R-T-X 「7・転機と青年(下)」
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――世界の終わり?
 思いもしなかった言葉に呆然とする木伏に、アキオは続ける。
「この世界は、要するに瓶に詰った砂みたいなモンなんだ。時間も法則もこの空間も、その砂の塊を構成する要素でしかない。ところが、〈フリーク〉や〈マスター・フリーク〉が活動すると、レイレン反応っていうのが起こって重力素みたいのが生成されちまう。そいつのおかげで世界自体が、つまり砂粒を支えている瓶自体がダメージを受けるってワケだ。厄介な事に、〈フリーク〉と同じように、魔術や能力者の特殊能力もレイレン反応を起こしちまってね、下手に戦うとますます『瓶』のダメージが大きくなってくワケ。それが続けばどうなると思う?」
――どうなる?
「割れる、とか? 穴があいて、こぼれる?」
「そう。砂時計の瓶ぞこみたいに一ヶ所に穴があけられていれば、そこからこの世界がどこぞに消えていっちまうってことだ。何もかもバラバラになってね。その先がどうなるかは、この手の研究じゃ第一人者の、そこにいるギルのおっさんでもわからない。まあ、どう転んでも今までどおりの世界じゃなくなるわな。それがディメンションダウンの正体さ」
「そんな、馬鹿な……」
「馬鹿な話ですむなら、〈西方協会〉が〈軍部〉に手を貸すわけないだろ? そもそも、これはギルが研究する以前から、魔術師の間じゃ――」
 木伏の背筋に寒気が走った。
 それはアキオの言葉のせいだったのかもしれないし、もっと現実的なものだったのかもしれない。
 木伏の首筋の上をかすめていった銀色の輝き――鋭く細いメスの放っていった空気のせいだったのかもしれない。
「――っ!」
 思わずスコープから顔を上げた木伏の横で、アキオがグラリと体勢を崩した。首筋に突き刺さったメスの柄が輝く。
「ククク……悪いな。しゃべりすぎるヤツは、男も女も嫌いなんだ。つい手が滑ってしまった」
 ギルが何事もなかったように独り言。「とはいえ、殺したくても殺せないヤツは、もっと嫌いだが」
「……なにいってんだか。あんたが本気になりゃ、〈西方協会〉が束になっても五分五分だってのに」
 ひょいっと、アキオは体を起こした。首筋に刺さっているメスを引き抜くが、血はおろか傷口すらみあたらない。
「体の空間が、歪んでるっていうの?」と唸る木伏に「ご明察」とアキオ。
 木伏がかつてチームを組んだ事のある能力者の中にも、こんな事をして見せる能力者がいた。自分の体表面に空間の歪みを作りだし、攻撃を逸らす技術だ。アキオの例でいえば、メスの刃の部分のみ、どこかの場所に移動させられている事になる。木伏の知っている能力者も言っていたが、歪める地点をキチンと設定しないと、自分の体を傷つける恐れがあるワザなので、そうそう簡単に使うわけにはいかないとか。
 何にせよ、ライフルを構えている傍らで突然味方割れされる事ぐらい、迷惑な話はない。これは彼らのスキンシップの一種なのだろうが、特殊な環境に身を置いている木伏でも心臓に悪い冗談だ。
 そんな木伏の動揺も知らず、黒服の男は笑う。
「何を怒ってんだよ、軍医さん? 俺、なんか間違った事でもいったか?」
「お前を呼んだのは、そんなくだらない話をさせる為じゃないからだ。少し静かにできないのか」
「でも、彼女は知りたがってるんだぜ?」
「くだらん質問には答える義務を感じない」
 二人のやり取りをあっけにとられて見ていた木伏だが、自分の疑問を「くだらない」と一蹴された事実にはカチンときた。
「何がくだらないんですか?」
 ギルはいつもの不気味な笑みで、アキオから木伏に目を向ける。木伏はできるだけ、その視線を受け止めた。そう長い時間見ていられる目ではないが、一言問い掛けるだけの時間ぐらいは我慢できる。
「何がくだらないんですか? 自分の関わっている作戦について知らない事を知ろうとするのは、そんなにくだらない事なんですか?」
「知る必要のない情報を手に入れようとするのがくだらないといってるんだ。ただ戦うだけなら、必要な事を把握するだけで十分だろ? 必要な事っていうのは、相手の特性とかこの地の利のような、敵味方のデータだけで十分だ。末端で戦闘する貴様らに、情勢を把握させる必要は今のところ無い」
 大体な、と軍医は続ける。
「コイツのいった事を信じたのか? 世界の終わりだぞ? 広い世界の、たった一つの都市の一角から、この世界がバラバラになるっていってるんだ。信じられるか? 出会ったばかりの人間にいきなりそんな事をいわれて信じられるか? ククク……私なら信じないな」
「あ、てめぇ――」
 自分の言葉を否定され、抗議しようとするアキオに向かって――ギルはどこからか新しく取り出したメスを見せつけた。
「ククク……なぁ、アキオ。〈西方協会〉の一人が死んだとなったら、私を殺しにくる馬鹿どもの数も少しは減ると思わないか? ん?」
 先のメスは戯れだとしても、次にやる時は本気だという事だろう。
 アキオは何か言いかけた。だが結局、渋々ながらお手上げのポーズを取る。
「……あんたが何考えてるのかわからねぇが、今は彼女に何も教えたくないんだな? 俺に黙ってろって? ……まぁいいさ。俺もそこまで馬鹿じゃねぇよ、あんたに逆らってまで教える事じゃねぇしな」
「そうだ、それでいい。さてアヤメ、何をボーっとしてる。弥彦がやられても良いのか?」
 木伏は慌てて、自分の手にあるライフルをつかみなおした。スコープを覗きこむ。
 弥彦が〈フィストドライブ〉を振りまわす見慣れた光景が目に飛び込んでくる。いつもどおりの弥彦の動きだ。危なげない動きで、二重現身の攻撃をかわし、時には〈フィストドライブ〉でガードする。その顔に、自分自身と戦っているのだという迷いは感じられない。敵だと認識してしまえば、相手がどんな顔をしていても同じなのだろうか?
 ギルが言ってたように、彼はある意味本物の戦士なのかもしれない。
「一つだけ」
 不意にそんな言葉が、戦闘に神経を注ぎ込もうとしている木伏の耳に飛び込んできた。
「一つだけ教えてやる。何が知りたい? 言ってみろ、アヤメ。一つだけだ」
 淡々としたギルの口調は、どこか怒っているようにも聞こえたが、それでいてすねた子供のような微笑ましさもある。木伏は彼の急な心がわりが理解できず戸惑う。
 弥彦のサポートをしろと言ってきたり、質問してみろといってみたり……ギルは一体、何を考えているのだろう?
―― 一つだけ?
 一つだけ。
 彼のたくさんある謎の、その一つだけ?



 弥彦の右腕が――〈フィストドライブ〉が風を切る。
「畜生っ!」
 毒づきながら二重現身の姿を追って構え直す弥彦。相手はサッと跳び下がり、弥彦との距離を大きくとった。
 本能だけで動いているはずのドッペルゲンガーだが、たった今繰り広げた数瞬の小競り合いでこの巨大手甲の威力を感じ取ったのだろう。がむしゃらな攻撃の合間、こんな風にたまに警戒の間合いを取るようになった。
 いや、本能だけだからこそ、その威力を素直に察する事ができるのかもしれない。
 敵は器械の装着されていない左側や足元を狙って連撃を繰り出してくる。弥彦も〈フィストドライブ〉の、その大きすぎるほどの手を広げて受け止める。相手から見れば壁になってしまう手の影に弥彦がすっぽり入ってしまうので、間合いをうまく取れば、ほとんどの攻撃はこの手で防いでしまえるのだ。
 だが二重現身も黙って見てはいない。手の、その指が防御範囲を広くとっているのだと悟ったらしく、鋼で出来た不出来な指の一本一本を破壊しようとする攻撃に切り替えた。
――ドッペルゲンガーって、学習能力があるんだ。
 マニュアルには記載されていない事だ。もっとも、弥彦の世代が使っているテキストなど、能力者がドッペルゲンガーとの接触無しで出現するようになった以降の人間が作っているのだから、そんなに詳しい事項が載っているわけもないのである。
 とはいえ、やすやすと〈フィストドライブ〉を壊されるわけにもいかない。指への攻撃を手の平で受けるよう微調整しつつ、弥彦も反撃に出る。
 手甲でワザと大ぶりのフェイクをかけ、ひるんだところで間合いを詰める。〈特務〉で何度も練習させられ体に染み込んだリズムとステップを踏み、フェイクから振り上げ動作に移行していた右ストレートを顔面めがけて叩きつけようとする。
 ドッペルゲンガーは無表情のまま上半身を捻った。内臓のある人間ならこうは動けないだろうという角度で腰がねじれる。それによって弥彦が放った頭部への攻撃を回避し、さらに彼の左側へまわりこもうとするのだ。これも二重現身の学習能力の成果だろう。
 他人事のように感心しながら、弥彦はまわりこんだ自分の偽者に対して回し蹴りを放つ。けん制の蹴りだから威力はない。だが弥彦の重量だ、当たれば容易に足止めすることが出来る。案の定、偽者の太腿に命中した蹴撃で、相手の動きが止まる。
 ――と。
 急にその姿が弥彦の視界から消え失せた。
 正確には、弥彦の予想外のスピードで移動した為、目がついていかなかったのだ。低い姿勢で一気に間合いを詰めたドッペルゲンガーの巨体が、弥彦の腹部に向かって突進してくる。
 まるで猛牛だ。その姿を、その肩を弥彦が認識した頃には、すでに〈フィストドライブ〉より内側に入りこまれていた。手甲を叩きつけるにはもう間に合わない――その事は経験から知っていた。
「くっ!」
 とっさに左腕を突き出す。手の平が偽者の肩口に触れた事を感じ取った瞬間、一気にその手に力を込め、ジャンプする。跳び箱の要領で、闘牛士のように突進してきた巨体のエネルギーを後方に受け流す。
 とはいえ、右腕の〈フィストドライブ〉の重さで引き摺られた弥彦は、空中でバランスを崩して転倒する。頬に砂利が食い込む感覚と痛み、それ以上に自重が全身を叩く痛みが弥彦の意識をほんの少しだけ遠ざける。
 タックルに失敗したと見た二重現身は、そのまま大地に両手をつく。四足で飛びかかるように、その四肢のバネをフルに発揮して飛びあがる。
 転がっている弥彦の上空で、両の拳を振り上げる。体重ごとその両拳を叩きつけるのは明白だった。
 だが、その体が一瞬、空中で動かなくなる。
 ドッペルゲンガーの体を押し留める物が出現したのだ。その銀の光を放つもやもやとした煌きは、二重現身の落下と攻撃を真正面から受け止める。
 佐々木柚実の能力だ。
 彼女は相変わらず、この窪地の隅でガタガタと振るえていた。
 自分の前で繰り広げられ続けている「非日常」の光景に目を奪われながら、ただひたすら、この戦いが終わる事を――もしくはこの「夢」が終わる事を願っていた。
 最初は二人の弥彦の、どちらが人間なのかわからず混乱していた。だが、本体が〈フィストドライブ〉をつけた事と、その〈フィストドライブ〉をつけた弥彦を〈赤目〉がサポートする姿を見、どちらが自分の味方なのかをはっきりと認識できたのだ。
 そして今、転んだ弥彦は〈フィストドライブ〉をつけている。
 味方が危険だ――それを悟った瞬間、柚実は先に弥彦の弾丸を止めて見せたように、無意識のうちに能力を使用していた。
 その能力の発動方法はただ一つ。「やめて!」と念じただけ。
 だがその単純な願いに反して、彼女は視覚から正確にドッペルゲンガーの落下地点を割り出し、そこに銀色の防壁を張り巡らせたのである。もしかしたら彼女は目で見た風景から、その距離や三次元的な座標――つまり場の空間全体を把握する能力に、元々長けていたのかもしれない。でなければ、無意識で能力を行使する座標を設定できるわけが無い。
 空中で止まったドッペルゲンガーは、さながら古い蜘蛛の巣に絡まった昆虫のようだった。強い拘束力は無い力だ、確かにこのまま暴れ続ければ解けるだろう。今、ドッペルゲンガーは虫のようにもがいている。柚実の防壁が破られるのも時間の問題、ほんの数秒の問題だ。
 だがその数瞬だけでも、少なくとも〈赤目〉にとっては、十分な時間稼ぎになった。
 宙で止まっていた二重現身に向かって飛びかかる。空中でドッペルゲンガーの頭を鷲掴みにすると、落下しながらも、その顔面を自分の膝頭に叩きつけようとした――が、「チッ」と舌打ち。
 弥彦と同じ体を持つ二重現身の腕を、苦も無くもぎ取る事のできる〈赤目〉だ。その腕力で頭部を攻撃すれば、ほぼ確実に弥彦のドッペルゲンガーは消滅する。
 しかし弥彦が自分のドッペルゲンガーをどうするつもりでいるのかわからない以上、〈赤目〉は敵のとどめをさすのを躊躇わざるをえない。
 ギルの指示を仰ごうにも、目の前にいるにもかかわらず何も言ってこないのだ、彼も弥彦の意思を尊重しているのだろう。
 〈赤目〉は鷲掴みしていた頭を振りまわす。弥彦の姿をした化け物は、棒のように投げ捨てられ、大地を転がっていった。



「弥彦!」
 〈赤目〉の言葉が上空から聞こえたと思った瞬間、弥彦は軽々と自分を摘み上げ、立たせようとする〈赤目〉の姿を目にした。慌ててその腕を振り払う。
 〈赤目〉の濡れていた硬い皮膚は、小競り合いの中で付着した土ぼこりで真っ白になっていた。そこへ、弥彦が振りほどいた跡がくっきりと手形になって残っている。
「加勢はいらない!」
「……見てらんないんだよ、危なっかしくて」
「危なっかしい?」
「迷ってるのがバレバレなんだよ。何度とどめをさすチャンスがあったと思ってんだ? お前だけの腕を持ってるなら気づかないわけないだろ? それが迷ってなくて、何が迷ってるんだよ」
「何が? 迷ってるって何が?」
 その問いかけを遮るように、地面から立ちあがったドッペルゲンガーが咆哮をあげた。
 〈赤目〉はスッと腰を落とし、武術の構えをとる。
「来るぞ。加勢するのは今回だけだ、お前の左側は俺がサポートする」
「いらないっていってるだろッ!」
「うるさいな、筋肉バカ。お前に死なれちゃ、こっちが迷惑なんだよ」
 先と同じように、偽者は弥彦の左側を狙ってまわりこもうとした。その動きを、〈赤目〉が遮る。邪魔な者を片付けようと偽者もパンチを繰り出すのだが、〈赤目〉はそれらを片手で、易々と受け止めた。まるでからかうように、連撃の一つ一つを片手で受け止めて見せる。
 弥彦は逆に、二重現身の背後に回りこんだ。



――どうする?
 この、退治する絶好の機会に、弥彦の思考は停止した。
――殲滅か? 能力者になるのか?
 それとも、運が悪ければ〈フリーク〉化? そして目の前の〈赤目〉や木伏に殲滅させられるのだろうか?
 〈フリーク〉化したら自分は、今、戦っている二重現身のように化け物の動きで、かつての仲間と戦うのだろうか? あんな風に無表情で、何も考えず、力任せの戦いをするようになってしまうのだろうか? 自分もあんな風になってしまうんだろうか?
 殲滅したらどうなるのか。〈特務〉としては異端の能力者ではない特殊技能者としての自分。生死を共にする仲間の精神的苦痛を、どうあがいても理解しきれないジレンマを抱え続けていかなければならないのか。それでいながら一般人からも〈特務〉として奇異の目で見られつづける孤独感を味わい続けなければならないのか。
 だが能力者となれば……〈特務〉としては普通の暮らしがやってくる。一般人からは恐れられ蔑視され、その能力の力や暴走に悩み続ける日々が。それがどんなに辛い事なのか、まわりの能力者達から嫌になるほど聞かされてきた。「能力者にだけはなるな」と。
 弥彦は急に吹き出してきた汗に戸惑う。
――どっちだ?
 どっちなんだ?
――どちらが正しい答えなんだ?
 どちらが今までどおりの『弥彦・エンヤ』として生きてゆけるのだろう? いや、贅沢は言わない。どちらが『今までの弥彦・エンヤ』により近い生き方のできる自分になれるのだろう?
 このチャンスは、一生に一度しか訪れないのだ。
 迷う中、なぜか……『〈フィストドライブ〉はどうして右腕だけだと思う?』――そんなギルの問いかけを思い出した。



 再び二重現身が吼える。
 本気で戦うつもりのない〈赤目〉を相手にする事に痺れをきらしたのか、〈赤目〉に対峙していたはずの化け物は、弥彦が迷いの中で突進した途端、唐突に目標を彼に変更した。
 弥彦もその動きを見た途端、迷いが吹っ飛ぶ。とりあえず、反撃しなければやられるのだ。全身を引き千切られ、捕食されてしまうという恐怖が、弥彦の顔を引き締める。
「行ったぞッ!」
 擦れた〈赤目〉の警告より早く、〈フィストドライブ〉が金属の雄叫びをあげた。
 突き出された巨大な鋼の掌が、二重現身の全身に掌底を叩き込もうと唸る。ドッペルゲンガーもそれを察し、獣のように空中で半身を回転させると飛び蹴り。
 足裏に込められた爆発的な衝撃が、鋼の手甲を通して弥彦の右腕を震わせる。
「三条さ……いや、〈赤目のフリーク〉!」
 間髪入れず襲いかかってくる二重現身を右腕を振ってけん制しながら、弥彦は加勢に入ろうと様子を伺う〈赤目〉に叫んだ。
「決めた、もう大丈夫! 今度こそ、手だしは無用だ!」
 振りまわされた〈フィストドライブ〉の重量でたたらを踏む弥彦の隙をついて、偽者が掴みかかってくる。弥彦はとっさに〈フィストドライブ〉をそのまま大地に叩きつけ、そこを支点に体を上方に跳ね上げる。そのまま、空を掴んだ偽者の肩口に、踵を叩きつけた。本来は〈フィストドライブ〉の衝撃に備える為に取りつけるアンカーの爪が引っかかり、ドッペルゲンガーの体に盛大な鉤裂きの痕をつけて振り下ろされる。
 予想外の攻撃だったのか、グラリとよろめく巨体。出血しない体は、傷だけをパックリと見せて揺れた。
「この野郎……っ!」
 大地に足が下りた瞬間、ブーツのアンカーが本来の仕事をはじめる。弥彦の〈人格波動〉値の上昇に反応、彼の次の行動が通常稼動以上の出力を要すると察して、〈フィストドライブ〉と連動してアンカーを地に食いこませた。
 弥彦はそれを確認する間もなく、地面に叩きこんでいた〈フィストドライブ〉をすくいあげるように振り上げる。盛大にえぐれる地面と飛び散る土くれ――そして一緒にすくいあげられた二重現身が、鋼の手甲に跳ね上げられる感触。振りまわしたロッドの攻撃が真芯に当たった時のような手応え。
 吹き飛ばされた二重現身は、土くれと共に宙を飛び、崖に叩きつけられる。
 アンカーが定位置に戻るのももどかしく、弥彦は跳ね上げていた〈フィストドライブ〉を再び大地に刺し降ろす。大地を掴み、〈フィストドライブ〉の出力だけで空中に踊り出る。ほぼフルパワーで起動している『FD−003』は、その右腕だけの跳躍で自重と弥彦の体重を軽々と飛ばして見せた。
 崖に叩きつけられていた二重現身が体を起こす、その目前に着地。
 再び、アンカーの爪が地面に食い込む。
「――ッ!」
 〈人格波動〉の波動値が規定値をオーバー、〈フィストドライブ〉の分厚いカバーが一瞬にして跳ね上がり、現われた小型ブースターが出現とほぼ同時に点火する。
 一戦闘に一度しか使えない、文字通りの必殺拳が高速で突き出される。
 ギルのいう「決定的な一打」を放つ為にある〈フィストドライブ〉の一撃。
 巨大な鋼の塊が、もう一人の弥彦を覆うように襲った。



 爆音が響き渡った。
 崖の前で立ち尽くす弥彦の背中が、舞いあがった土ぼこりの中に消えてゆく。
「やったか?」
 傍観者に徹していたアキオが、スポーツ観戦をしているようなウキウキした声で叫ぶ。
「さて、この決断が吉と出るか凶とでるか……どっちかなぁ〜?」
「アヤメ、報告しろ。どうなった?」とギル。
 言われるまでも無い。木伏は急いで『無意識の目』を駆使して土ぼこりの中に焦点を絞ってゆく。当然、もしもの時にはライフルの引き金を引く用意も出来ている。
「どうした、アヤメ?」
「標的確認しました」
 アヤメは唾を飲みこんだ。
「え……あ……生きて、ます。どちらも」
「報告はもっとわかりやすいように言え、何年〈特務〉で働いてるんだ」
「はッ! 〈フィストドライブ〉が拳ではなく、指を広げた状態で作動した為、標的を崖と『FD−003』との間に閉じ込めた状況の模様です。標的の存在を視認、〈人格波動〉値にて確認、私持能力にて確認しました」
 アヤメが報告してる間に、窪地を走る複雑な風の走りが土ぼこりを吹き流してゆく。もうギルにも見えているだろう。
 鋼色の指先が岸壁に食い込んでいた。指先はさながらヒトデの様に、そして禍禍しい毒蜘蛛の様に伸びて、鋼の檻を形成している。その巨大な指の隙間から、捕えられたドッペルゲンガーの四肢がかろうじて見えた。
 捕えたとはいえ、おそらく巨大な衝撃が二重現身の全身を叩いていたに違いない。全く活動を再開するそぶりが見えないのは、決着したと見て良いのかもしれない。
「ほぉ……フフフ……さすがにすぐには殺せなかったか」
 ギルは新しい煙草を探してポケットをまさぐった。
「ククク……ではどう出るつもりか、ゆっくり観察させてもらうか」
「おい、ギル。〈フリーク〉化したらどうするつもりだ? あんな鉄の塊ぶん回してる〈フリーク〉なんざ、俺は相手にしたくねぇからな……後々、寝覚めが悪そうだ」
 さりげなく自分が〈フリーク〉化した弥彦を倒せると宣言しておきながら、アキオは伊達眼鏡の奥の目を嫌そうに細めた。
「何を言ってるんだ。その時の為に〈赤目〉がいるんだろうが」
「あ、そうか。アイツだけが空間に影響無く〈フリーク〉を殲滅できるんだもんな、俺なんかがしゃしゃり出るより、よっぽど環境にいいか」
 ワザと説明的な台詞を吐いたのだろう。その内容を聞きつけた木伏がチラリと盗み見ると、アキオと視線が合った。イタズラした後のように片目を瞑って見せるアキオ。
――〈赤目〉だけが、空間に影響を与えずに〈フリーク〉を殲滅できる……。
 〈西方協会〉の代表としてやってきたミツヤは、連続殺人犯である〈マスター・フリーク〉を〈赤目のフリーク〉に始末させようとしていた。それはつまり、下手に魔術や〈特務〉の能力者で攻撃してはディメンション・ダウンとやらが起こるという危惧があったからだろう。
 だからこそ、〈西方協会〉は〈赤目のフリーク〉を有する〈軍部〉――つまりギルの元を訪れたのだ。
 だからこそ、〈軍部〉は〈赤目のフリーク〉の情報を持つギルに軍医としては破格の待遇を与えているに違いない。
 ギルはアキオの失言に、面白そうに眉をあげて見せた。呆れたように首を捻り、煙草の灰を足元に落とす。そして、それらの動作を見ていた木伏の視線に気づいたのか、一瞬動きを止める。
 だが何も言わず――意外なことに、いつもの冷笑も見せず――ゆるゆると窪地の戦闘に目を向けていった。



 弥彦・エンヤは、ブースターの火でボロボロになった上半身の制服を引き千切った。
 あらわになった肌のあちこちがヒリヒリする。言うまでも無く火傷だ。当然だろう、本来は戦闘服を着込んで使用する事を前提に作られている器械なのだから。
 〈赤目のフリーク〉が近づいてくる。いつの間に拾ってきたのか、窪地の片隅で小さくなっていた佐々木柚実を抱きかかえている。その異様な風体を恐れていないのか、彼女は〈赤目〉の首にしがみついて、傍目からもわかるほどはっきりと震え続けていた。
 火傷した肌に気づいたのだろう、擦れた声で〈赤目〉がたずねてきた。
「大丈夫か?」
「早過ぎなんですよ」
「なに?」
「その子を少し遠ざけておいてください……癪だけど、これから貴方にもう一仕事してもらうかもしれないんです」
 言いながらも弥彦は〈フィストドライブ〉を解除、右腕を引き抜き、ブーツに着けていたアンカーも外した。〈赤目〉は弥彦の言葉の意味を解したのか、柚実を壊れ物のように扱いながら、離れた場所に連れて行く。そっと彼女を地面に降ろしたのを待って
「……ねぇ、三条さん」
 振りかえる〈赤目〉に、弥彦は
「本当に、三条さんじゃないんですよね? 犯人、別にいるんですよね?」
 〈赤目〉の返答を待たず、弥彦は続けた。
「信じて良いんですよね? 三条さんなら、間違った事はしないって」
 〈赤目〉は沈黙。
 巨大な赤の瞳が、じっと弥彦を見つめている。
 ギルの目が恐怖を引き出す目なら、この赤い目は真理を引き出す目だ。大きすぎる異様な瞳は、畏怖と共に弥彦の中の気持ちをすすんで絞り出させる。まるで審判を受ける時のように、この人物には己を理解して欲しいと思わせた。
 化け物なのに――いや、化け物だからこそ、伝えたくなるのかもしれない。
「証拠は何もないし、自分は貴方の事を何も知らない。だけど、貴方は意味無く人を殺したりはしない人だと思う。自分自身の為だとしても、私を助けてくれた人だから――自分の恩人を疑いたくないです。貴方を信じたいと思うんです。これから何が起こっても、自分が信じた貴方の判断は、きっと間違ってないって信じます」
 無言だったが、〈赤目〉が弥彦のやろうとしていること――その後の処理を承諾した事が、その静か過ぎるたたずまいから察する事ができる。不言実行を全身で表現している立ち姿だった。
――侍みたいだ。
 そんな感想を抱いて弥彦は笑った。
「じゃあ……よろしく、頼みます」
 先に引き千切った制服の布を咥え、弥彦は二重現身に手を伸ばす。布の焦げ臭い味が味覚と臭覚を麻痺させるような錯覚を覚える。
 指先が二重現身の頬に触れる。
 瞬間。
 全身を襲った激痛に、弥彦は悶絶した。



 痛みに暴れていた弥彦は、〈赤目〉に押さえつけられて数十秒後、気絶して動かなくなった。
 木伏は息を殺して、次の変化を待つ。〈フリーク〉化するとしたら、これからのはずだ。
 一秒。 二秒。 三秒、四秒……。
 〈フリーク〉化までの時間は六十秒が目安だ。
 三十秒。 四十秒。
 弥彦は動かない。〈赤目〉は彼を抱えたまま、その巨大な目で彼を見ている。
 そして――
「……一分」
 腕時計を眺めていたアキオが呟いた。
 無事だ。合一化に成功したらしい。もちろん、これから〈フリーク〉化する可能性もあるが、この一分間を過ぎてしまった後の変異率はかなり低下している。まず間違い無く変異しなくなる。
 それを確認したギルは、フンと鼻をならす。
「バカめ……作戦終了。アヤメ、撤収の準備だ。本庁と病院に連絡して、個室を一つ空けておくよう手配しろ。アキオ、奴らをここに引き上げてやれ」
「相変わらず人使いの荒い男だな。俺は運送屋かっての」
 ぼやきながらアキオは指を鳴らした。
 木伏の『無意識の目』から弥彦たちの姿が消え、瞬時にギルの側へ現われる。ぺたんと座り込んでいる柚実は、自分に何が起こったのかわからないまま、そっとあたりを見まわしている。
 ギルは〈赤目〉に歩み寄りながら、白衣のポケットから注射器の入ったケースを取り出す。
「なんとか及第点ってトコロの戦闘だったな。弥彦を車両の中に突っ込んだら休んでおけ。その間にコレを打っておくんだ。元の姿に戻れないと不便だろ?」
 〈赤目〉はケースを受け取り、言われるままに弥彦を特殊車両の中に横たえる。
「本当に弥彦は大丈夫なのか? ちゃんと見てやってくれ」
「見ただけでわかる。これ以上ないくらい無事だな。顔色もそう悪くないし呼吸も正常だ、〈人格波動〉値も合一化直後なら当然の数値だ。安静にしておけばすぐに目も覚める」
 ライフルを片付けた木伏は、急いで弥彦の側に駆け寄る。ギルのいうように、弥彦はただ眠っているように見えた。戦闘中やさっき暴れた時についただろう擦り傷や火傷を除けば、深刻な状態ではないと看破できる。
 〈赤目〉はケースから小型注射器をとりだそうとする。だが〈フリーク〉化し大きくなりすぎた指では、小さなケースの中からうまく器具を取り出す事が出来ない。もどかしげに指を動かしながら、〈赤目〉は問いかける。
「……ワザとか? 俺の体がおかしくなったのは、お前の薬が切れたからだ。切れる時間を計算したのか、弥彦のドッペルゲンガーが出てくるのを見計らって?」
「人聞きの悪い事をいうな。お前に投与してるのは一種の鎮静剤だぞ、〈人格波動〉値を極端に下げていたんだ。お前が興奮するから、効果が一気にきれたんだろう。……弥彦の二重現身がいつ出てくるかはわからなかった。わかっていたら病院なんてトコロに行かせるわけ無いだろ? これでも私は医者なんだぞ?」
「嘘つけ、本職は錬金術師のクセに」
「大体、お前の体はまだ最初の戦闘のダメージから完全には回復してないんだ。まともなフリができるのは、私が投薬で人間形態を維持させているだけだろうが。中身はボロボロの、いわば蛹なんだ、貴様は。その状態で〈フリーク〉化しようとすれば、不完全な上に体にダメージがフィードバックするのは当然だろうが」
「……そういう説明は、最初にしておけよヤブ医者」
「脳みそ空っぽのお前に言っても仕方ないと思ってな。それに、説明しようとした時にうるさいから黙れといったのは貴様だぞ?」
 ギルは言い返せない〈赤目〉を横目にクククと笑う。と、そのままペタンと座り込んだままの柚実に向かって歩き出した。
 その姿を目で追っていると、ひょいと手の中からケースが取り上げられる。側に寄ってきていた黒服の男が、〈赤目〉の巨大な瞳に向かってニヤッと笑いかけた。
「どうやら生き残れたようだな」
 アキオは注射器を取り出すと、手馴れた様子で〈赤目〉の腕に針を刺す。
「改めて自己紹介だ。俺は〈西方協会〉の一人でアキオって呼ばれてる。ギルほどじゃないが、結構長生きしてる部類の魔術師だ。普段はスカウトマンみたいな仕事をしている。能力者だって事を隠して生活している人間を探し出して、『ウチに来ないか』って呼びこんでんのさ」
 投薬を終えると、〈赤目〉の姿に劇的な変化が起こった。膨れ上がっていた筋肉の表面が硬化し、ヒビが入る。〈赤目〉は石膏のようになったそれをバリバリと引き剥がした。その下から、いつもの『三条尚起』の体と顔が現われる。ちょうど、石膏像の中から人が出てきたかのようにも見える。
 アキオは興味深げにその作業を見守り、三条尚起の顔をのぞきこんだ。
「なるほど。確かにこんな症例は聞いた事ねぇや。あんたの体を管理できるのは、そりゃギル・ウインドライダーだけだろうな」
 でもな、と〈西方協会〉の男は続ける。
「〈西方協会〉だって、ギルほどじゃないが、結構やるぜ?」
「何の話だ」
「ウチに来ないかって事さ」
 アキオは睨みつける三条の目に、ニヤリとしてみせた。小声で
「〈軍部〉やギルから逃げ出したいなら、いつでもいい、俺に言ってくれ。この騒ぎが終わってからでもいいぜ? 時間はたっぷりあるんだ、俺もあんたも」
 突然、泣き声が響き渡った。一斉に振りかえる一同。
 彼らの目にうつったのは、佐々木柚実が人目もはばからず泣き叫んでいる姿だった。緊張が途切れ、解放された安堵感と自分の置かれている状況の異常さに気づいてしまったのだろう。悲鳴のような泣き声は、彼女の気力が底を付きかけているせいか、すぐに小さくなった。だがこぼれる涙は止まりそうにない。ぺたんと座り込んだまま、涙をぬぐい続けるだけだ。
 そしてその横にしゃがみこんでいるギルの姿。彼が何をしたのか知らないが、軍医は、ただただ泣き続ける少女を眺めていた。
 そして、ゆっくりと柚実の肩に手をまわす。
「今だけだぞ。これから、もっと怖い物をみるようになるんだからな、今のうちに泣けるだけ泣いておけ」
 幼子にするように、軍医は少女の頭を、髪を撫でていた。彼女を自分の肩にもたれかけさせながら囁き続ける。
「今だけだぞ、今だけ。今だけだ……」
 その時、軍医はどんな顔をしていたのか――彼の表情は少女の影に隠れて、誰も見る事が出来なかった。




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