2・船長のとある一日 (5000hitリクエスト)
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「暑……い」
 クラシスはぼんやりとする視界の中で呟く。
 傍らでは目覚ましがけたたましく鳴り響き、彼は長身に見合った大きな手でそれを掴みあげる。針は八時を指している。気ままな長期休暇をとっている彼にとっては、少々早い起床時刻だ。
 部屋の冷房は止まっていた。冷たい空気で部屋を満たし続けていると、同居している少女の体調が回復し辛いというアドバイスから、深夜になると勝手に冷風が止まるようにタイマーがセットしてあるのだ。
「暑いってば……」
 もう一度ぼやきながら、彼は習慣的かつ機械的に目覚ましを止め、これまた一連の動作の延長で無意識に空調のスイッチを入れる。
 元々彼は幼い頃、山岳地帯の高原に住んでいた。彼の以前の家族も、その先祖も、更に遠い先祖も、ずっとその土地で生活してきた。風を感じ、風を読み、風に乗る……高き空に居つづけるというのは、ある意味寒さとの戦いだ。そのせいだと思うのだが、彼らの一族は皆、他の地に住む人々より比較的熱に弱かった。暑さに弱いといった方が自然だろう。
 寝呆けたまま、彼は抱えていた杖を掴みなおす。この男、寝る時もこの母親の形見である杖を手放さない。理由はいろいろあるのだが、とにかく、この杖を手元に置いておかないと落ち着かないのだ。
 と。
 その杖の重量に違和感を感じ――というか、杖の上に乗っている『物体』の重さに驚いて目を向ける。
 幼い少女が、白いワンピース一枚で丸くなっていた。まるでうだった子猫のように、クラシスの胸にしがみついて眠っている。
 クラシスは、自分の鳩尾をつつつと滑っていく汗の玉を見た。この汗は暑さだけじゃないような気がする。
 汗がシーツに吸い込まれるのを確認した途端、我にかえり、彼は怒鳴った。
「な……何をしてるんだ、カノン!」
 驚きに飛び起きながら、彼はぐっすり眠り込んでいる『自称』五歳の少女の肩を揺らした。
 重く感じる杖の先端は、彼女の子供特有のむっちりとした上腕部の下へと続いていた。引っ張ってみると、子供の体が一緒に引きずられる。少女の体が完全に上に乗ってしまっているのだ。
「なんで僕のベッドにいるんだ!? 起きろ、起きなさい!」
 べっとりと体に張り付いている少女の手を持ち上げると、大きな目が開いた。クラシスには、花弁が開くスピードのように緩慢な動作に思えたが。
「……あ、おはよう、船長……。夏だね〜、お日様がすっごく眩しい……」
「おはようじゃない! なんで僕の寝室にいるんだ、寝る時ぐらい一人で寝れるだろ。びっくりしたじゃないか!」
「ん? ……大丈夫よ、船長には夜這いなんてかけないから。もっと金持ちで優しい人を探すって。たとえば、このマンションの管理人くんとか――」
「夜這いって……五歳の体でそんな言葉使うんじゃない」
「え? ああ……」
 カノンは驚いたように自分の体を手で叩き始める。ぽっちゃりとした手が、大人なら胸元にあるべきふくらみを捜して、空しくパシパシと音をたてた。
「じゃあ、別にいいじゃない。同居人の子供が船長のベッドにいたって、邪推する人なんていないよ? じゃあ、十五歳の美少年で寝てればいいの?」
「よくない。全然、よくない。邪推とかの問題じゃないんだ、さっさとベッドから降りろ。ほら、早く!」
「え〜、なんで〜!?」
「なんでもかんでもない。僕が、このボ・ク・が、嫌なんだ。なんでワザワザ、ただでさえ寝苦しい夏に寝苦しく並んで寝なきゃならない? 僕は一人で眠りたいんだ、今までどおり!」



「……な〜んて事が、朝にあったんだけどね」
 クラシスは屋上を吹き抜けていく風に髪をクシャクシャにされながら、自分の持ち込んだデッキチェアに腰掛けて嘆いた。その傍らには、派手な原色で塗り分けられたビーチパラソル。古風なマンションの外見に対して、恐ろしくミスマッチである。これは最近、厳しくなってきた日差し対策に慌てて購入し、設置した物だ。まだ管理人くんに見つかっていないからいいような物で、見つかったらまず間違いなく、お小言を頂戴するだろう――わかっていても設置するところに、この男自身さえもが持て余す、行き当たりばったりの性格が現れているともいえる。
 目の前で大人しくたたずむ相手に、クラシスは愚痴をこぼし続ける。
「ねぇ、おかしいかな? 子供でもなんでも、他人のベッドに断りなく入ってくるのはマナー違反だと思うんですよ」
 相手は黙ったまま、困ったように首をかしげた。抗議にも肯定にも、呆れているようにも見える角度で。
「大体、マナーというのは、互いが気持ちよく日々を過ごせるようにできたルールなんですよ? それを破る時には、相互の許可が入用なんです。商売だってそうだ。取引の時に、互いの同意なしに価格を上下させるのは信用にかかわるでしょう? 市場って言うのは計算だけじゃないんです、心の交流が、読み合いが、数字という形で表現されるだけの……いうなれば文学なんですよ。数字の羅列に想いがある、それを読み取り、適切な手を打つのが我々商売人の腕のみせどころなんですよ……って、私は一体、なんの話をしてたんだっけ?」
 額に浮かんだ汗をハンカチでぬぐいながら、クラシスはため息をついた。燕尾服の内側で、シャツの胸元を全開にしている。そんなに暑いなら上着を脱げばいいと思うのだが、そこは彼の美意識が許さないようだ。
 彼の戯言に付き合ってくれる優しい相手は、黙って自分の顔を眠たげにこすった。相手もこの暑さに参っているように見える。ぽかんと開いた口と息遣いが、言葉以上に熱の辛さを物語っていた。
「話がそれましたけど、要するに私は、眠れる時ぐらいぐっすり眠っておきたいんです。このマンションにいる間ぐらいしか、そんな時間は取れないのに。それを、あの生意気道化師に振り回されて飛び起きるなんて……今後一切、お断りしたいんですよ」
 相手はクラシスの言葉など意に介さず、マイペースで、今度は白と茶に配色された自分の腕をぼんやり見ている。丁寧に手入れされたその姿は、誰の手によるものだろう?
「こういう話、少し難しすぎるかな……ねぇ、チビデカ? ああ、今は違うんだったね? なんだっけ?」
 管理人の愛犬・ルンペルシュティルツヘン――愛称・ルンペルは、きちんと自分の名前を呼ばれなかった事に機嫌を損ねたのか、途端に興味をなくしてぺたんと腹ばいになる。この犬、妙に頭が良くて、自分の名前をきちんと聞き分けられるのだ。おまけに子供時代の名前よりも今の名前を気に入ってるらしく、昔の呼び名ではちっとも反応してくれない。ぷいっとそっぽを向いて沈黙。
 だがマイペースさではこの男も負けてはいない。腹ばいになったルンペルの背に向かって、ブツブツと呟き続ける。
「それにしても暑いしだるいな……これだから夏は苦手なんだ。屋上で昼寝しようとすると干物になる……いや、冬も冷凍食品になりそうだけど。ああ、そろそろ別の昼寝場所さがそうかな? ここの屋上、気に入ってるのにな〜」
 カノンと二人きりの、密閉された船での生活が長いせいか、彼は一人になると思考を整理する為に考えている事を呟くクセがあった。
「とりあえず、第一候補は管理人室だな。涼しげだし、管理人くんの手料理やお菓子もつまめるし、カノンを迎えに行く時も入り口のそばにあるから出かけるのが楽だし。何よりも管理人くんをからかって一日過ごすのも、そんなに悪くない……怒らせたら怖い相手ではあるけど、まあそれも一興……ああ、それにしても暑い暑い! この暑さで、誰かと一緒に寝たいと思うヤツの気がしれないよ!」
 この日差しの中、屋上で昼寝を敢行する奴の気も知れないが……残念ながら、それを彼に忠告できるような口を持つ者は、今の屋上には存在しなかった。
 ぼやきながら顔を上げたクラシスは、前方にある扉――階段の扉に目を向けた。彼の本能と危機を察する度に鍛えられた神経が捉えた人の気配、そしてその人間が持っている妙な魔術の気配に軽く警戒しながら。
「さて。この私に何の用かな?」
 だが彼の心配は杞憂に終わった。
 やって来たのは、このマンションの住人であるエマイユ・C・ローズマリーだったからだ。
 姿を見て納得。彼女の持っている特別な剣が、彼の感覚の捉えた妙な気配の正体に違いない。納得ついでに、彼は強張っていた表情を苦笑まじりで緩めた。
 エマは彼の姿を確認すると軽く笑った。威風堂々とした、しっかりとした足取りで歩きながら
「やあ、船長さん、こんにちは。お昼寝かい? 少しお邪魔したいんだけど」
「こんにちは、エマさん。構いませんよ。昼寝したいのはやまやまなんですが、見ての通り……昼寝したいんですけど、暑くてたまらないんで」
 エマは「ああ、なるほどねぇ」と笑いながら彼――そしてルンペルに近づいた。そしてクラシスは慌てて、屋上風にボサボサになってしまった髪を、円筒帽をかぶる事で隠そうとする。
「カノンさんは?」
「病院です。さっき送ってきたばかりなんですよ。今日は半日かけて検査だそうです。待っていたら、邪魔だからさっさと帰れって、ドクターに叱られましてね。仕方なくここへ。ああ、そこは暑いでしょう? お座りになられますか?」
 デッキチェアの横を叩いたが、騎士であった女性はやんわりと拒絶した。
「すぐに戻るからいいよ、気持ちだけありがたくもらっておくね……それにしても、ドクターねぇ……女性の方だよね?」
「ご存知なのですか?」
「一昨日の夜、カノンさんが深夜まで談話室にいたからね」
 クラシスは舌打ちしそうになるのをかろうじて堪えた。レディの前で舌打ちなんて、紳士にあるまじき行為だからだ。
 確かに一昨日、主治医であるリリ・レイランのところへ打ち合わせで電話をかけていた。打ち合わせの電話が思いがけず深夜にまで及んだのは、二人が同じ師に学んだ学友でもあるからだ。忙しい病院の中では話せない思い出話に会話が弾んでしまった。あの時、カノンの姿が見えないと思ってたら……よりにもよって、マンションの談話室とは。
 なんて説明しようかと考えていると、エマが唐突に――苦笑しながら呟いた。
「抱っこ」
「?? はい??」
「カノンさん、『最近の船長は抱っこしてくれる』って喜んでいたよ。前はしてくれなかったって」
「あ……あははは、そんな事まで言ってましたか、あいつ。お恥ずかしいことです」
「まあ、ウォリーにまで抱っこされてるのを見た時は、少々面食らったけどね」
「う、ウォリーまでいたんですか? 困ったな……次に会った時、何を言われるかわからないじゃないですか」
 ここの管理人の義兄に抱きかかえられてるカノンを想像したが、なんだか変に複雑な気分になるクラシスだ。どちらに対しても好意を持っている分だけ、なんだかのけ者にされたような気分でもある。
「船長さん。人にはいろいろやり方があるだろうけど……躾も大事だけど、甘やかすのも大事だよ」
 エマはわずかに眉をひそめながら続けた。
「抱っこしてあげたり誉めてあげるのも、子供に対しては大事な躾の一環なんだから。クラシスさんにも考えがあって『座る時ぐらい、自分で座りなさい』なんて言うんだろうけど、私から見れば少々厳しいもんだよ?」
 ああ、もう!
 クラシスは頭を抱える。仕方のない事だが、住人はみんな、『五歳のカノン』しか知らないのだ。いつぞやなどカノンがクラシスの子供じゃないかと疑われたぐらいで。大体、あの道化師がいくつもの"大人の"姿を持っていると知っていたなら、こんな忠告を受けずに済むのに。
 もっとも……今は事情が少々違うらしいが。
「ああ、エマさん。実は一昨日、ドクターに同じような事を言われたばかりなんですよ。よく肝に銘じておきます」
 一昨日の電話でレイランに叱られたばかりで、またこうして忠告されるとは。
 そんなに冷たい態度で接しているつもりはないのだが、女性から見れば違うらしい。それともこれは、女性特有の連帯感のなせるわざなのか?
 一瞬、クラシスの脳裏にある子供が言っていた話が思い出される。大人になる時は、大人の人が子供に「とっても大事な事」をこっそり教えてくれるのだそうだ。教えてもらえると大人になるんだとか。
 もちろん、そんなはずはないと笑い飛ばしていたクラシスだが、こんな風に子育てについて十字砲火を、しかも同じ内容の忠告をくらってしまうと、もしかして大人の女性になる為に『大事な事』を、特に子育てに関する事は一律全部、女性達はこっそり教えられているんじゃないか――そんなありえない事さえもあるような気がしてくるから不思議だ。
「クラシスさんもいい歳だから、お付き合いする女性の一人や二人いるのは仕方がないけど……カノンさんを悩ませるような事はしない事だね。子供っていうのは、意外に鋭いもんだよ? 特に女の子は」
「どういう意味ですか、それは……」
 誤解もここまでになるともう、苦笑するしかない。どうせカノンが何か焚きつけているんだろう。誤解を解く気にもならない。完全にお手上げだ。
 下からの視線に気づいて顔を向けると、ルンペルと目が合った。かの犬は、視線が合った途端、つまらなそうに大きなあくびをして見せた。とてもつまらなそうに。


 カノンの主治医であるリリ・レイランは、それらの話を聞いて笑いを堪えられないらしく、急いで口元を押さえた。
「私とクラシスが? アハハハハハ、おかしい! どう考えたって、そんな関係にはならないわよ!」
 小顔のすっきりとした顔立ちにスクエアフレームの小さな眼鏡、ブロンドの髪を東方風に束ねたいつもの彼女のスタイル。白衣の合わせから無防備に覗く胸の谷間は、計算ずくなのか無頓着なのか、見る者に均整の取れた肉感的な肢体を想像させる。その姿に向かって、クラシスは憮然としたまま返した。
「笑い事じゃないんだぞ。マンション内での私の信用にかかわるんだから。久しぶりにこの街に戻ったら、住人さんも増えてるし……前途多難とはこの事さ」
「でもおかしくって。あんたが師匠以外の女に興味ないって、彼女の弟子なら嫌でも知ってるのに」
「……仕方ないよ、マンションの人達は師匠と私の関係なんて知らないんだから」
「じゃあ諦めなさい。これを機に、カノンにはできるだけ優しくすることね。変な噂をたてられたくなかったら。あの子は伊達に『道化師(トリックスター)』じゃないわよ?」
「してるよ、十分すぎるほど優しくしてるさ」
「本当にそうならカノンにこんな症状はでないはずじゃない。少なくとも、あと数年間はね」
 それを言われると、何もいえない。
 カノンの症状は、一種の自律神経失調症なのだそうだ。彼女が『道化師』として取り込んだ知識、様々な人々のクセや動作などのデータが、彼女の体の許容範囲を超えてしまったらしい。もちろん、彼女はそれらのデータを昇華する術を持っているはずなのだが、クラシスとの生活――危険な航海やトラブル続きの商いによるストレスが、昇華に使用するはずの彼女の時間や神経を奪ってしまい、最終的に体調の変化となって現れてしまったそうだ。
 本当なら様々な兆候があったはずなのだが、見栄っ張りのカノンはクラシスにそれを隠し通してしまった。クラシスが気づいた時には、変調をきたした神経の暴走で息もろくに出来ず、熱と痙攣の波に死をまじかに感じたまま倒れていた。あの、何にも変えられないモノを失う予感にゾッとした瞬間をどう説明すれば他人に伝えられるのか……今のクラシスにはわからない。
「大体、私は反対だったのよ。貴方にカノンを任せるのは」
 女医はカルテを眺めながらぼやく。
「みんなで暮らしている間は、貴方がろくでもない事をさせようとすればみんなで止める事もできたけど……今じゃ完全に野放しだもんね。いくら師匠の命令でも、やっぱり腑に落ちないわ」
「私だって腑に落ちない。なんであいつに張り付かれてなきゃいけないんだ? 何をするにしても、やりにくくてしょうがない」
「わからないの?」
 驚きにクラシスは女医の顔を眺めた。
「……わかるのか?」
「まあね。師匠の性格を考えれば、誰だって――」
「じゃあ、教えてくれ。私には彼女の考えが全くわからない。どうして……少なくとも表面的には仇(かたき)である私に、自分の子供を預けるようなまねをするんだ?」
 レイランはマジマジと、兄弟子であるクラシスの顔を見つめた。たっぷり三分間は眺めた後、信じられないように
「わからないの?」
「わかっていたら聞かないだろ」
 再びレイランはクラシスの顔を、飽きるほど観察。彼の言葉が冗談じゃないと見て取ると、呆れたように首を振った。
「カノンが何度も言ってる意味が、よ〜くわかったわ」
「何の話だ?」
「この、ちょ〜鈍感男」
 カノンの口調をマネをしながら、レイランは手にしていた万年筆で、クラシスの胸を突いた。
「そんなんじゃ、いつまでたっても師匠の心を自分に向けさせる事なんてできないわよ? 例の事件をチャラにして考えてもね」
「あの時の事はいうな」
 ムッとしたように呟くクラシスに、レイランは肩をすくめた。
「時々思うわ……師匠の前に『彼』が現れなければ、貴方がカノンの父親になってたんだろうって。今でもみんなで過ごしたあの小屋が建っていて、こんな風にバラバラに過ごしたりはしなかったんじゃないか……って」
「リリ・レイラン」
 不吉さを滲ませる低い声で、クラシスは警告した。
「『彼』は存在したんだ……それは否定しがたい事実なんだよ。そしてカノンが生まれた。我が師・アキが彼を求め望んだのなら、僕はそれを尊重し守り続けるだけなんだ……彼女の決定に逆らう事は、この僕が許さない。たとえ妹同然の君であっても、だ。我が一族の名誉にかけて、僕は彼女の遺志を守り続ける」
 本気であると教える為、彼は自分の手にしていた杖を彼女の首に――ヒュンと風を切りながら突きつけた。
 レイランが黙って、自分の喉に軽く食い込んだ杖の先端を下目で眺めた。そして哀れみを含んだ目でクラシスを見つめる。
「カノンが苦しんでる事の一つは、大好きな貴方が『彼』(父親)を傷つけたからなのに? それでも貴方は、今でも師匠のナイト気取りなの? あの子の事はどうでもいいの?」
 沈黙。
 そして――
「……馬鹿じゃないの?」
 張り詰めた空気を破壊したのは、幼い少女の声だった。
「大人二人がいい歳してチャンバラごっこ? 呆れたわ、クラシス。レイランの冗談もわからないくらいモウロクしてんの? ママの色気に脳みその芯まで腐ってるんじゃない? それともこの陽気のせい? めちゃめちゃ暑いモンね」
「カノン――」
「ハイハイ、文句を言う前にレイランから杖を引いて。見てるだけで息苦しいわよ」
 五歳の少女は、着替えていたはずの検査室から診察室へ、トコトコと革靴を鳴らしながらやってきた。
「残念だけどレイラン。今回の私の病気と、ママやパパの事は関係ないわよ。ショックじゃなかったとは言わないけど、そういう事に感傷的になる時間は、とっくに終わっちゃったの」
「でもね、カノン――」
 レイランの反論を、小さな手をあげる事でさえぎる少女。
「自分の体の事は、自分が一番良くわかってるって。今回は誰かさんが私をこき使うから、ちょっと調子が狂っただけよ。……喉、大丈夫?」
 杖の食い込んでいた喉を手で押さえるレイランの顔を、小さなカノンは心配そうに見上げた。
「ごめんね。この馬鹿ガラス、ママの事になると手加減知らないから」
「私も知ってるわよ。わかってて言った私が間抜けだったんだわ。大丈夫、湿布でもしてれば、明日には元通りよ」
 女達は互いに笑いあい、クラシスは――呆然とその場に立ち尽くす。
 唐突に変わった場の空気に、彼は二人になんと声をかければいいのかわからなくなり……とりあえず、少女の名を呼んでみた。
「ええっと……大丈夫なのか、カノン?」
 カノンはチラリと彼を見ると――屋上で『チビデカ』がそうしたように――ぷいっとそっぽを向いた。無邪気を装って、レイランの胸に顔をうずめてる。
 なんだか、自分が酷く間抜けな事をしているような気分だった。



「抱っこして」
 レイランの医院からの帰宅途中に夕食をすまし、マンションに引き上げた途端、少女は当然のように要求してきた。
 仕方なく抱き上げてやると、少女は彼の首にしがみつく。
「ねぇ、今日はこれからどうするの? お仕事?」
「ああ、そうだよ。仕入れの計算とか……お隣さんから注文もらったし、仲介するにもいろいろ手続きが必要だしな。ああ、硝子工芸とオルゴールのカタログも整理しなきゃ……お前はさっさと寝なさい。お風呂に入ってからな。汗臭いぞ?」
「……相変わらずの鈍感男。女の子に汗臭いって、直球でいう事ないでしょう?」
「本当の事を言っただけじゃないか。なに怒ってるんだよ?」
 カノンを抱きかかえたままソファに腰をおろす。膝の上に移動させられたカノンは、ふて腐れて頬を膨らませながら、クラシスの胸を背もたれがわりに身を預けた。
「じゃあ、一緒にお風呂入ろうよ?」
「なんで――」
 なんでお前と一緒に入らなきゃならない――そう反論しかけて、彼は主治医の言葉を思い出す。
 『カノンをできるだけ、甘やかしてあげなさい』と。
 『彼女があなたに自分の体を相談できなかったのは、あなたが彼女を信頼しすぎたからよ』
 『彼女の中には確かに大人の部分もあるけど、五歳の部分だって当然、存在しているの』
 『五歳である彼女を優先してあげて』
 『それだけで、彼女の中には情報を整理する余裕ができるわ。彼女に余裕ができれば、それだけ発作もなくなるはず』
 エトセトラ・エトセトラ……。
 処方される鎮静剤と彼の甘やかしだけで治療になるなら、当然そうするだけだ。単純すぎて笑ってしまうが。
 だが、その単純な事が難しい。
「……どうしても、一緒じゃなきゃダメなのかい?」
「うん!」
 元気一杯に返答され、クラシスは大きくため息をついた。兄弟同然に育った二人だ。もちろん、風呂ぐらい何度か一緒に入った事はある。だが……最後に一緒に入ったのは、一体いつだったか。カノンが生まれてほんの数年の頃だ。その頃は、まだ彼女の中に"大人"の姿はなかった。だから気軽に"子供"として扱えたのだ。だから最後に一緒に入浴したのは、遠い昔過ぎて気が遠くなるほど昔の話だ。今更それをやれと言われても……。
「なに考えてるの? 顔が真っ赤なんだけど」
「別に」
「大丈夫だって。五歳のままでお風呂に入るから。それともロリコン?」
「違う。そんな事、考えもしなかったよ」
 クラシスはぶっきらぼうに答えつつ、サイドテーブルの上に並べた資料や帳簿を開き始める。
「なら、もう少し待ってなさい。急ぎの用だけ済ましちゃうから」
「うん、待ってる」
 カノンはじっとクラシスの手元を覗き込む。
 慣れない荷物を膝に乗せての作業は、意外に時間をかけた。帳簿にマーキングする動作一つにしても、カノンの肩が邪魔をする。少女の体を避けながら手を動かす事は、労働そのものよりも彼を疲弊させた。
 思うように進まない作業に、やがてクラシスは苛立ちはじめた。そのイライラに耐え切れず、ついに声をかける。
「なあ、カノン。仕事が終わるまで、ちょっとの間だけだから、どいててくれないか」
 返事はない。
「カノン?」
 また例の発作か?
 慌てて上から覗き込むと、少女はぽっちゃりとした頬を緩ませ、寝息を立てていた。半日検査をしていたのだ、精一杯元気な素振りをしていても、実際は相当疲れていたのだろう。それを彼に教えないところもまた、カノンなりの気遣いなのだろうが。
「おい、嘘だろ?」
 呆れながらも、彼はチャンスとばかりに彼女を抱えなおした。そっと立ち上がり、彼女の寝室に向かって歩き出す。起こさないよう慎重に慎重に、彼女を運びながら。
 クラシスにはどうしても理解できない美意識に支配された、レースの装飾とピンクに彩られた少女のベッド。そんな彼女の居城にそっと小さな体を横たえる。
 身じろぎ一つしない彼女に、クラシスは自身の繊細な手腕を自分で褒め称えた。子供を寝かしつける事ぐらい特に誉めるもんでもないはずなのだが……滞る作業のイライラから開放された事に満足した彼は、勝者としてカノンの額にお休みのキスをした。
「お休み、可愛いカノン」
 外見への賛美ではなくあくまで皮肉として囁いた言葉に、少女はくすぐったそうに顔を歪めた。



「……パパ……抱っこ……」
 クラシスの中で、子供っぽくはしゃいでいた気分が一気に吹き飛んだ。



 レイランの言うとおり、彼女はただの五歳児だった。少なくとも、今のこの瞬間は。
 五歳児が当然に受けるべき父親の愛情を、遠い昔のあの事件の日以来、カノンは受け取れなくなってしまっていた。そうしたのは、誰を隠そう、このクラシス・ホワイトムーンその人なのだ。
 過去に犯した自分の罪を見せ付ける少女が、今、彼の目の前にいる。目を瞑り耳を塞ぎ、それでも悪夢となって彼の睡眠を妨げつづけているその根源である罪が……目の前の少女に凝縮されている。
 いつもは気づかぬようにしていたその事実が、少女の寝言一つで彼の中に引きずり出された。
 一瞬にしてクラシスは次の行動を見失い、少女の寝室で途方にくれる。
 一体、自分は何をしてるんだろう? 一体、何をすればいいのだろう? 自分の罪を償う為に、彼は少女の為に何かをしなくてはならない、それも今すぐに――そんな衝動が彼の中に湧き上がってきた。
 誰にも見られていないのに、彼は誰かの視線を確かに感じた。それは彼の中の、罪悪感と良心の視線だったのかもしれない。
 じっと見つめるその目に耐えられなくなり、クラシスは意を決した。いつまで待っていても、この視線は消えやしない。まず行動しなければ。
 帳簿? 計算? 整理? そんな仕事なんて明日にでもやればいい。明日の昼寝の時間を使えばじゅうぶん間に合う。
 彼は燕尾服のジャケットを脱ぎ捨てた。シャツ一枚とズボンの姿になると、少女の隣にそっと身を横たえる。
 常に手放さない杖を……彼はためらいながら、ベッドの脇に立てかけた。彼の母親の形見であり、愛する師匠から預けられた形見同然の品でもある、大事な大事な杖を。
 もっとも、自分には少女の添い寝はできるけど、抱きしめてやりながら共に眠る事などできない――それは父親の役目であり、せいぜい兄代わりでしかない自分のするべき事じゃないと、彼は勝手に解釈していた。
 そもそも、抱きしめてやりたくても彼にはその資格がなかった。彼女の父親を奪った手で、その父親の代理として彼女を抱きしめられるほどに鈍感な神経は、さすがの彼も持ち合わせてはいなかったのだ。
 だから彼は、自分だけにできる方法で彼女を抱きしめる。せめてもの罪滅ぼしに。
 普段はクラシスの中に収められている力を、一族が持つ空行く力を一気に解放する。
 自然につながり、空間に満ちる力を利用する為の道具が――蒼の光となって彼の肩甲骨から放射された。ちょうど昇ったばかりの朝日が光を投げかけるように、蒼い光が一筋二筋と周りにその姿を晒していく。光は巨大な羽と翼の様相を呈し、凝縮された魔的なエネルギーは末端で蒼い羽根の形で物体化した。
 そしてほんの瞬きする間に、角度によっては透明に見える蒼の翼が、ベッドの上に大きく展開されていた。
 末端の物質化した部分を少女に被せ、翼でそっと包み込む。大部分をエネルギー体で構成されている彼の翼は、翼の形状をもちながらも、不自然なほど自由自在に動く事が出来る。さながら大きな手で包みこむように、その神秘的な翼で彼女を抱きしめ――少女の寝顔を眺めながら彼は囁いた。
「お休み、カノン……お休み」



 今日の朝は自分がベッドにもぐりこまれて驚いたけれど、明日は彼女が驚く番だ。
 そんな風に思いながら彼もまた、今日の一日を終わらせるべく瞼を閉じた。



 もちろん彼は――翌朝、いつもどおり深夜に止まる冷房のおかげで、再び汗だくの姿で飛び起きるハメになる事など――すっかり忘れていた。



〈「船長のとある一日」・了〉



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