「案君・潔秘」 9・勝利
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 鴻君が勝者として盛氏軍本陣を訪れたのは、戦場の片づけや敵意を持つ者の捜索、投降した者たちの整理や隔離などを一通り終えた、夕刻の事だった。
 それまで潔扇と鴻君は、丘の上の本陣で、先に投降してきた敵騎兵たちの尋問や自軍の兵士をねぎらう事で慌ただしく過ごしていたのだ。
 すでに空の大半を暗闇が覆い、地上にはほんのわずかな光しか残っていない。篝火が灯されたが、鴻君を狙い撃ちされる事を恐れ、あえて暗くした本陣通路を用いての訪問だった。
 本陣では、漁将軍が一人で鴻君を迎えた。
 雷姫や漁将軍の部下たちは、未だに投降した者たちの捕縛や管理に追われているという。
 投降者と自軍兵士を分断する為の簡易の柵や、ここから反旗を翻すような輩が現れないよう、監視もしなければならない。元々、絶対的な兵士の少ない鴻君側だ。一人が三人分の面倒を見るとして、それでもギリギリの人数である。対処に追われるのは当然だ。
 そんな最中、漁将軍は戦場の報告をする為、あえて一人抜け出してきたのだそうだ。
――さすが漁将軍。自分がやるべき事をちゃんとわかってやがる。
 捕虜たちの処分をするにも、あの勝利をおさめた決定的瞬間がどのようにして訪れたのか、潔扇や鴻君が知らずにいる事と、知っていて考える事と、その後の動きはまるで違ってくる。
 潔扇の知る限り、鴻君は迂闊な事を口にするような主君ではない。だが、自分の配下の兵がどのような手段で敵を倒したのかを知っていなければ、どれだけ自分が敵から憎まれるような事をしでかしたのか、自覚することもできない。
 敵の悪意を知らなければ、自分の身を守る自覚も出てこない。
 そもそも、先代鴻君の失敗はそこにあるのだ。
 家臣盛蠍の悪意を軽んじた事、それが鴻州本家を滅亡寸前までにおいやってしまったのだ。
――漁将軍は、それを実感しているのかも知れねぇな。まあ、この堅物爺さんの事だから、ただの報告なのかもしれねぇが。
 そんな潔扇の心中も知らず、漁将軍は鴻君に略式礼をとった後、淡々と報告しはじめた。



 潔扇が漁将軍に委任したのは、山道に残された兵士たちの切り崩しであった。
 正確には、兵士たちの一部を寝返らせる事である。
 盛氏軍の騎兵であるならば、当然、鴻州軍の兵士である。そして、騎兵を任される者の一部は当然、漁将軍の顔を見知っている。敵であろうと味方であろうと、だ。
 漁将軍は、一千の騎兵を率いて険しい山中に潜み、盛氏軍を避けて山岳地帯へ進んだ。
 彼には途中まで待智の符術台襲撃組も同行し、更には潔扇が兵士に紛れさせて投降を促すよう指示した工作員が百名ほども参加した。
 山中に潜み、騎兵や歩兵を見つけると、百名の工作員がまず近づき、戦から逃げ出したがっていた兵士を抱き込んで自軍に引き入れた。
 その中の数人は、工作員の意図を勘ぐって近づいた敵側の間者と思われた為、やむを得ず処理しなければならなかった者もいる。
 そうやって少しずつ、全体には気づかれないように、山中の敵数を減らし続けた。細い山道を長く延びて行軍せざるを得ない盛氏軍は、数時間ごとに消える人数に気づきにくかったようだ。
 そして漁将軍も、自分の見知った騎兵がいれば工作員に連れてきてもらうよう依頼し、自ら説得した。
 こちらもいくつかの不幸なすれ違いはあったにせよ、漁将軍の人格や鴻君が存命している事に希望を見いだし、改めて鴻君に尽くしたいと考える者たちも少なくなかったという。
 彼らは一度は仕えた盛君への忠義の為、自軍を攻撃することはなかったが、投降にあたって自分の自由になるだけの糧食や軍用品を運び込み、それらは山中で寒さに震えながら一昼夜を過ごした漁将軍たちにはありがたい差し入れとなった。
 盛氏軍も山中の伏兵を警戒してはいたのだろうが、そこは元は盗賊家業の工作員たちがよく働いてくれた。
 特に「符術台を完成間近または発動寸前に破壊する」という指示の元、待機していた待智たちが、任務の片手間、内々に処理してくれたそうだ。
 山中の作業とはいえ、肝心な戦が気にならないはずがない。当然、昨日の竜巻や火責めも、漁将軍たちの目に入っていたが、そこはやはり、老将軍の智慧が勝った。
 ざわめく兵士たちの目には、本陣が火にまかれ、危険きわまり無い状況に映ったようだが、それを一喝して作業に戻らせたという。
 部下たちとは違い、作戦の全容をあらかた説明されていた漁将軍は、本陣に蔭白師たち符術師が控えている事を知っていたし、潔扇ならどのようにしても鴻君の身の安全だけは確保するであろうと信じてもいたのだ。
 漁将軍は蔭白師の符術師としての力を疑った事はないという。事実、潔扇が現れるまで、漁将軍と蔭白師が中心となって行動してきた軍勢なのだ。蔭白師の魔術も何度か目にしていた事もあり、世俗の垢にまみれた破戒僧の機転や決断力を評価する機会もたくさんあった。それだけに、火計の一つ二つで鴻君を失う事はあるまいと確信していた。
 更に、漁将軍は潔扇をも頼りにしていた。
 それは、鴛城で何度も繰り返された会合が根拠となっていた。鴛君に追い出された後の行動を、何度も話し合った相手が潔扇であったからに他ならない。
 漁将軍にも雷姫と同じように、「どんな意図があって鴻君に味方しているのかわからぬ若造」という意識が無いわけでも無かったが、今現在、鴻君の身の振り方を本気で案じていることは漁将軍にも十分伝わっていたのだ。
 何よりも漁将軍は、潔扇が自分を山中に派遣した意味を、最も良く理解していたのだ。
 それはつまり、戦の決着をつけるのは、漁将軍の判断であるという事実を、だ。
 山中に派遣した一軍の事を、盛氏軍本陣が気づいていない以上、鴻君側が手に入れられる勝機は、何かの拍子に本陣が手薄になった一瞬しかない。
 そして、その一瞬を確実に捕らえられ、突撃を指揮し、敵将軍の首を狙える武人……それは、今の鴻君の臣下の中では、漁将軍しか存在しないのである。
 それまで、いかなる危機が鴻君に訪れようとも、その姿を見せるわけにはいかなかった。
 これが雷姫なら、そこまでの我慢ができたとは思えない。ましてや、潔扇の存在を疑っている彼女の事だ。自殺行為とも呼べる突撃をしたに違いない。
 そして、この隠し剣とも呼べる最後の希望の一群が、あっけなく蹴散らされていたに違いない。
 漁将軍には、それを想像できる辛抱強さと理解力、そして戦況における最上の機会を見極める豊富な経験があった。


 そして、あの瞬間が訪れたのだ。


 漁将軍は、逃げ道のない敵兵がどれだけ自暴自棄となり手強い敵となるか、経験上良く知っていた。
 それだけに、敵味方に聞こえるよう「逃げる兵は追うな」と指示していたし、また、老将軍の言葉がそう間違わないと知っている武人達も、自分達が敵の大将首を取らなければ自軍が崩壊することを知っていただけに、逃げる兵を追う余裕など無かった。
 思わぬ伏兵に驚いた盛氏軍は浮き足立ち、思い思いの行動をとり始める。
 それが指揮官によってまとめられる前に、漁将軍は己が討ち取るべき大将を探して突き進んだ。
 そして、奇妙な一群を見つけた。
 明らかに北国の農民と思われる男が、矛を手に武人と戦っていたのだ。
 そこはすでに本陣を突き抜け、符術台の側でもあった。
 符術師たちは忙しく立ち動き、何らかの戦撃符術が発動しようとしている事は明らかでもあったのだ。
 漁将軍は、迷った。
 符術台を破壊した時、この周辺が戦撃符術の余波で壊滅するのではないかという懸念だ。こればかりは、武人である漁将軍には測り難い場面だった。
 よく見れば、周囲は符術師ばかりであった。武人は農民と戦っている大柄な男しかおらず、白と緑の神官服が視界を埋めていた。
 その人垣の向こうには、待智たちの荒っぽい破壊活動が見え隠れしていた。彼らは盗賊なりに「符術師は殺さず」という戦場の掟を知っているようで、立ちふさがる神官たちを突き飛ばしこそはすれども、殺してはいないようだった。
 戦場の掟を知らずとも、符術師の絶対数が少ない事実が彼らの意識のどこかに残っていて、配慮させたのかもしれない。なんせ、捕虜にすればこちらの傷病者の看病や、今後の後始末に役立つ人材でもあるのだから。
 そんな神官の人垣に、漁将軍もすぐに取り囲まれ、身動きが取れなくなった。
 その間に、戦撃符術が発動する。
 本陣やその周辺で、混乱に陥っていた兵士たちが一斉に姿を消した。
 喧噪が遠ざかり、漁将軍は自分の背後からついてきた部下たちと、自分たちが何かの符術で煙に巻かれたのではないかと疑ったぐらいだ。
 しかしその疑惑は、すぐに解消された。
 雷姫たちが戦っていた西の平原に、突如として現れた軍団。軽戦車隊や雷姫たちが本陣に突入した今、平原には先撃符術で生き埋めになった者たちぐらいしか残っていない。そこへ軍勢が現れたのだ。
 それが今まで自分たちの目の前に立ちふさがっていた者たちと同じ姿形をしていると気づいた時、漁将軍は焦りで額に汗を浮かべたという。
 挟み撃ちにしたと思っていたのに、自分たちが挟み撃ちにされたのかと感じたからだ。
 ところが、その兵士たちは意外な行動をとった。
 そのまま、西側の平原を逃走しはじめたのだ。
 西の平原の先には橋のない河があり、冬のこの時期に渡河するのは大変であろうが、できないわけでもない。
 そして兵士たちは、戦う事よりも河を渡る事を選んだのだ。
 漁将軍が安堵しつつ、符術師たちを力任せに押し退けようとした時だ。
 悲鳴があがった。
 符術師たちが口々に叫ぶその声は、自分たちには耐え難い事が起こり、また起ころうとしている事を告げていた。
 漁将軍が振り返ると、先に戦っていた農民が、地面に倒れ伏していた。
 腕を切り落とされ、胴をまっぷたつにされた無惨な姿だ。
 符術師の反応を見るに、彼が符術師たちからも好意をもって受け入れられていた仲間であることは推測できた。
 そして、その死体に駆け寄り、抱きあげた一人の武人。
 いや、符術師の衣に大剣を佩く細身の男。
 そして漁将軍は、農民を切り殺した男が自分の殺めるべき大将であることを悟った。
 先にはこの戦場に北国の農民がいるという不思議さに目を奪われて気づかなかったが、大きな戦斧を軽々と操るその姿は、耳にしていた傳将軍の姿そのものだったからだ。
 そして気づいたのだ。この陣営で起こった仲間割れの事実を。
 農民は、符術師たちが兵士たちを逃がす為、戦撃符術を発動するまでの時間稼ぎをしていたのだ。
 そしてその逃走は、傳将軍の意にそぐわなかった。
 傳将軍は、自分の部下である符術師つまり彫副将軍の符術師の首をはねるつもりだ。
 漁将軍はそう推測し――そしてその推測がほとんど間違っていなかった事を後に知る――止めようとした。
 符術師やこの副将に、すでに戦意はない。
 傳大将もそれを知っているからこそ、腹立たしいのだ。己の軍が内部から崩壊した事実に気づいているからこそ、崩壊させた彫将軍が許せないのだ。
 だからこそ、漁将軍は止めなければと考えた。
 勝敗はついたも同然だ。ならば無理な血を流さなくてもよい。この先に大将として責任もって行う仕事は、敗軍をまとめ、少しでも多くの兵士を無事に鴻州へ送り届ける事であるべきだ。
 少なくとも、鴻君はこれ以上の血を望まない。
 符術師たちを馬の前足で押し退けながら、漁将軍がもがいていた時だ。


 傳将軍が戦斧を降りかざした。

 皆の目には、戦斧と共に、巨大な黒い大岩が振ってきたかのようでもあった。

 傳将軍が、勢い良く斧を降りおろし、その勢いのまま地面に転がった。
 その傍らに落下した戦斧。
 戦斧の柄には、しっかりと握りしめている大きな手と、太い武人の腕が付いていた。

 漁将軍は自分の目で見たものを、一時は信じられなかったという。
 漁将軍の愛馬は北方産の、重みに耐えるよう訓練されてきた馬である。大地にしっかりと足をつき、歩む。それを至上の目的として作られてきた馬だ。
 しかし、雷姫のそれは違う。
 早さを目的とした彼女の愛馬は、宙を翔るかのように大地を蹴り続けてきた。その蹄は、その足首は、前へ跳ぶ事を至上の目的として作られてきた馬だ。
 その行き先が、前方ではなく上方へと向かっただけだ。

 戦場に転がる荷車や天幕内の棚を利用し、勢いをつけた上で符術師の人垣を飛び越えた雷姫は、傳将軍がふりかざした腕を、着地する前に切り落としたのだ。

 雷姫の腕力だけでは、もしかしたら太い将軍の腕を切り落とせなかったかもしれない。
 しかし、彼女がしっかりと構えた剣は、足下の愛馬の落下する重量をも乗せて、刃の一点に過剰なまでの力を与えたのだ。
 腕を切り落とされた傳将軍が、その痛みを自覚することができないほどの早さで襲いかかった人馬の重さである。
 しかしその一撃は、雷姫の利き手にも、今までにない衝撃を与えていた。
 宙を翔た馬から振り落とされぬよう、左手で手綱を握っていた雷姫は、右手一本でその重量と衝撃を支えなければならなかった。質の良い中東産の鋼の刃は切れ味も鋭かったが、戦場を切り結びながらこの場に参上した時には、何人もの人体を刻んだが故に脂で曇り、微細な刃こぼれをおこし、それを振るう者への負担をわずかながら増していた。いかに正確無比な剣技を誇る雷姫であっても、剃刀のようにすんなりと切り落とせるような状況ではなかったのだ。
 右手首を痛め、肩を脱臼した雷姫は、落馬こそしなかったが剣を握り続ける力を失って、大地に落とした。
 戦や戦いを見慣れた漁将軍が、これらの一連の出来事に目を奪われていたぐらいだ。符術師たちは更に何が起きたか理解できていなかったのではないだろうか。
 傳将軍が自分の右腕を失った事実に気づき、もがきながらも立ち上がった。
 その怒りに満ちた目は、自分を襲った雷姫ではなく、やはり最初のまま、彫将軍へと向けられ続けていた。
 その面前へ、雷姫が馬を進める。二人の間に馬を割り込ませ、傳将軍の突進を防ごうとする。
 傳将軍は雷姫の脱臼した腕を引き、馬から下ろそうとした。片手一本だったが、戦斧を振り回すべく鍛えられたその腕力は、怪我をした雷姫が痛みに耐えかね自分から落馬せざるを得なかったが故に目的を達する事ができた。
 そして、雷姫の馬に跨った。
 戦斧以上に面倒な武器を手に入れたと悟った漁将軍は、もう傍観することもできずに飛び出した。
 傳将軍が馬で雷姫たちを踏み殺すにしても逃亡するにしても、鴻君の軍勢には手痛い失態となることは間違いない。
 符術師たちの保護を部下たちに言いおき、馬の前足で跳ね飛ばす。
 符術師はなるべく殺さぬ事が、東方の戦場における暗黙の掟だ。故にどうしても人垣を強行突破できないでいた漁将軍だが、事は一刻を争う事態である。多少の怪我は戦場故の事、仕方ないと思ってもらうしかない。
 怒りに我を忘れた傳将軍は、もう周りの事など見えていなかった。
 漁将軍が愛用している大刀を振るった瞬間も、その首が睨んでいたのは自らの部下である彫将軍の美しい顔であった。



 その後、彫将軍以下符術師たちは素直に降伏し、瞬間移動にも取り残された兵士たちも副将軍の指示に従い抵抗を止めた。
 右手を痛めた雷姫将軍は、符術師たちから手厚い看護を受け、痛み止めの符術符を何枚も張られて閉口しているという。半月もたてば元通りになるとのことだ。
 とはいえ、それまでじっとしているような雷姫将軍ではない。
 捕虜の処分など先頭に立って指示を出してくれたおかげで、漁将軍がここで語る時間を作ることができたのである。
 それでなくとも、雷姫隊は馬も含めて疲労困憊で動けない。
 弓兵として待機することの多かった斑将軍たちが合流してからは、斑将軍と相談した上で――実質的には雷姫が提案した事柄を斑将軍が命令しているだけだが――鴛州からの援軍が、大いに力となってくれていた。
 軽戦車隊も戦撃符術をくぐり抜けた疲労はあったものの、雷姫隊ほど前日から働いているわけではない。それをわかってくれただけでも、漁将軍にはありがたかった。
 もちろん、漁将軍の部下たちも、待機していた兵士としての苦労はあったものの、かけずり回った雷姫たちの苦労を労って持ち場を代わっている。
 今現在、雷姫たちは逃亡の恐れのない彫将軍と符術師たちの見張りをしているはずだ。



――よくやってくれたな、雷姫。
 潔扇は雷姫が馬と共に空を舞った姿を想像し、実に彼女らしいと苦笑せざるを得なかった。
――しかし、あの〈企州人〉は死んじまったんだな。
 彫将軍を守って死んだのだ。満足していると思いたいが、反面、紫炎の夢を見届けずに死んだ無念さを抱えていたかもしれないと思うと、敵ながら哀れに思えた。
――何にせよ、紫炎の事は悪いようにはしねぇよ、〈企州人〉。せめて名前ぐらい知りたかったが、後で紫炎に聞くことにするか。一足先に眠ってな。
 潔扇は、まるで潔扇の心中を代弁するかのように神妙な面もちの漁将軍にむかって尋ねた。
「敵軍の不可解な行動は、やはりその二人の仲違いにあったのでしょうか?」
 漁将軍は首を振った。
「元々は符術師の一部に、反彫将軍派が存在していたようです。その長が、傳将軍にあることない事吹き込んだとか。傳将軍はすっかり彫将軍を盛氏に取り入る宦官の類だと思いこみ、盛氏に気に入られている彫将軍を目の敵にしはじめた。反彫将軍派の符術師たちも、彫将軍の命令に対してあからさまに反抗したり、勝手な行動を繰り返していたそうです」
「そいつらは?」
「我々の突撃によって敗色が濃厚になった時、例の農民が全員の胸を刺してまわったそうです。あやつは彫将軍の懐刀で、非常に熱心に符術を学んでいた徒弟だったとか。なので、彫将軍を陥れた符術師たちが、絶対に許せなかったのでしょう。彼が味方を刺してまわっていた時に、彼を止めようとした符術師はおろか、武人すらいなかったそうです。よっぽど、嫌われていた奴らばかりなんでしょう」
 ただしと漁将軍は続けた。
「奴らの換言に騙された傳将軍だけは違いました。例の農民が符術師たちを許せなかったように、傳将軍もまた内部分裂の元となった彫将軍を殺さずに敗走するわけにはいかなかったのでしょう」
 そして、漁将軍に討たれたのだ。
 漁将軍は一度席を立ち、祭壇の前に置かれていた白布で包まれた箱を手に戻ってくる。白布を解き、現れた木の箱に両手を入れて中身を取り出す。
「お確かめください」
 屈強な武人の、最後の表情がそこにあった。
 額には大小の刀傷が残り、耳の一部は過去の戦で失われていた。鼻は骨を折ったことがあるらしく曲がり、分厚い唇は切りつけられた頬の傷でひきつり、その顔の皺は怒鳴る為に刻まれたかのようでもあった。
 そしてその目は、飛び出してきそうなまでに見開かれたまま、白く濁っていた。
 鴻君はその顔を、目を背けずにじっと見つめた。
 微笑みこそなかったが、恐れもなかった。ただ真剣に、自分の仕事に打ち込むべく、目の前の生首と対峙していた。
 そして、その死者の眼差しから目を逸らさずに声をあげる。
「潔扇先生」
「はい、我が君」
「死ぬのは、嫌なもんですねぇ」
 冗談めかした言葉だったが、眼差しはまだ緊張を湛えている。
「皆は、死なないでください」
 ようやく顔をあげた。潔扇と漁将軍を、順に視線を合わせて頷きながら告げる。
「彼のように、己の信念で死ぬような事はしないでください。仮に何かの侮辱、何かの謀略によって撤退しなければならない時があろうとも、恨み辛みを晴らす場所は必ず私が用意します。それが私の役目だ。だから、彼のような立場に立たされても、絶対に死ぬような事はなさらないでほしい」
 傳将軍の首をゆっくりと箱に戻し、鴻君は――冷徹ともいえる声色で囁いた。
「私の臣下となった以上、あなた方の死に場所は、この私、鴻君鴻菱の手の中だ。それを忘れないでいただきたい」
 思わず、その顔を確かめる。
 細められた目は潔扇を貫き、口元は怒りにも似て吊り上っていた。潔扇よりもわずかに低いだけの背丈が、その一言の間にグングンと大きくなったようにも感じた。
――これが? これがあの、ネギ介ぼっちゃんだってのか?
 潔扇は漁将軍が深々と頭を垂れる気配に気づき、初めて自分が気圧されていることに気づく。慌てて自分も臣下の礼を取り顔を伏せながら、心中では同じ言葉がぐるぐると回ってくる。
――なんだ? このおぼっちゃんに何が起こった? あれはなんだ? あの顔は? あんな顔ができたのか? いつから? 初めて? いや、初陣の興奮? 初勝利に酔ってるのか? 俺が? それとも鴻君が? 元からこんな人物だったのか? 一年もこんな顔を隠しとおせるのか? 俺が気づかなかっただけか? 雷姫は知ってるのか? 漁将軍は知っていたのか? やっぱりこの帰還は鴻君の意思? 何者なんだ、このおぼっちゃんは?
 礼を終えて顔をあげると、既に鴻君はゆるゆると微笑んでいた。
 拍子抜けする潔扇だ。先の顔つきは一体なんだったのか。
――まるで……まるでこのおぼっちゃんの方が『森人』みたいだと思ったぞ? ありゃ気のせいだったのか?
 昼夜を問わず深い森の中で人を襲う『森人』は、古くから森の魔物の代表として絵画におどろおどろしく描かれてきた。潔扇は、その画を思い出したのだ。
 だが、今の鴻君は元のネギ介ぼっちゃんのままだ。腰の据わらぬような物腰で、生首の入った箱を陣営奥の棚にそっと運んだ。
「さて……大体のお話はわかりました、漁将軍。それでは、彫将軍と戦闘終結の話し合いを行いましょうか」
「それでは、雷姫将軍と斑将軍も呼びましょう。彫将軍はあの二人が直接、見張っているはずです」
 潔扇は一瞬、笑いだしそうになった自分を慌てて堪えた。
 鬼女将軍と骸骨将軍が並び立つ姿は、どう考えても釣り合いがとれていなかったのだ。
――紫炎の前で、一体どんな会話をしてるのやら。いや、一言も話していないかもしれないな。
「蔭白師はいかがしましょう? お体が本当ではないと聞いていますが」
 潔扇は漁将軍の言葉に慌てて付け加える。
「今日、彫将軍の使った移動の戦撃符術、あれは何にでも応用がききそうです。蔭白師にも使えるか、調べてもらいましょう。彫将軍の身柄を確保している以上、部下たちも答えるしかありませんでしょうし。お体の方は心配ないかと思います。歩き回れるぐらいには回復してますし、戦撃符術だって発動して見せたぐらいです。居るだけでもかまいませんから、参加してもらいましょう」
 鴻君は了解の印に頷いた。
――彫将軍の身柄について協議が始まれば、奴の腕前が議題になることは間違いない。蔭白師なら、あの新式の符術や火計に対して正確な意見を口にするはずだ。神官として真実を述べる誓いを立てさせてから評価させよう。我が軍に勧誘すべきと判断させる為には、奴の実力が正当に評価されなきゃな。
 近衛兵たちが各将軍を呼びに走り去って行くのを見送りながら、潔扇はもう一度だけ、鴻君の顔を盗み見た。
――俺の死に場所が、あの顔の、あの手の中?
 祖父の丸眼鏡をかけなおしながら、首を捻った。
――さて、どうだろな?




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