「案君・潔秘」 6・追求
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 その夜、潔扇は鴻君と共に食事をしながら、明日以降の行動について確認をしていた。
 蔭白師は魔術を使った反動による疲労で立つことも困難になっており、自分の天幕で横になっていると言う。雷姫は夜襲に備え自分の部隊の者たちと一緒に食事をとると申し出た。
 斑将軍は脇の丘で警戒を続けている。盛氏軍もさすがに半日間での被害で、この斜面が砦である事に気づいたであろうから、その攻撃の要である両脇の弓部隊を狙ってくる事も予想できる。両脇の丘はけわしい崖を背後持つ。騎兵による強襲はないだろうが、道無き林や斜面を数でごり押しされれば、防ぎきるのは難しい。斑将軍には弓兵の半分を歩兵に戻し、警戒させるように指示しておいたから総崩れと言うことはないだろうが、油断はできない。
 結局、鴻君の護衛や打ち合わせも兼ねた食事を共にできるのは潔扇一人ぐらいだったのだ。
 明日以降もこの絶対的有利な丘の上で盛氏軍を待ちかまえる体制であるのは変わらないが、潔扇は山の街道に残る、まだ合流していない盛氏鴻州軍の残り三万兵を気にしていた。
 丘の上で籠城するのは、無謀な突撃をするよりは良い策かもしれないが、やはり物資や数で劣る鴻君側としては、望ましい体制ではない。長引けば長引くほど、けわしい山道を回り込まれて背後を突かれる危険も増すし、何よりも、山脈一つしか隔てていない盛氏鴻州から更なる増援が到着すれば、こんな丘一つで翻弄できる人数ではなくなってしまう。全滅は必死だ。
 鴻君にそれらを語ると、若き放浪の君主はにこやかに頷いた。
「わかりました。お好きになさってください」
――理解しているのかどうか、わからねぇ顔だな。
 陣中とはいえ、そして領土を持たぬとはいえ君主を名乗る人間だ。だがそれに見合わぬ量、質共にささやかな食事をゆっくりと口に運ぶ鴻君。
 強行軍に備えて水を制限して運搬したように、食事も短期戦分の量しか調達していない。兵士たちにはなるべく十分な食事をするよう指導しているが、その分だけ、戦闘期間を長引かせることは難しくなる。糧食の限界は、潔扇が早めの決着を急ぐ理由の一つでもあった。
 それを思えば、鴻君の食事は汁物も主菜副菜もそろってはいるが、量はきわめて少なく、兵士たちより質素と言っても過言ではなかった。
 これは鴻君が自ら申し出たことだ。潔扇はそれとなく兵士たちに鴻君の食事について噂を流すように指示したが、その噂がどれだけの効果をあげているのかは計りかねた。それでも、鴻君の評判や忠誠心をわずかにでも上げられるのなら、何でも利用しようと考えるのは悪いことではない。事実なら尚更だ。
 鴻君は少な目の食事をゆっくり味わいながら、再度、潔扇に頷いて見せた。
「つまり先生は、できれば明日中に決着をつけてしまいたいとお考えなのでしょう?」
「明日とは限りませんが、明後日までには片をつけるつもりです。それまで、我が君にはこの本陣から動かないでいただきたい。今日とは違い、敵にも戦撃符術の用意はできているでしょう。こちらが既に防衛符術を展開したように、です。以後、何が起こるか正確には予想できません」
「また先生の側にいれば良いのでは?」
「自分が生き残れる自信があるほど、私は無謀な人間ではありません、我が君。私に何かあっても、我が君を失うほどの損失ではありませんから。どうか、こちらの天幕で大人しくお待ちください。必要な時にはお呼びします」
 そうは言ったものの、潔扇も鴻君を使わねば戦が動かないであろう事は予測できる。
 潔扇が現在恐れている一番嫌な策を、盛氏軍がとった場合だ。先方が長期戦を考えて待機した場合。
 朝の鉢合わせを狙った作戦のように、鴻君を囮に使わねば、敵陣を崩せるような隙を作る事はできないかもしれない。
 その場合、鴻君の安全を確かなものにする為には、敵の戦撃符術を発動させてしまった直後の行動になる。
 問題は、敵の戦撃符術をいかに無駄遣いさせるか、だ。
――策は無ぇわけじゃねぇが、一日目のように被害を最小限にくい止める自信はねぇな。
 鴻君の、まるで満腹の牛のようにのんびりとした動作を眺めながて……さっさと食事を終えてしまった潔扇は、給仕も兼ねて側に控えていた近衛兵に地図を持ってくるよう頼んだ。
 その時だった。
 別の近衛兵が天幕に入ってくると、鴻君と潔扇に敬礼をした後、不審な人物を捕らえたと報告してきたのだ。


 その人物は自分を潔扇の知人であると告げ、対面を申し出ているのだという。
 だが、名を訪ねても〈企州人〉としか答えず、自分の身の証としてはコレを見せれば事足りると言って聞かないのだという。
 それは、六十州の一つである企州の名産、「螺鈿の櫛」だったという。
 預かろうとしたが、〈企州人〉とやらは決して渡そうとせず、吏潔扇にしか渡せないと言い張った。
 近衛兵が不思議に思ったのは、〈企州人〉とやらが潔扇を軍師であることを知らないようだという点だ。
 確かに潔扇は初陣であることだし、軍師としての知名度が低いことは否めない。だが、潔扇がこの陣にいると確信しているにも関わらず、その地位を知らないというのはおかしな話だ。
「潔扇先生、思い当たる人物は?」
 鴻君の問いかけに、潔扇は首を傾げて見せる。
――無いわけじゃねぇよ。ただ、今この時期に広げてみせるようなことでもねぇしな。
 潔扇は直立不動で待つ近衛兵に振り返った。
「どなたか知りませんが、しかしわざわざ来られたには理由があるのでしょう。一度会ってみます。私の天幕に連れてきてください」
「え? 潔扇先生? 本気ですか?」
 驚く鴻君に、潔扇は安心させる為に手を振って見せた。
「本当に私の知人かもしれませんし、祖父からの使者である可能性もあります。会ってから判断してもおかしくはない」
「それでは、護衛をつけさせます」
「私の天幕には直属の部下が控えてます。心配無用です。これ以上近衛兵を分散させては、我が君の身を守れなくなります。心配御無用」
――オレの予想通りなら、下手に鴻君の部下が介入することは事態を悪化させるばかりだ。
 潔扇は、それでも心配そうな鴻君に一礼して視線をふりほどき、自分の天幕へと戻った。


 潔扇に企州人の知り合いはほとんどいない。
 企州は北の海岸地帯にある、貧しい州国だ。「森人」を祖先に持つ吏一族は、山岳地帯の人々との結びつきは強かったが、大陸の極端にある海辺の州にその名を根付かせる時間的余裕はなかったのだ。
 もちろん、義賊・吏沿扇の高名を聞きつけて傘下に入る人物もいないことは無かったが、潔扇の知る限り、「螺鈿の櫛」を身分証明にするような手の込んだ事をする義賊仲間は一人もいない。
 他に思い当たる人間は三人ほど。
 岳竜山房で学んだ仲間だ。
 東方中の、学問を修めたい人間が老若男女問わず集まる場所。しかしその厳しい学問追求の生活と、刺激の少ない自然の中での生活、その覚悟を試す為に求められる高額の勉学料、それらの全てを踏まえて、それでも学問に打ち込みたいという人々は、ごくわずかだ。
 その人々も、岳竜老師の指導方針についていけず、次々脱落し、または学問を修めたと見切りをつけて出て行く。
 そんな岳竜山房において、貧しい企州出身の人間など、数える程しかいない。
 彼らの顔を思い出しながら、潔扇は我知らず重いため息をついた。
――まさか、な。



 近衛兵たちが〈企州人〉とやらを連れてきたのは、天幕に戻ってすぐの事だった。
 その男は、企州の農夫が好んで身につける毛皮と麻の、えび茶色の作業服を身につけていた。寒い地方、それも海岸地帯である企州だ。南方である鴛の冬など、殊更上着を必要とする寒さではないのかもしれない。
 潔扇は再び、あの遠い昔の旅行記を思い出しながら、その〈企州人〉に向き直った。
 見覚えのない男だった。
 四角い顔立ちと力こぶで形作ったような短躯、海の日差しと風で鍛えられたのであろう真っ黒でゴワゴワした皮膚を持った、岩の塊のような男だ。
 相手も潔扇の顔を見るのは初めてのはずだ。目を合わせた後、ゆっくりと視線をずらして行き、全身を確認している。
 互いに隙を伺い続ける、緊迫した時間が流れた。
 だが、ずっと対峙しているわけにもいかない。相手が武器らしい品を携帯していない事を確認した上で、潔扇から会話を切り出す。
「先に言っておく。私の天幕には、見えぬ場所に護衛がついている。何か良からぬことをしようとすれば、すぐにその首に刃物が突き立てられると心得てから、行動して欲しい」
 真っ黒な四角形を思い出させる〈企州人〉は、にこりともせず答えた。
「お優しいことですな」
 その言葉使いに、潔扇は動揺を見せぬよう身構える。
――格好は農民だが、奴らがこんな言葉使うわけがねぇ。
 〈企州人〉はゆっくりと、潔扇の警告を踏まえて敵意がないことを示しながら、近衛兵も口にしていた「螺鈿の櫛」を懐から取り出した。
 渡すつもりは無いらしく、潔扇に見えるよう、その場で掲げてみせる。
 だが潔扇は、その樹木と鳥を描いた櫛の、その細部まで確認するべく声をかけた。
「二歩前に出て、櫛を足下に置いてもらおう。置いたら二歩下がれ」
 見覚えのある模様だったが、間違いなく記憶にある通りの櫛であると確認したかったのだ。似たような品はどこにでも転がっている。
 〈企州人〉が言われたとおりにすると、潔扇は〈企州人〉から目を離さず、二人の間に置かれた櫛を拾い上げた。
 やはり、記憶にあるとおりの櫛だった。見覚えのある傷が二つ確認できたし、その一つは潔扇の不注意でつけてしまったものだった。それでなくとも潔扇は、何度もその櫛を人目につかぬ場所へ隠そうとし、頭を悩ませたものだ。
――やはり、お前か。
 潔扇は変わらず自分を観察し続けている使者の、その据わった目を見返した。
「お前の主人は了解した。用件はなんだ?」
 〈企州人〉は再び、懐からゆっくりと紙片を取り出し、櫛の時と同じように、二人の間の地面に置いて下がった。
 潔扇は二度目故の油断をしないよう心がけながら、先と同じように拾い上げる。
 紙片は、符術符だった。複雑な文様と中央に書かれた自分の名前に、潔扇はしばし考え込む。
 発動させるのは簡単だった。自分の名前を指先でなぞれば良いのだ。今まで何度も、同じ符術で伝言を受け取ってきた潔扇だ。驚くことはない。
 しかし、今、ここで広げるべきなのかが迷いの元なのだ。
 〈企州人〉はじっと潔扇の動向に注目している。
 彼は使者だ。潔扇は彼に見覚えがない。しかしこの使者が〈企州人〉である以上、彼の主人は自分の部下に故郷の人間を用いることにしたのだと考えるのは難しくない。
 反面、彼の主人が潔扇の良く知る人物であったとして、昔とは違い、悪意を持ってこの符術符を持ってきたのならばどうだ?
 それでなくとも、符術符に用いられる墨は、様々な薬物と毒物、鉱物によってそれぞれの符術ごとに違った墨を作り、使用するのが常である。
 この墨に皮膚接触で浸透する毒を必要以上に、大量に用いられたのならば、死に近づくのは明白だ。
 潔扇は〈企州人〉の足下に、符術符を投げた。
「符術を発動してくれ」
 〈企州人〉はためらいもせずに符術符を拾い上げ、そのばでかがみこむ。地面に符を置くと、潔扇の名前をなぞった。彼も潔扇同様、同じ符術で伝言をやりとりした経験があるのだろう。
 符術の発動は、特に個人を特定して発動するものではない。一定の様式できっかけを与えれば、誰にでも使用できる点が魔術とは違う強みでもある。
 この伝言の符も、潔扇宛の名前を持ってはいるが、発動させる相手が潔扇でなければならないとは限らないのだ。
 符術符が発動した。閃光が走る。


 符術符の上に、半透明の人物が立っていた。
 等身大の映像だ。使者の男の短躯ほどではないが、男としては小柄な符術師の姿。
 符術師の大半が身につける、緑の紋様が描かれた白絹の神官服を身につけている。
 神官服は、位によってその緑の紋様はより線を多くし、紋様は複雑になり、更に高位になると錦糸で更に華美になって行く。
 目の前の半透明の人物の神官服は、少ない紋様と錦糸で、神官としては中の上とでも呼べる地位の人物であると理解できた。
 しかしこの半透明の符術師は、符術師らしからぬ品も身につけている。
 華麗な細工の施された刀剣を腰に、そして羽根飾りのついた銀色の兜を胸に抱えている。
 神官である符術師には、似つかわしくない品々だった。
 だが何よりも潔扇の目を引いたのは、その人物の顔立ちだ。
 ほっそりとした首筋と、つるりとした頬、上質紙のように白い肌、逆さにした卵を連想させる顎の線と知的な頭部、憂いを含んだ黒い瞳。
 潔扇はかけている祖父の丸眼鏡を、知らぬうちに指で押し上げている自分に気づいた。
 そして、その美しい顔を、同い年の相手の顔を、真っ正面から睨みつける。
 符術によって出現したその像は、符術に組み込まれた言葉だけを忠実に再現した。
『これを見ているということは、鴻君の配下である吏軍師というのは、やはり、あの、吏潔扇なんだな?』
 潔扇の記憶にあるとおり、低く低く、丁寧に調整された声で符術師は囁く。
『ならば悪いことは言わない。小賢しい事は止めて、今すぐ私のところへ来ると良い。悪いようにはしない。もし無理に鴻君に義理立てすれば、後悔してもしきれない事態になる。今日の戦の成果を手みやげに、盛氏に仕官しろ』
 潔扇の記憶にあるとおりの顔で、高慢と呼んでも差し支えない自信に満ちた無関心さで、符術師は命令じみた言葉を紡ぐ。
『機会は今夜だけだ、吏潔扇。すぐに決断してくれ。この手紙を持っていった男と一緒に鴻君の陣を離れなければ、これまでどおり、敵として排除する。頼むから、私に友を討ち取らせないでくれ。私は、お前の首など見たくない』
 半透明の符術師はしばらく何か言いたそうな顔をしていたが、そのまま、出現したときのように閃光となって消えた。

 潔扇と〈企州人〉は、符術の作用が終わった後も互いに睨みあった。
 潔扇は純粋に興味からだったが、〈企州人〉はどんな事を思っていたのか。
「私と、あいつの関係を知っているんだな?」
 潔扇の問いかけに、〈企州人〉は頷いた。
「何だと言ってた?」
「……岳竜老師は、反面教師とするべく吏潔扇と同室にさせたに違いない。悪賢く、向上心はなく、たまに動くかと思えばくだらぬ義侠心で周囲を振り回すことしか成し得ない落第生。暇さえあれば酒を呑み、博打を打ち、寝てばかり。かといって目立った頭脳もなく、将棋をさしても手応えはなく、役立ったといえば荷物持ち程度の、くだらない男だった」
「散々な評価だな」
「私が知る限り、将軍は他人を評価される方ではありません」
――評価されるだけマシだってか。
 〈企州人〉の顔に浮かぶ厳めしさが、潔扇への嫉妬であると気づき、苦笑する。
「言って置くが、私と奴の関係は、お前の思ってるようなものじゃない。四年も山房で生活を共にしたんだ。互いに意見が合わないとわかっていても、多少は友として認めあう部分が生まれるものだ。その程度の付き合いだ」
「その程度の付き合いとやらで、私の命を捨てさせるような御方ではありません」
 確かに、敵陣に使者を――非公式の使者を送り込むのだから、問答無用で使者が切り殺されていても文句は言えない。
 それを承知で送り込んで来るほど、相手はこの使者の武芸なり交渉術なりを高く評価しているのだろうし、この使者も、相手の指示を命がけで果たそうという忠誠心をもって動いている。
――厄介な話だな。
 潔扇の知らないところで築かれた信頼関係だ。それを崩す敵のように睨まれては、生きた心地がしないのも事実だ。
「……あいつは今、厳しい立場に置かれているのか?」
「質問には答えかねます。私が承るのは、潔扇殿を将軍の元にお連れすること、その一点のみでございます」
「私がこの手紙を悪用するとは考えなかったのか?」
 〈企州人〉は答えなかった。しかし、答えられない窮地に立たされた顔ではない。むしろ、答えるまでもないといった余裕の沈黙だ。
「吏様のお返事は?」
「見ての通りだ」
 支度をする気配のない潔扇に、〈企州人〉は無言で了解。
「〈企州人〉とやら。我々の陣を出るまで私の部下をつけよう。自軍に帰って、あいつに伝えろ。確かに俺は、お前に将棋では勝てなかった。だけど、戦で負けるほど優しい人間でもねぇってな」
 〈企州人〉の変わらぬ表情を見て告げているうちに、潔扇は自分の言葉で自分の怒りを開いた事に気づいた。
 見るまいとしてきた相手の言葉の裏を、自分が口にした事でのぞき込んでしまったのだ。
――あいつ、将棋ごときで、俺の軍師としての能力に見切りをつけやがった!
 急激に沸き起こった怒りに耐えきれず、思わず叫んだ。
「いいか、忘れずに伝えろよ! 俺を投降させようなんてのは、俺を馬鹿にしたのと同じだ! 『討ち取らせないでくれ』? なめるな! ふざけた事をぬかすな! そちらこそ、後悔しないようにもがいて見せろ! いいな、必ず伝えろよ!」
 「螺鈿の櫛」を〈企州人〉に放り投げて返す。慣れた様子で空中で受け止めた〈企州人〉は、それでもしばらくの間、潔扇を睨み続ける。
 潔扇が天幕の背後に控えているはずの護衛に声をかけ〈企州人〉の案内をさせようと口を開いた時だ。
「吏様」
 〈企州人〉が不意に、顔つきも体制もそのままに、低く囁いた。
「これからは使者ではなく、私の個人的なお話をさせていただきたいのですが、よろしいでしょうか?」
 虚を突かれた潔扇は、〈企州人〉の様子を伺う。
 銅で作られた彫像のようなその姿には、潔扇が怒りを露わにしたことへの動揺は見られなかった。むしろ、潔扇の怒声がこの男の表情を更に頑なにさせたかのようだ。
 しかし、その言葉はあくまで慇懃無礼を貫き続ける。
――さっきから気になってたが、こいつ、綺麗な盟主国語を話しやがる。何者なんだ?
 盟主国語は、六十州の共通言語として使用されている、威州方言の変形言語だ。
 六十州全土で使用される東方語は、それぞれの国家で独自の発達を遂げており、多種多様な方言が存在する。それ故の言語の混乱を避ける為、六十州が成立した際、人工言語として作成されたのが盟主国語だ。
 威州方言を元にしている分、覚えるのはそう難しくないが、発音や表記を正確に使用できる人間は、やはり数が限られてくる。
 農民風の姿形のまま盟主国語で語るその差異に、潔扇は先と同じ違和感と共に興味を抱く。
 潔扇の無言の促しに、〈企州人〉は一礼した。
「私は企州にて、将軍から勉学を学んだ農民です。将軍は岳竜老師の元を出た後、企州にてご自身の夢を叶えようとご尽力なされました。その一環として、符術や勉学の素晴らしさを広めるべく、ほぼ無償で私塾をひらき、我々のような貧しい農民や漁民にも学ぶ機会を与えてくださったのです」
――確かに、あいつなら盟主国語を正確に覚えているはずだ。
 つまり〈企州人〉は、将軍の直弟子というわけだ。深く信頼され、伝言を預かった理由もそこにあるのだろう。
「しかし、企州の角君はそれを良しとしませんでした。反乱軍を育成していると事実無根の疑いをかけられ、私塾は強制的に撤去されました。そして将軍は企州を追放されたのです。……私は将軍の元でもっと学びたかった。家族のことも心配でしたが、幸い、私は跡継ぎではなかったので、家を捨てて将軍に同行したのです」
 潔扇は〈企州人〉の顔をじっくりと眺めた。
――やっと合点がいったぞ。
 見目麗しい将軍と、この岩のような短躯の男。
――こいつ、あいつに惚れてやがるんだ。
 全く吊り合わない二人だが、それはこの〈企州人〉もわかっているのだろう。それでも彼は、将軍についていく事を選ぶほどに、心の底から惚れ込んでいるのだ。
「道中も将軍は私に様々な事を教えてくださりましたが、企州を追われた事やご自身の夢が頓挫された事を残念に思ってらっしゃるのは明らかでした。それで私も将軍のお力になりたいと、道中で情報を集め続けました。せめて将軍の夢を認めてくれる州国はないものかと考え、新興国を探したのです。そして私の探し出した州国が――」
「盛氏鴻州ってわけだ」
――緑布の乱が収まったばかりで、国の再建に着手している。州都もまだ発展の余地がある。自分が首をはねた役人分の人材も、まだまだ足りない。盛君は野心家だけに、新しい考え方にも比較的寛容だ。悪くはない選択だろうな。
「お察しの通りです。盛君は将軍の夢を認めてくださった。混乱が収まりきっていない現状故、すぐには着手できないだろうが、必ず一都市を将軍に与えてくださると約束なされた。それまでに、一都市を受けるにふさわしい働きをし、他の臣下を納得させられるだけの状況を作り出すようにとのお言葉でした。将軍は納得され、以後、幾度となく暴徒鎮圧に乗り出されてきたのです」
 〈企州人〉は潔扇から目を離さず、一気に語りきる。
「そして今、です。将軍は、まさか相手の軍師が貴方だとは思わなかった。しかし、早朝からの逃走劇や陣型から、もしや貴方が陣中で策を授けているのではないかとお考えになられた。鴻君の軍師が盗賊上がりと聞き、扇雷児党の誰かと共に貴方が動いている可能性も考えられた。それ以来、将軍は貴方を自陣へ引き込むことをずっと考えておられます」
 〈企州人〉は、櫛や伝言を取り出した時のように、ゆっくりと膝を折った。地面に膝をつき、潔扇を見上げる。
「貴方のお察しの通り、将軍は自軍において、自分の味方を一人でも増やしたいとお思いなのです。貴方は将軍の夢を理解している、数少ない人物の一人だと伺っています。そして将軍は、企州の時のような思いを繰り返したくないのです。一人だけでは実現できない夢のために、手を貸してくれる方を探していた。だからこそ、このような伝言を作られた。決して、貴方を蔑んでの勧誘ではありません。むしろ、貴方との再会を幸運に感じていられます。貴方を必要としての呼び掛けなのです。どうか、冷静にお考えいただきたい」
 深々と、頭を下げたのだ。



 天幕の護衛の一人である荏慧に〈企州人〉を送らせて間もなく。
 鎧の騒々しい音を響かせてやってきた来訪者に、潔扇は少なからず驚いた。
――鬼女将軍! なんでこいつがここにいるんだ? 馬返しの最終防衛線で待機中のはずなのに。
 白い傷跡の残る左目さえもつり上げ、雷姫は怒りの形相で天幕に踏み込んできた。
 昼に血と汗と泥にまみれていた鎧は綺麗に磨きあげられてはいたが、その鉄色の匂いは鎧そのものの金物の匂いとともに、日焼けした肌にまとわりついている。
「失礼する!」
 一応の断りを入れるが、その声すら、刺々しい。
 天幕をぐるりと一瞥し、人の姿がない事を確認。
 しかし、硬い表情は変わらない。
「伏兵がいるな。二人」
「お見事。どちらも私の護衛です」
 潔扇は作戦行動の確認用にと広げていた古布の地図を丸め、文机の上に置きなおした。
 雷姫に来客用の椅子を勧め、自分も文机の椅子の向きを変えて対面する。
「来客はどうした」
――この口調は、遊びに来た口調じゃねぇよ。尋問だな、こりゃ。
「返しました」
「なぜ?」
「我が軍には必要のない人材だからです」
「敵には必要な人材なんだろう?」
「彼の服装は、企州の農民服です。そんな人間の一人や二人が、一体何をしでかそうというんですか。彼は私の知人の使者です。伝言を伝えて金をもらって、そして居なくなる、それだけの、ただの農民ですよ。雷姫将軍が懸念するような事は何もありません」
「ならばなぜ、この天幕で符術を使用した?」
「符術?」
 とぼけて見せた潔扇に、雷姫は突然、剣を抜きはなった。目の前の地面に突き立て、両手でもたれる。
「蔭白師やその部下の一部は魔術を使ったおかげで動けない。だからといって、警戒を怠る御仁じゃない。魔術の使えなかった符術師たちが、陣の各地に散らばって、不振な符術の気配はないのか見回りを続けている。昼にあんなことがあったばかりだからな。また妙な符術の使い方をされては堪らない」
――やっぱり、蔭白師か。相変わらず、俺の想像を越えた動きをしやがる。理にかなってる分、たち悪い。
「その上、少し前には鴻君が私に軍師殿の天幕を見てきて欲しいと伝令を寄越すし、近衛兵からは不振な男と二人きりだと言うし、符術は使うし、とどめは何やら怒鳴りあっていたというじゃないか。なぜそうなった? 来客は誰だ? 何を揉めていた? 何も無かったとは言わせないぞ!」
 答えによっては切り捨てるつもりなのは明白だ。
――要するにこの女、俺を間者か引き込み役だと思ってるんだな? 敵軍と繋がってるか何かだって?
 潔扇は祖父の眼鏡を押し上げながら思案。
 ここで嘘を並べ立てて誤魔化すのは簡単だが、嘘だとばれた時が面倒だ。何よりも、嘘だけで出来上がった話など、誰も信じない。
 雷姫が自分を間者だと疑っているのならば、その想像を満足させられる言葉と一緒に嘘を語らねばならない。
 例えば、相手側の間者として鴻君の挙兵に参加したが、自分としては盛氏軍の情報を手にしれる為の狂言である、とか。
――いや、待てよ? これはある意味、良い機会かもしれねぇな。
 今は怒れる鬼女だが、この女将軍が非常に女性らしい一面を持っているのは、鴻君への忠誠心や香の趣味からも明白だ。更に、鴻君に国を取り戻してやりたいと願う夢を抱く人間でもある。
 そして、女性として異質な戦場に身を置き続けている。それもこれも、鴻君の為だ。鴻君の夢を叶えることが彼女の夢だからこそ、歯を食いしばって戦い続けている。
――あれだけ戦える武人もそうは居ねぇ。話によってはうまく立ち回ってくれるかもしれねぇな。
 明日以降の戦いにおいても、雷姫の騎馬隊は大きな戦力として敵陣に切り込むことも多くなる。決着が付く頃には、本陣へ乱入することもあるだろう。
――やってくれるかもしれねぇ。
 潔扇は覚悟を決めた。
「では……私の知人の話を、聞いていただきますね」



「私が岳竜山房の出身であることはご存じですね?」
 雷姫はぴくりともせずに先を促す。
「岳竜山房は、霊峰・淘莉の麓にあります。山脈に囲まれた辺鄙な村の一画ですよ。学問に打ち込むために、遊びらしい遊びのない場所にわざわざ作られた私塾です。入門する人間は皆、山房の寮に入れられます。切磋琢磨するのを目的として、複数の人間が一つの部屋で生活し、互いの勉強や生活態度を管理し合うのです」
 私塾が寮制度を採用するのは珍しくない。鴻君や雷姫も、西方時代には白徒主魔術学院の寮で生活していたという。それだけに、潔扇の学徒時代も想像しやすいだろう。
「私の同室者は一人。企州の人間でした。幼い頃から非常に優秀だった為、貧しい企州の人たちも、このまま漁村で一生を送らせるのはもったいないと考えた。故郷の村人たちが少しずつお金を持ち寄り、後には学んだ事柄を故郷に反映させる人材となることを期待され、岳竜山房に入塾した人間です。事実、入塾後も優等生でありつづけました」 雷姫がわずかに興味の色を示した。感心したようにほうと息を吐く。
 逃亡生活を続けた子供時代があれども、雷姫も貴族でしかない。自分たち貴族が支配する人間、つまり支配される側の人間が、自分たちの環境を自分たちの手で変えようと努力する事があるという発想そのものが無いのだ。
――自分たちで何とかしないと死ぬばかりだと理解せざるを得ないほど、追いつめられた人間が多いって事だぜ、雷姫。あんたら貴族は、どうしても自分たちが民を生かしていると勘違いしてるが、民はいつだって、自分たちだけで精一杯生きてるもんだ。
 そして、天才とも呼べる人材を目にした時に彼らが感じた希望。
 彼らは支配者に敵対したいわけではない。ただ、支配者の裏をかいて生活を楽にするにはどうすれば良いのか、具体的な知恵が欲しいだけなのだ。
 税を出した後に残る手取りを少しでも多くする為にはどんな作物が必要か、どんな栽培方法があるのか、虫の駆除法、病気の排除。厳しい寒さに耐えるにはどんな家を建てれば良いのか。どんな蓄え方をすれば良いのか。冬の間の副業にはどれが良いのか。魚を効率的に取る方法、そのさばき方、その売り方、漁法、養殖の仕方……。
 潔扇には、同室の人間から聞かされた様々な要望が、決して思いつきや遊びから出たものとは思えない。
 祖父たちが教えてくれた各地の虐げられた人々の話と併せて、貧しさが人を萎縮させることもあれば、逆に人を結束させる力にもなることを容易に想像できた。
――だけど雷姫、あんたにはおそらく、一生、わからない希望なんだろうな。
 潔扇は雷姫の顔へ僅かに浮かんだ興味の色に手応えを感じながら、続く言葉を繋いだ。
「ただし、そんな村の期待を背負った優秀な人材にもただ一つ、どうしようもない欠陥があったのです。努力では覆せない欠陥が」
「欠陥?」
「そいつは、女だったんです」
 雷姫の表情に、明らかな驚きが走った。
 怒りの相が一瞬にして消え、明らかに想像の世界をのぞき込んでいる目に変わる。
 女性でも学問を修めようとする人間はいる。しかし、その大部分は貴族の子女や高級芸姑の身につける教養の範囲に止まる。
 女性の学問とは、将来的に官僚たちと男女の関係を結ぶことを前提としており、良き相談相手として会話が成立できるだけの教養を身につけるのが目的なのだ。
 その為、大部分の女性たちは家庭教師を雇い、自宅にて勉学を修める。私塾のような公の場で学ぶ機会はないに等しい。
 むしろ、公で学問をすることは女の恥であるかのように扱われている。男の真似事をする、女のたしなみを知らぬ者というわけだ。
 それというのも、東方では女性が政治に関わることを禁じているからである。
 東方において、政治を司るのは神黄女帝新界という女神だ。政治とは、古代の超大国時代において統治していたというこの女神の魂に語りかける行為であり、州国の王達は女神に仕える臣下であるという考えが根強い。
 もちろん、現実において女神に伺いをたてるという事はない。神託を受けて統治するというのは、概念として残っているだけの有名無実の形式でしかない。
 それでも、嫉妬深い政治の女神の機嫌をそこねることは、政治の根幹に関わるとして忌み嫌われている。
 政治の中身は、時に運によって大きく作用される。たとえば納税にしても、天候の不順で蓄えの量は一変する。外交では、わずかな差で情報が前後しては判断が狂わされることもある。全く予期せぬ要素によって隣国の情勢が変わり、長年の友好関係が一夜にして崩れさる時もある。
 それらの運勢をも女神が嫉妬に駆られて引き起こしているという思想が、非常に根深いのだ。
 それだけに、どれほどの才女であっても政治に関わること、つまり官僚になることはあり得ず、官僚となるべき道が閉ざされている以上、あからさまに学問を修めようとする女性は排斥される事になる。
 女性が学ぶという事は、雷姫のように女性が武を修める事よりも、ずっと困難なのだ。
 そんな女性である雷姫だ。名高い岳竜山房に女性が入るという事の困難さを、身を持って理解しているに違いない。
 潔扇は雷姫の反応に更なる手応えを感じながら、先を続けた。
「企州の人々もそれを承知してました。彼らは村をあげての嘆願書を作り、岳竜老師に入塾の願いを出したのです。村人たちは、一人の女性に頼らねばならないほど、自分たちの暮らしを変える何かを探していた。地理的に、気候的に、暮らして行くのがやっとの環境です。女性もそれを承知していた。自分が彼らの世界を変えて見せると、誰よりも熱心に勉強してましたよ」
 潔扇は一瞬、脳裏を横切った記憶の映像に引きずられて言葉を切った。
 夕刻、己が酒に酔ったまま部屋に帰ると、彼女が古書を読み解いていた。挨拶の言葉を交わしてすぐに眠りこけてしまった潔扇が再び目を覚ました深夜にも、彼女はまだ古書を読んでいた。灯りを極力絞り、鏡で少しでも広い範囲を明るくしようとし、山中故に冷え込む深夜でも、幾重にも服を重ねて震えながら読書を続けていた姿だ。
 その記憶を振り切って、潔扇は続ける。
「岳竜老師は入塾を許可するにあたり、一つだけ条件をつけました。それが、彼女に女性を捨てさせる事だったのです」
「女を? どうやって?」
「難しい話ではありません。女性である事を一生隠すことを条件にしただけです。胸には布を巻いて膨らみを無くし、声を常に低く保ち、髪を玉にまとめる。男と関係を持つ事はできず、もちろん女を抱く事もできない。秘密の漏洩に繋がるすべてを制限して一生を過ごす。それを条件にしたのです」
 雷姫はしばらくの間、じっと潔扇を眺めた。
 怒りはすでに消え去ったが、驚きと疑惑を交えた表情だ。
「軍師殿は、その女男と同室だった、と?」
「私は吏沿扇の孫という家系を明かさない事が入塾の条件でした。岳竜老師は、他の入塾者を動揺させない事を第一に、それに加えて、私が血筋とは関係ない生活を経験することが、私の成長に不可欠と考えたようですね。そして私たち二人は、どちらか一方の秘密が漏洩した場合、連帯責任で二人とも破門すると申し渡されました。私は彼女が女である事を隠し続ける協力を、彼女は私が盗賊の生活しか知らないという世間慣れしていない部分の協力を、互いに余儀なくされたのです」
 雷姫の「信じられない」という呟きに、潔扇は笑った。潔扇だって、自分が経験した事柄でなければ、作り話だと笑っていただろう。
 だが、四年間の山あり谷ありの生活は、夢や嘘だったと思うには長すぎた。
 彼女が唯一、女性であるという証に持ち続けた母の形見という「螺鈿の櫛」も、その時代に何度も目にしていた品である。
 それどころか、優等生である彼女の弱みを探ろうとする不届きな輩から、何度隠し通してやったことか。売り飛ばされて酒代にされるだけならともかく、女性関係や女装趣味など事実無根の疑いをかけられては、話が面倒になる。幾度と無く下衆な輩の先手を打ち続けた潔扇の行動に、彼女もさりげなく感謝を示していた。
――その櫛を、あの〈企州人〉とやらに預けるんだ。本当に自分の教え子を信頼してるんだな。それとも、あの男の恋慕を利用するだけの器用さを身につけたのか。……だから女は面倒なんだよなぁ……。
 疑いの眼差しを解かない雷姫に、潔扇は告げた。
「お気づきかもしれませんが、その女が男として授けられた名前が……彫紫炎。盛氏軍の副将軍である、符術師です」



 雷姫は目の前の剣にもたれたまま、じっと潔扇を睨みつける。
「その話を信じろ、と?」
「信じようが信じまいが、構いません。ただ、私が〈企州人〉と名乗る男から、彫将軍の伝言の符術符を受け取る理由にはなっていると理解していただきたかった」
「それが、例の符術の気配か。内容は?」
「私に投降しろと。吏潔扇は彫紫炎には勝てない、今までそうだったように。だから先に出て来いと」
 二人はしばらくの間、互いの腹のうちをさぐり合って対峙した。
 雷姫は嘘である事をさぐっていたのだろうし、潔扇は雷姫が自分の言葉を信じる事にした瞬間を見逃さぬように。
「向こうに、行くのか?」
「まさか。行くつもりなら、今頃ここには残ってません」
 再び、沈黙。
 しかし潔扇には意義ある沈黙だ。
 雷姫は彫将軍に、ある種の親近感を持っている。自分と同じように、自己を押し殺して男の中で生きる事を余儀なくされた者同士だ。
 潔扇ほどではないが、同じように、彫将軍の今後に興味を抱いたに違いない。
 だからこそ、潔扇の真意を確かめたいのだ。
 その為の沈黙ならば、大歓迎だ。
「では……同室だった彫将軍を討つ、と?」
「それが戦というものならば仕方がありません」
「勝てるのか? 今まで負けていたんだろう?」
「勝てぬ戦をする軍師はいません。それに学徒時代の私とは違います。ですが――」
「ですが?」
「私は彼女が、故郷の人々の夢を背負っていたことを知ってる。今は、彼女自身の夢半ばであることも知っている。こんなところで、彼女の人生を終わらせたくはない」
「彼女自身の夢とは何だ?」
「貴女と鴻君は実際に生活していたからよく知っているでしょう。西方には魔術をふんだんに使用し、生活の全てを魔術でまかなっている魔術都市・白徒主がある。彫将軍の夢は、東方風の白徒主を作ること、貧しい企州の生活を一変させる符術都市を作ることです」
 雷姫は「なるほど」と唸った。

 符術都市構想そのものは、彫紫炎が初めて考えたものではない。以前より文学や絵画の世界で描かれ続けてきた、空想の建造物である。
 しかしそれを現実に作ろうと思い立ち、学徒の頃から図面を引き続け、必要な知識を片っ端から手に入れて行き、挙げ句、自らが符術師となってまで実現させようとしたのは、おそらく彫紫炎が最初であろう。
 符術はあくまで、一過性の一部の現象でしかない。しかし、規模を大きくすれば、戦撃符術のように大きな影響を与えることも可能だ。ただし、その反動で土地が荒れてしまっては話にならない。
 だが水車や風車のように、極めて小さな範囲で、常に活動する符術を各地に配備することは可能である。
 誤解を恐れず言ってしまえば、どんな作業にも利用できる見えない水車や風車を内部に数え切れないほど設置してある都市を作ろうというのが、彫紫炎の考えた符術都市であったはずだ。
 もちろん、それにだって問題はある。符術は特殊な素材を元にして作られた墨を使用し、木片や紙片で作られる。故に歳月や風雨で痛みやすい。こまめな修繕を余儀なくされるだろう。
 現実として符術都市を維持するには、それに見合った数の符術師が現地に必要なのだ。
 だからこそ、彫紫炎は企州において私塾を開いたに違いない。符術都市を作った後にその修繕を行えるだけの知恵や知識を住人に身につけさせておく為に、符術師の数を増やす為に。
 だが現実として、その最初の一歩で躓いている。

「魔術ほど大規模な作用は無くとも、符術は誰にも負担無く使用できる上に、長期的に見れば無尽蔵の力でもあります。その符術を都市の隅々に配備し、僅かながらも気候の変化や土壌の変化まで促す機能を備え付ける。そんな符術都市を、どこよりも誰よりも必要としているのが、彼女の故郷です。自分を岳竜山房に送り出してくれた恩に報いる為にも、符術都市を故郷に作るまで、彼女の夢は終わらないのです」
 雷姫が聞き耳を立てている。
 もはや彼女はこの話に興味津々なのだ。後は雷姫に決断させる、最後の一言を告げれば良い。
「それまで私は……雷姫将軍、私はこんな所であいつを死なせたくない。あいつの夢を叶えてやりたいんです」
――不思議なもんだな。ずっと昔から思っていた事を他人に話すってのは。
 潔扇は雷姫の片目を、先とは逆にこちらからのぞき込むように、しっかりと見据える。
――そうだよ……俺はずっと、どこかでアイツと殺り会う時が来るんじゃないかって思ってた。一代で出世するには戦場が近道だからな。それに気づいた時から俺は、ずっとアイツを死なせたくないと思ってたんだ。こんなに早く再会するとは思わなかったけれどな。
 雷姫は片目をぐっと潔扇に近づけた。
 目線を逸らさず、潔扇の反応をじっと確認している。
――どこの流れモンだよ。
 まるで、ゴロツキの威嚇だ。
 先まではいつ切りかかってくるのかわからなかった分だけ気も抜けず、恐怖が募ってはいた。
 だが今は違う。
 雷姫は自分たちの関係に興味を抱いてるし、彫将軍の身の上に同情さえ覚えている。問答無用の切り捨てはあり得ない。
 ならば、こんな威嚇に何の力もない。祖父の部下たちが凄みあっている姿を何度も目にしている潔扇には、怯える要素が見あたらない。
「軍師殿は」
 雷姫はゆっくりと、一言呟いた。
 ややしばらく考え込むように口を切り……そして顔を赤らめた。居心地悪げにうつむく。
――なんだ? どうした?
 その赤い頬に、潔扇も腰の座りが悪くなる。
 雷姫の女性らしさを理解していたつもりだが、いざ、目の前で恥じらう姿を見せられると、意識して無くとも意識してしまうものだ。
――まてまて、潔扇。このおっかねぇ女にもじもじされたとして、なんで俺が照れなきゃならねぇんだ?
 背筋を伸ばして気持ちを吹っ切ると、雷姫も一度、同じように背筋を伸ばした。
 彼女は、いきなり彼女自身の頬を手で張り飛ばした。顔つきを引き締める。
 驚く潔扇に再び片目の顔を近づけると、先と同じように、ゆっくりと口を開いた。
「軍師殿は、彫紫炎に、惚れているのか?」
 それだけを言うことに、何を照れていたのか。
――バカバカしい! 自分の事でも無いのに、何を赤くなってんだよ、この女は! 自分と鴻君の事でも考えてたのか? あー、もうっ! これだから女は面倒だ!
 呆れ果て拍子抜けした反面、潔扇は、迷った。
 顔には出さなかったが、雷姫の求めているであろう答えを、そのまま肯定して良いのかわからなかったのだ。
――俺はあいつに惚れてるのか?
 自問自答。いや、考えるまでもない。
 考えたことすらなかった。それが全ての答えだ。
――だけどな、紫炎が男だったとして、見捨てて戦えるか? 故郷の期待を背負ってなくたって、四年も一緒にいた人間を、あっさり切り捨てられるか? どんだけ腹立つ野郎だったとしても、俺のこの手で殺せるか?
 潔扇は笑顔を見せた。
 答えは出てる。そして、その確信は自信となって笑みとなる。
――俺は吏潔扇、吏沿扇の孫だ。扇雷児党は仲間を裏切らねぇ。孫の俺が、爺さんと同じ事ができねぇわけがねぇ! 相手が俺をどう思っていようと、俺があいつを仲間だと思っている以上、簡単には死なせねぇぞ!
 心からの笑み。それを雷姫がどのように受け取るかは気にしない。
 雷姫は決めているはずだ。彼女自身が、自分の答えを認めたくないだけだ。
 潔扇の態度や言葉に、否定する要素を見つけたいだけだ。
 そして潔扇も応える。
 答えを返さないことで恋愛感情ではないと示すが、大事な友ではあるのだと。
 雷姫はずっと、先と同じ片目を近づける姿勢を保ち続けていたが、最後にはハッと鼻で笑って顔をそらせた。
――折れたな。
 雷姫は元の、怒りにも似た表情で、力強く宣言した。
「わかった。では私も岳竜老師に倣って、一つ条件を付けさせてもらおう」
――うわっ、聞きたくねぇ! 何言い出すんだ、この女!
 潔扇の心の叫びも空しく、雷姫は突き立てた剣の柄頭に両手を乗せ、その上に自分の顎を乗せた。
「鴻君は貴殿を非常に気に入ってらっしゃる。どこが良いのかわからんが、私の忠告も聞かぬぐらいにな。こうなったら、無理に我が軍から出て行けとは言わない。最後まで付き合ってもらう」
 言わずもがな。
――こっちも鴻君に用があるんだ。本物の、鴻州を手に入れた鴻君がな! それまで、簡単に出ていってやるもんか。
「彫将軍の命を救うのは、鴻君への忠誠、それと引き替えだ。今後、今回のようにコソコソ隠れて交渉するのは止めてもらおう。忠臣として、鴻君の前で正々堂々、話し合え。私もこんな事でいちいち呼び出されては身が持たない」
「良いでしょう。ただし、彫将軍の身柄と引き替えですよ」
「わかってる」
「私の推測が正しければ、彫将軍は自陣でよく思われていません。符術の変則的な使い方は彫将軍の策でしょうが、死体を燃やすような事をする奴ではありません。おそらく、彫将軍の策を盗んだ別の符術師、部下や隊長職の輩が指示したものでしょう。そしてその責任を彫将軍が背負わされる事になる。軍師として同行している以上、この戦が我が軍の有利になればなるほど、彫将軍の立場は悪くなり、内部の制裁によって命を奪われる確率も高くなるはずです。その前に救い出さなければ。……雷姫将軍、それでも、やれますか?」
 雷姫は椅子から立ち上がると、地面に突き立てていた剣を引き抜き腰の鞘に収めた。
 文机の椅子に腰掛けたままの潔扇を片目で見下ろし、ぎゅっと口を引き締めてから、冷たく言い放つ。
「私は一度決めたことは、できる限りの範囲で全力を尽くす。それだけだ。軍師殿にもそうあっていただきたい。裏切りが発覚した時には、誰でもない、私がその首をもらいうける。覚悟しておけ」
 まるで来た時の再現のように、怒りを露わにした忙しい足取りで天幕を出て行った。
 ひとまず大きな山を越えたという安堵で、潔扇はほっと息を吐いた。
――頼んだぜ、鬼女将軍。俺もあいつの首は見たくないんだ。
 その瞬間、全身から汗が噴き出す。顔を伝う汗で、祖父の眼鏡が鼻柱からずり落ちそうになったぐらいだ。
 護衛が付いているとはいえ、抜き身の剣をそのまま振り回されては、かわす自信も無ければ護衛の制止も期待できない。それを無意識に悟っていたのだ。少なくとも、体はそう感じ取っていたのだ。
 自分が彼女を前にしどれほどまでに緊張していたかを思い知らされ、笑うしかない潔扇だった。






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