消えていく街・1-5
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 早く……早く……


 声がする。遠い昔に聞いた声。

『ライルが探してたけど?』
 扉の向こう、廊下からパエラの声がする。パエラは私達十二人――後に〈十二師〉と呼ばれる、アキの弟子達の姉役だった。医療系の魔術の基礎や器具を開発したのは、ほとんどが彼女の研究からだ。治癒系魔術の専門家を有する下風切羽ギルドは、彼女が中心になって設立された。
『ライル? どこにいるんです?』
 対するのは聞きなれた声。少し高めの、少しおどけたような、そんな特徴的な響きとメロディを持った彼の声。私はその声が嫌いじゃなかった。どこにいても彼の声だとわかるから。
 私は急いで、目の前の机の上を整理する。途中で放り投げていたメモ用の石版と教科書を手にして、頭を抱えるポーズ。今は勉強の時間。サボって積み木で遊んでたなんて知れたら大変だ。
『ああ、ちょっと待って、パエラ。アキの姿がないけど、どこにいったかわかるかい?』
『今日の予定なら……師匠は例のお客さんと音楽堂に行ったはず。朝、楽譜抱えて歩いてるの見たから間違いないと思う』
『わかった、ありがとう』
 唐突に扉が開いて、彼が姿を現した。十二人の中でも飛びぬけて背が高い彼は、ドアをくぐる時にひょいと首をかしげる癖がある。それが彼の、私への挨拶代わり。紫の瞳が私を見て、ちょっと驚いてるような顔が挨拶。
「やあ、どうした? 今日は自習だっていったよな? 何かわからないところでもあるのかい?」
 私は目の前の机に広げていた本を、黙って彼に突き出した。簡単な幾何だったけど、ちょっと捻って考えなければならない類の問題。答えなんてすぐわかったけど、人に聞いてもおかしくないような……そんな問題だ。
 彼は一瞥して、困ったように腕組みした。白いシャツに黒のベスト。彼がこの格好なのは珍しい。最近は師匠の使いであちこち出かけていたから、ずっとジャケット姿だったのに。今日は珍しくなんの用も命じられなかったから、少しラフな格好にしたんだろう。それにしても、相変わらずセンスのない格好。袖止めの飾りがごてごてし過ぎて、成金趣味に見えるってわかってるのかな?
 彼は問題を見たまま数秒間考えて、諦めたのか私に顔を向ける。
「ああ……僕が幾何が苦手なの、ライルも知ってるだろ?」
 知ってる。だから呼んだんだ。この人、どちらかと言えば感覚でなんでもやっちゃう人だから。理論派じゃないんだ、大雑把過ぎて。
「でも、貴方はこの課程も勉強したんでしょう?」
「ずっと昔にね。アキの弟子が僕だけだったぐらいに、すごく昔の話だけど」
「なら出来るはずでしょう。一番弟子の貴方が解けないなら、この類の問題は魔術師になるに当たって必要ない知識になるはずです。私に必要ない」
「いや、必要ないわけじゃないはずなんだけどな……あれ? なんで必要なんだ? レイザンに聞けば、一発で答えてくれるはずなんだけど……」
 数字に強い兄弟子が必要なんじゃない。彼の姿が必要なんだ。
 彼の困り顔は楽しい。いつも自信たっぷりで話すから、本当に困っている顔は滅多にお目にかかれない。特に、私に対して真剣に悩んでる姿ならなおさら愉快だ。
「わかった。もういいよ、貴方に聞いた私が馬鹿だったんだ」
「そういうなよ、ライル。もう一度見せなさい、お前が変な覚え方したら、僕がアキに怒られるじゃないか」
 ああ、またか。
 二言目にはアキ、三言目には師匠、四言目にはまたアキ……。
 貴方の中には、師匠しかないのか?
 彼は手持ち無沙汰なのか、単なる興味なのか。受けとった教科書をペラペラめくっているうち、ふと動きを止めた。
「ライル、お前、前に同じような問題解いてるじゃないか」
 あれ? そうだったけ?
 消しておいたつもりだったんだけど……ばれちゃうかな、毎回おんなじような問題で呼び出したら。でも彼は気づかなかったみたいだ。やっぱり大雑把なんじゃないか。
「なら大丈夫、すぐ解き方を思い出すって。お前は真面目だし、こういう問題は得意だからな。今回は飛ばして、次の問題を解いちゃいなさい」
 投げやりだなあ……とても私の仮師匠だとは思えない。人選誤ってるんじゃないのか?
 でもアキが師匠として、私の為に選んだんだ。文句は言えない。私も文句をつけるつもりはないし。
 それに……別の人間になったら、彼と会う機会が今より減っちゃうじゃないか。今でさえも、彼はアキの使いでいなくなっちゃう日が何日もあるのに。そんなのつまらない。
「そんなしけた問題はほっといて、でかける準備をしろよ。大丈夫、ライルはアキのお気に入りだから、見つかっても謝れば許してくれるって」
「でかけるって、どこに?」
「そんなのどうだっていいじゃないか。子供は外で遊ぶのが一番なんだよ」
「子供じゃない!」
「はいはい。わかったから急いで顔を洗っておいで。誰かに叱られる前にでかけちゃおう」
「子供じゃないってば!」
 私は着替えを取りに廊下に飛び出す。ベルーがびっくりしたように長いスカートの端を持ち上げて「ライル、廊下は走っちゃダメよ!」
 私はベルーが嫌いだ。いちいち小言ばっかり言ってくる。女々しいっていうか女らしいっていうか……。だから後に、彼女が魔術学院の初代院長になったことには凄く納得した。実際、礼儀作法にうるさい彼女にはぴったりだったし。今ならアキが私を彼女に預けなかったのもわかるんだけど、当時は彼女が仮師匠でなかった事を不思議に思ってた。多分あの頃のベルーは、融通の効かないただのヒステリ女だったから、アキも私を預けるのをためらったんだろう。
「文句はクラシスに言ってよ! 急げっていたのはクラシスなんだから」
「クラシス!? 珍しい、今日はいるのね? ……ちょっと、クラシス! 前から思ってたんだけど貴方、ちゃんとカノンとライルの躾を――」
 後ろの方でベルーに叱られてるクラシスの弁解が聞こえたけど、構うもんか。
 洗顔と着替えを出来る限り簡単に済ませて、廊下に出た途端
「うあっ!?」
「あははははははっ!」
 ものすごい力で引っ張られて、私の体は宙に浮いた。もがきながら、吹っ飛んでゆく廊下の景色を眺める。胸の下にまわされた腕の力強さと温かさを感じる。
「クラシス!?」
 彼は私を横抱きに抱えたまま、廊下を突っ走って外に出た。一度私を地面に降ろした後、彼の体に私の腕をまわす。子供を抱くように私の体を持ち上げなおしながら、彼は興奮したように早口で
「ベルーから師匠に告げ口される前に、さっさと行っちゃおうか。彼女、最近うるさすぎると思わないか? また誰かにふられたのかな?」
「通算十四度目だって、パエラが言ってた」
「なるほどなるほど。でもおっとりさんのパエラの言葉は、大体二割増しで考えた方がいいんだよ、おチビちゃん。僕の経験上から言わせてもらえばだけど。さ、ちょっとの間だから、目を瞑っててもらおうか」
 彼の気配が変わる。彼の背中に、力の流れが集中してゆくのがわかる。ここで――魔術師たちに囲まれて生活しているうちに、自然に見つけた気配の流れ。それを人は魔力とか呼ぶんだろうけど、私たちにとってはただの術式でしかなかった。音を並べて言葉を話すように、世界を構成してるいろんな物を並べ替えてるだけなのだ。この気配の流れは、並べ替えてる範囲が広がってゆく様を感じ取ってるだけ。風の流れのように、不思議でもなんでもない事。
「いい加減にしてよ、チビっていうな!」
 言うべき文句を叫びながら、私は目を閉じた。
 見ちゃいけない。彼は自分の姿を人に見せるのを嫌がるから。
 顔を伏せた私の左の頬に、彼の胸が触れる。見た目じゃわからないけど、しっかりと張り詰めた筋肉のついた胸。私や、他の弟子たちを守ってくれる力強い胸板だ。
 私はそっと、ガリガリに痩せている自分の胸に手をやった。
 ここには何もない。今は何も。自分自身さえも守れない、無力で情けない自分しかない。
 私は戦災孤児だ。アキがクラシスを派遣して私を拾わなければ、きっともう死んでいただろう。アキは私がどこにいたのか、生まれた時から知っていたし焼け出されるのも予測していたといった。それが起こるべき事で、師匠自身の強大な魔力をもってしても覆せない出来事だったのだとも。
 最初こそ両親を助けてくれなかった事を恨んだけど、今は感謝している。
 私に生活の場所と学ぶ機会と、沢山の兄弟同然の兄弟子たちをくれた人だ。恨む事よりも感謝する事を沢山してくれた。
 しかも私の仮師匠に、自分が一番信頼している彼を選んでくれた。
 私は師匠の信頼に答えなきゃならない。そして、仮師匠に選ばれたクラシスの為にも、早く一人前の魔術師にならなきゃならない。
 あの時、「おいで」ってクラシスは言った。あの人が笑いながら差し出してくれた手は、あったかくて大きな手。あんな風に、誰かを助けられる魔術師になれたらいいなって思った。誰かに手を差し伸べられる魔術師になれたら嬉しいなって。
 早くクラシスのようになりたいんだ。早く師匠の片腕として働けるぐらいの魔術師になれるよう、がんばらなきゃ。
 もちろん、こんないい加減な教え方をする人間になりたいわけじゃないけど。



 なんどか、強い風が頬をなぶっていった。何が起こっているのかわからないまま、私の足はもう一度、地面に向かって降ろされる。
 あれ? この場所……やけにツルツルしてる上に斜めだ……どこだ?
「もういいよ、目を開けてごらん」
 両脇から支えられたまま、私は目を開ける。
 目に飛び込んできたのは真っ青な空、アオの世界。
 驚きに息もつけないまま、私は空の向こう側に視線を移す。連なる緑色の丘の向こう……私たちの住んでいる、二階建ての細長い家屋とその赤い屋根が見えた。
 今でこそシラトスは城砦都市の形をとっているけど、当時はただの丘ばかり続く広いだけの草原で、アオイロセイチョウソウの群集が好き放題に繁殖する田舎だった。そのアオイロセイチョウソウも気候の変化に耐えられず、今となっては東方産でもなければお目にかかれない品物になってしまった。その青い花びらが咲き乱れる群生地が、今まで行った事のない彼方の丘の斜面でそよそよと揺れている様も、しっかりと見ることができた。
 見慣れない角度から見る見慣れた風景。
 そのはじめての経験に、私は胸をときめきに高鳴らせる。いつかクラシスが話してくれたように、地平線の端はゆっくりと弧を描いていたし、雲は巻き取られる紙の上の文字のように、歪みながら地平線の彼方へ漂うのがわかった。世界の全てが目の前に置かれていて、手を伸ばせば積み木の様に動かせるような気分がそこにあった。
 いつも屋根や木の梢で本を読んでいた彼は、時にこんな景色を楽しみながら魔術を学んでいたのだろう。
 それを思うと、自分がとても偉くなったような気がして嬉しくなった。こんな素敵な風景を見ることができる場所に連れてきてもらえる自分は、彼にとって特別な人間なんじゃないかと勝手に想像する事が出来て幸せだった。彼の困り顔を見れた時よりもずっと。
「ライル、こっちを掴んでて」
 腕を引っ張られて握らされたのは、天窓の淵だった。見覚えのあるステンドグラスがはまっている窓。その一つ一つ祈りを込めてはめられた色とりどりの硝子片は、日差しを柔らかく受け止め、透き通った色つきの光を建物の中に注ぎ込んでいる。
「クラシス、ここって……」
 音楽堂だ。建物の中から、師匠と客人が奏でるオルガンの音色が響いてきた。床ならぬ屋根の上をかすかに振るわせるその音は、慣れない場所と素敵な光景にドキドキしていた私の鼓動を、優しく愛撫する。
 師匠たちの音楽は、きっと魔術の一種だったのだろう。師匠は私たちに全てを教えずに去ってしまったから、〈十二師〉でも知らない魔術は沢山ある。あの時聞いた音色も、その一つじゃないとは言い切れない――そう思えるほど、その演奏は優しく柔らかだった。こんな言い方をしていいのかわからないけど、慈愛に満ちてたといってもいいだろう。
 師は決して厳しい人ではなかったけれど、人外の者のように血を感じられない時が多々あった。それは師の感化率が高すぎる故に現れる現象で、人のように感じられないのは魔力の余波を浴びているが為だとか兄弟子達は言ってたのだけど、幼かった私にはとうてい信じられず理解できない感覚だった。そして、そんな師匠が本当に自分たちを慈しみ育てているのか、本音では嫌々家に置いているのではないかと、常々疑問に思わされていた。
 でも音色に潜んでいたのは、そんな師匠の全てだった。大きすぎる力を持つが故に自らの感情をコントロールし続け、隠し続けている師匠の胸中にある全ての想い。師匠を受け入れてくれたこの世界の存在への感謝、師匠の側にいる私たち弟子への愛情、待ち望んでいた客人への畏怖と敬愛の念、今ここで共に音を通して語り合える開放感と安堵……。
 それに応える客人は、師匠の浮かれように驚いたようだった。だがすぐにそれを柔らかく受け止める。底知れない、それでいて自己を主張しない客人の力は、音色に混じってどこまえでも広がっていく。その中に聞いている私も飲み込まれていく。客人は屋根の上で聞き耳を立てている私に気づいたようだったが、微かに笑っただけで不問にした。魔力の何たるかすらわからなかったその時の私でも、それらの情報を漠然と手に入れる事ができるぐらい、彼の力は強力なものだったのだ。
 強力な魔術師二人が語り合う舞台である音の世界。それはすばらしい演奏だった。
 私は天窓に寄りかかりながら、自分の不安定な立場も忘れて聞き惚れていた。自分をこの高い天蓋の頂上につれてきた存在の事もすっかり忘れて。
 演奏が終わり、内部からぼそぼそと話す声に音が変わった頃、やっと私は我にかえった。
 興奮と感動を誰かに話したくて――何よりも私の感動を分かち合ってくれそうな相手がそばにいるのを思い出して――私は叫んだ。
「クラシス、ねぇ、私――」
 あたりを見回した私の目に飛び込んできたのは、黒いベストの背中。天蓋の端で片膝を抱えた彼は、いつもは見せない真剣な眼差しで、自分の育った家を見ていた。赤い屋根の、二階建ての家屋。私達の幸せな学び舎、私達が家族同然に暮らしてる幸福な家庭の象徴。
 それを、どうしてそんな冷たい目で見てたのだろう?
 彼もこの音を聞いていたのに、この胸の奥から暖められる愛情の恩恵を受けたはずなのに――そう私は思い、不思議でならなかった。
 悲しかった。自分が幸せな分、彼にも幸せな気分になってもらいたかった。
 私はソロソロと、強風に身を飛ばされそうになるから屋根を四つんばいになって移動しながら彼に近づいた。後ろから抱き付こうと思ったのだ。彼が泣いている姉弟子やカノンを抱きしめる時のように。いつも私にしてくれるように。
 だが彼もまた、先の私のようにふと我にかえった。そして、私のそんな無様な格好を見、指をさして笑う。
「なーにやってんだよ、ライル。あ、もしかして高い所は苦手か?」
「ち、違う! 風が強すぎるの!」
「ちっちゃいからな、ライルは。もっと食べなきゃダメだぞ?」
「食べてるよ、いつも食べてる。残すとユガリがうるさいんだもん、『神の恵みがドウタラコウタラ』って」
 クラシスはスタスタと危なげなく屋根の上を歩いて私の側にやってくると、廊下で掴んだみたいに私をヒョイと持ち上げた。ニヤリとしながら
「そうだな、少し重くなったかな? 身長も伸びてるみたいだけど……余り食べすぎるなよ、ムーみたいに太るぞ? いいのかい?」
 よかった、いつもどおりの彼だ。その余計な一言も含めて。
「……どっちなんだよ。『食べろ』なの、『食べるな』なの?」
 好きな方を選べと彼は言った。やっぱり適当なのだ。


 あの時、どうして彼はそんな目をしていたのか。
 あの時の事を思い出せば思い出すほど、あの頃から彼は自分の立場や師匠の事を考えていたのだと確信できるのに。それに気づくチャンスがあったのは私だけだったかもしれないのに、当の私は何も知らず、何もできなかった――子供だったからと言い訳する事もできるけど、それでも歯がゆくてならない。
 あの時、彼の背にあった蒼い魔力の影は、その時のクラシスの心そのものだったのに。なのに私は気づけなかったんだ。
 彼の一族に植えつけられた業の深さに。






 早く……早く……


 あの決定的な日。
 私はその時、客人を泊めている離れの小屋に向かって走っていた。
 その日の朝――師匠は私を自室に呼び出して、魔術師となった印に一つの錫杖を授けてくれた。アキの手によって造られた魔術工芸品は、〈十二師〉にとって直弟子であったという大事な証明品だ。師匠の銘の入った品はどんな職人よりも精緻な術式機構をもっていて、今でもこれらを超える作品を生み出した職人はいないと断言できる。〈十二師〉の全員の知恵が結集したとしても、作り出すのは無理かもしれない。
 そして私は授けられた錫杖を手に、家から少し離れた丘に向かって走っていた。クラシスはアキの命令で『主』(マスター)を――あの、音楽堂でアキと合奏してた客人だ。私達はあの日以来、その人を『主』と呼ぶよう、アキに言われていた――迎えに行っていて。
 その日アキと『主』は、シラトスに展開され始めた無許可の市場を正式な市場にする為、認可状を申請するべく首都へ向かう予定だった。
 私は初仕事として、クラシスと一緒に二人の護衛をするよう命じられていたのだ。
 早く教えてあげたかった。早く彼に会って錫杖を見せて、「おめでとう」といってもらいたかった。早く彼と一緒に仕事をしたかった。早く彼と一緒に出かけたかった。
 早く……早く……。
 私は息を切らせて走った。魔術を使ったりするよりそうやって走った方が、自分の中で湧き上がる興奮を発散できるような気がして。もちろん疲れなど気にもしなかった。息が切れてる事だけが、少しだけ気恥ずかしかっただけだ。
「クラシス!」
 早く教えてあげたい。貴方の教え子が、今こうして一人前になったんだって。
「クラシス!」



 扉を開けた途端。
 私の目に飛び込んできたのは彼の大きな黒い背中。
 黒い燕尾服の、広い背中。



 その背から漂うただならぬ雰囲気に、私は一気に血の気が引くのを感じた。自分の中の高揚した部分が、文字通り凍り付いてしまったのを感じた。
「クラシス……?」
 彼はゆっくり振り返った。
 別の人であって欲しいとどこかで思っていたけど、彼は紛れもなく私の仮師匠で、私の追いかけてきた背中の人、そのものだった。
「ああ……お前か、ライル」
 泣き出しそうな彼の頬には、真っ赤な滴が申し訳なさそうについていた。
 嫌な予感に駆られて、私は彼の手元を見た。見たくなかったけど、見るしかなかった。
 クラシスの手は、べっとりとこびりついた血で濡れていた。彼がアキから授けられた細剣(レイピア)は、それ自身の紅い刀身を更に現実的な赤の色に染め上げられていた。
 奥の部屋には、広がり続けている血だまり。その中に倒れた、ピクリとも動かない人の姿。
「教えてくれ、ライル。アキはどこに?」
 彼は殺したんだ。アキの客人を、『主』を。
 アキの大事な大事な人を。アキが何百年も待ち続けてやっと見つけた、大事な人を。
 彼はアキを裏切ったんだ。
「いやだ……」
 こんな時にまで貴方はアキを気にする。
 どうして?
 師匠を裏切ったクセに、どうしてまだ、そんな忠実な弟子みたいな事を言えるんだ?
 私の事は? 私の事はどうでもいいの? 犯行現場を見た私の事は?
 私はまだ、口封じをするまでもない無力な子供なの?
「どうして……どうしてこんな……」
「教えてくれ、ライル。僕はアキに会わなきゃならない」
「認めない……私は、嫌だ」
 私はどうすればいいんだろう?
 私はどうすればよかったんだろう?
「ライル、言うんだ」
「そんなの、嫌だっ!」
「ライル!」
「嫌だよ、こんなの嫌だ!」
 ねぇ、クラシス。私はどうすればいいのかわからない。答えを教えて。いつもみたいに笑って私を馬鹿にして、そしていつもみたいにもったいぶってもいい、私がどうすればいいのか教えて――心の中でそんな言葉が渦巻いたけど、もちろん口にはできなくて、彼からの答えが返ってくるわけもなくて。
 私の幸せな気分は、その頃にはもうとっくに粉々に打ち砕かれてしまっていた。そして私は、その破片を拾うという簡単な事でさえ思いつかなかった。
 彼を問い詰める事さえ、マスターを助け起こす事さえ、誰かの助けを呼ぶ事さえ――そして、この状況を否定する為に悲鳴をあげる事さえ思いつかなかった。手にしたままだった錫杖の冷たい感触もわからず、ただ――ただひたすら、目の前でおこっている出来事に首を振る事しかできなかったのだ。
 そんな私を見限ったのか、クラシスは私を突き飛ばした。転びそうになるたび支えてくれた彼の腕が、私たちを守り支えてくれた優しい兄弟子の腕が――今や自分を傷つけるべく振るわれているのが信じられなかった。
 突き飛ばされ屋内から外に転がり出た私の側を、ヨロヨロとした足取りで通り過ぎる兄弟子。その顔を絶望的な色で覆いながら空を見上げた。
 そして、彼の背中に力が流れる。
 あの広くて暖かかった背に、私の恐怖の全てを打ち消してくれたあの背中に、彼の本当の姿が浮かび上がる。
 蒼い影をまとった神々からの贈り物が――そう、そこにあるのは翼。
 魔力で形作られた、明滅する空の翼。



 早く……早く……



 私は走る。緑の丘を走る。シラトスの大地を走る。もっと速く走れば、もっと早くあの扉を開ければ、彼を止められる。
 そうすれば、あの幸せだった日はまだ続いてる。アキは姿を消したりしないし、〈十二師〉のみんなもあの家にいるはず。みんな、あの場所にいるはず。私を待ってるはず。
 早く……早く……
 もっと早くたどり着けば、あの扉を開けた時、私の目に見えるのはいつもの彼。驚いた顔で首をかしげるいつもの挨拶。そして、私が魔術師になった事を知って驚いてくれる。きっと笑ってくれるはず。



 早く……もっと早く……
 扉を開ける――



 目の前にあったのは、黒い背中だった。



 彼は恐怖に絶叫した。声の限り叫んで、目の前の背中から飛び出してくるはずの蒼い翼を叩き落そうとした。
 蒼い翼は人ならざる者の象徴。人よりも魔術的存在である者の象徴。神々が人を戒める為に創られた魔術的生物の証。
 人に擬態し、人を喰らう者の証だ。
 彼は枕の下に忍ばせていた果物ナイフを手にした。昼の間にメイドに運ばせておいたナイフは小さすぎて、敵の背中をうまく貫けるかどうかわからなかった。それでも構わなかった。せめてあの蒼い翼が出てくるのを封じる事さえできれば……まだ人にも奴を倒すチャンスはある。
 背中の真ん中に突き出したナイフは、直前、彼の行動に気づいた敵が飛び退いた事によって避けられた。上腕部をかすめて行った刃先に軽い手ごたえがあり、敵は苦しそうな声をあげて切り裂かれた腕を抑える。
 よろめきながら壁にぶつかった敵にむけ、彼は魔術を組み上げる。攻撃魔術主体の上風切羽ギルドに席を置いている彼にとって、敵の頭を吹き飛ばす手段などいくらでも思いつける。だが咄嗟に選んだ魔術は、魔術師なら誰でも使える、エネルギーの塊を投げつける単純な攻撃術だった。もっとも、この好機に大げさな魔術は必要ない。初歩の魔術でも十分、成人男性の体に風穴を開けることが出来るはずだ。
「死ね、クラシスッ!」
 心の底からの呪詛と、魔術が組み上がるのが同時だった。
 次の瞬間――
 彼は再び絶叫した。体の奥から貫き走る激痛に叫び声さえも途切れる。組み上がった魔術が制御を解かれて散っていった。
「セイズ様!」
 倒れこんだ彼に駆け寄った敵は――執事のケイヴィスは、握られたままだった果物ナイフを無理やり手から引き剥がした。傷口を押さえ真っ赤に染まっている執事の手は、ついさっき見た悪夢の記憶と重なって、彼を再び絶望的な気分に叩き込む。
 その間にも、彼の体に巣食った病魔は魔術に反応し続けている。我を失って発動させた魔術の力が、彼の体を蝕む要素を活性化させているのだ。
 特に激しく痛む腹部を押さえ、彼は床を転げまわった。執事が何度も彼の名前を呼ぶのを聞きながら、彼はただひたすら、痛みを紛らわせる為に転がり続ける。
 執事が彼の腕を押さえつけた。そのまま圧し掛かれるのを感じながら、彼は叫んだ。
「殺してやるッ!」
「落ち着いてください、ご主人様。私です、ケイです」
 目の前にいるのが誰なのか、彼にはもうどうでもよかった。夢から覚めた時に見つけた背中が、実は執事のものだった事がぼんやりと理解できるようになってはいたが、その分だけ痛みと怒りは自分の内へ向かっていく。
「離せ、どけろ、どけッ! 痛ッ! 畜生……あいつのせいだ、なんで僕がこんな目に……畜生、畜生、チクショウッ!」
 寝室の扉が開いて、濃紺と白に彩られた塊が飛びこんでくるのが見えた。それが先日から図々しく居座り続けているメイドだと気づいたのは、執事がそれに向かって「マーサ」と呼びかけたからだ。それまで、どうしても彼は、その塊がなんなのか、人なのは理解できたが何なのかは考えられなかった。
「マーサ、水を! 水差しを持ってくるんだ! 薬箱とタオルも!」
 役に立たないメイドは、彼らを眺めたまま、怯えた目をして立ちつくした。
 それが『何もできない子供のライル』を思い出させ、彼の心を一瞬だけ正気に返らせる。だがそれは、更なる苛立ちと痛みをもたらす小休止でしかなかった。
 正気の後に、新たに認識した激痛。それは前の痛みよりも大きく感じられた。絶叫した彼の視界で、執事が何事か怒鳴りつけて、メイドが慌てて部屋を飛び出す。
「ご主人様――」
 執事が自分の腕の傷を抑えていた。細い腕だ、どうしてあの男の姿と間違えたのだろう? 痛みへの呪詛を吐き散らしながら、それでも激痛を生み出した原因である魔術師への恨み言も忘れなかった。忘れられるわけがなかった。
「殺してやる、絶対、絶対殺してやる、クラシス! 絶対だ!」
 その名を聞きつけた執事の顔色が、瞬時に変わる。こんな時でさえ湛えていた微かな余裕が掻き消え、憎悪の相に歪む。
「失礼します」
 腕を押さえていた執事の手が、不意に彼の首に絡みついた。そのまま彼の背後に周り込み、グッと締め付ける。
 彼は喉の痛みと腹部の痛みにもがいた。ケイヴィスが自分に危害を加える事など滅多にない――混乱した頭には、自分がなぜ執事を怒らせたのか、自分がなぜ苦しめられているのか、理解する余裕などなかった――それだけに、彼は前にもまして身体をよじらせた。やがて興奮した体に酸素が行き渡らず、急速に意識が薄れてゆく。だが腹部の激痛は波となり、途切れそうな意識を何度も浮上させては彼を苦しめ続けた。
 背後に周って首を締めている執事はどんな顔をしているのだろう? 必死さに息を荒げながら、子供に言い聞かせるように何度も何度も言った。
「落ち着いて聞いてください、ご主人様。何度もご説明してる事です、簡単な事ですから。いいですね、ご主人様。ちゃんと聞いてくださいよ」
 顎の下で脈打つ執事の腕、その腕の傷から、微かに血の匂いを感じる事ができる。
 その匂いを察した途端、彼はなぜか泣きたくなった。
 一体、自分は何をしているのだろう? なんでこんな目に会わなきゃならないのだろう? どうして誰も助けてくれないんだろう? こんなに苦しいのに……みんな自分の周りから消えてしまう。
「セイズ様、貴方の中には、もう一人の人間がいます。ライル・カイデンという魔術師の亡霊です。いいですね、貴方はセイズ、セイズ・L・カームジャスパ卿。カーム家嫡男で、羊毛の産地ジャスパの領主です。ライルという魔術師は、貴方じゃないんです」
 ケイヴィスはゆっくりと腕の締め付けを強めながら囁く。
「クラシスという男が狙っているのはライルという魔術師です。決して貴方がおびえる必要はないのです、セイズ様。仮に貴方の身に何かあったとしても、貴方は私が守りますから。どうかご安心ください。例え相手が〈十二師〉だろうと〈シラトスの守護者〉だろうと、私は貴方を見捨てたりはしない。安心してください、私がついてます。ずっとお仕えしますから」
 嘘だ。
 お前だって中風切羽ギルドから派遣されてきた見張りじゃないか。
 私を利用しようとしている、あの女の手下のクセに。
 そう言いたかったが、言葉にできなかった。全身を行き渡る激痛に身体が破裂しそうな錯覚を覚えながら、セイズはいつの間にか意識を手放していた。



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