13・復讐のかたち
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 空央がインターフォンを押すと、意外にもすぐに応答があった。ゴーグル越しの視界の端で応答のランプが付いたかと思った瞬間、どちらかといえば事務的な声が響き渡る。
『あいてるから。入っておいで』
 空央が一番驚いた事は、相手の声に張りがあった事だ。素面なのか。仕事中でなければ、いつもダウナーな奴を一発キメて、カウチで手足を投げ出してるのだと聞いていたのだが。前回対面した時――といっても、最初で最後の対話だったが――その時の、目の下に浮かんだ隈を思い出し、一人納得したものだ。
 言われるままにノブを捻り、重いアンティーク調の扉を押し開ける。木目を強調するだけにと丁寧に塗られた赤みがかったニスと金の縁取り装飾、そして翼を模した金属プレート。
 そこには、空央には到底読めやしない異界の文字で、この部屋の住人の名前が二つ刻まれている。知らぬ者が見ればただの装飾にしか見えないだろうが、この住人達と彼らに用のある人間の大半には有効な表札なのだろう。
 相手の男は――正確には、彼と一緒に生活している同居人との二人は、高級マンションの最上階の一画を占有している。金持ちなのだ――図らずも時価数億単位の物品をいくつも保有しているぐらいなのだから。
 そんな物品を手にしているカモフラージュの為に、本人は輸入雑貨商だと名乗っている。だが、それがある意味正しく、そしてある意味全くの詐欺であることは、一度仕事を依頼した空央自身が良く知っていた。
 とはいえ、以前来た時の印象は、思ったよりも質素な生活らしいというものだった。何がいけないのかわからないが、基本的に生活感を感じない。アンティーク家具のショウルームにやってきたような気分になるのだ。彼の同居人が比較的忙しい生活を過ごしている為か、それとも彼の同居人が綺麗好きなのか。
 少なくとも、これから対面する彼が、そういった注意を払う類の人間には思えない。これまた、一度刃物をかち合わせたことのある空央にはよくわかる。
 いくつかの扉を押し開けた、南側の突き当たりの部屋で、空央はゴーグル越しの目を反射的に細めた。
 眩しかったからだ。遮光も兼ねているゴーグル越しでも目を貫く光が。
 傾き始めた日差しが、ではない。
 蒼い光が部屋の中央で燃え立つように輝いていたからだ。
「こんな時間にこんな場所をふらついていていいのかい? まだ学校の時間だろ?」
 大きな、神の手のごときそれが、ばさりばさりと蠢いた。光の形作るその翼の形状に見とれていた空央への抗議のようだ。巻き起こる突風にたじろぐ空央に、彼は――その輝きの中心で、いつもと変わらぬクシャクシャに乱れた燕尾服に身を包み、気だるそうに片手を挙げて挨拶。もう片方の手は、腿の上で横にした杖を押さえている。この男がどんな時でも手放さない、紅玉の付いた黒杖だ。
「そう驚く事でもないだろ? 前に見せたはずだぜ?」
 背中から放出される力の塊、つまり光り輝く魔力の翼を自在に伸縮させながら、『船長』と名乗る男は空央に眠そうな笑顔を向けた。変わらぬ不眠症のせいか、それともいつものダウナーな嗜好品のせいか。
 空央は船長の同居人の姿を求め、室内を見回す。相手が船長だけでは、話が混乱するばかりで決着が着きにくいとアドバイスをもらったが為だ――船長と因縁の深い、空央の養母から。
「トレイル君かい?」
 空央の動きから察したのか、船長はすぐに答えをくれた。
「悪いけど、私は知らないよ。午前中に外出したまま帰ってきてないね。外での彼の事なら、君の方が良く知ってるんじゃないのか?」
 知らないわけではないが、空央の掴める範囲など限られている。世間ではまだ高校生の身分であり、財力も権力も限られている空央としては、どんなに早くとも半日遅れで情報を手に入れるのが精一杯なのだ。
「一緒に住んでるヤツほど知ってるとは思えないけどな」
「私はトレイルに監視されてるだけ。私は私の愛する女性から懇願されて、そしてトレイルは君のご両親からの命令で、ココに一緒に押し込められてるだけなんだよ。とりたてて仲良しなわけじゃないさ……赤の他人よりはずっと信頼できるけどね。少なくとも寝首をかかれる心配だけはない」
 空央が黙り込むのを見た船長は、ボサボサに振り乱していた髪をかき上げながら笑う。
「効果覿面だねぇ……そんなに嫌かい? アキヒト達の事を持ち出されるのは? それとも……『彼女』の事が?」
「まあね。一言で言えば、そういう意味になるな」
「私は君の、実のお父上の方が嫌いだけどねぇ」
 空央は叫び出しそうになる自分を必死で堪えた。以前対話した時には養父母達の話だけで終わったはずだ。そして、船長は空央の素性を何も知らずに依頼を受けてくれた。
 だが……空央の支援者が誰であるのかを悟られた以上、船長が興味を抱いて空央を調べようとしても、全くおかしな話ではない。ましてやその支援者と船長の間には、少なからぬ因縁があるのだから――そして、その因縁を知っていながら、以前と同じように彼を訪ねてきた空央は、少々認識が甘かったのかも知れない。
 衝動的に訪ねてきたのは失敗だったなと、今更ながら、自分の決断を悔やむ空央だったりする。
 船長は立ち尽くす客を横目に、懐から乾燥させた葉を数種類取り出し、一枚ずつ口の中に放り込んで噛み始めた。翼を持つ生き物であるこの男は、人間とは違った体質であるが故に特別ブレンドのドラッグを必要とするのだ。奥歯で味わうように噛みしめながら、魔物と呼ばれる類の翼ある人間は呟く。
「どうにも……私にはわからないね。人間の、その復讐心って奴が。お陰で相当苦労したよ。逃げ回るにしても、追っ手の行動パターンを考えるにしても、ね」
「……珍しく素面らしいっていうのに、そんなくだらない話を続けるのか? いつもダラダラしてるって聞いてたんだけど、随分おしゃべりじゃないか。トレイルから聞いてた話と違うぜ」
 空央がやっとの思いでそう口にすると、船長は片眉を皮肉下にあげて見せた。
「全くだね。今日はどうもハッパの効き目が薄い。フレーバーが感じられない。トレイルが乾燥させすぎたんだ、きっと。そのせいさ」
「ケミカルはやらないのか?」
「人間用のケミカルは好きじゃない。こうやって羽根を伸ばしている方がよっぽどアッパーな気分になれるんだ。それに、私の体を理解できる人間が居ない以上、私の体質に合うようデザインできるドラッグデザイナーなんて存在しないも同然だし。私も特にこだわりがあるわけじゃなくてね。半日ぐらいぼんやりしていたい時にやれる分だけあればいいんだ。トレイルのコレクションからくすねて間に合うなら、それで十分だよ」
 彼の言葉を信じるなら、翼を出している事が饒舌の根源らしい。
 空央は想定していた事態と違うことに少々面食らいながら、船長の勧めるまま、対面に置かれていた一人用のソファに腰をおろした。
 商談の際の空央は、ほとんど腰を降ろしたことがない。用心の為だ。高校生であると口に出さずとも、相手は空央の若さや未熟さを考慮し、破談の場合には処分してしまおうと考えるかもしれない。何事も一人で処理してきた空央としては、自分以外の味方が存在しない場所で、自由に動けない行動を選択することほど無謀な事はない。
 だが今現在、少なくとも船長は敵ではないと知っている。根拠は、空央の立場を理解しているという一言につきるが、それでも警戒せずに、落ち着いて会話ができることがわかる。
 船長が、空央を取り巻く環境に近づくつもりなど、ハナからないからだ。脳天気でしばしば感情的な行動をとる男だが、空央になんらかの危害を加えて、自分への悪意を呼び込むほどバカではない。
「さて……とりあえず、用件を聞こうか。また泥棒まがいの手伝いかい?」
 世間話のような語り口に――全く真剣に聞く様子のない彼の態度を目に、空央はためらった後、ゆっくりと切り出す。
「あんた達の使う、魔術って奴に興味がある」
 再び、船長の眉が片方だけニッとあがる。無言の催促に対し、空央は覚悟を決めて続けた。
「オレに、魔術を教えてくれないか?」
 船長は口をゆっくり動かし続けながら、じっと空央の顔を眺めている。今にも眠ってしまいそうな弛緩しきった顔だったが、先にあがった眉だけが話を聞こうという意思を表現していた。
「ダメかい?」
 重ねての催促にも、船長は表情を変えずに受け流した。背中の輝く翼がするりと消える。先端の物質化していた部分が、材質の知れない大きな羽根となって床に散らばった。
 黙ったままのろのろと立ち上がり、足取りは危ないながらも、手つきは習慣から来る確かさで茶を淹れはじめた。温めてあったらしいポットの湯を再度火にかけると、間をおかずに沸騰する音が耳に飛び込んでくる。ぼんやりとした顔つきのまま船長がティーポットの準備を済ませ、湧かしたポットの中身をゆっくりと移し替える。片手を抱えている杖に塞がれての作業だ、どうしても時間がかかる。湯気に交じって飛び出した容器たちの奏でる澄んだ音だけが、沈黙し続ける二人の間で小さく鳴り響く。
 二杯分だけの紅茶を淹れ、自分と空央の前に差し出した船長は――それでも口を開きそうにない。しびれを切らせた空央は、もう一度だけ口にする。
「オレを魔術師にしてくれないか?」
 船長は見せつけるように口元をモゴモゴと蠢かし、気だるそうに肩をすくめた。
「魔術が、なんの為にあるのか、君は考えた事があるかい?」
 不明瞭な発音で訪ね返した船長に、空央は知らないと首を振る。
「魔術とは、神の創りし正しき世界を、人の都合でねじ曲げる為に存在する技術だ。故にそれは正しき力ではなく、魔の術と呼ぶ――たとえそれが神の名の下に神の為に成された正しき目的を持つ力であっても、調和世界を乱すものは魔と呼ばざるを得ない」
 とても長い話を終えた時のように――ドラッグに意識をもっていかれ気味の船長の感覚では、実際に長い話をしたような気分なのかも知れない――大きなため息をついて息をあえがせる。
「私の一族は、神の計画を実行に移す為に、神と称される存在に創られた、いわば人工の種族だ。歪められた進化を持つ生き物であり、歪められた力と感化能力を持つ。本来存在しない生き物、故に我が一族は魔物と呼ばれる生命体に分類される。そして、その様に作られた我ら魔物は生物としての完成体の形で存在し、進化と呼ばれる生命活動を持たない。極微少な生態変化は見られるが、例えば、思考のパラダイムシフトが起る可能性は極めて低い。神の目的から外れる思考と活動の可能性は、人工生物として規制されているからだという……私の妹弟子の研究の受け売りだけどね」
 空央はわざと音高く舌打ちしてみせる。このまま話がずれていっては、いつまでたっても聞きたい答えが引き出せない。だからトレイルが居た方がよかったのにと、空央は今更ながら自分の判断を悔やんだ。トレイルが在宅ではないと知った時点で、引き返せばよかったのだ。
 空央の舌打ちに驚いたのか、船長は言葉を切って空央の顔を開ききっていない目で眺める。だが一度堰を切った言葉はなかなか停まろうとしない。
「人が魔物より秀でている部分があるとすれば、制限のない思考力と順応力だ。か弱いが故に進化できるという強み。その人が、神の制限が無い故に、神の紡いだ運命に逆らう為に魔術を用いるのは正しい。だが……君にはまだ、早すぎる」
「早すぎるっていう、根拠は?」
「君は自分のやっていることが正義だと信じている。必ず誰かの為になると信じて、秩序を乱し続けている。今はまだ小さな力だろうけど、それを拡大させる道具として魔術を使われては、たまったもんじゃない」
「オレ以上に秩序を乱している奴なんて、いくらでもいるだろう? なんでオレはダメなんだよ!」
「今の君は傲慢すぎる。死に急いでいると言っても良い。私はワガママだから、気に入ってる若者が死ぬところをみたいとは思わないのさ。少なくとも今はね」
 船長は口の中の噛み潰した葉を懐紙に吐きだして捨てると、自らの淹れた茶に口をつけた。作法も何もなく、一気に中身を空けてしまう。
 怒りのあまり言葉もなく睨みつける空央の瞳を、どんよりとした眼で受け止め続けながら、船長は常に手放さない杖を抱えなおした。
「トレイル君には相談したかい? アキヒトや、『彼女』には?」
「あの人達は絶対に反対する。だからあんたに頼んでるんだ」
 見くびられたもんだなと、船長はぼんやりとした笑顔を浮かべた。
「そもそも私には、君の教育なんかに割く時間なんてないね」
「いつも眠れない時間をもてあましてるのは、どこの誰だよ」
「それでも君に教える時間よりは貴重だ」
「ラリってるだけなのに?」
「君の申し出は、ラリってるよりもくだらないことだって意味だよ」
「オレは真剣に話をしてるんだぜ?」
「なら理解したまえよ。君の話は、第三者からみればとてもくだらない話だってね」
 我慢の限界を越えた空央は、席を立って帰ろうとした。魔術を教えてもらえないのなら、この男といつまでも話す必要はない。力のない自分には、やらなければならない事がいくらでもあるのだ。自室で無線傍受の知識を身につけていた方がよっぽど役に立つ。
 だが、空央は席を立つことができなかった。目にもとまらぬ早さで繰り出された黒杖の先端が、空央の左胸の横へ突き刺さったからだ。空央のシャツをソファに縫いつけるように。
 まだ話は終わってないよ――船長は不意に目を見開いた。薄紫色の虹彩から血走った血管がいくつも走っているのがはっきりと見えた。
「なぜアキヒトを信じない? なぜ『彼女』を信じない? なぜ自分自身を信じられない?」
 もがく事も忘れ、空央は船長を見返した。
 何かおかしな事が起っている。いや、おそらく空央が知らなかったのだ。この男が魔物であると宣言しているというのに、人間であることを前提で接していた。そこが間違いのもとなのだ。
「君の事はトレイルに調べてもらったよ。生い立ちも性格も、魔術的な立場も。『あいつら』――君も知ってるだろう? 『カミサマモドキ』だ――『あいつら』も私に接触してきたことがある。件の計画に手を貸せってね。丁寧にお断りさせていただいたが……。だから言える。君に魔術を教えるべき人物は、僕じゃない」
 魔術的な立場――その言葉に、空央の中で怒りが吹き出した。一度は船長の人ならざる気配に気圧されたが、怒りがその恐れすらも無理潰して膨れあがる。
 どいつもこいつも、魔術魔術魔術! それを知る術のない人間を差し置いて、自分が何でも知ってると言わんばかりに魔術を持ち出す。挙句、その魔術で定められた運命だとかぬかして、人の命を平気で食い潰す。何百人という人間が殺されても、魔術による因果だとぬかして、悪びれる様子もない。
 犠牲になった人間など振り返ることもなく、自らが正義だと言わんばかりに魔術を語る。
 その魔術を、自分が学んで何が悪い? 奴らに対抗するために、正義が何かと己の命でわからせるために魔術を学んで何が悪い?
 空央は杖を掴んだ。魔物である船長の力をはね除けることは出来なかったが、反抗の意思を伝える事は出来る。
「なら、誰がオレに魔術を教えてくれる? いつ、どこで? それがわかってるからダメだって言うだろう? わからないって言うなら、オレは納得しねぇぞ」
「わかると言ったらウソになるが、わからないと言ってもウソになるね。一つだけ言えるのは、君は一人で魔術が何であるかを知ってはいけないと言うことかな?」
「……仲間を作れってことか?」
「時が来ればわかるって事さ。『あいつら』がかつて仕組んだ事件と同じ事を繰り返そうとしているのなら、君に魔術を教える人間は『あいつら』が用意するだろう。君は『あいつら』のお膳立てを利用すればいい。裏を返せば、『あいつら』がお膳立てをするということは、それだけ君の重要性も需要性も高まっているということだ。その時まで我慢したまえ。そして利用するんだ。しかるべき時に反撃すれば、その効果は絶大なものになる。『あいつら』の計画が、ある一瞬の時を目指して動いているのならば尚更ね。だが今、君が一人で魔術という力を手に入れるのは危険すぎる。その力を今すぐにでも『あいつら』に利用されかねない。反撃するべき時も見いだせなくなる」
 納得いかねぇよと毒づく空央に、船長は杖を引きながら笑った。先に噛んだ葉の作用か、はてまた紅茶の作用か、船長は既に覚醒しきった顔で空央を笑っていた。
「じゃあ聞くけどね、アキオ」
 船長は唐突に身を起こし、空央の鼻と己の鼻がぶつかりそうなほど顔を近づけて囁いた。
「私に、君に魔術を教えた後、君が父親を殺す姿を黙って見てろっていうのかい? 君がこんな事を続けている原因である父親を、積年の恨みのまま虐殺する時が来るのを、黙ってみてろって?」
 そんな悪趣味な事はやだねと、船長は歯を剥き出しにした笑みを見せる。
「私が教えた技術で、一人の若者が一生取り返しのつかない事をしでかす姿を見てろというのか? 確かに君の父親のやったことは許される事じゃない。だけど、同じ事を繰り返そうとしている君は、もっと許されない。どうして人間は時々、信じられないほど愚かになるんだろうねぇ……忘れてしまえよ、あんなこと。君のやろうとしていることは、もしかしたらもう一人の君を生む行動なのかもしれないんだぜ? そして私の知る限り、人間は復讐を繰り返す。私の理解できない、復讐って奴をね。そして君もまた、もう一人の君に殺されるんだ。それを見てろって? 冗談じゃない!」
 空央の襟首を掴み、耳元で叫ぶ。
「どうしてもっと自分を大事にしないんだ? 君が幸せに生き延びる事、その事実が一番の攻撃だとなぜ理解できない? 生きて生きて、そして証明するんだ、君があの男の恐れていたような化物なんかじゃないって事を! そして悔やませるんだ、自分のしでかした罪を!」
 空央はあらためて悟った。この男は、自ら宣言したとおり、空央について何もかも知っている。自分と父親の間に起った事実を――父親が引き起こした事件と、その父親に空央が何をしようとしているのか、その為にどんな人生を送ってきたのか――全て知っている。
 知っている上で、何もしない。自分の義父――アキヒトと同じように。
 だが船長が義父と違うのは、船長なりの解決策を空央に押しつけてきた事だ。曲がりなりにも、空央の幸せを本気で願っている事を表明してきたところだ。空央が納得しようがしまいが関係なく。
 船長は襟首から手を離した。不機嫌ともとれそうな顔で空央を見下ろし、次いでため息をついた。ソファにもたれた空央を見て、反論する気力を失った事を理解したのかも知れない。穏やかに、念を押すように呟く。
「君の父親がやった事は、本当に酷い事だと思う。君がその被害者であることも、悲しむべき事だと思うよ。だけど、その為に君が彼と同じ事をするのは間違ってると思う」
 空央は引きつる喉を絞り、必死で声を上げた。何か叫ばなければ、自分が粉々にされてしまうような錯覚に陥っていた。涙がこぼれそうな気配をぐっと堪える。溢れてしまえばおしまいだと――今までの自分の努力が全部無駄になってしまうような気がして。それは心のどこかで船長の示す解決策を認めているが故の、痛みから来る感情だった。それを理解していてもなお、空央は叫んだ。今までの自分の為に。
「アイツは……アイツは――殺したんだ! みんな殺したんだ、これからも、オレの周りの人間を殺すんだ! そんな事はさせない! だから先に殺してやるんだ、そう決めたんだ!」
「ならば尚更、君がやろうとしていることはあの男と同じだ。違うかい?」
 船長は反論しようとする空央を片手で制し、彼の前に置かれたままだった紅茶を示した。
「冷め切ってしまう前に飲んでくれないかな? 私が茶を淹れる相手なんて、今となっては君ぐらいなんだから」
 どこまでもマイペースで、どこまでも我儘な男だ。
 空央は諦めて、茶に口をつけた。自分の勢いをそがれ、反撃する気持ちを折られ、怒りが霧散してしまっていた。茶はぬるい上に渋すぎて空央の口には合わなかったが、満足そうな船長の様子に文句を言う気も失せてしまった。
「……今日はもう、帰るよ。用もないのに長居する暇はないからな」
 そうかいと、船長はごく自然に、天気の話のように返答。何を考えているのか、再びぼんやりとした目で空になったティーカップを眺めている。
 それじゃと席をたった空央が、部屋を出るべくドアノブに手をかけた時だ。
「アキオ」
 心持ち優しげに、船長は彼の名を呼んだ。
「腹が立って自分が押さえきれない時、今日みたいに無力な自分が嫌いになった時……それでも君がほんの少しでも自分に期待したいと願うなら、またここにおいで」
 そこで不意に頭をかきむしり、なぜか非常に葛藤しながら、船長は告げた。
「私は誰かに肩入れするつもりはないし、君に何かの力を与えるつもりはない。だけど君の話を聞いたり、茶の一杯ぐらいは振る舞える」
 そして、肩をすくめてみせた。自分自身に呆れたといった風に。
「僕がここに誘うのは、君ぐらいだぜ?」



 暗くなってから帰ってきたトレイルは、出しっぱなしになっていた二つ分の茶器に目を留めて驚いた。
「お客さんでも来たんですか?」
 既にドラッグの影響で朦朧としていた船長は、肯定の意味で片手をあげて見せた。
「船長が客の相手なんて珍しいですね。明日は槍でも降るのかなぁ?」
「……相手が珍しい生き物だったもんでね……」
「へぇ? 船長より珍しい生き物なんて、僕も見てみたかったなぁ」
 ドラッグの効果で、おかしな幻覚でも見たのだろうと判断するトレイル。茶器だって二つ分用意して、二つとも自身で飲んだ可能性も、全く無いわけではない。今の船長なら、酩酊時にそれぐらいやってしまってもおかしくない。
「トレイル」
 間延びした発音で弟弟子を呼び、振り返った彼に向かってどんよりとした眼差しを向ける船長。真剣とも冗談とも言えぬ口調で
「あまり〈西方協会〉に深入りするなよ。私達の時代はもう二度も終わってるんだから」
「わかってますよ」
 いつもの小言と受け流しながら、トレイルは苦笑した。
「全く……船長は変なところで心配性なんだから……」
 その言葉は船長に届かなかった。既に彼は杖を抱え、ソファの上で眠れぬまま、薬物のもたらす平穏に身をゆだね続けていたからだ。
 いつもどおりの夜が来ていた。


<了>




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