「案君・潔秘」 1・行軍
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 季節は冬になろうとしていた。
 鴛城は、東方六十州の中においては南端の一つに数えられる鴛州の首都にある。南部の州とされるその鴛州にも、当然、身をすくませる冬が来ていた。
 軍資を積んだ馬車の中も、すきま風と陽の射さない環境ゆえに冷えきっている。
 幌の隙間から収穫の終わった田畑を横目にしながら、吏潔扇は上に羽織る衣類を探して衣装箱に手を伸ばしていた。この寒さの中に普段着では、戦の前に凍死してしまう。南の土地だからと安心したのが失敗だった。
 『冬でも上着一枚で過ごせる』――遠い昔の旅行記に書かれた一節を思い出して、おそらく故人であろう著者に舌打ち一つ。
 彼自身が西方から持ち込んだ、毛皮の裏地がついた外套を羽織る。念の為にと祖父譲りである煙突型の毛皮帽を頭に乗せ、飛び出すように馬車から降りる。
 これまた祖父譲りの、わずかに黄色がかったレンズの丸眼鏡が着地の衝撃で顔からずり落ちる。それを急いでかけなおしながら、後ろから続く馬車に突き飛ばされないよう、慌てて路肩に逃げた。
 軍馬の列は、まだまだ続く。こんなにも人馬の波は続いているというのに、たった二万の軍勢なのだ。
 歴史書で眺めた「五十万の軍勢」とは、どんな光景となるものなのか。
 潔扇は、真っ白に曇るため息をついた。
 そして、高名なる義賊であった祖父の部下を思った。
 彼らはたった一万からなる義賊――いや、かつてはそう思ったものだけど、今は「一万も」と思わざるを得ない。
 自分たち二万の兵が立ち向かう敵の軍勢は、六万。三倍だ。その大半が刈り入れ作業を終えた農民たちによる寄せ集めだとしても、人数の驚異は覆せない。
 鴛城を出て、十四日が過ぎていた。
 鴛を取り囲む南東の致留不山脈、北西の臥梶山脈は、鴛の狭い国土を守る天然の防壁となっている。
 それらの山々の隙間へ作られた街道に、敵軍の影が見えて二十日が過ぎた。敵軍は既に平地に降り立ちつつあるとの報告を受けていたが、起伏に富む地形に阻まれ、まだその敵影を目にする距離には達していないようだった。
「軍師殿、どうなされたか?」
 漁将軍が馬上から野太く嗄れた声をかけてきた。五十を過ぎた老将軍は、軍の殿をつとめていたのだ。
 体格の良い武人の中でも一際大きな体躯を持ち、祭りの酒樽のようにも見える鎧を身にまとう将軍だ。真っ白で長い髭と頭髪、厳めしい顔立ちだけを見れば、子供が一目見て泣き出してもいたしかたのない、恐怖の体現者である。
――大人の俺でも、この爺さんに睨まれると居心地悪くなるんだよな。何もしてねぇのにさ。
 潔扇は内心で呟きながら、外套の裾を引いて自分の身に巻き付ける。
 とはいえ、この将軍が荒くれ者ばかりの部下達に実の父であるかのように慕われる姿を見れば、恐怖だけを振りまく男ではないことはわかっている。
 現に潔扇は、この戦の準備にあたり、まず最初に兵士たちへの補給が十分であるかを確認した老将軍の配慮に感心し、急な天候不順には病人がでないよう積極的に毛布を配る姿を目にしていた。
 基本的に言葉数は少ないのだが、老齢だけに気配りのできる人物なのだ。
「予想外に寒かったので、自分の外套を探していたのですよ。毛布だけでは足りなくて」
 それだけで理解したのか、将軍は部下の一人を無言で手招きすると、自分の代わりに指揮するように命じ、自らの馬の歩みを止めた。潔扇に、自分の後ろに乗るよう促す。
 部下に送らせるのは失礼だとでも思ったのだろうか。この、鴻君の軍勢へ途中参加した軍師を、些細なことでも邪険に扱うのは良しとしなかったのか。その点も、彼らしい気遣いだ。
 その気持ちに甘えることにした。漁将軍の巨躰を楽々と支えている、北方産の力強い愛馬に跨る。裸の馬の背に腰を下ろすと、将軍は低くぶっきらぼうに呟いた。
「鞍が足りなくて失礼」
 何を当然の事実を――潔扇は脳裏で応えつつ、それがこの老将軍なりの冗談だったのではないかと思い直す。
――そもそもこの爺さん、冗談て言葉を知ってるのか怪しいもんだぜ?
 軍資を積んだ馬車を少しずつ追い抜きながら、潔扇は前方を行く主の背中を探した。



 吏潔扇の仕えている鴻君は、流浪の君主である。
 元は鴻州本家の血筋だという――嘘か誠か知らないが、鴻州本家が滅ぼされた時から付き従っている漁将軍が言うのだから、本当だとしておこう。
 鴻州本家は約二十年前、家臣であった盛氏によって滅ぼされた。一族浪党、河原で一斉に首をはねられ、川の色は紅に染まり、血糊は悪臭を放ち続け、女子供の首が石ころのようにいつまでも転がされていたのだという。
 鴻君は忠臣達の捨て身の救出劇によって、ただ一人、その災禍から逃れた鴻州本家の人間なのだ。
 当時十歳にも満たなかった鴻君は、大陸街道を西へと亡命し、西方に名高い白徒主魔術学院で教養を学んだという。
 そしてこの漁将軍は、身を守る守護役だけでなく、家令も兼ねて、鴻君の亡命の手続きを行い、その成長を見守ってきたのだ。

 鴻君が勉学に励んでいた頃、鴻州では大規模な内乱が起こっていた。
 鴻州の民は、先代鴻君のみならず、鴻州本家の縁起の時代より、鴻君とその一族に対して敬意と親しみを覚えていた。
 つまり、かつて大きな鳥=鴻が舞い降り、双子の子供を鴻州へ置きざりにして飛び立った、その子供が本家の先祖であるという縁起の、神話の時代からの親近感だ。
 鴻州本家の人々も贅沢を好まぬ気風があり、土地質も豊かで気候も穏やかだった為か、他の州に比べて生活が楽であると有名だった。領地内の見回りも定期的に行い、訪れた土地の人々には施しがなされる慣習もあり、官民双方の関係は良好だったのである。
 そんな比較的豊かな鴻州が他国から攻め込まれなかったのは、山岳に囲まれた地形故に、大河と海岸線に近しい他国の州都に比べて流通に不便である点が目劣りした事と、南方であるが故に、大陸東方統一に覇を唱える代々の王達が北方への覇権を唱えるには遠すぎると判断されたが為である。
 鴻州が侵略された事は数えたことしかなく、侵略することは更に少なく、占領された時は決まって当時の鴻君が戦するに及ばずと降伏してきた時ばかりである。
 そして驚くべき事に、鴻州の民は降伏する度に、鴻君を再び鴻州君主の座に戻そうと働き、侵略者達は民の抵抗に屈しては鴻君を復帰させてきたのである。
 そんなぬるま湯のような環境で、しっかりと結びつけられてきた官民だ。
 その関係を破壊し、税を引き上げ、隣国へ出兵の準備をしていると噂の鴻州現君主・盛蠍に対し、歴史の倣いに従い、反乱が起きないはずがない。
 とはいえ、二十年前の出来事だ。
 現在とは違い、盟主同盟の成立したばかりである六十州の境界は曖昧なままで確定されておらず、領土の奪い合いから生じる多少の小競り合いは日常茶飯事だった。
 鴻州は自国を取り囲む諸州から削り取られるように国土を奪われつつあったのだ。
 もちろん、州そのものは認定されているのだから、鴻州そのものが奪われる心配はなかっただろう。だが、領土の減少が国力の低下と直結すると考えるのは、安直とは言えおかしな話ではない。
 むしろ、代々のんびりとした鴻州君主たちの、領土を毟りとられても慌てない気風の方が異常だったと言える。
 そして、その家臣だった盛蠍が、先代鴻君を「鴻州を蝕む毒虫」と罵り、反乱し、出兵によって領土を取り戻そうとしたのも全くおかしな話ではないのだ。
 ただ、民の心がその変化についていけなかった。
 ましてや、その新しい君主が、自分たちの誇りでもあった鴻州本家の人々を、目の前で惨殺し、放置したのならば尚更だ。
 盛君としては、復活の歴史を繰り返す鴻州本家を、二度と復活できないようにしたかっただけなのだろう。しかし、せめてその処刑は城内でひっそりと行うべきだったのだ。
 民の怒りの大きさ。それだけが、盛君の誤算だった。
 最初は小競り合い程度の騒ぎだったが、盛君が反乱者を見せしめに処刑したことから、逆に「非情な君主を玉座から引きずり降ろせ」と民の怒りを招いてしまったのだ。その声は「鴻君の仇討ちを!」という保守派の声も巻き込み、州土を席巻した。
 民の予想外の反撃に対し、鎮圧には困難を極めた。長引く混乱は州内外の賛同者をも呼び込み、最終的には「緑布の乱」と呼ばれる東方六十州でも珍しいほど大規模な乱となったのだ。
 この乱の大きさに恐れをなした周辺の君主たちによって、そしてその隙に領土を拡大させようとする者たちによって、一時は応援と防衛という名目で攻め込まれるかもしれないという懸念すらあったという。
 実際に攻め込まれなかったのは、六十州を取りまとめる盟主帝・壱辰の暗殺未遂事件が起こったからだ。諸州君主がこぞって帝都のある威州へ向かい弁明せざるを得ない事態に、無駄な戦争を仕掛けるのは得策ではないと考えたのだ。
 盟主帝の暗殺を狙い、その死と同時に侵略を開始したと思われれば――つまり、暗殺者の黒幕だと憶測されかねない。となれば、六十州同盟を乱す悪への天誅として、諸州より取り囲まれて袋叩きにされる危険がある。小さな領土の拡大と代償となる被害の大きさを比較すると、割に合わない計画だ。
 鴻州一つを手に入れる為に自分の命と領土を失っても良いと考える君主など、いるはずがない。
 盛君は運が良かったのだ。
 そんな州国家的にも危機的な状況に陥った鴻州だったが、その乱も指導者であった軒遠の病死によって収まりつつあった。二十年の長きに渡る混乱に秩序が勝りはじめ、ようやく「若芽萌ゆる春のよう」と謡われた鴻州らしい、華やかな落ち着きが戻ってきたのである。

 そんな折り、鴻州の隣国である鴛州へ、成人した鴻君が戻ってきたのだ。

 鴛州の君主・鴛石は、「鴛州は元来、鴻州本家の血筋を守るべく作られた外戚」という歴史的事実に基づく潔扇の説得によって門を開いたものの、盛氏鴻州の無言の圧力に屈し、門を開いてわずか二ヶ月だというのに、早くも鴻君を持て余し始めていた。
 外戚とはいうものの、本来守るべき鴻州本家の血筋は鴛の中でも途絶えており、有名無実となった言葉なのである。鴻州本家は南方の守りを彼ら鴛氏一族に任せ続ける方が得策と判断し、併合せずに残してきたにすぎない。
 外戚だからというのはあくまで潔扇の詭弁であり、鴛君が我に返って追い出したとしても、決して倫理に劣ることではないのである。
 潔扇や漁将軍たちもそれは理解していた。だが、鴛城の中にじっとりと漂う排斥の気配を感じつつも、今まで動けなかったのも事実だ。
 それは何よりも、この鴛州の守りやすい地形と、本来取り戻すべき鴻州が隣国であるという地の利の一言に尽きる。
 やむを得ず出ていくとして、次に身を寄せるべき州国はどこか。州国を持たぬ君主を後押ししてくれる州国、部下の形でも良い、召し抱えてくれる度量をもつ君主を抱く州国。
 そんな都合の良い州国が、そうそう見つかるわけがない。
 諦めつつも検討している間に、鴻州は「緑布の乱」の残党狩りと称し、その頭目であると目される「鴻氏を名乗る偽物」、つまり潔扇の仕える鴻君を討伐するべく兵を動かしてきたのだ。
 反乱者の残党狩りとなれば、厳密には侵略行為とは呼べず、むしろ鴛州としては鴻州への手助けを余儀なくされる。
 慌てた鴛州君主の鴛石は、鴻君に泣きついた。
 小国である鴛州の兵は、全部かき集めても三万。それを倍の六万で攻めてきたという。
 よもや我が州国を乗っ取るような事はするまいが、断りも受け入れられず、鴻君を追い出す非道は行えず、かといって民の命を無駄に散らすようなこともできない、と。
 鴻君に向かって言葉優しく「出ていけ」と発言したに等しいが、鴻君はニッコリ笑って答えた。
 ならば私が、鴻州軍を追い払いましょう。一万だけ、兵をお貸し願いませんか、と。


――まったく……軽く言ってくれるぜ、鴻君。
 吏潔扇は漁将軍の愛馬に揺られながら、前方の指揮戦車でくつろぐ主の背中を睨んだ。
 鴻君は、涼しげな目をした優男である。背はとりたてて高いわけでもないが、手足は子供のように細く長く、その優雅な身振りのせいか実際の背丈よりもずっと大きく見える。
――俺の爺さんなら、勝手に「ネギ介」とか呼びそうだよな。
 腰の据わらない歩き方など、実に野菜を連想しやすい殿様なのだ。
 その上、いつだって慈悲深く微笑みながら部下の話に耳を傾けている。
 彼が感情的に顔を歪めている姿を、潔扇は見たことがない。初めて対面を許された時から既に一年が経とうとしているというのに、だ。
――絵に描いたようなおぼっちゃん。
 潔扇はずっと、その直感が拭えずにいる。
 西方で学んできた才子であり、国を取り戻すと挙兵したというから、どれだけ過激な性格かと覚悟しての合流だったのだが、大いに拍子抜けしたものだ。
――むしろ、隣の大女の方がおっかねぇ。
 鴻君の輿には併走している武人が一騎。
 鴻君の懐刀、雷姫だ。
 大女と潔扇は呼んでいるが、実際に大きな女であるわけではない。外見は平均的な女性の体格だろう。
 ただ、彼女が烈火のごとく猛り狂うと、漁将軍もかくやという巨体に見えるから不思議だ。
 彼女は漁将軍同様、鴻君が西方に落ち延びる前より鴻州本家に仕える将軍家の一人娘で、幼い頃より男勝りの剣術で鳴らした猛者なのだそうだ。
 鴻君と同い年であり、漁将軍が父や祖父なら、彼女は姉と言った存在だろうか。
 彼女の一族も、先代鴻君に最後まで仕えたが故に一人残らず打ち首となった。
 彼女の父は、後継者である鴻菱さま――現在の鴻君を守護するようにと命じ、彼女だけを逃して最後まで抵抗を続けた。
 彼女も父の意志を了解し、それ以来、鴻君の小さな軍勢を率いる二人目の将軍として、鴻君にべったりと付き従っているのだ。
 潔扇が祖父から譲り受けた五百の兵士と共に合流した時も、最後まで反対したのは彼女だった。
 潔扇は今でも、彼女の長剣を首筋へ突きつけられた時を思い出す度、その冷たさを肌に再現しては身震いする。
 彼女としては、由緒正しい鴻君に、義賊と名高いとはいえ犯罪者の孫が尽き従うという図式が気に入らないのだろう。
 一種の反乱軍である彼らが旅を続けるにあたり、食料や宿の手配が音便に済んだのが義賊たちの機転と詭弁であった事は数知れない。
 その事実も、貴族でもある彼女の気に食わぬ点らしい。
 正義の軍である自分たちが、どうしてこそこそと行動しなければならないのかと言うのだ。
――俺も気にいらねぇ。
 潔扇達が合流しなければ、鴛君に開門してもらえたかどうかすら怪しいというのに、未だに密偵か何かのように睨まれ、目を付けられているのだから厄介だ。
――でも下手に動いたら、俺の片腕ぐらいあっさり切り落とすからな、あの女は。
 合流してから鴛へ至る道までにいくつかの実例を見せつけられた潔扇は、貴族意識の強い感情的な女剣士に疑われているというだけで、ずっしりと気が重くなるのだ。
 そんな彼女にも、女らしい面はある。
 彼女の少年のようにばっさり切り落とした髪には、東方六十州より更に南の島国たちから取り寄せているという香の気配が消えることはない。
 香の文化は、六十州の一つ、咬夏州が発祥であり、珍しい植物の多い咬夏における数々の暗殺毒物文化と並んで、女子供でも気軽に楽しめる嗜好品として輸出されている。その咬夏の品ではなく南方の品を取り寄せるところに、彼女のこだわりが見え隠れするだろう。
 更に、近年流行しているという、金粉銀粉をわずかに散らして髪や頬をほんのり輝かせる化粧をほどこすなど、化粧の類には目がない。高名な職人が作ったという紅を前にした時など、新しい刀剣を選ぶ時のように目を輝かせている。
 それは――軍事訓練で日焼けし、黒光りする力こぶを躍動させて血刀を振るう姿からは全く想像できない、純粋無垢な少女の笑顔だ。
――だから女は信用できねぇ。
 潔扇としては、裏表のある薄汚い性根の輩ではなく、本能的に様々な顔を持つ女という生き物に対する不信が、彼女のコロコロと変わる表情を目にする度にフツフツと沸き上がってしまうのだ。
――大体、その暴れっぷりじゃ、せっかくの美人が全部台無しだろうに。
 顔かたちが良いだけに、血なまぐさい荒事に関わると、その残酷さが際だってしまうのだ。
 ただ、彼女にはどうしても隠しようのない特徴もある。
 落城した際、鴻君をかばって左目に受けたという刀傷だ。
 格別醜い類のものではないが、瞼がふさがれてしまっているのははっきりわかるし、頬骨まで走る古傷はどう化粧しても目立ってしまう。
 男勝りとはいえ、年頃の娘だ。非常に気にしているらしいが、それでも彼女がその傷を隠さずに見せているのは、己が鴻君を守ったという誇り故であり、何よりも鴻君が「隠さない方が雷姫らしい」と言ったからだとかなんとか。
――おめでたい主だ。
 雷姫がどんな気持ちで自分に仕えていると思っているのだろう?
 伝え聞いたところによると、鴻君は西方時代、悪友に「あんな女をいつまでぶら下げて置くつもりだ?」など尋ねられたそうだ。もちろん、雷姫が席を外している間での問いかけだったそうだが、意に反して彼女の耳に届いていたらしい。
 その時、鴻君はこう言ったそうだ。
「何を言ってるんだ? あれほど良い女はいないぞ?」と。
 それ以来、雷姫は一生かけて鴻君を守ると決意したとか。
――鴻君が狙って言ったなら、大したもんだが……。
 今も指揮戦車の上から雷姫に何事か話しかけている鴻君の、その腑抜けた横顔からは、彼女を縛り付けて置こうと計画できるような知的さは欠片も見いだすことができないのだが。
――間抜けでも殿様だからな。仕方ないか。
 途中参加の潔扇には、将軍たちとは見え方も考え方も違うのだろう。
 将軍たちは、鴻君が元の玉座に帰るのは当然であり、正義であると思っている。
 鴻君に王の資質があるかないかなど、関係ないのだ。あるべき場所に戻す、それだけだ。
 むしろ、鴻君が暗愚の傀儡であればあるほど、将軍たちは自由に、思うような国を作れるのかもしれない。
 雷姫はそこまで考えないかもしれないが――彼女の行動原理が鴻君の守護にある以上、鴻君を守る為に政敵を排除することはあるかもしれないが、国造りを計画的に進めるような意志はないだろう――漁将軍は違う。
 働き盛りを先代鴻君の時代に過ごしただけに、旧来の鴻州を再建しようとするに違いない。
 となると、意志薄弱な鴻君の優男ぶりは、体の良い人形そのものだ。
――雷姫もおっかねぇが、国を取り戻したらこの爺さんの方がおっかねぇって事だ。
 潔扇は馬から落ちないよう、その「おっかねぇ」漁将軍の背中にしがみついたままため息。
――その前に、三倍の軍勢をどうにかしなきゃな。
 いつになるかわからぬ未来を憂うより、目の前の危機の方が大事だ。
――鴻君が、格好をつけて一万だけ貸せなんていうから。
 どうせなら、三万の兵全部と、鴻君の兵一万で、四万の軍勢なら、六万の軍勢でも十分戦えるだろうに。
 鴛君に「一万の兵を」と申し出た後の、振り返って潔扇と目を合わせた鴻君の笑顔といったら。
――糠床に顔を突っ込ませて、上から漬け物石を三つぐらい乗せてやろうかと、本気で思ったもんな。
 いつだか見かけた戯画を元に、潔扇は脳裏で主君の戯画を描く。
――見かけは野菜だけに、良い漬け物になっただろうに。
 我が主殿は、何も考えていないまま「潔扇先生、後はよろしく」と来たもんだ。


 輿の手前の一群に追いついたところで、潔扇はあるべき人影がない事に気づく。
「漁将軍、蔭白師は?」
 将軍はちらりと一群を見渡して、頷いた。
「いませんな」
――んなこたぁ、わかってるよ。
 問題は、この一群の指揮官の姿が見えないという事実だ。
 指揮戦車の周囲に待機する一群は、符術師の一団だ。
 西方が人の意識を中心に発動する魔術を発展させてきた文化なら、東方のそれは世界の意識を中心に発動する符術であるといえる。
 世界が存在し続けようという力を、符術という一定の術形式を埋め込んだ物品で引き出し、利用するという技術だ。
 西方にも魔術工芸品という形で、物品を介して魔術を発動させる方法は存在するが、あくまで元の力は人の精神である。その場にもっとも近い人間の意志を魔力として利用するのだ。
 「全ての不自然は人の為す技」、それが西方の魔術という技術である。
 だが、符術は一定の材料と条件さえそろえれば、どこでも誰でも扱えるという点が違う。人ではなく自然の力を利用する為、風で風車が動くように、符術を使用すればその場に満ちている力を使う為、人ではなくやり方を心得れば動物でも使用可能だ。
 自然界にはそういった「場の力」を――西方では全部まとめて魔術要素と呼ぶらしいが、東方では龍脈と称している――利用して魔術を使う動物達がいて、それらを魔物と呼んだりするのだが、その魔物達が体内器官に有しているものも、符術と同じく、器官内で術式を通し、発動させるのだという。
 いや、むしろ逆なのだ。魔物がそのように符術を発動させる姿を見て、東方人は魔物の器官を研究し、その術式を解析し、自らが使う道具としてきたのだ。
 「自然の力で不自然を為す」、それが東方の符術という技術だ。
 そして、それら符術師は、神から与えられた自然を操る者として神官の職を兼務する。
 鴻君に仕える蔭白師は、そんな符術師たちを率いる高位の神官である。
 東方の王族でありながら西方で学んだ鴻君同様、彼は東方の太陽神・天点大聖の神官でありつつ、西方の月神・ミカネミスサランの神官でもある。
 変わった経歴だが、二宗教間の文化交流事業の一環として西方に派遣され、双方の教義を学んだそうだ。
 ただし、今回の挙兵に従軍することに関しては、二つの教団との関わりは一切無く、完全に蔭白師自身の興味からの従軍だという。
 鴻君の挙兵に何をそんなに魅力を感じたのかわからないが、蔭白師はまるで行楽について行くかのように従軍している。鴻君もそんな蔭白師を頼りにしているところがあるようで、雷姫の目を盗んでは連れだって視察に出かけてしまう。
 鴻君にとって蔭白師は、年上の悪友といった関係のようだ。
 しかし潔扇などは、彼の従軍と鴻君への近づきは、己の宗教の信者を増やす為の抗弁ではないかと疑っている。
 鴻君が無事に国を取り返せば、彼の信じる宗教の力だと誇示することもできるのだ。
――あの半分野郎でも、それぐらいは考えるだろうさ。
 蔭白師は、純粋には人間ではない。亜人や魔人、獣人と呼ばれる、人に近しい知的生物と人間との間に生まれた人間なのだ。
 その証拠に、七十という年齢にも関わらず、彼の外見は四十代の頑健な肉体を維持している。
 白髪のようなものも見えはじめているが、彼の全身が生来より灰色がかっているとのことで、白髪に見えるものも、元より灰色である体毛の一つだという。
 裏を返せば、長命である点を買われて、東西文化交流なんてものに引っ張り出されたのかもしれない。
 そんな蔭白師がこの場にいないということは、もしもの不意打ちに対し、鴻君の指揮戦車を符術で防御するよう指揮する人間が居ないという意味でもある。
 特殊な技能と神官である符術師の、その絶対数は少ない。
 軍における戦撃符術を扱う符術師となれば、尚更だ。
 符術師による符術道具の準備もさることながら、その発動の順番を指定通りに展開するには、どうしても指揮官が必要になる。
 そして経験豊富な符術師が符術部隊長となり、必要不可欠な存在となるのだ。
 その指揮官たる蔭白師がいないとなると、鴻君の指揮戦車を守れるのは、あの鬼のような大女ぐらいしかいないとなる。
 指揮戦車には設計段階から符術防護が施されているはずだが、それでいかなる攻撃も防ぎ切れるとは限らない。戦撃符術となれば尚更だ。
 符術に対抗するには、やはり符術の気配を敏感に感じ取れる符術師たちの存在が不可欠なのである。
――密偵らしい人物の報告は受けてないし、遠方からの射撃か符術攻撃を狙うには見晴らしが良すぎる。まずは大丈夫だと思うが……なにやってんだ、あの灰色のおっさんは!
 長生きしていても、漁将軍のように物静かな大岩になる人物もいれば、蔭白師のように何とでもなると転がる石と成ずる輩もいるのだろう。
「若、こちらにいらっしゃいましたか」
 不意に潔扇の臑の辺りへ声をかけられ、急いで振り返る。
 祖父の頃から吏家に仕えている部下の一人だ。挙斗と言い、父の幼なじみであり、幼い潔扇の教育係だった人物でもある。
 潔扇は、祖父の率いる義賊集団「扇雷児党」の三代目として育てられた。しかし見聞を広める為と東方一の私塾と名高い岳竜山房に入塾し、学問を修めてからは軍師として身を立てることを思い立った。とはいえ、岳竜山房を出たというだけではどの州国も雇ってはくれない。自分の話に耳を傾ける君主、己が命をもって仕える君主を捜している最中に鴻君の挙兵の噂を聞きつけ、危険を承知で合流したのだ。
 世間的には、何の後ろ盾も実績もない軍師である潔扇だ。
 それを一番よく理解しているのが潔扇自身だけに、挙斗が口にするいくつかの言葉には、むずがゆくなるような気恥ずかしさを覚えるのが常だった。
 しかし潔扇が何度注意しても、他の部下たちが素直に言い直しているというのにも関わらず、元お目付け役の彼だけは「ウチの若様」だと言い張って、未だに彼を若と呼ぶのだ。
 鴻君や漁将軍などは、盗賊社会の階級制度だと納得して、大目に見てくれているのだが……ここでもうるさいのは、例の鬼女将軍である。
 だいぶ近づいている漁将軍の馬と雷姫との距離に、今の「若」が聞こえなかったかと心配だ。今更言っても仕方がないが。
 潔扇の心中も知らず、彼のお目付け役は、馬に並んで小走りに従いながら、皺の寄り始めた胡瓜のような顔で囁いた。
「例の件、確認しました」
「そうか。いつだった?」
「三日後が濃厚かと」
「敵の陣は?」
「予測通り、峠を降りた地点で全軍が揃うのを待っている状態です。昨日の時点で三分の一が平地で陣を展開しています。見張りは残しました。追って報告をさせます」
「わかった。先のとおり、居残り組を五部隊に再編成して、待機しておけ。後で指示を出す」
 挙斗は了解の印に、無言で拳を二度突き上げる仕草。盗賊時代の暗号を、体が覚えてしまっているのだ。
 挙斗が立ち去るのを見送ると、同じように漁将軍が眺めていることに気づいた。
「軍師殿の待っていた情報が来たという事は、軍議の時間ですな」
 潔扇の返事を待たずに、乗馬の足を早足に変える。
――飲み込みが早くて頼もしいぜ、爺さん。
 蔭白師の姿が見えないことだけが気がかりだったが、この辺で作戦の細部を確認するのは、大歓迎だ。
――あの女さえ居なければ、すぐに終わるだろうけどな。
 まともにぶつかっては、三倍差をひっくり返せるはずがない。
 それを互角に持ち込む為の策を練るのは、軍師として仕えている潔扇の仕事だが、それを実行するのは君主と将軍二人の仕事である。
 彼らを――特に雷姫を説得しない限り、潔扇の仕込みは水の泡だ。
 鴛城を出る前に、予定としている戦場や行動について大ざっぱに説明してあるが、果たして細部を了承しているのだろうか。
――それもこれも、鴻君が「援軍は一万だけで良い」とか見栄を張ったからだけどなッ!
 その援軍の一万を率いる鴛州の将軍、斑将軍とも話をしなければ。
 斑将軍は、潔扇より三つ歳上の、生粋の軍人だ。ただし、どうにも「忠義と武勲」で頭が一杯らしく、雷姫以上に扱いにくい。
 骸骨のように頬骨の浮き上がった顔立ちに、ギョロギョロと飛び出すような目は、堅物で神経質すぎる彼の内面を如実に表している。
――いや、骸骨だけに脳味噌が空っぽなのかもしれねぇな。
 鴛君が「鴻君の指示に従い、鴛の名に恥じぬ戦いをしてくるが良い」なんて言って送り出したもんだから、当初は潔扇の言葉に耳を貸さなかったぐらいだ。
 鴻君が「軍師殿の言葉を私の言葉と思ってください」と断りを入れて、そこで初めてまともに会話できるようになったという、呆れた経緯がある。
――鴛君め、このバカ将軍を俺たちに押しつけやがったな。そうに決まってる。
 今頃、鴛君は暖かい鴛城でよろしくやってるのかと思うと、腹立たしいことこの上ない。
 しかし、一万の兵が無ければ、もっと絶望的な戦いを強いられるのも確かだ。バカでも使いようだと自分に言い聞かせる潔扇でもある。
――いや、それ以前に、やっぱり「一万で良い」とか抜かした、ウチのおぼっちゃんが一番タチが悪い。
 少しだけ憂鬱で苛立つ気分を引きずりつつ、潔扇は漁将軍の馬に気づいた鴻君の、挨拶代わりの笑顔に脱力した。




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