3・最初の朝
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 日が昇った。
 新しい年の最初の朝日だ。いつもと変わらぬはずの空気に、景色に、暦で区切られた時間は特別な意味を持たせる。零に撒き戻された一年の一日目を数えることによって、一年という枠の全てが始まる。ただそれだけなのに、見慣れた景色はほんの少し色を変えて広がった。
 何度見ても、何度数えても、この最初の朝日は特別な感銘を彼に与えつづけている。
 そして彼は思う。
 『彼女』の声が聞こえなくなって、もう何年だろう?
 ぼんやりと、窓枠に腰掛けたまま迎えた朝日の輝きを眺め、彼は――クラシス・ホワイトムーンは思う。
 今住んでいるマンションを彼はとても気に入っていた。静かで落ち着いた佇まい、危なっかしいほど生真面目な管理人、個性的で楽しく、自分のワガママを呆れつつも受け入れてくれる住人達……全てが理想的だった。
 だから先日まで、彼もここで眠ることが出来たのだ。自分の犯した罪も忘れて。
 でも今はどうだ?
 全てが元通りだ。ここに来る前と同じ。誰も手出しのできない空飛ぶ船の中でも感じた、我が身をさいなむ焦燥感
 瞼を閉じれば、浮かぶのは死体の顔ばかり。己が手にかけた人たちの恨めしそうな顔、顔、顔。宗教的熱狂に駆られ、自分たちの女神を追放した罪人に――彼らに言わせれば『悪』そのものである存在に――力及ばず敗れた末の悔しそうな眼、眼、眼。
 特に『あの男』の顔が――まるでそうなるのが当然のように穏やかな顔をして死を迎えた「あの男」の顔が、最後の言葉が、彼女の声の代わりに聞こえてくる。
『しかたないよ、俺でも、そうするかも……ね』
 苦しい息。泣き出しそうな声。様々な恐怖と戦いながらも彼は、安心させるかのようにクラシスへ語りかけた。
『大丈夫、みんな――』



 みんな――。



 ドアの側にやってきた静かな足音に、クラシスは物思いから覚める。傍らにあった杖を握りなおし、襲撃に備えようと身構えた。
 が。
 ドアを開けて滑り込んできたのは、重たげなほど重ねられた古風なワンピース姿の少女だった。
「おはよう、船長……」
 大きく潤んだ寝ぼけ眼を擦りながら、同居人の少女は挨拶をした。少女とはいっても外見だけだ。中身は何百年と生きている魔術的生物。概念的には『あの男』と『彼女』の子である生命体。
「おはよう、カノン。どうした? 今日はヤケに早いじゃないか。初日の出でも見たかったのか?」
「どうしたも何もないわよ」
 頬を膨らませて、五歳児は抗議する。
「誰かさんが吸ってた煙草の臭いが酷くて。夜中に何度も起きちゃった。初夢も何もないわよ」
「ああ……そりゃ悪かったな」
 言葉だけの謝罪に、少女はますます頬を膨らませた。クラシスはそれを、なんだか不思議な物を見るような気分で眺める。
 なぜ、ここに居るのはカノンだけなんだろう?
 なぜ、『あの男』はここに居ないんだろう?
 なぜ……『彼女』がここに居ないんだろう?
 理想的な家族――何も無かった自分に与えられた、守るべき最後の幸せ。大事な大事な人たち。
 なぜ、ここにないんだろう?
「クラシス」
 不意に鋭く名を呼ばれ、彼はあらためて少女を眺める。母親そっくりの力強い輝きを放つ双眸が、クラシスの心を読んだかのように厳しく視線を送ってくる。
「どうしたの? 最近、変よ? また夜眠れなくなっちゃったみたいだし、煙草まで持ち出して。やめたんでしょ、煙草?」
「変、かな?」
「絶対変」
「じゃあ変なんだろ。お前が言うなら間違いない」
「『じゃあ』じゃないでしょ」
 少女はトコトコと彼の足元に駆け寄ると、木登りでもするかのように彼の足にしがみつく。近くにあったキャビネットも利用し、驚くほど早く彼の足を登りきった少女は、彼の腰掛けていた窓枠に足をついた。
「わあ、いい風〜!」
「寒くないか? 体に障るぞ」
「馬鹿ねぇ〜、ここにちょうどいい風除け兼毛布があるのに」
 カノンは呆れ顔で――そして当然のように、クラシスの膝に腰をおろした。勢い余ってバランスを崩し、頭から床へ転がり落ちそうになる幼い体を慌てて抱きとめるクラシス。
「なに考えてんだ、危ないじゃないか!」
「ナイスキャッチ、船長。ウフフフフ〜、やっぱりあったか〜い」
 カノンはクラシスの腕をマフラーのように首に巻きつけようと誘導しながら、にんまりとした。
「昔から船長の体温は高いからね」
「……僕をカイロがわりにす・る・な」
「あれ? プライドが傷ついた? いいじゃん、昔はいつもこうしてくれたじゃない」
「何年前の話だよ!?」
「さあ? 随分昔でしょ? ママの弟子が八人ぐらいの頃かな? 私が生まれて五年ぐらいの間は、いつもこんなんだったじゃない」
「でも今は違うだろ」
「うん、違う。ここに居るのは貴方と私だけだし」
 カノンはクラシスの腕に顎を乗せながら、朝焼けに濁る空を眺める。
「赤いね。真っ赤だね」
「ああ」
「パパが血まみれで倒れていた時、私、こんな風に世界が見えた」
 どきりとした、その心音はカノンに聞こえただろうか。胸に当たる彼女の頭部をクラシスはあらためて意識する。当の本人は全く気づいていないように言葉を続けるが。
「貴方が帰って来た時、貴方が真っ赤に見えた。ママの白いコートも真っ赤に見えて……世界中の何もかもがとても小さなレベルから引き裂かれていて修復できないのがわかった。たぶんアレは……あの時、ママの見ていた世界だわ。夕焼けの世界」
 他人の情報を無意識のうちに――それも視覚的のみならず、魔術的な裏側の部分まで一緒に取り込み、自らの体を変化させることのできるカノンは、母親の裏側にも同調し、その情報を取り込んだのだろう。
 『彼女』の心の痛みを。苦痛を。絶望を。
 クラシスはカノンのつむじに自分の顎を乗せて囁いた。
「僕は……自分が間違った事をしたとは思っていない」
「うん」
「でも皆が言うように、僕が何もしなければ――少なくともお前は幸せだったはずなんだ。あの時の僕にはそれがわからなかった。思いつけなかった。長い間聞こえていた『彼女』の声が苦しそうで辛そうで、ジッとしていられなくて……」
「わかってる」
 それ以上何もいうなと、カノンはくるりと振り返り、人差し指をクラシスの唇に押し当てた。
「ごめんね、新年早々変な事言っちゃって……単純に思い出したから言っただけなの、貴方を責めてるわけじゃない。……だって私、知ってるもん。貴方は何も悪くないって」



 『あの男』は言った。
『大丈夫、みんな――』
 みんな――貴方はみんなが許してくれるというんですか?
 いいえ。僕はただ、『彼女』に許してもらえればそれで十分なんです。
 もう二度と会えないのだろうけど。



「だからそんな顔をしないで。まったく、船長ったら、変なところで真面目なんだから……いつもそうなら私も苦労しないのに」



 貴方ならわかるんでしょうか?
 この子は、いつか私を許してくれるんでしょうか?
 一時の気休めや同情からではなく、心の底からの許しを、私に与えてくれるんでしょうか?
 そんな日が本当に来るんでしょうか?



「今、私たちが見ているのは新しい世界よ。同じ赤でも始まりの世界、朝焼けの世界。仕切りなおしこそすれども、必要以上に振り返ることなんてしなくていいのよ」
「……言葉でならなんとでも言えるさ」
 カノンは呆れたため息をついて、突然クラシスの膝から床に飛び降りた。
「しょうがないわね……寝不足ほど精神に悪い病気はないわ。あっま〜いホットミルク作ってあげるから、今からでも眠りなさいよ? 病院は休みだし、一日ぐらい貴方の秘書代わりになってあげてもいいわよ? 襲撃の心配なんてしないで、ぐっすり寝なさい。ちゃんと見張っててあげる」
「カノン」
「何よ、文句あるの?」
 急に苛立ちながら振り返る少女に、クラシスは昇り始めた朝日と同じ眩しさを感じた。それは自分とは違った種類の強さを持つ相手の、その生命力に対する敬意だ。
「文句なんてないさ。ただ……」
 ただ少女に礼をいうだけなのに、なぜこんなに手続きが必要なんだろう?
 不安定な精神状態、心を揺さぶる辛い思い出、さりげない優しさ、そして……新しい年の最初の朝。
 全部が揃って、やっと彼は口するきっかけを得る事ができる。
「ただ……」
「ただ?」



「……いつもありがとう。今年もよろしくな」



 カノンは驚いたように、その大きな目を更に大きく広げた。そして、大人びた笑みで微笑んだ。
「こちらこそ、よろしくね」
「ああ」
「今年こそママに会えるといいね」
「お前も病気が完治するといいな」
「人の心配してる場合? いい加減に昔の事は忘れて、ちゃんと眠れるようにしなさいよ? 私は全然気にしてないんだから」
「……そうだな。努力するとしようか」
 二人は頷きあい、そして視線を逸らす。カノンはキッチンへ続くドアへ、クラシスは再び窓の外へ。
 そして全てがいつもどおりに動き出す。

「ねぇ、ミルクにどれぐらいお砂糖入れる?」
「二個以上はいらない」
「それじゃ甘くないじゃない……ちょっと、ミルク無いよ? 買い置き買っておいてっていったじゃない。あ、瓶一本残ってる……賞味期限五日前に過ぎちゃったけど、温めるからいいよね?」
「待ちなさい! それはまずい! なんで捨ててないんだ?」
「さあ? チーズでも作ろうとしたんだっけ? でもあんたみたいな鈍感男なら飲んでも大丈夫」
「それとこれとは関係ない、絶対、関・係・な・いッ! それに僕は繊細かもしれないけど、絶対に鈍感なんかじゃないぞ!?」
「何よ、新年最初の私の料理に文句つける気ッ!? それに何が繊細よ、いつだって自分でいってる奴が一番鈍感なのよ!」
「レンジでチンするだけで、そんなの料理って呼べるかッ!?」
「塩水を作るのだって職人技なのよ? 知らないの?」
「僕がお前に求めてるのはそこじゃないだろ!? コラ、やめろってば!」
「嫌ぁ〜、『船長の一人胃袋耐久レース』やるのぉ〜!」
「変なレースを考えるんじゃない! 賞金も出ないレースなんて、やってたまるか!」



 二人は最初の朝日の中、最初の口喧嘩をした。



〈「最初の朝」・了〉
 



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