5・四月一日/午前
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 春が訪れていた。
 冬の間は真白な身で眠り続けていた芝が若々しい緑の葉で彩りを新たにし、新芽がやっと硬さ持って枝に張りつきはじめた。もう少し日を過ごせば、はしゃぎだした風は春一番と呼ばれて駆けまわるだろう。
 新たな生命が、見渡す光景の様々な場所で、柔らかな日差しの微笑むような恩恵を受けていた。
 そして、シラトスの丘に建つ二階建ての長屋――すなわち近隣の村からは『魔女の園』と呼ばれているこの場所にも、その恵みが訪れている。



 桜や林檎の木が植えられた『魔女の園』の庭先で、「暁の平原」一族の戦士であり、女魔術師ティルマ・アギエの八番目の弟子であるンドゥネ・ミタララは硬直していた。
 十三歳の、やっと大人になりかけた体全体に緊張が走っている。鍛え上げられたその腕の筋肉はピンと張り詰め、拒否の形に開いたまま――でもどうすればいいのかわからず、空中をさまよっている。
 そのミタララの足元で響き渡る声。
「ねぇ、どうしよう? どうしようかな? どうすればいいんだろ? ねぇ? ねぇ?」
 突然木の上から降ってきて、彼の足にすがり付いてきた細身の大男。そのうろたえて上ずった声は、ミタララの様子とは表現こそ違ってはいるのだが、負けず劣らず困り果てた者のそれだ。
 ミタララは褐色の肌を驚きのあまりに赤らめていた。そして恐ろしい事に、彼は戦士にあるまじき行動――両の足裏を地面にぴったりと張り付かせ、その場に立ち尽すという、『不自然な動き』を続けている。
 戦士の常として、彼は人に触れられるのを極力避けていた。相手が同性異性であるを問わずに触れぬよう心がけ、それによって身を軽くし、食事と生理現象時以外には常に動き続ける事――それが彼の一族の教えであり、マナーであるからだ。
 その彼が動けない。
 一度だけ、ミタララは短く刈り上げた赤の髪に手をやった。頭部を手で撫でるとべったりと湿る。溢れた冷や汗は手の上で流れ、地面に落ちた。慣れない状況に、身体が拒否反応を示しているのだ。
 だが足元にすがりつく大男は――姉弟子達が口をそろえて言うに「最低の鈍感男」の名に恥じず、ミタララの引きつった顔に気付かない。
 栗色の髪をミタララのズボンに押しつけてくしゃくしゃにしながら、薄紫の瞳を潤ませる。
「頼むよミタララぁ〜、どうすれば冷静で居られるんだ? 教えてくれよ!」
 それは兄弟子であるクラシス・ホワイトムーンだった。ミタララの知る限り、最もいい加減な戦士。
 「暁の平原」一族同様ティルマ・アギエに仕える他の一族の出身であり、その長にして出奔者。ティルマ・アギエの最初の弟子。一族を統べる大神官の未来を持ちながらその地位を捨てた男だ。
 ミタララは彼を蔑視している。伝統を重んじるミタララの一族の目には、長の地位を捨てたクラシスの行為は全く信じられない愚行に映っていた。血のつながりによって科せられた使命とは、自らの魂にかけて実行すべき聖なる試練である。ミタララたちにとって、その試練を放棄したというのは、自らが邪悪だと認めたのと同意義なのである。
 同時に、ミタララは彼を尊敬してもいた。戦士の一族であるミタララにとって、クラシスの人ならざる運動神経と並外れた筋力、血によって継承された本能――彼ら一族のハンティング技術、戦うのに有利となる見上げるようなその身長は、実に理想的な「戦闘生物」であり、美の一端を担う調和であり、それは尊ぶべきものであったからだ。
 その戦闘生物としての証拠に、我に帰ったミタララがいくらもがいても、クラシスは足から離れない。というか、足一つ満足に持ち上げる事が出来ない。クラシスの身体の大きさと筋肉の重さもあるのだろうが、それ以前に、絡み付く腕によって足の関節が完全にロックされているのだ。クラシスはその血筋と伝統の継承によって、無意識の内に、人間の身体をどうすれば締め上げ固定する事ができるのかを知っているのである。
 その体勢でクラシスは喚く。
「ねぇ、頼むよ。僕、どうすればいいかわかんないんだ! どうやって待っていればいいんだ? 僕らにできる事って本当に無いのか? これから僕たち、どうなっちゃうんだろうッ! っていうか、どうやって接すれば良いんだッ!?」
「待て! 待て待て待て! 少し落ちつけッ!」
 自分より確実に年上であるクラシスに対して、ミタララは急いで両手を突き出した。
 ……制止の動作にも見えるが、直前まで雷撃術を発動させるつもりだったのは内緒だ。
「『少し』ぐらいなら落ちついてるさッ!  じゅうぶん、『少し』なら十分落ちついてるッ! でも『少し』でしかないから、君に助けを求めてるんじゃないかぁぁぁぁぁッ!!」
「あげ足を取るな! 興奮すんな! 筋道たてて話せ! そして離れろッ、話はそれからだッ!」
「誰が興奮してるってッ!?」
「お前だ、お前ッ!」
 もう一度足を持ち上げようともがく。そんな二人の横を「あらあらあら……」と洗濯物入りの大きなバスケットを抱えたパエラが、よろよろよたよたと歩いていく。
 パエラはクラシスに次いで二番目に弟子となった姉弟子である。師匠の使いで遠出したり、そもそも理論的な事はさっぱり忘れてるクラシスに代わり、他の者たちの勉強をよく見ている世話焼きな女性でもある。
 そして彼女はミタララの仮師匠だった。仮師匠というのは、師匠に成り代わり、初歩の学問を教える教師役だ。だが、ミタララは心中不満で仕方が無かった。
 はっきり言ってミタララは、彼女が苦手だったのだ。
 師いわく「お前にはパエラぐらいのリズムが調度よい」との事なのだが、そのリズムとやらが、ミタララにはどうしても理解できない。
 何事ものんびりとこなす彼女は、動き続け早さを求めつづける戦士のミタララには、自分より劣った人間に感じられてしまうのだ。そんなミタララが見下している彼女に「ダメよ〜、これぐらいの読み書きはできなきゃ〜」なんて間延びした注意を受けると、屈辱と苛立ちに走り出したくなってしまうのが常だった。
 彼の一族のマナーが『動』ならば、彼女の人生哲学は『静』なのである。完全に水と油なのだが「それが互いに良いはずだ」と師匠は小さく笑う。「お前達二人が一緒にいるのを見守るのは、ここ最近の私の楽しみでもある」と。
 クラシスにしがみつかれたまま彼女を睨みつけるミタララに、パエラは物干し場へ向かいながら目を細める。青みがかった黒髪に、春の陽気が恐ろしいほどマッチング。見ているだけで眠くなりそうなほどほのぼのした空気が漂っている。
 ……ミタララの足元で喚く男とは正反対だ。
「貴方たち、あいかわらず仲が良いのねぇ〜。うらやましいわぁ〜」
「ふざけんな、パエラッ! このバカをなんとかしてくれ!」
「あらら、それが人にモノを頼む態度? 私、そんな風に教えたかしら〜?」
「っていうか、このバカ、なんなんだよッ! 何うろたえてんだ!?」
「不思議なこと言うわね〜。そんな当然の事ぐらい、聞かないで考えなさい」
「あ、逃げンなッ!」
「こう見えても忙しいのよ〜。兄弟が増えるんだもの〜」
 相変わらずよたよたしながら、パエラは物干し場の石段を登っていく。その背を見送りながら、ミタララは意外なキーワードに目を丸くさせた。
 ……兄弟?
 ミタララは足元にしがみついてる大男と視線を合わせる。クラシスは見ているだけでも憂鬱になりそうなため息を何度もつきながら、二人の会話が終わるのを大人しく――焦りで動かす指先はせわしなく――待っていた。
「……兄弟……って?」
「そ、そうなんだよ! 聞いてくれ、ミタララ。アキが……アキがね、アキが、アキが、アキッッッッッ!」
「わかったから落ちつけ! 恐れ多くも師匠の名を連呼すんな!」
「アキの名前をアキと呼んで何が悪いッ!」
「悪くないが鬱陶しい。アキに何があったか知らんが、それじゃ彼女の神経を逆撫でするだけじゃないのか、兄弟子どの。いつも師があんたに言ってるじゃないか、『殴る前に離れて、まずは自分を見て見る事だ』って。今のあんたはむやみやたらに産毛だらけの翼を振りまわして騒いでる雛鳥並だぜ?」
 努めて冷静に言い放つと、クラシスも我に返ったようだ。
「……そうか……」
「そうそう。まずはここに座って――」
「……君は僕を侮辱するって言うのか! 誰が雛鳥だ、僕は子供じゃないッ! 君みたいな本物の子犬に馬鹿にされるいわれはないぞッ!」
「え、ち、違――ッ!」
「どこが違うんだ、どこが! え!?」
 足からずるずると胸元へ向かって這いあがるクラシスに、ミタララは軽く眩暈を覚えた。この兄弟子、全く聞く耳持っていない。何を言っても無駄だという諦めが疲労の波となってミタララの肩を重くした。
 と。
 呆れつつクラシスを眺めなおしたミタララは、兄弟子のベルトの背中側に挟まれた杖――『紅月』に気付いて声をあげる。
「クラシス、『紅月』が落っこちたぞ? いいのか?」
「え!? え、え、ええ?」
 師から授かった大事な杖を慌てて拾い上げようと、ミタララから手を離して振りかえるクラシス。もちろんまだ背中に残ったままの杖を探して、地面へ視線をさまよわせる。
 その隙を見逃すほど、ミタララは間抜けではなかった。
 即座に足を中空に引く。弧を描きつつ力一杯叩きつけた足の甲は、クラシスのこめかみへ。
 ヒットした途端、腹の底にまで届く手応え。そして動きを止めたクラシス。
 沈黙。
 しかも長い。
 ……あまりに長い硬直時間に、流石にやりすぎたかなと不安になったミタララだ。
 やがて、兄弟子がゆっくりと動き出しはじめた――が、もう一度ミタララへ向き直ろうと身を捻りつつ、どうと横様に倒れる。それを見てホッと息をつくミタララ。
 彼の腕から解放された事で、あらためて汗が全身から溢れる。いかに兄弟子の恐慌状態に恐怖していたのかを実感するミタララだ。
 クラシスが本気で怒ったら――彼がその本性たる翼を使い始めたら、戦士の一族とはいえどこまでも人の身でしかないミタララに、万に一つの勝ち目も無い。オマケに、相手は既に魔術師としてのお墨付きをいただいた一番弟子である。腕力と技術の差を補う術はまるでない。せいぜい、相手の隙を突くことぐらいだろう。
 だが、幸いクラシスは『人間』である事が好きな変わり者であるし、重ねて、正規の戦闘訓練を受けた者でもないから――本能的に知っている技術は別としてだが――『人』である彼の隙をつくのは、『暁の平原』一族の戦士として育てられてきた生粋の軍人たるミタララには、造作もない事なのである。
「あらら、今回もクラシスの負け?」
 何か忘れ物でもあったのか、物干し場から手ぶらで戻ってきたパエラが、二人の横をトテトテ歩きながら笑う。
「これで二十三勝四敗五引き分けね〜。……あら、数字が連番? 縁起がいいこと」
 ノンビリと――気絶しているクラシスの事などお構いなしに――パエラは立ち去っていく。医学を専攻しているが為に、彼女もわかっているのだ。空を行く者の一族であるクラシスが、ミタララの一撃ぐらいで大事になるような柔な体を持っていないことを。
 ……まあ、急所への不意の一撃には耐え切れずに気絶したようだが。
「やっぱり仲いいんじゃないの〜。遊んでもらって良かったわねぇ、ミタララ?」
「ふざけんなよ、パエラッ! 見てないで、コイツ運ぶの手伝えよッ!」
 見かけよりも引き締まった筋肉のおかげで、ヘタな材木よりも重いクラシスの身体を――兄弟子の顔が地面でズリズリとこすれるのも構わず引きずるミタララだ。
 こんな庭先で気絶している姿を放置しておいては、師の力を借りる為にやってくる近隣農村の人々がやってきた時、無駄に驚かせてしまうに違いない。なるべく早く、せめて建物の側に立っている庭掃除道具の詰った小屋にでも放りこまなければ。
 だから〜と、ミタララをイライラさせるのに絶妙なスピードで、パエラはたしなめる。
「人にお願い事をする時には、ちゃんとそれ用の言葉を使いなさいってば〜。それと、それぐらいの荷物、一人で片付けなさい。それもお勉強の一つなのよ〜?」
「あああ、もうッ! もっとシャキシャキ話せよッ!」
「貴方こそ、もう少しゆっくりしたら? 急ぐからいろんなものを見落とすのよ? わかる?」
「何だと?」
「だってそうじゃない。どうしてクラシスがうろたえてたか、わかってる? ゆっくり話しを聞いて、ゆっくり動いていれば、わからないままじゃなかったはずよ?」
「……」
「ね? なんでも急ぎ過ぎなのよ。気絶させるより先に聞き出さなきゃダメじゃない」
 アハハと声をあげるパエラを、ミタララは頬を膨らませて追いかけた。
 ……放りだしたクラシスの身体が変な音と変なねじれ方で地面に叩きつけられたことは、あえて無視する。
「じゃあ、教えてくれよ。師匠に何があったんだ?」
 クラシスが取り乱す事――まずは親愛なる師匠の身に何かあったとしか思えない。
 パエラはウフフと、意味深に笑った。
「夕方までにはわかるわよ」


「夕方? 何の話?」


 不意に空からかけられた声に、ミタララは跳び上がって身構えた。パエラは呑気にも「あららぁ〜」なんて口元に手を当てて笑う。
 ちょうど二人の真上、屋根裏部屋の天窓からひょっこり顔をだしていた色白の男は、パエラとミタララに向かってニコニコしながら手を振った。パエラが手を振り返すと気を良くしたのだろうか、ゆっくりと窓枠によじ登り、屋根板に脚をつけると大きく息をついた。
 いつもの事ながら、その人には気配が無かった。日差しが赤い屋根に照りつけているのが当然のように、彼がそこでキョロキョロと辺りを見回すのもひどく当然に見えた。
 夜に出るべき幽霊が間違って昼に出てきてしまったような、そんな曖昧な不自然さが、逆に自然であると感じられる――そんな男だ。
「『主』(マスター)〜、そんなトコに登っちゃ、危ないですよ〜」
「うん、わかってるよ。気をつけるから」
 平凡でとぼけたその顔は、まるで笑みを作る為に存在しているようだ。無表情な師がこのマイペースな男を恋人にしたのは、ベクトルが違うとはいえ、同じように一面的な表情でいるのが当然であるからかもしれない。
 そしてミタララは、彼を見るたび妙な胸騒ぎを感じてしまう。彼のかもしだす平和な空気が、戦士としてのミタララの本分をかき乱しているのかもしれない。
 ……もしかしたら、その平和の気配がパエラと近しいものを感じさせるせいなのかもしれないが。
 ただ、確かにいえるのは、自分は『主』をさほど嫌いではないという事だけだ。
 ミタララがいくら自分の直感を信じようとしても、胸騒ぎ一つぐらいでは彼を嫌いにはなれない。彼はそこまで子供ではなかった。その上、『主』のゆったりとした物腰にはのんびりしたパエラとは違って、どこか戦闘意欲をなくさせる不思議な部分が存在していた。それはミタララの不安をかき消し信用を得るに足りる、強く大きな力であり、到底抗えない類のものでもあったのだ。
「転んで落っこちて怪我しても、私たちは知りませんからね〜、師匠に怒られたって、絶対かばってあげないんだから〜」
「あはははは、そりゃ困ったなぁ。でもアキはこれぐらいじゃ怒らないよ。 ……ところで、二人とも。クラシスを見なかったかい?」
 「クラシスなら」と、ミタララも声を張り上げた。「ここでノビてますよ」
 『主』は一度だけ爪先立ちで伸び上がった。おそらく、屋根の先端が邪魔になって、大の字になっていたクラシスの姿が見えなかったのだろう。
 視認するのをすぐに諦め、『主』は苦笑した。
「な〜んだ。いつも屋根の上にいるから、今もここにいると思って登ってきたのに」
「『主』の作業は、もういいんですか?」とパエラ。
「うん、俺はもういいみたいだ。じゃあ、すぐそこに行くから、彼を引き止めておいてくれよ」
 いいね、絶対だよ――パエラとミタララを交互に指差して確認しながら、『主』は屋根裏部屋へ戻っていく。
「……珍しいな」
 ミタララは正直に、思ったままの感想を口にした。
 『主』がクラシスを探してるなんて。
 アキの命令で、クラシスが迷子になった『主』を探しに行く事はあったが、その逆は聞いた事もない。『主』はともかく、クラシスは彼を極力避けようとしていたし。
 二人は仲が悪い――ミタララはずっとそう思っていたのだが。
「仕方ないわよ」
 パエラが再び歩みだしながらいった。
「今日は特別な日なんだから」
「だから、それってなんだよ! 師匠に何があったってんだよ!?」
 地団駄を踏むミタララに、パエラは振り返りもせずに答えた。
「だからぁ〜、今日中にはわかるってば。貴方、ほ〜んっとにセッカチなのねぇ〜、ミタララ?」
「だからその話し方はやめてくれって言ってんだろッ!」


 〈「四月一日/午前」・了〉(「四月一日/午後」へ続く)



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