「案君・潔秘」 8・分裂
←PREV | INDEX=消えていく街 | Home | NEXT→

1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12



 蔭白師の背中を見送り、潔扇はまず、指揮戦車の中にあった伝令符を取り出した。指揮戦車が動けなくなった以上、使えるか不安だったが、試しに起動させてみる。
「蔭白師、潔扇です」
 ほどなくして、気のない返事が返ってきた。
「どうした?」
「いえ、急ぎで戦撃符術をお願いしたいのですが、敵の兵士を一カ所に集めてから合図をした方が良いかと思いまして」
「そうだな。ここからじゃ、敵の部隊も見えねぇし」
「なので、発動のきっかけはこちらで合図します。位置は最終防衛線の下方。それより上には、来させません。かわりに、それより下は全滅させてもらいたい」
「そうか。じゃ……ほんのちょっと手間を加えればなんとかなるだろう。そんなに時間はかからない。それじゃ、合図、待ってるぜ」
 伝令符を終了した潔扇は急いで陣中を見回す。
 蔭白師たちが戦撃符術を発動させるまで、どれだけ時間が稼げるか。
 ましてや、敵の騎兵を一カ所で足止めするには、何を用いるべきなのか。
 深く考える時間はない。
――近衛兵を一斉に投入するには、少々距離がありすぎる。
 馬返しに残っている兵たちより、本陣に残る人間の方が多いぐらいなのだ。
――逆だ。馬返しの兵士たちをこちらに引き上げさせる。
 しかしそれでは、敵の騎兵たちを足止めできない。
――障害物を設置する。同時に、引き上げる。
 潔扇は更に目をこらす。
 必要のないものがあれば、それを障害物にしてやればいい。できれば重く、役に立たないぐらいのものを。
 祖父譲りの眼鏡を押し上げながら、潔扇は陣地に目当ての品はないかと、焦りに息を荒げながら探し続ける。
――あった!
「潔扇先生?」
 鴻君が驚いたように声をあげたが、潔扇に構っている暇はない。
 急いで目当ての品に駆け寄り、近くの歩兵に尋ねる。
「この荷台を括ったのはお前か?」
 歩兵の方は驚いて硬直した。
 よく考えれば、鴻君とつかず離れずの行動をとっている潔扇の姿は、歩兵にとっては貴族と同じような存在に見えていたのだろう。
――いいから、さっさと返事しやがれ!
 無言の威嚇に気づいたのか。
「あ、い!」
 震えていたが、それだけに嘘ではないと信じることができた。
「よし、それでは一つ聞く。この荒縄は、どれぐらいの長さだ?」
「す……すげぇ、ながいっす!」
「一本か? 何本か繋いでるわけじゃないな?」
「あい、一本です」
「よし。それじゃ、ここにある荷車を全部、丘の先まで持ってこい。何台ある?」
「十台よりは多いです」
「じゃあ、仲間を集めて全部引っ張ってこい。軍師の命令だと言って、お前の隊長がなんか言っても、今、すぐに、持ってこい。早く!」
 潔扇は急いで引き返し、近衛兵の小部隊を捕まえる。
 敬礼する彼らに頷き返す時間も、更にもどかしい。
――どいつもこいつも、目の前に敵が来たってのに! のんびりしたもんだよな、全く!
 これが鴻州の風土気質だと言われれば仕方ないと思うが、やはり外から来た潔扇には異常に見える。
 ついてこいと身振りで指示し、ついてきた近衛兵全員に聞こえるよう、声を張り上げる。
「急ぎの用だ。君たちの手際で、最終防衛地点の仲間の命が救われる数が一桁違ってくる」
 本陣の天幕側に向かって歩きながら、身振りも交えて説明する。
「本陣の天幕を一つ潰して、杭を用意してくれ。十本もあれば良い。天幕は片づけなくて良い、杭を取れ。用意したら、急いで丘の端に持って来てくれ。荷車が並んでるはずだから、その前に、十分に距離をとって、打ちつけるんだ。私は先に端に行って待ってる。頼んだぞ。走れ!」
 了解の印に力強い雄叫びを残し、天幕の杭を引き抜きにかかる。
 潔扇は丘の端に並び始めた荷車を確認し、その内の一つの荷解きを命じた。
 荒縄の長さを確認し、行けると判断する。
「全部の紐をほどけ! 解き終えたら、すぐに使えるようまとめて置くように! 荷物は全部、地面に並べろ!」
 潔扇の形相に恐れをなしたのか、兵士たちは返事もなく荷車に飛びつく。
 作業の間に、潔扇は眼下に目を転じる。
 騎兵たちは、既に馬返しに到達している。
 なんとか、先に設置してあった馬返しの分厚い丸太や鋭い先端が役立ち、くい止めていることはいるのだが、まったく油断はできない。むしろ、いつ潰されてもおかしくない。
 いや、まだ持ちこたえていることの方が奇跡的だ。
 近衛兵たちが杭を持ってきたのを目にし、杭を打つよう指示。
 そのまま、潔扇は退却の鐘に駆け寄り、鳴らす者を探すのももどかしく、自らが叩いた。
 馬返しの兵士たちは、皆一様に驚いたようだ。
 もちろん、逃げ出せることはありがたかったに違いない。事実、数人は退却命令前に丘を登りつつあった。それでも、彼らは皆知っていたはずだ。自分たちの守る場所が、鴻君にとって最後の壁であると。
――いや、むしろあの壁を、目安にする!
 潔扇は荷車に荒縄を縛り付けるよう指示。
 杭がしっかり打ちつけられていることを確認し、その杭に、天幕を張る際につけられた溝が残っていることを確認。
 荷車につけた綱を杭に絡ませ、残りの端に荷車の荷を結びつける。
 それは、化霧に応じて接近した際、音がでないようにと用意させた、木の大楯だった。
 戦が始まった以上、木の大楯が使えないわけではないが、鉄の大楯の方を用いるのは当然だ。そのまま、木の大楯は鉄の大楯と入れ替えて荷車に積み込まれていたのだ。
 大きな楯は、裏返せば、大人二人は乗れるソリになる。
 取っ手にロープを絡め、何本も連ねると、ちょうど丸太を運ぶ為に組まれた筏をいくつも連ねた姿そっくりになる。
――うまくやれば、一つに三人から四人は乗れる。手をとりあえば、もっと多くを引っ張りあげられる
「楯を下に投げろ!」
 潔扇の指示で、バラバラと楯が眼下の光景に投げられた。一つの荒縄に、五枚から八枚程度だろうか。それが十数本ぶんの荒縄につけられている。
――拾えるのは、たった五十人程度かもしれねぇ。うまくいっても百人程度かもしれねぇ。でも、助けねぇよりはマシだ!
 朝の化霧の影響が残っていた為、楯はその露に乗って斜面を滑り落ちる。
「掴まれ! 楯に乗れ!」
 潔扇の意図に気づいたのか、周囲の歩兵や近衛兵たちも一斉に同じ言葉をかける。
 退却を開始していた兵士たちは、丘の上から流れてきた板と上方からの声に気づき、わけもわからず、木の板に飛び乗る。あるものは楯に繋がれた荒縄につかまり、ある者は板に乗った者から腕を引かれて引き上げられ。
 もちろん、騎兵たちも黙って見ている訳ではない。
 馬返しの一画を破壊した者たちが、一列になって追ってくる。数人が既に切り伏せられ、簡易ソリに乗りそびれ、荒縄を切られて滑落する。
「荷車を落とせっ!」
 歩兵たちは戸惑っていたが、近衛兵たちはすぐに動いた。彼らは潔扇が何をしたいのか、即座に察したのだろう。
 歩兵たちを怒鳴りつけ協力させながら、一斉に十代の荷車を丘の上から転がした。
 転がり落ちる荷車に引きずられ、荒縄が一斉に緊張し、杭を支点にして簡易ソリを引っ張りあげる。
 簡易の滑車だ。荷車が重さをもって落ちる力で、歩兵たちをソリで丘の上に引き上げる。
 杭の数本が重さに耐えかねて軋み、傾ぎ、抜けかかる。潔扇の意図を了解していた近衛兵たちが、急いで木槌や別の荒縄で引きつけることで、大地から抜け落ちることを防ごうとする。
 木の楯を裏返しただけの簡易ソリだったが、何度も地面の凹凸で跳ねながらも、兵士たちを十数秒で引き上げることに成功した。あまりの勢いに、振り落とされた者も何人か出てしまったほどだ。あまりの勢いに恐れをなしたのか、兵士たちは到着した丘の上で、あわてて飛び降りる。
 数人が、本陣に到着した勢いで転がり負傷したり、斜面を引きずられて大きな擦過傷を受けていた。中にはそのまま引きずられて杭にぶつかり、骨を折ってしまった者もいる。
――だがみんな、命を失うよりはマシだろう?
 ソリに乗り遅れた兵士たちもまだまだ多かったが、彼らを応援するべく、追いつきそうな騎兵に向かって矢を射かけるよう指示。
 逆に、荷車の突進を受けた騎兵たちはたまったものではない。
 突進していった荷車は、追っ手の騎兵をなぎ倒すこともあれば、素通りしても行く。その後ろには、兵を降ろした後の荒縄や木の楯を引きずったままだ。
 荷車は踊り場の馬返しを突破した騎兵や、まだ突破してない騎兵たちに向かって、猛進していった。
 踊り場では、うまく車輪の回転したものは更に直進していく。馬返しを裏側から飛び越えて、防衛線より下の丘へ詰めた騎兵たちの中へ損害を与える。その荷車が引きずっていった数枚の楯も、勢いに振り回されて騎兵たちの間を飛び交い、人馬を薙払い、大地に叩きつける。
 踊り場で横転した荷車は、そのまま横倒しに滑っていって、馬返しを後ろから支える第二の障害物となった。
「他に残っている縄は? 長い物だ」
「天幕に使用していたものがあります」
「持ってこい! 今度は荷車がない分、俺たちが引っ張りあげるぞ!」
 潔扇の意図がわかった以上、兵たちの動きは目に見えて素早くなった。
 先のソリに乗れなかった兵士たちも、この時間の間に登坂を続けている。荷車の分が必要ない以上、先の荒縄より短くてもかまわない。
 多くのソリがいくつもおろされ、兵士たちが息を切らせて引き上げ始める。先ほどまでの速度は無いが、数十人が一斉に引き上げる力は馬鹿にできない。移動しながらも後方を確認できるだけに、易々と切り殺される兵も減るはずだ。
 もちろん、引き上げる手伝いができなかった者たちは、弓による牽制を続ける。弓の無い者や不得手な兵士たちは、荷車の荷であった木の楯を、楯に回転させて坂に転げ落とした。厚みのない木の板だとしても、速度を増して転がり落ちてくる二メートルの板は、やはり大きな驚異だ。途中でうまく転がらなくなって倒れてしまった板でも、騎兵たちには思わぬ足下の障害物であることには変わりない。
 退却が続く中、潔扇は頃合いと見て伝令符を起動する。
「蔭白師、お願いします」
 返答は無かった。
 だが、即答に近いほどの早さで、あのイヤな感覚が足下を駆け抜けて行く。
――今度は、どんな奴だ?
 悪寒にも似た本能的な恐怖を心中に押し込め、潔扇は馬返しを破壊しようとしている騎兵たちを見守る。

 それは一瞬にして、現れた。
 潔扇は自分の眼鏡が曇ったのかと疑ったぐらいだ。
 馬返しより下の、一千ほどの騎兵たちがすっぽりと白い塊に覆われていた。
 そこにだけ、化霧がかかったように、だ。
 そのまん丸の雲に似た物体は、音もなく、ゆっくりと斜面を移動し、騎兵たちを飲み込み続ける。
――イカサマ師の持つ白い宝玉みたいな霧だな。
 そして潔扇は、その白い塊の通過した後に残されたものを見て絶句した。
 何も無かったのだ。
 いや、正確には、真っ赤に塗れた斜面しか残っていなかった。
 かろうじて、いくつかの鉄の破片が見つかったが、それすらも、鎧や兜のどの部位に使われていたものなのか、全く想像がつかない一部分でしかなかった。
――喰らった。
 潔扇にはそうとしか思えなかった。白い塊が生き物のように騎兵たちを租借し、飲み込んだかのようだ。
 生き物の断末魔も、鎧を破壊する音も、何も聞こえなかった。この白い塊が何もかも一口にし、それらの音をどこともしれぬ腹の奥に閉じこめてしまったかのようだ。
 突然、近衛兵の一人が吐き始めた。つられて吐き出す者が続出する。だが、誰も咎めることはできない。あの場所に何があったのかを知っている人間は、とてもあの赤い空白に耐えられない。自分であったらと思わざるを得ない。
 仲間を引き上げる作業を続けていた者たちは幸いだった。眼下で見てはならないものが転がっていると、皆の反応で警戒することができたのだから。
 ソリで逃げる兵士を追ってきた盛氏軍の騎兵は、自分たちが完全に孤立していると気づいて呆然とした。
 そのまま斜面に立ち尽くし、互いに顔を見合わせる。
 眼下の白い塊は、まだまだ騎兵たちを飲み込み続けており、事態を把握できていない下方の兵士を消滅させて行く。
 下から見ていれば、おそらく、ただの霧の塊なのだ。恐れることもなく、それ故に瞬時に殺されて行くのだ。
――こいつも、とんでもない戦撃符術だ。ほんとに予想外だぜ、半分野郎め。
 褒めているのか、けなしているのか。自分でもわからないまま息をつく潔扇。
 そうしている間に、追っ手であった騎兵たちは次々と馬から降りた。降伏の印に武器を投げ捨てる。
 近衛兵の小隊長を捕まえ、すっかり戦意を喪失した騎兵を捕らえるよう命じた。
――本陣付近の警護についていた騎兵だ。何か聞き出せればいいんだが。
 潔扇はひとまず収まった危機に安堵しながら、再び西の平原に目をやる。
 向こうは雷姫隊と斑将軍が、うまい具合に連携をとっているようだ。正確には、斑将軍の定点攻撃に対し、雷姫隊が巧みに敵を誘導しているのだ。
 部隊の先頭に見えた黒と金の鎧にほっとする。
――雷姫も無事か。怪我もしてないようだな。
 どうやら敵の戦撃符術には巻き込まれずに済んでいたようだ。
――忘れるなよ、雷姫。紫炎を必ず連れてきやがれ。
 潔扇は盛氏軍の本陣に目を転じる。
 本陣側の騎兵が一瞬にして移動してきた以上、わずかながら盛氏軍本陣が手薄になったのは否め無い。
――よし、本陣が次の手を打つ前に、こちらからもやるぞ!
 潔扇が、伝令符の「陰の符」の一つを取り出した時だ。
「軍師殿! ごらんください!」
 近衛兵の一人がひきつった声をあげた。
 盛氏軍が陣を張る山裾の、その山から賭け降りてくる騎兵の一群だ。
――山道に残ってた増援部隊っ!
 潔扇は舌打ちする。
――この絶好の機会に、追加兵を更に蹴散らす策だと! 無茶言うなよ!
 潔扇は祖父の眼鏡をかけ直す。
――いったい、何万人来るんだ? キリがねぇ!
 潔扇が自分のこの先の道のりを想い、絶望に呻いた時だ。
 はからずも、指揮戦車の前に近衛兵たちと共に置き去りにしてきた鴻君がやってきた。
「やりましたね、潔扇先生」
 明るい声で、鴻君は告げた。
「さすが漁将軍です。大事な時を心得てらっしゃる」
 その言葉に、潔扇の絶望は一瞬にして真逆に転じる。
 慌てて新しい軍勢を確認する。
 まっすぐに、本陣に向かって突き進むその騎兵隊は、雷姫隊のような素早さではなく、先の戦撃符術の白い塊のように、ゆっくりと、しかし一定の速度で本陣へ食い込んで行く。止まる気配はない。取り囲むにも、本陣は手薄な上に符術師たちが符術台を設置している場所に近しい為、簡単には身動きがとれない。
 まるで、重い包丁をあて、その重みで熟れた果肉を割るかのように、確実に本陣を潰して行く。
 その軍勢の中央に、燦然と輝く旗印。
――漁将軍!
 そこへ、別の山中から騎兵の小部隊が現れる。
 こちらは潔扇にも見覚えのある姿だ。見知った義賊の衣装。皮と毛皮と錦糸で作られた、山賊の衣装だ。
――待智、最高の時にやってくれたな!
 符術台を破壊する任を受けた、潔扇の部下だ。
 東側面から漁将軍、北方から義賊、西側から到着した雷姫将軍。
 それらが一斉に、本陣めがけて殺到する。
 全ての部隊が、盛氏軍の兵士を気にすることなく、先へ先へと先端を盛氏軍本陣へと食い込ませる。
――そうだ、数でかなうわけがねぇ。漁将軍、さっさと傳将軍の首をとっちまえ!
 ぶわっと、敵陣が崩れた。
 正確には、雷姫たちが軽戦車隊に合流した時の再現のようだった。
 雷姫隊の先頭が本陣奥に到着し、漁将軍の一群もまた、本陣奥へと到着し。
 敵兵に分断されたと悟った盛氏軍の一部が、恐慌に陥って逃走をはじめたのだ。
 その先頭をひた走る中の何人が、昨日の戦の敗走者だろうか。
 それとも、それは潔扇の選んだ手の者か。
 義賊の中から鴻州に潜伏した経験のある者たち数人を選び出し、投降者や敗走のきっかけを作り出すよう指示していたのだ。
 もちろん、自分たちが死んでしまうかもしれない危険な任務だったが、三代目の指示を疑うような輩は、最初から従軍してはいない。
 潔扇には連絡のつかない場所で、彼らは好機を狙って潜伏し続ける漁将軍の部隊へ戦の流れを伝える伝令や、投降者を引き渡す役もこなしてきたはずだ。
 それらの地道な仕込みが、今、この瞬間に華開いている。
――よし! 最高の出来だ!
 潔扇は鴻君に振り返った。
「我が君、ご覧ください」
 一点に向かって集まっていく軍勢。そして散らばる敵軍。火の手が上がり崩れ落ちる天幕。降伏したらしい神官服の一群。さまよう軍馬。金品をかき集めるどちらの兵士かわからぬ一群。
 不意に、本陣の一画から、人の気配がごっそりと消えた。
 見ると、西側の、雷姫が戦場としてた平原に軍勢が瞬時にして移動している。例の、馬返し前まで軍勢を移動させた符術を、再度使用したのだろう。簡易の山を作り上げた場所へ同じように戦撃符術を使用する事は危険でもあったが、今回は無事に済んだようだ。
――このごに及んで、挟撃か?
 しかし軍勢はそのまま、西側平原を振り返りもせずに去って行く。どうやら逃亡させる為に使用した符術のようだ。
――彫紫炎らしいよ。おまえはいつだって、変なところで覚悟を決めて、妙なところで優しすぎるんだ。
 雷姫は、彼女の救出をうまくやってくれているだろうか。
 ため息をつきながら振り返る。
 鴻君はいつものぼんやりとした微笑のまま、ほんのわずかだけ目を細めていた。
――どういう意味だ?
 潔扇は初めて、自分の主の神経を不思議に思った。
 いつも微笑んでいる鴻君。だが、この光景の悲惨さにも、この光景の中にある自分の栄光にも、全く興味のなさそうな微笑み。
――この顔は、無関心と言ってもいいぐらいじゃないか!
 戦の悲惨さに顔を歪めるでもなく、自軍の素晴らしさに血をたぎらせるでもなく。
――なんなんだ、このネギ介は? 本当にただの馬鹿か、それとも不感症か? 何をすれば、何を見ればこの殿様は、これ以外の顔をするってんだ?
 潔扇の疑惑とは裏腹に、茫洋とした鴻君はしっかりとした言葉で告げる。
「ありがとう、潔扇先生」
 それはこの戦いの終結を告げる言葉でもあった。
「私はこの勝利と貴方を得た幸運に対し、天に感謝します」




←PREV | INDEX=消えていく街 | Home | NEXT→

1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12
copyrights (c) 2001-2017 suzu3ne@CloudCollector'sVector(2CV) All rights reserved.