14・最初のつまづき
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 今でこそ、その小さな山村を貫く道は大陸街道と呼ばれる要所だが、当時のそこは、便利だと認識しはじめた各地の商人たちが月に一度、一隊でも通れば良いような道で、当然道幅も荷車がようやく通れるような、小さなあぜ道めいたものだった。
 周りは延々と続く山々と黒々とした木々に囲まれ、かろうじて作られた集落は、茂みの隙間に顔をだす小さな草花にも似ていた。
 二百年もすればそれらがどれだけ大きな宿場町になるかなど、当時の人々は想像する事すらできない。
 国と呼べるような組織は少なく、更に交流の少ない大陸の真ん中にある場所など、その土地土地の長が慣習に則って物事を行っていたような時代のことである。


 そんな時代の山間の村の、更に辺鄙な村はずれにあった粗末な小屋の前。
 森との境目にあったその小屋は、一月ほど前、木こりの一家が熊に襲われて全滅するまで使われていたものだった。
 そんな忌むべき場所だ。村の中心を横切る大通りからもはずれた場所に、通りかかる人影などありようもない。
 その一画から、こもった打撃音が響きはじめてどれほどたっただろうか。

 少年はふと、痛みの中で自らの身を省みた。
 以前通りかかった市場で作ってもらった変わったデザインの上着やズボンは、もはや新品の輝きも失い、泥に汚れ、湿り、べっとりと濁り水の染みがついていた。栗色の髪も泥水の中を転げ回って以来、ひっきりなしに黒い泥水を滴らせ、特に前髪は短く切っていたにもかかわらず眉間を中心に顔に張り付き、視界に影を落としていた。
 少年はそれらの現状を目にしただけで、痛み以上の心痛で泣きそうになる。
 体の至る所から発せられる痛みは、いつ頃から赤い熱さに変わったのかわからない。
 気づけば、体中に幾度となく叩き込まれ続けている不格好な歩行用の杖の重さは、体を膨れ上がらせるような熱となって少年の動きを鈍らせ、考えることそのものを困難にさせていた。
 次の攻撃に備えようと、わずかに襲撃者の姿を目にとらえる。
 髪を振り乱した襲撃者は、女性だった。少年の目にすれば、ちょうど母親ぐらいの年齢に見えたが、はっきりとはわからない。なぜなら、相手は吹き出物と膿だらけの顔に汚い包帯を巻き付け、その顔の大半が隠されてしまっていたからだ。灰色に汚れきった長い髪と衣類は脂だらけの上にボロボロで、体のあちらこちらからやはり包帯をのぞかせていた。ねじれて硬直してしまったような片方の足には、何度も転んだらしいたくさんの傷と治りきってない故の生々しい体液がテラテラと光っていた。
 それらの異様な格好を霞ませるほどに強烈なのは、その眼光だった。大きく見開かれた目は血走っていて、絶対に少年たちを逃さないという決意と憎悪がみなぎっていた。
 そして、たとえ病気の女性であろうとも、大人が本気で振り回した棒がどれだけの破壊力を持っているのか――子供たちは、考える力を失ってはいても、我が身で理解し、せざるを得なかった。
 少年は時々、体の下に抱えて隠した少女の様子を気づかった。
 顔立ちこそふっくらとした田舎風の少女だったが、その格好はこの辺りの山村では見かけない、可愛らしい花々をモチーフとした艶やかな衣装だった。
 もしかしたら、相手を少しでも喜ばせようとして用意した衣装だったのかもしれない。
 赤茶色の髪を飾っていた白いリボンは踏みにじられた跡もあり、少年の服よりも更に泥だらけになっていた。大地に広がった少女の髪の端々には小さな泥の固まりと泥水の玉が絡み、頬には地面に倒れた時につけたのか擦り傷があった。
 少年に庇われてはいたが、大人の怒りをまともに受けた小さな体はガタガタ震え、体に打ち付けられる杖の音の隙間から途切れ途切れで消えそうな浅い呼吸を、必死の面もちで続けていた。
 少女は現実的な恐怖から逃げだそうとしていたのか、まるで小さく丸まれば個の世から消えてしまうかのように固く固く、岩陰に隠れる虫のように縮こまっていた。

 五歳。

 少年は思いがけない場所――腰の周辺から突然首筋を打たれた痛みを紛らわせようと反射的にのけぞりながら、瞬間的にそんな文字を脳裏に浮かべた。
 自分たちの年齢。
 でも少女は、少年を――クラシスを、七歳の従兄弟より大きいと言っていた。
 クラシスは混乱する脳裏に、途切れ途切れの言葉を必死で浮かべる。


 本当に七歳なら、こんな痛い思いをせずにすんだのかな?
 いや、誰でもこうなってたと思う。
 でも本当に?
 きっかけは自分。
 自分が悪い。
 少女をこの場に連れてきたから。
 でも全て丸く収まると思った。
 みんな笑顔になると思っていた。
 でも現実はコレだ。
 スーを守らなきゃ。
 こんな事になるんだったら……。
 絶対に連れてこなかったのに。
 少しでも守らなきゃ。
 スーの母様だって人間だ。
 病気でボロボロの姿でも。
 森の魔物のような姿だったとしても。
 生け贄になった腐りかけの――いやいや、串刺しの鹿みたいでも。
 それでも、人間だ。
 こんなに何度も何度も杖を振り回していれば。
 もう少し待てば。
 そのうち疲れてどこか行ってしまう。
 ちょっとした台風だ。
 母様や義兄弟たちだってそうだった。
 どんなに怒っていてもいつかは疲れる。
 いつも通りだ。
 こらえていれば通り過ぎる。
 でも今日はスーもいる。
 自分一人なら我慢できる。
 けどスーはどうすればいいんだろう?
 どうすればいいんだろう?
 どうすればいい?
 どうすれば?


 クラシスは痛みに鈍る思考を必死にかき混ぜ、そんなことを考えた。
 その間にも振り下ろされた杖が眼の端に当たり、あまりの痛みに片手で押さえてうずくまろうとする。
 バランスを崩しかけ、体の下にいるスーを思いだし、眼から手を離して体を支える。痛みはまだ眼の中をぐるぐると走り、痛みを押さえつけようとクラシスは瞼を更に強く閉じる。
 その反射的な動きとは別に、脳裏には自分を納得させようとする言葉が乱舞を続ける。

 どうすれば?
 どうすればいい?
 アキはやめろって言ってたのに。
 アキはこうなるってわかってたんだ。
 きっとそうだ。
 アキに怒られちゃう。
 アキに置いてかれちゃう。
 アキ、どこにいるんだろう?

 それらの全てが理解できたわけではない。それだけの余裕はない。それでも、肉体的な痛みから意識を逸らす手助けにはなっているようだった。

 その最中、死ぬのかなと、不意に言葉にならない言葉が腹の奥に沸き上がった。


 目の前で鳥や獣についばまれ、食い千切られ、腐り、崩れ、肉塊となった母の死体を思い出した。
 目の前で失った、あの厳しくも美しかった母の姿が、醜く変色し腐り臭い膨れ上がる様を思いだした。
 クラシス少年は、師匠のアキに黙って出てきたことを後悔していた。
 ここで死んだら、自分の事を誰も知らないこんな場所では、あんな風に生け贄にされてもしかたがないともわかっていた。
 それどころか、生け贄にすらならずに、森の中で腐っていくこともわかっていた。
 そんな子供の死体が、どうして自分だとわかってもらえるだろうか――クラシスは腹の奥の冷たい感触をもう一度思い出す。

 死んだらもう二度とアキに会えない。

 確定的な言葉が脳裏に浮かぶとともに、腹の奥の溜まっていた恐怖は全身を震わせるほど冷たくなった。体表の痛みや熱さえも、一瞬にして凌駕するほどの、巨大で圧倒的な絶望の固まりがそこにはあった。


 あんなのはイヤだ!
 イヤだイヤだイヤだ!
 怖い怖い怖い!
 死にたくない、死にたくない、死にたくない!

 恐怖の冷たさは、クラシスの周囲にあったもの――風も地面も日光も、自分の庇っている少女も、その下にあった芽吹いたばかりの雑草も――何もかもから、少しずつ、小さな「存在の欠片」を吸い込んでいった。
 アキの弟子として、最初に教えてもらった方法。
 クラシス達の一族には、人には出来ない事ができるんだと。
 息を吸うように、魔術要素を集め、身体を通して精製し、生成することが。
 その力を持って、アキに仕えるようにと、教えてくれたのだ。
 そして、アキに仕え続ける為には、どんな相手であろうと――戦い、生き延びろ、と。


 あんなのはイヤだ!
 死にたくない!
 まだ死にたくない!
 アキのところに帰りたい!
 帰りたい!
 帰りたい!
 帰せ!
 帰せ!
 帰せってば!

 クラシスは痛みで腫れ上がる体の、その体内に集まってきたソレを解放した。
 力は体の機能上、出口として用意されていた肩胛骨から外に吹き出し、空中で結晶化、物質化して形を成した。
 魔力によって作られた、小さな翼。
 いや、少年の身には十分に大きかった。
 身の丈を越え、広げた腕の長さの倍ほども広く、柔らかく柔軟でありながら、物質化した羽根の骨は蒼く硬く引き締まっていた。
 曲線を描いた一部は光を屈折させ、拡散させ、透明になり、どこともなくキラキラと輝いた。



 体の下に隠されていたスーには見えなかったのかもしれない。
 だが、自分たちの周りに蒼い輝きがあふれるのを見て、何か想像もつかないことが起こったことに気付いたのだろう。
 スーの体の震えが止まった。
 一方、ずっと少年少女を殴り続けていたスーの母親は手を止め、不吉な鳥のように悲鳴をあげた。

 クラシスの一族が住んでいた地方では、翼人種はそうそう珍しい存在ではなく、むしろ、人間をさらう存在だと恐れられていた。
 その地方の人々なら、翼を見ただけで立ち去ってくれたかもしれない。
 だが、ここは少年の生家の近くではなかった。

 スーの母親にすれば、変わった服を来た素性のわからぬ子供が、突然、見知らぬ化け物に変身したのだ。
 悲鳴は恐怖に満ちていた。
 後ずさりする気配を感じたクラシスは、逃げるのは今だと判断し、急いで魔術の翼を羽ばたかせる。
 動かないスーの腕を掴むと、柔らかい感触が掌に吸い付いた。一瞬、自分の手の中で千切れてしまいそうな錯覚に襲われる。慌てて抱えなおしたが、少女の足はまだ地面を引きずる。それを気にする余裕もなく、クラシスは更に翼の魔力と出力を強めた。
 ずっと練習していた通り、アキに教わった通り、そして自分の地位を奪還した日の通り――翼の魔力で風を集め、背後に噴き出し、その気流に乗って素早く、低空から空高く一気に飛び立とうとする。
 体が浮かび、彼女の踵が地面を引きずりながらも前方に進み始めた瞬間だった。

 クラシスは横殴りの力に吹き飛ばされ――自分の胸に密着していたスーの感触が一瞬にして消え失せたことを不思議に思いながら――すうっと宙を舞っていた。
 続いて全身を襲う地面の固さと肌に食い込む小石の痛みに息がつけなくなる。
 喘ぎながら、殴られて痛むこめかみを手で抑え、本能的に次の攻撃を畏れて転げ回る。だがスーの母親は杖を使いぎくしゃくした足取りながらも驚異的な早さで駆け寄り、前にも増して力一杯、クラシスだけを杖で殴り始めた。
 まだ残っていた翼を必死に動かし、本格的に殴られたらただでは済まないと子供ながらに理解している頭や腹を庇いつづける。だが、翼や羽根すら砕きながら杖は振り下ろされ続けた。幼い魔力の羽根はクラシスの本格的で現実的な絶望と共に勢いを失い、強度も失われていく。

 ここに来るまでの道すがら、手折った花で同じ花を叩きながら歩いた事を思い出した。飛び散った花弁や折れ曲がる茎を思いだし、自分が今、同じ状態である事を思った。花々へ行っていた残酷な仕打ちが自分に戻ってきているんだと思えた。

 腹の底の死への恐怖が再び襲ってきたが、今度は穏やかな宣告のようだった。
 まるで一連の行動の失敗と手折った花の思い出が、恐ろしい死の宣告の衝撃を柔らげてくれたかのようだった。
 先のように母の死に様も思い出したが、母があのように死ぬなら自分もそうなるのが当然なんだと――面白いというだけで花々をバラバラに引き裂いた自分ならそうなるのも当然なんだと――唐突に閃き、そのイメージの持つ説得力に納得しただけ、もがく気力も無くなった。翼の出力も意志の力がほどけた結果、四散し消え失せる。
 それどころか――こめかみを殴られたせいだろう――目眩がどんどん酷くなり、どこが地面であるのかすらわからなくなる。自分が倒れている事すら不安になり地面に爪を立てるほど、周りがどうなっているのかわからなくなっていた。
 それでも後悔は、やはりアキのことだった。
 アキはわざわざ自分を助けて、弟子にしてくれたのに、彼女の役に立てないまま死ぬことだけが申し訳なかった。
 そして、やっぱりアキが恋しかった。
 アキに救いを求める気力も奪われていたが、最後に会いたいとだけ願い、その気持ちだけで涙がこぼれだした。
 一度こぼれると、喘ぎ、叫び、悲鳴のように泣き続けた。
 放り投げられた少女の安否も、彼女が自分の泣く姿をどう思うかなども、全く脳裏から消え失せていた。
 ただ、ただ、アキに会いたかった。
 だが杖は勢いを弱めることなく、振り下ろされ続けた。

 それからどれだけ殴られ続けただろうか。
 最初にスーと共に殴られはじめた時から考えれば、かなり長い間のようにも感じたが、病気の女が動ける時間を考えれば、そう長くもなかったのかもしれない。


 ふと気がつくと、誰かが腫れた頬に触れていた。
 膨れ上がって開きにくい瞼を無理矢理持ち上げると、いつものように、ほとんど表情のないアキの顔がそこにあった。
 どんな人よりも美しく、その整った顔立ちは男にも女にも見えて、短い黒髪は夜よりも黒く、瞳は更に黒い黒曜石の玉のように輝いていた。
 見慣れぬデザインの白いローブも、胸元の金縁と紅玉のブローチも、埃一つ付かない黒い服装も、シミ一つなく見たこともないほど白いスカーフも、何もかもが、便宜上『彼女』と呼ばれる存在が只者ではないと告げていた。
 スーや彼女の母親がどうなったのか、その時のクラシスには考える余裕が無かった。
 アキが来てくれた事と、死ぬ前に会えた事だけが嬉しかった。
「……だからやめろと言っただろう。馬鹿弟子め」
 どこまでも中性的な声色と圧倒的な説得力。
 左眼の虹彩だけが、赤く染まっていた。
 怒った時の眼だ。
 ごめんなさいと言おうとしたが、口が動かなかった。
 それでもわかってくれたのか、アキは一度だけ頷き、クラシスの体を抱き上げた。
 そっと、手に何かを握らされた。
 母の形見であり、一族の宝であり、そしてアキが造った、紅玉のついた黒い杖。
 アキに仕えている弟子の印である杖だ。
 抜け出してくる時に置いてきたことを思い出し、その時はアキの弟子をやめる覚悟すらあった事も――つい先刻の事ながら恥ずかしく、そして懐かしかった。
 殴られていた時にこの杖があったらどうなってただろうとクラシスは思ったが、うまく考えられなかった。
 杖を抱え直すと体中が軋んで痛んだが、それ以上にアキが来てくれた安堵で、クラシスの意識はすっと遠のいていった。






 アキは今まで、地図を手にしたことなど無かった。
 クラシスに場所を教える為、大きな市場に立ち寄った際には地図を買い求めたが、それはクラシスが見ても適当極まりなく、幼いクラシスは「これなら自分でも描ける」と思ったものだ。
 アキに言わせれば、それは近くの山々しか書いてない極々限られた小さな場所の地図で、世界はもっともっと広くて大きいのだと話してくれた。
 地図はクラシスの勉強の為に買い求めるだけで、次の市場で新たな地図を買い求める時に売り払ってしまう。それも、金貨十数枚という高い売値がついた。どんなに適当な地図だとしても、他所の人間にとっては大事な物のだとアキは説明してくれた。
「……もうすぐ、あの場所は戦争になるからな」
「戦争するのに地図が欲しいの?」
「そうだ」
「あんなに高いのに?」
「……違う。欲しいから、高い値段でも買う」
「そんなに大事な地図なら売らなきゃ良かったのに」
 アキは少しだけ笑ったようだった。
 いつもの無表情に、ほんの少しだけ、頬が持ち上がったような表情。彼女の笑みに気づけるのは自分ぐらいだと、幼いクラシスは自負していた。
「……私はいらない、向こうは欲しい。ならば私は手放しても良い値で売り、向こうは買い取っても良い値で買う、それが商売というものだ」
「ショウバイ?」
「……覚えておくといい。お前が人間を理解しようとする時に、きっと役立つ」
「ふーん」
 一見無秩序なアキの旅だったが、それが無計画に進んでいるなど、クラシスは考えたこともなかった。
 彼女はほとんど話さないまま歩き続け、時に立ち止まり、物の名前や綴りを教えてくれたり、数字や簡単な計算を教えてくれるのが常だった。
 そして時には、次の目的地までの課題と攻略を命じた。
「金貨三枚分の銀貨を数えて見ろ」
「えっと……一枚で百、だよね?」
「そうだ。……銀貨を百枚数える事はできるか?」
「十枚を、いくつだっけ?」
「十枚を十個」
「十の十が、百?」
「……歩きながらでは数えられないだろう。そこの木の下で数えろ」
「待って待って、大丈夫、できる! できるから待って!」
「……無理なのはわかってる。間違えないように、落ち着いて数えろ」
「うん!」
「……数えたら、次は周りの鳥の数を数えろ。一羽を銀貨十五枚で買うとしたら、全部買うには何枚必要か数えて見ろ」
「銀貨十五枚!? そんなに高い鳥なんて居ないよ!」
「……そうか。お前にはまず、喩え話の説明をしようか」
 時に脱線することはあったとしても、それはアキの計画の範囲内であったようだ。
 いつでも歩みは確固としていたし、立ち止まる時にはその場でしか目にできないような物が多かった。
 ある場所ではその土地にしかいないというオレンジ色の毛皮のイノシシを見せられ、そのイノシシが「ラテラテオノノ」という現地人の言葉で「夕焼けの獣」という名前だと教えられ、現地人のイノシシ狩りや食用イノシシの育て方、数の数え方、現地人の挨拶、土地の食べ物、風習、神話……そんな物を淡々と、途切れない歌のように語り続け、クラシスに唱えさせ、時には計算や狩りを実践させた。
 次の土地では、「ラテラテノノサス」という赤いサルを見せられた。同じような言葉でもこちらは「明け方の声」という意味で、土地によって言葉が似ていようとも意味が違う事を教えられ、数の数え方の復習をし、イノシシとは違ったサルの狩り方を学んだ。先の土地の人々とあがめる神も風習も違い、それでいてどこか似ている事も目にした。
 土地を離れた時にクラシスがその事を指摘すると、アキは二つの部族が敵対するほど近い距離にあるが故に文化が混じり、似通い、それでいてあえて真逆に行う部分がある事を教えてくれた。
 それらの全てが理解できたわけではないが、クラシスは世界中の全てが何らかの形で繋がっていることをぼんやりと理解した。
 だからこそ、アキの旅や教えには無駄がなく、どこまで歩いていたとしても飽きないんだと思えた。
 そんな旅の中だ。
 子供に世界を教える為には、どの土地ででどのような説明をし、学ばせるべきなのか、大人にはわかる設計図や予定があるんだと、幼いクラシスが思い込むのも当然だった。
 だがアキの欠点の一つは、その設計図にあった。
 時にはその計画に沿って動いていることが優先で、クラシスの食欲を忘れてしまうのだ。
 自分の食欲もわからないらしく、クラシスがコートの裾を引いて初めて気がつく始末だった。
 もう一つのアキの欠点は、クラシスの身の丈に大人用の杖は大きすぎて重いという事を失念してしまう事だった。
 何度も杖を抱え直し、疲れ果て、杖をおいて一休みするクラシスを置いて歩き続けてしまう事も多々あった。もちろん、彼女の魔力ならばクラシスが後方で動けずにいることも把握していたのだろうが、追いつくのを待ってたたずんでいる姿は、クラシスの疲労を、どこか不思議で興味深く観察しているようですらあった。
 それでもクラシスは、アキが自分にとって一番の味方であり、自分が彼女のたった一人の味方であると信じていた。

 事実、アキには味方が居なかった。
 彼女は、ある日突然、今着ている服装のまま、クラシスの一族が何百年と守り続けるティルマ・アギエの神殿に現れた。
 アキはある予定に沿って動いていて、ある人をこの世界で迎える為の準備をしているんだと言っていた。
 だから、この世界には家族も友もいない、と。
 かつて居た友は既に死に絶え、自分を知る者は一人も残ってはいない、と。
 自分と一緒だとクラシスは思った。
 父だと教えられてた男が死んで、後継者争いに巻き込まれた。自分を殺そうとした義理の兄たちを家族と思ったことはないし、母は自分の身代わりに死んだ。唯一の友だった人間の少女は、義理の兄たちが嫌がらせに狩り、自分に食わせようとした。
 だから、自分には家族も友もいない。味方は死に絶えてしまった。
 今はアキしかいない。
 アキにも、自分しか――クラシスしか、いない。



 あれから何日が過ぎたのか、アキは教えてくれなかった。
 目を覚ましたクラシスは、アキに促されるまま、体中に残る痛みと青痣を無理に動かして着替え、大人たちの会合の席に連れ出されていた。
 あれだけ泥だらけだったクラシスの衣類は、おそらくアキがなにか魔術で洗い流したのだろう、元通りの光沢を取り戻していた。
 鉱山近くにしか生息しないナツイロカイコガから採れる貴重で丈夫な糸で織られた布を、アキが市場で一番の裁縫師を呼び出し、指定したデザインで作らせた服だ。
 その資金は、アキがあれよあれよという間に賭場で稼ぎ出した。
 これほどの金を見たことはないと皆が口を揃えて叫ぶほどの金貨を山と積んで買い取った、この世に一着しかない、族長に相応しい衣だ。
 それでもクラシスは、少しだけ悲しかった。
 あの時、共に汚れ、打たれ、苦しんだ仲間のような服が、自分たちの事を忘れて素知らぬ顔をしているように見えたのだ。
 服は綺麗にしてくれたが、アキはクラシスの怪我を治そうとはしなかった。
 その気になれば、アキはどんな重病人も癒して見せた。
 行く先々の宿を、アキは近くの病人を癒す事で得ていた。家族に感謝されながら、そして畏怖されながら泊まり、翌朝早くに旅立つ生活を、クラシスはおかしな事だと考えたことなどなかった。
 むしろ、アキが――自分たち翼人種が崇める知識の神が、人に崇められないはずがないのだから、恐れられるのも当然だった。
 それなのに、アキはクラシスの痣だらけの体を無視した。
 腫れ上がったままの体を軋ませ、青痣だらけの体に服を纏いながら、クラシスはこれがアキの罰だと感じていた。
 そして今、うまく開かないほど腫れた瞼をこじ開けながら、周りをそっと伺う。
 アキはもう怒ってはいなかった。アキの左目の虹彩も、今はいつもどおりの黒に戻っていた。
 あの日――殴られた日の三日ほど前から宿を提供していた老夫婦は、厳めしい顔でクラシスとアキを交互に睨んでいた。
 山村をまとめているという白髪で四角い顔立ちの老人は、怒りで胸元まで伸びている長い顎髭をブルブルと震わせていた。この村へやってきたばかりの頃、スーと一緒に触らせてもらった太鼓腹は、今や幼いクラシスを押しつぶしてくるかのように突き出されている。そして老婦人は、銀髪を毛皮の帽子で隠しつつも、伝統の家庭服だという大きめのエプロンに皺を寄せてただひたすら俯き、時に鼻をすするばかりだった。スーによく似たふっくらとした頬も、その俯きに隠されてほとんど見ることができない。
 その二つの怒りの相に、クラシスは抱えていた形見の黒い杖を握りなおす。細い杖の陰で、少しでも二人の大人の怒りが杖に削られ、無くなってしまえば良いと都合の良い事を考えたりもした。
 だが現実はそううまく運ばない。
「ようやく、起き出したな」
 老人は低く唸りながら、目の前のテーブルに肘をついた。老女は今にも飛びかかって来そうな手を、エプロンの裾をキツく握りしめることで堪えているようだった。
「その坊主は起き出したが、スーはいつ目を覚ますんだ? 宿の恩を徒で返されるとは、世も末だな!」
「……この話の後に、すぐにでも」
 アキは淡々と、いつもの男とも女とも言えない中性的な声で答えた。
「今起こせというなら、起こします。……でも、貴方の望む形でこの事故を終わらせるなら、しばらくこのままの方が良い。私も作業がしやすくなる」
「俺の望む形?」
 落ち着いた様子のアキに、老人は痺れをきらしたのだろうか。途端に、口髭に唾を飛ばさんばかりに怒鳴りだした。
「俺の望んでいるのは、そのガキを連れて、さっさと出て行ってもらうことだ! 余計なことをしやがって!」
「……きっと、後悔する」
「そんなのはもうどうでもいい! さっさと出て行け、そしてツラを見せるな!」
「貴方達の依頼は、『あの女が何を企んでいるのか探って欲しい』、だ。……この子は、体を張ってそれを確かめてきた。それを聞きたくはないんですか?」

 クラシスは俯いた。
 違う。
 アキは最初から、あの病気の女がスーの母親だと知っていた。
 そして多分、スーの母親が、スーを殺したいと思っていたことも知っていたのだろう。
 スーの母親は、前日、居場所を突きとめたアキに言ってたじゃないか。
『あんた、そんな小さな子供を連れてるぐらいなら、もしかして人買いなのかい?』
『あんた、見れば見るほど男前だね……どうだい、私で遊ばないかい? お金はいらないよ』
『そうか、そんな子供を連れてるぐらいだから、子供の方が好みか。だったら一日待ってくれよ。この村一番の金持ちの子供を連れてきてやるから』
 今ならわかる。
 スーの母親は、スーが嫌いだったんだ。
 スーを誰かに売り払ってしまおうと思っていたんだ。居なくなればいいと思っていたんだ。
 『いらない』と『欲しい』、それが商売だとアキは教えてくれた。
 アキはあの母親が、スーを『いらない』と知っていたんだ。
 それなのにクラシスは、勝手にスーを連れ出してしまった。
 『母親は病気でもうすぐ死んでしまう』と、スーは言ってたから。
 スーは、あの母親が死ぬのを待ってたのに。
 アキはそれも知っていたんだ。
 だから、あの母親を治さなかった。
 スーの為に、治さなかったんだ。
 「子供だけで近づくな」と言ったのは、こうなる事がわかっていたんだ。

 それなのに。

 クラシスは俯いたまま、ボロリと涙をこぼした。
 アキが悪いわけじゃない。自分が勝手にやったことだ。アキは何でも知ってる、何も知らない自分が勝手にやったことなのに、アキが怒られるなんて可哀想だ。
 目の回りに擦り傷でもあったのか、涙が伝ったところがビリビリ痛んだ。それでもクラシスは涙を止められなかった。
「泣くな」
 アキがこちらを向いて囁くのがわかった。
「……お前の為に非難されるのが、今の私の仕事だ。だから泣くな」
「でも――」
「……私を誰だと思ってる」
 ティルマ・アギエだ。翼人種たちの神話に出てくる、翼人種が使えるべき神の一人。
 そんな大事な人だからこそ、貶されたくないのに。
 アキは何でも知っている。クラシスが今、何を考えているのかも、全部わかってる。
「これは私にとっても良い機会なんだ。……だから泣くな」
 アキはクラシスの杖をそっと持ち上げ、あらためてしっかり握るよう手を添えてくれた。
 アキの手は柔らかく、温かで、それでいてスーの腕のような千切れそうな感触はなかった。クラシスの身を守ってくれる力強さがそこにあった。
 その手の力に新しい涙がこぼれそうになったが、慌てて堪えた。アキが泣くなと言ったなら、弟子は泣いてはいけないのだ。
 そして目を擦る間もなく、老人の声が轟き渡る。
「ごちゃごちゃ騒いでるんじゃない! どうしても何か言いたいんだったら、さっさと言って、さっさと出て行ってくれ! そのガキが目を覚ますまでは待ってやったが、もう我慢の限界だ!」
 アキは無言のまま、スッと、膝の上に置いていた左手をテーブルの上に載せた。
 その意外な動きに驚いたのか、老いた二人は動きを止める。
 いや、何気ない動きでありながら、その動きが何かの合図であったことを感じ取ったのかもしれない。
 アキはそれまで、まるで静物や植物のようにそこに居た。
 だが今や、吹き荒れる風の渦のように不吉を帯びて佇み、その豹変ぶりにクラシスですら息を詰めた。
「……では、見るがいい」
 どこか笑っているようでも、怒っているようでもある――そんな、クラシスでも見たことのない表情と、声色だった。
「ここで全ての原因を確認するとしよう」
 置かれた場所から、波紋が広がるようにテーブルが透明になった。
 クラシスの背の高さでは見えなかったが、そこには何かがタペストリーのように広げられているようだった。
 老婦人がヒィと喉の奥で悲鳴をあげた。老人もくいいるようにテーブルから目を離さない。しかしそれは、信じられない物を見た人間が仕掛けを探そうとして目を凝らす様に似ていた。そんな夫にしがみついた老婦人は、先とは違った震えで呻く。
「う、う、う……動い、たッ!」
「……私の魔術で、過去をそのまま見せているだけだ。何も恐れることはない」
 老人は尚も目をそらさず、言い慣れない言葉をゆっくりと繰り返した。
「マ、ジュツ? これは、マジュツっていうのか」
「……そう、神々の創ったこの世界を、より良くする為に与えられた、世界を操作する方法。私はこの世界に魔術を伝え、『主』の居場所を確保する為に顕現を許された存在だ」
 何を言ってるのか、幼いクラシスにはさっぱりわからなかったが、それは老夫婦も同じようだった。何も反論せず、ただただ、テーブルの中で動き回る人影に目を奪われている。
「……ここで魔術を使うのは神々の計画の一つ。そして見るが良い、お前たちのした事が、どのような結果を招いたのか」
 机から、声がした。
『返して! 私の赤ちゃん、赤ちゃんは私の赤ちゃんなの! 返して、返して!』
 あの人の声だと――自分たちを殴り続けた女の声だと、クラシスはすぐに気づいた。
 それは周りの大人たちも同じだ。いや、姿が見えているだけ、クラシスよりも早く理解していただろう。
『私のスー、私のものなのに、私のものなのにぃぃぃぃぃっ!』
 泣きわめいている声。クラシスには見えなかったが、老夫婦の顔を見れば、それが現実として起こったことなのは理解できた。



『戦争で死んだとしても、あの人は私の夫なんです!』
『浮気とか不倫なんかじゃないです、お金が欲しくて……お酌すればお金をくれるというから、お酌しただけです! スーを育てるには、お金が必要じゃないですか!』
『旅の商人の相手をした方がお金を稼げると言ったのは、貴方たちじゃないですか!』
『愛人? ……もっとお金をもらえるんだったら、考えます』
『病気? 私が?』
『違う違う違う! 体を売ったからって、あの人を忘れたわけじゃない! 誰かの愛人でも、夫はあの人だけなのに!』
『どうしてですか? お金は用意したじゃないですか? どうしてあの子を売ってくれないんですか? 買い取ってみろと言ったのは、お義父さんたちじゃないですか!』
『この子の為に、何人を売り飛ばしたと思ってるんだ! スーを返せ! スーを売れ!』
『私に売れよ! 金ならあるじゃないか! 私が母親なんだ、スーを買い取る権利があるのは私だけなんだ! 返せ! 返せ!』
『スー……スー……私、なんの為に……』
『痛い……頭、痛い……熱もある、辛い……誰か助けて……』
『顔、できものだらけ……足が痛い、曲げられない、頭が痛い……体中が痛い……辛い……辛い……』
『これじゃ、客がとれない』
『スー……スー……あんな子供がいるから、私は病気になったんだっけ……』
『あんなに子供を売ったのに、殺したのに、全部、あの子の為だったのに……いや、あの子のせいじゃないか!』
『スー? この子が?』
『お前も死ね! 私と一緒に死ね! お前の兄弟たちと同じく死ね!』
『お前のせいで病気になったんだ! お前も死ね! 私一人が死ぬなんておかしいだろ!』
『ガキのくせに男たらしこんでんじゃないよ! このクソガキも死ね!』
『二人とも良い服着て、すましやがって! 見せつけてんじゃないよ! 私だって綺麗な格好したいんだ!』
『どいつもこいつも私を馬鹿にしやがって! 病気にならなきゃ、もっと稼いで、いくらでもお金が作れたんだ!』
『スー……スー……お前のせいだ、お前のせいだ! お前も私と一緒に死ね!』



 クラシスは、体中に叩きつけられた杖のうなりと痛みを思い出して、緊張に体を強ばらせた。
 少年の限られた知識では、話している内容のほとんどが理解できなかったが、当初はスーの母親もスーを取り返そうと必死だったことだけはわかった。
 だが、どうして途中からあんなにも恐ろしい呪詛を吐き始めたのかわからず、全てが病気のせいなんだろうと納得しようとした。
 だが、病気のせいだけなら、老夫婦がこんなにも怯えているわけもないだろう――そんな風に考えたりもする。
 一つだけわかっているのは、クラシスがこの呪詛を知っていたのならば、決して、スーをあの女のところへ連れて行ったりはしなかっただろうと言うことだ。
「……どうしてあの子を返してやらなかった?」
 アキの問いかけに、老人は苦しそうに吐き捨てた。
「あんたに話してもわからん」
「最初から返したくなかったんだな? ……息子が死んだのが戦争のせいだと思いたくなかった、そうだろう?」
 老人は激昂して立ち上がると、元に戻った木造のテーブルを手のひらで叩いた。
「あの女のせいだよ! あの女が戦争に行ってこいってそそのかしたんだよ! 手柄を立てて、土産をたくさん買ってこいってな! 息子はだまされたんだ、あの女はこの家を乗っ取ろうとしてたんだ! そんな事はさせるか! 息子が残したスーは、あんな娼婦に育てさせるわけにはいかん!」
「お前たちがスーを金で売ると言ったから、あの女は娼婦となった。……そして、自分の産んだ子を時に売り、時に殺し、更にお前たちに裏切られて悪魔となった」
「だったら尚更、スーを渡すわけにはいかん!」
「後悔はあるのか?」
 アキの言葉に、老夫婦は黙った。婦人が袖を引き、立ち上がっていた老人はアキから目を逸らさずに腰をおろした。
 アキもそれを見つめ返す。
「……お前たちが罪を懺悔するなら、私がお前たちの望むようにしてやる」
「懺悔? 誰に懺悔を?」
「知識の神ティルマ・アギエに」
「聞いたこともない神だ」
「そう、だが私はお前たちに最初の魔術を見せた」
 アキはテーブルの上から左手をおろした。
 同時に、透明だった机は元の木造の厚みと存在感を取り戻し、老夫婦は再び息を飲んだ。
「……全てが元に戻った時に、お前たちはその名を唱え、祈れ。私がここに来たのは、お前たちにその技を見せ、信徒とする為だ」
 老人はまだ睨んでいた。アキを疑っているのは明白だったが、信じられないことを目の前で展開させたアキの事を警戒し、恐れている様子でもあった。
「俺の望みと言ったな? どうしてお前がわかる? わかったとして、本当に叶えることができるのか?」
「……私に与えられている権限の範囲で。だが、満足できるだけの事はしよう。……私の魔術でお前たちには心の平安が戻るだろう。その平安を維持するのは、お前たち自身の問題だ」
「後悔してるかと言ったな? 確かに後悔しているさ。息子を返せとは言わないが、自分たちがスーを取り上げたのは事実だ。俺たちが憎まれるのは当然だと思っていたが、まさか自分の子を滅多打ちにするほど憎むようになるとは思いもしなかった。あの女をそこまでおかしくさせたのが俺たちなんだろうしな。その後悔を消すことができるっていうのか?」
「……お前たちのやった事には一定の罪がある。だから私はお前たちに一定の罰を与える。……その罰をどのように扱うかは、お前たちの問題だ」
「後悔を消してくれるだけじゃないのか」
「……私はお前たちを救いに来たわけではない。お前たちの引き起こした悲劇を消し去るために来たのだ。……その奇跡を、魔術を、結果を、お前たちがどのように扱うかは、お前たちの問題だ」
「若造め。偉そうにいってくれる」
「……若く見えるかもしれないが、そうでもない。私にはお前たちには使えない魔術がある。……そして、私はお前たちのような過ちを犯したわけではない。後悔しているなら、新しい道を用意することができる。……それだけだ。それ以上でもない」

 沈黙。

 クラシスは開かない目をアキに向け、割けてビリリと痛む唇を開け、大人たちの邪魔にならないようにと小さく声をかける。
「アキ」
「……なんだ?」
 アキは普通に声をあげ、クラシスは少しだけがっかりする。それでも、大きく口を開けない分、小さくつぶやき続ける。
「スーを助けて」
 クラシスは、自分たちの一族に伝わる祈りの印を指で描き、そして手を合わせた。後に西方式と呼ばれる、脇を開けて指先に額をつける方式だ。
 老夫婦とは別に、クラシスはクラシスなりに懺悔したいと思っていた。
「僕はアキの言いつけを守らなかった。僕が悪い。おじいちゃんたちが悪いわけじゃないよ、僕が悪かったんだ。僕が謝るから、スーを助けて」
「それは違う」
「でも、僕も間違ったの。僕が連れていかなかったら、スーは怪我しなかったの。ごめんなさい。だから、スーを助けて」
 祈りの言葉の代わりに、クラシスはアキに語りかける。
「それと、あの病気の人も助けて。スーのお母さんでしょ? アキならできるんでしょ? 病気が治ったら、きっと、ちゃんとお母さんになるよ。あの人が可哀想だよ」
「……お前を殺そうとしたんだぞ?」
「病気だったからでしょ? 病気になってなかったら、あんなにスーを殴らなかったよ」
「本当にそう思うか?」
「今のスーのお母さんは怖いけど、病気だからしょうがないよ。でも、スーだって少しはお母さんに会いたいと思たんだよ。だから一緒に行ったんだもん。病気じゃないお母さんなら怖くないし、スーも嬉しいよ」
「……もう一度、確認するぞ? 本当にそう思うか?」
 不意に、クラシスの脳裏には、腐っていった自分の母親の死に顔が脳裏に浮かんだ。
 苦しそうだったあの顔。
 自分を恨みながら死んでいったのではないかと恐れていたあの日々を思い出した。
 だからこそ、まだ間に合うスーがうらやましかった。スーにはまだ母親がいるのだ。
 そして、アキがいれば大丈夫なのだ。どんな事でも、アキならなんとかしてくれる。
 クラシスの過ちで怖い思いをさせてしまった分だけ、スーにはもっともっと幸せになって欲しかった。
 アキがあの恐ろしい母親をどうにかしてくれるというのなら、優しい母親に戻して、スーに返してあげて欲しい――クラシスは自分でもわからない涙と痛む傷口を堪えながら、答えた。
「僕はその方がいい」
 再度、沈黙が落ちた。

 やがて老婦人がゆっくりと手を合わせた。クラシスを見ながら、同じ形になるように脇をあけ、指先に額をつけた。
 か細く、隣りで目を剥いて怒る夫に聞こえないようにしたいのか、小さな小さな、震える声で告げた。
「全部、元に戻してください。あの人をあんなに苦しめる事になるとは思わなかったの……まさか、スーを殺そうとするまで苦しんでいたなんて、知らなかったの。私だって息子を奪われたんだから、最初に気づいてあげるべきだったんです」
「……私はあの女の病を治し、ここへ連れてくる。それでも受け入れるか?」
 老婦人は答えなかったが、アキにはわかったのだろうとクラシスは思った。
 それでも老人はしばらくアキをにらみ、二度、三度とテーブルを拳で殴りつけた。
 そして、テーブルを壊すような勢いで肘をつくと、同じように手を合わせた。
 無言だったが、アキにはその心情がわかったのだろう。
「……よろしい」
 ティルマ・アギエは立ち上がり、両手を広げて――クラシスにしかわからない、無表情の中に小さな笑みを浮かべた。
「全て、予定通りに」







 七日後。
 アキとクラシスは新しい市場の入り口に立っていた。いつもどおり、古い地図を売り、新しい地図を購入し、旅の間の食料を買い込んだ。
 多くの食料は、アキが受け取るとすぐに歩きながら消してしまう。魔術で『見えない場所』に閉まっているんだと教えられたが、クラシスには全く理解できなかった。アキが信じられないことをやってのけるのは今に始まった事でもなく、そういうものなんだと頷くしかなかったのだ。
 二人の奇抜な衣装は市場の中でも奇異の目で見られたが、それも遠方から集う人々の一衣装としてすぐに紛れてしまっていた。
 市場を横切りながら、クラシスはスーの着けていたリボンと同じような柄のリボンを見つけた。


 市場の屋台で肉の串焼きを買い、二人は並んで市のはずれにあった木の根本に腰を下ろした。
 串焼きを食べた経験はあったが、その一片は子供の口に大きすぎた。苦労して噛み切りながら横目でアキを見ると、苦もなく口に運ぶ。その時のクラシスには当然に見えたが、よく考えれば、あれだけ大きな肉片を一口にしておいて頬が膨らまないアキの体はやはり人間離れしていた。
 大人たちの会話がそこかしこからクラシスの耳に飛び込んできたが、「戦争」という単語が聞こえるたびに、スーとその母親を思いだしていた。
「……あの二人が気になるのか?」
 アキは既に串だけを指先で摘んで興味深そうに眺めていた。
「どうしてわかるの?」
 尋ねてから愚問だと気づいた。アキは何でも知っている。それだけだ。
 そしてアキも答えなかった。
「戦争になると、どうなるの?」
「人が沢山、死ぬな」
「みんな死んじゃうの?」
「……そうだな」
「僕は?」
「私の弟子は私が守る」
 それは、もしかしたらアキの冗談だったのかもしれない。かすかな笑みが見えた。
 だがクラシスは別の事を思い出す。
 自分が守ろうとした少女の事だ。
「スーは?」
「……あの家族が守る」
「スーのお母さんは?」
「あの母親も、今はあの家族の一員だ」
 クラシスはすっかり様変わりしたスーの母親を思い出した。
 自分の母親も、一族で一番美しくて強い母親だったと思うが、スーの母親にも同じような気丈さが見えたように思えた。クラシスの母が若木のようであったなら、スーの母親には竹のようなしなやかさと堅さが見えた。
 あの、醜く汚い幽鬼のような姿はどこにもなかった。
 いや、もはやあの姿をスーもスーの母親も覚えていなかったのだ。


 アキはあの時「予定通りに」と告げた。
 どんな予定があったのか、その時のクラシスは知らなかった。
 イスに座ったまま見上げたクラシスの視界で、アキは両手を広げ、しばし俯いた。
 そしてクラシスの全身に悪寒が走る。アキが大きな魔術を発動しようとしているのはすぐにわかった。クラシスが翼を創るときのように、体中から、そして周りの存在――人はもちろん、建物、草花、小鳥、虫、から、渦を巻くように魔術要素がかき集められた。
 魔術は、巧くやればやるほど、周囲にその影響を意識されない。そして、クラシスはアキが魔術を行っていると気づいたことなど、ほとんど無かった。
 そもそも、アキは日常的に魔術を使用していた。発言一つを取っても、その言葉が後日どのような影響をおよぼすのであるのかを魔術で確認してから発言するのだ。しかし、その大きくも巧みで自然な魔術の発動すら感じさせなかった。
 それだけに、アキの発動させようとしている魔術がどれだけ大きいのかを察することができる。
 たとえ五歳であっても、日常的にアキの特異性を目にしてきたクラシスには、震えが止まらなくなるほどに恐ろしい光景だった。
 そう、恐ろしかった。
 アキつまりティルマ・アギエが、自分たちの崇める神であることをあらためて確認てしまう瞬間が怖かった。
 クラシスの捕らえられる感覚の中では、アキによって集められた魔術要素が瞬時に、そして複雑に組み合わされていくのがわかった。それが何であるかを確認する間もなく順に発動されて行き、滝の飛沫のように次々と淀みなく続く魔術の流れには目眩さえ覚えた。
 一瞬、その魔術の流れが停まった。蛇がとぐろを巻くようにうねり、渦を巻き、最後に堰を切ったように破裂。
 その余波がクラシスを襲い、息が詰まった。イスごと吹き飛ばされそうな錯覚に陥りながらも、クラシスは横に立つアキから離れまいと手を伸ばそうとし、それでも余りに人知を越えた何かを発動された恐ろしさの為に触れられず、動けず、再度震えた。
 そのクラシスの手を、アキがしっかりと握った。
 あの、助けに来た時と同じ手で。
 我に返ったクラシスが目にしたのは、無傷のスーとその母親が、その場に現れるところだった。
 風景の中からゆっくりと、まるで隠れていた獣が姿を現す時のようにゆっくりと現れた二人は、まだ目を閉じていて、人形のようだと思ったことを覚えている。
「……さあ、お前たちの望み通りの二人だ。二人とも、先日の事は覚えていない。……母親は病に侵される前だ。罪を重ねているが、後悔の中で一人残った子供と生きることだけを支えに生きている」
 老夫婦は言葉もなく、二人を交互に眺めていた。アキの言葉が聞こえていたのかもわからない。
「……宿泊の礼だ。皆で罪を償い、犠牲者の命を背負い、家族となるがいい」
 ただただ、目の前の親子を信じられないように見続ける老夫婦の反応を確認したアキは、そのままクラシスの手を引いて家を出た。



「ねえ、アキ」
「なんだ?」
「何が『予定通り』だったの?」
 アキはしばらく、手元の串を眺めていた。おそらく、その予定を確認して、話して良いのかを考えていたのだろう。
 やがて、ゆっくりとクラシスに向き直った。
「……私たちが出た後、あの家族が何をしていると思う?」
「みんな楽しく暮らしているんでしょう? あのお母さんが元に戻れば、みんな優しくなるんでしょう?」
「そうだ。……あの子供は幸せに暮らしている」
「それが『予定通り』?」
「そうとも言う」
「わけわかんない」
 クラシスはアキがいつのもようにスラスラと説明してくれない事に、全身がむず痒いほどのイライラが募るのを感じた。
 アキがそれに気づかないわけがない。それでも、アキはしばらく黙り、クラシスは苛立ちの命じるまま、足を力任せに振り回し、踵を地面に打ち付け続けた。
「僕、あんなにがんばったのに! 痛かったけど、まだあちこち痛いけど、ちゃんとスーを守ったよ? でも全然わかんない!」
「……そうだな、がんばったな」
「でしょ? スーだってがんばったよ! またあそこに行こうね?」
 アキは遮るように即答した。
「いや、行かない方が良いだろう」
「え? どうして?」
「……スーはあの時の事を覚えていないと言っただろう? お前のことも忘れている」
 サッと、クラシスは血の気が引くのを感じた。
 何度かアキの言葉を頭の中で繰り返し、そして確かめようと恐る恐る口を開いた。
 それでも、声にだすまでには、しばらくの時間を有した。
「あ……ああ? え? ……嘘でしょ?」
「……なぜ嘘をつかなければならない?」
「アキがやったの?」
「そうだ」
「どうしてそんな事したの!」
「……あの家族を幸せにする為だ」
 初めて、クラシスはアキの服を怒りに我を忘れてつかみ、引っ張った。
「どうして! どうしてなの! やだよ! スーはお友達なんだよ! 友達なのに! ヤダヤダヤダ! なんでそんなことしたの!」
 アキはクラシスに服を引かれるまま、黙って揺れていた。
 クラシスはしばらく、アキにわめいていた。何をわめいていたのか覚えていなかったが、その間、アキは表情一つ変えずに、クラシスをずっと見ていた。
 わめき疲れ、黒杖を抱きしめながらアキに背を向けて寝ころんで、どれほどたっただろう。
 とても静かな声だった。
「お前があの家族を助けた、それは誇るが良い」
 スーと、あの母親の攻撃に耐えていた時を思い出した。まだ体中に残っている痛み。
「……お前が、あの母親と子供は一緒にいるべきだと思って行動したから、お前が痛みを堪えてあの子供を守ったから、あの家族は今、幸せなんだ。そしてお前は、母親というものが全て良い母親とは限らないことを学んだ」
 母様の事だと、クラシスは直感した。
 いや、ずっと母様と一緒に居たかったのはクラシスだ。だから母親のいるスーが羨ましかったし、きっと母親と会わせれば、二人とも仲良くなると思っていたのだ。きっとスーもそうしたいだろうと思ったのだ。
 でも、今は違うとわかる。
 体中の痛みと引き替えに、母親というものが時に恐ろしい存在だとわかった。
 そして、自分の母親の気丈さもまた、実は恐ろしいものだったのではないかと思っている。
 まだ自分は、家族の、身近なことすらわかっていない子供なのだとわかっている。
「……あの村はそのうち街道の宿場町になり、あの家族から村へ、そしてこの大陸へと私の教義を広めていくだろう。戦争が続き、傷ついた者達は、あの家族から私の魔術の話を聞き、私の力に縋ろうとするだろう」
 幼いながらも、手に取るようにわかった。
 イノシシとサルを崇める二つの部族と、その言葉、教義、狩りの技術、道具……それらが、争いによって広まった経緯。力あるものに縋ろうと儀式を繰り返す無力な人々。
 自分が殴られる痛みの中でアキを求めたように、人々もアキの名を唱えるようになる事も、なんとなく理解できた。
 そう、あの時の話があったからこそ、今、すぐにわかる。今、この時に話をする時に、理解できるように経験させられたのだろう。
 アキの行動の全てが予定通りなのはわかっていたはずだった。
 なんでも知っているアキは誇りであり、予定の内容を尋ねたのは自分だ。でも、自分がアキに道具のように使われていることが信じられなかった。
 いや、従者である以上、仕える弟子である以上、時に道具であることは当然なのだ。
 それが今、クラシスには悔しくてならない。幼い彼には何が悔しいのかもわからなかったが、裏切られたという気持ちで眩暈がしていた。
「……私たちは、私の力を求める人たちの信仰に後押しされ、準備を進めることができる。あの時、お前が動き、あの二人が救われ、魔術が披露されるのは、予定通りだったんだ」
 クラシスの行動も、スーのクラシスへの好意も、あの母親の病気も怒りも、老夫婦の願いも、全て仕組まれていたことなのだ。
 だから『予定通り』とアキは告げた。
 アキは喜んでいるのかもしれない。でもクラシスの友達は戻ってこない。
 スーは友達だったから、スーを喜ばせたくて母親に会わせたのだ。友達だったから、体を張って守ったのだ。一緒に遊んだことも、異国の話をして楽しんだ事も、友達だったはずなのにスーは全て忘れている。
 クラシスには、友達ができない――そういうもんだと、思いこむことにした。最初の友達も、スーも、大人達に取り上げられてしまう。ならばきっと、友達なんて居ない方が良いのだ。
 やっぱりクラシスには、アキしかいない。
「お前はよくやった」
 アキにも、クラシスしかいない。
 アキがクラシスの決意に気づかないわけがない。ならば、この決意もまた、アキの予定通りなのだ。
 そう思えば思うほど、涙が出てきた。
 歯をくいしばっていても、涙はどんどん溢れてきた。
 悔しさは続いていたが、アキのねぎらいに嬉しくなかったわけでもない。
 アキの手がクラシスの頭に乗せられた。撫でるでもなく、ただ、じんわりと体温を伝えるような手だ。いつもの、助けが欲しい時には必ず伸ばしてくれる手。
 アキと触れ合ってるだけでも嬉しい。
 でも今は一人にしてほしい気分でもある。
 全部わかっていても手を降ろさないアキは、今、弟子にとって何が必要なのかわかっているはずだ。
 そして事実、跳ね除けたくてもする勇気がでないまま、クラシスはただひたすら、泣くことしかできなかった。



<了>


 



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