R-T-X 「7・転機と青年(上)」
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 その時、木伏アヤメは〈特務〉の特殊車両でハンドルを握っていた。後部座席にはギルが、携帯端末を操っている。整備係がトランクルームに、射出用ケースに収めた〈フィストドライブ〉とその射出用簡易砲台一台を収納しようとしている。
 この特殊車両は、サイレンの他にスクランブルサインを発する事ができる。走行路周囲の信号機はこの特殊車両を走行優先車両と認定、進路方向にある表示を一時的にグリーンに変換するので、余計なストレスや混乱を押さえる事ができるのだ。今回のような急行すべき事態に対して意外に有効な機能だ。
 整備終了の合図がでるまでの車両の中、二人はずっと黙ったままだった。
 本当だったら、作戦内容を伝えられるなり質問するなりしても良いはずだった。ましてや、相手は弥彦のドッペルゲンガーだ。仲間の危機について話し合ってもよさそうだった。
 だけどそれができない。いや、相手が弥彦の二重現身だからこそ、何もいえなくなってしまうのかもしれない。
――言い訳ばかり。
 木伏は心の中でつぶやく。いつだって言い訳ばかりしてる自分に嫌気がさしてくる。
 『無意識の目』を見つけた時だってそうだ。自分の不安や願望が見えてしまっただけで、自分の見た風景が現実ではないんだと思いこもうとした。信じたくなかった。
 あの頃、かつて勤めていた会社の中で――自分がどんな風に見られていたのか、どんな陰口を叩かれていたのか。彼女の能力で引き出された映像は、全てをありのままに見せてくれた。
 自分のミスだと思いこんでいた事柄が、実は同僚達によって引き起こされた事実を確認するまで……全て自分の疲れが見せた幻覚だと思っていた。『無意識の目』が同僚に知られるまでの長い間、ずっとそう思いこもうとしていた。
 虚言癖にも近いのかもしれない。嘘で現実を見ないようにしていた。ある事ない事、自分の『無意識の目』が見つけた映像に勝手な理由をつけて、現実から目をそらしてきた。
 虚勢を張って、強気な女を演じて――だから嫌われても仕方がないと予防線を張って。
 そして今も。
――怖いんでしょう?
 弥彦・エンヤが心配だなんて嘘。心配していないわけじゃないけど、今一番、木伏アヤメの感情を支配しているのは別の事柄。
――あいつの事で頭が一杯なんでしょう?
 自分の背後に座る男が怖い。まるで意識が引きずられるかのように、彼の存在を意識せざるを得ない。
 それを誤魔化す為に、今この時も危機に置かれている弥彦をダシに使うのは卑怯な逃げ方だろう。
 ギルの沈黙は続いている。車内には車両のエンジン音とギルの端末を繰るタッチの音だけが響き渡っている。
 軍医の沈黙は怖い。いつ、どんな手段で、何をしてくるのかわからない不気味さ。何よりも、自分を敵だと――〈西方協会〉と繋がっているんだと思っているに違いない彼の、その沈黙が怖かった。
 きっと、彼は簡単に木伏を殺せるのだ。首を締められた時のように、目にもとまらぬほど素早く、能力者としての力を行使して。そしておそらく、いつもと変わらぬ笑みを浮かべるに違いない。
 『カタストロフィ以来ですね』と〈西方協会〉のミツヤは言った。どんな手段を持っているのかわからないが、その言葉が本当なら、彼らは百五十年の時を生きているのだ。なら木伏の事など、ギルの長い人生の中の一つのエピソードとして、簡単に殺せてしまうのかもしれない。
 それを思うと、何も話せなくなる。何が彼の逆鱗に触れるかわからない今、言葉を発すること事体が恐ろしかった。
――でも百五十年生きてるなんて、そんな馬鹿な。
 だけど、もし本当なら……?
 自分たち〈特務〉のように、不可能と思われている事柄を実現する能力を持つ者もいるのだ。
 何ができて何ができないか、今の木伏に確かめる術は無いのだ。
――私の能力なんて、本当に知りたいことなんて何も調べられない。
 木伏は沈黙に張り詰めた車内の空気の中、そっと息をつく。
――もし、私の『無意識の目』がもっと強力なものだったら
 もう少し、彼について知ることができるんだろうか?
 もう少し、どうして自分が彼を気にするのかわかるんだろうか?
 こんなにいつまでも震えているのは、彼の笑みのせいだけなのだろうか? 彼の専門的な知識の量におののいているだけなのだろうか? 彼の底知れない能力をまのあたりしての恐怖なのだろうか?
――それとも……
 そんないくつもの点で自分を遥かに上回る能力を有する彼の、その信頼を失ったことへの恐れか?
 自分の心すらわからない。
 唐突に、木伏の無線が、ホットラインのコール音を響かせる。このホットラインを使えるのは弥彦とギルだけだ。
 木伏は無線にとびついた。回線を繋げた瞬間、弥彦の悲鳴にも似た叫びが轟いた。
『木伏さん、俺です。今、俺のドッペルゲンガーが出現しました!』
「弥彦くん?」
 ギルの言葉どおり、彼が二重現身に襲われている事を確認した木伏の手は、特殊車両の非常灯スイッチをオンに入れる。
『病院にいるんです、どこで戦えばいいのか誘導してください。早くっ!』
「ちょっと待って……」
 特殊車両に備え付けられているモニターの一つをマップ表示に切り替え、もう一つに『無意識の目』を接続しようとした瞬間、ホットラインは弥彦の小さな悲鳴と銃声を伝えると強制的に経ち切られた。
「弥彦くん? 弥彦くん、返事を――」
「静かにしろ」
 ギルの落ちついた呟きに、木伏は口をつぐんだ。
「誘導の方はもう手を打っておいた。そのチカチカするランプを止めろ。移動手段は他にもある」
「……じゃあ、せめてどうやって移動するのか教えてください。この車両を準備したのは、なにか策があるんでしょう?」
「ないな。いうなれば〈フィストドライブ〉を合法的に持ち出す下準備というぐらいだ」
「な――っ!?」
「お前はいちいちうるさい。少し黙ってろ、殺されたいのか……っと、お喋りしている間に、ヤツが来たようだ」
 狭い車両の中で煙草を吸うその姿は、紫煙の向こうにぼんやりと煙っている。
 ――と。
 突然、煙る車内の一角に気配が生じた。
「待たせたかな?」
 ギルの隣りに、スッと光が射しこむかのように、影が射す様に人が現われたのだ。
 〈軍部〉本庁地下倉庫にある、特殊装甲車の中に。
 現われたのは、黒いスーツと伊達眼鏡の男だった。ギルの部屋で会ったミツヤと同じ型のスーツから察するに、〈西方協会〉の者だろう。そういえばミツヤも、木伏を利用して本庁にやってきたんだと言っていた。この、突然現われた男も、誰かを利用して本庁のセンサー群を潜り抜けてきたのかもしれない。
 彼ら〈西方協会〉にとって、本庁の〈人格波動〉検知センサーは何の役にもたたないようだ。
「オレの時計じゃ時間ピッタリなんだけどな、どうだい?」
 男のどこか人好きのしそうなその笑顔は――ギルの冷笑とは正反対のものであるはずなのにもかかわらず、どこか似ているようにも感じさせた。
 頭では〈西方協会〉だとわかっていつつも、つい反射的に腰の警棒に手を伸ばしてしまった木伏を、ギルが片手を挙げて制する。
「私が呼び出した魔術師だ。今後、連絡係として協力させる。お前はしばらく運転してればいい。とりあえずココを出て、地上の屋外駐車場に移動しておけ」
 なんて言いようだ。
 ギルは上官であるわけだし、特殊車両の各種機器は扱いなれるまで時間がかかる。それらの点を考えれば、それまで自分が運転する事に抵抗のなかった木伏だった。だが、彼の言葉を聞いた瞬間だけは、急ブレーキでもかけて慌てさせてやろうかと本気で思った。
 とはいえ、ギルが本気で〈西方協会〉と手を組むつもりでいるなら、これからが本当に作戦会議なのだ。ずっと黙っているのは癪だが、ギルと男の会話を聞いていてもいいだろう。
 木伏が車を発信させると、ギルはシガレットケースを男に差し出しながら
「相変わらず、アキオの空間魔術は一級だな。直前までわからなかった」
「おおぉ? どうしたんだ、熱でもあるのか? あんたがオレにそんな事いうなんて、それこそ世界の終わりだぜ?」
「その能力、もう少し鍛えてあれば私の研究対象の仲間入りだったな。もちろん、今からでも遅くはないぞ。その時は私が直接屠って、お前の体を永久に保存してやる」
「そりゃありがたい。自分がサボリ魔だったってことに感謝するよ」
 アキオは悪びれず、ギルの握るケースの中から一本取り出して咥えた。ギルがそうするように、手もライターも使わず、煙草の先端に火をともす。能力者が複数の能力を持つのはかなり珍しいが、全く居ないわけでもない。だが元々が〈人格波動〉という精神的な個人情報のパターンを利用している力である為、二つ目の能力を発動させるのは非常に困難な作業になるはずだ。
 ギルの言う魔術師とやらがどんな存在なのか、どんな方法でもって特殊な能力を発するのかわからないが、複数の能力を使いこなす術に長けている様子がうかがえる。発動原理が根本的に違うのかもしれない。
 アキオは満足そうに煙を吐き出しながら
「ご希望どおり、あの三人と二重現身は指定区域に移動させておいた。いいのか、本当に?」
「何がだ?」
「こんなにのんびりしてていいのかって話だよ。見たところ、〈特務〉のニイチャンと〈赤目〉は仲良しとは言えねぇし、〈赤目〉は血まみれだったぜ? あんたの薬でも切れてんじゃねぇのか? 〈特務〉のニイチャンなんて得物なしだ。この一、二分の遅れが大変なことになりかねないんだ。相変わらず、何考えてんだよ、このサド医者」
 ギルは鼻で笑う。
「成り行きだったとは言え、この程度で死ぬような奴らを集めた記憶はないからな。これから〈マスター・フリーク〉を相手にしてもらわなきゃならない連中だ。いくら潜在能力の高いドッペルゲンガーだったとしても、一、二分持ちこたえられないようじゃ話にならん」
「……なるほど」
 アキオは大げさに感心して見せた。灰皿に煙草を押しつける。
「相変わらず、ひねくれてるんだな。応援にすっとんで行くのは心配してる様に見えてイヤだってワケか」
 車両は地下駐車場を抜け、薄暗い曇り空の下へ出た。ギルは窓からその空を見上げながら、どこか眩しげに、両手で顔をこすった。
「誰がそんな事を言った? やつらの戦闘能力をテストしてるだけだ」
「んなこと言っちゃって。あんたを敵視してるヤツは多いからな。下手に誰かに優しくすると巻きこんじまうって事だろ?」
「何が言いたい?」
 アキオはイヤイヤとおどけた所作で手を振る。
「長生きするのはお互い大変だよなってことさ。さて、こちらも移動しようと思ってるんだけど、準備はいいか? そちらのお嬢さんは?」
「アヤメ、ハンドルにしっかり掴まってろ。アキオは時々、移動時に高低差を勘違いする癖があるんだ」
 「おっ?」とアキオが驚いたように木伏に目を向けたが、何も言わなかった。
 おもむろに片手を挙げると、指を鳴らす。
 転瞬。
 足元が揺れる感覚と共に、車外の景色は一変していた。



 アキオの指が鳴ると同時に、柚実の全身を浮遊感が襲った。
――どうして?
 どうしてこんな事に巻きこまれているのだろう?
 手の中で掴んでいた青年の――三条の腕がズルリと滑った。手の中でグシャグシャに潰れた肉の感触の不快さに、柚実は妙な現実感を得る。服を通して染み込んでくる彼の血液の不快さに、肌が粟立って行く。
 かばう様に肩を掴まれた拍子に顔を上げる。目の前に迫った真っ赤な、そして飛び出してきそうな巨大な眼球の顔に息を飲む。
 何度見なおしても、どうしても慣れる事ができなかった。破裂してゆく筋肉の下から、グググと盛りあがって行く新しい筋肉組織。目の前で一回り大きくなった三条の姿。
 滴る血を引きずりながら飛び出してきた眼球の表面が透明な膜によって保護されてゆく。
 どこからどう見ても、それはバケモノでしかなかった。柚実が見た連続殺人犯と同じ姿をした、「人ならざる者」の姿だった。
 だが、彼はしっかりと柚実の体を引き寄せる。この不安定な無重力から彼女を守ろうと。
――夢みたいだ
 いや、夢なんだと思いたい。
 だってそうじゃないか。「止まって!」と念じた弾丸が本当に止まるなんて、夢の中でしか通じない「都合のよい事」の最たるものだ。
 自分の目の前にいるバケモノに敵意がなく、自分の味方であるかのように振舞うのだって、ご都合主義で塗り固められた夢そのものだ。
 やがて重力が体に戻ってくる。
 耳元で唸る風、そしてその風に奪われて行く体温は、自分の置かれた状況が現実なんだとイヤでも教えてくれる。
 ゆっくりと柚実の体は降ろされ、そして足の裏に地面を感じる瞬間が訪れた。
 振り仰ぐと、牙をむく赤い目の異形が自分を見下ろしていた。
「ここから動くな」
 唇の端から牙のはみ出た口で、器用に皺嗄れた声で呟いた〈赤目のフリーク〉。彼は柚実から手を離すと、自分の肩の肉を掴んだ。
 服を脱ぎ捨てるように、ボロボロになった肉片を剥ぎ捨てる。真っ赤に濡れた新しく硬質な皮膚が現われ、その下の筋肉がパンプアップした。



 弥彦・エンヤは、着地と同時に素早く辺りを警戒、確認する。
 周りは岩だらけの、ただ広いだけの土地だ、周囲は切り立った崖に囲まれ、ちょうど噴火口の中に落ちこんでしまったようだ。逃げる為の道すら見当がつかなかった。
 まるで闘技場《コロッセオ》の中のようだ。アキオが「リングにあがりな」と冗談めかして言っていたのは、あながちハズレていたわけでもないらしい。
 確かにここでなら、他に迷惑をかけずに、決着がつくまで戦う事が出来るだろう。
――それにしても、ここはどこだ?
 少なくとも、都市部にこのような場所はないはずだ。近くとも郊外……工業開発地域だろうか?
 そんなに遠くまで物体を――三人もの人間を移動させるだけの能力を持つ人間など、おそらく数えるほどしかいないだろうに。
 ギルの依頼だという話だったが、あの軍医、どれだけの人脈を持っているのだろうか? 伊達に『〈人格波動〉研究所』の看板を掲げているわけではないようだ。
 視界の端で何かが動いた。目をやると、遠くで立ち尽くしている佐々木柚実と、こちらに向かって歩み寄ってくる〈フリーク〉の姿が見えた。両手をあげ、戦う意志のないことをしめす〈フリーク〉――三条尚起。
 自らの血でヌレヌレと蠢く鎧のような皮膚が、日差しの中でギラギラと輝いていた。
「……あなたが、犯人? 連続通り魔の?」
 無駄とは思いつつも、自分の知り合いが〈フリーク〉化した現象に戸惑っていた弥彦は、思わず問いかけていた。返答もリアクションも期待していなかった弥彦だったが、意外にも目の前の〈フリーク〉は首を振った。
「俺じゃない」
 三条の声とは全く違う、唸るような声だった。
 弥彦は記憶の中にあるマニュアルをさらう。〈フリーク〉は基本的に言語能力を持たない。本能のみで行動する〈フリーク〉は群れる事がなく、時には〈フリーク〉同士で戦いあうことすらあるぐらいだ。
 だからこそ、〈赤目のフリーク〉という都市伝説が生まれたのだ。
 話す〈フリーク〉としての〈赤目のフリーク〉――それは、ただでさえ普通ではない〈フリーク〉の、更に異質な〈フリーク〉として、恐怖の代名詞となったのである。
 だからこそ、弥彦は「次はお前だ」と〈フリーク〉に宣言された時、相手を〈赤目のフリーク〉だと認識したのだ。
 三条=〈フリーク〉が理性を保ち話すという事実は、先に彼を〈赤目のフリーク〉と判断したことに対する確認でしかなかったはずだったが、弥彦を動揺させるだけの衝撃を持っていた。
 やはり彼こそが〈赤目のフリーク〉そのものではないか。
 赤く、顔の半分はあろうかという巨大な瞳で弥彦を見つめる〈フリーク〉。筋肉が盛りあがり、それまでの三条の姿から二周りほど大きくなった〈フリーク〉の姿は、弥彦の警戒心を強めるのに十分な異様さだった。
「犯人じゃないという証拠は?」
「ない」
「それじゃ――」
「でも俺じゃない。俺はあいつを追って戻ってきただけだ。あいつを野放しに出来ないからギルの手を借りようとした。本当だ」
「それを信じろ、と?」
 〈赤目のフリーク〉は無言で頷くと、とまどう弥彦へ逆に問いかける。
「それに今はその話じゃない。お前のドッペルゲンガーを倒すのが先だ。どうするつもりだ?」
 殲滅か、吸収か。
 二重現身を退治するには、この二つの方法しかない。
 弥彦が迷っていないといえば嘘になる。能力者となることに対するためらいも憧れもあるし、もしもの時には〈フリーク〉化する危険も当然ある。
 その迷いが、目の前の〈フリーク〉に対しての苛立ちに変わるのを自覚してもいた。
「そんな事、あなたに言われなくてもわかってる! 手出しは無用です、これは僕の問題だ!」
「でもなんの武器もないんだぞ。どうやって倒すんだ?」
 弥彦は生じた新たな気配――殺気に振りかえりつつ怒鳴った。
「うるさい!」
 振り返りざま放った裏拳は、背後から迫ってきていた二重現身の頬に食いこんだ。グラリとドッペルゲンガーの頭部がかしぐ。病院で撃ち込んだはずの銃弾の痕は綺麗に消えてしまっていて、無傷のように見える。その回復力に一瞬ぞっとする弥彦。
 そのわずかな間にも――弥彦の攻撃に体勢を崩して揺れる首や体とは無関係に、すでに大きく振りまわされていた二重現身の拳は、がら空きになっていた弥彦のわき腹に襲いかかっていた。
「……っ!」
 その弥彦の偽物の腕を、〈赤目〉の掌が受け止める。軽く捻りあげると、弥彦と同じ太さをもつ偽者の左腕が、その筋肉組織を雑巾のように絞られて千切れた。
 三条はその腕をポイと投げ捨て、弥彦とドッペルゲンガーの間に割ってはいろうとする。
 弥彦はその三条の肩を強引に引っ張った。
「手出しは無用だといったでしょう!」
 手がぬるりと滑る。三条の体に付着していた、三条自身の血だ。だが彼とドッペルゲンガーを引き剥がす事には成功した。よろめいてあとずさる三条には見向きもせず、弥彦はドッペルゲンガーの膝蹴りをかわしつつ懐に飛び込む。
 組みついた弥彦は、肩に噛みつこうとしてきた偽者の顎に肘鉄をかまし、そして右腕を抱え込む。何度も訓練したとおり、相手の体重とタイミングにあわせて、敵の体を自らの体が描く半円に乗せる。
 一瞬にして極められた一本背負いに手加減はなく、偽者は受身を取る間もなく頭頂から地面に叩きつけられた。首の骨の折れる音が響き渡る。弥彦が離れると共に、その体はゆらりと揺れて地面に転がった。
「ほら、どうせ単調な動きなんだ、素手でだって十分倒せる!」
 そう三条にくってかかった弥彦に、〈赤目〉は巨大な瞳を覆う膜を蠢かせる。もしかしたら瞬きをしたのかもしれない。
「まだ生きてるぞ、そのドッペルゲンガー」
 三条の言葉どおり、ドッペルゲンガーは折れた首のままゆらりと立ちあがった。〈フリーク〉化した者よりタチが悪い。何体かの〈フリーク〉を見てきた弥彦だが、これだけの生命力をもった生き物は見た事がない。
 いや、そもそもドッペルゲンガーは生き物なのだろうか?
 一瞬、この戦いが果てしないものに感じた。だがここで弱みを見せるわけにはいかない。まだ三条が連続通り魔事件の犯人である可能性は残っているし、仮に犯人だった時のためにも借りを作りたくない。いや、関係があろうがなかろうが、借りを作りたくはなかった。
 これは意地だった。〈軍部〉の一兵士としての意地だった。
「一度で生きてるだったら、また叩きつければいいだけだ、あんたの手は借りない。こいつを倒したら次はお前だ!」
「……わかった、勝手にしろ」
「ああ、もう、勝手にします!」
 幸いにも、敵は二重現身。真っ直ぐに弥彦に向かって攻撃してくる。
 邪魔をしてくる三条と二重現身を引き離す為にも、弥彦は窪地の中を走り出す。人間とは思えないバネで追ってくるドッペルゲンガーは、追いついては弥彦の体に一本になってしまった腕を振り上げた。弥彦はその大ぶりな拳をかわし続ける。
『弥彦くん!』
 急にホットラインの繋がる音と木伏の声。気をそらした瞬間、偽者のなくなっていた左腕が一瞬にして再生した。その勢いのまま伸びてきた拳が、弥彦の体をなぎ払う。
「ぐっ!?」
 ガードした腕が軋み、弥彦は地面に転がった。その弥彦にドッペルゲンガーが飛びかかる。立ちあがろうともがく間に馬乗りになられ、振り上げられた拳が、曇り空の中の黒い影に見えた。
 絶体絶命。
 弥彦は一瞬、自分の殲滅した〈フリーク〉達の姿を思い出した。
 〈フィストドライブ〉で頭部を破壊された人々の姿。
 きっと自分の顔も、この偽者の拳で粉々にされてしまうに違いない――



 だが弥彦の目の前で、ドッペルゲンガーは吹き飛ばされた。



 何が起こったのかわからないまま体を起こした弥彦は、三条が倒れた二重現身の胸元から飛び下がるの目にした。彼が飛び蹴りをしてふっ飛ばしたのだ。その威力の凄まじさは、二重現身の胸元に残った足跡と、偽者が衝撃で引きずられた際に出来た地面の溝で簡単に推測する事が出来る。
 〈赤目のフリーク〉の攻撃に逆上したのか、飛び起きたドッペルゲンガーは先の攻撃とは段違いの早さで反撃をくりだした。相変わらず単調だが、スピードそれ自体が脅威に感じる。弥彦もついて行けないスピードではないが、一つでも目測を誤ればそのまま御陀仏でもおかしくない早さとパワーだ。だが〈赤目〉もそれに劣らぬスピードで、相手の攻撃をガードし続ける。
 いや、〈赤目〉の方が余裕に見えるのは気のせいか。弄ぶように、何かを待つように弥彦の偽者を翻弄し続ける。
 そして弥彦は、彼が何を待っていたのかを知った。
「弥彦、受け取れ!」
 突然、轟音と聞きなれた声が頭上から降って来る。次いで弥彦の目の前に、見なれた〈特務〉のシンボルマークがペイントされた鉄の塊が突き刺さった。着地を確認した射出用ケースがバラリと外れ、中から巨大な鋼の手甲が現われる。
「〈フィストドライブ〉!?」
 弥彦は喜びにその名を呼びつつ、鉄の塊に駆け寄る。
「ありがとうございます、ギル!」
 崖の端から自分達を見下ろす白衣の男は、面倒そうに弥彦に手をふってみせた。その横には控えている木伏の姿がある。彼女の傍らには簡易砲台もある。あれで〈フィストドライブ〉を打ち出したのだろう。
 そして、自分たちを移動させた張本人――〈西方協会〉のアキオと名乗る男も。
――ギルの依頼というのは本当だったってワケか。
 疑っていたワケではないが、確認できると安心できるのも確かだ。
『弥彦くん、三条さんがドッペルゲンガーを食いとめている間に〈フィストドライブ〉をつけて!』
「でも木伏さん、あいつは――」
『いいから早くしなさいっ!』
「は、はい!」
 〈フィストドライブ〉の中に右腕を突っ込むと、〈波動認識錠〉が作動、弥彦・エンヤ本人を確認し、器械と腕をストッパーで止めはじめる。
 ホットラインからの木伏の命令は続く。
『いい、聞いてる? 佐々木さんを今すぐ救出させる事はできないってギルが言ってる。彼女は保護対象として、出来るだけ戦闘から遠ざけるように心がけて』
「了解」
『三条さんの事は私もよくわかってないけど、ギルは敵じゃないと判断してる。この場面において彼が共闘するつもりでいるのは明らかなので、こちらも協力体勢を取ります』
「……了解」
 〈フィストドライブ〉と連動するアンカーをブーツに取りつけながら渋々同意。
『貴方のドッペルゲンガーだけど、完全に殲滅するか取りこんで能力者となるか、その判断は貴方に任せるって言ってる。どちらにせよ、事後の対処は任せておけっていうのがギルの命令よ』
「簡単にいってくれますよね、人の人生の転機に。……了解」
 肝心な点をぼかした命令なんて、命令なんかじゃないだろと心の中でぼやく弥彦。
『私は……私はどんな事になっても、いつもどおりサポートするから安心して。貴方の選んだ選択なら、私はできるだけ応援するから』
「……ありがとうございます、頼りにできるのは木伏さんだけです」
『お世辞はいいから、さっさと終わらせましょう。話したいことがたくさんあるからね』
 冗談めかす木伏に、弥彦は頬を緩ませる事ができた。
「了解っ!」
 思わぬ笑顔が精神にもたらした効果は絶大だった。強張っていた頬肉が痛いほど動かされた途端、彼は自分の心が、いかに緊張しきっていたかに気づいたのだ。
 三条が〈赤目〉であった事に対する怒りと、二重現身の出現に対する混乱と、対抗手段を持っていなかった不安と……そういったものに縛り付けられていて、状況を整理する事すらできないでいた。
 右腕にとりつけた〈フィストドライブ〉が作動しはじめる。金属の唸る音が鳴り響き、そして沈黙。
 弥彦の精神的な落ちつきが、彼の〈人格波動〉の数値を下げた為、それを察した〈フィストドライブ〉もまた、稼働率を下げていったのだ。
――どうする?
 自分はどうしたい?
 今まで何度か繰り返した自問自答を、再び自分に課してみる。
――能力者になって生きるのか、自分の身を危険にさらしてでも、分身を完全に消滅させるのか。
 迷う時間はあまりにも短すぎて、ワケがわからなくなる。
 とはいえ、選択しなければならない瞬間は、すぐ目の前にあるのもわかっていた。



「へぇ、アレが〈赤目のフリーク〉の完全体か」
 アキオが腕組みしながら、感心したようにうなずく。「確かにありゃ、妖怪だな」
 木伏は自分の愛用するライフルを確認。対〈フリーク〉用特殊弾丸の装填を確認。
「完全体だと? あれが?」
 ギルは呆れたように笑うと、咥えていた煙草を足元に落として踏み消した。眼下の光景には、なんの感慨も抱かないようだ。
「そういや、お前は見てなかったな。あんなの、百五十年前の〈赤目〉に比べれば、赤ん坊みたいなもんだ」
 木伏は腕に取り付けてある端子と、ライフルのスコープを連動させる。『無意識の目』が送ってくる映像がスコープに映し出され、彼女の狙撃能力を飛躍的に上昇させるはずだ。
 ライフルの〈波動認識錠〉が点灯、木伏本人を認識して狙撃体勢に入る。彼女の『無意識の目』が敵と認識して捉える人物の〈人格波動〉を、ライフルに取りつけられた解析機器が分析、周辺環境をも計算して、照準を合わせてゆく。
「全く心配してないって口ぶりだな、お医者さんは。じゃあ今のウチに、ちょっと質問させてもらおうか」
 アキオは、木伏がライフルを構えている崖の端に腰を下ろすと、窪地で戦う人々を眺めながら足をブラブラとさせた。
「ウチの組織との連絡係にわざわざオレを指名して来たのは、どういう風のふきまわしだ?」
「一つは人質だな」
 ギルはさらりと言ってのけた。もちろん、口元にはいつものゾッとする笑みを浮かべているのだろう。だがアキオはひるまない。話から察するに昔からの知り合いのようだから、軍医の笑みもよく知っているのだろう。木伏には信じられない事だが、あの気味の悪い笑みを見慣れているのかもしれない。
「へぇ? よりにもよって、このオレを? 人質? まあ、あんたが二十四時間監視してるならともかく、本気でオレを閉じ込めておけるとでも思ってるワケ?」
「〈西方協会〉の一人を人質として持っているといえば、上層部《うえ》も少しは安心するんでな。お前が逃げようとすればいつでも逃げられる事なんざ、報告しなければいいだけだ。とりあえず、お前達との協力体勢を整えるのが第一だ。気分が悪いのはわかるが我慢しろ」
「そこのお嬢さんはどうするんだよ。彼女は今のあんたの言葉、覚えてるぜ? 記憶でもいじるのか?」
「場合によってはな」
 ギルの返答に、アキオは再び「おっ?」と声をあげた。かすかな驚愕を言葉に滲ませたまま黙り込む。ギルの声は、何事もなかったかのように続けた。
「二つ目は貴様の空間移動能力が必要だった。〈赤目のフリーク〉と〈マスター・フリーク〉が対峙するとなれば、どれだけの被害がでるかわからない。物理的にもだが、何よりもディメンションダウンの危機と〈波動剥離現象〉の拡大が深刻だ。仮にディメンションダウンが起こったとしても、お前の魔術で空間を閉鎖するなら、被害区域を最小限に押さえる事ができるだろう」
「空間閉鎖だけですむなら問題ねぇよ。だけど空間閉鎖するって事は、その空間を魔術的に変化させるって事だ、それぐらいあんただって知ってんだろ、錬金術師? 当然、レイレン反応も過分に放出される。それがキッカケになってディメンションダウンが起こったら本末転倒。〈マスター・フリーク〉が暴れるより先におおごとになっちまう。どうするつもりだ?」
「アカデミーは無能の集まりだが、たまには役立つ研究もしてるもんだ。〈特務〉の空間使い用に、レイレン反応の少ない地域をピックアップした地図がリアルタイムで配信されている。それを使って、空間閉鎖に耐えられる地域を探す。無いなら長期戦になるが、私が手配しよう。カタストロフィ時に使用したクリーナーを使ってレイレン反応を駆除し、閉鎖区域を作り出す。今回の〈マスター〉と〈赤目〉は先に接触しているからな。〈赤目〉に挑発させれば出てくるのは間違いない、そこを誘導させればいい」
 なるほどなと、〈西方協会〉の男はうなずいた。
 だが、ライフルを構え続けている木伏は違う。
――まただ。
 意味のわからない言葉の羅列。
 子供扱いされているような不快感が苛立ちになり、木伏はいつの間にか、詰問口調で問いかけていた。
「失礼ですが、ギル。そろそろ説明していただけませんか?」
 ライフルを構えたまま、木伏はたずねた。
「貴方達は、まるで百五十年前のカタストロフィの事を知ってるような口ぶりで話してるし、三条さんは〈赤目のフリーク〉だといわんばかりです。私はそれほど優秀な〈特務〉警備員ではありませんが、カタストロフィについては普通人よりよく知っているつもりです。でも貴方がたが使う用語は聞いた事がない」
 スコープごし視界では〈フィストドライブ〉を装着した弥彦が、攻防を繰り広げる〈赤目〉とドッペルゲンガーに向かって歩き出していた。
「これから何が起こるっていうんですか? 貴方達が恐れている事とはどんな事なんですか? それは……本当に、私達でも解決できるような事件なんですか?」
「ああ? なんだって?」
 アキオの言葉には意外を通り越した、疑念の意志さえ読み取る事が出来た。
「ギル、あんた、まさか何も説明してないんじゃないだろうな?」
「……アヤメ、お前は知らなくていいんだ。お前たちは私の指示に従ってるだけでいい。悪いようにはしないはずだ」
「失礼ですがギル、その命令は聞けません。せめて、我々の作戦とやらが失敗した時に何が起こるのか、それだけでいいです、教えてください」
 攻撃をはずした〈フィストドライブ〉の拳が大地を叩き、破壊音が響き渡る。地面がグラグラと揺れたのを機に、木伏はライフルを握りなおし――自分の手が汗でぬめるのに気づいた。
 冷や汗だ。それが戦闘の緊張から来るものだけではない事を、木伏はよく知っていた。急いで掌をズボンにこすりつけ、ライフルを握りなおす。目と意識をそらそうとするかのように、弥彦の戦闘をサポートするタイミングをはかりつづける事に集中しようとする。
 にもかかわらず、唇は木伏の疑問を吐き出して行く。
「ディメンションダウンとは、一体なんなんですか? そもそも〈赤目のフリーク〉が三条さんだったって、どういう事なんですか? どうして今ごろ、ドッペルゲンガーが現われて、それが弥彦くんじゃなきゃならないんですか? どうしてギルはそれを知っていたんですか? 〈マスター・フリーク〉って、一体何なんですか?」
「おいおい、洒落になんねぇぞ……〈特務〉は何やってんだ?」
 アキオの言葉に、軍医は
「〈特務〉の教育は偏ってるんだ。〈西方協会〉や私の提出したレポートはほとんど無視されている。奴らは現状を打破する方法だけ必要だったようでな、総体的な研究と予測については、あくまで仮説として教育内容に組みこまれていない。仮説で余計な恐怖心や使命感を与える事は、作戦行動に支障をきたすと判断されたんだ」
「アホか。確認する頃には取り返しのつかない事になってるっての」
 木伏の隣りでアキオはぼやき、ギルは紫煙を吐き出した。ため息と一緒に
「それにしてもアヤメ、お前は本当にうるさいな。余計な事に興味を持つな。バラすぞ?」
「じゃあ、せめて殺す前に教えてください」
 アハハハハと、アキオが唐突に乾いた声で笑い出す。
「じゃあ、ディメンションダウンぐらい教えてやるよ。失敗したらどうなるか知りたいんだろ? 失敗したらディメンションダウンが起こる。で、ディメンションダウンっていうのは――」
「アキオ、やめろ」
 軍医が咎めるより早く、〈西方協会〉の魔術師は木伏に耳打ち。
「ディメンションダウンっていうのは空間崩壊……つまり、この世界がバラバラになっちまうって事。この世界を構成する空間が、全ての物理法則を狂わせて消滅するんだ。この地もここにいた生き物も、下手すると歴史や時間さえも残らなくなるかもしれない。全ての事柄を空間が支えきれなくなって、粉々に潰されちまうんだ」



 ようするに世界の終わりさ――黒服の魔術師はそう囁いた。




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