「案君・潔秘」 11・君主
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 潔扇はすぐに準備に取りかかった。
 疲労しきった雷姫隊と、敵味方を問わず傷病者を集めた荷馬車を用意させ、彼らには一足早く退却を命じた。
 もちろんその中には、指揮戦車の中で鴻君を守った荏慧の姿もある。
 そして彼らをいくつかの集団に分けた。それぞれには自分の部下の元盗賊たちが付き添い、案内することになる。彼らを盗賊しか知らぬような獣道や、人目につきにくい旧街道へと分散させる事にしたのだ。
 雷姫は最後まで先に出る事を渋っていたが、自分の腕の怪我や先行偵察も兼ねていること、何よりも鴻君直々の「先に行って、私の寝床を探しておいてください」という無邪気な一言に、納得せざるを得なかったのだ。
――本当にこのネギ介殿は、この大女を何だと思ってるんだろうな? 「寝床」だなんて、思わせぶりな言葉選びやがって。
 潔扇は先刻垣間見た、鴻君の表情を思い出して首を捻る。あの、恫喝にも獣にも似た笑顔だ。
――うちのお殿様は、あんな顔もできるんだ。暗殺者を返り討ちにしたってのは本当かもしれねぇ。だけどそれを知ったら、雷姫はどんな顔するのやら。
 潔扇には、そんな雷姫が渋々ながら出立するのを見送る暇はない。
 雷姫達がいなくなる分、襲撃に備えての警護や、盛氏軍の兵を見張らなければならない漁将軍も、引継に奔走していた。
 とはいえ、この老将軍はいつだって落ち着いている。決断と行動こそ素早いが、表情や物腰はどっしりと構えており、決して急がない。
 それが部下達にも伝わったのか、当初は興奮していた騎兵達も、ゆっくりと、むしろ静かに持ち場をかわりはじめた。
 彼らにとっては、見張るべき相手が盛氏軍の兵士であることも良い意味で作用した。
 戦に負けた武人達は、漁将軍が信義と忠義の人であることをよく知っていた。鴻州に住んでいた武人なら、この老将軍が決死の覚悟をもって鴻君を助け出した人物であることを、知らぬ者はいない。
 そして漁将軍が相手なら、捕虜達は下手に逃亡を謀るより、大人しく正式な休戦協定が締結される事を確認した方が、無事に帰国できる可能性が高いと推測しやすいのだ。
 それに武人が武人を見張るとなれば、逃走方法も選んだ逃走経路も、自ずと想像がつく。その意味でも、漁将軍に符術師の相手をさせるよりは、よっぽど現実的な采配でもあった。
 その意図を汲んだ漁将軍は、雷姫との交代を告げられてすぐに行動を起こした。
 部下を引き連れ、武人達が分散して納められた牢がわりの柵を一つ一つ訪れ、自分の指示に従っていれば悪いようにはしないと誓ったのだ。
 漁将軍は言った。
 鴻君の意思に従い、命を助けることはもちろんの事、必要以上の拘束もしない。
 なぜなら、敵味方となってしまった身ではあるが、共に鴻州人であり、鴻州の平和と安定を願って戦っている武人同士であるからだ、と。
「しかし、貴公らにも武人の意地や誇りもあろう。傳将軍を討ち取られた無念もあろう。その上で私の言葉を信じられぬと言うならば、仇討ちのお相手をさせていただく」
 傳将軍が一部の悪臣の言葉に踊らされ、彫将軍の作戦を却下し踏みにじり続けた事が敗北の原因であることは、武人達も重々承知していた。そして、その事実を受け止めきれなかった傳将軍が彫将軍の処罰に心を奪われたが故に、軍を立て直すことも出来ずに敗北した事も承知していた。
 それでも、武人として君主・盛君にあわせる顔がないと考えるものは存在したのだ。
 漁将軍は夜間の篝火の下、老体と視界不良という条件を背負った上で、数名との決闘に臨んだ。
 もちろん、一対一の対戦である。公正をはかる為、漁将軍の部下や他の兵士達の前での決闘だった。
 一人で戦う漁将軍の為に、戦いの合間には小休止をとりながらの対決を続け、結局、経験に勝る漁将軍が五人目を切り伏せた後には、仇討ちを申し出るものは一人もいなくなった。
 傳将軍に対する忠誠よりも、漁将軍が体を張って信頼に値する人間だと示そうとしている、その気迫に心を折られたと言った方が正しかったようだ。
 こうして、漁将軍は雷姫以上に投降者の信頼と名誉を勝ち得たのだ。
 話を聞きつけ慌てて駆けつけた潔扇に、漁将軍は返り血を拭いながらわずかな笑みをこぼした。
「軍師殿、これで今夜、彼らが反乱を起こす事はありえません。ご安心ください」
――何言ってんだ! あんたが決闘で負けてたら、そのまま反乱が起きてたかもしれないんだぞ! それだけじゃない、鴻君の今後を話し合う人間もいなくなるし、この寄せ集めの軍隊で、一番信用できる指揮官はあんたしか居ないってのに!
 潔扇が言葉を失っていると、漁将軍は白い髭をしごきながら、いつもの厳めしい顔で一人頷いた。
「この歳になると、戦場でひやりとさせられる事はありますが、相手が一人だと、よほどの事が無い限り負ける事を考えなくなりますな。負けられないとわかっていれば、尚更です」
 独り言とも潔扇への弁解ともとれる言葉を残し、そのまま巡回へと行ってしまった。
――もう少し落ち着いた爺さんだと思ってたんだが、とんでもねぇな。老武人って奴も、これはこれで厄介なもんだ。経験と自信があるだけに、俺にはうまく反論できねぇし。
 やり方は過激だったが、これで内部を心配せずに済むという事実は、ありがたい事に違いない。
 一方、斑将軍には、本陣内の物資や用具の点検をさせていた。
 鴛軍と彼が通じている可能性は無いに等しかったが、この堅物な将軍を哨戒役なんぞに割り当てたら、そのまま鴛軍に向かって突撃しそうな恐れがあったからだ。
 斑将軍がこの後、鴛君にどのように扱われるであろうと興味は無かったが、斑将軍の方が、自分の主君を恥じて自刃する可能性もあったのだ。
 逃亡や突撃を実行しにくく、誰の目にも見える位置に彼を置くこととなると、雑務全般を押しつけて、本陣の中に閉じこめるしかなかったのである。
 彼は鴻君に「このまま、厚顔無恥な鴛君を捨て、鴻君へ忠誠を誓いたい」と申し出たのだが、こちらも鴻君によって丁寧に断られた。
 曰く、このまま自分と共に来る事は、鴛州に残る家族の身を、裏切り者の家族として危険にさらす行為となる。そして斑将軍は二つの義務がある。鴛君にはこの戦の顛末を報告する義務を、家族には身の安全を確保する義務を果たしてから、我々と合流するべきである。斑将軍が己の責務を果たした後には、喜んで迎え入れよう。
 そんな鴻君の言葉に納得はしたものの、斑将軍が動揺しているのは事実であり、何をしでかすのかはまだまだ油断がならない。
 かといって、ここで彼の身に万が一のことが起こったとしたら、鴛君にはそれを口実に戦いを挑まれる可能性もある。むしろ、鴛君が彼の口封じと戦闘開始のきっかけをつくるべく、暗殺者を送り込んでくるかもしれない。
――面倒だが、見張ってやるしかないな。
 その斑将軍を鴛君の元へ戻るよう諭した鴻君は、今回の潔扇の作戦については、一つだけ、条件をつけた。
 それは、鴻君に鴛君と直接話す機会を作ること、だ。
――また無茶な事、言い出しやがって! 「一万だけください」よりも無茶だろうが。
 戦場で、しかも奥で鎮座しているだろう臆病な鴛君に、一体どうやって近づくのか。いや、何を話すというのか。
 潔扇は漁将軍の元から蔭白師たちが見張りに立っている、盛氏軍の符術師達の元へむかいながらも、頭を悩ませ続けていた。
――挙斗たちには別件を頼んだことだし、頼ることはできねぇ。他に出来るとすれば、符術を利用することぐらいだ。
 だが、その準備と発動がうまく作用しなければ、鴻君を敵の手に落とすことになる。
 その絶妙の機会を逃さずに作戦を進めるには、彫将軍以下盛氏軍符術師一千人の手を借りなければならない。
――蔭白師たち百人の符術師が用意した符術用具や材料には限りがある。例の軍隊を一瞬にして移動させる符術や、四つ以上の符術台を用意できる人数は、利用しない手はない。それだけの符術師が居れば、用具も材料も豊富に用意してあるだろう。問題は、奴らが俺に協力してくれるかって事だ。
 符術師達が望んでいる事はまず一つ。自分たちの解放。自分の身の安全を謀るのは当然だ。不思議ではない。
 その次は彫将軍の解放。自分たちの指揮官と大将との仲違いによってこの戦に敗北したのだ。しかし、符術師一千人のほとんどは、彫紫炎の人柄と知識に魅力を感じているらしい。実際、〈企州人〉が始末したという裏切り者の符術師さえいなければ、この戦の勝敗は逆になっていたかもしれないのだ。
 裏を返せば、おそらく、盛氏軍の陣営において軍師・吏潔扇の評価は、そう高くはないという事だ。
 自分たちの軍の指揮官たちがつまらぬ小競り合いさえしなければ、こうも簡単に敗北などしなかったという意識があるらしい。
 これは、潔扇が兵士を投降させる為に盛氏軍内部に仕込んだ部下たちの証言だ。信用しても良いだろう。
――俺には好都合だけどな。荏慧も挙斗も居ないってのに、今ここで下手な恨みを買いたかねぇし。
 事実に対する認識は、後の歴史が証明する事だ。少なくとも、当事者が判断することではない。問題は、今この時代に生きる六十州諸州の君主が、吏潔扇という軍師の能力をどう考えるかであり、この場に集まっている兵士たちや符術たちの判断なのだ。
 となれば、彼ら符術師の望むものを差し出してやれば、潔扇に手を貸してくれる可能性は十分に高い。
――結局、漁将軍のやった事はそういう事だろ。奴らの命を保証してやって、鴻州人同士であると言って助けられる理由をくれてやって、武人として死に場所が欲しかった奴には決闘してやった。
 なら、潔扇も同じ事をしてやればいい。
 潔扇は蔭白師の姿を見つけると、手招きした。



 それから半時間後。
 潔扇は十人の符術師達と彫紫炎、そして蔭白師を自分の天幕に集めていた。
 自分の天幕に入れたのは、一つは扇雷児党あがりの護衛がまだ二人ひかえている事と、この冬の夜の寒さ対策だった。
 漁将軍のように全員を前にやれるもんなら一番よかったのだが、武人ではない潔扇は、それだけの体力も気力も持ち合わせてはいなかったのだ。
 十人の符術師は、盛氏軍の符術師だった。いわゆる百人隊長である。
 比喩としての百人隊長ではなく、彼らは自分の社を持てるほどの位を持つ、百人の符術師たちの指揮官である。その百人の符術師達は、やはり神官の位に習って従者役から実行役、指揮役と、いくつかの階級に分かれている。
 ここに集った十人は、その一組百人の長であり、実質的に彫将軍と同等と呼んでも差し支えない神位を持つ符術師たちでもあった。
 蔭白師は最後の最後まで渋い顔をしていたが、潔扇が意思を曲げないと知って肩をすくめて見せた。
「いいかい、軍師殿。符術師って奴は、自分が一番偉いと思ってるところがある。神の代理人であり、人にはできない符術の模様を描き、戦撃符術みたいなどえらい事もしでかしちまう。そんな奴らが仕えているのは、基本的に己自身だ。己の中に居る神を信じるんだ、当然だろ? 俺も含めて、みんな勝手なもんさ。そして、神の名の下に好き放題するのは、いつの時代でも変わらねぇ」
 潔扇の様子をうかがいながら、先を続けた。
「あんたが何をしたって、符術師の心を縛ることはできねぇ。符術師の心を縛るのは、その符術師の仕える神の法、それだけだ。無駄に終わるかもしれねぇ。それでもやるのかい?」
 潔扇は肩をすくめ返した。目の前で潔扇が口を開く時を待っている符術師たちに聞こえないよう、蔭白師の耳元に囁く。
「私が縛ろうとしているのは、符術師たちではありませんから」
「何だと?」
「私が縛ろうとしているのは私自身、そして彫紫炎だけです。彫将軍は縛れなくとも、彫紫炎を縛る自信はあります」
 灰色の髪をかきむしりながら潔扇を睨みつける蔭白師を横目に、潔扇は符術師達にむきなおった。
――紫炎は義理堅い奴なんだよ、蔭白師。そういう意味じゃ、良い女なんだぜ?
 彫将軍に目を合わせる。敗北と〈企州人〉の死を乗り越えきっていない彼女の目は、どこかぼんやりとしていたが、潔扇の視線に気づくとそっと目をそらした。
――いつまでそうしていられる? お前には敗軍を率いる義務があるんだ。それができないのなら、お前にはずっと、俺たちに同行してもらう。一千もいる符術師部隊を盛氏に返すぐらいなら、俺がもっと有効に使ってやるぜ?
 潔扇は蔭白師の取り出した小皿の一つを手にした。小皿は三種類ある。それぞれに黒、赤、黄の粉末が少量、乗せられていた。
「集まっていただいてありがとうございます。これから皆さんには、私の誓いの証人になってもらうべく、集まっていただきました。まずは、この皿の材料をお確かめください。お手にとっていただいても結構です」
 蔭白師に皿を戻し、灰色の符術師は三つの小皿を盆に乗せ、一人一人に見せて行く。
 符術の材料だと気づいた十人と彫紫炎の顔つきが変わった。おそらく、その組み合わせで行える作業の内容に気づいたのだろう。
「どういう事だ、潔扇。我々に何をするつもりだ」
 紫炎の怒りを含んだ言葉に、蔭白師が三つの皿の中身を小鉢に移しながら、逆に自分が侮辱されたかのように怒鳴った。
「何もしねぇよ、副将さん。この軍師殿は、ちょいと甘いところのある、可哀想なお馬鹿さんなだけだ」
 三つの材料がまんべんなく混ぜ合わされ、そこに少量の水を追加して溶く。
 できあがった墨は、発熱してわずかに湯気を立てていた。
 それを確認し、潔扇は符術師たちの顔を一つ一つ、確認しながらゆっくりと口を開く。
「あなた方盛氏軍の符術師たちにお願いがあります。二日間の限定で、私に協力していただきたいのです。もちろん、ただでとは言いません。私もあなた方にお約束します」
 固唾をのんで次の言葉を待つ神官たちを前に、潔扇は祖父の眼鏡の位置をなおしてから続けた。
「一つ、鴻君陣営は、戦撃符術を鴛州軍への攻撃に使わないこと。
 一つ、鴻君陣営は、投降した符術師たちに不当な危害を加えないこと。
 一つ、鴻君陣営は、彫将軍に不当な危害も加えないこと。
 ……これで、いかがでしょうか?」
 これならば、符術師たちも納得するはずだ。
 自分たちや彫将軍の安全が確保される事に加えて、鴛州軍と合流するような事態に陥っても自分たちが戦撃符術を使わなかった事で、面目が立つ。
 おそらく、盛氏軍符術師たちが欲しい条件であろう。
「私は無名の軍師です。鴻君のようにあなた方に誇れる血筋ではなく、漁将軍や雷姫将軍のように、鴻州人に好感を抱かれる義理やつきあいは持ち得ていない。だから、私はあなた方に私の身そのもので約束します」
 潔扇は上着を脱いだ。上半身の肌着も投げ捨て、背中を符術師たちの前にさらす。
「この符術用の墨が本物であることは皆さんの確認したとおりです。これから蔭白師に、私の約束した三つの条件を含んだ符術を用意してもらいます」
 蔭白師がまだ熱い墨に筆を十分に浸した後、潔扇の背にその筆を落とした。
 思っていた以上の温度を保つ墨の熱さに身をこわばらせながら、その反面、筆の感触にむずがゆさを覚えながら、潔扇は作業の邪魔をしないよう必死で耐えた。
 潔扇は自分の背中を、その身体そのものを符術符とすることで、自分の言葉が嘘ではないと説得する事にしたのだ。
 それに気づいた符術師たちが動揺のため息を次々にもらす。
 蔭白師が用意した墨は、条件式発動符に用いる墨だ。たとえば、「符術符を三回叩いたら発動する」といったような、きっかけとなる動作を元に発動させる符術に用いることが多い墨なのだという。
 さらに、蔭白師の描きはじめた符術が、非常に高度な符術であったことが、盛氏軍の符術師たちを動揺させていた。
 この符術の凄い点は、世界の意思から事象をより分け、事実を確認した上で発動するという点だという。
 つまり、潔扇の提示した条件とは、本来人間同士の意識で分ける「意思上の名称」なのであり、条件として設定するには漠然とし過ぎていて、発動するわけがない条件なのである。
 「叩く」という条件は、刺激の回数を数えれば良いだけだ。
 しかし「鴛州軍に戦撃符術を使わない」という条件は、「どこからどこまでが鴛州軍であるか」を定義していなければ、条件として成立しない。鴛州軍という名称は、人間が人間に勝手に名付けた概念上の条件だからだ。物理的な枠で見た時、鴻君も鴛州軍も、同じ人間である事にかわりはない。
 条件としては成立するはずのない、漠然とした条件である。
 しかし蔭白師が条件を含めて描き出した符術は、それを可能にする。
 これは非常に高度で、符術師たちでも滅多に目にすることのない方式の符術だったという。
 世界の意思とは、世界が存在する力ではあるが、その根底には過去の蓄積がある。その過去の蓄積とは、世界中に存在する生き物全ての意識のだという。
 ならば、鴛州軍が出現したと誰かが認識した時、その認識の範囲内に存在した人間を、その誰かが「鴛州軍」と名付けた事になる。
 それはその誰かしか持ち得ない意識であるが、世界の意思はその意識を過去として蓄積し、この世界が存在する力に変えている。その、過去の意識が変換された力というのが、龍脈なのだ。
 蔭白師は、その龍脈を元の意識の状態に変換しなおし、その意識の中で名付けられた「鴛州軍」を特定するのだという。
 もちろん、勝手な思いこみは排除される。他人から見た「鴛州軍」という人間たちと、彼ら自身が「鴛州軍である」という意識が一致して初めて成立する「意識の中の名前」であるのだ。
 つまり、潔扇の「自分の身体を符術符にする」思いつきは、普通の符術師であったなら実行できない類の、非常に高度な符術だったというわけだ。
 潔扇も、この灰色の神官がそれほどまでに高度な技術を有しているとは思わなかった。できないならできないで、彫紫炎に潔扇の腕の一本でも破壊するような符術を渡しておくつもりだったのだ。
 ところが、蔭白師はそれを良しとはしなかったのだ。
 雷姫は出立する前に、鴻君、漁将軍、蔭白師の三者を集め、潔扇の居ない場で彫紫炎との関係を話していったという。
 彫将軍の秘密を知っているだけに、蔭白師は潔扇の計画を危ぶんだのだ。
「軍師さんよ……あんたは山育ちのクセに、どうにも人の悪意を軽く見すぎるところがある。知り合いの悪意は特にそうだ。更に言えば、女の悪意に致命的なほど鈍い。不思議なくらいにな。でもまあ、それは良い。要するに……あんたの腕を、あの副将軍の恨みと短気で吹っ飛ばすのは惜しいって事だ。惜しく思わせるほど、あんたは面白い。だから俺も、脱ぎたかねぇが、一肌脱いでやるよ」
 普通の符術師には複雑すぎて扱えぬ符術。
 幸か不幸か、蔭白師はその、「成立しない条件を条件とする符術」が扱える人物だったのだ。
――ほんとに意外なおっさんだ。こいつが鴻君にくっついてるのは、ただの布教じゃねぇぞ。下手すると、西方諸国の、侵略の布石かもしれねぇ……俺の爺さんが、大陸教会から支援を受けてたみたいに。
 半ば冗談でそんな考えが浮かんだが、何が裏にあるにせよ、今この瞬間は、彼の知識と技術を潔扇の作戦の為、全面的に利用させてもらうだけだ。
 符術を描く場所が足りなくなり、蔭白師は潔扇の上腕部や腹、胸に渡って符術を描き続ける。
 符術は元来、発動させたい内容によって木札や骨札、紙札を選択し、描くものだ。
 だが今回の符術は、約束を違えた場合、潔扇の身体が直接、害を受ける。だからこそ、潔扇の身体と条件を直接結びつけるべく、身体に描くのだ。
 全て描き終わった頃には、蔭白師は魔術を使った時のように額に汗を浮かべていた。あの時と違うのは、疲労の中にも満足感があり、笑う余裕が残っていたということぐらいだ。
 その違いを見れば、蔭白師にとって魔術というものが、本当に心身を削るような技術であったことが伺える。
 そして、その蔭白師の作業を見守っていた符術師たちも大きく息をついた。自分たちが使わぬような符術を描かれ、その内容が条件と一致していることを読み溶くことは、やはり非常に大きな集中力と理解力を要するのだろう。それは優秀な符術師である彼らや彫将軍とて同じ事であったのだ。
 そして、蔭白師が作業している間、なるべく動かないようにと息を詰めてた潔扇も、ようやく大きく呼吸することができるようになる。
 作業が無事に済んだ事に安堵し、顔を上げる。
 彫紫炎と目が合った。
「これで、納得していただけましたね?」
 今度は、紫炎も目をそらさなかった。
 何も答えなかったが、その目は間違いなく、潤んでいた。潔扇のした事が彼女にとってどれほど大きな意味を持っていたのか。それを想像できるだけ、潔扇は自分のした事に満足もしていれば、彼女を哀れにも感じられた。
――身体を張ってあんたを守る奴が、あの岩みたいな男以外には一人もいないと思ってたんだろうな。俺には、この十人の符術師だけでも十分、部下に恵まれてると思えるんだが。
 紫炎から目をそらさぬまま、言い聞かせるように続ける。
「明日と明後日の二日だけ、私の指揮に従ってください。ご存じのように、我々の軍があなた方に不当な危害を加えた場合、私の身が裂けることになります。これが、私があなた方にできる最大級の誓いだ。どうか、ご理解いただきたい」
 冬の天幕の中は、篝火と人いきれでむっとするような温度が立ちこめていた。おかげで寒さを感じることはなかったが、潔扇は早く服を身につけたくて仕方がなかった。
 不意に、彫紫炎が自分の裸体に目を向けている事実が気恥ずかしく感じられてきたからだ。
 その途端、むずがゆさが下腹に集中する。
――何考えてるんだ、俺は。岳竜山房の時には、互いに気にせず着替えしてたぐらいじゃねぇか。なんで今になって意識してるんだ? これじゃ雷姫が真っ赤になったのと同じじゃねぇか。
 しかし、複雑にしっかりと描かれた符術の墨は、なかなか乾かない。上着を羽織ることができるようになるまで、まだまだ時間が必要なのだろう。
 蔭白師が目ざとく潔扇の動揺に気づき、いつもの牙をむく笑いを浮かべた。
「いいぜ、軍師殿。立ち会いも済んだし、みなさんには帰ってもらおうじゃねぇか。吏軍師が自分の身を担保に符術の腕を買ったのが本当だと、皆さんに伝えてもらわにゃならんしなぁ。だろ?」
「そうですね」
 できるかぎりの無表情で応じたつもりだったが、蔭白師は汗を拭いながらもう一度ニヤニヤと牙をむいただけで、それ以上何も言わなかった。
 こうして潔扇は自分が符術師達の指揮をとる事を彼らに了解させたのだ。
――これでようやく、戦力としては二万の兵に対し同等ってところか。戦撃符術を直接使えなくとも、応用できる力があるだけ、まだマシってとこだな。仮に戦になっても、なんとかできるだろう。
 しかし、戦力だけが戦の勝敗を分けるものではない。
――間に合ってくれよ、挙斗。たとえ何千人を罠にはめても、今の鴻君の軍には鴛君を止めきる力はねぇんだ。頼みになるのは、お前の人格と鴻君の名前だけだ。
 潔扇は皆が退出した途端温度を下げはじめた天幕の中で一人残ったまま、寒さと迫る鴛州軍に怯えながら地図を広げ、頭を抱えながら震え続けたのだった。




 翌日の朝、潔扇は化霧をただそのまま漂わせる事などしなかった。
 今までは鴻君たちを守るべく利用してきた化霧だったが、仕度の多いこの朝には邪魔どころか不利ですらあったのだ。
 潔扇は、盛氏軍の符術師にできる限り多くの篝火を灯させた。符術符と、潔扇たちが用意した木の大楯を解体して作った薪で、寒い朝を竈の中のように熱し続ける。
 温度差によって発生する化霧ではあったが、約一千の符術師が灯す篝火で、霧の発生する温度差を超える。霧はとどまる事ができず、そのまま空気に溶けて行った。
 多くの篝火にはもう一つ、利点があった。
 陣地は盆地故に山の陰だ。早めに差し込むはずの冬の朝日の恩恵を受けられない陣地の中は、どうしても暗くなる。しかし符術師たちが灯した火は、手元を細部まで明るく照らし出した。
 その明かりの中、蔭白師が符術師たちの指揮を取る。
 彼の部下はもちろんの事、その技術の高さを目の当たりにした百人隊長たちは、素直に指揮に従った。
 彼ら神官であるよりも符術師であることを選んで戦場にきた者たちにとって、蔭白師の高度な技術は、潔扇の想像以上に敬意をもって迎えられる事柄のようだ。
 ひとまず安心して、陣地内を一巡りする。



 今現在、鴻君側の軍勢と盛氏軍の兵士たちの中で、もっとも攻撃力があり、もっとも元気なのが盛氏軍の符術師部隊だ。
 符術の材料は、千人分と考えれば少ないが、鴻君側の百人の符術師分だと考えれば十倍の量がある。戦撃符術も彫将軍と蔭白師の智恵を出し合えば、自由自在だ。
 近接された時には、漁将軍の騎兵が残っている。
 ただし、彼らも十分とは言い難い。実戦こそ、最後に本陣へと切り込んだのみだが、それまでの一昼夜を、敵に気取られる事なく潜み続けた疲労は、斑将軍たち待機組の弓兵と一緒である。斑将軍たちは潔扇と連絡が取れていた分、まだ安心できたであろうが、全てを漁将軍の采配に任されていた彼らの心労は、戦闘に負けず劣らぬものだったはずだ。それに、少数ではあるが、盛氏軍の騎兵の勧誘を行い、投降してきた歩兵の監視もしていた。全力を期待しすぎてはいけない騎兵たちだ。
――もっとも、彼らが必要になるのは、俺の計画が丸ごと無駄になった時ぐらいだけどな。使わずに済めば、それに越したことはない。明日明後日のことを考えれば、多少は戦える人間は残しておかないと不安だ。
 斑将軍たちは、本陣の前に立たせた。
 これは、盛氏軍と鴛州軍との密約がある以上、仮に鴻君が破れたとしても、斑将軍の一群は保護されていただろうという推測からの配置である。
 つまり、これからやってくる鴛君を油断させる為の、外見上の罠である。
「何もしなくて、良いのでしょうか?」
 斑将軍は何度も潔扇に尋ね、その都度、潔扇は笑って頷いた。
「何もしない方が、鴛君も安心します。この戦が終わった後、鴛君には盛氏軍を保護していたと言ってください。動けば盛氏軍を処刑すると言われたと。そして、鴛州に戻ったら、彼ら盛氏鴻州軍が手荒に扱われぬよう、護ってやってください。おそらく彼らは、我々少数の敵に敗北し挟み撃ちの作戦を無駄にした弱者として責められましょうから。かといって、斑将軍は事実を語る必要はありません。敗軍の兵に情けの言葉は、更に相手を傷つける。黙って、彼らが耐えるのを助けてやってくだされれば、それで結構です。その為にも、何もしないでください。鴛君に疑われないように。そして、鴻君との約束を果たして、戻ってきて下されれば、それで結構です」
――こうやってイチイチ言っておかないと、何をしでかすかわからないからな。女とは別の意味で面倒な人間だ。
 潔扇が釘をさした言葉を、斑将軍は唇を噛みしめて受け取った。
 自分の身を案じる鴻君や潔扇の配慮に感激したらしく、黙って潔扇の手を取り、涙を流しながら何度も頭を下げたものだ。
――骸骨が泣くっていうのも、妙な話だけどな。
 彼と別れた後、潔扇は鴻君の天幕へ向かう。
 鴻君は全く変わることなく、自分の天幕で書物を読んでいた。
 すでに鎧こそ身につけていたが、戦場とは思えぬ穏やかさで、白湯を前に書を広げている。
 西方諸国の共通語である大陸共通語――西方諸国はどうしても、四方に諸外国があることを忘れて、自分たちが世界の中心のような言葉を使いたがる――で綴られた書物だ。
 潔扇も読めないわけではない。複雑な生い立ちを持つ祖父が西方で長く暮らした経験がある事や、祖父が西方との連絡を保つために潔扇に教え込んだこともあり、不自由無い程度に読み書きはできる。
 鴻君が読んでいた書物は、西方の一大宗教である大陸教会の聖書だった。
「西方の神を信じるんですか?」
 そう尋ねたのは、鴻君のそばで青茶を振る舞われていた彫紫炎だ。
 彼女が女であると知った鴻君は、このどさくさに紛れて彼女の性別が露見することや、敗戦を恨みに思う輩に危害が加えられてはならないと考え、朝食の後には自分の天幕に連行するよう指示していたのだ。
 彼女の前にも、紙片が広げられていた。どうやら、昨日の潔扇の背に描かれた模様らしい。蔭白師に「こんなのを描いた」と見せられた図にそっくりだ。
 もっとも、潔扇には符術符の模様など、どれも同じようなものに見えてしまうのだが。
 研究熱心な彼女の事だ。蔭白師の技術に驚き、自分でも身につけようと分析をはじめた可能性は高い。
――でも俺は知ってるぜ、紫炎。お前は不安な事があると、別の難しい問題を解き始めて、目の前の不安から目を逸らす。昔からそうだ。
 それでも彼女の受けてる重荷が少しでも軽くなるなら構わないと思う潔扇だ。
 それ以前に、くつろいでいる二人の様子に面食らう。
 傳将軍亡き今、この二人は両軍の最高指揮官である。どちらかを殺せば、戦局が一変するような重大な対面でもあるのだ。
 しかし、この学徒のような穏やかさ。
 互いに互いの興味ある事に専念していたと言わんばかりの空気。
――もし、この空気を作ったのが鴻君ならば、それは紫炎が鴻君を組み易しと判断したからだな。茶会を提案したのは鴻君だ。でもネギ介に下心がないと気づいて、紫炎が自分の重荷を打ち消しはじめたってトコか。
 それにしても、この状況は異常だ。
――俺はこれをどう判断すればいい? こいつは、鴻君の人柄って奴なのか? それとも主を馬鹿にされたと怒るべきなのか? 紫炎が鴻君に好意を抱いたってことか? 俺は、鴻君の女たらしの才能に腹を立ててるのか?
 天幕に潔扇が現れたと気づき、二人は一斉に振り返った。
 心中の混乱を押し殺しながらも、たわいもない朝の挨拶を交わし、符術師たちの準備が順調であると報告する。
 報告に頷いていた鴻君は、潔扇の視線が聖書に向かっている事に気づいて、照れ笑いを浮かべた。
「不思議ですか?」
「信仰されているとは、知りませんでした。鴻州本家は、南嵐空神凰宝を奉ると耳にしていましたので」
 潔扇の言葉に、鴻君の笑みは苦笑に変わった。
「西方の神を信仰しているわけではないのです。西方の文字を忘れないようにする事と、西方諸国の考え方を忘れないように、毎朝している習慣ってだけです」
 無造作に聖書を閉じ、文箱の中へと戻してしまう。西方風に皮と金属錨で閉じられた書物の表紙は、よく見れば擦り切れ、剥がれ、主人が長年手にしてきたものであると一目でわかる。
「凰宝は鴻州本家の守り神、先祖を運んだ鴻の本性、それ以上それ以下でもありません。いずれ私の命が力尽き身体を離れれば、天空の凰宝がそれを呑み込み、先に呑まれた家族と一つになる……そんな話を信じるわけではありません。それでもいずれの日か、私の命はしがみついている肉体を離れ、空に還ると思っています。それを信仰と呼ぶなら、私の信仰は凰宝にあります」
 両手と両肘を合わせる東方式の礼をして、鴻君は冗談めかした笑みを浮かべた。
 紫炎は思案するように目を落とし、いつもどおりの、男としての声を響かせた。
「ならば、西方人の考えなど、どうして気になさる?」
「ここは東方ですから」
「ならば尚更、西方を気になさる必要はないはずです」
「なぜ?」
「え?」
「なぜ気にしないのです?」
 これには紫炎どころか、潔扇も絶句した。
――遠すぎるからだろ!
 年単位の行動を必要とする西方と東方だ。それを、西方へと亡命して戻ってきた鴻君が知らないはずがない。
――いや、だからこそ、それぐらいは簡単だと考えたのかも知れねぇ。
 想像よりも簡単に済むという経験を得れば、恐怖や恐れはなくなる。果てしない遠方も、行き来した鴻君には現実的に距離を感じられる遠方でしかないのだろ。
――俺が五十万の兵を想像できなくとも、二万三万ぐらいなら想像できる事と同じか。それにしたって、突飛すぎる。
 愕然としている潔扇たちに、鴻君は続ける。
「東方人も西方人も、ある日突然、同時に地上へ現れたわけではありませんね? どちらも同じ人間です。おそらくは、遠い昔にそれぞれ住みよい土地を探して散っていった部族同士といったところでしょうか。同じ人間なら、根本的な考え方もそうは変わりません。東方人が隣の州を攻めて領土を広げようとするように、西方人がこちらの領土を盗ろうとしてもおかしくない。いや、今まで東方西方互いに手をださなかったのは、それぞれが諸国同士の争いで、それぞれの内部を平定しなければならなかっただけです。決して、距離だけの問題ではありません」
 鴻君はあの、戦場でもたびたび見せた、何を見ているのかわからない茫洋とした目つきで天井を眺めた。
「我々は、大陸街道という細い糸で結びつけられた左右の翼です。人という生き物であり、本来、東方も西方もない。違いがあるとすれば、互いの神を通して身につけた思想と世界の見え方だけ。行動様式が違うというだけです。私はそれを忘れないようにしているだけ。それだけです」
 まるで歌うように、まるでどこかの書物を読み上げるように、そして風に消える世間話のように、鴻君ははにかみながら静かに告げる。
「君主は平和な時代であればこそ、やらねばならない事が山ほどあります。人の生活を安定させること、生活に潤いを与えること、人が生きているという事に喜びを感じるよう世界との調停を計ること……人の生活こそ、人が次の時代へ飛び立つ時には指針であり、翼そのものでもあります。そして大陸の両翼は、今の世の人が、人の知らぬ人の世界へ飛び立つ為に使うもの、いつまでも個であるべきものではありません」
――なにを言い出すんだ、このネギ介様は?
 潔扇があっけに取られていると、紫炎は急に背を伸ばした。興奮に顔を赤らめてすらいる。
「そんな、馬鹿な!」
 紫炎は礼儀も忘れたか、鴻君を睨みつけた。
 つい先までの穏やかな空気が一気に凍り付き、その緊張した空気に触れて、全てが一瞬にして傷ついたかのように感じられた。
「西方と東方の文化を結びつけ、まだ見ぬ文化を生み出そうとおっしゃるのか! この六十州すら飛び越えて! ありえません! 東方の諸神と西方の諸神すら交わらぬというのに、人が神を越えて交わるなんて、ありえない!」
 紫炎の怒りはしかし、鴻君にだけは届かなかった。
 剣技の達人が、その場から動かず手首の返しだけで切っ先を逸らしてしまうように、まるで紫炎の冷たい怒りを涼風のように受け流す。
 それは、一年間観察してきた潔扇も見たことのない、強力な文士としての鴻君の姿でもあった。
「符術師のあなたには不思議に思えるかもしれませんが、全くおかしな話ではありません。白徒主の魔術都市は、人の生活を一変させた。同じように符術都市を造ることは、今後の東方の生活を一変させるでしょう。戦撃符術は東方の戦争を一変させた。西方では魔術工芸品を拡大させた、都市防衛壁と力砲術の時代へと移りつつある。互いに互いの技術を奪い合った結果です。しかし、この作用をもっと簡単に、もっと早く行う方法があります。最初から、技術を混ぜ合わせる事を目的にすれば良いのです。技術を混ぜ合わせる事を前提とした交流をつくれば良いのです。得手不得手を補いあって。それが両翼という事です。そして人が目指す道は一つになる。より良い生活への道です」
 淡々と、いつもの凡庸ともいえる語り口を崩さずに、鴻君は話し続ける。
 この場にいる人間ではなく、見えぬ神に祈るかのようでも嘆くかのようでも、それすらもなくただのぼやきのようでもある、そんな独り言のような響きで。
「国境は残るでしょう、争いも残るでしょう。ですが、人の生活は一変する。たくさんの技術が溢れれば、君主の抱えておける量を超えた技術は、民のものとなる。暑さや寒さに怯えず、食べ物に困らぬ世界。生活が平穏となれば、今度は生きる実感をそれぞれ各人が模索する世界となるでしょう。その先は……私の想像を越えます。この先を夢見る事ができるのは、その未来に生きる人にしかできないでしょうね。全く、姿形すら思い描けません」
 しばしの沈黙。
 潔扇は指を組み合わせ、目を閉じる。
 傍目には鴻君の言葉を考えているように見えただろうが、潔扇の脳裏は真っ白だった。
――わからねぇ。このネギ介が、何を考えてるのかわからねぇ。
 一つだけ明らかになったのは、鴻君が東方に戻った理由だ。彼の理想とする世界に少しでも近づける為。決して他人に担がれただけではないという確信が得られたという、たったそれだけの、事実を得られただけだ。
 そして、そんな事は、これから数時間以内に始まるであろう静かな戦闘には関係ない。
 鴻君が何を思って聖書を読み、何を感じてこんな問答を続けているのか。
 そんな事は、潔扇には関係ないのだ。
 鴻君はこの先の戦いを、潔扇が解決し、己が生き残ると確信している。だからこんな事を語れるのだ。
 しかし、それを預けられた潔扇に、未来を思う余裕はない。計画が順調に進むかという心痛の方が大きい。
――なのに、なんで俺まで聞いてるんだ? 紫炎だって、本当なら殺されてたって文句言えねぇってのに。
 その紫炎は、自分の考えを整理しようとしているのか、鴻君同様のゆっくりとした口調で話を展開する。
「失礼ですが、貴方の……鴻の君とお呼びさせていただきます……鴻の君の言葉は、理想でしかありません。人はそんなに美しい生き物ではありません。混乱と短い平安の歴史がそれを証明しています。文化の交流の前に、人が人を喰らいあうでしょう。西方人は東方人を騙し打つ為、東方人は西方人から全財産を奪い取る為、交流とは名ばかりの奪い合い。それが現実です。そもそも、東方と西方の交流など、双方が一国として安定していなければ成り立ちようがない。それなのに、六十州でなんとか平和を保っている時代に、統一の思想は反乱思想です。非常に危険でしょう。突出した未来は、抜け駆けをなくす為に結ばれた六十州によって潰されてしまう。それが人間の醜さです」
「だからこそ、美しい生き物になろうと努力するべきでしょう? だからこそ、少しでもより良く生きたいともがいているのでしょう? 皆が口に出さなくとも、それでも皆がそれを想うなら、少なくとも上に立つ者はそれを目指さなければならない。彫将軍、あなたが故郷の人々の期待を背負ったように、私はその醜さに辟易している人々の為に未来を背負う。私は一人でも、次を目指さなければならないと考えています」
「それは、六十州を敵にまわしても?」
「どうしても必要となれば、六十州の意志を一つにするだけです。最初から敵にするつもりはありません」
「それでは、今後の展開によっては、盟主帝となることを目標にされると?」
「盟主帝であることが、最適の手段であるとなれば」
「それこそが、六十州への背信ではありませんか」
「六十州の同盟に忠誠を誓っているのではありません。無用な戦を無くし、民の生活を維持するという六十州の目的に忠誠を誓っているのです。民が飢えや貧しさに苦しんでいる最中、盟主帝が君主の安寧を作り出すべく存在するなら、盟主帝こそ背信者として断罪するべきです」
 紫炎が鴻君を凝視している。真意を探っているのか。
 潔扇は鴻君の身を案じた。
 紫炎の受けた衝撃は、潔扇の記憶の中でも見たことのない類のものだ。
――考えもしなかった考えを、馬鹿にしていた人物に投げられた衝撃ってことか。
 蔭白師の言葉が思い浮かんだ。女の恨みと短気。
 潔扇は、鴻君の話がそれほどまでに大きな話だとは思えない。
 紫炎の語るように、彼の言葉は理想だ。理想である以上、どこかで醒める時が訪れると思っている。
 未だ国持たぬ君主。ならば彼の語る言葉は、ただの人間が夢見る絵空事と同じ意味だ。
 鴻君が国を持ってからなら、その理想を形にするべく行動しようもあるが、国すら持たぬ彼が口にする事を、深く考えるいわれもない。
――夢想家としてなら立派なもんだと言うべきだろうな。でも実現するよう命じられる俺としては、最初の段階から難しすぎて、手がつけられねぇんだが。
 実現できない事柄は、潔扇の考えられる世界ではない。
 実現できる糸口やきっかけを探してから組み上げるのならば話は別だが、その糸口すらない今、潔扇の思考は停止したままだ。
 それでも、彫紫炎が彫将軍として鴻君を襲う事を懸念して、さりげなく腰の短剣を確認する。
――驚いたのは……このおぼっちゃんが、こんなデカい事を考えていたってことだ。それだけは驚いたさ。思ってたよりは賢いって事も含めてな。でも、やっぱりただのおぼっちゃんさ。理想ってもんは、いつだって、認められない現実を前にしている人間が暇に任せて考える、頭の中での一人よがりな遊びでしかないと思うぜ?
 会話に加わる気をなくした潔扇をよそに、紫炎はそれでも鴻君に食い下がる。
「もう一度、問います。鴻の君が口にされたことは、ただの理想です。あり得ない。実現しようとすれば、多くの血が流れるでしょう。それでも、そのお考えは変わりませんか?」
 紫炎の問いかけに、鴻君はいつもどおりの、穏やかな微笑みで、挨拶のように応じた。
「少なくともこの私には、次へ向かう覚悟があります。それだけは譲りません。どんな犠牲を払おうとも、この覚悟を捨てる事はできません」
 彫紫炎は潔扇の事を忘れたかのように、じっと鴻君を見つめた。鴻君はその目を無邪気に見返す。
 どれほど、そうやって視線を交わしていただろうか。
 緊張で息が詰まるような空気の中、ようやく、紫炎が小さな声で囁いた。
「盛君は、私に現実の夢を見せてくださいました。私の夢を実現させると約束してくださった。しかし鴻の君は……私に一時でも、故郷を忘れる夢を見せてくださった事を、感謝します……」
 ヨロヨロと立ち上がった紫炎は、符術符を描いた紙片をかき集め、胸に抱えた。
 そのまま、動かなくなる。
「大丈夫か?」
 潔扇がそのまま立ち尽くした紫炎の肩を叩くと、ゆっくりと潔扇に振り返った。
「潔扇」
 初めて気がついたかのように名を口にし、すとんと座りなおした。
「なんなんだ、ここは……蔭白師といい鴻君といいお前といい……みんな、めちゃくちゃだ!」
「俺もか?」
「当たり前だろ!」
 何が当たり前なのかわからなかったが、紫炎はようやく、吹っ切れた顔をした。
――ようやく、負けを認めたって事か。
 少なくとも、彫将軍が思っていた以上の人材がここに集っていた事で、敗北したことに納得できたという事なのだろう。
 頭を抱えた紫炎に、鴻君は笑った。
「鴛州軍が到着するまで、そんなに時間は残されていないでしょう。どうか、ゆっくり休んでください。潔扇先生とつもる話もあるでしょうし」
 慌てたのは潔扇だ。
「我が君、私には――」
「忙しい?」
「計画は立てました。しかし、安心できるだけの――」
「計画は実行するために立てるものですが、あなたが実行するものではありません。各人が行うものです」
「しかし、私の姿がなければ、不安に思うものも出てきます」
「それは、私の姿についても同じ事です」
「君主と軍師では、話が違います」
「我々が表裏の関係だと言ったのは、潔扇先生の方ですよ?」
「だからこそ、我が君のいない軍を見ておかねば――」
 潔扇はそこまで言ってから、鴻君の無言の笑みに折れた。自分の主人が、何がなんでもここに引き留めようとしていると察したからだ。
――とんだわがまま坊ちゃんだよ!
「……半時間だけ、ここで待機します。それでよろしいでしょうか?」
「そうですね、私もそれぐらいが適当ではないかと思いました。戦撃符術の準備がそう簡単に終わるはずがありませんしね」
 鴻君は、潔扇と紫炎を交互に眺めて、笑った。



 鴛州軍が姿を現したのは、それから二時間後の事だった。昨日まで鴻君たちが本陣を設置していた、あの丘の上を埋めつくす二万の軍勢だ。
 丁度、昨日までとは真逆の位置になる。
 つまり、狭い盆地で身動きできない状況に、敵軍が突っ込んでくる状況だ。
 鴛君は、敵も味方も一体となった盆地の様子に惑ったのか、しばらく進軍を停止していた。
 しかし、斑将軍の旗印に気づいたのだろう。
 悠々と、何の仕掛けもなく丘を降りてくる。
――あそこで、どれだけの人間が死んだと思ってるんだろうな?
 潔扇は一昨日の戦闘を思いだし、目を伏せた。
――やっぱりあれは、酷い戦いだった。軍師として、雷姫の戦力に頼りすぎた。それが今、ここで裏目に出てる。裏切りを読み切れなかったこともあるが、それ以上に先の手を考えなかった俺は、やっぱり未熟者だ。
 潔扇のいる戦撃符術台の前では、蔭白師と副将軍の格好に戻った彫紫炎が議論を戦わしている。
「結局は、人の意識をため込んでいる空間に、疑似的な人格を与えちまうって事だよ。太陽に天点大聖と名付けて人格化したみたいに、意識をより分ける神を、簡易の神を作り出すんだ」
「人が神を作り出すって?」
「おうよ。もちろん、信者のいない神は消滅する。どんな神でもそれは避けられない。だからこそ、一時的な信者として自分が居ればいい。忘れた途端、神は死ぬ」
「しかし、その疑似的な人格というものを、人間が作り出せるのか?」
「人間だっていろんな顔を持ってるだろ? ただ、自分にはわからなかったり、押し込んでいたりしているだけで、いろんな人格のうちのいくつかを使い分けているだけなのさ。それは人も世界も変わらない。そして、そんなおちゃめで恥ずかしがり屋な世界の、誰も見つけていない性格を見つけだしてやるだけさ。引っ張り出すきっかけを与えれやればいんだ、あとは勝手に出てくる」
 蔭白師の言葉に、真剣な眼差しで頷く彫将軍。
――目の前に軍勢が現れたってのに。符術師ってのは、蔭白師の言うとおり、本当に自分勝手な生き物なのかもしれねぇな。
 その瞬間、潔扇の背中がビリリと痛んだ。
 突然の痛みに声もなく、潔扇はのけぞってよろめく。
 驚いた様子の彫将軍に、潔扇は息をあえがせて頷く。痛みは何度も潔扇の背を襲い、その度、潔扇は見えぬ攻撃に天を仰ぐ。
「おい、大丈夫か!」
「ああ……なぜかわからないが、急に……痛っ! まただ!」
「いや、理由はわかってるんだ、が……」
 言葉を濁す彫将軍に、潔扇は彼女の視線の先に目をやる。
 蔭白師が、符術師の一人の首を抱え込み、その背を何度も平手打ちしているのだ。
 潔扇の背中に描いた誓いの、「不当な暴力」をはたらいている現場だ。
「蔭白師っ!」
 潔扇が怒りに任せて叫ぶと、灰色で半獣人の神官は、牙をむいた笑顔。
「な? こういう風に、空間がつながるってわけだ」
「俺を……私を使って実験しないでいただきたいっ!」
――遊んでる場合じゃねぇんだよ!
 進軍してくる鴛州軍を前に、潔扇は握り拳を作る。
 彫将軍も蔭白師も、潔扇の意気込みに気づいたのか、表情を引き締めた。
「いよいよだな」
 蔭白師が、神妙な声色で告げる。
「じゃあな、軍師殿。しばしのお別れって奴だ」
「長いお別れにならないよう、お願いします」
「彫将軍、あんたもだ。あんた、俺が今まで見た中でも十本の指に入る符術師だぜ。少なくとも、知識はな。また会って、ちゃんと話そうぜ」
 東方礼拝式で頭を下げ、西方風に印を切って祈りの礼。
 そしてそのまま、赤と黄色の神官服を翻し、己の持ち場である符術台へと向かう。
 潔扇と彫将軍は、その背中へ無言の礼を返し、鴻君の元へと向かう。
 鴻君は天幕の前で二人を待っていた。
「では、始めましょう。私の初舞台を」



 鴛州軍は丘をゆっくりと降りてきて、斑将軍の前で停止した。
 予定通り、斑将軍は語るに語れぬという体を貫いた。
 黙して語らず。これは頑固な斑将軍でもできる、最高の演技でもあった。
 業を煮やした鴛君たちは、静かに動向を見守る兵士たちが遠巻きに見つめる中、人気のない本陣に踏み込む。
 彼らは戸惑ったに違いない。
 敵意のない兵士たち。まるで戦いを知らぬ村のような本陣。
 焦りの色も見せず、兵士たちを横目に本陣奥へと、無関心に歩む歩哨の近衛兵の姿。
 そして、労せず見つけた鴻君と彫将軍の姿。
 捕縛しようとする鴛州軍に対し、鴻君は告げた。
「ごらんなさい。戦は終わってる。我々は降伏しようとしているんだ、いつでも捕まえる事ができるのは明白でしょう。せめて鴛君と話をするまで、このままで居させてください。私にも一個の軍を率いた意地がある。そう無様な姿を晒すわけにはいかないんですよ」
 彫将軍に対しては、同盟国という扱いだろう、なんのお咎めもなかった。
 やがて連絡がついたのだろう。指揮戦車があらわれ、鴛君がその窓から顔を出した。
 鴛君の顔は疑惑と打算で怒りの相を帯びていた。
 その大きな蛙の類を思い出させる顔かたちは、愛想を振りまいていた出立前より更にだぶつき、ふてぶてしい程でもあった。
――不遜極まりない。これが鴛城で鴻君に泣きついた男と同じとは思えねぇな。
 鴻君の背後に控え、潔扇は唾を吐きたくなるのを必死で堪えた。
 鴛君は、鴻君の顔を見ると顔を強ばらせ、更に蛙らしく頬を膨らませた。
「どういう事ですか、彫将軍? 傳将軍の姿がないと思ったら、偽物なんぞ引っ張りだしてきて?」
 鴻君は「鴻州本家を名乗る偽物」という名目で、盛氏鴻州から討伐部隊を差し向けられていたのだ。
 鴛君が盛氏軍に鴻君を差し出すには、彼が偽物だという幻想にしがみつくしかないのだ。
「あなたこそ、どのようなおつもりか」
 すっと、鴻君が前に出た。
 笑う。

 いつもの笑いではない。
 あの、人ではないものを思い出させる笑みだ。
 鴻君の笑みではない。
 あざ笑う、魔人の笑みだ。

「一度は私を本物の鴻君と認め客人としながら、周囲の圧力に耐えかねて自らの判断を歪めてしまう。忠実なる武人を煙たがり、乱戦の中で誅せんと同行させる。それだけならまだしも、戦いの終わりに恩義を売るべく兵を出す。それが、一国を司る君主の選んだ道とは、片腹痛い」
 鴛君が黙した。
 語りたくとも語れないのだ。それほどまでに、鴻君の悪意ある笑みは恐ろしい。
 鴻君をひ弱な若造と考えていた鴛君ならば尚更であり、己の非を口にされれば更に恐怖が募る。
 鴻君の普段の言動を見、彼の器を自分の中で勝手に考えている――それが普通の人間がしてしまう過ちだ。鴻君を見極めたような気持ちになってしまう罠。
 しかし、今の鴻君はその、想像の中の器には収まりきれない。
 収まらないからこそ、想像できないからこそ、何をしてくるのかわからないからこそ、この鴻君の笑みは恐ろしいのだ。
 甥と呼んでもおかしくないような歳の差でありながら、国を持たぬ若い君主は、鴛州君主・鴛石をその表情一つで釘付けにした。
「この道すがら、何を見ましたか? 収穫の終わった田畑? 実一つない果樹? もっと思い出せませんか? あなたを見る民の目は? 民の数は? 村の竈はどれだけ使われていましたか? 道を横切る動物は、何がどれだけいましたか? ……お忘れですか? それとも見ていない? いや、見ることなど必要ではないとお考えでしょうか?」
 鴻君の手が、さっと前方を薙払った。届く距離ではなかったが、指揮戦車から降りようとしない鴛君の顔を叩いたかのような動きでもあった。
 そして、潔扇は初めて、この穏和であるはずの主が声を張り上げる様を目にした。
 空気を振るわせる大音声と、断罪に振り降ろされた右手。
 それらが巨大な一つの刃となって鴛君を襲う様を、潔扇は見せつけられたのだ。


「民も見ず、己の恥も知らず、未来も選ばず、地位あることだけにしがみつく者を、私は君主と認めない!」


 主の長い手足が、見せかけではなく本当に大きな男の体についているような錯覚に陥る。
 興奮に顔を歪め、鴻君は更に告げる。
「あなたは私に門を開いてくれた、東方で最初の君主だ。その恩に報いて、今回はあなたを逃そう。しかし、ここで退却せざるを得ない屈辱の分は、いつかあの鴛城で返してもらう! それまで、大事に抱えているといい!」
 目と鼻の先に居ながら、二人の君主に仕える各々の近衛兵たちは、この簡潔ながらも重大な宣戦布告を、鴻君の気迫に押されたまま見守った。正確には、見守るしかなかったのだ。
「潔扇先生」
 鋭い呼びかけに、潔扇は急いで呼び子を口にする。
 人には聞こえぬ音を響かせる笛――音無笛だ。犬笛と呼ぶ者も居るが、扇雷児党では、音無笛と呼ばれる事が一般的だった。
 すぐに行動が返ってくる。
 狭い盆地に突入した二万の軍勢は、そのまま縦に長く延びた蛇の姿のまま、行軍を停止していた。
 その横から――ちょうど、斑将軍が潜んでいた両脇の丘から、無数の騎馬が突撃を開始したのだ。
 騎馬武者は皆、緑に染めた帯を肩から斜めにかけていた。手にしている武器は、鎌や山刀だ。錆で赤茶けたそれは、生活の一部でありながら使い慣れた武器であることを如実に語っており、彼らが普通の武人ではないことは誰の目にも明らかだった。
 「緑布の乱」の残党だ。
 裸馬に跨った彼らは、前触れのない突然の襲撃に面食らった鴛州軍の中を縦横無尽に駆け回り、騎兵の腕を切り落とした。戦い慣れているのは、その押しては引くような突撃と後退を見れば一目瞭然だ。
 後方の騒動に気づいた鴛州軍の兵士たちがざわめき始める。鴻君の宣言に呑まれていた鴛君も、ほっとしたように動きだす。
「偽物を捕らえよ! 緑布党と手を結んでいる君主など存在するはずがない! こやつは、偽物だ!」
 潔扇は思わず笑った。
――全く、見当はずれもいいところだ。
「それは違いますよ、鴛君。緑布党が認めるからこそ、この方が本物なんです。鴻州に盛氏ではない、本物の君主を頂く事、それが緑布党の願いでもあったんですからね」
 鴻君は潔扇の言葉に深く頷く。
「そういうことです、鴛君鴛石。それでは、ごきげんよう。次に会う時は、鴛城の大広間です。大事にお過ごしください」
 もう鴛君の顔も見たくないとばかりに、颯爽と踵を返す。
 鴛州の近衛兵が戸惑う間に、潔扇と彫将軍がその背についた。その動きに驚いたのは、鴛州軍だ。よもや、彫将軍まで鴻君につき従うとは思いもよらなかったに違いない。
 追ってくるかと思われた鴛君たちは、数名の近衛兵がつかず離れずで追ってくる以外、何もしなかった。
 緑布党の乱入が、予想以上の混乱を呼んでいるのかもしれない。振り返ると、鴛君の指揮戦車が丘へ向けて土埃をあげていた。大将直々にハッパをかけなければならない事態に陥っているのだろうか。
――二十年も戦ってきた奴らの生き残りだ。そりゃ、戦い慣れてるだろうさ。ずっとお飾り同然だった鴛州軍とは違うぜ。
 鴻君は堂々と天幕の間を抜け、符術台へと向かう。
 念の為にと、彫将軍が発火する符術符を取り出した。鴻君がすり抜けた両脇の天幕へ、次々と張り付けてゆく。数秒で発火する符術符は、天幕の布をじっくりと焦がし、何をするでもないが後をつけてきた追っ手を怯ませた。
 蔭白師が指揮をとる符術台の様子が見えてきた頃、全力で駆けてきた騎馬の群があった。
「若、お怪我は!」
 挙斗とその息子である巨斗など、潔扇の部下たちの姿だ。
「無いよ。ご苦労だった。うまくやってくれたな」
「音無笛の音を聴くのは久しぶりでしたから、聞き取れないんじゃないかと、少しだけ心配しましたよ」
 挙斗は涼しい顔で、その皺の寄った夏野菜のような顔を笑みに歪める。父親に似た顔と、全く似てない色黒の巨斗は、さしずめはちきれんばかりに膨れ上がったナスといったところか。彼は父親の冗談に無言でニヤリ。
 扇雷児党が犬笛と呼ばないのは、この挙斗の存在にある。仮にも幹部の一人とされる三代目のお目付け役だけが聞き取れる笛の音だ。その笛を犬笛と呼んでは、このお目付けを犬と侮辱する事になる――そう考えた部下たちの発案で、音無笛と呼ぶようになったのだ。
 そして今、緑布党を案内した挙斗は、潔扇の笛の音に呼応して飛び出したのだ。
――それにしても驚いたのは、蔭白師だぜ。俺も来る途中で挙斗に緑布党の残党を調べさせていたが、蔭白師も同じ奴らに目を付けてたんだからな。それも、逃亡する時に匿ってもらう為って目的も一緒だ。笑っちまうね。
 この地に進軍してくる時、天気の事を調べさせていた挙斗は、それ以上にこの緑布党の存在を探し出すよう命じられていたのだ。
 隣国の鴻州で起こった「緑布の乱」だ。鎮圧されたとはいえ、その残党が次の乱の機会を狙って鴛州に潜むのはおかしな話ではない。潔扇や漁将軍が、鴛城から鴻州へ攻め込む術を探したことと同じ理屈だ。そして、元は農民である彼らが、農民として潜伏生活を過ごしているであろうことも想像にたやすい。
 もちろん、彼らは家族ごと、その所属を隠すであろう。しかし、義賊・吏沿扇の名は彼らの耳にも届いていた。その孫が手を貸す存在ならば、本物の鴻君である可能性も十分に高いと、緑布党の残党たちも考えたのだ。
――まったく、大したもんだよ、爺さんの人気は。
 ところがその頃、行方をくらませていた蔭白師も、符術の恩義と鴻君が本物であるという事実を餌に、彼らの協力を取り付けていたというから驚く。
――まさか、あの割れた饅頭の差し入れも、緑布党の差し入れだったとはなぁ……軍師の自信なくすぜ、全く。
 その蔭白師が、彫将軍の手も借りて戦撃符術の発動を開始する。
 符術台から光の柱が、一瞬だけ立ち上る。
「まずは、前にいる漁将軍と近衛兵!」
 戦撃符術が唸り、すぐに破裂音が続く。彼方でどよめきが起こった。
「次は、お前等だ!」
 盛氏軍の符術師約千人。符術台の準備が整った今、発動にそれほど多くの符術師は必要ない。
 符術師たちの姿が、すがるように彫将軍へと注がれた視線が、シュッと何かを擦るような音に続く破裂音と共に消えた。
「そして、緑布党!」
 丘の中腹でもどよめきが起こった。
 今まで自分たちを散々に愚弄してきた裸馬の騎兵が、急に消え失せたのだ。
 符術に精通した蔭白師でさえ驚いた瞬間移動の符術だ。初めて目にする事となった無知な兵士たちが、動揺しないはずがない。
 それは、守備兵として立っていた漁将軍の騎兵たちが消え失せるのを目撃するよりも、ずっと印象深かったに違いない。
 用意した四つの符術台は、最後の一つ。
 その符術台の周りに、鴻君と挙斗たち一行が集まった。彼らを前に、蔭白師は灰色の顎髭を掻いて、ニヤリと牙をむく。
「それじゃ、逃げますぜ。準備は良いですね、我が君? 軍師殿? 副将軍?」
 冗談めかして告げると、返事も待たずに合図の手を振り降ろした。




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