「案君・潔秘」 7・動静
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 二日目の朝も化霧から始まった。
 鴻君側は先日の報復を恐れて厳重な警戒を敷いていたのだが、何事も起こらず、全軍拍子抜けする結果となった。
 化霧が晴れた後も対面したまま動く気配のない盛氏鴻州軍。
 内部でいくつかの動きが見られないわけではなかったが、おそらく歩哨の交代程度の、軍同士の戦いに発展しそうもない動きだ。
 天候は悪くなく、合戦をするには十分な日差しもあったが、潔扇は次の手を打ちかねていた。
 懸念事項は二つ。
 一晩明けてみるに、盛氏軍の人数が前日よりさほど減っていない事が一つ。
 これは挙斗とその部下たちが見張り中に確認していたが、盛氏軍本陣より合流を急かす使者が走り、それに応じて夜半過ぎ到着した一万の歩兵だ。
 これで山道に残るのは弓兵一万と騎兵一万になる。
 昨日の敗走を知らない新しい兵が一万となると、約半数の兵が戦闘の恐怖を知らない兵だという事だ。
 昨日と同じ手で引っ張りだせるかもしれないが、逆に半数の敵が鴻君側の攻撃を見切っている以上、裏をかかれる事は大いにありうる。できることなら別の手段を選びたい。
 そして何よりも、戦撃符術の存在。
 戦撃符術の妨害を行った待智からの伝言によると、戦撃符術の符術台は四つ。一つの陣営内で設置する符術台の数としては、五万から八万規模の軍勢が用意する台数だ。やはり一千人の符術師は伊達ではない。
 その戦撃符術の被害を、どれだけ少なくするかが、潔扇の悩みどころでもあった。
 いくら戦撃符術が立て続けに使える技術ではないといはいえ、やはり四回分を無駄に使用させるには、それなりの覚悟がいる。
――戦撃符術の威力は、頭でわかっていたとはいえ、目の前で見たらゾワゾワしたもんな。
 蔭白師の竜巻を思うと、同じような攻撃で蹴散らされた後の自分たちの軍に、戦えるだけの気力が残っているのか。すぐに立ち直れるかどうか、不安でもある。
 鴻君側も、全くの無傷で昨日を過ごしたわけではない。もちろん誘導や戦闘中に失った兵も三千ほどいたし、火や煙による呼吸困難によって戦線を離れざるを得ない者も少数ながら存在した。
 二日目の戦いは、先手を打てない分、前日よりも分が悪いと言わざるを得なかったのだ。
――救いなのは、向こうの陣営で仲間割れが起こってるらしいってことぐらいだな。
 それだって不確実な情報だ。
 彫将軍ならやらないであろう作戦を実行している点、そしてその後の膠着状態。彫将軍からの使者。その言葉。
 それらをまとめて、潔扇が推測した状況でしかないのだ。
――何にせよ、彫紫炎ならここで長期戦に持ち込もうとするのは確実だ。
 数の少ない陣営が多い陣営を倒すには、短期戦を挑むしかない。対峙する期間が長ければ長いほど、数に勝る攻め手は削り取るように敵を追い込み、最後には崩壊させる。
 逆に、数の少ない陣営が、油断した敵の本陣を急襲することによって思わぬ大勝利を得ることもある。
 これは古今東西、どの戦にも見られる現象だ。
 それを知らない彫将軍ではない。
――となると、どこをどうやって仕掛けるか、だが……。
 こちらの符術台は二つ。符術師の人数も少ない分、相手よりも更に連続して発動させることはできない。準備の時間が長くなってしまうからだ。
――向こう側も、こちらの符術台が少ないことは察しているだろうから、躊躇なく使ってくるだろうな。
 潔扇は眼下に詰める盛氏軍を睨む。
 狭い盆地故に、陣営らしい陣営も設置されていないが、きつく固められた泥の玉のように、踏み込む隙はない。
――隙を作らせるには、こちらの隙を作ってやるしかない。
 潔扇は祖父の丸眼鏡をかけなおしながら、とっくの昔に出ていた結論を再度確認した。



 日も高くあがり、冬の空気もほんのりと温もりすら湛えはじめた昼。
 潔扇は軽戦車部隊と雷姫隊に攻撃を指示した。
 攻撃場所は、昨日、雷姫隊が最初に切り込んだ西側だ。とはいえ、今回は少々勝手が違う。
 潔扇が西側からの攻撃を重視するのは、盛氏軍が収まっている盆地でも、西側にはわずかながら平地が広がっており、騎兵隊である雷姫隊が比較的身軽に動けるという利点があるからだ。
 雷姫隊は馬返しの防衛から再び騎乗し、斑将軍の弓兵が控える西側の丘の陰から平地へ降り立った。
 軽戦車部隊は鴛軍の兵士たちだ。機動速度を重視した軽戦車は、三人以上による重戦車とは違い、御者と弓兵による二人乗りが基本である。
 支援もできるよう、後部には小さめの荷台もあり、戦場で矢や刀剣、槍などを運搬及び配布することもできる。
 昨日の朝一番の逃走劇で馬返しを運んだのも、この小さな荷台にくくりつけてのことだ。
 その軽戦車を、昨日は近衛兵が扱っていたが、今回は斑将軍の部下たちに預けることにする。
 いくら将軍が石頭だとはいえ、曲がりなりにも軍人である部下が戦車を走らせられないとは思えない。斑将軍には丘の防衛に残っていてもらい、基本的な指示は潔扇から銅鑼の音で示すことになった。
 鴻君は結局、潔扇の忠告にも耳をかさず、朝から潔扇の横で、各部隊に指示を出す様子を眺めていた。
 とはいえ、潔扇の口にする内容に興味はないらしく、兵士たちの動きを重視しているようだ。
 昨日とは違い既に鎧を身につけた鴻君は、毛皮の外套と帽子だけの潔扇を「少々場違いでは?」と指摘するほど、のんびりとくつろいでいた。
――今日が山場だというのに、どこまで行っても他人事なんだな、このネギ介殿は。
 さすがの潔扇も呆れた。下手に口を出されても困るが、ここまで何も言わずに任され続けるのも、不安になる要素の一つだ。
――なんでこのおぼっちゃんが、国を取り返そうなんて思ったのやら。誰に担がれてるんだ? 漁将軍や蔭白師だけとは思えねぇんだが。
 この場に居ない年長者たちを思い浮かべ、潔扇は首を捻る。
 雷姫隊が立ち去り、丘の上に避難させていた歩兵を馬返しの最終防衛線まで戻し。
 潔扇は西の平原が見える場所まで、丘の上を歩いて移動。鴻君も指揮戦車に乗ってゆっくりと追ってくる。
――この一手を打ったら、後は戦になだれ込むしかない。
 とはいえ、彫紫炎がどんな策で待ちかまえているのか、気が気ではない潔扇でもある。
――あれだけ自信満々だったんだ。何かあるはずだ。符術だけでなく、何か、別の策が。俺の思いつかない部分で。
 だが、それを恐れていて先に進めないのも、長期戦となり不利だ。
――ならば、やはり仕掛けるしかない。
 軽戦車隊の土埃を見送りながら、潔扇は唇を結んだ。



 潔扇は、天幕の護衛の一人である荏慧に銅鑼を鳴らす役を割り振っておいた。
 荏慧は非常に体の大きな異国人だ。生まれた土地の風習だと言って、頭部の登頂部を一直線に剃り挙げ、代わりに長くのばした髪を後方で一つにまとめ、紐で直立させている。風貌こそ奇妙ではあるが、よく見れば顔立ちは精悍であり、その巨体にも関わらず、気配をいっさい感じさせない特技があった。
 天幕の護衛の中では、潔扇が一番信用している人物でもある。
 扇雷児党に参加した頃、まだ東方語を話せなかった彼に言葉を教えたのが、幼い頃の潔扇だからだ。
 荏慧の国では、先生という役職は親に匹敵するほどの忠誠をもって仕える人物であるそうだ。
 その為、荏慧はいざとなった時には本当に命を捨ててでも潔扇を守ると常々宣言していた。
 挙斗が潔扇の生活全般のお目付け役であるなら、荏慧は潔扇の安全面を一手に引き受ける護衛役なのだ。
 そんな荏慧は、潔扇の命令に黙って従う。銅鑼を荷車に乗せ、その荷車を自ら引きながら、潔扇の後をついてくる。
 潔扇も、仮に何か起こったとしても、荏慧が側にいるならばなんとかなるとは思っている。
 鴻君が無理にでもついてくると言っている以上、荏慧が自分を守ることによって鴻君の安全も確保できるなら、それに越したことはない。
 そんな心強い部下が銅鑼を引く姿に、潔扇はふと〈企州人〉を思い出した。〈企州人〉を自陣から送って行ったのはこの荏慧なのだ。
――彫紫炎は曲がりなりにも自分の駒を手に入れてるってのに、俺ときたら、まだ爺さんからの借り物か。
 確かに荏慧は潔扇に特別な忠誠を持って仕えてくれているが、元は吏沿扇への共感から義賊となった、沿扇の部下なのだ。自分の駒とは言い切れない。
 そんな思いを振り切り、敵陣に目をやる。
 動きのない、敵の西側の陣営。
 そこへ向かって、ゆっくりと駆けてゆく軽戦車部隊。ほんの五百ほどだ。
 前後左右、大きく幅をとった方陣で駆ける彼らは、敵陣手前で停止した。
 潔扇は陣の様子を丘の上から伺う。軽戦車の兵たちも、自分たちの行動の結果を固唾をのんで伺っているのに違いない。
 変化はなかった。見張りの一部が色めき立ったものの、兵士らしい兵士に動く気配はない。
 潔扇は片手を挙げ、荏慧に合図した。
 荏慧がすかさず、銅鑼のバチを降りあげる。
 銅鑼の斜め前に立っていた潔扇の全身すら震えるほどの轟音が丘を走り、平原へと続いて行く。
 その荏慧の銅鑼を受け、雷姫の陣からもう一度、同じ銅鑼の音が響きわたる。これで軽戦車部隊にも指示が行き届いたはずだ。
 軽戦車部隊は、一斉に弓をつがえた。
 一兵でも欠けることを避けたい潔扇としては、やはり弓を駆使するしか方法がない。攻城兵器があるなら良いのだが、もちろん、そんな余裕はないのだ。
 とはいえ、五百の軽戦車が放つ弾幕など、たかがしれている。
 潔扇は二度続けて銅鑼を鳴らした。
 軽戦車隊は、少しずつ近づきながらも弓の手を止めない。
 軽い攻撃だが、それでも無視できない程度の攻撃。それが潔扇の狙いだ。
――動くつもりは無いだろうが、痒みがあればついつい掻いてしまうのも人間だぜ?
 槍で突かれてもおかしくないぐらいまで近づき、そこで退却の合図でもある銅鑼を二度鳴らす。
 一斉に手を止め、近づいた時同様、悠然と、見せつけるようにゆっくりと退却する軽戦車隊。
 軽戦車部隊の一部は矢の補給部隊にしておいた為、攻撃が足りなくなる心配はない。
 寄せては返し、更に寄せては返す。
 時には、接近はしたものの、何の攻撃もせずに引き返す。
――そんな命令をした覚えはないが、鴛軍の中でも作戦の意味を考えて応用する頭がある奴はいるんだな。軽戦車の隊長を確認しておこう。
 やる気の無い攻撃に加え敵を挑発するような行動は、盛氏軍の中に怒りを蓄積するに違いない。
 そんな動きを潔扇の覚えているかぎりでも七回は繰り返しただろうか。
 接近の行動をとっている時だ。

 唐突に、陣営の一角が弾けた。
 一斉に反撃の矢が放たれ、歩兵が飛び出してきたのだ

 潔扇は急いで退却の銅鑼を鳴らさせる。
 もとより軽戦車隊は降り注ぐ矢から逃れようと逃走に移っていたが、それを延長させる為の銅鑼だ。
 ただの退却命令ではない。
 予測されていた敵の攻撃に、次の行動を指示するべく、更に三度四度と銅鑼を鳴らす。
 軽戦車隊への繋ぎとして銅鑼を慣らしていた、雷姫軍の銅鑼が止んだ。
――よし、雷姫は事態を掴んでる。後は安心だ。
 分散しながら逃げまどう軽戦車隊を追って、盛氏軍の歩兵が押し寄せる。
 おそらく、深夜に到着した歩兵たちだろう。
 昨日の惨劇を目にしている盛氏軍なら、敵軍の敗走がどんな意味を持つのか考えないはずがない。
――補充の兵士が動くだろうとは思っていたが、ありがたいことに予想通りだ。
 盛氏軍の矢の餌食になった数台の軽戦車が停止や横転している。その哀れな兵士たちにとどめを刺しに群がる歩兵たちと、更に先へと追って行く歩兵たち。
 盛氏軍の陣営から降り注いでいた矢は、歩兵たちに当たることを懸念して、すでに停止していた。
 そして、十分な距離をとった軽戦車隊が逃走の足を止める。待ち構える体制だ。
 突入するかのように見えるその姿に、歩兵たちも不安になったのだろう。足取りが重くなる。
 そこへ、丘の陰に隠れていた雷姫隊が、鬨の声を挙げて突撃。
 雷姫達も、各人が前後左右に幅を取り、広く大きな楔型陣を敷いて突撃する。
 雷姫隊の各人が剛の者であることは前日で立証済みだ。広がった陣型ではあるが、それぞれが危なげなく兵を屠ふり、縦長に広がった歩兵の群を横から切り裂いて行く。
 分断された歩兵隊に、軽戦車隊も襲いかかる。
 雷姫隊は歩兵を分断後、二手に分かれた。軽戦車隊と協力して歩兵を囲む一群と、本陣側に残った兵をくい止める一群。
――今のところ、二千は削ったか。
 減って行く歩兵の群を目に、雷姫達の戦いを目にしていた時だ。
 大地が、鳴動した。


 傍らの指揮戦車の中、鴻君が声をあげた事だけがわかった。
 悲鳴であったのか。
 雷姫達が戦いを繰り広げている小さな平原が、突然震えた。
 その振動は潔扇達の本陣がおかれた丘の上にも伝わり、余りに大きなその衝撃に、鴻君の指揮戦車が宙に浮いた。銅鑼はその大きな楽器を支える台ごと転倒し、騒々しい音を響かせたが、それは各所で沸き上がる悲鳴やそれ以上に轟く大地の深い部分からの重低音にかき消された。
 潔扇も当然のことながら立っていられなくなり、丘に這いつくばる。揺れ動く指揮戦車が腕のすぐそばまでずれ動いて来たことに危機感を覚えたが、体を動かす余裕が無い。
 銅鑼を叩いていた荏慧が、潔扇の横へと素早く這い寄り、指揮戦車にしがみつく。
 まるで指揮戦車を地面に押しつけるかのように立ち上がり、指揮戦車がそれ以上潔扇に近づかないように支えようとする。
 だが、指揮戦車は符術で強化され、投石や弓矢の驚異からの保護をも目的に作られた品だ。
 その重量は、一人の人間が簡単に支えきれるものではない。
 ましてや、その指揮戦車には御者も鴻君も乗り込んでいる上に、その戦車を引く為に繋がれた馬も四頭存在する。
 大きな地震に驚いた彼らと馬達が、硬直したり竿立ちになっているだけに、動きを止めることは不可能だ。
 潔扇は、自分に向かって降りてくる荏慧の右足を不思議な気持ちで見つめた。
 次の瞬間、鳩尾に叩き込まれた革靴の爪先。
 激痛に呻きながら、潔扇は自分が地面を転がっている事態をかろうじて理解した。
 荏慧に蹴り飛ばされた衝撃がおさまり、体の動きが転がる動作から地面を滑って行く動作へ変わり。
 潔扇は大地の奥底の怒りを、鼾のようでも走った後の血の流れのようでもある蠢きを、自らの胸と腹で感じながら、そして蹴られた痛みでせき込みながら、さっきまで自分の立っていた場所に目を向けた。
 荏慧の姿は既に無かった。
 代わりに、指揮戦車が傾ぎ、横倒しになって、盛大な土埃が舞い上がる。
 さっと、血の気が引いた。
 息が詰まり、立ち上がろうとして、まだ揺れる地面に足を取られてもがく。
――大丈夫か!
 それだけが浮かんだ。
 その瞬間、潔扇は自分の甘さに気づいて愕然とする。
――何を考えた? 俺は、どちらの身を案じた?
 潔扇は荏慧がしたように這い寄りながら、横倒しになっても尚も揺れ動く指揮戦車に近づく。
「我が君っ! ご無事ですかっ!」
――あのネギ介が生き残らなきゃ、それだけでおしまいなんだよっ! なんで俺は、真っ先にあのおぼっちゃんのことを考えなかった? なんで俺は、荏慧の身を案じた?
 そんなことを考えていたら、戦争なんてできやしねぇだろうが!
 指揮戦車の中で、呻き声が聞こえた。
――生きてる!
 どんな形なのかわからないが、まだ、生きてる。
 ゆっくりと振動は消えていくが、その時間がもどかしい。
――これが向こうの一撃目の戦撃符術か!
 局地的な大地震。
 しかし潔扇は知っている。自分たちがこのような被害を被る前に、あの小さな平原が、雷姫達の戦場が震源地であったことを。
 そして、どうしてそう考えたのかを思い出す。
――雷姫っ!
 狭い盆地の一角に、小さな、鋭くそびえる岩山がそびえ立っていた。
 せいぜい十メートルから十二メートルほどの高さであろう。それでも、それだけの土や岩が、一瞬にして盛り上がったのは戦撃符術でしかなし得ない技でもあった。
 そしてその裾野の広がりは、狭いながらも甚大な被害を呼んでいた。
 そこかしこで、歩兵が群がっていた。歩兵の固まりの中で、人馬が断末魔前の奇妙な動きを繰り返している。
 突然出現した岩山に足を取られ、振り落とされた騎兵達だ。
 分散することによって、戦撃符術が直撃することは裂けようとしていた鴻君側だが、この岩山ではそれが裏目にでた。各々が振り落とされた結果、助けの手をさしのべる友軍が近くに居ない為、逃げる暇も逃走の経路を指示するものも居ないまま、集団で囲まれ惨殺されているのだ。
 軽戦車と騎兵の混合軍の方はまだ鴻君側の兵が多い分だけ歩兵に対抗できているようだが、反対側――分断する為にくい止め側に回っていた一群は全滅に近しい。
――雷姫は? 雷姫はどうした?
 昨夜の雷姫の約束がちらりと脳裏を横切る。
 だが、岩山が邪魔で全体を見渡すことはできない。
 もどかしく思っている間に、潔扇の視界で、急に岩山が崩落した。
 外側に向かって、まるで花弁が散るかのように岩が剥がれ崩れ落ちる。内側には何も詰まっていなかった。堅い岩盤を作り上げ、それを内側から風船のように膨らませ、そしてそれが限界に達したが故に崩れ落ちたのか。少なくとも潔扇は、そう推理する。
 だが、崩れ落ちた岩は更なる被害を及ぼしていた。
 蔭白師の竜巻同様、落下物がまだ周辺で戦っている兵士達の上に降り注ぎ、敵味方の見境無く生き埋めにして行く。
 視界が開けたと思ったのもつかの間、今度はもうもうと立ち上る土埃で、眼下の様子は全くわからなくなる。
 その土埃で横倒しになった指揮戦車を思い出す潔扇。
 揺れがおさまった丘の上で立ち上がろうとする。しかし荏慧に蹴られた鳩尾が引きつり、痛み、体をまっすぐに起こすことができない。
 背を丸め、鳩尾を手で押さえながら、なんとか横倒しになった指揮戦車の車輪に捕まりながら、身を起こす。
「我が君!」
 再び呼びかけるが、返答はない。助けを呼ぼうとするが、近衛兵も自分の馬が恐慌状態に陥っている為、なだめることで精一杯だ。符術師たちも、戦撃符術の符術台が乱れたおかげで符術の文様や道具が使用可能か確認している最中だ。潔扇の狼狽に気づいている者など居ない。
 なんとか、この近衛兵の数人が事態に気づいて、人手を呼びに走り出した。
 その姿に少し安堵しながらも、潔扇は地面に広がり始めたものに目を奪われた。
 潔扇の足下に流れてきた、血溜まりだ。
 その先には、折れ曲がった指と腕が、血の中に半分浸かっていた。
「我が君っ!」
 先には返答があった。生きていたと思ったが、とても生命の気配を感じられないその指に愕然とする。
「そんなバカなっ! 鴻君! 鴻菱様! 我が君っ! こんな事があってたまるかッ、ふざけるなッ!」
 まだ間に合うかもしれないと、その腕を引く。鳩尾の痛みに脂汗が吹き出したが、鴻君を失ったかもしれないという冷や汗に比べればほんのわずかだ。
 完全に指揮戦車の乗車箱に押しつぶされた体は、ビクリとも動かない。
「我が君ッ!」
 死体が、呻いた。
 潔扇は驚いて手を止める。
 いや、呻き声はまだ続いている。
 潔扇は死体の腕を放した。生きてる人間がいる。それも、乗車箱の中に。
――これは、指揮戦車の御者の死体か!
 さっと脳裏に差し込んで眩しいぐらいの希望に、潔扇は乗車箱にしがみついた。完全に底を見せた乗車箱を叩いて叫ぶ。
「我が君っ! ご無事ですか!」
 近衛兵達が人手を集めてやってきた。潔扇が乗車箱を叩いている姿に、事情を察したのだろう。一人が乗車箱に取り付き、車輪をよじ登って乗車箱の中をのぞき込む。
 すぐに顔を挙げると、地面で待っていた仲間に叫ぶ。
「お怪我はされているが、ご無事だ! 縄を持ってこい!」
 潔扇はほっと息を吐いた。鳩尾の痛みを思い出し、その場に座り込む。
 縄が届くとすぐに、乗車箱の中から鴻君が引き上げられた。目も開いている事だし、手足の様子を見るに意識もしっかりとしているようだ。だが、その鎧や鎧下にはこびりついた血で赤く染まっている。
 潔扇と目が合った瞬間、鴻君はハッとしたように目を見開いた。乗車箱の上に足をついたと思ったが早いか、膝をついて謝るかのような姿勢を取る。地面に座り込んでいる潔扇の頭上に落ちてきそうな勢いだ。
「潔扇先生! 銅鑼の人が怪我を! 私を庇って、怪我をしてます!」
 荏慧の姿がすぐに思い浮かんだが、鴻君の言っている言葉の意味がよくわからなかった。どこかで理解を拒否していたのかもしれない。
 近衛兵たちが重たい荏慧の体を引き上げる事に苦戦している間に、鴻君は乗車箱から飛び降りて潔扇の側に膝をつきなおした。
「銅鑼の人が、窓から指揮戦車の中に飛び込んで来てくださったんです。斜めの車内で吹き飛ばされそうになっていた私を受け止めてくれたんです。そのまま、指揮戦車が倒れるまで何度も中の壁にぶつかって」
 潔扇を蹴り飛ばした後、指揮戦車を支えきれないと悟って、中の鴻君を身を呈してかばったというわけだ。
 巨体を五人がかりで引き上げられ、荏慧の姿が現れた。
 頭部を切ったのか顔の半分は血塗れで、左腕の上部はあり得ない方向に曲がっていた。どこか折れているだろう。同じように、片方の爪先が不自然な方向に向かって揺れていた。
 地面に降ろされた荏慧に、背を丸めながら近寄る。
 潔扇の顔を見つけた荏慧は、血に汚れた顔を歪ませて笑った。巨体に似合わぬ小声。
「ちょいとばかり、ヘタ踏んじまいました。すみません」
 痛みの中からの言葉だ。一言口にするだけで息が乱れる。
 彼の言葉が、自分を蹴り飛ばした事を言っているのだと気づいた潔扇は首を振った。
「そんな事を気にするバカがいるかよ。俺こそ、我が君を助けてくれてありがとう。感謝する」
「……三代目の親分は、俺の親分でもあります。当然です」
 治療を受けさせる為、符術師たちの元へと運ばれて行く荏慧を見送り、潔扇は鳩尾を押さえたまま戦場に目を戻す。
 そこには、意外な状況が広がっていた。
 いや、正確には予定通りの行動でもあったのだが。
 斑将軍が、進軍を開始していたのだ。
 雷姫たちの分断作戦の後、軽戦車隊と雷姫隊は合流、本陣へ向けて突撃し、退却する予定だった。
 その時には、軽戦車の兵を雷姫が強襲したように、斑将軍が側面から退却を応援するはずだったのだ。
 もっとも、この作戦には一つ、前提があった。
 それは「雷姫達が戦撃符術を受けてから」という条件だ。
 軽戦車、騎兵、弓兵。鴻君の少ない兵士たちの、その主要な攻撃陣だ。三種混合の軍勢が固まっているところに、戦撃符術などが炸裂などしたら、それだけで戦は終わったも同然である。
 だが、戦撃符術を一度放てば、同じところへ連続して次の一手を打つことはできない。戦撃符術の暴走を警戒するならば当然だ。
 そしてその為の、軽戦車隊や雷姫隊の分散した陣型だったのだ。彼らは戦撃符術をくらうまで、同じように挑発と攻撃を繰り返し続けただろう。
 潔扇の予想以上の被害がでてしまったが、それでも、目的は達したのである。
 その為、斑将軍も動き出したのだろう。堅物な脳味噌の持ち主である斑将軍なら、事前打ち合わせどおりの行動をするのはおかしな話ではない。むしろ、当然なのだ。
――動くなと釘をさしておくべきだったか?
 しかし、既に敵にも確認できる位置へ移動してしまった以上、戻すのも得策ではない。彼らは丘の上からの攻撃陣だったが為に、敵にとって一番やっかいな部隊だったはずだ。戻ろうとしても、陣の位置を把握されて潰されるか、追撃の形ですぐに潰してしまうか。だったら、位置を固定化させるより、雷姫達と合流させてしまった方が生存率は高い。斑将軍たちの保護を、軽戦車部隊が行ってくれるだろう。
 幸い、斑将軍が攻撃を仕掛けたのは、壊滅的になった雷姫隊の半数にとどめをさしていた歩兵が、岩山の消滅と共に突撃を再開した軽戦車隊に追われて退却をはじめたところだった。
 再び側面からの攻撃で、歩兵達が慌てふためきながら逃げまどい、それを追いかける軽戦車隊だ。
――予想外の被害だったが、これで少しは帳尻つくかもしれねぇ。
 どれだけの歩兵を削れるのか、戦局を見守ることにする。
 鴻君の体に怪我はなかったが、念の為にと蔭白師がやってきた。
 昨日の魔術を使った反動とやらか、疲労に満ちたぐったりとした顔つきだ。
 しかし、そのどんよりとした目が潔扇と合うと、ニヤリと牙をむくようないつもの笑みを浮かべる。
「よお。予定通りとは言いがたい顔してるんな」
 蔭白師は、鴻君には丁寧に一礼したが、潔扇には頷くだけですませた。
 鴻君の手足の関節、骨や呼吸の様子を一通り触れて確認しながら、世間話のように潔扇に話しかける。
「忙しいところすまねぇが、俺の予想を来てくれるかい、軍師殿?」
「どうぞ」
 蔭白師は灰色の髭を指先で掻きながら、盛氏軍の西側から正面の本陣に向き直った。
「敵さん、全く動かなかったが、戦撃符術を使ったんだ。しかも、ここまで届くような大きな奴をな。そうとなれば、今、こちらの本陣がちょっとした騒ぎになってることは敵さんにも明白だよな?」
 潔扇は唾を吐きたい気分を必死でこらえた。想定できなかった悔しさで、頭が真っ白になる。
――確かに、その通りだ! この好機に攻めてこないはずがない。本陣には十分な兵も居て、この丘の上から相当数の兵士が平原に降りたと、向こう側も察しているはずだ。
 だが、その盛氏軍に動きがない。
「何か、企んでる?」
 潔扇自身への怒りに満ちた囁きに、本調子ではない高位の神官は、不機嫌そうに応じる。
「間違いなくな。そして、すぐに答えは出る。俺たちがこの騒ぎの片づけを終える前にやらないと、意味が無くなるんだ。向こうも急ぐだろうさ」
 注意して本陣を眺めていると、わずかに騎兵が動いたような気がした。
――本陣を守る騎兵隊が? 勝負をかけてくるってことか?
 ここまで騎兵隊が到達するには、十五分から三十分。それまでに対策を考えなければ。
 少なくとも、今のうちに考えておかねば、あの騎兵でなくともやってくるだろう敵の攻撃を防げない。
 だが、潔扇の思考は直ぐに途切れた。
「な……っ!?」
 奇しくも、その場にいた潔扇と蔭白師、そして彼から診察を受けていた鴻君、三者が同時に呻いた。
 要塞となったこの丘の中腹。ほんの少し行けば馬返しのある踊り場――つまり最終防衛地点の、ほんの手前。
 あの、ぞっとする気配が流れ込んだ。蔭白師が竜巻を発生させた時と同じ気配が。
 そして、一瞬の間。
 丘の中腹に突如として現れた盛氏軍騎兵隊の姿に、潔扇は内蔵を絞られるような恐怖を覚えた。
「これって……戦撃符術、か?」
 蔭白師も信じられないといった風に、それだけをつぶやく。彼の知識の中にはない、最新式の戦撃符術なのか。潔扇も聞いた覚えのない攻撃だ。
 鴻君は、いつもの茫洋とした眼差しで眼下の光景を眺めている。
 雷姫隊が西側で攻撃をしている今、馬返しに残るわずかな歩兵で、一千はくだらぬ騎兵の突撃を支えきれるはずがない。
 潔扇は蔭白師に目を向けた。
「了解だ」
 蔭白師が重たげに体を動かし、それでもその苦痛を堪えて駆け出して行く。
 貴重なこちら側の戦撃符術だが、ここで使わねば意味がないのも確かだ。
 ここで使わねば、全滅するのは確実だ。
――間に合うか?
 脳裏で戦局を分析しながら、痛む鳩尾と捻られるような神経に汗だくな自分に気づく潔扇だった。




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