「案君・潔秘」 2・一撃
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 三日後の早朝。
 潔扇は野営に張った自分の天幕を出ると、真っ白な視界に大きく息を吸った。
 体の中で冷えた空気を温め、それを吐き出しながら、隣にあるはずの鴻君の天幕とその前に立つ歩哨の姿を探した。
 ぼんやりと見える天幕の角はかろうじて確認することができたが、歩哨の姿までは確認できない。
 視界の更に奥には、眼前に迫った臥梶山脈が眺められるはずだったが、黒い尾根の気配さえ見あたらない。
 濃霧だ。
 挙斗に命じて、地元の天気に詳しい老人から、次の濃霧がいつになるのか確認させておいた。どの村にでも、天候に詳しい老人はいるものだ。その土地の農作業に欠かせぬ人材が。
 鴛の山脈に近いこの盆地では、傍を流れる大河・高州大河の源流となる松江河や、名もなき谷川や農水路の水を元に、川と山地の温度差によって濃い霧が発生する。発生した後、消える前に風に乗って山を下り、この盆地で溜まって行く霧は、普通の霧を何倍も重ねられて綿のように濃厚になり、息をするにも苦しくなるぐらいだと聞かされていた。
 地元の人々が「化霧」と呼ぶ、対話の相手が化け物に変わっていてもわからないと言われるほどの霧だ。
 潔扇は何度も、かけている祖父譲りの丸眼鏡が曇っているような錯覚に襲われては、眼鏡の表面をこすり、曇りではないことを確かめた。どこまでが肉眼で見えている範囲なのかわからないほど、霧が深いのだ。
――あの旅行記も、捨てたもんじゃねぇな。
 本当に『上着一枚で冬を過ごした』のならば相当の馬鹿か嘘つきだと不安だったのだが、杞憂に終わったようだ。
 部下に命じ、下準備も兼ねてそういう霧が発生する事実そのものは確認していたのだが、やはり、自分の目で見るのが一番だ。潔扇は霧の濃さを実感し、満足していた。
 自分の手すらも見えずに不安になる霧の中、潔扇は目の前の白に目をこらす。
 挙斗たちの報告が正しいなら、そして蔭白師たちの符術による地点計算が正しければ、自分たちは鴻州軍の目の前に陣を張っていることになる。



 盛氏鴻州軍との最終交渉は、一昨日の日中に決裂したばかりだった。
 盛氏鴻州軍の指揮をとる将軍は二名。指揮官は傳猪、副官は彫紫炎。
 傳将軍は、盛氏鴻州になってから召し抱えられた男だ。鴻州本家を廃した盛氏の成り上がりを「男子として生まれたなら、盛君のごとくありたいもの」と絶賛して馳せ参じた、剛の者だという。
 現在の、盟主帝の統一時代にはそぐわない生き方を好む男のようだ。
 戦斧の扱いに長けており、三人分の胴体を一度に切りとばしたという報告もある。
 副官の彫将軍は、符術師だ。彼もまた、盛氏鴻州になってからの臣下であり、正確無比な符術とその扱い、戦場における統率力の高さを買われて出世しているという人物である。
 挙斗の情報によると、盛君は彫将軍の顔立ちの良さや軍事能力に目をつけ、彼を軍神に仕立てあげようと画策しているのだそうだ。
 彼ら二人の連名による、偽物への最後通牒、つまり投降を促す文書が届けられ、鴻君がにこやかに「鴻州君主の偽物は、どちらでしょうか」とだけ告げ、開戦が確定した。


 その時より、鴻君の軍勢は一斉に早足で行軍した。
 進軍の地点と軍勢を確認された以上、進軍位置を攪乱させ、有利な地形を手に入れなければ、三倍差を覆す策など展開できようもない。
 幸い、化霧の発生予定日はわかっていた為、すぐに行動へと移ることができたのも味方した。
 兵士たちには鎧を脱がせ、武器も槍と弓以外は布で覆い、重い金属の楯は一つ一つ布で覆って荷台にきつく縛り付け、木のものに変えさせた。
 木の楯は鴛城を出立する前に、急いで作らせた品だ。楯というより板切れ同然の品も多かったが、何も無いよりマシであるのも事実だ。
 それらの準備の全ては、この濃霧に紛れ、盛氏鴻州軍の目の前に陣を張るためだ。
 武器を梱包し楯を替えさせたのは、開戦の決定から陣の目の前に移動するまでの速度を優先する必要もあったが、霧の中で金属の物音を響かせない為の策でもあった。
 もちろん、当初より予定していた行動だったから、杭を打ちつけてある馬返しも運搬ずみだ。本来ならば重い馬返しなど、戦場で陣を張る時に作成すれば一番良いのだが、物音を立てることを極力さけるには運びこむしかなかったのである。
 その後は時間との競争だった。
 たった二万の軍勢でも、一日に進軍できる距離はそう長くはない。馬返しなど、本来ならば用意しないであろう道具まで運んでいる事態ならば尚更だ。
 騎兵だけなら、早足で駆ければすぐ到着しただろうが、軽戦車や生活用具を積んだ馬車のみならず、歩兵が大半を占めている以上、どうしても歩兵の速度に合わせるしかない。歩兵抜きの戦争なんて、戦争でも何でもない。騎兵が虐殺される場になるだけだ。
 歩兵の負担を軽くするべく荷馬車を活用し、交代で歩くように配分した。その歩みの速度も、急かして早足にさせた。多少の不平不満が出るのは止む得なかったが、せめて現地で休息する時間が取れるよう、それだけを念頭に歩ませ続けた。
 その努力のかいもあって、昨日の夕には陣営を確認できる位置まで移動し、騒音厳禁の上、盆地の陰で十分な食事と睡眠を取らせた。
 そして、早朝に発生し始めた霧に紛れて盛氏軍の目の前へと移動を開始したのだ。



 そんなわけで、この早朝の化霧の中、兵たちは身軽なまま待機している。
 もちろん、戦闘ともなればすぐに武器を手にできるよう、運んできた武器や武具を括りつけてある荷台を陣営内へ均等に配置させておいたし、荷物番にだけは括りつけた縄を迅速に断ち切る為の小刀の帯刀を許しておいた。
 陣営の一番外側へ配備されている部隊には、強行軍の中でも比較的元気な一群を配置し、早朝から大楯を構え続けることを義務づけてある。
 後は、向こう側がこちらに気づくのを待つだけだ。
 それだけの準備をしたとはいえ、やはり作戦を指示した身としては気が気ではない潔扇である。
 鴻君の天幕へ向かうと、歩哨は言いつけ通り、無言で潔扇の身を確かめ、中に入るよう頭を下げた。彼らは大きな木の楯と槍だけを持たせられ、主君を守る兵士としては少々見劣りする姿ではある。しかし顔つきは常以上に、緊張で張り詰められていた。
 軍師の命令を徹底するよう鴻君に言い含められているとはいえ、無言での作業に安堵する潔扇である。ここで「誰だ!」などと大声で誰何されては、この二日間の隠密行動が水の泡だ。
 鴻君は同じように目を覚ましていた。すでに鎧下を身につけ、いつでも鎧を着用できるよう、準備を終えている。
 潔扇は歩哨の顔が緊張していた理由に思い至った。戦闘が近いという予感だけではなく、主君が目覚めているという事実が原因だったのだろう。
「おはよう。いよいよですね、潔扇先生」
 すっかり覚醒した涼しい顔で、しかし酔ってるかのようなにこやかさで笑う。
 いつもどおりだ。異常なほどの落ち着きに、潔扇の方が面食らった。
「おはようございます、我が君。霧が晴れたら、目の前に六万の兵士ですよ」
「六万……そうでしょうか」
 鴻君は、天幕の中央に設置された大机に地図を広げた。高価な北方の紙製の品だ。丸められていた地図が元に戻ろうと反発するのを磨きあげられた丸い石の文鎮で押さえる。
「潔扇先生は、先日、山道方面に工作部隊を派遣したと言ってましたね」
「いかにも」
「我が軍後方の西にも、別の山道を迂回してくる兵を警戒して、視察部隊を送られた」
「その通りです」
 潔扇は、自分が祖父から譲り受けた五百人を戦場の工作員として使用している。
 軍師と名乗っているとは言え、潔扇は今回が初めての戦だ。
 その戦が一筋縄ではいかないと悟った時から、そして負けられない戦であると決めた時から、仕掛けをするには吏氏一族に忠誠を誓うものたちで進めた方が信用できると考えたのだ。
 少なくとも、彼らは義賊として場数を踏んでいる。鴻君の部下や鴛州から借り受けた兵士たちのように、潔扇の命令を軽んじたり、手柄を焦って妙なことをしでかす輩はいないはずだ。
 鴻君は地図から顔をあげ、潔扇に変わらぬ笑顔を向けた。
「潔扇先生。貴方に一つ、感謝しなければならない事があります」
「何でしょうか?」
「私を、この最初の戦闘に参加させてくれた事を、です」
 潔扇は鴻君の目を見返した。一瞬、何かの皮肉を言われたのかと思ったのだ。
――いや、このおぼっちゃんに、皮肉なんて言えるはずがねぇ。
 鴻君が戦場に立つのは、彼の命こそが敵軍の目的だからだ。そして、あくまでこれは鴻君の率いる小さな軍勢と、盛氏軍との戦いであり、州同士の争いではないからだ。
 何よりも、たった一万の軍勢の心を支えるのは――逆賊の汚名を着せられそうになっている元・鴻州軍の士気を支えているのは――己の命を晒しても共に戦おうとしている鴻君の存在があるからだと、少なくとも、そう兵士に思わせる為だ。
 安全な城と十分な兵士が存在するならば、潔扇だって鴻君を戦場に引き出してきたりはしない。
「……私に感謝したことを、すぐに後悔しますよ? あと十数分もすれば、陽に照らされて霧が晴れてしまいますから」
「矢も符術も石も剣も、全部、西方に逃げる前に味わったものだよ。覚悟している分だけ、以前よりも怖くない」
「怖がってください。我が君が倒れれば、戦に負けるだけでなく、私が雷姫に殺される。仮に殺されなくても、五体満足で生活していけるかわかりません」
「それもそうだ」
 鴻君は寒さえで白く濁る息を笑いと共に吐き出した。外ではわからないが、外界から隔離された天幕の中では、白い息が見えるのだなぁと、ぼんやりと思う潔扇だ。
「だけど、潔扇先生は雷姫に気に入られているからね。無傷で許してくれるかもしれませんよ? むしろ、今後の生活の面倒を見ろと迫るかもしれない」
 雷姫の顔を真っ赤にさせた、日焼けした頬を思い出す。一緒に思い出すのは、彼女の振りかざした血刀と、切り裂かれた腑が地面にばらまかれる嫌な水音だ。
――どこをどう見たら、あの女が俺を気に入ってると思えるんだ?
 鴻君は、主の手前ひきつった笑いしか浮かべられない潔扇を眺めて、神妙な面もちで目を細めた。
「私は大丈夫だと思うんだが、彼女は頑固でね。潔扇先生が『森人』の血を引いていなければ、少しは――」



 その時、大きな鬨の声が霧の中を轟き渡った。



 潔扇は急いで、鴻君の天幕を見張っていた歩哨たちと共に木製の楯を構え、君主を移動させる。
 天幕の裏から出ると、既に楯を構えた兵士たちが矢の雨から逃れようと退き始めていた。
 潔扇のもくろみ通り、不意を突かれた盛氏軍は、自軍中央に配置されていた弓隊で牽制をはじめたのだ。鴻君の率いる鴛軍は、予想されていた攻撃に木製の大楯で応じている。
 これは潔扇の指示通り、「こちらも驚いているかのように」振る舞っているのだ。小隊の隊長にはそのように指示してあるが、雑兵たちには伝えぬようにとも命じてある。
 本当の混乱を演出するには、本当に驚く人間が少なからず必要なのだ。そして、それらをとりまとめる者たちが慌てなければ、暴走や逃走が起こる確率は格段に小さくなる。
 兵士と指揮官との信頼関係だけが不安要素だったが、借り受けた鴛軍ならともかく、鴻君や将軍二人に従ってここまでついてきた人々ならば十分な関係が気づけていると判断した上での指示だった。
 鴻君を指揮戦車に押し込み、潔扇自身も乗り込む。専用の御者によってすぐに鞭をいれられた馬達は、混乱する陣営から我先にと抜け出すべく全力で駆け出す。
 その速度が最高値に達する前に、本来なら背負うべき木の盾を前面に、首から下げて簡易の鎧とした近衛兵が、指揮戦車の両脇に足を掛けてぶら下がり、追撃してくるかもしれない敵軍に備えた。
 潔扇は指揮戦車に残しておいた、木の符を鷲掴みにする。「伝令符」と呼ばれる品だ。「陰の符」「陽の符」二つを一組として用いる、声を伝達する符術の道具である。
 本来ならば大地にとどまり、様々な符術の陣を作らなければできない符術だが、「陽の符」を持つ蔭白師の陣を中心に龍脈を制御する事と、指揮戦車に施された数々の符術によって指揮戦車そのものが小さな龍脈の溜まりとなっているからこそ、移動しながら使用できるという特異な状況を作り出しているのだ。
 もちろん、この「伝令符」が声しか伝導しないと言う簡単な作りをしている符術だからこそ使用できるのであって、敵軍を迎撃するような攻撃的な符術は、その分巨大な龍脈を必要とするが為に、移動する指揮戦車の中からでは使用不可能である。
 とはいえ、指揮戦車の利便性ははかり知れない。指揮戦車をたくさん作れる財力があるなら、各将軍に一つずつ配布し、戦闘を有利に進めたいところだ。ところがこの指揮戦車という代物の金額が、一個大隊を養えるような代物だから困る。その分符術で強化されている為、並の攻撃や符術では破壊できないと評判ではあるのだが……。
 それに予備として、指揮戦車の「伝令符」が使えなくなった場合に備え、それぞれの将軍には伝令役の符術師が控えている。
 それでも、軍事行動をとり始めた後には、戦撃符術の用意や妨害を考えると「伝令符」が使えなくなる可能性が高く、従来通りの鐘や銅鑼の音で合図するしかないが……それでも、一段落ついたり、突撃の命令を確認するにあたり、直接話せる有利さは計り知れない。やはり便利な符術ではある。
 指揮戦車で揺られながら、潔扇は蔭白師用の「陰の符」を探し出しす。取り出し、使用を認識させる為に符の中央に親指を押し当てる。符術が発動した証に「陰の符」に刻まれている文様の墨が真っ赤に変色した。それを確認するまもなく叫ぶ。
「蔭白師、合図を! 鐘を鳴らしてくださいっ!」
 「陰の符」からは蔭白師の寝ぼけたような返事が響く。もしかしたら寝てたのかと焦る潔扇だったが、すぐに退却を示す鐘の音が響きはじめた。
 同時に、他の将軍たちも動き出しているはずだ。次の攻撃に向けて。
「さてと……潔扇先生の初陣がはじまりだ」
 怒号と戦闘の喧噪の中、隣りに座する鴻君が呟いた。



 盛氏軍が展開している盆地は、西に高州大河へ合流する松江河を望む小さな土地である。
 鴻州との境界に位置する臥梶山脈を越えてやってきた軍勢は、この盆地の中で隊列を整え直すつもりであっただろう。
 そもそも、開戦決定の報告を受けてから二日だ。鴻君の軍勢が強行し、目の前にまで迫っているとは思っていなかったに違いない。通常の進軍速度ならば、南東にある小高い丘陵の陰になる禿草平原での開戦が見込まれるのだから。
 その開戦予定地に至るまでに、盛氏軍は鴻君軍の二万を越える軍勢をそろえてしまいたかったのだろう。
 「もしかしたら自分達の君主であるかもしれない人物」や軍勢に対し、鴻州の民には今回の遠征に対し不安を抱いている者も少なくないと言う。その民は、ただでさえ士気が低下してる上に、険しい山道を進軍させられている。さらに低下したであろう士気を高めるには、十分な休息と、自分達の圧倒的な兵力を兵士達に確認させ、今回の戦闘が圧倒的な勝利で片づく簡単な仕事だと錯覚させたいはずだ。
 挙斗の報告と、周辺を探らせた部下達からの報告を照らしあわせた潔扇は、彼らの進軍停止をそう判断した。
 さらに、その軍勢の内わけだ。
 盛氏軍が越えてきた臥梶山脈は、主要な街道が整備されているとは言え、険しい山道であることには変わりない。そして、盛氏軍もその山道を越えるに当たっては、大量の騎馬や戦車を苦労して運用する利を見いださなかったのだ。
 現時点で、狭い盆地に陣を設置したのは軍勢の一部になる。伝令を兼ねて先行する騎馬隊が一千、前衛としての歩兵および弓兵が二万、軽戦車が五千、本陣の騎兵が五千、符術師が一千。
 歩兵が中心の、おおよそ三万の兵。
 残りの三万はまだ山の中の山道上、街道上に残ったままである。
 この戦闘中に、追加の兵士が現れたとしても、それは歩兵と弓兵をあわせた一万でしかない。残りはやはり歩兵たちを一万と、しんがりをつとめる騎兵が一万だ。
 後陣の騎兵が盆地に到着するまでに、作戦の全てが完了しているならば、それは三万の軍勢と二万の軍勢の戦闘が終わったという事実でしかない。
――いや、相手が六万のままでも戦えるように、この土地で戦うと決めたんだ。
 「化霧」は西の松江河周辺で発生し、小さな袋に詰め込まれるようにこの土地を真っ白にする。
 同じように、狭い土地に詰め込まれた盛氏軍は通常の戦闘のように身軽には動きようもない。
 軍人である騎兵達ならともかく、徴兵された歩兵が中心の軍であるなら尚更だ。
 事態を盛氏軍の指揮官に飲み込ませるより早く、歩兵に戦闘というものを教えてやればいい。
 身動きできない中での戦いの恐ろしさを、だ。
 その為の、潔扇の策だった。


 潔扇が盛氏軍の目の前においたのは、鴻君の本陣だ。
 霧が晴れて対面した両軍の前衛は、互いに恐慌状態に陥った。盛氏軍は警戒と時間稼ぎの為に弓を放ち始め、先行隊の一部であったろう騎馬が引き出された。
 だが、当初からの潔扇の指示通り、鴻君軍は迅速に退却を始めた。
 その頃には、逃走を図った軍勢が敵の大将首だと気づいた盛氏軍陣営だ。色めき立ち、動揺が凶暴な欲に転じる。
 歩兵や弓兵だけではない。戦いについて教え込まれているはずの騎兵すらも、その出足の速さを生かして追ってきた。
 逃げる鴻君の本陣は、三千の歩兵、軽戦車が一千、鴻君の近衛兵たちによる騎馬が三千だ。
 七千の兵が、全力で逃走をはかり、北にそびえる丘陵を駆けあがる。
 冬になり枯れた芝で覆われている丘陵は、夏場などは馬や羊の放牧地として使われている土地なのだそうだ。
 これは偶然にも、蔭白師が近隣の農民から聞きつけてきた情報だが、潔扇にはありがたい情報でもあった。放牧に使われているような土地ならば、大量の兵士が登坂するにも支障がないと思われたからだ。けわしい岩場だらけの崖では、逃走に支障をきたす。
 潔扇の見込み通り、凍った岩肌や霧に湿った枯れ草に足をとられるものはいたものの、大きな混乱も無く丘を登り始める。
 そして、その背後に迫る騎馬兵だ。
 弓を放ってくる恐れもあったが、彼らは追いつくことを優先したようだった。思い出したように放たれる弓は、楯をもつ役割を厳命されたしんがり達によって大方ふさがれ、最後尾の馬返しを立てた軽戦車も破れかぶれの矢を跳ね返し続けた。
 馬返しを避けながら指揮戦車を目指そうとする騎兵がいないでも無かったが、逃走中の兵士達にも、飛び出してきた騎馬を倒すぐらいの気力はある。
 追いつけそうで追いつけない状況を繰り返しつつ、しかし足を止めたら敵に飲み込まれて惨殺されることは目に見えている状況。
 全ての鴻君軍の兵士が、前日までの強行軍の疲れも併せ、息も絶え絶えの逃走を続ける。
 ほんの十数分程度の逃走だっただろうが、潔扇にはとても長い時間だった。
 丘陵の中腹の、まるで階段の踊り場のように突き出た平地で、指揮戦車の足を止めさせる。
 汗だくで続いた自軍の兵士たちが、指揮戦車の周りで息を弾ませる。中には指揮戦車の停止などには目もくれず、さらに丘陵の上を目指して駆けてゆく者もある。潔扇は彼らを咎めるつもりなどない。どのみち、ここで一細工したら頂上を目指して逃走を再開するのだ。
 潔扇は、戦場を確認しようと振り返る鴻君を上の空で制止しつつ、己は木の楯を構えた近衛兵の陰から戦況を伺う。
 敵の騎兵が歩兵の一部を補足し、切りつけているのが見えた。その後方には雄叫びをあげる敵歩兵の一団だ。
――まるで洪水だ。あれに飲み込まれたら一瞬で死ぬな。
 自分が惨殺される光景を脳裏に浮かべるが、ちっとも実感がわかない。それをおかしく思いつつ、潔扇は斑将軍用の「陰の符」を手にする。
「潔扇です、斑将軍。ご用意は?」
 将軍の骸骨のような顔立ちを思い浮かべている間に即答。
「今すぐにでも結構!」
 上擦った甲高い声だ。もっとも、彼は普段から混乱しているような、上擦った口調であるのが常なのである。気にしないことにする。
 「陰の符」から顔をあげ、できる限り声を張り上げて叫ぶ。
「近衛兵、登るのが遅れている者達を援護せよ! 巻き込まれるぞ! 急げ!」
 近衛兵達には、今回の作戦の概要を伝えてある。モタモタする者はいない。敵騎兵に追いつかれている者達の救出を優先させる。
「忘れるな! 殺す暇があったら、馬を走らせろ!」
 言い放っておいて言葉が足りないと思ったが、先に同じ言葉を使って説明しておいた為か、すぐに意図を汲んだ者達が行動を起こす。
 敵騎兵たちを矛で牽制し、楯を構えた歩兵や馬返しを搭載した軽戦車など、重さ故に遅れをとっていた者達を救い出す。
 近衛兵たちは、彼らが敵騎兵たちの槍から遠ざかったことを確認するやいなや、その敵の乗馬に矛先を向けた。
 急所となる首は言うに及ばず、馬の尻にも突き立てる。思わぬ痛みに驚いた馬と、その驚きを制御しようとする騎兵が躊躇している隙に、近衛兵達は再び退却。もちろん、敵の馬が恐怖に駆られて走り出したり、乗り手を落馬させたりする大当たりも出ている。
 退却を急いでいる今、彼らに止めを指す必要はない。味方の邪魔をする者がいなくなれば良いのだ。
「軽戦車隊、停止後すぐに整列! 馬返しを外し、地面に設置せよ!」
 しんがりであった軽戦車を駆っていた騎兵たちは、一様にどこかしら矢傷や刀傷を負っていた。しかし坂道であったり馬返しが設置されていた為か、致命傷を負っている者も無く比較的元気な様子でもある。とはいえ、その精神的苦痛は計り知れなかったようだ。皆一度は地面に膝をつき、恐ろしい経験から逃れた事を実感しているようだった。
 鴻君が直々に近衛兵達に声をかける。先に到着していた近衛兵たちに、軽戦車隊の作業を手伝いに向かわせたのだ。
 以前より潔扇が感心しているのは、この近衛兵たちの自在な行動である。鴻君を本物の君主として認識しているからこそであろうが、この近衛兵たちには、普通の近衛兵たちのもつ貴族意識や縄張り意識はほとんどない。馬返しの設置など、いくら戦場とはいえ、歩兵の仕事と無視してもおかしくないと思う潔扇だ。しかし鴻君の近衛兵は違う。
――これまでの旅路で、良い意味で貴族意識がなくなったのか、それとも漁将軍に性根をたたき直されたか、どちらかだろうな。
 ふとそんな事を思う。
 とはいえ、近衛兵たちが馬返しを本来の用途に、つまり地面に固定するべく杭を打っている間にも戦闘は続いている。それも、近衛兵たちが馬返しを設置している踊り場の下、足下で、だ。
 潔扇は「陰の符」を蔭白師用の品に持ち換えた。
「蔭白師、あとどれぐらいですか?」
 一事が万事で適当な神官殿も、さすがに目が覚めたと見えて、野太くも快活な応えが返る。
「大丈夫だ、うまくいってんだから焦らさんな。おまえさんの予定通りにするなら、あと五秒ってとこか」
 蔭白師の、おそらく犬歯をむき出しにして大口あけてるんだろう笑みを想像し、符術師の意図とは逆に苛立つ潔扇だ。
「敵さんにものんびり屋が居やがってな。阿行防衛線突破まで……三、二、一っ! よっしゃ、やってやれッ!」
 大きな銅鑼の音が、丘陵の上から降り注いだ。
 三度打ち鳴らされた銅鑼の音を最後まで聞いている余裕はない。
 もはや、敵騎兵から逃れようとしている自軍の歩兵や、彼らを救おうとした近衛兵達の心配をしている余裕もない。
 彼らがこれから先の災厄に対し、どうにかくぐり抜けてほしいと願う事しかできないのだ。
 ドドドドドと、立て続けに地面が鳴った。
 矢だ。天空から降り注いだ矢が、指揮戦車の停止した踊り場の下に、丘陵の斜面へ無数に降り注ぎ、突き刺さる。
 追っ手たちは全身に突き刺さる矢を信じられないように掴みながら、次々と地面に倒れ伏す。
 盛氏軍の騎兵とその馬達が全身を射抜かれる壮絶な光景におそれをなした盛氏軍の歩兵達だが、彼らも逃げる間もなく天空からの矢の餌食となる。
 さらに悲惨なことに、丘陵を上る事に集中している後方の歩兵達は、前方で何が起こっているのか理解していない。
 ただ先に先にと、前の兵士を押すばかりである。転んだ兵士を踏みつけて行く者すら現れている。そして前に出ては倒れて行く。
 彼らは早く戦争を終わらせたいだけなのだ。
 早く終わらせて、故郷に帰りたい。
 その為の方法が、目の前にある。
 丘陵の踊り場で立ち止まっている、指揮戦車の中に。
 鴻君の首を取れば、故郷に帰れるのだ。
 それだけではない。敵の大将を討ち取ったなら、どれだけの報奨金が手にはいるだろうか。
 目の前にある、あの戦車にたどり着けば、すぐなのだ。
 そうやって前の者を急かし、先頭に立っては倒れる。
 各人の欲が、視界を曇らせ続けている。
――戦場じゃ、バカな隊長を持つと何万と死んじまう。
 大将首の手柄を立てるべく飛び出してしまうよう仕向けたのは潔扇だ。
 それを見越して、あえて本陣のみを霧の中に進ませ、盛氏軍の目の前に陣を張らせたのだ。
 そして、自分たち鴻君軍にも予想外の遭遇だったと思わせるべく急いで逃走し、罠に引き込んだ。
 丘陵から横に走る別の丘には、完全に武装した鴛州軍の弓兵を潜ませておいた。彼らの指揮をとっているのが斑将軍だ。高台からの攻撃で射程距離を伸ばし、さらには手巻き式の機械弓をも交えての遠距離射撃だ。切れ目ない矢の攻撃を見るに、彼も一応、弓を切らさず攻撃する三段構えの陣ぐらいは作ることができるらしい。これは嬉しい誤算だ。
――バカでもできる仕事と思って斑将軍にお願いしたんだがな。
 今のところ、すべて予定通りだ。いや、予定以上だ。
 それでも、目の前で起こってる虐殺に近い戦いを見て気分がいいはずがない。
 馬返しを設置し終えたのを確認した頃、弓の攻撃がパタリと止んだ。
 見ると、丘の上には死者が転がるばかりで、動く者の影はない。かろうじて、下の平地付近を逃げて行く兵士達の影が見えるぐらいだ。
「第一波、ですね」
 鴻君が壮絶な光景を目の前に、顔色一つ変えずに呟いた。
 己が城を追われた時でも思い出しているのだろうか。おそらく、以前にも同じように凄惨な光景を目にしていただろう鴻君だ。この程度では驚かないのかもしれない。
 それでも、何か思うところがあったのだろうか。
「私の命だけで、これほどまでの人間が我を忘れてしまうとは……わかっていたつもりだったが」
 珍しく、大きなため息をついた。
 その鴻君の横顔を目に留め、潔扇は心中で囁く。
――そうだよ。あんたにはそれだけの価値がある。だからこそこの俺が、扇雷児党の跡継ぎである俺が、一万の軍勢を捨ててあんたに仕えてるんだ。
 その潔扇には、まだまだ感傷に浸る余裕などない。
 敵が仕組まれた遭遇戦で浮き足立っている間に、後方に控えている兵士達が、鴻君軍の作戦をマグレだったと思って警戒しないうちに、次の手を打たなければ。
 雷姫用の「陰の符」を手にした時だ。
 挙斗がどこからともなく駆け寄ってくるなり、声を張り上げた。
「若、こちらにおいででしたか! お怪我は?」
「ないよ。そんな事より慌ててどうした?」
「雷姫将軍より言伝を預かりました」
「なんだと?」
「ウチの野郎どもに、流れ矢の回収をさせようとしていたところ、雷姫将軍が通りかかりまして。それで言伝を」
 大量に使用した矢の、すぐに使える物を回収して使用するのは戦場では当然のことだ。普通なら夜半などを待って回収するのだろうが、物資が圧倒的に少ない為、迅速かつできるかぎりの範囲でという条件をつけて、挙斗の息子である巨斗の班に任せた仕事だった。
 巨斗の仕事である回収班の近くに挙斗がいたとは、親心からの行動だったのか。
 真実はともかく、雷姫の言伝とは聞き捨てならない。
「で、なんだと?」
「『作戦の内容は理解している。次は自分の番だ。自分の仕事の開始は自分で判断できる。符術伝言は無用』との事です」
 挙斗は唖然としている潔扇の手の中をのぞき込んだ。
 雷姫用の「陰の符」を手にしたままだった。
「無用とのこと、です」
 しれっと重ねて告げる挙斗を睨んで、潔扇は「陰の符」を束に戻す。
 挙斗は一礼して去っていったが、隣りで一部始終を聞いていた鴻君の苦笑は消えない。
「我が君」
 侮辱するなとたしなめたつもりだったが、鴻君は表情を変えない。
「だから言ったでしょう、潔扇先生。あなたは雷姫に気に入られているって」
「……そう思ったことは一度もないのですが」
「潔扇先生は、御自身を過小評価しすぎなんですよ。じゃなきゃ、雷姫が作戦を聞いてるはずがないんですから」
 潔扇は気づかれない用にため息。
――雷姫は、あんたが囮になってる作戦だから、聞いてただけだよ。
 鴻君はすっかり安心しているが、雷姫の行動次第ではまたも大軍に追われることになるのだ。
 だからこそ、次の作戦は雷姫の率いる騎兵にと采配した潔扇である。
 雷姫はそのことも踏まえて、潔扇を憎らしく思っているに違いない。
――わからないのはあんただけだよ、我が君。
 今のうちにと近衛兵の手を借りて鎧を着込みはじめた鴻君を横目に、潔扇は眼下の敵陣に目を凝らした。
 祖父譲りの丸眼鏡の黄色がかった視界でも、血の色は赤だ。




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