R-T-X 「12・秘密と青年(下)」
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 妙なところに押し込められたもんだ。
 レイムーン大佐は用意された特別会議室の長椅子に腰をおろすなり、苦い笑いと言葉を漏らした。
 深く腰掛けた彼の背後に立つのは、『リッパー』と呼ばれていた〈E.A.S.T.s〉の少女だ。
 彼のミラーグラスに対峙するのは、〈西方協会〉のミツヤだ。彼の方も苦笑しながら、用意された会議室の内装を見回す。
 彼らがやってきたのは、〈軍部〉から割り当てられた〈アカデミー〉の実験棟の一室である。
 〈アカデミー〉が臨床実験時に使用するオペレーター室であり、各地の防犯カメラ等を使用して、市街地の様子を確認することができる。酒上誓子の自宅にあったように、画面を分割して多数の画面を確認することもできる。
 レイムーンがぼやくのは、この場所が、〈軍部〉本庁でもなく〈アカデミー〉の内部でも無く、つまり今回の中心となる機関のどこからも遠ざけられた場所だという意味だ。
 ミツヤも同意に笑う。
 三条や木伏たちに半日遅れる形で〈シェルドライブ〉のデモンストレーションを目にしてきたばかりの二人だ。ミツヤが端末を操作し、モニターに資料用の映像を流しながら顔を見合わせる。
 出方をうかがう沈黙が続いた。仕方なくミツヤから切り出す。
「君はどこまで知っていたんだ?」
「何の話だ?」
「あの〈シェルドライブ〉が、どこまで完成していたかという事だよ」
「知らないな。そういう事は、ギルたちと仲の良い君たちの方が知ってるべきじゃないのかな?」
「〈西方協会〉が掴んでいた状況から、随分と変更されているようだからね」
 モニターの中、〈シェルドライブ〉の装着者が鉄板を撃ち抜く姿が映され、レイムーンは首を傾げた。
「酒上誓子は、ギルが笑うほど酷い錬金術師とは思えないな。むしろ、賞賛に値する」
「奇遇だが、その意見には賛成だ」
 レイムーンはミツヤの言葉にニヤリ。言葉を続ける。
「ギルの負け惜しみだろうか?」
「ありえない。ギルは自分が負けたと認める人間じゃない。負けているとわかったら、とっくに彼女を殺しているはずだ。我々〈西方協会〉の存在だって、彼とは別の意味で必要だとわかっているから放置されているだけに過ぎない。ギルの地位や生命を脅かすものを、彼が笑っておけると思うかい?」
「確かに」
 リッパーが二人に見えるよう、備え付けてあったティーセットを準備する。湯の入ったポットの温度をそっと確かめ、丁寧に茶葉を分けた。
「リッパーとは、また物騒な名前だね」
 ミツヤの何気ない言葉に、彼女は視線を流すだけで応えなかった。その瞳に、ミツヤは猫科の猛獣を思い出す。
「名前とは違って、上手な手をしている」
 彼女の手つきを誉めると、レイムーンが頷く。
「いつも私の飲み物を用意してくれているからな」
「君のを? 随分、信頼してるんだな、シラトス皇帝ともあろう者が」
「彼女の忠誠は、君たちのような友情ゴッコの延長とは違うんだよ」
 君だって王様ゴッコじゃないかと言いかけ、そのまま諦めた。ため息を一つ。
 何度も彼に突きつけている言葉だ。一度ぐらい言わなくとも、相手はミツヤの言いたい言葉を知っている。
 代わりにもう一度、モニターに目を走らせる。
「〈アカデミー〉は、〈西方協会〉の下部組織だった頃から異端の集団だった。元々、政治的にも宗教的にも独立した研究者たちの集団だ。現行政府も〈軍部〉も、彼らを持て余したのは仕方がない。ましてや、〈人格波動〉の提唱から始まる、妖術じみた研究をはじめたのならば尚更だ」
 ミツヤの言葉に、レイムーンは同意の頷き。
 その頷きを確認した上で、意図的にゆっくりと、静かに呟く。
「レザミオン、〈シェルドライブ〉は危険すぎる。〈軍部〉も気づいていないというか、気づかされていないのだろうけど、アレは人を破壊する」
「気づいたか?」
「錬金術をかじったのは、君だけじゃない。私も同じだ」
「君たちは魔術だけかと思っていたんだが」
「逆だね。〈西方協会〉は三大聖霊を手に入れているからこそ、世界を変化させる錬金術の動向に注意している。三大聖霊は世界の〈人格波動〉に敏感だからね、暴走されたら〈西方協会〉が囲い込んだ意味がない。もっとも、ギルほど大きな力を行使する錬金術師はいないに等しい……いや、等しかった、だな。数値の変化だけを確認していた事は我々のミスだ、認めよう」
「酒上誓子はノーマークだったって事か」
 ミツヤは無言で肯定。代わりに静かに呟いた。
「彼女の怖いところは、自分ではギルの領域に近づけないとわかっていた上で、〈シェルドライブ〉を作り上げた事だ」
 レイムーンはミツヤに顔を向けたまま、ミラーグラスの向こうから視線を投げた。何を考えているのか測りかねる姿。
「その通り。〈シェルドライブ〉は、彼女が神に近づく為の梯子だ。少なくとも、私はそう思っている」
「死体を積み上げて作る天国への階段の方が正しいだろ?」
 答えないレザミオンに、ミツヤは厳しめに、断言してみせた。
「アレは、人の〈人格波動〉を限りなくゼロに近づける」
 リッパーが無表情にミツヤの唇を眺めている。
 その視線を感じ、ミツヤは言いしれない胸騒ぎを覚える。魔術で身を護っておく事を考えたが、代わりに一度だけ、乾いてしまった唇を嘗めた。
 今はまだ、相手も手を出してくる段階ではない。互いに必要な情報を得ていないのだから。
「人の〈人格波動〉を別の力に変換するという事は、その〈人格波動〉から意思を取り除くに等しい。それが完全に切り離されて行われるならともかく、あれは能力者の体の延長である〈人格波動〉を先端だけペンチで摘んでペチャンコにしている。つながっている本体に、なんの影響も無いはずがない」
「ペンチでペチャンコ、か。アキオの言いそうな言葉だ」
「長いつきあいだからね、少しは言葉も似てくるさ」
 無言で肩をすくめるレイムーンに、ミツヤは負けずに続けた。
「君こそ、トレイル師の口調に似てきてやしないか? 長生きは若い者を卑下する為に与えられた特権じゃないはずだ。私は聖霊を抑え込む為、君は人々の希望を維持する為。少なくともそれが公式の立場じゃないのかい? 君自身を貶めるような、トレイル師の真似をしなくても良いじゃないか」
「トレイル師は関係ないね。彼の目的なんか、酒上誓子と同じレベルだ。特に気にした事はないさ。〈E.A.S.T.s〉の中でもっとも魔術に通じている魔術師だってたけで、彼の意見を鵜呑みにするほど、私もバカじゃない」
「それを聞いて安心したよ」
 しばらく二人は、手元にあった〈シェルドライブ〉の資料に目を落とし、リッパーの用意した茶器に手を伸ばす。ミツヤの脳裏に毒殺という言葉が浮かんだが、先のように実行するには早すぎると判断。黙って口にする。
 しばしの沈黙の間、響くのはページを繰る音と茶器が鳴り合う音のみに。
 その休息も、レイムーンの言葉に断ち切られた。
「数字の罠だな」
 ミツヤも即座に頷く。
「そもそも、用意された資料の人体の影響なんて、肉体レベルの話ばかりだ。変化させたのが〈人格波動〉であるにもかかわらず、〈人格波動〉についての報告が少なすぎる」
「〈アカデミー〉がこんな手抜きの報告書で納得すると思うかい? 〈西方協会〉ならどうする?」
「もちろん、差し戻す。私は専門家ではないけれど、何が欠けているかぐらいはわかるつもりだ。変化なしなら、変化なしだという根拠資料を求めるのは当然だろう?」
「〈E.A.S.T.s〉でもそうだ。これは、どうにも腑に落ちない」
「〈シェルドライブ〉は君たちが絡んだ開発じゃないのか?」
「言っただろう? トレイル師と酒上博士の目的は同じだと」
「なるほど。それだけで君としては納得というわけだ」
「目的地にたどり着くまでの案内人がトレイル師だ。彼がどんな手段で私を皇帝にするつもりなのか、全部を知っておく必要はない」
「でも、今は違う?」
 レイムーンは眉間に皺を寄せた。
「トレイル師なら、こんな風にわざと穴を空けるはずがない。何かの時に、酒上博士へ預ける余地を残したとしか思えない」
 ミツヤはレイムーンの不快さを見極めようと試みる。
 あの魔術師とレイムーンの関係は、彼が皇帝になるまでのものでしかない。他の〈E.A.S.T.s〉と違い、トレイル師はレイムーンの臣下として動いているわけではないのだ。同じ目的であるという魔術師の言葉と、その力を考慮した上で、行動を黙認するしかないのだ。
 そして、この〈フリーク〉が暴れ回っている今、妙な動きをするならば排除しなければならないが、排除するとなれば、〈E.A.S.T.s〉は共闘どころの騒ぎではなくなることも必至だ。
 その上で、告げる。
「ならば、この資料を通したのは、酒上参謀という事かな? 超法規的措置って奴か、それとも政治的な何かだと?」
「可能性はある。君がどこまで知っているかは知らないが。もっとも、彼ら三人がどんな無能だろうが、実際に〈シェルドライブ〉は運用される事になった。今頃、既に配備されているだろう」
「声を挙げるつもりは無いんだね?」
 ミツヤの呼びかけに、レイムーンは更に眉間の皺を深くする。
 酒上参謀の政治力だと言い張れば、〈シェルドライブ〉の運用は中止になるかもしれない。
 だがそれは、〈シェルドライブ〉という兵器に興味を抱き、その力を見極めようとしている〈E.A.S.T.s〉にも都合の悪い話なのだろう。見極める前に仕舞い込まれてしまっては、酒上博士との密談の意味も無くなってしまう。
 これ以上、酒上参謀についての話を続けるなという、苦痛の表情なのだろう。
 無言の圧力に屈せず、ミツヤは続ける。
「〈人格波動〉をゼロにするという事は、おそらく、本体への過剰なフィードバックを抑える為、意識レベルが限りなくゼロに近くされるはずだ。更に言えば、〈シェルドライブ〉は錬金術によって作られた品。変化は現実へと反映される。限りなくゼロに近くなった〈人格波動〉が出現させる肉体とは、同じ数値の〈人格波動〉存在、つまりは同じ存在の同時多発化……」
 それでも答えないレイムーンに、ミツヤは更に続ける。
「同じ存在は、同時に存在できない。クローンですら一部に手を加えている……君の場合なら、レイムーンの理想主義がそうだろう? 全く同じ存在が存在できるとすれば、過剰な〈人格波動〉の固まりである〈フリーク〉しかない。つまり、〈シェルドライブ〉の装着者は、たとえ能力者であろうとも皆、〈フリーク〉化する可能性がある」
「〈フリーク〉化の報告はない」
「削除された可能性は?」
「代わりの資料ならここにある」
 レイムーンはリッパーに顔を向ける。
 彼女がバックパックから取り出した書類ケースには、もう一組の冊子が入っていた。
「ミツヤ、君がそこまで気がついていたなら、これを見せてやろう。そこまでたどり着いたからこそ、見せるんだ。間違えるな」
 資料をテーブルに広げる。
「ここ一ヶ月の間に、〈特務〉で英霊措置を受けた兵士の死体だ」
 英霊措置とは、〈特務〉が認定した殉職者の葬送形式の事である。
 〈特務〉の能力者は、家族と関係を断絶した上で職に着く為、職務上のアクシデントで死亡した場合、家族が死体の受け取りを拒否するケースも少なくないのだ。
 そのような殉職者を、〈特務〉が引き取って埋葬する措置の事をさす。
 もちろん、氏名ならともかく、写真の類は極秘資料のはずだが、手に入ったからここにあるだけの事だ。そして、手に入れるだけの力があることは互いにわかりきっている。二人の巨大組織の長は何事もなかったかのように話を進めた。
「もちろん、我々との不幸な衝突で亡くなった輩もいるがね」
 そう言いながら、レイムーンはゆっくりとページをめくり続ける。
 ミツヤの表情は、少しずつ、強ばっていった。予想していた以上の光景が、そこにあったからだ。
「これは、〈シェルドライブ〉の被検者なのか?」
「私はここ一ヶ月の英霊指定された人物の死体を見せてるだけだ。どれが〈シェルドライブ〉に関係しているとは言えないな」
「これが英霊指定されているという根拠は?」
「疑うなら、君自身が調べれば良いだろ? まだ何もはじまっちゃいない。調べるなら今のうちだ」
 ミツヤは眉を上げて同意を示す。急いで手のものに伝えておかねばならない。
 リッパーはレイムーンから資料を回収しようと手を伸ばしたが、大佐はやんわりと手を挙げて拒否した。
 そして、ミツヤに笑う。
「さて、どう思う?」
「どう思うも何もない。この写真が本当なら、酒上博士の目的は明白だ」
「この中のいくつかは、〈アカデミー〉で解析されている」
 ミツヤはレイムーンの笑顔を、顔を凍り付かせたまま見返す。
「レイムーン、君はこれを放っておくつもりなのか」
「いや、どうせ数日の話だ。数日後には結果がでるだろう? 〈マスター・フリーク〉の消滅と共に」
「遅かれ早かれ、彼女の求める結果が出るとでも?」
「私はそう思ってる」
 再び黙り込んだ二人は、目の前に広げられた写真を見返した。
 体の一部が噛みちぎられた死体。
 胸元だけが抉られたように溶けている死体。
 肩から引き裂かれたらしき左右の肉片。
 胸の真ん中から腕がつきだしている死体。
 そして……腹の真ん中から別人の顔が覗いている体。
 その顔。
 ギル・ウインドライダーと名乗る男と同じ顔が、死んだ男の腹を引き裂いてこちらを覗いている。
 ミツヤも、レイムーンも、その写真から目をそらせない。。
「レザミオン」
 写真から目をそらさないまま、ミツヤは有無を言わせぬ口調で囁いた。
「君は、彼女の目的がなんだと思う?」
 これを見ておいて、シラを切らせるわけにはいかない。
「『石』の生成」
 冷静に、即座に答えたレイムーンの口調もまた、冷徹で他の意見を寄せ付けなかった。
「彼女の目的は、ギルに等しくなる事。つまり、己が『石』となる事だ。彼に成り代わって。それはトレイル師と同じだ。『石』を手に入れれば、新しい世界、新しいシラトスを作りだし、私をそこの皇帝に据え付けるだろう。〈シェルドライブ〉でギルを作り出そうとしているのは、ギルを生成する事で己の器を作れるかを実験していると思っている」
「ギルの出生については謎が多すぎる。彼女が成り代われるような事なのか?」
「ギルに等しくなると言ったはずだ。彼と同じように、そして彼とは違った世界を手に入れたいのだろう」
「世界を分けるということか? 彼女にそれだけの力があるだろうか?」
「さあね。だが、トレイル師は可能性があるとおもってるんだろう。ただの牽制にしても、彼がつきまとう理由がない」
 ミツヤは納得できなかった。
 レイムーンは、自分とトレイル師との関係が、ミツヤの思っている以上に悪化していると思わせたいのだろうかと疑う。だが、言い切られた以上、それ以上話すつもりが無いのも明白だ。渋々ながら頷く。
 レイムーンは今度こそリッパーに資料を渡し、ミツヤに改めて向き直る。
「君こそ、彼女の目的はなんだと思っているんだい?」
「私は君ほど楽観的じゃないんだ。君が嘘をついていない事を前提に話すけど」
 ミツヤはため息をつく。
 己の中にあるネガティブな感情は、いつだって覗き込みたくないものだ。
「私には、酒上博士の絶望が手に取るようにわかる」
「ほう?」
「どんなに努力しようが、ギルは絶対に手の届かない位置に存在する。錬金術師である彼女は、おそらく、彼に近づこうと己の身も変えていっただろうね。だが、学べば学ぶほど、ギルがどれだけ遠い存在かも理解したはずだ。とはいえ、〈シェルドライブ〉を作成できる域まで近づけた錬金術師も、歴史上いなかっただろう。快挙と言っても良い。それでも……ギルは彼女に何も与えなかったし、彼女をいつまでも子供扱いしたに違いないし」
 ミツヤは一度言葉を切り、頭を降った。
「いや、力を与えなかった事こそが、彼の優しさなのだろうけどね……我々のように、余計なものを背負い込まないように。一番大きなものを抱えているのは、間違いなく彼だから。そして、彼女にはそれが我慢できなかったに違いない」
「なるほど。それで?」
「彼女は、空間崩壊を起こそうとしてるんじゃないのか? 〈シェルドライブ〉のように不安定で〈フリーク〉が量産されかねない兵器を多用すれば、どこかで壊れてもおかしなことじゃない。『石』どころか、ギルが壊れる」
「だとしたら、なぜ被害を被るギルが放置しておく?」
 ミツヤは己の記憶を振り返る。何度も繰り返された、信頼を試す数々の事件。
 だからこそ、すんなりと答えが出る。
「彼女を信じたいんだろう。仮にも弟子だった、そして男女の関係もあった仲なんだ。ギルだって様子をみたいに違いない。否定する為の材料を探している可能性もある」
「感情論だな、ミツヤ……ギルは君ほど優しくはないぞ」
「そうかもしれないが、だったら彼が彼女を放置している意味がわからない。本当に危険だとわかっているなら、とっくに殺している。ギルが彼女に殺されても良いと思っているなら別だが」
「君の推測そのものが間違ってる可能性もある。私の推測も似たようなものだが」
 そうだねと、ミツヤは遠い目で応じた。
「だけど、絶望した人間のすることなんて、みんな似通ってしまうもんだよ。〈西方協会〉や〈E.A.S.T.s〉のようにね」



「弥彦の能力は『元に戻す事』、だ」
 いつもの、地下八階にあるギルの部屋。
 傷ついた三条がやってきた時についた血のシミもそのままの床とソファ。
 ギルはその汚れたソファに深く身をゆだねたまま、面倒そうに言った。
 対面するソファで、三条尚起は首を傾げてやる。
「元に戻す事?」
「そうだ。対象物が記憶している状態へと戻す事。相手の〈人格波動〉の情報を汲み取り、その情報の地点まで再生させる。時間の遡りは、奴の能力の強さ次第だ。どこまで遡れるかはわからんが、三分程度前の時点なら十分可能だ」
「それじゃ、あの美雪って子の頭を再生したのも、あの子の〈人格波動〉の持っていた情報から?」
「そうなるな。ただ、再生の課程で当人の記憶そのものが流入する副作用も確認されている。それによって、更に正確に再生されるという利点もあるが、あまりに衝撃的な記憶だと、奴の意識が混乱して、正確に再生できないかもしれないという指摘もあがってる」
 三条は自分で買ってきた売店の缶コーヒーの封を切り、一口飲み込んだ。
 わかるようでわからないというのが、正直な感想だ。
 ギルはその姿を眺めながら、紫煙をくゆらせる。三条に殴られて壊されてしまった眼鏡とレンズは、すでに直されて目元にあった。
 そのレンズに己の姿が写っている事を確認しながら、三条は再度尋ねる。
「……そいつは、無機物も再生できるって事か?」
「無機物の〈人格波動〉は、非常に大味で人間には汲み取りにくい。そこを補って操作するのが魔術だが、我々には無用な知識だろう。少なくとも、弥彦の場合は無いと思っていい。細胞の持ってる記憶だといった方が、お前にはわかりやすいのかもしれんな」
「それじゃ、その眼鏡は? 弥彦になおしてもらったのかと思ったんだけどさ」
「私を誰だと思ってるんだ? 物体の変化は錬金術師の初歩の初歩だ」
「頬は? 腫れてたろ」
「医者が自分の手当ぐらいできなくてどうする?」
 そんなもんかと、更に一口すする三条。
 いや、心中では嘘だと感じている。
 医者以前に、いくら遮られたとは言え〈フリーク〉すら破壊する〈赤目〉の拳を受けておきながら、一晩で完治できるとは思えないのだ。
 別の方法があったのだろうと感じたが、ギルが言わないと決めた以上、問いつめても口を割らないだろう。
 腑に落ちなかったが、口ではもう一つの感情を吐き出しておく。
「カッとなって殴ったからな……悪かったなと思ってたんだ」
「ほう? らしくないじゃないか。自分の過ちを認めるなんて。死ぬ前の戯れ言か?」
「……本当にひねくれてるな、お前は」
 冷笑で応えるギルを、ため息で受け止める。
 彼の笑いも見慣れたと思えた。どんなに笑われバカにされようとも、彼の言うことが理解できない事は確かなのだから。
「それじゃ、あいつの能力は治療ってことか」
「だからお前は単細胞だって言うんだ。『元に戻す事』だといっただろう? とはいえ、戦場において、自分の負傷も他人の負傷も、元の状態にまで回復できるという意味では治療だと思っても差し支えないな」
「どう違うかわからねぇ」
「弥彦自身もそんな事を言ってたが、奴の能力はあくまで『回帰』なんだ。『原点回帰』だって弥彦は納得してたが、なにが原点かは奴に聞いてくれ。おそらく、損傷された時点を指すんだと思うが、本人が能力名として気に入ってるんだ、余計なことは話すなよ」
「わかったよ」
 それはおそらく、ギルなりの配慮なのだろう。それでなくとも、騒ぎの渦中にあり、身も心もボロボロになっている弥彦への、ささやかな心遣いだ。
 さらにもう一口、コーヒーをすする三条。
 ギルは口に煙草をくわえたまま、小馬鹿にした微笑を崩さない。口元以外はほとんど動かしてなかった。
 むしろ動けない――直感でそう悟る。
 三条は紫煙のせいだと思っていた視界を、改めて見回した。
 普段からはっきり見えている視界。紫煙の境界すら判別できるほどクリアになった風景。血のシミの濃淡まで確認した上で、ギルを見た。
 ギルだけが、薄い絹に覆われたように、ぼんやりと見えた。
 〈赤目〉の目で見ている限り、あり得ないことだ。
 それが何なのかわからなかったが、そのせいでギルが動けないのだと推測する事はできた。
「ギル」
「なんだ?」
 それは何だ――そう直接尋ねるつもりだった。
 だが返答を聞いて思い直す。
 どうせこの男が、何の準備もない質問に答えるわけがない。己の身の事ならば尚更だ。
 代わりに、以前からの疑問をぶつけてみる。
「そろそろ、教えてくれ。弥彦はどうして能力者になったんだ? 〈フリーク〉に狙われた意味が、どうしてもわからねぇ」
 コーヒーの残りに目を落とした。少しでも思っている事を論理的に説明できないかと考えながら、言葉を置いていくようにゆっくりと呟く。
「俺と間違えていたぐらいだから、てっきり〈マスター・フリーク〉だと思ってたんだけどな……どうしても腑に落ちねぇ。〈マスター・フリーク〉ならば、能力者になる可能性のある人物に因子を植え付けて、〈フリーク〉化させるならともかく、自分でその芽を刈り取るような事はしないだろ?」
 顔を上げてギルの反応を伺うが、軍医は黙って見返すばかりだ。先を続けろという無言の圧力に、三条は再びコーヒーの水面に視線を落とす。
 不可思議な、膜がかっているギルを見ているより、ずっと冷静に考えられるような気がしたからだ。
「わざわざ目をくり貫いて〈赤目〉を連想させるような事をしているのは、都市伝説を知っている奴……人間だとしか思えねぇ。〈マスター・フリーク〉が、この騒ぎによって出現した存在ならば、この都市伝説まで知ってるか? 知ってて利用したなら、それは俺に罪を着せようとしてるってことだろ? でも〈マスター・フリーク〉が、人間様の法律を逆手に取るような事をするか? いや、そんな頭があったとしたら、ますます、〈フリーク〉を狩る意味がわからねぇ。そして、弥彦をターゲットにした意味もわからねぇ。わからねぇ事ばかりだ」
「そうか」
 ギルは煙草の先端にしがみついていた細長い灰の固まりを、指先で弾いた。三条の〈赤目〉の目でも捉えられない、指先が触れたと同時に消え失せる灰。
 体勢を崩さず、ギルは唇に煙草を張り付かせたまま、器用に言葉を紡ぐ。
「それでは、どうして私が、この連続殺人をカタストロフィの前兆だと気づけなかったかを話しておくか」
 思いがけない時点からの説明だが、いつものように全く理解できないよりはマシだ。
 三条の頷きに、ギルは眉を上げて応じる。
「〈フリーク〉の出現率は年々高くなっていた。自然発生的な〈フリーク〉の数も多くなっていたところだ。特に都心部における出現率の高さは、各研究施設の実験による空間断層の歪みが大きくなり、〈人格波動〉のブレが大きくなってるせいだろう。その上、そんな実験施設から脱走した被験者が、逃亡の末に〈フリーク〉化している可能性も高かった。昨今類発していた〈フリーク〉に関しては、気にせずに過ごしていたのもわかるだろう? 私だけじゃない、〈軍部〉も〈西方協会〉もそうだ。だから今頃になって慌ててる」
 そこにお前が現れたとギルは更に笑った。
「私も含め、〈赤目〉がやってきたことで、考えが変わった。〈マスター・フリーク〉の出現を考え、資料を精査した結果、カタスロフィだと気づいたに過ぎない」
「俺がきっかけ?」
 ギルは驚く三条の声を無視。
「それらを踏まえて話すぞ。〈マスター・フリーク〉が因子をばらまいていた事に間違いないが、連続殺人事件の段階で、つまりどの組織も気づいていなかった段階で、〈マスター・フリーク〉は一気に〈フリーク〉を広げることもできたはずだし、もちろん、〈フリーク〉を片づける必要もなかったはずだ。だが、奴らはせっせと片づけてる。お前ですら気づいたぐらいだ。不自然極まりない。〈フリーク〉らしからぬ行動だったからこそ、私も見落としてしまったと言える」
 ギルは一度、煙草を摘んだ。口元から離し、深い紫煙を吐き出した後、再び煙草を口元へ戻す。
 短くなっていた煙草が元のように長くなっている不思議に、三条は瞬きした。
 何度見ても、〈赤目〉であっても、この男のやる事は不思議に満ちている。
 その驚きも、やはり無視する軍医だ。
「つまり、どうしても片づけなければならない必要性があるということだ。〈フリーク〉を片づける必要など、カタストロフィを目的としている〈マスター・フリーク〉には絶対あり得ない状況だ。ということは、空間崩壊を目的としてない〈マスター・フリーク〉が存在するということになる」
「〈マスター・フリーク〉が複数いる?」
「そうだ。それも、かなりの変わり種だ。お前以上に」
 そんなバカなと呟く三条に、ギルは押し殺した笑い声をぶつける。
「なあ、尚起。こんな話をどこかで聞いたことはないか? 毒を使う人間は、必ず解毒剤を持っているって話だ」
「それぐらい知ってる」
「それと同じだ。実験するなら、その実験の終わり方を知らなくては実験とは呼べない。火をつけるなら、消し方を知らなくてはならない」
「何が言いたい?」
「つまり、実験として〈フリーク〉を生み出し、排除している〈マスター・フリーク〉が存在すって事だ」
「実験? 何のために?」
「目的はともかく、人工的に〈マスター・フリーク〉が作れるかって実験だろうとは察する事ができる。〈フリーク〉を多発させるほど歪んでいるこの都市周辺でならば、十分に考えられる」
「人工的に? ますますわからねぇ」
「そうか? 私はわかるぞ? 〈フリーク〉を越える〈フリーク〉を手に入れておけば、どこからやってくるかわからない〈赤目のフリーク〉なんぞに頼らずに済む。ごく限られた人間にしか使えない対〈フリーク〉用白兵戦兵器を造ってふんぞり返っている悪徳軍医の意見を聞く必要なんてなくなる」
 合点が行った。三条は思わず何度も頷く。
 自分たちの運用を〈軍部〉が持て余すのは、今も昔も変わらないのだろう。
「でも、それじゃ〈軍部〉が犯人って事じゃねぇか。っていうか、〈アカデミー〉が犯人?」
「それも短絡的だな。〈軍部〉に対〈フリーク〉戦用兵器を売り込もうとしている民間企業の可能性もある。〈マスター・フリーク〉を作り、飼い慣らしておけば、それだけでも十分に驚異だ」
「でもそれを、無差別に選んだ人間で試すか?」
「無差別では無かっただろ。〈フリーク〉化する可能性が少しでも高い、能力者の親族だ」
「でも、柚実ちゃんや弥彦に、そんな親族はいないぜ?」
「二人に関しては、十分にある」
「なんだと? どんな?」
「柚実は私が目をかけてる和政の双子の妹だ。弥彦に至っては、〈フィストドライブ〉の装着者」
「……どちらもお前に関係するって事か?」
「私に関わってるだけでも理由にはなる。もっとも、相手にすれば、〈フリーク〉化そのものは大した問題じゃない。〈フリーク〉化すれば感染確率があがったというだけ、それを退治できれば〈フリーク〉の迎撃確率があがっただけ。統計上の数字でしかない」
 頭の良い奴の考えることはわかんねぇよと、三条は心の底からぼやく。
「どちらも人生変わっちまってんだ。死んじまった奴らもそうだ。お前も含めて、どうしてそこまで考えられねぇんだ」
「そいつは違うな。わかっていてもやるのが研究者ってもんだ。もっている知識を使わないで、証明しないで、何が学者だ? お前や弥彦と一緒だ。人を殺せる力を持っていて、〈フリーク〉を殺さないって事はないだろ? 〈フリーク〉に対抗する手段を思いついた、作り出せそうだ、作った、使ってみた……ただそれだけの事だろう」
「それだけで済ますから、お前らが嫌いなんだよ」
 更に一口、コーヒーを口に運ぶ三条。
 何か口にしないと、止めどなく溢れる目の前の男への怒りも含めて、女々しく語り出しそうだったからだ。
 だからせめて、この錬金術師ではない、真の犯人について考えようと試みる。
「……本当にそんな実験をしてる奴がいるとしたら、どんな奴なのか見当はついているのか?」
「ついていないと言えば嘘になる。だが、今は犯人探しをする段階ではない」
「〈マスター・フリーク〉をぶっ潰すして、連鎖を止める方が先って事か」
 無言の肯定。
「それじゃ、俺が見た〈マスター・フリーク〉の他に、偽物の〈マスター・フリーク〉がいるって事だな?」
「お前も入れて、三人の〈赤目〉がいるってことになる」
「〈マスター・フリーク〉は〈赤目のフリーク〉じゃないだろ?」
「私に言わせれば、同じようなもんだ。どちらも理性的な〈フリーク〉だしな。〈偽物〉のやってることなんか、〈マスター・フリーク〉のやってることとお前がやってることを一人でやってるだけだろ?」
「そういう考え方もあるか」
「〈偽物〉は弥彦に始末させる。その為の〈フィストドライブ〉だ」
 ギルは煙草の灰を先と同じように指で弾いて消し去った。
「人間の生み出したものは、人間が消すべきだ。それが知恵を得て万物の霊長とやらになった人間の務めだろ? まあ、驕りの固まりのような言葉だが、知恵を得た人間にはそれ相応の力があるのは間違いない。先の毒と解毒剤と同じだ」
「弥彦にやれるのか?」
「やらせる。その為の〈フィストドライブ〉だと言っただろう? しかも今の奴は能力者だ。右手の破壊力と、左手の回復力。よっぽどの事がなければ、簡単には倒れないぞ?」
 お前でも苦戦するかもしれんなと、ギルは嬉しそうに笑った。
 その表情を、三条は睨み返す。
 やっぱりこの男は、弥彦を実験動物の一種としか考えていない。
「まさか、弥彦があの能力を手に入れる事を見越して、〈フィストドライブ〉を渡してたんじゃないだろうな?
「能力者になるとは思わなかった。凡人を能力者にする為の兵器であり、〈特務〉を英雄にするための兵器だからな。その課程で〈フリーク〉化する可能性はあると思っていたが、よもや外部からの刺激で能力が発現するようになるとはな……だが、理想に近しい姿になったのは間違いない」
「英雄?」
 〈赤目〉を英雄だと言い出したのは、先の『尚起』だったが、今でもそれにこだわっているのはギルぐらいだろう。
「英雄なんか作って、お前は何をしたいんだよ?」
「さっさとこの不愉快な事態を終わらせたいだけだ。お前だって前の空間崩壊の危機には英雄だった。お前の代わりに弥彦を用意したに過ぎない」
「また俺一人がやればいいんだろ?」
「やれると言い切れるのか? 複数の〈マスター・フリーク〉を? 一人だけでも息切れしてるのは、私にだってわかってるぞ? 今だって不安に思ってるはずだ」
 図星だった。三条は更に顔を歪めて睨む。
 悔しいが、いつだってこの男は、自分の単純な思考を把握しているのだ。
 軍医の方は涼しいものだ。嘲りの表情を、まるで三条に対抗するかのように深める。
「昨日、『石』ってなんだと言っていたな? 〈西方協会〉の奴に吹き込まれたってな」
「……まあ、な」
「『石』は錬金術的な完成、お前で言えば〈赤目のフリーク〉の完成体の事だ。お前が、自分自身の能力のすべてを発揮できる状態、つまり地上に存在しなかった存在となる状態の事だ」
「……なら、俺の『埋葬』がうまく進まないっていうのは?」
「それぐらいお前にもわかるだろう?」
 数秒の沈黙の後、〈赤目〉は嫌々ながら口にする。
「『三条尚起』のことか」
「いうなればお前は、過去の自分を『埋葬』できていないんだ。生まれ変わる為には死ね。尚起を救えなかった自分を許せないのは、あの時の自分を殺せてないからだ。自分を殺せ。まずはそこからだ」
「またか……また、わけのわかんねぇ事を言い出したな」
「いや、〈赤目〉が私の思っているとおりの存在なら、本当にうんざりしているのはこっちだ。お前はわかってる。覚悟が無いだけだ。自分を殺した後、自分がどうすればいいのかわからないだけだ」
「わかってるさ。〈マスター・フリーク〉をぶっとばすことだ」
「だから『埋葬』できてないと言ってるんだ。死んだお前を生き返らせる存在がいないとわかっているから死ねない。いや、生まれ変わらせる存在だと気づいたその時に、お前は『埋葬』されて『生成』される。その先に『石』がある」
「あーもう! 言い方が遠回りなんだよ! ずばっと言ってくれ!」
「それに気づくのも、お前の仕事だ。お前が気づいて納得するからこそ、お前の進むべき道が見える。錬金術は魔術と違う。お前の肉体と精神とが合致した時に、お前自身も世界も変わるんだ。お前の精神は、お前が高めるしかない」
 自嘲気味に鼻で笑うと、珍しく床に視線を落とした。
「私はお前の肉体がそれにふさわしい器になっているかを管理する。お前の精神の為にアドバイスをする。勝てるようにお膳立てをする。敵を分析する……全く割に合わないが、『三条尚起との約束』というのは、そういうものだ」
 本当にこの男は、『三条尚起』にどこまでもこだわる。死んでしまって百五十年も経過した、誰にも知られていないような約束だったというのに。
「……お前って、たまにものすごく義理堅くなるんだな? 柚実ちゃんの時もそうだけど、なんでいつも優しくできねぇんだよ?」
「優しくしてるつもりはない。私は私のやりたいようにやってるだけだ。思いつきの約束でも、それを実行する事を快楽として受け取ってるだけだ。前にも言ったが、それぐらいの制約がなければ長い人生を楽しむ事はできないもんだ」
「また、ひねくれてやがる」
「これがギル・ウインドライダーの生き方だ。私なりの肉体と精神の一致。ギルという存在として私はすでに『石』であると言っても良い。わかるか?」
 なんとなくなと、三条はコーヒーを飲み干し、空になった缶を手の中で紙屑のように丸めてみた。
 これでギルを見る度に浮かぶ不安を解消する気晴らしが無くなってしまったという、苛立ちだけが残る。
 それを眺めながら、ギルも続ける。
「そして残念だが、お前も『石』にならなければ〈マスター・フリーク〉は倒せないだろうな。〈マスター・フリーク〉はお前の対とも呼べる『石』だ。壊すには同じだけの力をもつ『石』が必要となる。毒を消すには、同じだけ強い毒を使わなければ消せないという事だ」
「だったら……どうして昔の俺は、〈マスター・フリーク〉に勝てたんだ? 昔の奴と今度の奴は違うって事か? 俺が会った感じだと、変わらないように思えたけどな」
「同じ奴だ。記憶が共有されているかはわからんが、同じと考えて良い。昔に勝てたのは、お前がその時一度、『埋葬』されてたからだ」
「前はできたなら、どうして今の俺は勝てない?」
「お前が『石』から人に戻ってしまったからだろうな」
「『石』から人に?」
 ふと、ギルが渡す薬剤を思い出した。〈赤目〉から人に戻る時の薬剤だ。
 石膏のように固まる自分の肉体。毎度の事ながら、全く痛みは感じない。むしろ、気が遠くなるような心地よささえある。そして即座に与えられる息苦しさ。そして自分の周りが、元は肉体であった鉱物に固められていると気づかされるのだ。
 あれこそ、『石』から人と言うことだろう。
 だがギルは、『石』とは完全体であると言った。〈赤目〉の完全体。ならばやはり、あの石膏とは別のものなのか?
 ギルの言葉にそんな事を考えていると、ギルも思い直したようだ。
「いや……元々お前は『石』そのものなんだろう。それが出現と同時に人となってしまった。『石』に戻るには、それ相応の犠牲と発達が必要なんだよ」
 一度はわかるような気がした『石』とやらだが、また理解できなくなってしまった。
 犠牲と発達。
 『石』が――完全体である〈赤目〉が必要とするもの?
 犠牲? 発達とは成長という意味か?
「……意味がわからねぇ。犠牲が必要なら、前回の犠牲者が『尚起』って事か」
「そういう考え方もできる」
「今回のは?」
「先にも言ったが、お前の気づき次第だ。お前が自分一人で『埋葬』できるなら、犠牲は必要ないだろう。『埋葬』できなければ、その為の犠牲者が必要だ。誰かの死を見なければ、自分を殺して生まれ変わる事ができないというならば」
 『埋葬』の意味がどうしてもわかりにくかったが、「自分を殺して」得るものらしい。自分を殺せなければ他の誰かだと。
 ならば『尚起』は自分の代わりに死んだのか?
「〈西方協会〉の奴は、俺に『三条尚起』という名前をつけたのは、お前なりの気遣いだっていうような事を言ってやがった。それは、俺が俺自身を、昔みたいに『三条尚起』を殺す必要があったからって事か?」
「その答えでは、そうだと言っても嘘になるし、違うと言っても嘘になるな」
「それも、俺自身で気づけってことか」
「その通りだ。わかってると思うが、時間が無いぞ」
 胸ぐらを掴みたい衝動に駆られながら、必死でそれをこらえる。代わりに、ギルの――なぜかよく見えないその表情にむかって、言葉を吐き出す。
「それでも、教えないつもりか」
 ギルはしばし沈黙。
 三条を観察しているようでも、言葉を探しているようでもあるその時間に動いていたのは、わずかに、口元にあった煙草の紫煙が立ち昇り自らの熱が生み出す風に揺れる姿だけだった。
 そしてようやく、返答が来る。
「それも先に言ったはずだ。〈赤目〉という存在が私の思っている通りの存在ならば、それは『石』であるものが形をなしたに過ぎない。ただ、人でありすぎるだけだ。お前が『石』に戻れないのならば、それこそが『石』の意図する未来であり、人には覆せない。少なくとも、お前が思っているような、お前が〈マスター・フリーク〉をぶん殴って終わるような話じゃない」
 だがなと錬金術師は意地悪い笑みを浮かべて続ける。
「『石』がどう思っていようと、私はお前に〈マスター・フリーク〉を殴らせるつもりだ。『石』が勝手に計画していることなんざ、私には関係ない」
 『石』が計画?
 この喩えだか錬金術の用語だかは、本当にわけがわからなくなるとため息をつく。
「『石』だ『石』だと、随分人間みたいに話すんだな。『石』が〈赤目〉の完全体だっていうなら、俺は一体、なんだってんだ? 俺がたくさんいるって事か? クローンとか? じゃあ、その中の、どうして俺が選ばれた?」
「こっちが知りたいぐらいだ。『石』の一部だったお前に言われたくない」
「お前の研究だか実験だかわからねぇが、解釈が間違ってんじゃねぇだろうな?」
 ギルは聞き慣れたハッと鼻で笑う声をあげ、そして口元の煙草をわずかに揺らして見せた。
 煙草も含めて、笑われているような錯覚に陥る。
 いや、事実、笑っているのだ。
 苦笑を滲ませ、ギルは問いかけてきた。
「ならば聞くぞ。どうしてお前は、この部屋に進入できた? 〈マスター・フリーク〉に会うまでの時間を、どうやって過ごした? 百五十年も人を避け続けてきたなら、文化も言葉も変化しているはずだ。全く戸惑わないのはなぜだ? お前の知識は、一体どこからやってきたものだ?」
「……え?」

 どうやって?
 どうやってここにやってきた?
 いや、確かに以前、アキオにも問われたはずだ。
 どうして最新機材の使い方を知っているのかと。

 どうして?

「思い出せ。そして考えてみろ。毎日同じように過ごしてきたとして、それでもなんらかのアクシデントはあったはずだ。それはどんな事だ? そしてどう考えた? 何をした? その記憶は……本当にお前のものなのか?」

 本当に、俺のものなのか、だって?
 俺じゃないのか?
 だったら一体、誰が――。

「ちょっとまて、ギル! お前、俺を疑ってるのか?」
 自分でなければ、誰だというのか?
 この錬金術師は、答えを知っているのか?
「疑ってるわけじゃない。お前がお前の全てを信じすぎてるだけだ。もっとお前自身を疑え。〈マスター・フリーク〉に勝てるかという疑いじゃない。お前はなんの為に出現した? なぜ、私の前に現れた? 本当にお前は、『相田一裕』だったのか?」
 わからないとしか言えなかった。
 『相田一裕』の記憶は、ほとんどない。気がついたら〈フリーク〉に首を絞められていたというところまでしかない。
 その前?
 他のものは、第二の人生である〈赤目〉の記憶しかない。それだって、ギルや『三条尚起』と過ごした時ぐらいだ。
 その後は、ただひたすら、単純で淡泊な、その日ぐらしの隠れ続ける日々。
 自分はずっと、一人でひっそりと生きてきたのだ。
 気が遠くなるような時間の中を、人目を避けて、だ。文字通り、思いだそうとしても細部までは思い出せない、ぼんやりとした時間だったが。
 それでも、それは自分の味わった苦痛の時間、忘れられない時間だったはずだ。
 細部までも思い出せなくとも、その痛みは思い出せる。抜け出せない苦しさも知っている。
 それを疑えと言うのか?
 しかし、だ。
 疑った先に答えがあるとして、それが何だというのか?
 ギルは、何を言いたいのだろうか?
「じゃあ、お前は俺を……何だと思ってるんだよ……」
「何度も言っている。お前は『石』であり、『石』から人間になり、人間から『石』に戻れたからこそ、〈マスター・フリーク〉を倒せた。そして目標を失ったことで『石』から人に戻り、人であることも忘れて『石』になり、そして〈マスター・フリーク〉の出現によって再び人としてここにきた。そして『石』に戻る方法がわからなくなってる。それだけだ」
「『石』……やっぱりわからねぇ。『石』ってなんだ? 完全になった〈赤目〉って、一体なんだってんだ?」
「それを考えるのも、お前の仕事だと言ってるだろうが」
 全く答える気のないギルだ。
 三条はふと、木伏になら答えるのだろうかと考える。
 三条が訪れた時、ギルは木伏にケネスへの指令書を託していたところだった。
 ギルとケネスには何やら因縁があったらしく、自分が渡すのは都合が悪いというのだ。そもそも、端末に指令が届くご時世、紙の指令書が届けられるのは極秘の事柄ばかりだ。ギルにはケネスにどうしても伝えたい引継事項があったように思える。
 三条は、それが弥彦と〈偽物〉の対戦に関することだろうと推測した。
 それでなくとも、ギルは〈赤目〉と〈マスター・フリーク〉との対戦に備えている。現在決定している事柄は、すべて〈赤目〉が〈マスター・フリーク〉を退治する極点を念頭におかれたものだ。
 ならば、今までの作戦には組み込まれていなかった「〈偽物〉を止める」作業は、自分たちの護衛である弥彦を有することになったケネスの指揮に任されることになる。
 〈西方協会〉が、そして〈E.A.S.T.s〉もサポートに入るとして、どこまで自由になるかわからないが、〈偽物〉の目的が〈フリーク〉を増やすことにあるのならば、そしてそれを退治する事で空間崩壊を狙っているとするならば、やはり極点たる〈赤目〉と〈マスター・フリーク〉の場に現れる可能性は高い。
 能力者が集まる場であれば尚更、〈フリーク〉との血で血を洗う戦いは、空間へのダメージを大きくさせていくに違いない。
 それでなくとも、アキオによる空間閉鎖が予定されている場所なのだ。レイレン反応によるダメージが、更に重ねられる事は、どうしても避けたいが、避けられるとも思えない。
 ギルの書類は、その事態に備えてのアドバイスだろう。弥彦の運用へ対する……。
 だが、ギルらしくないとも思う三条だ。
 ギルならば、自分で全てやり通してしまうのが普通だ。意見は聞かないと常日頃から言っているように。
 それでなければ、全く関わらないのが普通だ。そして、誰かの判断を笑いながら見物しているだろう。この、地下の自室で。
 ギルが誰かに頼らなければならない事態。
 それも、信頼しているとは言いがたいらしい、因縁のある人間に?
 やはり、何かがおかしい。
「……今日はやけに饒舌だな」
 三条は慎重に、自分の感想から探りを入れてみた。
「何があった?」
「どういう意味だ?」
「事態が切迫してるのはわかる。でも今までのお前じゃ、ここまで教えてくれたとは思えねぇ」
「それはお前の考えすぎだ」
「〈赤目〉を甘く見てるのはお前の方じゃないのか? お前は元から〈人格波動〉がわかりにくかったけどな……でも、ここまで感じ取れなくなってるのはおかしい」
 これはハッタリだ。
 〈人格波動〉の揺れなら感知することができる。〈フリーク〉の出現を肌で感じるように。見えないものが肌に与える感覚としてわかるのだ。
 だが、ギルに関してはそれも用をなさない。
 ギルの感覚は、もっと立体的なのだ。〈人格波動〉が二次元的な表現で描かれるとしたら、ギルに感じるそれは三次元のものだ。それによって三条は彼の位置を即座に感じ取ることはできる。
 だが、彼の〈人格波動〉など、元よりないというのが〈赤目〉の感覚である。
 存在しないようで存在する、まるで触れる幽霊のような存在。他者に仇なす悪霊。
 それがギルなのだから。
 〈赤目〉の引っかけに、ギルは上の空で答えた。
「そうか」
 どうでも良いと言いたげだ。引っかけだとわかっているのかも怪しい。
「アキオの〈人格波動〉も弱っていて別人みたいになってたけど、お前のは違う。元々、あんたの〈人格波動〉は感じ取るというより、なんだか妙な形をしているとは思ってたけどさ……それにしたって変だろ」
「妙な形? なるほど、おまえには感じ取れるというわけか。なかなか興味深い話だ」
 話すつもりはないらしい。
 三条は迷う。
 ギルはどこまで、どんな言葉を告げれば何を話すのか。少なくともギルは、自分の中に線引きをしている。どこまでわかっていればどこまで説明するかを、だ。
 だからこそ、〈赤目〉に『三条』との約束を告げたのだ。〈赤目〉が『三条』との話をギルに尋ねたからこそ。
 尋ねなければ、おそらく今でも、誰にも告げていないだろう。
 ならば、自分のわかっているところを直接ぶつけることが、ギルという男に関して情報を引き出す一番の近道であるはずだ。
 意を決した。
「さっきから気になってたんだけど、なんだ、それ? さっきから何かぶってんだ? それも錬金術なのか?」
 ほんのつかの間。ギルは真顔になり、そして誤魔化すようにハッと息を吐いた。
「なるほど。それもお前が『石』の一部であるという証拠だな」
「納得してる場合じゃねぇだろ。どういうしてこんな風に見える? なんかお前一人だけ、実在してねぇっていうか、風景から除け者にされてるって感じだ。それとも、俺にだけ見るのか? 俺の方がおかしいのか?」
「わかっているとして、教えると思うか?」
「俺に助けられるなら、手助けさせろって言ってるんだ。意地を張ってる場面じゃないだろ」
「助け、だと?」
 ギルは笑った。
 唐突に、そしてどこまでも笑い続ける。
「お前が、この私を、助けるだと! フフフフ……アハハハハハ! お前がか! 」
 声がかすれ、息が乱れ、そして煙草の灰がこぼれ落ちるに任せて、それでも笑い続ける。
「アハハハハ! クククク……」
 笑いに悶絶しているギルに、さすがの三条もあっけにとられ……そして、怒りを浮かび上がらせる。
「何がおかしいっ!」
 ギルの笑い声が止まった。口元から煙草を指に移し、笑いで天井へと向けていた視線を〈赤目〉に向けた。
 その顔へ向かってもう一度。
「何がおかしいんだ」
 冷笑のまま動きを止めたギルの返事はない。三条は更にもう一度、叫ぶ。
「目の前で、深刻な状況に置かれてるかもしれない人間を前にして! そいつがどんなにイヤな奴だったとしても、この先まだまだ誰かを殺して笑ってるとしても、それでもこのままほっとけるほど俺は、人間ができちゃいねぇんだよ!」
「人間? お前も私も、この世で唯一無二の、化け物同士だというのに?」
「化け物だとか何だとか、関係ねぇよ! 人間として生きてるんだろ、俺たちは! 人間として生きてるから、人間として考えてるんだろ! だったら最後まで人間を演じきってみせろよ!」
「〈フリーク〉ごときが、この私に説教か?」
「説教なんかじゃねぇよ、それぐらい、頭の良いお前ならわかるだろ」
 三条は、手の中にあったままの、空き缶を丸めた残骸をテーブルの上に投げる。
 丸められ、固められていた残骸は、既に原型を止めぬほどの鉄屑となってテーブルに重々しい音を響かせた。
「言えよ。俺にできる限りの事はする。俺もお前に頼りっぱなしじゃ飯が不味くなる。俺にできる範囲の事なら、全力でやってやる。〈マスター・フリーク〉を倒したとしても、お前が報われないんじゃ、百五十年間この時に備えてきたお前がぶっ壊れるなら、こんな世界は崩壊しちまった方がマシだ! 何があった? どうしてそんな事になってる? 俺か? 〈フリーク〉か? それとも他の誰かの仕業か?」
 ギルを睨む。
 自分の中で怒りと共に血がたぎり、自分の顔を変貌させていくのがわかった。額の皮膚が吊り上がり、口の端が奥へと引っ張られる。視界が一気に広くなり、いつもよりも細かい、細部どころかその〈人格波動〉と空間断層が触れそうなぐらいにはっきりと感じ取れるようになる。
 それでも捕らえられない錬金術師の姿にむかって、三条は――いや、顔だけを〈赤目〉のものへと変形させた〈赤目のフリーク〉は、牙を軋らせながら叫んだ。
「俺が助けるって言ってんだ、答えろ、ギル・ウィンドライダー!」

 沈黙が漂った。

 ギルは冷笑を浮かべたまま、三条の異形を足下からじっくりと観察。
 『現代の錬金術師』である彼にも、〈人格波動〉は感じ取れるのだろうか。今までの発言を見るに、能力者として感じ取れるのかもしれない。
 いや、そんな事はどうでもいい。問題は、ギルが、幾つもの力を持つギルが、おそらく、追いつめられているという事実だ。
 それを聞き出さなければ。
 自分の事で焦っていて見えなかった彼の危機を、聞き出すだけでもしておかなければ。
 そしてせめて彼に同行し、一部始終を見守る事を自他共に認めている木伏に告げて置かなければ、絶対に後悔する。彼女の生死も含めて。
 三条の決意が伝わったのか。
 ギルはしばらく、巨大化しているだろう三条の目をのぞき込み、珍しく呆れたようなため息をついた。
 先につかの間見せた顔を再び浮かべる。
 真摯で、過ちを許さぬといった鋭い表情。長いつきあいであるはずの三条も聞いたことの無い、刃物のような声色。


「それは、『三条尚起』としての発言か?」


 その瞬間、全てが繋がったような気がした。
 ギルは、『相田一裕』には何も話さず、全てを『三条尚起』に話していたのだ。
 それは、『相田一裕』が〈赤目のフリーク〉であり、その生き方に葛藤していた子供だったからだ。
 自分の身と、自分の救える命と、自分が殺すしかない〈フリーク〉という命について、七転八倒していた怪我人だったからだ。
 怪我人が、他人の傷――それも、自分の前では笑って「死ね」と連呼する人間の苦痛になど、気づきようがない。ギルがどれだけ苦痛を押して奔走し、己の見たことのない現象に対して論を重ねていたのか。それでも排除する力となるまでには間に合わず、『三条尚起』を死なせてしまった。
 おそらく、唯一、ギルという男の全て理解しようとした、普通の人間を。
 そう、『三条尚起』なら――。


「今の俺を『三条尚起』と名付けたのは、誰だ? 尚起がいない分、俺に任せろって言ってんだ。俺が殺しちまった分、俺が『三条尚起』になってやる」


 真顔のギルが、目を伏せた。考えているようでもあり、同時に、感慨にふけっているようでもあった。
 〈赤目〉は、三条は続ける。ギルにも、己にも否定などさせないように。
「だから聞かせろ。『三条尚起』は、誰でもない。俺だ。お前が世界を救う神だっていうなら、俺はお前を救うただの人間だ。ただの人間として、最後までお前に付き合ってやる」
 ギルは動かない。
 三条は先の直感のまま、動けないのだと考える。何か重大な事が起こっているからだと。
 そして、今、自分が大きな決断をしたことも薄々感じつつあった。
 自分が『三条尚起』になったということ。
 そう、今まで認められなかった『尚起』の死だったが、自分が彼の背負うはずだった期待を――ギルの苦痛を一緒に背負うと覚悟した瞬間、気持ちが楽になったような気がした。
 償いという言葉が浮かぶ。
 そう、自分は償い方がわからなかったからこそ、何年もギルを避けてきたのだ。『尚起』を失った事で、自分たちが何を失ったかを理解できていなかったが為に。
 『三条尚起』は、理想だったのだ。
 どんな危険の中でも、どんなに疲弊していた最中でも、自分の生きている世界の悲惨を止めようと走り回り、そして皆の苦しみを聞き、受け取り、そして笑っていた男。
 その存在の大きさがわかっていたからこそ、彼の死の重大さが〈赤目〉を苦しめ続けてきたのだ。
 だが、今は違う。
 彼がいない今、自分がその遺志を継げばいい。
 彼の代わりに、励まし続け、戦い続ければいい。
 そして、目の前の男の苦痛を、共に背負ってやればいい。
 『三条尚起』なら、きっとそうしたはずだ。
「最後まで、か」
 瞼を閉じたままのギルの自嘲は、すでにいつもどおりの冷笑を含んでいた。
「ならば仕方がないな」
 新しい煙草をどこからともなく取り出し、ギルは目をあけた。



「お前が見ているのは、私の〈人格波動〉に入った亀裂だ」
「亀裂?」
「〈赤目〉が認識しているのは、〈フリーク〉の世界だ。つまり、視覚情報だけではなく、〈人格波動〉の高低をも感じ取ってる。おそらく、ただの感覚としてお前は考えていただろうが、実際にはその視覚にも影響があった。だからこそ、アヤメの『無意識の目』を見ることもできる。普通の人間が見ている世界に、〈人格波動〉のフィルターがかかっているというわけだ」
「……それで、お前の〈人格波動〉に、亀裂?」
「防弾ガラスに衝撃を与えると、細かい亀裂が入って真っ白になるだろう? そういう事だ。私の〈人格波動〉は、バラバラになりかけている」
 〈人格波動〉が、バラバラになる。
 三条にはピンとこない話だった。
 人間の存在する力でもある〈人格波動〉は、たとえ肉片になろうともとどまり続ける。
 〈人格波動〉がなくなるという事は、物体が個の歴史を含むものではなくなるという意味だ。
 ギルは、わからないままの三条を置き去りに説明を続ける。
「私がバラバラになるということは、世界が崩壊する事に等しい。私の一部は錬金術化によって世界の一部とつながっている。私の崩壊は、世界の崩壊と再生の一方法だ」
 ギルの崩壊。
 つまり、〈人格波動〉がなくなれば、ギルという個人も存在できなくなると言う意味だ。
 ギルという人間を形作っていたものが、形作る意味を失うと言ってもよい。
 それを指しての、崩壊だ。
 だが――嘘か真かは別として――錬金術によって世界の一部だというギルが存在しなくなる、崩壊してしまうとなると世界の一部に穴が空くという意味になるのか。
 三条はどこかで聞いたような説明に、息をのんだ。
「……ちょっと待て。それって空間崩壊と同じって事じゃねぇか!」
「言葉だけなら、そういう事になるな」
「わけわからねぇ。どうしてお前が、そんな立場なんだよ?」
「そうだな……簡単に例えると、風船みたいなもんだ。風船が世界。〈フリーク〉による空間崩壊は、風船に穴を空ける事だ。それは断じて阻止しなければならない。そしてもう一つ。風船に空気を吹き込んだ穴がある。その穴を縛り塞いでいるのが私の存在だ。私の存在を消せば、空気を吹き込んだ穴から風船はしぼみ、消滅する」
 三条のイメージは間違ってないのだ。
 ギルが死ぬとなれば、世界も死ぬという事らしい。
「だから、どうしてお前がそんな立場になってるんだよ! 最初からなのか? 俺や『尚起』のせいなのか?」
 確かに、ギルには不可解な事が多すぎる。
 錬金術にしてもそうだが、魔術も能力も使えるという事実も不可思議であり、一部の存在が得ている不老も手にしている事が既に異様だ。
 だが、ギルという存在が、そこまで重要な位置にあると理解している者がどれだけいるだろうか?
 理解できなければ、それはやっぱりただの戯れ言にすぎない。言うだけなら誰にでも言えるのだ。
 だが、この場面でギルが嘘をつくだろうか?
 そして、事実だとしたら、なぜ彼はその重要な立場を背負うことを決意したのか。
 決意させたのが、『尚起』なのか。
 それとも……〈マスター・フリーク〉に敗北した〈赤目〉のせいなのか。
 それら全ての意味なのか――敗北した〈赤目〉が『尚起』を見殺しにしたが故に、ギルを決心させてしまったのか。
「なんでそんな大事な事、最初に言わねぇんだよ! 前の時もか? いつからなんだよ? 俺が、そんなに信用できねぇのか?」
 三条は拳を握る。
 自分のせいだったとしたら――自分は、なんて事をしてしまったのだろうか。
 ギルをいけすかない奴だと決めつけ、そして彼の憎悪を勝手に想像し、おそれ、自分の罪に背を向けてこの街から出て行ってしまった……ギルが自分をさげすみ笑うのは当然だ。
 自分には、彼を断罪する資格など無い。
 だがしかし、ギルはそんな三条の混乱を鼻で笑った。いつものように、人にはわからぬ高見から。
「最初からだと言えば納得するか? 安心するのか?」
 三条の心を見透かす言葉に、更に追いつめられる。それすらもギルはわかっているはずだ。
 異形のものに変化した巨大な眼球に目線をあわせ、ギルは紫煙を吐いた。
「お前が目覚めた時から〈赤目のフリーク〉だったように、私は錬金術師として目覚めた。錬金術師であるという事は、世界と生死を共にするという事だ。初心者ならば、世界の表層をなぞるだけで満足しただろうが、私は違った。良くも悪くも、世界の意思に触れるだけの力があった。そして、手に入れた。それだけだ」
「それじゃ……いつから――」
「わからんな。比喩ではなく、本当にわからない。だから安心しろ、貴様らのせいじゃない」
 珍しく、ギルは自ら眼鏡をはずした。
 動かせなかった体が、急に身を乗り出してくる。
 あの、背筋が凍るような悪魔の笑みが、〈人格波動〉のヒビで隠されていたその表情が、目の前に迫って視界を覆う。
「だから忘れるな、〈フリーク〉。お前の敗北は、空間崩壊を意味する、つまり、お前の敗北はそのまま世界の死であり私の死でもある。逆にお前が〈マスター・フリーク〉を倒したとしても、私が死ねばそれは世界の死でもある。私の死に場所から世界は崩壊するだろう。我々は一蓮托生だ。文字通り、どちらが死んでも世界は終わる」
 本当なのだ、この話は。
 いや、ギルの身体と繋がっているという説明が嘘だとしても、これ以上敗北することは許されない。
 負けられない理由が、更に大きな理由が、一つ、形となっただけだ。
 三条は手を伸ばした。ギルの胸元を掴み、更に自分に近づける。
「一蓮托生? わかったよ。いや、わかってたよ」
 この重荷を背負わせた奴への怒りとも、それを今までたった一人で抱え込んでいた奴への哀れみと、そしてボロボロになっている身体を押しても三条との会話を優先してくれた感謝と、全てを込めてギルを睨みつける。
「今回は最初から、俺たち二人しかいねぇだろ? 昔から手を組んで、〈フリーク〉と戦って、その同じ面子は俺とお前だけじゃねぇか。どっちも、互いに一人しかいねぇはぐれモンだろ? だったら最初から頼ってくれたって良かったじゃねぇか!」
 わかってる。自分が頼られなかったのは、自分が『三条尚起』となる覚悟がなかったからだ。
 ギルを支える知識も覚悟が無かったからだ。
 それでもやはり、後悔はつのる。
 先に言ってくれれば、自分は子供のようにギルに怒りをぶつけたり、不可解な言動に振り回されたりせず、素直に協力しあうこともできたのではないかと思わざるを得ない。
「なんでいつもいつも、自分だけで終わらそうとするんだよ! お前なりの優しさなんて、俺は期待してねぇんだよ!」
 佐々木柚実に対して行った勝手な〈特務〉入隊も、弥彦の二重現身への対抗も、〈赤目〉の存在を消し去る事も、ギルが一番良いと思った方法で処理されてきた。
 「ギルなりの優しさ」だと、三条は木伏に説明した。
 相手にとってそれが一番良いと思った――それは当然として、それ以上に、その後の人生に理由をつけられるように。「ギルのせいで」人生が変わったと言い訳できるように。
 そんな優しさが、自分にも向けられていたことにようやく気づかされた悔しさ。
 そして、身体がボロボロになっているとしても、三条が『三条尚起』である自覚を持つまで、誰にも語らなかった優しさ。
 いや、バカバカしいほどの、我慢。
 声が震える。
 自分が奴の立場なら堪えられただろうか?
「辛いなら辛いって、言えよ! この変態サド医者! いや、これじゃマゾ医者だろ! お前らしくねぇんだよ!」
 手に力がこもる。腕が振るえる。
 悔しい。
 悔しい。
 今までの自分の全てが――ギルが指摘したように、全く曖昧な自分の記憶の全てに意味がなくなったかのようだ。
 ギルとは違うと何度も思っていたが、ギルの信念以上に、自分は誰かをかばって耐えた事などあっただろうか?
 自分など理解されないと腹を立て、絶望し、そして諦めていたが、それをぶつけず抱え込むことができただろうか?
 急にはっきりした意識は、今までどこでどう眠っていたのだろうか?
「気は済んだか?」
 ギルは襟を絞めあげられたまま、笑った。
「手を離せ。これ以上続けるなら殺すぞ」
 不意に手の中に痛みが走り、三条は反射的に手を離す。 ギルの着ているシャツに、電流が流れたような痛みだ。どんな事をしたのかわからないが、相手がギルなのだから不思議な事ではないとも言える。
 小さな痛みで我に返った三条に対し、ギルは指さすように煙草の先端を向けた。
「いいか、よく聞け。これは、お前が『三条尚起』として尋ねたから答えたに過ぎない。よく考えろ。お前が腰抜けの相田一裕のままだったら、私は答えなかった」
「……また妙な事を言い出したな」
「私も死にたくないからな」
「……わかったよ。お前が冗談や嫌味で言ってる事じゃないって事はわかった。俺自身だけの問題じゃないって事も、でも俺だけで解決しなきゃならない事もあるって事か。それがわかっただけでも、今日はまだ前進した方だな」
 含み笑いで三条の言葉を肯定するギル。
 再びソファに深く腰掛け動かなくなったギルに、三条は――自分とは別のやり方で錬金術師を支えている人間を思い出す。
「木伏さんの事は、どうするつもりだ?」
「なんのことだ?」
「彼女、おそらくあんたに気がある。あんたも連れ回してるぐらいだ、嫌いじゃないんだろ?」
 おきまりの、鼻で笑う仕草が返ってきた。
「お前は、自分の靴に毎日毎回感謝するような気持ちがあるのか?」
「……靴かよ、木伏さんは」
 ギルは無言で紫煙を吐いた。
 だが三条には納得できない。いや、ある意味、ギルの好意が如実に現れた言葉だからだ。側にいて自分の手足のように使うのが当たり前の関係――このギルという孤独で理解できない言動を続ける人物に、そこまで近づけられた人間が居ただろうか。
 彼と同じ力を手に入れようとした人間のほとんどが、彼に殺害されているはずだ。
 木伏は、そんな野心がないからこそ、それでいて彼を理解しようと必死になっているからこそ、気に入られているのだろうかとも思う。
 三条は思う。自分が『三条尚起』という理想を体現するべく奔走するとしたら、彼女もまた『三条尚起』のやろうとした、ギルを理解し協力する立場を体現した存在なのだ。
 全ては、百五十年前の再現なのだ。細部は違っていても、全てはあの時と同じ配置なのだ。
 それがわかるからこそ、三条は言わざるを得ない。
「俺たちは百五十年も生きちまってる。彼女はそれについてこれるはずがないよな?」
「お前が私に警告するとは、まさに世も末だな」
「あんたが忘れてるんじゃないかと思っただけだ」
「言っておくが、私はお前の倍以上生きてるんだ。靴は壊れるもの、取り替えるものだ。いちいち気にするつもりはない」
「俺が負ければ死ぬんだろ? 万が一って事もあるだろうが。だったら、最後にはく靴ぐらい、大事にしたらどうだって言ってるんだよ。雑用ばっかり押しつけないで」
「話にならんな」
 灰を指先で弾いて消してしまう、いつもの動作だ。
 そして思い出したように、白衣のポケットから懐中時計を取り出す。やたらと古めかしいそれは、くすんだ白銀色で、驚いたことに現役で使用されているようだった。
 錬金術で作られた品なのだろうかと、三条はぼんやりと思い――それが、この目の前の錬金術師がいつの時代に制作した品なのだろうかとも思う。
 そんな三条の、考えすぎて疲れきった頭に、ギルは突き放すような言葉を投げ込んでくる。
「すまんが、これから約束がある。言いたい事はそれだけか? 残りがあるなら明日にしてくれ」
「これから? 会議か?」
 既に夜半だ。〈軍部〉では連日対策会議が開かれているのは知っていたが、階級上はただの軍医であるギルが召集されるとは思えなかった。
 案の定、ギルはゆっくりと首を振る。
「いや、表で私がやることはもうほとんどない」
「じゃあ、なんだよ?」
「気晴らしだな」
「……こんな時にか?」
「こんな時だからだ」
 ギルの気晴らし。
 三条はこの男が以前に起こした事件の数々を思い出す。昨日の〈西方協会〉の襲撃者三人の死体も、〈フリーク〉の仕業として処理されてしまっただけだ。
 科学者一家惨殺事件、辺境監獄全滅事件、病院占拠者殺害事件……正当防衛と見なされた事件がほとんどだが、ギルがそうなるよう仕掛けた可能性は高い。
 そして、これからそんな夜遊びをしてくるのだという可能性も。
「……昨日みたいに、癇癪で殺すのだけはよせよ?」
「二度目の説教か? ますます世も末だ」
「またぶん殴りたくなるからだよ」
 ギルは失笑。立ち上がると、身支度だろか、隣室へと消えていった。
 だがその姿はやはり、三条の目には、ぼんやりと膜がかったままだった。





「はじめまして、弥彦警備補佐官」
 目の前で微笑む酒上誓子を前に、弥彦・エンヤは戸惑わざるを得なかった。
 手にある端末を、何度か確認する。
 呼び出した相手は、ハリィ・ロゥ武技教官。弥彦に「笑え」と教えてくれた女性教官だ。
 図らずも、戦闘中に彼女の教えを思い出したばかりだというのに、タイミング良く入った連絡に――弥彦は能力者となった自分の事もあり、指導への感謝と報告をしたいと考えてやってきたのだが……。
 貴重な休息時間だったが、話すぐらいなら構わないと思えたのも確かだ。
 しかし、呼び出された場所が、昨日の昼に訪れた〈アカデミー〉の実験棟であった事を、よく考えるべきだったのかもしれない。最新装備である〈シェルドライブ〉に教官も関心があって、一緒に評価しようという程度の話かと思って安心していたのだが。
「ハリィ教官に紹介してもらって良かった。巷で噂の〈フィストドライブ〉の装着者が、どんな人なのか、直に見ておきたかったから」
「……教官は?」
「見回り。彼女、二年前からここの警備官として、〈アカデミー〉に赴任してきたから、棟内の警備スケジュールに組み込まれてしまってるの」
 紹介と言っていたが、連絡には一言もそんな事はかかれていなかった。
「ギルが選んだというから、どんな男かと思ってたんだけど」
 弥彦の戸惑いを無視して、酒上博士は何度も弥彦の体を眺め回した。
「あの人らしい選択。無知を嫌うクセに、無知者が純粋な本能で振り回す力が、良くも悪くも世界を前進させると信じてる」
「無知……」
「ああ、気を悪くしないで。貴方をけなしてるわけじゃないから。錬金術や〈人格波動〉について、世間ではほとんど知られていないでしょう? そういう意味」
 言いたい事はわかるが、やはりモヤモヤとした、気分の悪さは残ってしまう。先の戦闘中、相田一裕=佐々木和政の指揮力と無知無力な己との差を改めて自覚しているだけに。
 実験棟の中――〈シェルドライブ〉の実験を見た場所と同じ位置へ案内され、弥彦は不思議な気分になる。
 この先に立って歩く紫色のドレスの女性が、あの笑ってしまいそうな形をした鎧を作り上げた当人なのだ。
 あの、ギルが着けようとするなと釘を刺した防具の設計者。
 卵の兵隊とトランプの女王――そんな言葉が弥彦の中に浮かんで消える。
 そして自分は、そのおとぎ話の中の、誰なのかと。
 全く、弥彦の様子を意に介さず、酒上博士は続ける。
「実は、貴方に見てもらいたいものがあって」
 前日と同じような器具の立ち並ぶ中、中心となって置かれているのは〈シェルドライブ〉に負けず劣らない、異様な光景だった。
 アトラクション用のダンスロボットが一機。だが普段着せられているストリートダンサーのようなカジュアルな衣装をはぎ取られ、皮膚代わりの装甲もはぎ取られ、代わりにいくつものラインが繋げられている。元がダンスロボットだとは思えない、がんじがらめの光景だ。
「〈シェルドライブ〉の説明にあったと思うけど、〈アカデミー〉では汎用的な〈人格波動〉の解析と再現にに成功している。ただ、行動に至るまでの再現には、まだああやってラインを繋げて、波形の発生と調節を行う機械に直接繋げなければならない。そのうちコンパクトになって、大型拳銃で能力を再現できる弾丸タイプにするのが目標」
「〈特務〉の大型拳銃で?」
「そう。そうすれば、一般人でも〈フリーク〉を倒す力が手に入る」
 弥彦は和政=一裕の持っていた〈カナジ〉を思い出す。着弾の威力が拡大された、対〈フリーク〉用特殊弾丸。だがあれは、和政の射撃能力があってこそ使えるのだと弥彦は思っている。
 誰も彼もが巨大な力を手に入れしまっても、それは事件が凄惨になっていくばかりだ。〈フリーク〉に当たらなければ被害は大きくなり、人に使われれば体は木っ端みじんとなるだろう。
 不安と同時に、開発してしまう〈アカデミー〉の無神経さに、弥彦はギルの傲慢さと同じ不快感を覚える。
 その、〈人格波動〉を発生させられたダンスロボットの右腕に、白い手甲が装備された。
 先に見た〈シェルドライブ〉と同じ材質に見えるが、〈シェルドライブ〉の手甲に着けられていた簡易の楯は無く、第一に、装備としては不自然なほどに分厚く、大きな拳が目に留まった。
「〈フィストドライブ〉……」
 ギルの作成した〈フィストドライブ〉ほどの巨大さではない。
 だが実際の腕から拳一つ分は先にある手首と、実際の手の二倍は大きいだろう掌は、色や形さえ滑らかで異質なものだったが、自分の使用している試作兵器によく似ていた。
「私の造った〈FD4s〉。ギルの〈フィストドライブ〉が、一般兵を英雄にするべく造られた対〈フリーク〉用兵器なら、〈FD4s〉は能力者を英雄にする兵器」
 人間の動きをリアルに再現することを目指して造られたダンスロボットが、全身のコードを揺らしながら身構える。
「あの構えと動き、何か思い出さない?」
「え?」
 弥彦が考えるより早く、酒上博士は耳元で囁く。
「ハリィ教官の動きを再現させてるんだけど」
 耳をくすぐる吐息よりも、その内容にドキリとした。
 武技教官が開発に携わっているというのは、武道を追求していた教官の姿とは、全くかけ離れた言葉だったからだ。
 そして、眼下の実験場では、酒上の〈フィストドライブ〉が鉄の塊に向かって突き出される。
 轟音が、目の前の光景に遅れて広がった。
 弥彦は大きく抉られた鉄板に息をのむ。
 その弥彦の気持ちを代弁するかのように、酒上は口を開いた。
「通常攻撃力はギルのものと同等。小型化されているだけ利便性が高いし、私の方が有利、ね」
 それだけじゃないと酒上は続ける。
「〈フィストドライブ〉のコンセプト、『最後の一撃』も用意してある」
 別の鉄板が設置され、ロボットは先と同じように滑らかな動きで構える。
 その瞬間、手甲の上部が開き、二つのノズルが出現――拳だけではなく、体全体が高速の動きで突き出される。
 今度の轟音は、歪みを生み出した音ではなかった。鉄板を貫通した断末魔のものだ。
「〈シェルドライブ〉に使われているものと同じ、〈人格波動〉を別の波動に変換する機能を組み込んである。装着者の〈人格波動〉を、高速移動の推力に変えてるっていう事」
「それじゃ……何度でも、使える……」
 〈フィストドライブ〉のブースターは、燃料が一回分しか組み込まれていない。燃料漏れや誤作動を防ぐためだろうと弥彦は理解しているが、現実に〈フィストドライブ〉を使っている身としては、あのブースターを使った『最後の一撃』が体に残すダメージは深刻でもある。鍛えられた弥彦の体でも、人体が作り出せる以上の速度――つまり力を制御するには足りないのだ。
 酒上の〈フィストドライブ〉は、その点を〈人格波動〉の変換で補っている事で複数回の攻撃を可能としているというが……実戦中、この一撃必殺の拳を複数回使用するほどの体力が残っているだろうか。
 酒上博士は、〈FD4s〉を冷めた目で見下ろしたまま続ける。
「そう。貴方の言うとおり、何度でも使えるはずなんだけど」
「……けど?」
「まあ、見ててちょうだい」
 二枚目の鉄板が設置され、先と全く同じ動きで拳は貫通する。
 先となにも変わらない光景に博士の顔色をうかがうが、変化もない。そうこうするうちに、三度目の設置。
「ここで」
 彼女の言葉が自嘲気味だと思った瞬間、弥彦の目はロボットの体が踊るように崩れる瞬間を目撃した。
 轟音は鳴り響いていた。鉄板も貫通していた。
 だが、〈FD4s〉を装着していたロボットが、その場に座り込んでいた。
「〈FD4s〉が壊れてしまう。三度使うと、〈人格波動〉の変換装置が誤作動を起こすみたいでね」
「壊れる……」
「装着者の腕を締めあげて潰してしまう。〈人格波動〉の読みとりを、内部のオートフィット機能と連動させているのはギルの〈フィストドライブ〉と同じなんだけど、変換装置は過剰に〈人格波動〉のエネルギーを吸い上げようとして、刺激を与えすぎてしまう。人体がその圧力に耐えられなくて壊れる。腕は再起不能に潰れる」
 ダンスロボットがうなだれるように佇む姿へ、弥彦は言いしれない不安を覚える。
「変な事を言うようですが……あのロボット、すごく人間みたいですね。今のロボットって、壊れたらあんな風に痛そうな形で止まっちゃうんだって、感心しました」
 酒上博士は微笑んだ。
 弥彦の言葉を無視して話し出す。
「少し考えてちょうだい。三度目が危険なのは見てのとおりだけど、能力者になって、今までの〈フィストドライブ〉で運用のノウハウもある貴方なら、この〈FD4s〉を今まで以上に使いこなせると思うの」
 確かに、利点は大きい。
 だが、あのラストショットが目から離れない。最後の最後の奥の手さえ使わなければ、確かに、ギルの〈フィストドライブ〉以上に使えそうな気はしないでもない。
「……これ、〈シェルドライブ〉と一緒に運用するものじゃないんですか?」
「最初はその予定だったんだけど、どうしても認可が下りなくて」
「それをどうして私に?」
「気づいているだろうけど、最後の一撃以外の点で、ギルの〈フィストドライブ〉に負けているとは思わないから。ましてや、貴方はもう能力者でしょう? ギルの〈フィストドライブ〉のコンセプトとは離れている」
 確かにそうだ。だからこそ、能力者ではない試験者として和政が派遣されてきたのだから。少なくとも、表向きは。
「使いたい時には、いつでも使えるようにしておくから。配置ロッカーと〈波動認識錠〉を貴方のものに変更しておく」
「ちょっと待ってください」
 すっかり弥彦のものとして話す強引さに、さすがの弥彦も慌てた。
「どうして私に使えとおっしゃるのですか? 認可されていない兵器を使うとしたら、私物として登録しておかなければならないし、そもそも、そんな物を使用したら軍法会議にかけられます」
 酒上博士が振り返る。
 弥彦は彼女が心の底から見せた疑問の顔に、こちらがおかしな事を言ったかと狼狽する。
 そんな狼狽も、落ち着き払った当然と言った口調の酒上博士には見えていないようだった。
「でもあれじゃ、〈マスター・フリーク〉に勝てないでしょう?」
「……え?」
「〈赤目のフリーク〉が〈マスター・フリーク〉を倒して、それで良いの? 人類の危機を救うのは、人類であるべきでしょう?」
 当然の事を話している人間特有の、つまらなそうな苛立っているような、尖った声色だ。
「私が見るかぎり、ギルの〈フィストドライブ〉では倒せない。その時の切り札に持っておくのはおかしな事じゃないでしょう? 軍法会議の前に〈フリーク〉に殺されたら、意味がないでしょう?」
 それにと、彼女はブレスレットと対になってるらしい、きらびやかな腕時計で時間を確認しながら、うわの空で続ける。
「〈マスター・フリーク〉を倒した英雄を、軍法会議で厳重に処罰できると思えない。貴方が倒せば、〈軍部〉の歴史に一つ輝かしい歴史が刻まれる事になるんだから」
 返答に悩む弥彦の肩を、酒上博士は手を伸ばして叩いた。
「使う使わないは貴方に任せると言ってるの。ただ、使えるようにしておくだけだから」
「……はぁ……」
「呼び出しておいて申し訳ないけど、これからギルとデートなの。話しておく事も見せておく事も終わったし、この辺でお開きにするわ」
 さりげなく組み込まれた言葉に、悩み混迷を深める弥彦の意識が目を覚ます。
「で……え? ギル、と?」
「意外?」
「い、や……その……旦那さんは?」
 彼女の夫が参謀である事は、木伏から教えられていた。そもそも、参謀が昨日の〈シェルドライブ〉の見学時、そこにいたのだという話も。結局、挨拶する機会もなく退出させられたのだが。
「夫は、私とギルの関係をよく知ってますから」
「知ってるって――」
「ハニートラップぐらいわかるでしょう? 今回はギルを騙すつもりはないけど、忙しくなる前に楽しんでくる予定があるの」
 色仕掛けでターゲットから必要な情報を聞き出したり脅迫するというわけだ。
 ギルから何を聞き出すというのか。
 いや、その前に……前提として、この二人に男女関係がある事を、酒上参謀は了解しているのだろうか。
 そして、最近は弥彦が見ていても危なっかしいほどギルに接近している木伏は?
 〈FD4s〉の事でも頭が一杯だというのに、色恋沙汰にまで巻き込まれたくはない。
「……そんなスパイみたいな事、私に言っても良いんですか?」
「先生はとっくにご存じだから。それも含めて楽しんでくれてるの」
 あの凍り付くような視線を思い出し、目の前の美人博士とベッドを共にする姿を思い浮かべる。
 悪夢のようだと思った。
 ギルも理解できないが、この目の前の女性も理解できない。理解できないもの同士が、理解できない会合を持つ事の意味など、弥彦にわかりようがない。
 思わず大きく息をついた弥彦の前で、酒上博士は眼下のロボットに目をやる。
「ギルもあれぐらい痛がってくれれば、かわいげがあるのにね」
 潰れた〈FD4s〉をはがそうと群がっている研究者たちの中心で、ぐったりと倒れ込んだロボットの姿。コードに繋がれたままのその姿は、重傷患者と医者たちに見えなくもなかった。
「痛がる……」
「〈人格波動〉を帯びて、その〈人格波動〉の腕が破壊されたのよ。当然じゃない」
 彼女の言葉をゆっくりと噛みしめて、弥彦は血の気が引く思いがした。
「ロボットが、仮にも人格を――」
「〈人格波動〉を使ってるんだから、それぐらい当然。そんな事も知らないんでしょう? だから無知だと言ったのよ」
 酒上博士は出口へ向かって歩き出す。
 彼女もギルに負けないほど他者に対して無神経だと思いつつ、〈FD4s〉は魅力的だと思わざるを得ない自分に愕然とする弥彦だ。
 〈FD4s〉の問題点が、肉体を破壊してしまう一点にあるのならば、それは自分の『原点回帰』の能力で回復することが可能だ。
 痛みで能力が発動できるかだけが心配だが、そこまで追いつめられるとしたら、本当に〈マスター・フリーク〉と対戦する時ぐらいだろうとも思える。
 あの試作兵器は、ありだ。
 確かに、自分ならば大いに使える武器だ。
――どうする?
 弥彦は酒上博士の背中を追って歩きながら考える。
――どうする?
 まるで能力者になるかならないかを迷っていた時とそっくりだ。弥彦は悩みながらも自嘲。
 酒上博士だけを頼りに廊下を歩きながら、その脳裏には――「あの武器はありだ」と弥彦の心の声が囁く度に――ギルの冷笑が浮かんでいた。






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