「案君・潔秘」 12・祝宴
←PREV | INDEX=消えていく街 | Home | NEXT→いただきもの

1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12



 潔扇が目を覚ました時。
 彼は指揮戦車の座席に横たえられ、自分の外套を毛布のように被せられていた。
 酷い振動に揺さぶられ、その覚悟の無かった潔扇の頭は内壁に叩きつけられた。
 激痛に呻きながら、反射的に右手をあげようとし、ここでも背中まで突き抜ける痛みで動きを止める。
 引き戸を開けた外の景色を見渡そうとし、首から腰までが軋むように痛む事に気づいた。
 驚きと痛みに呻いていると、外からのぞき込む顔。
 雷姫だ。
「目が覚めたか」
「ここは?」
「鴛州のはずれ、鴻州との国境近くだ。街道から外れた獣道を走ってる。道は悪いが安心しろ、この辺りの山賊は、みんな扇雷児党に買収されてるし、緑布党にも好意的だそうだ」
「鴻君は?」
「みんな無事だ。我が君は、軍師殿の身を案じて指揮戦車から馬に乗り換えた。蔭白師も漁将軍も控えているから、問題はない」
「紫炎……彫将軍は?」
「このまま別れようとしたが、どうやら我が君に興味を持ったらしい。馬がないので徒歩になっている事がもうしわけないが、皆元気だ。部下たちの半分は鴻州へ戻ると別れたが、もう二日も前の話だからな。我々がこの国境付近に来ていることは知られていない」
 潔扇は絶句した。
 蔭白師と彫紫炎の戦撃符術で、あの本陣から東の山中へ飛ばせるだけ遠くへ、そして着地点をバラバラにして暴走を防いだ上で、一瞬の移動を開始したはずだ。
 それから二日間も眠っていたのか?
「二日前?」
「くどい。そう言ったはずだ」
「どうしてそんな事に? 私は怪我をした? 体中が痛いのに、原因が思い出せないんです」
「符術だ」
 そういわれて、思わず雷姫の腕を見る。傳将軍の腕を切った時に痛めた腕だ。
 最後に別れた時に、たくさんの符術符を張り付けられていた右手だが、今は何事もなかったかのように手綱を握る。二日間で痛みが消えたのだろう。
 そして思い出す。
 そっと袖を捲ると、蔭白師の描いた符術が消えていた。 盛氏軍の符術師たちとの誓いをたてた符術だ。
――二日たったから、条件が消えたというわけか。
 その符術が原因であるとなると、鴻君の陣営の誰かが、彼らに不当な攻撃を行ったということか。
「これだけ痛むと言うことは、死人でも出ましたか?」
 雷姫はムッと唇を噛み……そして堪えきれずに笑いを吹き出した。
「あはははは、軍師殿っ! こいつばかりはアンタのせいじゃないが、アンタの運というか、蔭白師との相性の悪さだよ!」
 雷姫は口元を片手で覆いながら、目尻を笑いの形に垂らした。
――お? この鬼女将軍も、これはこれで女みたいな声で笑えるもんなんだな。
 雷姫は潔扇がぼんやりと眺めていると、我に返ったのか、早口でまくし立てながらあらぬ方に顔を背けた。
「戦撃符術を連続で使用した分、暴走しないように、地図を見てバラバラに移動させただろ? でもちょっとだけ失敗したんだ。符術師たちが、狭くて小さい崖の上に移動させられた。その中の一部は、空中に放り出された形になったんだ。あとはおして知るべし」
 つまり、蔭白師の手によって高所から落とされ、命こそ問題は無かったが、打ち身などの怪我をしたというわけだ。
 そしてその過ちは「不当な攻撃」として、潔扇の身に一気に襲いかかった、と。
――おそらく、移動した直後に何人分もの痛みが一気に集まったんだな。それでそのまま気を失った、と。そりゃ覚えてないな。
 移動した後は、雷姫たちが待っていた東の山中で次々合流した。
 潔扇は見ることが叶わなかったが、緑布党の暫定党首が、鴻君に臣下の礼をとったとの事だ。
 その時の話をしてくれたのは、潔扇の体を診察に来た彫将軍だった。
 盛氏軍の軍装を解いた彫紫炎は、本来ならすでに脱走者として将軍職を解かれているはずであり、ましてや鴻君陣営の中で将軍職を任命された訳でもないのだが、皆は依然通り、彫将軍と呼び続けていた。半分に減ったとは言え、符術師部隊を率いるもう一人の符術師将軍という扱いだ。
 彫将軍は、少々怒ったように潔扇の体を調べ、符術によって痛みを感じさせられているだけだと診断した。
「発動した符術の作用によって潜り込んだ符術墨が神経に刺激を与えて、痛いと思わせているだけだ。どこも悪くないし、傷ついてもいない。刺激を与えている符術墨の原料が体内に混じって排出されれば、すぐによくなる」
 いつも通りの男の声で宣言し、緑布党の党首の話になったのだ。
「緑布党の党首の話を聞いたか?」
「臣下の礼をとったそうだな」
「聞いて驚け。鴛君配下の武人だ。農民ばかりだと思ったら、予想外だぞ」
 紫炎が驚きの原因を語りたい事にはすぐ気づいたが、潔扇には一人、覚えがあった。
「まさか……斑将軍の配下だった、軽戦車の指揮官か?」
「知ってるのか?」
 知っていたわけではない。ただ、二日目の囮を命じた時、口にはしていなかった「挑発行為をせよ」という潔扇の意図を汲み、自分なりに采配した人物がいた事実がふと、脳裏を掠めただけだ。
「そうか。それで俺たちが主君と仰いでいる鴻君を、すぐに本物だと納得したってわけだ。おかしいとは思ったんだ。いくら俺の爺さんや蔭白師が恩を売ってたって、簡単に呼応するはずがねぇと思ってたからな」
「武人とは言え、元々は農民の出なんだそうだ。党首が病死して、緑布党が消滅しそうになった時、形だけでも残さなければと動いたのが、彼なんだそうだ。今回、鴻君が出兵すると知って、わざと斑将軍の部下になり、従軍しているうちに、この鴻君は本物に間違いないと確信したそうだ」
「知らない間に、俺たち臣下ごと、鴻君を推し量ってたってことか」
「そうなるな」
 その緑布党の武人は、斑将軍と共に鴛城へ戻ったという。彼が戻ってくるのは、斑将軍と一緒となるに違いない。彼らが軍を抜け出すには、家族の安全を確保してからだ。まだまだ先の話となるだろう。
 逃亡を続ける鴻君たちは、国境を隠れながら、更に進んだ。追っ手はほとんどないと、外部の情報を集める挙斗が報告してくれた。
 鴛君は、城で盛氏軍をもてなすことで精一杯らしい。追っ手よりも、この何か言いがかりをつけられるやもしれない盛氏軍を先に追い出したいのだろう。
 実に小心者で小者らしい反応だ。
 報告を終えた挙斗が立ち去ると、挙斗息子の巨斗が、苦笑しながら耳打ち。
「若が気を失ってた時、あん時ゃ、大変でしたよ」
 潔扇が目線で先を促すと、含み笑いをしながら続けた。
「蔭白師に殴りかかりましてね。親父も蔭白師も悪気があったわけじゃないとわかってたんだが、あの灰色のおっさんは、ずっと若を……おっと、ここじゃ軍師殿でしたね。軍師殿を小馬鹿にしてるとブツクサ言ってましたから。一発ぶん殴っておきたかったんでしょう」
「殴らせたのか?」
「まさか。俺が親父をぶん殴って止める機会を逃すと本気で思ってんスか? 今までやられた分を、まとめて返しましたよ」
 蔭白師は道中一度だけ、顎髭をかきながら潔扇の前に現れた。彼は彼で、自分たちを案内する緑布党が裏切らないよう、ずっと観察と探りをいれるべく、先頭に立って緑布党の人々と交流を深めていたのだ。
「いやいや、すまなかった! まさかあの高台に乗り切れなかったとは!」
「別に……怒ってはいませんよ」
「本当かい?」
「むしろ、良い経験でした。符術を体に描くなんて、こりごりです。他人に全部を委ねると、何が起こるかたまったもんじゃない。相手が符術師なら尚更だと、よくわかりました」
 蔭白師は複雑な笑顔で頷いていたものだ。
 漁将軍が道中顔を合わせたのは、蔭白師同様一度きりだった。
 もっとも、彼は相変わらず危険な最高尾を担当していて、滅多には前に現れなかったからである。
 老将軍は、あの北方産の重い馬で確実に悪路を踏みしめながらやってきた。
「遅ればせながら、お疲れさまでした、軍師殿」
 老将軍は停止した指揮戦車の中をのぞき込み、潔扇が体の痛みに耐えながら降りる様を微動だにせず待った。
 目を覚ました時ほどではなかったが、痺れにも似た痛みはしつこく残っていたのだ。
 彼らが久しぶりの対面を果たしたのは、瞬間移動してから五日後、潔扇が目を覚まして三日後のことだった。
 そこは緑布党の隠し砦の前だった。
 山の奥、台地に茂った森の中の巨木を利用した大きな山小屋といった風でもある。それでも二階があり、見張り台が備え付けられ、巨木を介して連なる別の棟へと簡単に行き来することができる。
 一つの棟には五十人ほど収容できるし、二階建てであるから百人単位で滞在できる。
 粗末ではあったが、それは砦、それは小さな城と呼んでも差し支えなかった。
 歓迎するべく現れたのは、みなボロボロに擦り切れた衣類を纏う農民と猟師ばかりであったが、鴻君は丁寧に礼を述べ、そして彼らの手を取り、親愛の印とした。
 彼らは驚いたようだ。おそらく本物であろう鴻君ともあろうものが、先代までの鴻君たち以上に、民に近しく民に触れあい民に感謝を表明したのだから。
「ここは鴻の君のモンです。どうか、お受けください」
 砦の代表らしき猟師が、声を震わせ、涙をこぼしてつぶやいたのが印象的だった。
「今の我々には、こんなものしか用意できませんでしたが、必ず、あの城をお返しします! 我々がふがいないばかりに、申し訳ございません!」
 鴻君は首を振って微笑んだ。いつもの、のんびりとした調子で。
「私が間違ってました」
 驚く砦の人々に、鴻君は粗末な城とも呼べる砦を仰ぎ見て、手を広げた。
「鴛君など頼らず、最初からあなた方の元に来ればよかったのです。これほどまでに素晴らしい忠臣を、何もない私へくださった城を! 私はこの光景を一生忘れないでしょう!」
 こうして、鴻君は緑布党の推定三百の兵を手に入れたのだった。



 その夜、この小さな城では歓迎の宴が催された。
 全員が一つの棟に入ることができなかった為、分散しての宴だ。
 鴻君以下将軍たちは一番大きな本丸と呼ばれる棟の二階に集まり、食材こそ少ないながらも、様々な原料で作られた地酒や乳酒を振る舞われていた。
 漁将軍は淡々黙々と杯を空け続けていた。蔭白師は砦の責任者と楽しげに酌を交わしている。
 雷姫は宴会に慣れていないらしく戸惑い気味だ。男装した彫紫炎が付き添い、手取り足取り酒の注ぎ方を教えている。酒を飲むことそのものは経験済みのようだが、皆と車座になって飲むのは初めてのようだ。紫炎はおそらく、盛氏軍の中で経験したことがあるのだろう。
――こいつは意外だったな。てっきり、部下たちと飲み歩いてると思ってたんだが。
 彼らの姿を横目に、潔扇は酒宴の喧騒から逃れ、見張り台で息をついた。
 酒は苦手なのだ。高名なる義賊の爺さんはウワバミだという噂がたっているのだが。祖父を知るものには、孫だけに各所がよく似ていると言われる潔扇だが、この一点だけは違う。飲めないわけではないが、旨いと感じたことは一度も無いのだ。味を理解できない食物を、進んで食べるつもりはない潔扇だ。
 酒も苦手だったが、それ以上に、体が食べ物を受け付けてくれなかった。
 符術の痛みではない。
 鴛軍が背後に迫っていると伝令が告げた瞬間を何度も思い出し、その度に背筋が凍る思いがするのだ。
 失策。それが己の命に直接関わった初めての瞬間だった。それを無意識に思い出してしまうのだ。
 切り抜けたのは幸運だった。しかし、これは潔扇の望んだ結末ではない。
――何を望んでいた?
 それを思い返し、更に胃袋を締め付けられる思いをする。
 戦に勝つこと。自分の望んでいたのは、それだけだ。それが軍師としてこの軍に加わった自分の全てだろうか?
 いや、違う。そんな事は将軍連中にだってできる。自分が考えるべきだったのは、引き返し方だったのだ。
 この戦の後始末、城に戻った後の政策ばかり考えていて、戦の終わり方を考えていなかった自分は、なんて未熟者だろうか。
 机上の作戦を常々馬鹿にしていたクセに、机上の戦争と同じ、敵を倒したらおしまいだという単純な思考に陥っていた。
 その結果が、この敗走だ。
 間抜け過ぎる。
 少なくとも、軍師失格だ。
 眼下では緑布党の兵士たちが楽しんでいる宴の篝火。その明滅を眺めながら、祖父の眼鏡をかけなおす。
 彼らを一人でも多く生きて帰すこと。それは自分の能力にかかっていた。これからもその関係は続くだろう。それだけの器量が自分にあるのか。
 あると信じて、いや、無くともやってやると、ここまで来たのだ。
 引き返すつもりはない。
 無いが、やり遂げるまで、何度、この内臓を絞られるような思いを重ねることになるのだろう?
 気が遠くなる。
 これが、机上の駒ではなく、生者を率いるという事の意味なのだろう。
 祖父もこんな思いを繰り返し続けたのか。全てを自分の肩に乗せて。
 自分に乗せられるか? 耐えられるか?
 自分ならあの祖父を超えられる――それは自分の傲慢だったのだろうか。


「潔扇先生」
 背後からふいに柔らかい声を投げかけられ、潔扇は急いで視線を地上の篝火から引き剥がした。
 鴻君が、いつもどおりの笑顔で酒盃を片手に佇んでいた。浮かれてる様子も無く、ただ、今までどおりに。
「いけません、我が君。暗殺者が狙ってる可能性があります。すぐにお戻りください」
 見晴らしの良い場所だ。彫将軍の部下たちの手で符術に対する防御は施されているが、すでのこの隠れ砦が敵に知られているならば、その気になれば石弓で撃つことも可能な場所だ。
 いや、緑布党がいつ鴻君を放逐するか知れたものではない。どこで裏切り者があらわれるかわからない。いくら緑布党が臣下として加わったからといって、どの組織でも一枚岩とは限らない。常の用心は君主の勤めだ。
 しかし鴻君は涼しい顔で告げる。
「私なら、潔扇先生を狙いますよ。貴方がいなければ、二日で戦が終わる事も無かったでしょうから」
「我が君が居なければ、我々は少し腕の立つ、ただの逆賊です」
 それもそうだと、鴻君は潔扇の指示するまま、軒下の奥へと下がった。
「潔扇先生は宴が苦手ですか。正直に言いますと、私も少し苦手なのです」
 よかったと、変わらぬ笑顔。人の気も知らないでと潔扇は唾を吐きたい衝動に駆られて、口をつぐむ。
「感謝しています」
 鴻君は木々の隙間から覗く夜空を眺めながら、ため息混じりに呟いた。
「貴方が我々に追いついてくれたこと、鴛州に到着するまで追い剥ぎや賊を振り切ってくれたこと、今回の戦のこと、全てに感謝しています」
 皿のように平たく薄い酒盃を舐めるように口に運び、笑顔のまま続けた。
「ご自身を責めないでください」
 ドキリとした。
 潔扇は思わず、自分の主君の表情を確かめる。
 変わらぬ表情。いつもどおり。
「私はまだまだ君主たる事を知らぬ者です。国を治めたことがない。もちろん、考えないわけではないし、己の理想と現実とが合致することの方が稀であることも知っています。そして、その隙間を埋めるのは経験だと理解しています。だから、経験が無い以上、誰だって最初は失敗するものだともわかってます。最初じゃなくても、うまく始められたとしても、必ずどこかで躓く。その時、被害を最小限に収めることができれば、上出来だと思っています」
「我が君――」
「だけど私は、何も心配していませんでした。貴方ならなんとかしてくれると、わかっていたからです」
 鴻君は潔扇に視線を合わせ、酒盃を目の前に掲げて見せた。
「最初に出会った時……山賊から逃れようとしていた我々を、貴方たちは助けてくれた。貴方は我々がどんな状況に置かれているのか瞬時に把握し、乗り切って見せた。鴛城にたどり着いた時にも、何も持たぬ私が鴻君その人であると説得してくれた。前にも言いましたが、貴方には状況を打開する天賦の才がある。もっと自信を持ってください。貴方がいなければ、私たちは今頃、盛蠍の前に生首で届けられていたのかもしれないのですから」
 潔扇は呆然とする。
 鴻君がただの暗愚ではないと、紫炎との会話で理解することができた。
 しかし、結局はただの夢想家の言葉だと切て捨てた潔扇だ。
 だが、現状はどうだ。
 今、潔扇が自分の策を恥じていると察することができるだけの人物が、あの宴の中にいるだろうか? 居たとして、その言葉をこの君主が信じた……信じるだけの能力が、そしてそれを潔扇に理路整然と告げるだけの能力が、この鴻君には備わっているというのか?
――ただの夢想家ではない?
 夢想家は思い描くだけだからこそ、夢想家と呼ばれるのだ。しかし鴻君には、潔扇の心情を読み解く能力がある。
 この主には世の中の表裏を見極める目があるのだ。
 鴛君に問答を仕掛けようとするほどの、行軍中に民の現状を汲むほどの観察眼が。
――俺の見誤りだというのか? この主は、ただの暗君ではないと?
「潔扇先生は、我が祖国に伝わる『鴻の双子』の伝説はご存知ですか?」
 愕然としたまま、潔扇は頷く。
 その昔、平原を多い尽くすような大きな鳥、つまり鴻が降り立ち、二人の子供を置いて飛び立ったという伝説だ。
 一人は真っ白な肌と黒い目をした子供であり、人の手によって育てられ、君主となった。君主は自分を連れてきた鴻にあやかり、この地を鴻国と名づけた。
 その血を引いているのが、鴻君の一族だ。
 もう一人の子供は、真っ黒な肌と緑の目をした子供だった。その子は鴻が立ち去ってから一月と立たないうちに、金狼猿によって森に連れ去られた。その子供が森の王となり、魔と契って子を生した。
 それが『森人』の一族だ。
 つまり潔扇も、鴻君と全く同じわけではないが、『鴻の双子』の血を引いているとも言える。
 だからといって、潔扇に鴻君と競う気持ちはない。先祖の縁起に興味はない。『森人』ですら、潔扇が存在を意識できない先祖なのだ。それ以前の話など、知識で知っている以上の意味はない。
 しかし、鴻州人と鴻君は違う。
「貴方が吏沿扇の孫だとわかった時、雷姫などは追い出すべきだと言って来ました。彼が『森人』の血を引くという話はそこそこ有名ですからね。そして彼女は、『鴻の双子』は互いに争うべく宿命付けられたという言い伝えを信じているのです」
 潔扇は鴻君の視線を一時忘れ、雷姫の片目を思い出して舌打ちしそうになった。本当に邪魔な女だ。有能な武将であるのは散々見せつけられ、感謝もしているが、こういう些細な場面で立ちふさがるのは、いつだって彼女である。舌打ちの一つも鳴らしたくなる。
「ですがね、潔扇先生……私はそう思わなかった。こんな言い伝えもあるからです。『鴻の双子』が一緒に連れて来られたのは、二人で国を作るためだったんじゃないかと。金狼猿が一方を連れ去ったのは、いつか森の魔を引く者が必要になるから、『森人』の手が必要になる時があると知っていたからではないかと」
 この話を信じるのは楽観的ですかねと、鴻君は一度目を逸らした。
「でも、長い年月の末、鴻の菱と吏の潔扇は出会った。先祖を運んだ鴻は、今、この時を目指して二人を運んだのだと思うんですが……ね? どうでしょう?」
 潔扇はもう一度、内臓を絞られるような感覚に襲われた。
 今度は先のものとは違う。現実的ではない言葉を本当のように語る鴻君の感覚に、惑わされまいという反発だ。
――何千年も前の伝説が、自分たちに関係あるはずないだろう?
 何千何万キロの大陸街道の夢を描いて見せれば、今度は何千年もの歴史を語って見せる。
――本当にこの主は、何を起点に、何を考えてるんだ? 掴み所が無さすぎる!
 しかし、この伝説を自分の主君が信じているとなれば、これを利用しない手はない。
――だが、何だ、この違和感は? この主は、自分に何か謎かけを仕掛けたのか? 一度は驚かされたが、結局は伝説を信じる無能なおぼっちゃんなのか?
 鴻君は薄い杯を一気に空けた後、潔扇の目をのぞき込むようにして、笑った。
 あの、獣の笑みで囁く。
「わかってますよ、潔扇先生……貴方には心に秘めた野望がある。天下に名を轟かせたい。お爺さんの名前に負けないほどの。その足がかりとして私を選んだ。違いますか?」
 絞られた内臓が、さらに絞られる。喉の奥から体液が飛び出してきそうだ。
――見透かされている? 馬鹿な。漁将軍にならともかく、世間知らずの、夢見がちな鴻君に?
 いや、夢見がちなだけではない事は、何度か垣間見たはずだ。ただ、今まで見逃してきた事実を認めたくないだけで。
「それでもかまいません。貴方の野望が達成されるその時まで、貴方は決して屈することはない。私たちを共に引き上げてくれるでしょう。その時まで、貴方は全力で、全身全霊で私に仕えてくれるはずだ」
 背後では宴もたけなわ。篝火の熱もあって、背後は暑いぐらいだ。
 だが、潔扇の腹の奥は、凍りついている。動けば薄氷のように壊れてしまうと意識するぐらいに。
「そして、貴方の過ちの全ては、主である私が背負います。だからご自分ばかりを責めないでください。貴方は全力で仕事をする。それを悔やまないようにだけしてくれれば良いんです。貴方を一人苦しませ、私が一人笑う、そんなつもりで貴方の主になったわけじゃない。だから、貴方の命を預かると言ったのです。貴方の命は、私が捨てると決めるまで自由に処分などさせません」
 潔扇の肩に杯を持った長い腕の肘を乗せ、まるで親愛なる友へ投げかけるかのように、鴻君の言葉は続く。
「貴方の飛び立とうとする風に乗りましょう。貴方の野望が達成されたその時には、私を振り落とすがよろしい。私が落とされる程度の男なら、私も諦めます。自由にどこなりとも立ち去ってください。私たちに遠慮はありません。雷姫の言うとおり、古の時より戦う運命にあったと思うだけです」
 言葉は優しい。口調も冷静だ。酔いもなく、いつもどおりの鴻君。白湯を前に大陸教会聖書を眺めていた時と同じ口調。
 だが、中身はどうだ? これは自分の身を全て差し出した一言であり、そして一種の宣戦布告でもある。
 主と家来ではなく、全く互角の条件をもって対峙する人間同士の戦いだ。
――無意識にその言葉を選んでいるのか? それとも計算ずく? 表情が読めない。いや、読めたことなどあっただろうか? 今まで読もうとしたことがあっただろうか? 読む必要もないと思ってはいなかったか?
 鴻君が、潔扇の肩から肘を降ろした。のぞき込むような視線を伏せる。
「潔扇先生」
 穏やかな声。全く攻撃性のない声。
――わからない。やはり、ただのお坊ちゃんなのだろうか?
「お話を聞いてくださって、ありがとうございます。今後もどうか、よろしくお願いしますよ」
 おじゃましましたと、礼儀正しく見張り台から立ち去って行く。



――ここまで喰えない主だとは。
 潔扇は祖父の眼鏡の位置をただしながら、胃のムカツキをやり過ごそうとする。
 だがなぜだろう? どうして唇の端が笑みにつりあがるのか。どうして胃の痙攣とは別に、腹の底から笑いがこみ上げてくるのだろうか。
――でも、あの主に仕えるのは悪くない。
 それは潔扇自身にも思いもよらない喜びだった。
――あのおぼっちゃんは、自分が思っていた以上の大物かもしれない。
 彫将軍との会話が思い出される。
 東方だけでも西方だけでもなく、人の生活を先に歴史を作ろうとした君主……そんな人物が、今まで存在しただろうか? 少なくとも、東方にそのような君主が現れた記録はない。潔扇の知る限り、西方はおろか、東西南北、無数に存在する国々、そのどこからでも、そんな愚かとも呼べる計画を抱いた君主はいない。
――西方と東方の文化の融合? 東方六十州の盟主? そいつは……まさに、五十万の兵を抱える大国って奴じゃないか!
 潔扇の胸が苦しくなる。冷や汗とは違った、全力で走った後のような興奮の汗が、ジワリと背中に満ちてくる。
――ならば、俺とあの主の抱く夢は、全く同じって事だ!
 盗賊の群を率いる時のように、心の奥がカッと熱くなる。顔はそれを反映して笑みを形作る。反面、頭の奥には冷たい氷が置かれたように冷え切る。
――そうと決まれば、あの言葉がどこまで本気か、腹の底まで見極めさせてもらう!
 あの主をどう攻めれば、どこから化けの皮を引き剥がせるのか。
 口先だけで夢を語る愚鈍の王か、六十州の全てを破壊する混沌の王か。
 その中身は聖君か暗君か。
 潔扇は身を翻した。宴会の輪の中へと戻っていった鴻君の背中を探してだ。
「我が君! お話の続きを! どうかこの潔扇の話をお聞きください!」



 東方威主歴三十九年。

 それは後の歴史にこう記されている。
 東方六十州の歴史を塗り変えた三生帝が一人・稀帝鴻君菱が、初めて己の城を手に入れた、記念すべき年である、と。
 鴛州の山奥で、東方の夜明けが始まろうとしていた。



<了>

NEXT→いただきもの
・「この話、面白いかも」と思ったらポチリとお願いします。

←PREV | INDEX=消えていく街 | Home | NEXT→いただきもの


1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12
copyrights (c) 2001-2017 suzu3ne@CloudCollector'sVector(2CV) All rights reserved.