「案君・潔秘」 10・強襲
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 雷姫は彫将軍を罪人のように後ろ手に縛り、腰に縄を打って本陣に連れてきた。
 その後ろから斑将軍が、まるで逃亡を恐れるかのようにけわしく油断なくついてくる。
 更に後ろからは、蔭白師が菓子皿を抱えてのっそりと天幕をくぐった。例の半分に割れた饅頭をのせた菓子皿だ。もうすでに表面は乾いて固くなってしまっただろうに、蔭白師は意に介さぬように、ひたすら口に運んでいた。
 その饅頭のお陰だとは思いたくはないが、丘の上で戦撃符術を使う前に顔を合わせた時に比べれば、血色も良くなっている。
――あれから半日過ぎたんだ。二日酔いのおっさんでも元気になるぐらいの時間だよな。
 だが、その半日もの時間が、ほんの一瞬であったかのように感じるのも戦場だ。潔扇は改めて、時間の不思議を思う。
 三日前の今頃はまだ、急いで荷物をまとめて走り出した頃なのだ。この戦場めがけて、たどり着けるかどうか不安に思っていたというのに。
 それがすでに決着がついたという不思議。そう願ったのは潔扇だが、あまりにも大きな願いが現実となると、現実でないような気分になるのも人間だ。
 雷姫は皆がそろったのを確認した上で、潔扇の前の地面に紫炎を座らせた。彼女はそのまま、怒ったように縄を潔扇の面前に突き出す。両手でしっかり握らせると、吐き捨てるかのように言葉を放った。
「約束は守ったぞ」
 雷姫の痛めた右肩は、布で固定された上にいくつもの符術符が貼り付けられていた。符術符の墨はまだ乾ききっていないぐらいで、天幕の篝火に輝いている。それを横目に、潔扇は紫炎の顔を見下ろした。
 紫炎は潔扇の目を、虚ろに見返す。
「信じられない、か?」
 反応しない紫炎に、潔扇は不意に恐怖すら覚えた。
 一歩間違えば、自分も彼女と同じ立場だったという事を今更ながらに感じ取る。敗軍の将となることを、嫌でも考えざるを得なかった。
「彫将軍……あんたは素直で優しすぎるんだ。だから自分に向けられた悪意に気づかない。戦と将棋は違うんだよ。人間を将棋みたいに動かせるはずがねぇんだ。俺はそれを知ってただけ、あんたよりずっと有利だった。それだけだ」
 紫炎はゆっくりとうなだれて、声もなく涙を流し始めた。悔し涙でもあろうが、忠実な部下にして教え子を失った涙でもあっただろう。それを潔扇は見なかった事にした。
 そして、雷姫に振り返った。
「ありがとうございます。いくら礼を言っても足りないくらいだ」
「忘れるなよ。これは貸しだ。そいつの命一つで鴻君への忠誠を買えるなら、安いもんだ」
 睨みつけるように紫炎を見、次いで鴻君に厳しい目を向ける。
「いかがしましょうか、我が君。盛氏軍の、特に符術師たちが彫将軍に寄せる信頼は、非常に大きいものです。潔扇軍師は彫将軍の助命を願ってますが、戦の責任を取るのも将軍の仕事の一つ。簡単に救ってしまっては、死んだ者が浮かばれません」
「では、どうしたい?」
 血に塗れたままの雷姫をやんわりとなだめる笑顔で、鴻君は頬杖をついた。
「盛氏軍に人気があるのでは、簡単に殺せまい? お前はどうしたい?」
「それを考えるのは、潔扇軍師の仕事と考えます。お伝えするのが遅れて申し訳ありませんでしたが、彫将軍の命を救えと私に命じたのは、軍師殿ですから。何か考えがあるなら、軍師殿が答えをお持ちのはずです」
「お前自身の意見では?」
「舌を切り目を潰した上で、盛氏へ送り返します」
 確かに殺すよりはマシだが、紫炎が言葉と目を失ってしまっては、符術師として符術を設置することはできないに等しくなる。符術師としての人生はおしまいだと言っても過言ではない。
 彼女の符術都市の夢を知っていて尚、そんな提案をするとは、潔扇にも予想外の返答だった。
――やっぱり、おっかねぇ大女だ。
 潔扇は涙をこぼし続ける紫炎の横に膝をつき、その肩を抱いてやった。
 同情ではなく勇気づけるつもりだったが、紫炎は体をこわばらせるばかりで、逆に震え出してしまった。引き渡されるとでも思ったのだろうか。
――信頼されていないんだな……無理もないか。敵味方だったんだからな。
 自分でも思っていた以上に大きな衝撃を受けながら、紫炎の体から手を離すことにした。その方が彼女にとっても安心だとわかったからだ。
「それでは、潔扇先生のご意見は?」
 鴻君の促しに、潔扇は一つ頭を下げてから口を開く。
「私の知る限り、この彫将軍の夢は、西方の魔術都市に引けを取らぬ符術都市を作ること。それを実行する為の図面も計画も、彫将軍はすでに手に入れています。少なくとも、骨子はできあがっています。実行に移せぬだけです」
 鴻君は頷く。
――本当にわかって頷いてるんだろうな? こっちは必死なんだぞ? ニヤニヤしやがって!
「魔術都市の成功を見るに、符術都市の計画は決して絵空事の無謀なものではありません。鴻州を取り戻した後、試してみる価値は十分にあります」
「なるほど。新しい技術を鴻州に展開しろと言うんですね。私が住み慣れた魔術都市のように。つまり私に、彫将軍を召し抱えろと?」
「すぐにとは言いません。しかし……兵の命を助ける為に戦撃符術を使用した事は、将軍としては失格ですが、民には非常に歓迎される行動です。そして、自分の兵たちを守るために自ら進んで捕縛されたとなれば、更に同情される。そんな将軍の命を助けたとなれば、我が君の人徳は広く民に浸透する事でしょう」
 蔭白師がなるほどと顎を掻いた。
「悪かねぇな。符術都市の事については、俺にもちょいと考えがあってだな――」
 その時だ。
 挙斗が本陣に駆け込んできたかと思うと、鴻君に一礼し、すぐに潔扇に耳打ちしてきたのだ。
 何がなんだかわからないまま、耳にした言葉に潔扇は息をのんだ。


 鴛軍が背後から迫っている。
 翌日昼までには到着するであろう。
 鴛軍は盛氏軍と手を組んでいる。
 我々を挟み撃ちにするつもりだ。


 挙斗のしかめられ歪んだ顔を見るに、嘘ではない。
 挙斗も本陣に駆け込んできたぐらいだ。確かな情報だと見極めた上で、急がねばと潔扇の元へ情報を届けに来たのだ。
 各地に散らばる潔扇配下の工作員の動向を逐次把握するのが、今回の戦で挙斗に与えられた仕事である。
 その彼が、冗談でこんな事を告げるはずがない。
 それでも尋ねてしまう。
「本当か?」
 信じられない。今、この状態で無傷の軍隊と戦う力が、鴻軍に残っているだろうか? そして戦う策があるだろうか?
 とてもじゃない。無理だ。
「なぜだ? 昨日までわからなかったのはどうして? 向こうの数は?」
「鴛城で伝令がすり替えられていました。我が軍の伝令が処刑される寸前で逃げ出すことに成功して、後方西の警戒を行っていた部隊に助け出されたのです。それが昨日の早朝の事です。後方西の部隊は情報の裏をとる為に、鴛軍の行動を確認できる位置まで後退し、行軍を確認しました。その上で我が軍に同行している鴛軍への伝令を捕縛し、伝言内容を確認するまで、報告を控えていました」
 後方西の部隊は、別の山道から盛氏軍がやってくるかもしれないと警戒の為に配置した部隊だ。
 昨日今日で情報を手に入れて報告してきたのだから、咎めることはできない。むしろ良くやった方だ。
 できればもう少し早く知りたかった情報だったが、そこまで高望みはできないだろう。
 それにしても、まさか真後ろから裏切られるとは思ってもいなかった潔扇だ。
 鴛州の身になって考えても、ここで鴻君を消すことに利益らしい利益は見あたらない。強いて言うならば、盛氏鴻州に貸しができるぐらいだろう。
 盛氏に恩を売る事と、自国の民の命を失うこと、そしてその指示を失うこと。どう考えても、天秤に乗せるには不釣り合いだ。遠くの親戚と目の前の強盗とを天秤にかける者がいないように。
 それでも実行してしまうのは、ただ盛氏と鴻君の争いに巻き込まれたくない一心だとしか思えない。
 潔扇に言わせれば浅慮この上ないが、その浅慮を見抜けなかった潔扇にも責任がある。
――鴛君がここまで小心ものだとは思わなかった!
 挙斗との会話のやりとりでおおよその事態を把握したのだろう。雷姫は当然の事ながら、漁将軍までもが顔色を変えた。
「つまり……鴛の、裏切りって奴か。挟み撃ちだな? さっきの盛氏軍は逃げ出してくれたが、今回は本物の兵士が来るって?」
 蔭白師が腕組みしながら低く唸った。さすがの放蕩神官も、簡単には笑い飛ばせる事態ではない。
 そして、もう一人は高熱に浮かされたかのように震え出した。
「馬鹿なッ!」
 骸骨のように痩けた頬を真っ赤にさせ、斑将軍は途切れ途切れの息の下でそれだけを叫んだ。
 しかし、彼もそれ以上の反論を口にしなかった。己の主君が、それぐらいの事をしでかす可能性があると、彼も堅物なりに考えていたに違いない。そして、その主君に、自分も裏切られたという事実の衝撃。
 鴛君が挟み撃ちから斑将軍を救おうとするならば、とっくに連絡が来ていてもおかしくない。そして、仮に連絡が来ていたとして、この将軍はその事実を隠し通せるほど器用な人物ではない。隠そうとしても今の怒りのように顔に出てしまうか、鴻君に告げるか、どちらもできずに行方をくらますか。
 何にせよ、哀れなほどに、おおよそ将軍には向かぬ人物ではあるのだ。
 愚直過ぎる、故に、鴛君は鴻君ごと排除しようと考えて、押しつけてきたに違いない。
 興奮の極みで卒倒しそうな斑将軍を、漁将軍が黙って肩を支えてやる。ここで何も言わないのも、老将軍の優しさだ。
 重苦しい空気と表情が、場を覆い尽くした。

 いや、一人だけ。
 鴻君の顔から、まだ笑みは消えていない。

 意外な展開に焦る潔扇には、その笑みが安堵どころか苛立ちの原因となって血を上らせる。
――畜生っ! こんな時までニヤケやがって! どこまでボンクラだっ!
 頭の中も腹の奥も煮えくりかえったまま、潔扇は怒鳴った。
「紫炎っ!」
 潔扇はうなだれたままだった彼女の肩を掴み、己に向き直らせる。
「鴛州と段取りをつけていたのは本当か?」
 涙に塗れた顔をあげたものの、紫炎は答えない。しかし先には見えなかった意志の力がその目に戻っている。
 潔扇はその肩を揺すりながら再度叫んだ。
「……お前、鴛軍が到着したら間違いなく俺たちが負けると確信して、それで俺にあんな伝令を出したんだな! 答えろ! お前らの最後の策は、これか!」
「お前が――」
 紫炎は低く恨みがましい、しかし女の響きを残す感情的な声をあげた。
「お前が私の立場ならどうする? 簡単に言えるか?」
――俺が、紫炎の立場なら?
 負け戦で、屈辱的に縛り上げられ、地面に膝をつかされ、己の命をどう扱うかを聞かされている身を。
 その最中に飛び込んできた、援軍かもしれない軍の説明をするか?
――俺ならできない。だけど、お前は紫炎だ。
「紫炎……お前の返事が遅れれば遅れるほど、鴛と戦う前に盛氏軍の数を減らしておかなきゃならなくなる。どういう意味か、わかるな?」
 挟み撃ちを避けるには、一方を全滅させてしまえば良いだけだ。
 盛氏軍が降伏したばかりの今なら、一瞬にして敗軍を崩壊させる事もできるだろう。
 その分、死者の数は跳ね上がるが。
 それを悟った紫炎は、卑怯なと吐き捨てた。
 潔扇はそれを無視。気にしている余裕などない。なにもかもが、特に時間が、軍師たる彼にはないのだ。
「一言だけで良い。これは最後の策か? それが聞ければ、盛氏軍には手を出さない」
 紫炎は答えない。
「紫炎っ! 意地を張ってる場合か、このままじゃ、俺たちごと、お前も殺されるかもしれないんだぞ! いや、俺たちが殺す! お前だけを生かしておくわけにはいかねぇ!」
「見損なうな、潔扇! 私にも将軍である意地がある」
 睨みあう時間も、もどかしい。
――畜生っ! これだから優等生は、女は、めんどくせぇ!
 潔扇は紫炎から離れ、地図に飛びつく。
 挙斗がすかさず、鴛城から現在確認されている位置まで、鴛軍の動きを無言で辿って見せた。
 ほぼ直線だ。戦場の戦撃符術の影響を避けた後は、伝令符で戦場の位置を伝えたのに違いない。
――本陣をどこに配置する? 捕虜は? 将軍の配置は?
 急いでいくつかの手順を作ってみるが、全く現実味のない作戦しか浮かばない。
――岳竜老師なら? 紫炎なら? 爺さん……いや、吏沿扇なら?
 焦りで息が荒くなっていくのがわかる。
 こちらの被害の総数を確認してはいないが、戦える兵は五千強。しかも、主力である騎兵は疲労しきっていて、馬も人も使える状態ではない。残り約二万は捕虜だとして、その捕虜を制御するだけでも、五千の兵はギリギリの人数だ。
 紫炎に告げたように捕虜を始末するとしても、その作業は体力気力を非常に消耗する事態となるだろう。
 そもそも、投降した兵士を惨殺することは、今後自分たちが投降したときに同じ事をされても文句が言えないということでもある。損得を考えても、現実的な話ではない。
 捕虜は捕虜のまま、反乱を恐れながらも抱えているしかない。
 そこへ鴛軍の、無傷の二万の兵。絶対数として、とても対応しきれない。
 自分では、到底、手に負えない事態。
――どうすればいい? このまま捕まって殺されるのを待つなんて俺らしくねぇ。だけど、何をすればいい? どこから手をつければいい?
 汗が噴き出してくる。
 背を、手を、額を、頬を、全身を走る震えと共に流れる汗が、川となって流れ出す。
――落ち着け。軍師が最初におびえてどうする? まだ時間はある。足りないかもしれないが、時間はある! 考えろ、こんなトコで終わってたまるか!
 汗で滑ったのか、祖父の黄色眼鏡が定位置からずれた。
 視界の一部が黄色から白く輝く。眩しさに目を細める余裕もなく、潔扇は地図に目を走らせ続ける。
――俺は二流どころか三流だ。紫炎が言うとおり、劣等生だ。バカと紙一重の戦略しか作れねぇ。今回の挟み撃ちも気づけねぇ。
 挙斗が何か言ったが、聞き取る余裕がなかった。
 頭の中では、いくつかの戦略を展開しては諦め、調停の条件を考えては捕虜たちの反乱を恐れ、逃走経路を考えては無理だと判断し。
――爺さんは、吏沿扇は偉大だ。わかってる。認めたくねぇが、一代であれだけ名をあげたんだ。それなのに……ただの盗賊だ! 東方中で追われ続けてる! あれだけ人望のある人間が、どうして一国の主になれない? なんで流浪の生活をしなきゃならねぇ? おかしいだろ!
 次の作戦は? どこの、誰のやり方の?
 頭の中の歴史書をひっくり返すが、うまく利用できる作戦が思い出せない。思いついているのかもしれないが、自信がない。
――今は三流だけどな、鴻君に国を持たせてやれば、どの国だって俺をほっとけねぇ。飼い殺しにする為にもな。それでもいい、デカい国に仕官して、一度でいい、五十万の軍を動かしてやるんだ!
 五十万どころか、たった五千の兵士の運用に頭を悩ませながら、潔扇は呻く。
 長く長く呻き、地図の中で架空の軍隊を何度も並べ直し、その隙間に、心中で叫んだ。
――五十万の軍勢……いや、一度じゃねぇ、それは俺のもんだ!
 その中で、潔扇の本能が、欲望が、潔扇の中だけで叫ぶ。


――俺は、本物の軍師になって、俺の為の国を作るんだよっ! それまで死ねるかってんだ!


 不意に。
 潔扇は叩かれた肩に驚いて、各方面に展開させていた思考を途切れさせる。
 振り返ると、潔扇より少し小さい背丈の鴻君が、その笑みが、目の前にあった。
 いつの間に近づいていたのか。
「潔扇先生」
 鴻君は手を伸ばし、潔扇の顔から、祖父の黄色眼鏡を外した。
 その行動に、全面的に視界が輝きだした眩しさに驚く潔扇に向かい、涼しげな目を真っ直ぐに向けて、口を開く。
「貴方には天賦の才がある。どんな危機でもすり抜ける才能です。私と出会った時からずっと、貴方は私の危機を何度も救ってくれた。救える力があった」
「いえ、我が君――」
――それは違う! その場しのぎの詭弁や誤魔化しばかりだ! 今は状況が違うっ!
 潔扇の心の叫びも届かず、鴻君は笑顔のままだ。
「前にも言いましたよね。私は貴方を信じます。貴方の知識や、お祖父さんの血筋ではありません。貴方自身が選択し、生み出した策を信じます。貴方自身が信じていない貴方の才能を、私だけは信じます」
 黄色眼鏡を潔扇に握らせながら、鴻君はもう一度、潔扇の肩を叩いた。
「もう一度、貴方自身の目で見て、貴方自身の力で考えてください。貴方はいつだって、自分の能力を過小評価しようとする」
「……そんな事はありません」
 鴻君の頭を掴んで激しく揺さぶりたい衝動を抑えながら、潔扇は鴻君の眼差しに向かって無言のまま叫ぶ。
――自分の器の小ささは、自分が一番良く知ってる! 盗賊根性が抜けなくて、血筋を嫌がってるくせに血筋に頼って部下を使って、優等生を馬鹿にしてるくせに、型どおりの作戦を笑ってるくせに、それ以上の良策を考えられない自分をイヤになってる!
 鴻君はそれを知らないだけだ。
 なのに鴻君は、潔扇の肩を掴んで離さない。
「ならば、一緒に負けましょう。負け戦には慣れています。なぁ、雷姫? 漁将軍?」
 同意を求められた二人の将軍だが、さすがに簡単には首を振れない。
 かといって、雷姫はもちろんのこと、戦上手の漁将軍にも良い手段は思いつかないようだ。
「明日は負け戦か。じゃあ、この副将軍さんと立場が逆になっちまうんだな」
 蔭白師が菓子鉢に乗せられていた、例の差し入れ饅頭を手に紫炎へ近づく。
「食べるかい? 毒は入ってねぇよ。なぁに、後で逆になった時に、俺の命だけは助けてくれっていう意味だから、遠慮するなって」
 本人は冗談のつもりらしく、牙をむいて笑う。
「なあ、軍師殿。あんたも何か貢いでおいた方が良いぜ? 喧嘩なんかしてないでさ」
 潔扇はそれどころではない。
――負け戦? 勝つではなく?
 鴻君の言葉は、潔扇にとって意外なものだった。
 戦は生き物だ。毎回勝てるとは思っていない。だが、負けるなら負けるなりの、形の良い負け方がある。相手軍の誘導を狙って、わざと敗走したり、戦場を有利な場所に導く為の緒戦敗退であったり。
 しかしそれは、次に戦えるという保証があるからできるのだ。自分の国や城をもち、後退することができる軍だからこその負け戦。
 城を持たぬ鴻君の軍に、後退する術はない。
 しかし、負けるとなれば?
――いや、負けていたら?
 潔扇は顔をあげた。
――もし、この戦で俺たちが負けていたら?
 確かに当初から、負け戦の場合に備えていくつかの脱出方法は考えていた。しかしそれは、盛氏軍との戦闘を念頭においていたものだ。それも、鴛君と鴛城へ引き返す事が最終目標である逃走だ。
 鴛君が敵に回った今では、状況が違いすぎる。
 だが、その作戦の全てが使えないわけではない。
 傍らに控えていた挙斗が、潔扇と目を合わせた途端、顔を強ばらせる。その顔を眺め、にやける蔭白師と堅く口を結んだ紫炎を見、はっとしたような顔をする雷姫と落ち着き払った漁将軍の姿を確認し。
 最後に、笑顔の鴻君に振り返った。
――もしも負け戦だった時、俺は生き残る為に、何をしていた? これから俺は、どうやって生きようとする?
 鴻君は目を合わせると背筋を伸ばし、満足げにため息をついた。
「ありがとう、潔扇先生。決まりましたね?」
 そんなに顔に現れていたのだろうかと思いつつ、潔扇は頷いた。
「はい、我が君」
 潔扇は笑った。
 生き延びること、勝つこと。当たり前の最善の答え、それを一番に探していては見あたらないこともあるのだと思いつつ、鴻君のように笑った。
「この戦、負けましょう」




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