12・森を抜ければ
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 どこを見渡してみても灰色だった。
 白ばかりと思っていた雪には影があって、その影は直ぐ側を同じように落下する雪に張り付き、そんな点の塊に覆われた視界は、白ではなく灰色に満ちていた。日は落ちていないはずだが、分厚い雪雲に覆われた世界は永遠にも感じられる停止した灰色の光に包まれ、光らしいものは地面を覆った白であり、それは吹雪の中でもぼんやりと眩しく、目蓋で溶けては凍り付く雪と同じぐらい目の奥を傷つけた。
 ベルー・メイは穴だらけで腐ったような匂いを発する毛布を体に巻き付けて、ただひたすら歩き続けていた。仮に後ろから追っ手がやって来るにしても、この猛吹雪の中では引き返すしかなかったに違いなく、その意味においては先を急ぐ必要などはなかったが、着の身着のまま――冬服とはいえ普段着に室内履き、そして例の臭い毛布一枚の身だ――の彼女がわずかながらも暖をとれそうな方法は動く事しかなく、家を追い出された今となっては安心して休めそうな避難場所を一人で探すしかなく、それ故に足を止めることはできなかった。
 雨を雪に変える冷気はどんどん彼女の体温を奪っていった。吐く息はすぐに凍り、手に吹きかけたそれは一瞬の熱の恩恵をベルーに与えた後、冷気の更なる過酷さを強調する意地悪な姿を見せた。指先の感覚はすでにほとんどなく、全身も痛みしか感じられなかった。雪は肌に刺さるようで、体中の血液は既に凍り付いているのではないかと思うほど刺々しい痛みを絶え間なく訴えていた。穴だらけの毛布は、どこにどんな穴が空いているのかを把握できるほど、彼女の体を雪から斑に守ったり責め立てたりしており、それでも彼女はこの一枚の布が自分を今まで生かしてきた品物だという事実をヒシヒシと感じ、そして感謝し続けていた。
 とはいえ、彼女には既に体力的な限界が近づいており、そしてこの絶望的な吹雪の中には彼女の求めるものは何一つない。彼女は自分の生命が潰える危険をイヤという程、身近に感じ取っていた。わずかでも風と雪をしのげそうな場所を探して、頭部に積もった雪だらけの顔をあげた。しかしその目線の先、前方に目をこらしてもこらしても、そこにあるのは黒い影法師である立木の群れと、灰色の雪と、吹きだまりの影を斑に散らした真っ白な地面だけだった。
 彼女は前方の黒い直立したモノ達の中から、一際大きそうな姿を目指して歩みを進めた。時間の感覚は既に無く、それと同じように、もはや剥き出しの臑は雪を雪とは感じなくなっていた。空気は全て苦痛を与えるものであり、苦痛は彼女が生きている証であり、彼女の精神を支えている唯一の事実が生きているという事を感じさせる苦痛だけであった。
 ふっと視界が開け、木々の中にぽっかりと開いた広場が現れた。森の中、ベルーも初めてみるような大きな木々が――見上げる余裕のないベルーにはどれほどの高さか見当もつかなかったが、その幹は大の大人が何人も手を繋がなければ抱えきれないほど大きなもので、波打つようにふくれあがった大小の根が絡み合い、雪の下からもがき出るようにその姿をベルーの前に晒していた。
 ベルーは考えることもできずに、ただ本能的にその根の中によじ登り、そして倒れ込んだ。物理的な痛みはすぐに冷たさに消えて行き、彼女は一度だけ、毛布を自らに巻き付け直して目を閉じた。
 この状態で目を閉じる事の危険性は承知していた。仮にもこの森の東の村で十四年の歳月を過ごしてきた少女だ。今、彼女自身の身を責めはじめた新たな敵――睡眠欲が、いつ死神に取って代わるのか、想像できないわけではない。だが彼女は眠りたかった。眠ってしまって、その先がどうなろうとも構わないと思っていた。
 どうせ元の場所には戻れないのだからと、既に自らの全てを投げ捨てていたからだ。



 彼女の父は、地元の名士だった。この大きな森――彼女の育った村では盗人森と呼ばれていたのだが――森の木々を伐採し、街へ運ぶ者達の元締めとして慕われていた。事業はまずまずの拡大をみせ、村一番の大きさを誇る赤煉瓦造りの家と何棟も連なる材木置き場を抱えていた。
 皆の先頭に立って働くことを旨にする父は、ほとんど家に寄りつかなかった。商談で村から村へと飛び回り、国境付近の田舎訛りと粗野な言葉を恥ずかし気もなく声高に口にする髭面を、ベルーはいつだって怖いと感じていた。
 それというのも、父は一度もベルーに優しい顔を見せたりはしなかったからだ。何もせずとも叱られ、殴られ、ベルーは父の姿を見れば物陰に隠れるようになった。その様を見ると更に父は怒鳴りだし、結局ベルーはビクビクしながら父の前で小さくしていることしかできなくなった。
 幼いベルーには到底わからず、今となっても原因や事情を知ることもできなかったが、父は愛すべき妻を、ベルーにとっては実の母を、長年疑い続けていた。つまり、自分が家を空けている間に不貞を働いたと思い込んでいたのだ。父にとってのベルーはその不貞の結晶であり、裏切られた情けない自分を思い出させる傷であり、存在を許すことのできない過去の亡霊だったのだ。
 母は罵倒だけではなく幾度となく暴力をも受け、それでも父の疑いを晴らすべく献身的に尽くした。母も父と同じ、この村の生まれ育ちで、訛りも粗野な言葉遣いも全く同じものだ。だが彼女の中の女らしさはそんな外見とは裏腹に、家庭を守るという一念に満たされていた。その一途さは、父の恐ろしさとは別の形の恐怖となって長年ベルーを責め立てていた。
 ベルーは大店の娘として恥ずかしくないよう、そして父が戦略的に娘を使えるようにと、街の言葉や作法を教え込まれた。教養も行儀作法も、街の商人の娘達に引けを取らないようにと都会から七人の家庭教師を呼びよせた。まるで貴族の娘に対する教育のようだったし、田舎の村の娘には不釣り合いな心構え――たとえば、盗人森の広大な森の先にある隣国ムシュラグラドの軍が責めてきて、武運なくその軍門に降らざるを得ない時には、潔く自決の道を選ぶ事、などだ――も含まれていたが、母はそれらを娘に仕込む事を喜んでいた。日に日に、自分の娘が自分たちとは違う世界の人間となって行くことを楽しみにしているようでもあった。
 家庭教師達が教授している間も、母はベルーがそれらの教養を理解しているのか、礼儀作法を身につけているのかを監視し続けた。母は母で父の疑念を晴らしたいと願い続け、ベルーを淑女として磨き上げる事に執着し続けていた。そうすれば父の怒りを受けずに済むと思っていたかのように、だ。
 ベルーの見ている限り、母はこれ以上無いほど父を愛していた。一介の材木問屋だった頃から二人で店を大きくしていったのだという話を、使用人たちの立ち話から聞いたことがある。そんな二人が、どうしてこんな状態になってしまったのか、誰にもわからない。ベルーが客観的に考えてみても、母は本当に、なんの不貞も働いていなかったのだろうと思うのだ。
 だが、父は疑いを晴らすこともなければ、晴らそうともしなかった。
 父は使用人達にも慕われていたが、その使用人達も、主人のベルーに対する扱いについてだけは心を痛めていた。使用人達と話す事は母が嫌がるので、数えるほどしか言葉を交わしたことは無かったが、使用人達は皆ベルーに好意的だった。廊下の端や窓辺で、聞くともなく聞いてしまった使用人達の会話を総合するに、どうやらベルーは同年代の女の子としてはとても厳しく育てられているのだと知った。自分が可哀想だと哀れまれる程、自由のない生活をおくっているのだという事実も知った。彼らの何気なく交わしていた会話が無ければ、ベルーは自分の境遇を当たり前と思いこんでたに違いない。父や母が憐れみ、慈悲をかけて毛布やパンを配ってやる使用人達、その使用人に更に憐れまれる自分の存在に、ベルーは愕然とした。
 だが、ベルーに出来たのは驚く事だけだった。彼女は幼い子供であり、父や母の目の届かない場所に逃げ出す事などできやしないと悟っていたからだ。仮に家を飛び出したとしても、広すぎるほど広い盗人森で迷子になれば誰にも見つけられず、近隣の村にたどり着くには地理に不案内であり、何よりも季節的に無理があった。雪と風が大地をなで始めた時期に、女子供が徒歩で隣の村へ行こうとするのは自殺行為だったからだ。
 自分は可哀想で、父にはいらないもので、母には手の中で転がす玉のようなもの――ぼんやりとその事を自覚しつつあったある日のことだ。
 ベルーはふと、着替えの最中に見下ろした自らの足下に息をのんだ。
 鮮血が足をつたい落ち、十四歳の彼女の体がいつの間にか少女から女になっている事を告げていた。
 初潮を迎えたことを母は喜んだ。直ぐにベルーに湯を使わせ着替えさせると、いそいそと父の前にベルーを連れ出した。彼女としては、ベルーが父の売買する商品の一つとなった喜ばしい出来事だったのだろう。これまでベルーを磨き続けてきた母としては、父から喜びとねぎらいの言葉をかけてもらえるはずの、輝かしい日であったに違いない。
 だが、父は烈火のごとく怒り出した。誉めるどころか「バイタがバイタを生んだ」と罵倒した。ベルーの教養と一体化した貴婦人としての美は、男を誑し込む術として身につけたのだと決めつけた。「いずれバイタになる腐れ女の、何を祝えばいいっていうんだ」――確かそんな言葉を父が口にした時の事を、ベルーは今でも忘れない。
 なぜならその時、母の表情が一変したからだ。それまで見たこともない程の冷たい目で、ベルーを振り返り見たからだ。
 母はすぐにベルーの手を引いてその場を下がった。痛いほど握りしめられた手首を振り回し、驚きに声もでなければ抵抗する事も忘れたベルーを引き摺り、その足で玄関のロビーを横切り、門を抜け、ベルーを突き飛ばした。雪が積もりはじめた地面に倒れたベルーが顔をあげた時、既に母は彼女に背を向けていた。門番にさっさと門を閉めるよう叱りつけている姿――それがベルーの見た母の、最後の姿となった。呼びかけようとしたベルーの前で、門番が目を合わせぬよう下を向きながら門扉を閉めた。
 彼女は、母にとってもいらないものとなったのだ。父の商品として認めてもらえず、それ故に母は絶対に父の疑いを晴らすことが出来ないと悟ったが故に、母はベルーを家に置いておくべき存在だとは認めなかったのだ。
 それはわかっていた。理解できていた。だがそれでもベルーは、何時間も門を叩き、中へ入れてくれるよう頼みの声をあげ続けた。雪は降り続き、着の身着のままのベルーの体は付着した雪に覆われ、それでも彼女にできるのは門を叩く事だけだった。村の人々は彼女のその姿を憐れみの目で眺めていたが、村の名士に目を付けられるのを恐れて、そそくさと散っていった。
 一度だけ、門がわずかに開いた。馬番と門番が、聞こえよがしに声を張り上げていた。
「こんな毛布、馬の毛磨きにも使えねぇな」
「だったら捨てちまえよ。今なら誰が捨てたかわかんねぇぞ」
「んだな。その辺に転がしておけば、雪に埋もれちまうしな」
 門の隙間から、腐りかけのボロボロの毛布が投げ出され、ベルーの横で雪煙をあげた。
 馬番と門番は、驚くベルーには姿を見せず、わずかな門の隙間から会話を続ける。
「しかし寒いな。風も出てきた。こりゃ吹雪になっちまうわな」
「んだ、この雲は吹雪の前触れさね。さっさと家に入ったほうが良かんべ。少なくとも、村のだだっぴろい通りで一晩過ごすような馬鹿はなしさね」
「んだんだ。だったら盗人森に行った方がなんぼかマシじゃ。盗人森はびっちり木が並んどるから、風も少しはマシになんだしなぁ」
「運が良けりゃ、オヤシロ様の祠もあるさね。でっかい木の近くの岩に、お供え物のある穴が空いてるで。食い物や、薪もあるんじゃ、大人でも五人ぐらいならなんとかなるぐらいでかいで」
「なんじゃ、その祠っちゅうのは?」
「大昔の坊さんがお祈りするのにこもってた場所なんだと。今でもどっかの呪い師の婆さんがお供え物もって通ってるだよ。食い物も布きれも、まだあるはずだて」
 ベルーは彼らが自分の身を案じて、それらの会話を交わしているのを悟った。捨てると言っていた毛布も、彼らが持ち出し、自由に処分できる唯一の品だったに違いない。
 ベルーは急いで古びた毛布を拾い、門の隙間に向かって短く、そして彼らが咎められないように小声で「ありがとう」と声をかけた。
 彼らが門を閉める音を聞きながら、ベルーは足早に盗人森の奥目指した。
 吹雪になると彼らは言っていた。その予言はあっという間に実現し、ベルーは森の中を寒さと闘いながらフラフラと彷徨う事になった。
 だが――今となってはもう、全てが遠い昔のことだ。
 ベルーは大木の下で横たわったまま、朦朧とする意識が睡眠の淵に落ち込む瞬間を、引き留めようともしなかった。
 「運が良けりゃ」と、馬番達は言った。その運が無かったのだ。
 いや、ベルーが生まれたこと自体、とても運が無かった事なのだ。何をやっても無駄なのだと思えば、そろそろいろんな事から身を引いても構わないだろう。『捕虜となりままならぬ人生から己を守るべく身を引くのも、女の潔さの一つ』だと教えられた事もあったじゃないか……。
 熱も冷たさも痛みも意識も、何もかもわからなくなっていくのを感じながら、ベルーはどこかでほっとしていた。全てを捨てきった満足感に身をゆだねていったのだ。



 それは、長く長く、永遠に続くはずの眠りとなるはずだった――が。



 こら〜ぁっ!



 間延びした女の声を合図に、ベルーの意識は――もう二度と起き上がることなどないと思い込んでいた意識は、そのベルー自身の思い込みを裏切って、ゆっくりと浮上した。左の頬を撫でる柔らかな毛先を感じたと思った瞬間、彼女の体はグングンと振り回される。右耳はいつの間にか壁のようなものに押し当てられ、その壁が喚くようにアハハハハと哄笑し、ベルーの体にくぐもった音を叩き込んだ。
 壁の声は、男のもののようだ。
「味見してやろうと思っただけだよ」
「まだ煮立ってもないのにぃ! 蓋開けないでよ〜ぉ!」
「そんなに怒るなって。お客さんが二人もいるんだ、失敗しないように確認しただけじゃないか」
「ここで開けたら、失敗する前に台無しになっちゃうかもしれないでしょ〜!? もぉ〜やだぁ〜!」
 言い争いではあるのだろうが喧嘩とは言い切れない、どこかのんびりとした男女の会話。それとは別に、ボソボソと囁くような会話が遠くから聞こえる。
 ベルーは目を開けた。視界は真っ暗な空間が広がるばかりで、よく見えない。だがそこには、積み重なった彼女自身の吐息の暖かさと、頬に触れている壁が波打ちながら放つ熱の、それらの混じり合った動かぬ空気の安心感があった。その満ち足りた空間の中、おそるおそる、手を伸ばす。動く。氷そのものであった手は、動かさなかったが故に強ばってはいたが、彼女の思っていたとおりにゆっくりと屈伸した。
「早くスープ作ってくれよ。寒くてたまらない」
「大丈夫よぉ。それぐらい薄着だって貴方は風邪ひかないって、師匠が言ったもの。それに貴方が蓋をあけちゃったから、予定よりもっと時間がかかるわよ」
「風邪ひかないっていっても、限度があるだろ? 半日もこんなデカイ氷抱えてたら、僕の義理の兄貴だって寝込むに決まってるさ。早くしてくれよ」
 ベルーは腕を伸ばした。柔らかな毛足の壁の先、布の境を押しのけると指先が外の空気に触れる。冷たい。だがそれは、それまでベルーの閉じこもっていた空間が心地よすぎただけだ。あの吹雪の中に比べれば、十分すぎるほど優しい空気だった。
「お?」
 壁が驚きの声をあげたと同時に、ベルーの視界がバッと開けた。黄色い光が彼女の目を刺し、ベルーは痛みに溢れる涙と同時に、慌てて目元を手で覆った。
「クラシス、なんて事するのッ!? びっくりしちゃうじゃないの!?」
 さすがに女も慌てたようだ。間延びした声調も消え失せ、誰の手によってかわからないが、ベルーは再び毛布の中へ追い込まれた。
「全くもう〜っ! ホントに鈍感なんだからッ!」
「ごめんごめん、どうなったか早く見たかったんだよ」
「お鍋と違うんだからね、人間の女の子はッ!」
 ベルーは自分の状況をあらためて確認する。
 氷が張り付き、凍っているとすら感じられた全身はすでに熱を取り戻していた。その体は手足の先まで、毛足の長い大きな毛布ですっぽりと覆われ、直に肌に触れるそれらは、意識を取り戻した今となっては少しくすぐったいぐらいの感触を与えている。
――直に肌に触れている。
 ベルーはその意味を、怯えながら確認する。
 毛布が直に、肌に触れている。
 ベルーは自分の二の腕に手のひらをあてた。柔らかい。肌に吸い付く肌。
 肌。
 ベルーは自分が、全裸にも等しい格好であることを悟って愕然とした。
「ごめんねぇ〜、大丈夫〜? もう何もしないから、もう一度顔を見せてくれないかなぁ〜?」
 謝る女の声には心の底からの心配が現れていた。だが、その声を聞く事はできても意味を考える余裕がない。
 突きつけられた事実は、どこの誰だかわからない人間の前で、下着一枚にされているということだ。ベルーが気を失っている間に、服を脱がされてしまっていたという現実。それが何を意味するのか――ベルーには恐ろしくて考えられない。
 その恐ろしい事実から目をそらそうと、目の前にある壁にしがみつく。波打つ温かい壁だ。あの、男の笑い声を響かせていた壁。程よく温かいそれは……。
 おそるおそる手のひらを壁に沿って滑らせる。少し湿っている。微かな曲線に続くのは骨ばった谷間、そして再び張り詰めたはじめた曲線。
 あきらかにそれは、剥き出しになった男の、逞しく張り詰めた胸の筋肉だった。もちろん、淑女としての教育を受けてきたベルーには触れたことのないものだが、それでも知識と想像を総動員すれば、たやすく導き出せる結論でもあった。
 ベルーは悲鳴を上げて、自分が寄り添っていた肉の壁を突き飛ばそうとした。声はかすれてほとんど出ず、腕は動かすことがやっとで力など入らなかったが、それでもベルーはもがいた。いや、正確にはもがこうとした。しかし体は、彼女の体を抱きかかえていた目の前の男にしっかり捕まれて、思うように動けない。必死に片腕だけを男の腕の中から伸ばし、振り回す。
「おい、ちょ、ちょっと待て! 待てってば、コラッ! 何しようってんだ!?」
 慌てる男の声。毛布がはだけて、ベルーは再び明るい黄色の光の下で裸体を晒す羽目になった。
 急いで毛布を拾い上げ、自らの体に巻き付けようとする。だがうまく体が動かない。上半身裸で座り込んでいた男が、長い腕と大きな手で肩を掴みなおしたせいでもあろう。
「やめて、離して! こんな……破廉恥な……!」
 声は掠れ、叫んだつもりでも小声になってしまったが、彼女はやっとの思いでそれだけ告げた。
 相手は――わずかに歳上と見受けられる栗色の髪の男は、薄紫の瞳を真ん丸にした後、面白そうにニタリと笑った。
「ハレンチ? こいつはまた、随分都会風な言葉を聞いたねぇ。どこの田舎娘かと思ったら、想像以上にいいご身分のお嬢様らしい」
 その悪意を匂わせる言葉と表情に、ベルーは再度息を飲む。急いで男の手を振り払おうと体を振り回して暴れようとしたが、男の力は見かけよりずっと強く、全くといって良いほど動くことが出来ない。上半身はおろか、腰まで動かなくなっているこの状態は、まるで全身が地面に埋まってしまったかのようだ。ビクリともしない肩の両手に、次第にベルーは動こうとする気持ちを失っていった。体調の悪さを無視しても、絶望的にまで開いた腕力差が、彼と彼女の間にはあったのだ。
 物理的に動けない先には何か酷いことが待ち受けているとしか思えず、ベルーは口元を押さえて、更に勢いを増して溢れる涙もそのままに、呆然と立ちつくした。
「大丈夫よ、お姉さん。私たちは何もしないから」
 まるでベルーの心を読んだかのように、柔らかな女の声が背後から聞こえた。あの、間延びした調子で会話していた女性だ。慌てているのか、それともコチラが本来の彼女の口調なのか。歳はベルーと同じか、わずかに年上だろう。上半身裸だった男と同じぐらいの年齢だ。青みがかった長い黒髪の頭頂だけを一纏めにして黄色のリボンを縛り、残りをやんわりと肩口に垂らしている。瞳は鳶色で、どこからか周囲を照らしている黄色い光と混じってしまうと明るい飴色のようにも見えた。笑顔を浮かべるとふっくらとした頬は優しげで、警戒心を失った日だまりの猫を思い出させる。こんな心細い状況では、落ち着きを取り戻させるのに理想的な保護者の笑みだった。
 声は柔らかいが、どちらかといえばハキハキとした調子で、彼女はベルーの頬に片手を伸ばした。ベルーの涙で手が濡れるのも構わず、温かい手のひらを使って何度もベルーの頬を撫でて言う。
「顔を見せて……綺麗な青色の瞳ね。見つけた時は眠ってたから、どんな色だろうってずっと考えてたのよ。白金の髪も長くて素敵ね。クセが付いてるけど三つ編みにしてたのかな? 私は今みたいにほどいてる方が好きかも」
「……」
「服を脱がせたりしてごめんなさいね。貴女の体、氷よりも冷たいんじゃないかって思うぐらい、冷たくなっちゃってたのよ。師匠は凍傷を痛み無しで治してくれたけど、その先は私たちでやるしかなかったし。服を着たまま急いで暖めるには、冷たくなり過ぎちゃってたの。だから脱がせるしかなかったのよね。それに灯は魔術灯だからほとんど熱はないし、お料理の火だけじゃ貴女が目を覚ます前にまた凍える危険があったから、そのままクラシスに暖めてもらうしかなかったの。……でもこの人にしては信じられないぐらい、慎重に抱えていたんだから。貴女を助けたくてね。それだけは感謝してあげて」
 男が咎めるように「パエラ」と口を挟む。照れているのか、いつの間にか顔が真っ赤になっている。
 女の方はその制止をウフッと笑って受け流すと、ベルーの目を覗き込んだ。
「びっくりさせちゃって、本当にごめんね。でもどうか許してくれないかしら。悪気はなかったの」
 女はベルーの額にかかった髪をかき上げながら、変わらぬ柔らかい声と笑みをベルーに投げかける。
「私はパエラ。そっちの人はクラシス。くどいようだけど、クラシスの事は怒らないでね。貴女を見つけてから半日以上、あの人もずっと裸で貴女を暖めてくれたんだから。私なんて半分諦めてたぐらいだったのに、それでもがんばったんだから」
 ベルーの涙はなかなか止まらなかった。最初は眩しさの為に、先は恐怖の為に、そして今は……なんだろうか? よくわからないながら、ベルーはこの二人に対して涙を流す事でしか、気持ちを表わす事ができずにいた。
 強いて呼ぶなら、それは安堵と呼ばれる類の気持ちと共にやってくる涙だった。盗人森を一人で歩く厳しく辛く絶望的な一人の逃避行が、とりあえずの終点を迎えたという確認だったのだ。
 パエラはそんな、顔をくしゃくしゃにして涙するベルーの心情を、どう受け取ったのだろう。ベルーではうまく体に巻き付けられなかった毛布を手に、手際よくクルクルと操ってベルーを一巻きの毛布の束にしてしまう。
「気に入らないかも知れないけど、もう少しクラシスの膝で眠っていた方がいいと思うの。まだまだ体が本当じゃないみたいだし、クラシスならもしもの時でもすぐに抱えて行けるから」
 そっと男の膝にベルーを乗せる。クラシスと呼ばれた栗色の髪の男も気前よく受け取ると、赤ん坊を抱く時のように斜めに抱きかかえた。
「パエラの言うとおり、もう少し眠った方がいいよ、お嬢さん。元気なのが一番良いけど、さっきまで死にかけてたって事を自覚した方がいい時もあるからさ」
 いたずらっぽく目配せし、大丈夫だと言いたげにベルーの腹の毛布をぽんぽんと、子供をあやす時のように叩いてみせる。分厚く巻かれた毛布のお陰で痛いと感じるどころか衝撃すらほとんど感じなかったが。
 その時だ。
「クラシス」
 落ち着いた低い声。クラシスが――よく考えれば、座り込んでいるというのに立っているベルーの肩を掴めたほどに大きい男だ――文字通り、しっぽを振らんばかりの笑顔で応じる。
「なんですか、アキ?」
 クラシスがベルーを抱えたまま体の向きを変える。自然に声の主と対面することになったベルーは、一瞬だが、息をするのを忘れた。今の今まで、相手と同じ空間に居たというのに気づけなかった己の注意力の無さに頭を抱えたくなる。
 信じられないほど美しい男が、白いコート姿でそこに座していた。
 艶やかな黒髪は黄色い光に照らされて神々しく輝き、半ば閉じられた両眼は見入ってしまう程深く澄み渡り、その左目のみ真っ赤な虹彩という異様さを打ち消してしまうほどに、他人を引きつけて離さなかった。
 そう、ベルーから周囲の全てを見え無くさせてしまっていた。
 吸い込まれそうな気分で、ベルーは感じ取った。自分が相手に対して抱く好意が、爆発的に膨れあがって行く様を。その感情を相手が残らず受け取っているという確信を。相手からも与えられてくる大きな大きな、柔らかくて温かい感情を。相手と彼女との間に、恐ろしいまでに強固な絆が一瞬にして結ばれた歴史的とも呼べる瞬間を。
 チラリと、脳裏を父の叫んだ「バイタ」という言葉が過ぎった。初対面の男性に対して、一瞬にして魅了されてしまった事に対する後ろめたさが思い出させた言葉だったのかもしれない。一目惚れ――正確には恋とは呼べない感覚であることは最初からわかっていたが、それでもそう呼ぶしかなかった衝撃だ――それに付随する高揚した気分は、今まで受けてきた淑女としての教育に反する感覚だったからこそ、思い出してしまったのだろう。
 だがそれを――今でも師匠の術の全てはわからないから、何かしらの術を使っていたのだとは思うのだが――相手は即座に否定した。強い否定の気配を示され、ベルーが気後れしたぐらいだ。
 相手は、気持ちと気持ちを繋いでいた絆の大きさをゆっくりと縮小させていきながらベルーに理解させた。これはあるべき姿、これは望んでいた時、お前は私の求めていた者――なのだと。だから互いに喜びを分かち合うのは当然なのだと。しかし……さあ、この二人だけの世界を閉じて、皆と語り合う現実の場へと戻ろうじゃないか――そんな言葉にならないそれらの言葉を、ベルーは感覚だけで理解した。そしてそれは、小娘の妄想では片付けられないほど、確固とした重さを持ってベルーの記憶に刻まれてしまった。
 それがベルーの、後に魔女とも女神とも称される人物との、初の対面だった。
 時間にして瞬きほどの間にそれらの交流を済ませてしまうと、輝くように美しいその男は現実のものとなってベルーの前に存在していた。
「その子を連れておいで」
 両腕を広げてベルーを受け取ろうとするその姿に、ベルー自身は他人事のように見とれていた。しっかりとした腕に抱かれ、顔を覗き込まれると、いまだ夢のようでため息しかでなかった。
「……どうやら、お前には私が男に見えるようだな」
 淡々と事実を確認する口調でアキは囁き、その言葉の意味を問いかける前に言葉をつなげた。
「気にするな。私はどちらでもないだけだ。……お前の見たいように見れば、それでいい」
 クラシスを脇に従えたまま、アキはベルーの額に中指を押し当てた。
「辛い思いをしたようだな。だが私達が出会うには、どうしても必要な経験だったんだろう。……ここは大昔に祭壇が据えられていた洞窟だ。お前が眠っていた大きな木があっただろう? あの木と同調する為に、何年も何ヶ月もここで祈った人たちがいた。その思念が残っていたお陰で、私たちも避難できたんだが……もしかしたら、彼らがこの洞窟を見つけ、使い、今まで残して来たのは、お前と私がこうして穏やかに出会えるように仕組まれたが故かもしれないな。運命は時に大きな回り道を好むものだ」
 いうまでもなく、馬番達の言っていた洞窟のことだ。
 あの会話を聞いたから、この場所を求めて盗人森を彷徨ったのだ。まさか、こんなに温かく迎えられる夢のような場所になるとは思わずに。
 それほど大きな体つきではないはずだが、アキはベルーを抱えるのが苦ではないらしく、息も切らせずにそっと、微かな笑みに唇を歪めながら告げた。
「確かに危険な時期は過ぎたようだが、もう少し眠っていた方が良さそうだな。ここまでよく面倒を見てくれた。ありがとう、クラシス。パエラも、ありがとう」
 喜びがにじむアキの様子に、クラシスが嬉しそうに口笛を吹いてみせる。その場でクルリと回転すると、ピッと指先を伸ばした。アキの前に対面して座する、色白で赤毛の少年を指す。
「さぁて、物知り坊や! さっきの話が途中だったよね、続きを聞かせてもらおうか!」
 クラシスの動作でやっと、ベルーは自分が目覚めた時に聞いたクラシスとパエラの会話以外の、もう一組のボソボソとした会話の正体を知った。アキとこの少年が語り合っていた声が届いていたのだ。
 赤毛の少年は、丸顔で挑戦的な目つきをクラシスに投げかけた。小太りで顔立ちはわかりにくいが、特徴的な赤毛や目の形を見るに、盗人森を挟んだ隣国ムシュラグラドの人間である事は一目でわかった。
 敵国の人間である少年は、やはりベルーが敵国人だと気づいているだろう。だが彼女には全く興味がないらしく、身振りを交えて語りはじめる。
「ええっと……確か、水袋の話?」
「そう、それだ」
「だからね、水袋に水を詰めれば、袋が膨らむね? それは水が入っているから膨らんでいるってこと。砂糖を詰めても袋は膨らむ。砂を詰めても膨らむ。なぜ膨らむかって、そこには物が入っているからだ」
「そう。そこまでは当たり前の話だ」
 クラシスはアキの隣で胡座を組んだ。本格的に話を聞く体制だ。チラリとパエラを確認すると、彼女は鍋の様子を眺めながら、繕い物をはじめていた。
「じゃあ、袋に入っている物が手で触れるものだから、袋は膨らむのか? 手で触れない物が詰められれば、袋は膨らまないのか? ところがそうじゃない。空気を詰めても袋は膨らむ」
「物事には例外がつきものだぜ? 空気は例外なのかもしれない」
「いや、おいらの考えはこうだ……空気は触れないほど小さな物の塊なんじゃないか?」
「触れないけどそこにある物だって?」
「そう。水を袋に入れれば水を触ることができる。空気を袋に詰めても、同じように触ることができる」
「じゃあ、どうして僕らは、そのなんだかわからないほど小さな物の塊の中で、こうやって息をしたり生活する事ができるんだよ?」
「ミミズに同じ質問をすればいいじゃないか。ミミズだってあんな固い地面の中で生きてるんだ。慣れだよ、慣れ。人間の体も、空気の中で生活できるように慣れていったんだ」
 ベルーには全くついていけない会話だ。
 当たり前のようにある空気。その空気に対し、疑問を抱ける人間がいるということが、既に信じられなかった。事実に疑いを抱くという習慣のなかったベルーには、衝撃的とも呼べる赤毛少年の存在だった。
 そして、その少年との会話を――やはりベルー同様理解できていないらしいクラシスと、すっかり理解したような涼しい顔のアキが、作業をしてはいるがおそらく聞き耳を立てて居るであろうパエラが、楽しそうに受け入れている姿が不思議だった。会話の内容が勉学に通じているのはわかっている。だが、こんなに和やかな空気で勉学に励む姿など、家庭教師と母の目に晒されて学び続けたベルーには、想像もつかなかった形態なのだ。
 ミミズの喩えに釈然としない表情のクラシスを尻目に、赤毛の男が振り返る。
「アキ、さっきの話が途中ですよ。ちょうど似たような話だった」
「魂の存在か?」
「そうです。魂も触れることはできないけど、そこにあるもの。空気は袋で形にする事ができる。魂は……生き物の中でしか形に出来ない。ならば生き物とは何か? なぜ魂を入れる器たり得るのか?」
「なるほどな……ではムー。君の魂とはどこから来たのかな? 砂糖のように魂が入れ替えできるものなら、どこかの砂糖壺にでも取り置きされてる事になるだろう?……そもそも、お前のいう魂の定義を聞いてないな。どう考えている?」
 尋ねながら、アキはベルーの目蓋をそっと撫でた。
 その時にアキが何か、魔術の類を使ったのだろう。突き落とされるように眠りに落ちたベルーは、赤毛の男――アキがムーと呼んだ少年の答えを聞くことができなかった。


 ベルーが次にウトウトと目を覚ました時も、その体はまだアキの腕の中にあった。
 全く疲れを見せぬまま、まるで大木が支えているかのようにしっかりと彼女を抱き続けているアキは、空恐ろしいまでの美貌を目の前で熱弁をふるい続けている赤毛の田舎少年に向けていた。微かに、そう、微笑んでいるのかどうか疑いたくなるような笑みを少年に向けているアキを、ベルーは少しだけ寂しく思った――と、次の瞬間、アキはそっとベルーの手にかぶせていた自分の手をずらし、なだめるように彼女の肩を二度だけ叩いた。動作だけだったが、アキがベルーの嫉妬に対して敏感に反応した姿は、彼女を心の底からほっとさせた。
 そんな風に丁寧で優しい反応を返す人物など、今までのベルーの人生の中には、一人もいなかった。
「そうはいうけどね、大体、星がどうして動くのかなんて事を考えるのと同じぐらい、空気が何なのかを考えるのは意味の無い事じゃないのか?」
 通りの良いクラシスの声。ムーの声は甲高い上に早口で聞き取り辛かったが、それ以上に情熱的な彼の言葉は、耳にする者の意識の底に刻まれるかのような、不思議な魅力を持っていた。
「じゃあ、あんたは星がどうやって動くのかわかるのか?」
 ムーの問いかけをクラシスは鼻で笑った。
「わかるわけないだろ。あんなのは、紙に小石を貼り付けてるようなもんを後ろで誰かがクルクル回してるようなもんさ。タネがわかったって、生きていくことに必要な知識だとは思えないね」
 数秒、ムーは黙り込んだ。
 ――と次の瞬間、強風にあおられた木々が一斉にさざめいた時のように、矢継ぎ早に言葉と数字を並べ立てはじめた。クラシスは目を丸くしてムーの顔をマジマジと眺めている。全く理解できていないことはその顔だけで十分だ。
 そしてもちろん、ベルーにもわからない。クラシスの「紙に貼り付けている小石」に納得しそうになったぐらいだ。言葉の中にかろうじて「星が燃えている火の塊」だという説明を聞き取る事ができたから、紙に貼り付けられる物じゃないとわかったぐらいで、どうしてムーがそんな事を考えたのかという説明は全く聞き取ることができなかった。そして理解できない言葉の羅列は子守歌のように音楽的ですらあり、再び彼女を眠りの淵に誘う。


 次に目覚めたのは、鍋を温めていた薪の崩れる音のせいだった。
 灯は彼らの言う魔術灯とやらで確保された黄色いものだったが、料理は普通の旅人がやるように薪を積み上げた焚き火の上でおこなわれていたのだ。
 手慣れた様子でパエラが薪を追加するのをぼんやりと眺めながら、ベルーは耳に飛び込んできた会話を聞くとも無しに聞いてしまう。
「生き物と物との違いは、魂を持つか持たないかじゃないのか?」
「じゃあ、クラシスのいう魂の定義ってなんなんだよ?」
「待て待て。仮に魂というものが存在するとして、どうやってそれを証明する?」
「仮の話だろ。おいらの考えてるように、魂がパターン化されたものだとしたら――」
「それだって仮の話だろう?」
「よし、じゃあこうしよう。魂というものがどんなかたちにせよあるとして、それを持った物質は人たり得るか?」
 まだクラシスとムーの議論が続いている。
 数字や知らない言葉が出てこない分だけ、そしてムーが一人で走り抜けるように語り続けない分だけ、ベルーにも聞き取る事ができた。
「そんな無茶な言い方は無いだろう。ムーはその辺の石ころが人間になるとでもいうのか?」
「だから魂というものが何であるのかが問題になるのだろう? 自立して思考する物質が存在するとしたら、それと人間の違いなんてわからなくなる」
「わからなくなるわけないだろ。生き物は子供を産んだり育てたりできるんだぜ? しかも二人一組でなきゃならない。単独で存在できる石ころに、そんな甲斐性があると思うかい?」
「一部の生き物は単体で子供を産む。物質が自分で自分を生産できる能力を持つとしたら、物質だって生き物と呼べるだろう?」
「ならば君は、あの焚き火も、鍋も、魂さえ持てば生きてるっていうんだな? 君の話しぶりじゃ、星だって燃えてる石ころだろ、あれも生きてるってことか?」
「極論から言えばそうだ。あくまでおいらの考えだけどね。逆に言えば、人間だって、魂を抜いてしまえばあれと同じなんじゃないのか?」
「また魂の話だ。魂っていうのは――」
「だからおいらは、睡眠って奴に興味がある」
「人の話を聞けよ、物知り小僧め」
「焚き火の火を消して、また翌朝火を着ける。夜に眠って、また翌朝目を覚ます。前者は別のものか? 後者は連続した意識体として時間を認識できるというのに。これが魂の正体じゃないのか?」
 いつの間にかアキのそばにやって来たパエラが、呆れたように間延びした囁きを二人に届ける。
「そろそろ止めないとぉ〜。じゃないと、いつまでもああやってますよ、あの二人〜」
 アキは真顔で頷いたが、それは不機嫌とも無関心とも言い切れない、不思議にも苦笑じみた無表情だった。
「どうなるかと思ったが、思ったより仲が良くて本当に良かった」
「それにしてもあの道案内の子、独学であそこまで勉強してるなんて信じられな〜い。アキはあの子がパン屋の跡継ぎのままだなんて、勿体ないと思わなぁい?」
「私はあの子の知識の偏り方の方が気になるがな。自己流で見方や考え方が独りよがりな時がある。おいおい修正してやれば大丈夫だろう。先はまだまだ長い」
 パエラはあららと笑って、自分を見ているベルーと目を合わせた。
「そういう事なんですねぇ? 道案内を頼むなんておかしいと思ってた〜。女の子の一人を捜すのに、アキがあんなに迷うわけがないものぉ」
「ムーも迷ってはいないさ」
 涼しい顔でアキはパエラに、身振りで鍋の中身を取ってくるように指示した。
「ムーは私たちと話す時間を引き延ばしたくて、迷ったフリをしてただけだ。田舎の村じゃ、あんな話を聞いてくれる人間も、まともに反論してくれる人間もいなかったんだろう」
 小鉢にとろりとした空豆のスープを注ぎ、アキに差し出すパエラ。アキはそれを受け取らず、抱えているベルーの顔に視線を落とした。
「飲めとは言わない。舐めるだけでもいいから口にするんだ。いつまでも空腹のままでは回復しない。……月経の機能も停まったぐらい、体が傷ついて動くことを止めているんだ。動かすために口にしなさい。体がもう大丈夫と判断するようになれば、月経の機能も元に戻る」
 その時やっと、ベルーは自分の追い出された経緯を思い出した。女の体になった自分を、この人達は知っているのだ。
「私……こんな体なんていらない」
 ほとんど考えることもなく口をついた言葉に、それを聞いたパエラだけではなく、ベルー自身が驚いていた。
 しかし確かに、こんな大人の体になってしまったが故に家を追い出され――今のところは幸運にもこの人たちに助けられたから良いものの、この先をどうやって生きて行けば良いのか見当もつかない。それもこれも、この体のせいなのだ。こんな体にならずに、ずっと子供のままでいれば、母だって自分を捨てたりなどしなかったのだ。どんなに歪んだ愛情だったとしても、自分の唯一の味方であったはずの母が、汚いものを投げ捨てるかのように自分を閉め出したりなどしなかったはずなのだ。
 もうさんざんに泣いたはずなのに、またポロリと涙がこぼれた。黙り込んだアキとパエラの様子にも気づかず、クラシスとムーはまだ議論を続けている。どうやら今度は、星の動きを使った道具の話らしい。主客交代し、クラシスが得意そうに自分の道具を分解して説明している。何も考えたくないベルーは、その会話を聞いていた。だが、先の話同様知らない言葉があるわけではなかったのだが、内容は全く頭に入ってこなかった。
 不意に、唇に木のスプーンが差し出された。パエラが、アキに請われてとってきた物だ。有無を言わせぬ強い口調で、それでいて優しく微笑みながら、パエラは煮込んだ豆のスープを唇の前に差し出し続けていた。
「その体がいるかいらないかは、元気になってから決めてちょうだい」
 躊躇するベルーは、自分が返事を返す前に、祠一杯に響き渡った二つの悲鳴を耳にして肩をすくめた。
「なんてこった! スープが出来てるッ!」
「なんだよ、パエラ! 僕より先に味見しちゃって!」
 背の高いクラシスと小太りのムーは、ほぼ同時に立ち上がると、競うように鍋に向かって走り寄った。
「おいらの村のハチネンソラマメだ。ムシュガルドでも有名なんだぞ、他の国の王様に献上されるぐらいにさ。タリスラントルなんかじゃ口にできないぜ」
「そんな事よりムー、そこの器を三つ取ってくれ。僕の分なんだ、三人前。皿の数で数えないと量がわからなくなって、パエラが怒るから」
「ちょっと待て、クラシス。おいらの小父さんが焼いたパンを食べないとでもいうのか? ウチに代々伝わる、ハチネンソラマメ専用の、秘伝のパンだ。こいつで食べなきゃ、本当のハチネンソラマメの良さはわからない。それとおいらの分の皿はあるか? おいらも三人前ぐらい食べないと眠れない体質なんだ」
「僕の奴を一つ貸すよ。その代わり、二人と半人前ぐらいで我慢してくれ。そんなにうまい豆なら、僕だっていつもより多く食べておきたい」
「そんな条件聞いてられない。大体、こんな場所で野宿する予定じゃなかったんだ。案内の延長代金として、しっかり食べさせてもらうからな」
「わかったよ、確かにその通りだ。じゃあ好きに食べろよ。でもアキとパエラの分も忘れずに残してくれよ、アキはいつも食べることを忘れちゃうから、みんなと居る時ぐらいちゃんと食べさせてあげなきゃダメなんだから。三ヶ月前の船旅の時なんて酷かった。お腹がすきすぎて力が入らない事にも気がつかなかったから、甲板から海にドボンするところだったんだぜ? 僕が付いてたからびしょ濡れですんだけどさ。もう少し人間だって自覚をもってもらいたいよ」
 さっきまで小難しい話を語り合っていた熱心さと同じぐらいの情熱を傾け、二人はパエラの見張っていた鍋の中身を凝視していた。大さじで自分の器に配膳する度にやれ多いだの少ないだの、騒がしくてたまらない。
「あの二人は食べるのが本当に好きなんだな。意外な共通点だが、これからは食費の調達に悩まされそうだ」
 アキがベルーの額をうわの空で撫でながら呟き、まだベルーにスプーンを差し出しているパエラに頷いた。自分に任せておけの意味だろう。おとなしく腕を引いたパエラを横目に、アキはベルーの体を抱え起こしてやりながら尋ねる。
「この森を抜ければ、どこに行けると思う?」
 何を問われているのかわからなかった。この森の先にはムシュガルドがあり、そこに行けば敵国人として捕まるかも知れない。かといって、引き返せば今や顔を合わせる事もままならないだろう両親の住む村だ。
 どちらも避けたい。だがこの森に、この祠に留まり続けることも現実的じゃない。
 アキはベルーの答えを待ってじっと顔を見つめ、答えを見つけ出せないベルーはその目を見つめ返した。しばらくの間そうやって見つめ返しているうちに、ベルーはアキがアキ自身の答えを持っていないことに気づいた。
 アキは純粋にベルーの答えを聞きたいだけで、アキ自身の考えとそれが一致しようがしまいが、なんの問題もないのだ。ベルーにそんな問いかけ方をした人間ははじめてだった。問いには必ず期待されるべき答えがあって、ベルーはその答えを見つける訓練をずっと積んできたのだ。礼儀作法という名の訓練を。
 戸惑うベルーには、自分自身の言葉など口にした経験がなかった。
「どこ、に?」
 ベルーの答えは答えになってなかったが、アキは黙って頷くと、ベルーから視線を外して顔をあげた。その横顔にさした影に気づいて、ベルーも顔をあげる。
 ムーが唇を尖らせた不機嫌な表情で、ベルーを抱えて据わるアキの前に立っていた。しかし、その顔はアキの美貌ではなく、驚くベルーに対して真っ直ぐに向けられていた。
 右手にはパエラが用意したベルーの為の小鉢を持ち、左手には持ちやすいように小さく作られた白パンが三個、握り潰さないようそっと手のひらと指の間に包まれていた。
「タリスラントルの女が、ムシュガルドの男をどんな風に思っているか知ってる」
 赤毛で野蛮な、野犬の目をした二足の獣――ベルーはかつて教えられたそんな言葉を思い出した。
 ムーはベルーの前に据わりながら、パンをアキとパエラに一つずつ配り、残った一つを千切ると豆のスープに浸した。
「でもおいらはただのパン屋だし、語り部から聞いた分、少しは礼儀作法も知ってるつもりだ。当たり前のことだけど、病気の女に変な事をするつもりもない。おいらは……おいらのウチで焼いてるパンがどんなにうまいか、おいらの村の豆がどんな味なのか、あんたに知ってもらいたいだけだ。食ってくれ」
 柔らかい白パンはすぐにスープの緑色に染まり、更に柔らかく形を崩す。
 その小さな塊を、ムーはベルーの唇にそっと押し当てる。びっくりするほど豆の味にはコクがあり、パエラの味付けはその強すぎるコクを緩和させるに留まり、パンはその温かな汁を湛え味を支える道具としての役割を完璧に果たしていた。
 ベルーは唇に付いたスープを舌先でそっと舐め取った。熱と味覚の刺激はベルーの体を内側から叩き起こし、すぐに、この味をもう少し多く楽しみたいという欲求を引き出した。
 ムーは仏頂面を崩さなかったが、ベルーの反応がまんざらでもなかったようだ。すぐにパンの欠片をスープに浸す。
「こいつでちょっとでも元気になれば、もっとうまいものを食わせてやれる。ムシュガルドにはタリスラントルじゃ食べられない料理がたくさんあるからな。森を抜けるまでの元気で良いから、がんばって食ってくれ」
「ムシュガルドの料理だけか、ムー?」
 アキが揶揄を含んだ響きで問いかける。
「お前もベルーと一緒に、もっとたくさんの土地の食べ物を食べてみたいと思わないか?」
 じろりと、ムーがアキをねめつけた。一瞬の苛立ちがその視線に込められ、すぐに消えてゆく。
「おいらはあんたの知ってることを、同じように知りたいだけだ。最初に話したじゃないか。でもあんたはおいらと話しをする時間はないし、次の弟子は決まってるって言った。……おいらじゃないってね」
「だから吹雪の中を何時間も歩いて、私と話す時間が欲しかったのか。私を説得するために」
 ムーは答えず、再び丁寧にベルーの唇にスープの色に染まったパンを運んだ。ゆっくりとその味と感触を口の中で確認するベルーを見ながら、ムーがため息をついた。
「この森を抜ければ、おいらはまた、ただのパン屋さ。最初からあんたみたいな、マジュツシって奴になれるなんて大それたことは思っちゃいない。でもあんたの知識がマジュツシって奴の持ってる知識なら、それが欲しいだけなんだ。正直言ってマジュツシなんて言葉初めて聞いたし、何をする人なのかわからないけどさ。でも……マジュツシになれないなら、黙ってパンを相手にするしかないよな。星の正体を知ってようと、この大地の大きさを計算できようと、竈の火と人の体の熱の共通点を見つけようと、パンは何も答えてくれないけどさ。村の変わりモンで一生を過ごすってわけだ」
 クラシスが二皿目を抱えながらムーの肩を叩いてニヤニヤ。
「随分恨みがましいじゃないか。先に教えておいてやるけど、アキは自分の予定にない話は全然聞いてないぜ? パンより扱いが酷い」
 ムーは一度だけクラシスを睨みつけるが、すぐに力なくため息をついた。小太りのその体がひとまわりもふたまわりも小さく縮んでしまったかのような姿に、ベルーも哀れに感じたぐらいだ。
 だが傍らで肩を叩くクラシスはあっけらかんと、追い打ちをかけるように言葉を続ける。
「だからさっさと諦めるんだな。アキは弟子にする人間をみんな知ってる。アキの頭の中には、アキの弟子が誰で、どこでどんな風に待っているのか、全部入ってるんだ。未来の事までだぜ。そのアキがお前は弟子になれないっていうなら――」


「ムー・ムスラ・テレスが弟子にはなれないなど、いつ私が言った?」
 低く厳しい声色で囁いたアキは真顔で無表情とも言えそうだったが、何よりもその言葉に、クラシスだけではなくムーも体を震わせた。


「ちょっ……と、アキ? 何言ってるの?」
 我に返ったクラシスが、ベルーを抱えたまま座り続けるアキに向かって両腕を広げる。対するアキは微動だにしない。
「聞こえなかったのか? ムーが弟子になる可能性はまだあると言ってるんだ。凍えた彼女が次の弟子だとは言ったが、彼女の次の弟子が誰になるかなど私が一度でも口にしたか?」
「……冗談じゃない、こんな田舎で、こんな場所で、二人も抱え込もうってのかい!? 僕は反対だよ! せめて春になってからじゃないと、冬の着物も荷物も足りない! 大体、これ以上増えたら、旅を続けるにも大変じゃないか! 危険だって増える、盗賊だって魔物だって、宿をとるにしたって部屋を確保するのが大変だ」
「大丈夫だ、お前がいる。荷物はムシュガルドで調達すればいいし、私が異相に閉じこめて運べる。戦争にならない限りお前だけで十分対処できるだろう。何の為に『紅月』を預けてると思ってるんだ」
「僕とアキだけならなんの心配もないよ。だけど、こんなに『普通の人間』が増えたら、庇ってるだけで何もできなくなる」
「私の弟子になるということは魔術師になるということだ。最初の数年だけだ、すぐにお前も楽になる」
「でも、街に行ったらお金が――」
「私の術を使いたい権力者はどこにでもいる。必要なだけ稼げば良い。私も彼らに恩を売っておくに越したことはない」
「……そこまでして弟子って必要なの? 僕と、パエラだけじゃダメ? 僕、がんばるよ。ちゃんと魔術の勉強もするし、剣術も真面目にやるよ。ピアノだって弾けるようにするよ。それでもダメなの?」
「ダメとかいう問題じゃない」
「だけど――」
「クラシス・ホワイトムーン」
 アキが冷たく名を呼んだ瞬間、不思議な事が起った。祠にこもっているが故に動かないはずの空気が、突風となってクラシスを襲い、ボサボサになっていた栗色の髪を更にクシャクシャにして通り過ぎたのだ。あおりを受けた料理用の焚き火が不自然に身をよじり、一度は消えかけた。
 一瞬の出来事に、一堂はそろって口をつぐんだ。アキは涼しい顔をしていたが、どこか恥じ入ったように俯いて――自分の抱いていたベルーの視線に気づいた。ベルーとしては特に考えもなくその目を見返したのだが、アキには何かのきっかけになったようだ。落ち着いて顔をあげると、ぽかんと口を開けてアキの反応を見ていたクラシスに顔を向ける。
「お前が自分で言ったはずだぞ。私がお前を族長にしたのも、パエラ・ルウマプルを買い取ったのも、ベルー・メイが雪の中で凍えていたことも、ムー・ムスラ・テレスが案内役として引っ張られてきたのも、私に与えられた未来に記されたものだ。この先全ての弟子達が予定通りに待っている。私とお前だけではできない事をする為にだ。だから子供みたいな悪あがきはやめろ、お前達の一族の悪いクセだ。お前が覆すことの出来る出来事じゃない、私に仕えるなら文句を言わずに従え」
 アキの厳しい口調に呆然とするクラシス。少し涙目になって見えるのは気のせいだろうか。
 彼を尻目に、ムーは悲鳴を上げそうな勢いで目を剥き口を開き、息をあえがせていた。こちらは過剰に反応しすぎて、今にも倒れそうな状態だ。
 そして狼狽が極まったのか、パクパクと口を開くばかりで抗議の言葉も言葉にならないクラシス。
 互いの事情は別だったが、同じような顔で同じように硬直する大小の男達に、パエラがこらえきれないように笑いを吹き出す。
「クラシス〜、可哀想だからもう一皿分、スープをあげるわ〜。こちらに来なさいよぉ」
 だがクラシスには、鍋のそばで手招きするパエラの言葉も姿も入っていないようだ。虚ろな目でじっと手を見ていたりする。
 そしてそんなクラシスの姿を、彼が一番見せたいであろう師匠が目に入れていない。アキの視線はワナワナと震えるばかりのムーの表情にむかって、穏やかに注がれていたからだ。クラシスを黙らせたアキは、以前と同じ冷静さを完全に取り戻していた。
「まだ喜ぶのは早いぞ、ムー。森を抜けるまで、彼女の世話はお前がするんだ。見ての通り、当分は足腰も立たない。体力もないだろう。クラシスの服をパエラが仕立て直してやっているが、彼女の体温を保つ方法も考えなきゃならない。やり方はお前に任せるから、彼女を連れて安全に森を抜けて見せろ。もちろん、私達の案内としてだがな。無事に帰れたら、お前を弟子にするつもりだ。やれるだろう?」
「弟子入り試験ってワケですか。でもこのお嬢さんは何もしてないじゃないか」
 ムーが頬を膨らませてベルーを指さすが、アキは涼しい顔で答えた。
「お前も半日以上、吹雪の中を部屋着と室内履きで歩き通してみるか? 死んだような気分になれるはずだ」
 再び黙り込んだムーは、思い出したように、先と同じくパンをスープに浸してベルーの唇に届ける機械的な作業を再開した。何かを考えているのは確かだが、それがなんなのかはわからない。大方、ベルーを安全に運ぶ手段か、その道順だろうが、もしかしたら今後に待ち受けている魔術師としての生活かもしれない。
 森を抜ければ。
 ベルーはその言葉を脳裏で反芻する。
 目の前のムーには、新しい日が待っている。あの喜びようを見るに、それは彼が待ち望んでいた日々なのだろう。そんなにもアキの弟子というのは魅力的なのだろうか? つい先に、アキはベルーを弟子にしていると言っていたが、そんな事、いつ決まってしまったのだろう? それ以前に、なぜアキは自分の名前を知っていたのだろうか? 勝手に決められた事に怒ってるわけではない。ただ、この不思議な状況を確認しただけだ。ムーにとっては輝かしい未来が開けたようだが、ベルーには戸惑いしかもたらさない弟子の受け入れ宣言だったのだから。
 輝かしい未来――つまり、森を抜けた後の事。
 何も思い描けない。森の外を想像してみても、何度やってみても、そこは住み慣れた自分の村と大きな赤煉瓦の屋敷だけなのだ。その前で立ちつくす自分の姿しか想像できないのだ。
 だけど。
 ベルーはその光景を打ち消して、周りを見渡した。
 ニコニコしながら落ち込むクラシスにスープをよそう優しいパエラ。
 子供のように浮き沈みの激しい感情を露わにする分だけ信用できるクラシス。
 知識欲と食欲には目がないが、意外にもベルーに食事をさせようと自ら近づいてきてくれたムー。
 そして、何度もウトウトと眠ってしまったベルーを、ずっと抱きかかえてくれた美しいアキ。
 ベルーは想像できない未来の景色の代わりに、彼らの中に立っている自分を想像した。すんなりと浮かぶその姿は、現実的に手に入る最も幸せな光景に思えた。
 森を抜ければ、一人じゃない。ずっと一人じゃない。
 ベルーはパンの最後の一切れを口に詰め込むムーが満足そうに頷くのを見て、頷き返した。
「ありがとう、ムー。とてもおいしかった」
 一瞬驚いたムーは、すぐに顔を赤らめた。その顔を隠すように、何度もゴシゴシと手のひらでこすってみせる。こすればこするほど、その頬は磨かれた林檎のように紅くツヤツヤと輝きだした。
 その顔を見ているうちに思いつく。ベルーは逃げるようにクラシス達の方へ行ってしまったムーの背中を見送りながら、その思いつきを大事に胸にしまい込んだ。

 森を抜けたら、タリスラントルの料理をみんなに食べてもらおう。



〈「森を抜ければ」・了〉



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