6・物思う共犯者
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「ありがとう、お嬢さん」
 ムー・ムスラ・テレスは、親切にも病室まで案内してくれた看護婦に礼をいうと、額から流れ落ちる汗をタオルで拭った。
 寝不足と脂肪で膨れ上がった顔と体は、涼しげな看護婦の横幅の二倍以上。揺れる腹についた余分な肉はズボンからはみ出しこぼれ、地面が恋しいとばかりに垂れ下がる。
「いや、こんなに遠いとは思わなかった」
「反対側の棟に向かって歩ってらっしゃいましたからね」
 にこやかに返す看護婦が、心中何を考えているかわかるような気がするムーだ。
 真冬も真冬の十二月に、頭から水蒸気を吹き上げながらうろうろしている巨漢に笑顔ならぬ笑いを堪えているに違いない。レイランと顔をあわせる度に言われる「そんなに辛いなら、痩せなさいよ」という残酷な一言も入ってるかもしれない。
 ムーの体内に設定された座標計測用の魔術は、看護婦と出会ってからこの病室までの距離を脳裏で点滅させている。その距離、約1759.3112メートル。やれやれとムーは肩で息をつく。自宅なら、手の届かぬ範囲に置かれたものは魔術で自動転送できるよう蓄力機を駆使したネットワークが張り巡らされているから、こんな風に動く必要がないのに。
 ノックしようとする看護婦を制して、ムーは荒い息の下、無理矢理笑った。もし眠っていたら可愛そうですから、と。二人でそっと、音を立てぬよう引き戸になっている個室のドアを開けると、どうやら横になっているらしい足元がかろうじて確認できた。
 もう一度目で礼を言ってから、ムーは立ち去る看護婦を見送りつつ、自分の息を整えようと深呼吸。既に重たいほど湿ってしまったタオルで汗を拭い、あらためてドアを引いた。
 できるだけ足音を控えようとしたムーだったが、すぐにその試みが用のない事だと気づく。
 ベッドの上には、真紅の長い髪をかきあげる立て膝姿の男が、物憂げに窓の外へ視線を送っていたからだ。白いガウンに外界の光が照り返し、ムーの目元を細めさせている。作り物ではないかと疑いたくなるように整った顔立ちは、ムーの記憶の中にある師の面影を湛えており、目の前の生物が自分の師の子供であるという事を嫌でも思い出させていた。
 それは同時に、この生物が常に『自分を見る者の、一番好ましい顔立ち』を相手に見せているという事実を思い出させる。
 真紅の髪の青年は、面倒そうに長い髪を白いリボンでまとめはじめる。リボンがどこから出てきたかなどムーは問いかけない。路上でお手玉する道化師が、どこからボールを取り出してくるかを詮索するのは無粋という物だ。ボールもリボンも、出せるからそこにあるのだ。
「珍しいな、あんたがこんなところにまで出てくるなんて。いつも投影ですませるクセに」
「カノンこそ、男性態で何をしてるんだ」
 別にと、青年は自分の膝に顎を乗せる。
「虫干しみたいなものかな? 随分長い間使ってないから、この体になれないんじゃないかって不安になっちゃってさ。ちょうど裸になって確認してた時にあんたたちが来たから、本当にビックリした」
「男性態は君の初期設定に含まれた情報だから、そう簡単には忘れないと思うけど、どうだね?」
「今は非常事態だから。児女態の情報まで圧迫されてんだ、確認しておいても損はないと思うけど」
「もちろんだとも」
 汗の流れる体をひっきりなしに拭いながら、ムーはベッドサイドにあった二人がけ用のソファに腰をおろした。付き人が泊まり込んで看病できるよう持ち込まれたものだろうが、ムーが使用すると一人分にしかならない。
「クラシスは?」
「知らないよ、あんな薄情者」
「まだ来てないのか?」
「来るわけない。来たってここに入れてやるつもりはないね」
 カノンはムーに体ごと向き直りながら、長すぎる自分の髪を一掴み握りこんだ。するりと、髪は頭部に収納されるかのように短くなり、リボンでまとめられた房は背中の辺りでふらりと揺れた。これでクルミちゃんぐらいになったかなという独り言の意味はわからなかったが、ムーは目の前の青年が、言外に兄弟子の話題を逸らしたいという意図は汲み取る事ができた。
 それではその意向に沿ってやろうと、ムーは抱えていた書類ケースと一緒に口を開く。
「レイランから説明は聞いたかな?」
「心療内科的な部分はね。パエラがいたら、もっと身体的な部分から説明してもらえるんだろうけど――」
「彼女は今、自分の体の方で手一杯だから」
「パエラと会って話はした?」
「いや、魔紋回線だけ。今の彼女と連絡を取るには、それが一番だし」
「ふーん……」
 取り出された紙の束を、カノンは漆黒の瞳でつまらなそうに眺める。
「どうしたの、ムー。全部脳みそにプリントしておく主義のあんたが、古風にも紙に手書きかい?」
「機器組み上げ用の義腕《ロボットアーム》を改造して自動書記機を組み上げてね、口述筆記させたものだ。記憶の強制排出の術式を組み上げて置いたから、寝てる間も口述していた」
「うわ、凄い間抜けだぜ、それ」
「効率がいいと思ったんだ。問題は、朝起きた時に喉がガラガラになってる事と、口の周りの筋肉が筋肉痛になるって事だった。それだけのぞけば、概ね成功だったと思う」
「そりゃあ、それで失敗してたら、目も当てられない」
「一番いいのは、魔紋回線にちょっと手を加えて、君の脳みそに直接印刷することなんだけど。レイランが魔術的な事を体に施すのは絶対に避けるべきだって言って聞かないから」
「私も大丈夫だと思うけどね。その分厚い紙の山を読めって言われるよりは」
「最終的に、君の脳みそにプリントされる時に〈継続相方位干渉炉《シンクロニック・ライドヒーター》〉が使用されるんだから、こんな気遣いは無用なはずなんだが」
 ムーは渡された紙の束と積み上げる束の山を交互に見つめるカノンが、とても嫌そうに眉をひそめるのを変な気分で眺める。目の前のこの青年と同じような顔立ちをしている師が、こんな豊かな表情を浮かべたことなどなかったからだ。
「そういえば、カノン、トレイルはどこだ? さっき会議を解散した時に見たきりなんだが、君の付添い人じゃないのか?」
「さあ? 間抜けガラスのお守りでもしてるんじゃないか?」
「……あの子はなかなか頑張ってくれてるな。『白月』の修理も大分進んでた。実戦系の方が肌に合うようだけど、例の暴走が収まらないようなら、我々学者系直弟子でも十分やっていける」
「そうか。あんたがそういうなら、随分いい腕持ってるんだろう……では、全ては母の意図したとおりの展開、か」
 怪訝そうなムーに向かって、カノンは爪を噛みながら説明する。まるで拗ねた子供のように。
「トレイルは『例の事件』で狂った因果律を変更する為に加えられた、イレギュラーな〈十二師〉だった。だから小規模だが〈越境次元神種《トランス・シード》〉も有してるし、事態を修正する為に広範囲に渡っての才能も与えられてる。母は最終的に、〈十二師〉の知識と術を全て彼に継承させる事で、この世界からクラシスを含む〈十二師〉を撤退させるつもりだった……まだ父も母も〈十二師〉という手足を必要としているのは間違いないからな。私の〈継続相方位干渉炉〉の反応を見れば裏づけが取れる。だけどまだまだ今のトレイルでは――」
「精神的に未熟すぎる、かな?」
 ムーの指摘に、カノンは厳しい面持ちで頷く。
「アレはあまりにも潔癖すぎる。このままでは、何かの拍子に我々へ反旗を翻してもおかしくない。特に、父と母のこの世界における役割を知られたら――」
「あまりぞっとしないジョークだな」
「アレは危険な生き物だ、人の枷を振り切った時のクラシス以上に。一生懸命な弟弟子を可愛がるのは構わないが、それだけは心に留めておいた方がいい」
 ムーは目の前の生き物をあらためて瞳に焼き付ける。
「なるほど、伊達に『神の子』ではないのだな、カノン」
 その言葉に、カノンは驚くほど早く反応した。まるで飛び散った火花を避けるかのように。
「よしてくれ。『神』の概念がどれだけ曖昧で作られたものなのか、ライルが大陸教会を手玉にとってクラシスを陥れた事を考えてもわかるだろう? 母は決して『神』ではない、クラシスが何度も指摘しているように、ただの人間だ。そして私も、〈人格波動〉値を自在に収拾、変化させる事ができるだけで、人に等しき存在でしかない」
「君《男性態》にしては随分饒舌な事だ、クラシスの悪い癖がうつったんじゃないのか。……だがどうして今、私にそんな事を語る?」
 カノンはフフフッと、思わせぶりな少女の仕草で目を伏せる。
「君を共犯者にしたいんだよ、ムー」
「ほう?」
「私にもしもの事態が起きた時、父たちやトレイルの事を観察し、判断できる人間が必要だと思ったから」
 君は良くも悪くも中立の立場で、為すべき事を判断できると信じる――カノンは力強く頷いた。自分の確信をムーに伝えようとするように。
「もしも、か……共犯者?」
 ムーは知っている。カノンの体の変調が、情報過多によるものである事をだ。
 『神の子』であるカノンは、『成長中の神』でもある。ありとあらゆる事象を、感情を、姿形を手に入れている最中である。出会った人物の全ての記憶と感情を一瞬にして取り込む事すら可能な存在であり、通常はそのデータを記憶の深い場所にストックしておく。だが、カノン自身は取り込んだ情報のほんの一部しか理解できない。喩えるなら、百個のチョコレートを食べたのに、一つしか食べた覚えがない状態だ。その状態が休む間もなく続けば、当然の事ながら体に変調をきたす。カノンの身に起きたのは、そういう事だ。
 だからカノンは、時に人払いをしなければならない存在なのだ。外界の情報を遮断し、自分の身の整理をしなければならない。自分の身を変化させるほどの情報量を、小さく畳みなおし仕舞いなおさなければならない。
 だが、クラシスもカノン自身も、それを怠った。
 それが神の子としてのカノンの未熟な点だった。カノンはあまりにもこの世界を愛しすぎていた。この世界の全てを常に身に感じ、常に人に触れていたかったのだ。
 クラシスもまた、人を愛しすぎていた。多くの人に裏切られた彼は、それゆえに人を信じたくてたまらずにいる。まだ人を信じられるように、ずっと人に係わっていたいのだ。
 空飛ぶ船で千年の幽閉期を過ごした罪人と、それを監視し続けた神の子の、全く同じ願い――自分の身もかえりみず、多くの土地と、多くの人々を知りたいという欲求が、今回の騒ぎの原点だった。
 ムーは汗を拭く手を止めて、カノンを眺めた。
 今、こうして物思いに耽るムーの情報も、カノンは無意識に取り込んでいる。ムーの情報の全てを手にしている。ムーの存在を全てコピーされているのなら、ムー自身の存在意義とはなんだろうか? ムーがいなくなっても、カノンさえ生きていれば、この世界にはムーという情報の塊は生き続けることになる。身体情報さえも、体を変化できるカノンには造作も無いことだ。
 ならば、もしカノンが全ての人間に出会い、情報を手に入れるとするならば、カノンという存在はこの世界に現れた人類という存在のバックアップ装置と化す。
 ムーは唾を飲み込む。
 クラシスが閉じ込められ、カノンが過ごした『白月』という船の存在を思う。
 注目するべきは、あの空飛ぶ船の持ち主が、クラシスではなくカノンであるという事実だ。
 女神ティルマ・アギエは、あの船を家族の為に作り上げた。大陸平定という事業を成し遂げた後には、三人の家族とその護衛であるクラシスの四人で、争いの沈静化した各地を巡る為に作り上げたものだ。
 その船の持つ蓄力機の魔紋は、カノンの魔紋に酷く似通っている。
 魔紋が似ているという事は、両者に共通したルーツまたは因果律が存在しているという証拠でもある。その共通項は、二者間の情報のやり取りを容易にする。
 ムーは記憶の中の図面とカノンの診断書と身体データを照合する。もちろん、ムーの魔術的な知識を総動員しても、『白月』とカノンの中を全て調べあげる事はできない。数々のブラックボックスを切り離し、推測し、曲がりなりにも結論を導きだそうと――いや、先に結論付け、会議で提案したことが間違いでなかったと確認する。
 カノンは魔術的三位一体と称される〈継続相方位干渉炉《シンクロニック・ライドヒーター》〉〈越境次元神種《トランス・シード》〉〈機構再生反応回路《リプレイ・サーキット》〉を体現した存在だ。つまり、外宇宙から操作される因果律を受け取り発信しなおす事や、他次元の情報とこの世界の概念を相互変換でき、崩壊した世界力場を再築再始動させる事ができる。
 その機能に足りない部分はないだろうか?
 『白月』は、主に巨大な蓄力機の塊であり、〈陰陽雷来《タオ・ライライ》〉と呼ばれるブースターを有している。このブースターは、クラッフェン核の反転作用によって発動する技術体系とランデット融合によって発動する儀術体系という相反する術を左右に配し、両者が交互に小規模力場を発生させ、ぶつけ会う事によって、〈純粋烈旋《ピュア・スパイラス》〉という魔術的推力を得る事ができる。この推力は『白月』の行動の基盤となる血液であり、その制動の全てを管理する術的プログラムを始動させるエネルギー源でもある。
 その能力に足りない部分はないだろうか?
 カノンが持っているのは、いくつもの世界の知識だ。
 『白月』が持っているのは、いくらでも増幅できる力だ。
 なぜ、この両者に魔紋という共通項が存在するのだろうか?
 ムーは心中眉をひそめる。
 突き詰めれば、人の体もただの物体だ。ただの物質でしかない。物と人の境目は、探ろうとすればどんどん曖昧になる。人が数秒単位で活動する炭素系生物であり、物が千年単位で活動するケイ素系生物であるという可能性も捨てきれないのだ。
 仮に、だ。
 カノンと『白月』が兄弟だったとしたら?
 魔術的観念から考えた時、非常に似通った存在であるこの二つの物体が、遺伝情報すら違えども、同じ目的によって存在する兄弟だったとしたら? 互いに足りない部分を補う存在だとしたら?
 『白月』が、カノンの身体を補助するべく存在するもう一人のカノンだとしたら?

 ムーは思考を停めた。余計な事を考えすぎた。

 元々、カノンを救う為にムーが考えたのは、カノンの記憶の一部を、『白月』に肩代わりさせることだ。カノンがかつて出会い手に入れたもの達の情報で、現在の生活に支障をきたさないもの――遠い過去の死者の情報などだ――をピックアップし、魔紋回線を通して『白月』に転送させる。『白月』の擬似人格にその管理を一任させ、カノンは今現在必要な分の記憶だけで生活する。
 その策に問題点がないわけではない。これによりカノンの〈継続相方位干渉炉〉が過剰に起動され、それによって〈機構再生反応回路〉が弱体化、健忘症または虚言癖に似た症状が引き起こされる可能性がある。また、カノンの記憶の吸出しがうまく行かなかった場合、それが記憶の上層部であった場合には、現在の生活に支障をきたすことも予想できる。それが軽度ならまだいいが、身体的な部分にまで問題を起こす事も当然に考えられるだろう。
 それを説明された時の兄弟子クラシスの顔を、ムーは思い出した。
 それ以外に方法がないという絶望に血の気を失い、手にしていた杖を会議室の机に叩きつけた彼を。
 認めないと彼は叫んだ。アイツをそんな目にあわせては、師に顔向けできないと。震える体は、師を失った時の彼の姿と同じものだった。憐れなほどに怯え、何かにすがりつかんとするかのように周りを見渡し、戦闘態勢の証拠に蒼の翼を放ち、しかしその怒りをぶつける相手も見つからずに己の肩を抱いた『空を行く者』。ムーよりずっと大きく均整の取れた肢体が、遠い昔と同じように酷く小さく見えた――それは数十分前の出来事だ。
 だが、ムーは告げざるをえなかった。では、あんたには他に何かいいアイディアがあるのかと。
 残酷な事だと知りつつも、ムーは宣言したのだ。
 今のカノンを救えるのは裏切り者のクラシスではない、師の知識を最も多く受け継いだ自分だと。
 師の判断に間違いがあったとすれば、それは唯一つ、クラシスにカノンを託した事だと。



 ふと物思いから冷めて顔を上げると、カノンがその大きな瞳を苦笑に揺らめかせてムーを眺めていた。
「相変わらずだな、ムー。何かひらめくと、もう周りが見えなくなってる」
「この悪癖だけはどの医者もお手上げでね。どれぐらい失礼したかな?」
「大丈夫、今回は三分ちょっと。いつだったかの三日に比べれば瞬きみたいなもんだ」
「あの記録は若かったからだせたんだよ。今はそこまで浸る前に戻ってこれるようになったから……腹の虫がでかくなって、生意気にも呼び鈴を鳴らしてくれるからね」
 なるほど、あの重低音が呼び鈴とはねと、カノンは力なく笑った。
「先のトレイルの話だが……カノンは私を『共犯者』だと、言ったかな?」
「ミタララがこの世に存在しない今、トレイルを抹殺できる技を持つのはナニーニかライル、そしてクラシスぐらいだ。ライルは例の副作用で療養中だし、おそらく一番簡単に始末できる立場であろうクラシスは、私の命令を拒否するだろう――相手は『シラトスの岩落とし』の時、一時《ひととき》でも自分の命と名誉を託した人間だからね、あの単純且つお人良しの馬鹿ガラスが、簡単にあの小僧を見捨てるとは思えない。となると、ナニーニしかいない」
 ナニーニ・プラージャは、ムーが仮師匠を担当したただ一人の弟弟子だ。好んで秘境や遺跡へ分け入っては調査を行う、いわゆる冒険家のような仕事をしている。他の〈十二師〉に冗談まじりで「修行時代に、ムーが変わった仕事や調査ばかりさせたからだ」と言われているが、あながちはずれでもない。
 そして危険な場所を好むが故に、ナニーニは仮師匠とは全く正反対に、スムーズに活動できる様々な技を見につけているのだ。そう、例えば一人の人間の喉笛を上手に掻き切る術などを、だ。
 ここでカノンが言いたいのは、ムーが仮師匠として、未だにナニーニへの強制力を有している事実であろう。
「悪い子じゃないのは確かなんだ」
 カノンは嘆く。
「だけど、丈夫な枝は折れた時に修復が効かない。歪められた正義感の行き着く先は、我々〈十二師〉の破滅だけだろう」
「……この先、絶対に折れはしないと信じてあげられないのかな?」
「アレが十三の時から観ていて結論付けたんだ。信じられないから、君を仲間に引き入れようと思っている」
 二百年の間眺めていて、トレイルの性格が簡単には矯正できないと察したという。つまり、カノンは最初から、トレイルがどのように成長するのか、監視していたのだ。
 それだけが気がかりだと、カノンはぼやいた。
「だから……やってくれるな、ムー?」
 ムーは握られた手を見下ろした。どうすればいいのかわからないまま、彼は分厚い手で華奢な若者の手を引き剥がす。
「それは――」
 ムーは知っている。
 もしこのまま何の処置もせず、カノンが自分の情報を上手く処理できなければ、カノン自身の情報が徐々に浸食されてしまうことを。カノン自身の姿と記憶が、他者のそれに塗り替えられてしまう事を。カノンがカノン自身を失ってしまえば、そこにいるのは――おそらく、人の姿も理性も持たない、幾千もの外観を次々と表出する不定形の怪物だ。
 それを目の前のカノンだと言い切る勇気があるだろうか?
「――それが君の、『今ここにいる』君の遺言なら、願いを聞いてやる事はできない」
 カノンだって全て知っているのだ。この病を乗り越えなければ、自分がどうなってしまうのか。
 クラシスだって知っている。〈十二師〉の全員が、つい先に解散したばかりの会議で説明されたのだ。
 ムーの言葉に、カノンはフーッと大きく息を吐いた。大げさな――そう、クラシスのように大げさな身振りで肩をすくめる。それでも表情を変えないムーに、カノンは真顔になった。

「私は死なない」
 圧倒的な強制力ときっぱりとした言い様は、まるでカノン自身の母親のよう。
「君が助けてくれると信じたいから……ね」
 哀願するような囁きと愚直なまでの信頼感は、まるでカノン自身の父親のよう。

 ムーは今更ながら、目の前の存在が自分の良く知る五歳児ではないと悟った。人知を超えた力を持つ二者の情報を受け継いだこの存在は、ムーの中から悲しく懐かしい記憶を引きずり出させる。あまりにも強烈なノスタルジーに、ムーは息をのんだ。自分が血の繋がり以上の兄弟と認識している人々の、誰も彼もが揃っていたあの小屋の記憶と、美しい師匠の静かな愛情を。
 彼は久しく忘れていた師への忠誠心がカノンの言葉に叩き起こされ、そのエネルギーが目の前の青年に注ぎ込まれるのを感じた。
 それはムーの中で、カノンを師の後継者と確認させた瞬間でもあった。


 〈「物思う共犯者」・了〉
 



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