかけるだけだ。
 まさか自分の身分を証明する事態になるとは思っていなかったのだ。半年前、蔵書の一部を持ってきた時にはこんな検査など無かったのに。
 それ以前に、仮にも教会兵にすら顔を覚えてもらえていない枢機卿――〈十二師〉は枢機卿階級と同等の扱いを受ける権利を持っている――というのも、どうかと思う。長年、三年おきには祈願祭のパレードにも参加しているのに、おそらくこの門番達も小さな頃から自分の姿を見ていたはずなのに……なのに、本人と証明しろなんて追い返されるとは。
 どこの教会にそんな枢機卿がいるというのだ?
 荷台の船長の横から――とはいっても、船長の服にすら触れぬようそっと離れて、だが――ターキスが指で輪を作り、左目に押し当てる。
「先生、いつもの眼鏡はどうでっしゃろ? 先生、教会の仕事の時にゃ、いつもアレ付けてますやろ? パレードの時もやってるアレですわ」
「……ごめん、今は持ってないんだ。家の金庫の中」
「魔術学院の教員証明は?」
「学院に置きっぱなし。商売する時に悪用されると困るからって、主任に預けさせられてる。学院に着いてから持たされるんだ、毎回」
「じゃあ、眼鏡をこっちに魔術で持ってくるっちゅーのは、どーですかい?」
「あれにはそういう処理をしたくないんだよ」
 ターキスの言っている眼鏡は、師匠がトレイルの為に作った片眼鏡だ。『緑眼』と銘の入ったその品は、トレイルが〈十二師〉の資格を有しているという事を証明する唯一の品である。兄弟子達ならともかく、新参の若造が師匠から与えられた大事な品を、魔術などで軽々しく扱う事などできやしない。
「ちゅうか、どうしてそんな普段着なんですかい。最初っから教会来るつもりなら、もうちょい気張らんと。そんでなくとも先生、どこのガキャ騒いどんかい思うよな頼りなーお人に見えますでな、ちみっとでも大先生らしーカッコしてもらわんと、弟子のわしらも恥ずかしいですがな。しゃーない、わしが店までひとっ走りして取ってきますわ」
 呆れるターキスに、同調してウンウンと頷く船長。まだ離れて立つターキスの肩を無理矢理叩く。
「トレイル君の失敗にそこまでする必要なんか無いよ……ええーっと、君、名前はなんだっけ?」
 驚いた猫そのままで、一瞬飛び上がったターキスは、自分の頭二つ分以上は上についている船長の顔に向かって引きつった返答。
「た、ターキス。ターキス・ウェスリーヴ」
「そう。じゃあ、あっちの手綱を握っているのは、どちらさま?」
「ヒルラ・タク・ウォタン。わしの幼馴染《つれ》です」
 いつもよりは丁寧に、比較的ゆっくりと答えるターキスに対し、船長はまたウンウンと頷いた。まだ酔いが残っていると見えなくも無い仕草だが、今更どうしようもない。
「ありがとう、ターキス。では私の事は『船長』と呼んでください。お間違えの無いように。『オッサン』だなんて無粋な呼び方、紳士的じゃありませんからね」
 ツクトと暴れていた時、ターキスが叫んでいた言葉をしっかり覚えていたらしい。前後不覚でもおかしくないほどさんざん酔っぱらってたクセに、そんな事ばかり覚えている。
 おののくターキスに顔を近づけ、船長はニヤリ。
「ではターキス、貴方の今の服装センスを見る限り、貴方は普段から若者らしい格好を好む洒落者らしい。ちょっと独創的過ぎるところもあるけれど、この際譲歩しましょうか。いいですか、貴方は明日にでもトレイル君に新しい服を買ってあげてください。あ、代金はもちろんトレイル君持ちで。この人は地味すぎるから、ちょいと派手なぐらいの品がいいね。生地の色は明度の高い奴を選んで、もちろん金糸か銀糸でアクセントを入れて。ちゃんとした仕立屋に行くだろうから大丈夫だとは思うけど、裏地にはちゃんと名前を入れてもらうんだよ。それと、トレイル君は装飾品に関しては冒涜かと思うぐらい無頓着ですから、無理矢理飾っちゃって。こっちは純金でね。変なマゼモノは安くても手を出さないこと。魔術師ギルドの|アオスカシ《蒼色魔力羽》なんか付いてると、いかにも魔術師って感じで良いですね。トレイル君が孔雀みたいに滑稽にならないことが前提だけど。いいね、ターキス。君が服を選んでやること。約束だよ」
 言うだけ言ってしまうと、船長は眼を白黒させるターキスの手をとって握手。そのまま身を翻すと荷台から飛び降りた。着地の時にふらつき、あははと一人で笑う。
 何をするのかと一堂が――門番だけではなくトレイル達すら見構える中、船長は手にしている杖でトントンと石畳を突きながら、左右の門番に一度ずつ礼。
「朝早くからご苦労様です。私、ライル様と懇意にさせていただいている大陸商人でございます。連れが失礼をしまして、お許しください」
 もう一度、酔っ払いとは思えないほど優雅に一礼。
「お二方もご存知のように、ライル様は『シラトスの守護者』として、常にこの地の平和に気を配ってらっしゃいます。今、この時も、おそらく夢の内、眠りの外、いやいや、お忙しいあの方の事だ、眠りすら惜しんでこの街を見守ってらっしゃる事でしょう」
 トレイルは門を通れなかった先のショックに重ねて唖然。よりにもよって、ライルの名前をだしに使うなんて。
 船長はコホンと咳払いすると、胸に手を当てて心酔のポーズ。
「ええ、まさに今この時にも、かの御方はシラトスの平和を願い、不埒な輩の横行を憂いていらっしゃるのです。我々は先ほど、トレイル様の名をもって門をくぐろうと致しました。重ねてご無礼をお許しください。そして、我々がライル・カイデン様の命を受けて、貴方がた聖域の西方の壁を守る方々を試させていただいた事も、その事実を任務の性質上伏せねばならなかった事をも、深くお詫びします。忠実なる教会の皆様に対してライル様も大きな感謝の念を抱いている事でしょう」
 トレイルはもう既に、開いた口が塞がらないでいた。
 トレイル自身を偽者としてしまい、先に犯したトレイルの失敗を全て狂言であり、ライルから依頼された抜き打ち検査の為の芝居だと、船長は言い切ってしまったのだ。
 これでは本物であるトレイルの立場がない。それに、もしこの嘘がライル本人の耳に入ってしまったらどうなるだろう? 船長の外見と燕尾服姿はあまりにも目立ちすぎる。即、追っ手がかかるに違いない。
 もちろん、船長がそれぐらいで行動を改めるとは思えないが。
 そして今も、興に乗った船長は大げさに両腕を広げる。
「さて、お二方。ライル様とトレイル様の関係をご存じでしょうか? かのお二方は女神のお弟子さまにして、仮師匠と弟弟子であった事のある間柄でございます。この関係の絆の強さは貴方がたも、魔術師で無くともシラトスに住む者ならおわかりでしょう。いえいえ、武の門を叩く方々なら当然ながら、魔術師達よりもよくご存じかもしれません。しかしながら、シラトスにおいてライル様がトレイル様に表わす愛情は、世間一般から見るに随分と情薄いものでした。いえいえ誤解なきよう、ライル様が愛しい弟弟子に対して行った仕打ちには理由がございます。なぜなら、かのお方にはあまりにも敵が多すぎた。領地を奪うべく虎視眈々と狙う隣国のミストラ、イスハラ、グリニアの中央三国の動きを見張る事など言うに及ばず、いつの時代にも政治をひっくり返そうともがく獅子身中の薄汚い虫けらどもが湧いては出、女神の威厳を損なわせるような心清らかならざる聖職者の行動を、女神に成り代わり戒める剣であらせられるのですから」
 一度言葉を切って聴衆の反応を見る船長。
 トレイルは仮師匠のどこへ行くのかわからぬ暴走に胸をハラハラさせ、逃げ道を探して辺りを見回していた。船長の話す内容に関しての逃げ口上も、現実に門番に追いかけられる時の逃走経路にしても、何に対しても逃げ出したくてたまらない。
 ヒルラとターキスは荷馬車に体を預け、興味津々といった様子で耳をそばだてている。雑多な学問の徒である学院ギルドのメンバーらしく、この手の歴史や小話には目がないのだ。それ以前に、自分の教師だった人物――もちろん今の雇い主の事だ――その過去の話となれば尚更だ。ヒルラは心持ち体を乗り出して、船長の言葉を拾い上げようと耳を前に出すべく横を向き、ターキスは荷台と御者台を分ける仕切り板を乗り越えようとジタバタしていた。
 門番達は突然はじまった講談師の語りに驚きながらも、感心なほど直立不動のまま聞き入っていた。表情は先に下ろしたバイザーの陰で見ることはかなわないが、長柄槍を握る手に込められた力がわずかに緩められるのを見て取る事ができる。
 船長は満足そうにそれらを確認した後、コホンと咳払い。手にした杖を、重要な話をする時の教師そっくりに、手のひらに打ち付けて見せた。
「さてさて、『男もかくあれ女もかくあれ』の美しい聖人様は、お一人でシラトスの全てを覆ってらっしゃる。そう、このシラトスという未だ眠り続ける卵を暖めるべく、いつでも翼を広げていらっしゃる。穏やかな春の日ばかりでもありますまい、雷神が風の民を伴って襲いかかる月日もございましょう。ですが『シラトスの守護者』様は、女神の帰りを待ってこの地で翼を広げていらっしゃるのです。今この時も。そのお優しいライル様が、ご自分の弟弟子をこの辛く静かな戦いの日々に巻き込もうとなされるでしょうか? どこから襲われるかもしれないというのに、自らの愛し子を敵の前に宣伝するような事をなさるでしょうか? 答えは言うまでもなく、否。否です」
 ニヤニヤと表情を崩し、船長は右側の、女性と思われる門番にゆっくりと近づいた。
 船長は鉄で縁取りされた重い樫の扉を杖で叩きながら、言葉だけはへりくだっているものの尊大なる態度で――そう、まさに高位の者から授けられた権力を笠に着る人物そのままに、教会兵に顔を寄せた。
「ご理解ください、門を守る御方。私はライル様から直々のお言葉をいただき、親愛なる弟弟子への贈り物を人に知られることなく、教会敷地へ運ぶよう依頼された大陸商人でございます。そしてライル様はこちらの敷地がこの度新たな体制をもって警備を強化された事の確認をなされた。この朝に起った事件は、ただそれだけでございます。これ以上のお話や手続きは、私やライル様の立場だけではなく、貴方がたの立場も危うくする事でしょう。どうか、私の言葉をよくお考えなおしください」
 一時の沈黙の後、左側の門番が「おい」と低い男の声で囁いた。明らかに、自らの引き際を考えての言葉だったが、右側はかすかに首を振って否定した。船長の右眉が思いがけない反応に対して楽しげに跳ね上がったと同時に、彼女は兜越しに低く唸った。
「貴方の言い分を聞くと、依頼主はライル・カイデン様と見受けられるが、荷物を運ぶ場所はトレイル・トリルアーガス様の屋敷らしい。仮にライル様からの命令である事を信じるとして、門をくぐる事には目をつぶるとしても、トレイル様の屋敷に無断で踏み込むことに対しての許可と証明はどうするつもりだ?」
 船長はしばしの間、相手の兜をしげしげと見つめた。まるでそうすれば、兜の奥に隠された彼女の顔が見えてくると言わんばかりに。
「なるほど。今時の教会兵には、少しばかり要領の悪い子も混じってるらしい。でも私は貴女みたいな人に敬意を払う類の人間でしてね。いつかお食事に誘えるよう、よろしければお名前を教えていただけませんか?」
 門番の女性はわずかな躊躇の後、コールンだと答えた。
 船長は一度だけその名前を繰り返して確認すると、おもむろに懐を探った。一通の封書を、門番達に警戒されないようゆるゆると取り出して見せる。
「お二方の関係を考えて、なるべく使いたくなかったんですが……さぁ、コールン、お名前を教えてくださった代わりにどうぞ、受け取ってください。そしてお確かめください。正真正銘、トレイル・トリルアーガスからの依頼書です」
 もちろんの事だが、一番驚いたのはトレイル自身である。船長に渡したどころか、書いた覚えすらない依頼書など、一体どこから調達したというのか。
 魔術? いやいやと弟弟子は首を振る。船長が偽造のような繊細な手腕を必要とする魔術を扱えるとは思えない。彼は全てが単純かつ大雑把であるから脅威であるのだ。今回のように時折発揮してしまう詐欺師としての才も、その楽観的ともいえる性格に根ざしているものに違いない。
 そして、仮に船長が魔術を使用していたとしても、ターキスやヒルラはともかく、トレイルに察知できない程うまく発動させられるとは思えなかった。
 もしや本当に自分が書いたのか? いつ、どこで? しかも、しっかりと『白猫のほおずき花店』の透かしが入った店オリジナルの紙を使っているのだし、紙の変色も少ないところを見ると最近書いた物であるのは間違いない。では本当に自分が――今朝の騒ぎの後始末に追われていて忘れているだけなのか? 最後には自分自身すら疑うトレイルだ。
 教え子達がそんなトレイルの様子を横目で確認している。感心した表情なのは抜け目ない船長に対してだろうか? 少なくとも、今回の件で自分の評価が下方修正されてしまった事はヒシヒシと感じているトレイルだ。
 門番は渋々ながら依頼書を受け取って、船長へも幾分か丁寧な口調に切り替えた。
「貴方の名前をまだうかがっていないが?」
 声調へ不満をにじませた彼女に、船長は肩をすくめる。
「貴女の将来の為にも、聞かない方が良いですよ? この通り、裏のある仕事しかしていない根無し草の大陸商人ですから。どうしても知りたいなら、トレイル様に聞けばよろしい。彼が教えてくれるなら、の話ですが」
 当の本人を目の前にしての会話とは思えない――トレイルは、今朝から数えて二度目になる、額を手のひらで叩いて夢では無い事を確認。心中穏やかではない自身の動揺をごまかす事に専念する。
 二人の門番達はそれぞれ一度ずつ、依頼書の全ての各所を点検し、最後には魔術工芸品を使ってまでそれがトレイルの店の物だと確認した上で、渋々ながらそれを本物と認めた。コールンと名乗った女門番は、相棒に閂を持ち上げてもらい、重い扉を開きながらぼやく。
「最初から依頼書を見せれば、こんな面倒は無かったのにな」
「だから言ったでしょう? なるべく使いたくなかったって。私が〈十二師〉を二人も得意先に持ってると知られると、嫉妬する同業者が増えるんでね。敵は一人でも少ない方がいいでしょ?」
「それもそうだ」
 環境のせいだろう、男っぽい話し方をする女教会兵は、最後に船長の顔を不振の目で眺めてから顎をしゃくって中へ入るよう促した。
 門の向こう側では、朝方のどこか湿っぽい空気を湛えた草原が目の前に広がり、今まで歩んできた魔術都市の街並とは全くの別世界を展開させていた。
 長年シラトスで人生を過ごしてきたはずのターキスやヒルラも、教会の敷地にこんな広々とした、何もない場所があるとは知らなかっただろう。もちろん、郊外なら当然にあるべき風景だったし、仮にも植物の研究者である二人がフィールドワークに行った際に同じような光景を目にした事がないとは思えなかった。
 それでも二人が驚嘆の息を吐いたのは、郊外にも都市部にも見られなかった、聖地とされる場所にだけある独特の静謐が佇んでいたからに違いない。しずしずとトレイルの小屋へ向かって荷馬車を引いて行く、おとなしくて力強いミツクサ産の馬がたてる鼻息ですら、それらの無音を乱す大いなる罪の音に感じられた。
 大陸教会の聖堂付近に見られる世俗的な物とは違い、空気どころか何かの固まりとして触れられそうな程に濃密な、宗教的な拒絶の気配。ヒルラが胸元で小さく教会の感謝の印を切る。まるでその仕草が合図だったかのように、背後で門番達が扉を閉める重々しい音が響き渡った。
 トレイルは先頭に立って荷馬車を誘導していた船長が、天を仰いで呟くのを耳にする。
「きっとライルと僕は、この先生きてる限り憎みあうんだろう。けれどこれだけは感謝しなきゃ……ここがいつまでも変わらないよう気を配られているのは、あいつの馬鹿馬鹿しい程大きな努力があってこそなんだ」
 トレイルは改めて、見知った土地を眺めた。
 背の高い大陸商人が少年期を過ごした場所。〈十二師〉達の故郷とも呼べる景色。
 そして、立て続けに起った混乱で――なぜ門を通れなかったのか、なぜ船長がよりにもよってライルの名前を持ちだしてのハッタリをかましたのか、なぜ船長がトレイルの依頼書を手に入れていたのか――ぼんやりとした思考回路の片隅で思った。
 なぜこの男が、誰よりも〈十二師〉にふさわしいこの男が、〈十二師〉ではないのだろうと。こんなにもこの地を愛し、この地に存在する人々を出来うる限り記憶に留めようとしている男が、この地を追われなければならないのだろうと。
 答えはわかっていたにも関わらず、その時のトレイルにはそれが不思議でならなかった。




←PREV | INDEX=消えていく街 | Home | NEXT→
1-1 | 1-2 | 1-3 | 1-4 | 1-5 | 1-6 | 2-1 | 2-2
copyrights (c) 2001-2017 suzu3ne@CloudCollector'sVector(2CV) All rights reserved.