11・四月一日/午後
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 その時、『シラトスの丘』の片隅では二人の男が膝を抱えて座っていた。
 一人は猫背気味で気の弱そうな痩せ型の男。どこかで見たような、どこにでもいるような、ごくごく平凡な顔立ちには、まるで張り付いているかのように終始穏やかな微笑みがある。無表情にも似たその姿は、ある種の不安を見るものに与えつつも、それでいて肩の力が抜けてしまうような安堵感をも生じさせているのだ。
 ここ、シラトスの『魔女の園』に集う魔術師の卵たちに、『主』《マスター》と呼ばれている男である。
 後世、歴史研究家の一部には、本来『師匠』《マスター》と呼ばれるべき立場にあったティルマ・アギエは、自分がマスターと呼ばれる事に抵抗を持っていた為、あえてその男をマスターと呼ばせたのであろうと推察しているが、的外れな言説である。その証拠というわけでもないが、大陸教会による歴史統一活動の中で『主』の記述がどんどん削られ――教会としては、自分達の主神であるティルマ・アギエより上位の存在がいては都合が悪いのだ――ついにはその名が見出せなくなってしまうのも、歴史家達がこの男の存在をどう扱えば良いのか苦心していた挙句に投げ捨てたと取れなくも無い。
 結局のところ、歪められた歴史の末の答えなんかより、真実はとても単純なのである。
 アキは自分が仕える人物として『主』を選んだだけであり、それ故にマスターと呼び弟子たちにもそれを求めたのであり、師匠としての自身の呼び名については酷く無頓着だったから、というのが正解である。
 だから『主』とアキを区別するべく最も頭を悩ませたのは、彼女の五番目の弟子であり凝り性のゲイヴ・ダグだったし、その彼にしたってアキの意向を無視するわけにもいかなかったから、結局、「その場その場で使い分ければいい」という極単純な決着を見ることになっただけなのである。
 師匠と『主』が一緒にいる時には、アキとマスターで良いのだ。
 その決着に苦虫を噛み潰したのが、丘の片隅で膝を抱えて座り込むもう一人の男である。
 彼は言う。そもそも、『主』がここにいるから混乱が生じるのである。混乱させるような名前を与えるぐらいなら、拾ってこなければいいのである。一番良いのは、そんな名前ではなく、ナナシノゴンベに適当な名前をくれてやればいいのである。みんながわかるなら、ハルでもナツでも、なんでもいいではないか。なぜわざわざ悩むような名前を付けるなければならない?
 正論だと皆も思ったようだが、誰も師匠に進言する者はいなかった。言い出した本人も言えなかった。予言された存在であり、それ故に張り詰めた長い日々を過ごしてきた師匠が――表面に出す事はなくとも、手放しで喜んでいる相手の存在を、あえて貶めて悲しませる事などできやしない。神と称される人物の不評を買う云われもないではないか。
 そもそも、一番弟子である彼が言えなかったのなら、誰が言えよう?
 広い肩幅と見上げるような身長を誇りと自信を持って見せつけ、前髪の二房を長く伸ばして風の動きを感じる一族の伝統を頑なに守るような男が、その頑固さを遺憾なく発揮して我慢すれば、それでいいのだ。
 アキの使いとして各地を転々する為、少しでも威厳をとばかりに派手な装飾品を散りばめた黒のベストや赤い袖止めに身を覆ったこの男は、隣りに佇む『主』の、質素すぎる程質素な白いシャツとベージュのスラックスの前では、まるで道化も同然だった。
 いや、この『主』が『魔女の園』に着た瞬間からずっと、『主』がこの地を去るまで、彼は道化であったのだ。


 そんな道化であるクラシス・ホワイトムーンは空を見上げる。
 いつだって、この男の隣りは居心地が悪い。
 クラシスは落ち着かない尻の感覚にモジモジと太ももをすり合わせる。
 『彼』の存在は、初めて引き合わされた時からクラシスを悩ませていた。クラシスは師に仕える為に存在する。彼の一族は、師に生み出され、師に仕える者を排出する為に存在した。彼の一族の遺伝子には師を守る為の技術と、徹底された師への忠誠心が刻み込まれている。
 師に対する有益性――それこそが彼とその一族の存在理由だったのだ。
 対して『彼』は、何一つ満足にできない男だった。笑っていることしかできない、まるで飾り物のように無力な男だった。そんな彼が、自分たちの師に会うまでどこでどうやって生きていたのかわからない。師はある日、ふらりとどこかに出かけ、ふらりと――そう、まるで野の花を摘んできたかのように自然に『彼』を自らの書斎に招きいれたのだ。
 出会ってから二十年間忠実に仕え続け、信頼にあたいする弟子であるクラシスにすら相談せずに、だ。
 クラシスには納得できない、何一つとして有益なものを持ち得ない『彼』の存在――だが、師の愛すべき存在。どこの輩ともわからぬ故に排除すべきであると思いながらも、師の命令によりむしろ守ってやらなくてはならない存在。
 その矛盾が、クラシスの単純化された思考回路を混乱させている。
 さらに、『彼』がなんの屈託もなくクラシスを慕っている事も、混乱に拍車をかけている。
 師の信頼を得ているクラシスを、『彼』はなんの疑問も抱かず、信頼しているのだ。
――知ってるくせに。
 クラシスは心中でため息を一つ。クラシスが師に、師弟愛以上の感情を持って仕えている事を、彼だって知っているはずなのだ。それなのに、どうしてそう簡単に親しく出来ると思えるのだろう?
 その『彼』――つまり師の命令により『主』《マスター》と呼ばれている男は、そんなクラシスの様子もどこ吹く風。並んで丘の頂上から、面前に広がる緑と蒼や白の花々の競演を、ニコニコと眺めている。
――こんな大事な時なのに、この人は一体何をしているんだ?
 クラシスは居心地の悪さに足をバタバタさせながら『主』を睨んだ。
「ところで、話って、なんですか?」
 そのつもりはないのに、咎めるような口調になってしまう。
「僕、早くアキの所に戻りたいんです。コトが終わったら、側についていてあげたいんで」
 『主』は初めてクラシスに気づいたように、「ん?」と振り返る。
「ああ、ゴメンゴメン。お天気が良いもんだからつい、ぼんやりしちゃってね」
 この男の、こんなマイペースな言動は毎度の事だ。聞かなかった事にして続きを催促する事にする。
「で? 僕を探してた用ってなんですか?」
「ん。えっとね――」
「子供の話なら、僕は関係ないですからねッ!」
 きつい言い方に驚いたのか、『主』は一度その眩しげに細められた目を大きく広げて見せた。もしかしたら聞き取れていなかったのかもしれないと思い、クラシスはもう一度、ゆっくりと言い聞かせてやる。
「子供の事は、僕とは無・関・係、ですからね」
 しばしの沈黙。戸惑うように投げかけられる『主』の視線。
 そして、やっとの事で『主』は口を開いた。
「えっと……もしかして、何か勘違いしてる、の、かなぁ……?」
「何も勘違いなんかしてませんよ。アキと貴方の間に子供ができるんでしょう? 貴方はその子の父親になる。……彼女の名誉の為に言っておきますけどね、彼女の子は貴方の子ですからね? 僕は彼女とそういう関係に――」
「わかってるよ」
 『主』はポンとクラシスの肩を叩き、安心させるように頷いた。
「彼女にとって君は、俺以上に大事な人なんだからね」
 過分な評価と慰めは、空を行く事を許された誇り高い一族の一人である彼を、今まで以上惨めな気分にさせるだけだ。やめて欲しい。
 結局、彼女が自分の人生のパートナーとして選んだのは『主』なのだから。
「違うよ、誤解しないで」
 『主』は慌てたように首を振った。
「彼女は俺の扱いに困ってるぐらいなんだ。君との時間が取れなくなったからね」
「……またですか」
 はっとしたように『主』は口元を押さえ、ごまかすようにニヤリと笑う。
 『主』は時々こんな風に、他人の思考を読み取ってしまう事があるのだ。嫌がられるからやめるようアキにも釘をさされているのだが、当の本人にすれば手を動かす事と同じ感覚で思考を読み取っているのだから、ついつい、こんな風に口にしてしまう。
 バツの悪そうな『主』から、視線を空に移し、クラシスはため息混じりに叫ぶ。
「何はともあれ、これで全て決着がついたワケですよ」
「え? どういう意味?」
 どういう意味も何もない。『主』はまた思考を読んだのか、気弱なため息をついた。
「違うんだ、クラシス。俺達はそんな、男と女の関係とはまた別の関係なんだ。仕事上の仲間っていうのかな? とにかく、俺達は協力し合って子供を作ったけど、それもまた仕事の一環で……義務みたいなものなんだ」
「そうでしょうね。正しく、夫婦としての形です。二人の共同作業って奴ですね」
「だから違うんだってば。夫婦じゃないんだ、パートナーであって、それ以上にはなりたくてもなれないんだよ」
 参ったなぁと、『主』は頭をかいた。
 しばらくの間、何度も同じ言葉を繰り返してはアキとの関係を説明しようとする『主』。うまい言葉が見つからず、憐れなほど頭を悩ませる『主』に、見ていられなくなったクラシスは助け舟を出す。
「で? 結局、僕を探して一体何をお話してくださると?」
「あ、そうだったね。そうそう、そこだった」
 何度も両の手をポンポンと叩きながら、『主』は間抜けな程幸せそうにたるんだ顔を空へ向けた。




 パエラ・ルウマプルが、『魔女の園』の前にある丘のてっぺんで一人膝を抱えるクラシスに気づいたのは、穏やかな陽の光が西日と呼ばれる角度を通り過ぎ、水平線へのダイブを開始した頃だった。青空は端から赤に染まりつつあり、忍び寄る闇が静寂と共に満ち始めていた。
 パエラは広い背中を丸めた黒いベスト姿へ向かって、足音に気を配りながら近づく。寂しげなその背中には、そうしなければならないような寂寥感が漂っていたからだ。発せられた言葉が走る夕風に負けてしまいそうな囁きになってしまったのも、同じ理由からだったに違いない。
「お昼から姿が見えなかったけど……どこ行ってたの?」
「わからない」
 クラシスは力なく即答した。
「ずっと適当に、ブラブラ飛んでたから。君だってあるだろ? なんとなく、いつまでも歩いていたい気分の時。僕らだって同じだ。気ままに、風まかせに飛んでいたい時もある」
 そうねと答えながら、パエラはクラシスの隣りに腰を降ろした。母の形見だという杖を抱えたクラシスは、その材質の知れない黒い柄に頬を押し付け、風に煽られてボサボサになった前髪をうるさげにかきあげた。
「ねぇ、パエラ」
「なぁに?」
「君が弟子になった時、君に酷い事ばかりしてたね……まだ僕ら二人だけだった頃だよ。初めての土地でわざと迷子にしたり、おつかいに渡されたお金をくすねたり。君を湖に突き落とした事もあったっけ」
「そぉーね〜、そんな事もあったわねぇ〜」
 パエラは笑って、クラシスの眺めてる落陽に顔を向ける。
「でも私が一番嫌で悲しかったのは、時計台をよじ登ってる最中に貴方が手を離した時だったわ」
「そんな事、あったっけ?」
「あったわよ〜。貴方がそそのかしたのよ、時計台の屋根の上から、海が見えるぞって。私、その頃まだ海を見た事がなかったから、どうしても見たくなっちゃって。貴方が手伝ってくれるっていうから登り始めたのに、途中で置き去りにして宿に帰っちゃったのよ、貴方。海なんか見えもしないし、見物人は騒ぐし、手は痺れるし、体は冷えるし、飛び降りることもできなかったし。ホント〜、生きた心地がしないっていうのはああいう時の心境ね〜」
「……すまないね、覚えてないや」
「別にいいわよ、アキに怒られてベソかきながら助けに来てくれた貴方の顔、私、絶対に忘れないから」
 記憶の中にある幼いクラシスの姿に思わずこぼれたクスクス笑いにも、クラシスはコレといった反応を見せずに、杖の強度を頬肉で確かめ続ける。
「あの頃の僕は、君が怖かったんだ」
「ふ〜ん?」
「僕がアキの弟子に相応しくないから、代わりの奴を拾ってきたんだと思ってたんだ。アキが僕を嫌いになったんだと思ったんだな」
「あらら……そうだったの」
「実際は違ったわけなんだけどね。君が居ても、ベルーやゲイヴ、ムーやリリ姉弟やミタララが来ても、アキは変わらなかった」
 ため息を一つついて、クラシスは声を強めた。
「今朝、アキは子供を産むって言い出した。君は見たかい? 妊娠するのかと思ったら、とんでもないぜ」
 パエラはええ、見たわよと頷いた。
 彼女達の師匠は、自分の書斎の空間を球形に閉鎖し、その中に閉じこもったのだ。
 その様は、まるで卵の中に閉じ込められた石像のようだった。その動きを止めた腕は、ちょうど何かを抱きかかえる形で止まっており、その腕の中空には……確かに当初は、何も無かった。
 しかし、まるで一滴の染みが広がるように、薄く固まりつつあった魔術の気配は少しずつその存在感を強め、やがていくつかの煌きが星のように瞬きだしたかと思うと、卵のように白い塊として血肉を纏い始め――。
「ムーに言わせると」
 クラシスは抑揚の無い言葉を響かせる。
「彼女はあの閉鎖空間の中だけで時間を遡って、因果律を書き換えているそうだ。意味がわからないけど、要するに今日から存在するわけのない存在を、存在している事にする為に過去を改変しているんだってさ」
「ええ、そうらしいわね。さっき聞いてきたばっかりだわ。私の見立てだと……あのスピードで順調に育てば、日が落ちる前には誕生するでしょうね。つまり、そろそろってコト」
 医学を専門に学んだパエラの言葉に、クラシスは重いため息をつきながら、沈みつつある太陽を眺めた。
 クラシスは一族の伝統の髪型だといって、前髪のニ房だけ長く伸ばしている。一族の元から出奔した今となってはそんな髪型へのこだわりなど無用のはずなのにと、パエラは風にヒュルルとなびく彼の髪の指し示す方向を、茜色の空を右手に望む蒼い潅木の茂みを、何の気なしに眺めていた。
「でもね、クラシス。それぐらいで貴方が落ち込むなんて、随分珍しいじゃなぁ〜い? 師匠がデタラメな程凄いって事は、ずっと前から知ってるじゃないの〜? 貴方、そんな師匠の凄いところに目を引かれて、一緒についてきちゃったんでしょ?」
「……パエラ、それも一理あるけど……違うよ」
 クラシスはパエラの視線に気づいて、前髪を乱暴にかきあげた。照れ隠しとも苛立ちともつかぬ荒っぽい仕草と膨らました頬で。
「僕は、怖かったんだ」
「まさか、師匠の事が?」
 基本的に表情が少なく、張り詰めたその所作からでは到底誰とでも気軽に話すタイプには見えない師匠の事を、初見の者はよく誤解してしまう。畏怖を感じてもおかしくはない。
 だがクラシスは否定に首を振った。
「違うよ。僕はアキのおかげで一族の一員になれた。でも……その後、アキなしで、一人で一族のみんなと生活するのが怖かったんだ」
 膝を抱えて顔をうずめながら、クラシスはボソボソと呻いた。
「僕にみんなが何をしてくるのか想像できなかったから。一度は僕を殺そうとした人たちだったし。アキのおかげで僕が族長になる事を認めただけだったから、あのままアキと別れて、後見のいない五歳の族長が、どれだけの間生きていけるのかわからなかった。知ってるかい、パエラ。僕の一族は、みんな僕よりずっと大きいんだぜ? 僕の腹違いの兄なんか、確実に三メートルはあった。四メートル越えてたって驚かないね。そんな場所だぜ? 僕なんてこうして成人しても、あの村に戻ればまだまだチビスケさ」
 パエラはクラシスの広い肩幅に、自分の右手を精一杯伸ばす。引き寄せる事ができない代わりに、自分の身をもたれかけさせる。
「何言ってるのよ〜。今の貴方は大人だし、私たちにとってはじゅ〜ぶん、大きいわ〜」
 クラシスは何か否定じみた言葉を発したようだったが、パエラには聞き取れなかった。それでも彼女は構わなかった。むしろ聞こえていない方が、自分の言いたい事を忘れずにすんでいいとさえ思う。
「貴方の体の大きさなんてね、アキもみんなもどーでもいいのよ〜? 私たちが寄りかかって、それでも倒れないだけの大きさなら十分」
「おいおい……僕は壁でも柱でもないんだけどな」
「なに言ってんのよ〜、柱も柱、大黒柱じゃないの〜。どうしてアキがここに『主』を連れてきたと思うの〜? どうして子供を産むなんて考えたと思うの〜? この土地に、ここにクラシスが居て、アキの家を守っていて、どんな時でも師匠の帰りを待っててくれるからじゃないの?」
 貴方がいるからなのよと重ねてパエラは続けた。
「貴方がいるから、アキは安心していられるんじゃないの」
「……ありがとう。でも――」
 クラシスは大きく重い息を吐くと、抱えていた膝の中に顔を伏せた。
「昼に、『主』と話をしたんだ」
「うん、捜してる時に会った。朝、アキの話を聞いてぼんやりしてる貴方を起こしたら、顔を見た途端逃げ出したんだってぇ〜?」
 『主』の困り顔を思い出して、パエラは思い出し笑い。自分一人では何一つといって良いほど何もできない『主』が、困った顔で立ちつくしているのはいつもの事だが……その視線の先にアタフタと逃げていったこの細身の大男の姿があったと思うと、やはりそれはそれで笑いを誘う。
 クラシスもその時の事を思い出したのか、ちらりとパエラの表情を伺いながら苦笑。
「『主』が言うにはね」
 クラシスはパエラから目をそらして、自分自身に確認するかのようにゆっくり呟いた。
「『主』はあと数年しか、ここには居られないんだそうだ。別の場所で、別の仕事があるって、アキがそういうんだってさ」
「仕事? 『主』に仕事なんてあったの?」
「そうらしい。もっとも、あの人自身も仕事の内容なんてよくわからないらしいけど、ある時間にある場所に居なきゃならないらしい。ここにいるのも、アキがその仕事をさせる為に連れてきたんだってさ」
 難しくて僕にはわからないんだけど――クラシスはそう念を押して続ける。
「だから、今日生まれた子供を、僕に預けたいんだって。僕に、アキと子供の事をよろしく頼むって。もうすぐ居なくなっちゃうから、今のうちからお願いしたいってさ」
 パエラはクラシスの心中を思って、そっとその手をとった。
「そうか……怖いのね」
「うん」
 素直に頷く彼の姿に、パエラは少なからず驚いた。それは、この事態に彼がどれほど動揺させられているかという事実を言外に、そして雄弁に語っている。
 そして、一度その気持ちを吐露したクラシスは、言葉でも訴える。
「二人の子供を、僕は普通に接してあげられるのかな? 君の時みたいに、いじめたりしないかな? 僕は……僕はアキも、『主』も大好きだ。みんな誤解してるかもしれないけど、僕は『主』も嫌いなんかじゃないんだ。ただ……納得がいかないだけで。きっとアキの事がなければ、ずっと友達でいたいと思えるだろうし。要するに、どうすればいいのかわからなくて、さ。だからあの人と話したくなくて」
 クラシスはパエラの表情に目を落としながら、それでいて何も見ていない目で、自分に確認する。
「うん。きっと僕は『主』の事が好きなんだ。わかってる。いや、わかってた、かな? だから、あの人の頼み事なら、ちゃんと聞いてあげたいと思ったんだ。無条件に」
 言葉だけなら自己欺瞞にも聞こえるその言葉を、パエラは彼の本心なんだろうと解釈した。
 おそらく彼は、今まで自分と『主』の事を真剣に考えた事が無かったのだ。互いの間に師匠がいるという事実だけで、クラシスには『主』への憎悪を抱く理由ができてしまう。そして師匠の愛する『主』を慈しむべき理由も。
 その相反する感情と命令の混乱から、クラシスは『主』に対する個人的な感情を表現する事を拒否してきたのだ。
 師の信頼を得ているが故にクラシスを『主』はなんの疑問も抱かず信頼し、クラシスはその事を満更でもなく思い、『彼』を徹底して憎むことすらできないという両者間の真実を、受け止められずに来たのだ。
 だが今は違う。
「だけど……僕は、ちゃんとアキの子供って事実を、ちゃんと受け止められる自信が無いんだ。その子を目にして、自分が何をしでかすのか想像もつかない。育てるとか守るとか、そういう事以前に、どうすればいいのかわからないんだ! 赤ん坊を殴ったり踏みつけたりするかもしれない。自分がそんな事をする人間だとは思いたくないけどね、でもわからないから怖いんじゃないか。ホントは逃げ出したくてたまらないんだよ! でもアキがここに居て、今、子供を産もうと、育てようと苦しんでるんだったら、どこにも行けやしないじゃないか! どうすればいいのかわからないんだよ!」
 うろたえるクラシスに、最初こそ同情と同感を持って見守っていたパエラだったが、その身振り手振りを交えて混乱を訴えはじめる大男の姿は徐々に滑稽以外の何ものでもなくなっていき、ついに彼女は笑いを吹き出してしまった。
 彼女の反応に、驚いて言葉を切る兄弟子。憮然とした表情でパエラの額をコツンと小突きながら
「……笑うなよ。お前にまで馬鹿にされるほど、醜態を晒してるとは思いたくないんだけどな」
「ごめんごめん〜。でも貴方がそこまで真剣に子育てを考えてるなんて、思いもしなかったから〜」
「だって、僕は赤ちゃんなんて育てた事ないんだぜ!?」
「世の中のお母さんは、みんな最初は育てた事なんてないでしょ?」
「僕は女じゃないんだ。わからないよ」
「女だから知ってるわけじゃないわ。貴方らしくも無いわね、やってみるのが一番だって、どうしてわからないの?」
「だって、何か間違えたら――」
 パエラは自分がやられたように、クラシスの額を小突こうとした。額の位置が高すぎて手が届かなかった分、仕方なく肩に拳を着ける。
「貴方が間違えたら、私がいるわ。私が間違えたらベルーがいる。ベルーが間違えたら、ムーがいるし、ムーが間違えたらゲイヴがいる」
 クラシスが驚いたように顔をあげた。心の底からの驚愕を表現するポカンと開いた口に、パエラの方が戸惑ってしまう。
 パエラは思う。この男は時々、自分がどれだけ沢山の兄弟と共に暮らしているのかを忘れてしまうのだ。異種族の中に一人だけ居るというのは、どうしてもこんなすれ違いを生んでしまうのだろうか?
 いつだってこの男には、自分とアキの二人しかいないらしい。悲しく哀れな程に、この男には『自分の味方』が存在する世界を知らないのだ。
 そしておそらくパエラやその他の弟子達も、この男にとっては守るべき存在でしかなく、それ故に決して『味方』ではないのだろう。
 だからパエラは告げる。それは間違いだと。
「ゲイヴがダメならレイランが、レイランがダメならレイザンが、レイザンがダメならミタララが。誰かが間違いを正してくれる。それが家族ってもんじゃないの? ここに集まったアキの弟子は、みんな家族なんじゃないの? 貴方は違うの? 私のお兄ちゃんじゃないの?」
 クラシスは、黙った。
 拒否なのか葛藤なのか、彼の顔は何度も引きつっては元に戻ろうと四苦八苦し、何度か髪を掻き毟った。
「僕は……僕は、違うッ! 君たちとは違う、だからダメだよ、無理だよ、違うんだからッ!」
 ようやく搾り出したその言葉に、パエラは即答。
「違わない」
 ミタララがこの場に居たら目を丸くするだろう。パエラはあえて自分のルールを――ゆったりとした口調を歪めて見せた。当然の事ながら、彼女だってその気になればいくらでも早く話せるのだ。ただ、彼女の人生哲学に則って、何事も見落とさないよう、じっくり話し考えているだけで。
 必要があれば、即答してみせる。そして今がその時だった。
 兄弟子の間違いを正すべき時なのだ。切っ先を閃かせるのと同じ速さで言葉を繰り出すべき時。外科手術の最中でモタつく医者に、人を救える者がいるだろうか。
「人間じゃないんだ、だからわからない!」
「中身は人間じゃない。翼を見せるのも苦手だし、私達を食べようとした事も無い。私は貴方が別の生き物だなんて思った事ないわ」
「でも――」
「違わないよ、クラシス。違わないから、みんな貴方と一緒に暮らせるの。違わないからアキがみんなを集めたの。みんな貴方に頼る事ができるの。どうしてわからないの?」
 パエラは遠くに響く人の声に振り返った。丘の先に浮かび上がる自分達の家から、駆け寄ってくる白いシャツの姿。『主』が手を振りながらこちらに駆けてくる。
「みんなで育てればいいのよ。貴方だけじゃなくて、みんなで。貴方が一番年上だから頼まれただけよ、貴方ができないところは私達がやればいいの。全部背負い込むような事をするから困ってくるのよ。貴方の背中は広いけど、背負える限界がある事だってみんな知っている。持てない物まで持たせるほど、私達もアキも馬鹿じゃないわ。ほら、立って!」
 無理矢理クラシスを立たせると、彼も『主』の姿に気づいたようだった。逃げ腰になり後足を引くその姿を、パエラはしっかり腕を掴んで逃さなかった。
「クラシス! パエラ! 早く、早く来てくれ!」
 息を切らせて二人の元にやって来ようと丘の斜面でもがく『主』は、笑顔で赤い屋根の我が家を指差した。
「アキが、出てきた!」
 その言葉を聴いた瞬間、弾かれたように走り出そうとしたクラシスは、続いて生じた魔術の気配に足を止めた。
 よく知る、柔らかな鉛筆の芯のような硬い気配。一点の染みのようなその気配は、渦を巻いて周りの魔術要素をかき集めると瞬時に物質化して、ずっと前から存在していた確かな命へと形作られる。
 パエラはすぐ傍の丘に現れた師匠の気配に、思わず微笑む。
「お疲れ様、アキ」
 いつもどおりの白いコートと黒いスーツ姿で、美しく気高い師匠はそっと、愛弟子の一人に頷き返した。
 師匠の右手の先には、既に五歳児相当に成長した小さな人影。白いワンピース姿の少女は、まだ肌寒い四月の風に寒々しい。師匠もそれに気づいたのだろう。コートの内側へ手を入れたかと思うと、何の前触れも無く黒い毛皮のマントを取り出して、子供の肩に掛けてやる。
 そこでやっと丘を登りきった『主』に目をやる。束の間、驚きに目を瞬かせた師匠はすぐに「すみません、こちらの方が早かったもので」と頭を下げた。『主』は自分の両膝に手を当てて息をしながらもニコニコし――でもやっぱり息が続かないのだろう、声も無く手を振って、自分は大丈夫だと示す。
 フラフラの『主』の体を抱きとめて背を擦ってやりながら、パエラは改めてアキと手を繋いだ少女に目をやった。
「師匠、その子が新しい家族?」
 パエラの問いかけに、精巧に作られた人形のような少女が、真っ赤な髪を夕の風に流しながらパエラをじっと見返す。生まれたばかりだというその姿は、人離れした師匠の面影を強く映していた。
「……違う、その娘じゃない」
 アキは少女を抱き上げながら、少女の見ているものを否定した。師匠の左目の赤の虹彩と、右目の黒い虹彩がおもむろに一点を目指し、その場で凍りついたように動けない男を指し示す。
 師匠がこの場に姿を現した時からずっと、逃げ腰の体勢のまま、子連れの師匠の姿を凝視していた一番弟子を。
「クラシス」
 アキの言葉に、クラシスはフラフラと師匠に近づいた。まるで師匠の声で催眠術を掛けられたように。
 さすがに呆れたのだろう。師匠はギクシャクとしながら自分を見下ろす弟子を見上げて、困惑を滲ませた声色で命令した。
「なんだ、そのザマは。もう少しシャキッとしないか……子供とはいえ、初対面の相手がいるんだぞ。礼を欠くと思わないのか」
「アキ、体は……どこか苦しいところとか痛いところとか、ない? 早く休んだ方がいいよ、もう日が沈むから寒くなる」
 手を伸ばしたのは良いが、触れてはならないとでも思ったのだろうか。何度も触れようとしては腕を遠ざける彼の奇妙な素振りに、クラシスの動揺が師匠にも伝わったらしい。
 アキは唇の端をわずかに持ち上げて、笑った。
「大丈夫だ、自分の体の事は自分でわかってる。心配するな」
「でもアキは時々無茶するから」
「……お前に言われたくは無いぞ」
 笑いを含む呟きのまま、師匠はクラシスがよく見えるように少女の体を向き直らせた。
「これがクラシスだ」
 少女の大きく黒い瞳に射抜かれ、一瞬だけクラシスはたじろいだ。
「クラシス」
 少女は子猫のような、小さく甲高い声で、ゆっくりと囁いた。
「貴方がママの、とっても大事な人ね?」
 息を飲むクラシスに代わって、アキが答える。
「そうだ。そしてお前の大事な人でもある……お前の未来にどんな事が起ころうとも、この男はお前を一人にはさせない」
 アキは少女をクラシスに向かって差し出した。
「抱いてやってくれ」
「あ……アキ、この子、しゃべってる! もうしゃべってる!」
「先に教えておいたんだ。胎教だとでも思ってくれれば話が早い……お前だって、言葉が通じてる方が面倒が無くて良いだろう?」
「で、でもアキ、僕、こんな小さな子を抱っこした事なんて――」
「お前ならできる。どうせ何度も抱くようになるんだ、今から抱く練習をすればいい」
 おずおずと少女の小さな体を受け取りながら、何度もクラシスは少女の体を持ち直そうとした。本当にキチンと抱けているのか確かめるように。
 一方、少女はそんなクラシスの動きをもどかしそうに体を捻って訂正する。ちらちらと母親を気にする視線は、自分を抱く男の不器用さに対する抗議だろう。
 何とか形だけでも抱く事ができたクラシスは、パエラに付き添われてやってきた『主』に少女を見せた。
「ほら、貴方の娘ですよ、『主』」
 『主』は目を何度も瞬かせながら、少女に笑いかけた。
「何度見ても信じられない、君が俺の子供だなんて……こんなに可愛いのに!」
 少女の頭を撫でながら、『主』は目を細めた。
「はじめまして、カノン。俺達の世界へようこそ」
「カノン?」
 クラシスの問いに、『主』はキョトンとした表情を浮かべた。クラシスは首を捻って重ねて訊ねる。
「カノンというんですか、この子?」
「え? ……俺が言ったの、それ?」
 二人の男は沈黙。事態が把握できていない二人に、アキがいつもどおり、淡々と
「貴方が言ったんですよ、『主』。そして貴方が言ったのならば、この子はカノンという名なんです……貴方の知らない貴方が、この子をそう名づけていたという証拠なんですから」
 そして師匠は「よかったな、カノン」と自分の娘に話しかける。「自分の名前がわかって」
「そう。私の名前はカノンっていうのね?」
「そうだ」
 カノンは小さな手を伸ばして、クラシスの首にしがみついた。
「はじめまして、クラシス。私はカノン。ずっとそばにいてね」
 大男が目を白黒させているうちにさっと頬に唇を押し当て、無邪気に笑う少女。生まれたばかりとは思えない予想外の行動に、クラシスは頬を赤らめて応じた。
「ああ……はじめまして、カノン」
 パエラは自分が微笑んでいる事に気づいた。クラシスったら、あの分ではいじめるどころの問題じゃない。すっかりカノンのペースに巻き込まれてる。当分の間は、この愛らしい少女を育てる事にクラシスのみならず自分達も振り回されるのだろうが……それがなんだというのか。嬉しい悲鳴以外のなにものでもない。
 そしてその事が、自分達みんなの絆をより深めてくれれば、それに越した事はない。
 パエラはクラシスの腕の中の少女の手をとり、親愛と歓迎の情を込めて
「はじめまして、カノン。私はパエラよ」
 真っ赤な髪の少女は、煌くような瞳を笑みに細めてパエラの手に口付けた。
「はじめまして」
 少女は嬉しそうに言葉を発し、そして沈みきろうとしている夕日に目をとめると、不思議そうに、光が消えるのを眺めていた。

 それは遠い過去の、四月一日午後の出来事である。



 〈「四月一日/午後」・了〉




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