R-T-X 「9・都市と青年(中)」
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 何の変哲もない住宅街が、突然戦場になる。
 弥彦と共に行動していた木伏には見慣れた光景なのに、見ている相手がギルだと全く印象が違う。そもそも、薄暗い地下の一室ではなく、外気と陽光の下に軍医がいる事そのものが目新しいものに感じるのだ。
 一体、彼は何をして見せるのだろう? 今、何を思って敵と対峙しているのだろう? これまでも木伏には理解できない事を次々と展開して見せた男だ、能力者として、戦闘者として、一体どんな姿を木伏の前に広げてくれるのだろう?
 目が離せない。
 そしてまた、ギルが白衣のポケットに両手を突っ込んだまま、あざけるようにステップを踏む。
 パキンともバキリともいえない破裂音を立てて、彼の立っていた場所のアスファルトが砕け散った。次々と破裂し粉々になった細い通りは、いまや至る所に尖った破裂痕を空に突き上げ痛々しい。
 高らかに笑いながら、軍医は片膝をついて地面に手を伸ばした。日焼けしていない青白く細い指が、羽織ったままで袷を閉じていないそのコートのようにはためく白衣が、黒いアスファルトとのコントラストに浮き上がる。
 その黒い大地にすばやく指先を走らせながら
「おいおい、久しぶりに楽しませてくれるのかと思ったら、随分お粗末な攻撃だな。ただの熱源を投げるだけか? 投げるだけならサルにだって出来るんだぞ、単細胞ども。まあ……仕方ないな、〈西方協会〉に保護されなきゃ生きていけないペットにはお似合いの能力だ」
 ただし、と軍医は再び見えない敵の、見えない攻撃を大きく跳んで交わしながら追加した。
「私を殺しに来た根性だけは評価してやる。足元ばかり狙って、私をなぶり殺しにしたい気持ちも含めてな。どっちがいい? 三分で殺されるのと、一瞬にしてあの世に逝くのと。それとも私のペットになってみるか? 切り裂き飽きるまで、一週間は生きられるぞ?」
 いつもの不愉快な含み笑いを響かせ、軍医は片手を挙げた。
「とりあえず、その目障りな動きを止めろ。無駄な事で時間を潰させるな」
 面倒な生徒をあやすように優しく馬鹿にした響きで呟き、ギルは腕をだらしなく振り下ろす。
 瞬時にそれに反応する、ゴッとこもる音。木伏と三条の目は反射的にそちらへ。
 ギルの百メートルほど先の前方に、一瞬にして木がそびえ立っていた。
 二メートルほどの高さだろうか、それは真っ黒く、ギラギラとした樹の肌を、恥ずかしげもなく陽光に晒している。突然出現した己の存在を誇示するかのように。
「んな、馬鹿な……」
 三条が目を見開いてうめいた。
「アスファルトの、樹?」
「え?」
 木伏の目からはうまく判別できないのだが、三条の〈フリーク〉としての高い身体能力は一瞬にして真贋を見抜いていた。
 そしてその高感度の目は、オブジェの下でもがく者の存在を捕らえ――そして彼は沈黙する。
 一方、木伏は〈特務〉制服のベルトにくくられたポシェットから小型のモニターを取り出し、手首のベルトに備え付けられた端末に繋ぐ。彼女の能力『無意識の目』を最大限に汲み取り、増幅された〈人格波動〉が無意識の捕らえた情報を映像として処理、モニターに映し出す。
 ごつごつした鉱物の肌。
 その根元で蠢く物体――いや、三つの人体。ひときわ目立つのは、木伏より確実に十歳は若い二十代の女性だった。アスファルトの木が引き裂いたと見られる裂けた衣類の下から、まだみずみずしい肌を晒す女だ。その四肢は杭のように伸びた枝枝によって貫かれ、小さな悲鳴と恐怖の滲んだ顔で必死に脱出を試みていた。
 彼女の傍らでは、上半身の半分を大きな枝で貫かれた若い男が、虫の息で痙攣していた。たまに大きく息を吸おうとするのか、ひときわ大きくのけぞっては血ヘドを撒き散らし、それが彼女の体に跳ね飛んでは死の恐怖をあおっているようだった。
 死にかけの男の反対側には、見るからに気の弱そうな青年がはた目にもわかるほどガタガタと振るえながら、自分の体を拘束し、腕を貫通している枝を大事な物であるかのようにしっかりと握り締めていた。放心したような顔を興奮の色で真っ赤に染めた彼の両目からは、痛みなのか恐怖なのか、既に大きな流れとなった涙がとめどなく零れては滴っていた。
「あれが……あれが彼の能力なの?」
 木伏は見たこともない能力とその光景に愕然としながら、重々しくそびえる鉱物の姿を見ながら三条に問いかける。
「いや」
 三条は即答。先にギルをかばって傷ついた手をギュッギュッと試しに動かす。破裂した手の甲の中から、白っぽい骨が突き出していた。
「俺の知ってるあいつの能力とは全然違う」
 答えるが早いか、〈赤目〉は目の前に立ちふさがる空間閉鎖の壁を殴りつけた。
 グシャリと、骨と肉が軋み破壊される音が水っぽく響きわたり、木伏の体に赤い飛沫が飛び散る。
「三条さん!?」
「ちくしょう、やっぱ無理か」
 顔は申し訳程度にしかめられているが、やはり痛みは感じているのだろう。三条は荒くなった息の中、言葉だけは淡々と呟き、潰れた自分の手を無事な左手で無理矢理引っ張った。痛いはずなのに躊躇する間もなく、丸く形を整えれば拳が元に戻るかのように――いや、本当に戻るのかもしれない。なんせ彼は〈フリーク〉中の〈フリーク〉、〈赤目のフリーク〉なのだから――ゴリゴリと骨を肉の中に押し込む。
 だが、まるで挽き肉をこねてる様な壮絶な光景に木伏は目をそらす。
 その背後で、二度三度と壁を殴りつける三条。
「やめて。どうせ三分で消えるのに」
「そんなに待ってられねぇ」
 空中の壁に張り付いた自らの血に向かって、彼は苦痛の息遣いを吐きながら拳を叩きつける。
「アイツが自分の敵に何するか、あんたはまだ知らないから待ってられるんだ」
 二人のやり取りが聞こえたのか、ギルはちらりと木伏たちに視線を送った。
「ごちゃごちゃうるさいぞ、外野。貴様らは黙って見てろ。このゴミども共々、まとめて殺してもいいんだぞ?」
「ゴミだとかクズだとか、うっせぇんだよ、ヤブ医者ッ!」
 三条の叫びが届いたのか、ギルはかすかに表情を緩めた。なぜか嬉しそうに
「そういう事は、そこから出てからいうんだな、化け物」
「ああ、出てやってやるさ! 今いってぶん殴ってやるから、そいつらには手をだすな!」
 再び壁を殴りつけた三条の拳が砕け、ビシャリと血しぶきが上がる。ギルはそれを見てあざ笑いながら、口元の煙草をつまんで投げ捨てた。
 呆れたように首を振ると、もう三条たちには興味をなくしたらしい。捕らえた人々に向かって歩き出す。手を伸ばせば触れられるほど近づくと、嘲りと侮蔑のこもった声を投げかけた。
「おい、女……なんだ、まだ子供か? 随分いい肌をしてる。お前だな、反〈人格波動〉を使ってたのは……どうだ、その珍しい能力も含めて、私のモルモットになるつもりはないか? お前はいい材料になる。あと一月ぐらいは長生きできるかもしれないぞ?」
 女は何事か叫んだが、半狂乱のその言葉はただの絶叫と大差ない代物だった。
 ギルは高らかに笑いながら、女の顔を無理矢理、両の手で挟み込んだ。自分の顔を、彼の持つ全ての人間が恐れるべき『何か』を凝縮した狂気の眼を、その女が見ざるをえないように。
 案の定、女は声を引きつらせながら硬直した。彼女の混乱と想像力からくる恐怖は、ギルの目にあった『何か』に易々と征服された。言葉に代わり、彼女の口からは悲鳴をあげすぎたおかげで痛んだ喉からもれる、擦れた息使いだけがヒューヒューとあがる。
「身の程を知らないという事は、罪に等しい」
 ギルは女の顔を覗き込みながら囁いた。ゆっくりと、幼子に言葉を教えるように。
「罪というものは、知っていようといまいと、罰を受けるべきものだ。その奴みたいな」
 痙攣する男を親指で指し示しながら、ギルは女の顔から手を離した。脱力する女から離れ、気弱に震える男に一瞥をくれる。
「私を狙った者の前にあるのは死だけだ。〈西方協会〉にいたならそれぐらい知ってるだろ? 回避する事はできないぞ。さあ、どう死にたい? 望みどおりの死をくれてやるぐらいの優しさはある。いわないなら私の好きにさせてもらうぞ」
「たす、けて……」
 大枝に貫かれて死を待つばかりの男を横目に、かろうじて聞き取れる程度の不明瞭な発音でもう一人の、真っ青になって震えているばかりの男が言った。
「俺は嫌だって言ったんだ……嫌だって、嫌だって何度も言ったんだ……こいつらに無理矢理、証人になれって……」
 グズグズと鼻を鳴らしながら男は早口で泣き叫んだ。
「だから助けてくれ! お願いします、助けて! 俺は何もしてないだろ? ミカの能力が見えていたあんたならわかるだろ? な? 俺は見ていただけだし! 俺は――」
「お前の能力は、催眠能力だ」
 必死の嘆願を冷笑で一蹴し、ギルは気弱男に背を向ける。
「この辺り一帯に、住人が近づかないよう意識に細工をした。お膳立てをした意味では一緒だ」
「でも――」
「一緒だ。死ね」
 その簡潔な言葉を理解するにも、彼には時間が必要だったのだろう。数秒の沈黙の後、男は絶望的なため息を天に吐き、がっくりとうなだれた。
 ギルは虫の息で大枝に貫かれた男の肩を叩く。
「答えられないようだが、念の為に聞いてやろう。男に抱かれた事はあるか?」
 返事の変わりにひと際大きな痙攣がかえる。クククと笑いながら、軍医は自らが出現させたアスファルトの樹に触れた。忠実な僕のように樹はしなり、枝を伸ばし、瀕死の男を軍医の前に突き出す。軍医は犠牲者の血に濡れ染まった胸板を、服の上から愛撫した。
「なかなかいいもんらしいぞ? 私は知らんがな。私が知ってるのは、死ぬ前でもそういう快楽を与えてやれるという事ぐらいだ。……いいだろ? どうせお前は助からないんだから、互いに気持ちよくなればいい。文字通り天国に送ってやる。いや、地獄かもしれんな。どちらも同じようなもんだ、安心しろ。貴様をイカせるだけなら三分で済ませてやれる。最高の快楽を貴様の脳みそに叩き込んでやるさ。その時は、後で死体になった貴様に突っ込んでやる」
 まるで恋人に囁くように物騒な言葉を紡ぎ、軍医は耳元で囁いた。
 その腕がぐっしょりと濡れた男の服を引きおろす。いつそんな事をしたのか、鋭利な刃物で切り裂かれたようにシャツはバラバラと細切りになって地に散らばる。露わになった男の肌にギルは口付けした。真っ赤に染まった男の肌に、彼の唇の形が空白となって現れる。
「ふむ……もう少し声を聞かせてみろよ。色っぽいのをな」
 軍医の手に握られていたのは、この樹の枝だった。淡々と、喩えるなら芸術家が製作作業を進めるように、ギルは腕を振り上げ男の肩口に一気に突き刺した。そしてそうするのが当然のように引き抜く。ほとんど反応らしい反応も返さなくなった男と、あふれ出した血潮に笑うギル。口付けによって色づいた紅の唇は、軍医の行動を更に異質なものに見せる小道具と成り果てていた。
 口付けを受けた男は、一度だけ大きく咳き込んだ。バタバタと零れる血塊を眺めるようにうなだれ、そして動かなくなる。ギルは呆れ果てた風に、顔の力を抜いた。
「おいおい……まさか、もうおネンネか? これからもっと楽しくさせてやるっていうのに。馬鹿な奴だ」
 途端、沈黙していた女が再び叫びだした。
 はっきりと、自分の置かれた現実を否定しようという必死の抵抗を込めた悲鳴を。
「嘘、嘘、嘘、イヤだ、こんなの違う! 違うって!」
 身を捻り、彼女は自らの傷口を広げるような勢いでわめいた。
「なんでコイツじゃないの、ミツルじゃなくてコイツが死ねばいいのに、こんなの嘘、嘘なんだ、嘘だぁぁぁぁぁぁーーーーッ!」
 魂を込めたといっても過言ではないような、彼女の存在をかけた悲鳴に対して、ギルは面倒そうに眉をよせる。
「やかましい」
 彼の呟きと同時に、悲鳴は唐突に途切れた。
 木伏の『無意識の目』の映像は、彼女の頭部がガクンと大きく揺れたのを確認した。そして女の顔が一瞬にして消えてしまったような錯覚に陥った。女の顔があった場所が真っ黒に見えたからだ。
 だがそれが何を示すのかを悟った時、木伏はモニターから一度目を逸らした。無意識の捕らえる映像の方を変えればいいだけだったが、それを思いつく余裕がなかったのだ。
 女の顔からは、何本ものアスファルトの細い枝が突き出していた。顎から登頂にかけて真っ直ぐに直立し貫通した小さな人工物の樹が、その存在をアピールするかのように、彼女の頭部内で一斉に枝を広げた結果だった。びっしりと突き出した黒い細枝の奥には、グロテスクな死体の表情を垣間見る事ができた。眼窩から突き出した枝の先端には、貫きそびれた眼球がぶらんと揺れている。その表面は生々しく濡れていた。
 死体の顔は見慣れていたはずなのに、木伏はその光景に気が遠くなる。
――どうして?
 自分の中に湧き上がるその思いと嫌悪感にふらつき、木伏は体を支える為、障壁に手をついた。
――貴方は一体、何をしてるの?
 ギルは一体、何をしてるのだろう? わかってはいる。頭の中ではわかっているのだ。
 サディスト、バイセクシャル、死体愛好者……そんな彼の噂がただの誹謗中傷ではなかったと確認できただけだ。
 でも、自分が見たかったのはこれなのか?
 彼の能力だけじゃない、彼の性質まで……さらに深く彼を知る事ができたが、それがなんだというのだろう?
――この、目の前で起こってる事はなんなの?
 自分は今、何を考えてるのだろう? それさえもよくわからない。
 この嫌悪感は、誰へのものなのだろう? ギル? それともあくまで死体の表情にあった視覚的な効果? これらをただ見てるだけの自分?
――どうしてこんな事をしてるの?
 木伏はムカムカする胃を片手で押さえながら、それでもモニターを見つめる。まだ、彼の動きは止まっていない。自分がたった今見た行動を否定するだけの何かを、彼の次の行動に求めて、木伏はモニターを見つめた。彼が血まみれの手を死にかけ男の胸から離す姿を。
 そして軍医は軽く片眉をあげた。まるで自分のイタズラが失敗した時のように。
「ああ、もったいない。次に刻みながら可愛がってやるつもりだったんだが。ククク……あんまりうるさいんで、つい手が滑ってしまったな」
「神様……神様……」
 哀れにも一人残った襲撃者は、顔をクシャクシャにして呟いていた。
「なぜですか、なぜ俺がこんな目にあわなきゃならないんですか……俺、何もしてない……のに、なんで――」
「なぜ?」
 彼の言葉を聞きつけたギルは、その血塗られた手を自らの胸に当てて叫んだ。
「まだわからないのか? お前はこの私を殺そうとしたんだぞ? 間接的にでも、この私、ギル・ウインドライダーを、だ。それだけでこの世界の大いなる損失だと何故わからない? この私が貴様らの世界を救ってやるんだ、この私が貴様らの神なんだ。それがわからない奴は空間崩壊を待つまでもない。今、ここで、死ね!」
 つかつかと男に歩み寄ったギルは、存在するはずの無い樹にその身を拘束されている男の顎に手をかける。唇が触れ合いそうになるほど顔を近づけると、その身をぴったりと男に密着させた。
「わかるだろう、この私の昂りが? お前らが懇願すればするほど、こいつは興奮するんだ」
 ぐいっと腰を男に摺り寄せ、彼は笑った。
「私が何者かすらわからなんような、貴様らその辺に転がってるクズは、この私の性処理ぐらいしか使い道は無いんだ。泣いたって無駄だ、何をしても無駄なんだ。大人しく、私に突っ込まれて泣き叫べ。この優しい私が、絶望の内に殺してやるさ。最初にメスを入れるならどこがいい? 心臓か? 首か? 口か? 目か? こめかみか? どこでもいいぞ、貴様が後悔と快楽の中で死ねるならな。私と一緒にイケるだけ、そこの男や女よりはまだマシだ」
 その言葉にガタガタと震える男の下唇に、ギルは噛み付き、せせら笑った。
 だがその楽しげな軍医の顔は、すぐにかき曇る。
「ふん……今日は時間制限があったんだったな」
 次いで、木伏達の前から空間閉鎖の障壁が消えうせる。壁に手をついていた木伏はバランスを崩し、倒れそうになる体を慌てて起こした。
 時間切れ――約束の三分間が過ぎたのだ。
 木伏が止める間もなく、三条が無言で飛び出した。人間の姿のままだが、〈フリーク〉として強化されている脚力が、彼の体を瞬時にしてギルの目の前に運び去る。そのギルは、三条の動きに反応していたのか、大きく後ろに跳躍して三条の接近から逃れようとする。とても一日中地下室に篭っている学者とは思えない、そして〈特務〉でもそうそうお目にかかれないような素晴らしい跳躍だ。何かの術を使っているのだろうが、木伏には理解できない。
 そもそも、木伏には魔術と能力の違いがわかっていないのだ。錬金術と呼ばれるものがどんな現象を引き起こすのかもわからない。だから木伏の目には、ギルが跳ねたその姿が、まるで映画の一シーンのように現実離れし且つ至極当然の行動に見えていた。もしかしたら、頭が現象を理解する努力を放棄していたのかもしれない。
 そんな木伏がわかっているのは、今、三条がギルに対して何をしたいのかだけだ。顔を真っ赤にさせながら拳を振り上げ追いかける三条が、ギルに何をしようとしているのかなど一目瞭然だった。
 木伏は急いで、右手をホルスターに伸ばす。〈波動認識錠〉が持ち主たる木伏アヤメを認識、解除ランプが点灯して安全弁が瞬解する。大の大人が操るにも困難な大型拳銃は、〈特務〉の権威と攻撃能力の高さを示すシンボルでもある。木伏のように攻撃型の能力ではない〈特務〉メンバーも、一通りの使い方なら叩き込まれている。そう、威嚇射撃ができる程度には、だ。
 だが、間に合うか?
 振り回されている三条の拳を――木伏には目に捉えるのも困難なスピードの攻撃をスイスイかわし続けるギルが、ふと顔を上げて木伏を見た。一瞬だけその視線が木伏と交わる。彼の目に浮かんでた嘲りの色が、木伏と会った瞬間に変わる。彼女のやろうとしている事がわかったのだろう、苛立ちのものにすり代わる。
「余計なことをするな!」
 軍医の叱責が辺りの空気を震わせた。だが三条の動きは止まらない。振り上げられた拳が、潰れた無残な形のままギルの顔面をめがけて放たれようとしている。
 〈赤目〉に変身してなくとも、相手は三条だ。柚実のドッペルゲンガーをも一撃で半壊させる拳を、ギルはどう受け流す?
――でも、もし受け流すことができなかったら?
 間に合わないと判断した木伏は銃を構え、静止と警告の呼びかけもせずにに発砲した。三条とギルの傍にある、奇怪な樹の枝に向かって。
 〈特務〉の標準装備である大型拳銃が、木伏の腕を大きく跳ね上げる。いつも持ち歩いている拳銃だが、これは普段使っている長距離支援用のカスタムライフルとは違い、反動を木伏の体が押さえ込めるようには出来ていない。一発撃っただけで、木伏はヨロリと跳ね飛ばされかけた自らの体と拳銃の威力に驚いた。
 そんな彼女をよそに、生い茂る枝枝の一部は派手な破裂音と共に砕け散った。
 バラバラと落ちてくるアスファルトの枝の中、ギルは片手で三条の動きをさえぎるような素振りを見せる。瞬間、放たれた閃光と共に、三条は動きを止めた。陽の光で肉眼では見づらいが、木伏の『無意識の目』は鮮明に状況を把握する。
 モニターの中、光の線で空中に描かれた複雑な模様の円陣が、三条を絡め取っていた。
「……どうした?」
 ギルは笑いを噛み殺しながらうつむいた。
「どうした、〈赤目のフリーク〉。私を殺したいんじゃないのか?」
 三条の体がブルブルと震えだした。伸ばしきってない腕が、おもりをつけられたかのようにガクガクと、震えながらもう一度振り上げられる。だが、それ以上は何もできない。
 木伏には信じられない光景だった。
 〈フィストドライブ〉には劣るとはいえ、彼の拳はドッペルゲンガーにも通じる破壊力を有している。それを止められる力を持つ能力者は……〈特務〉でもAクラス、それも極秘任務を与えられる特Aクラスに違いない。
 あくまで能力者の能力は、戦闘の補助的なものでしかないのだ。本人の思考、本人の望む力を現実化する能力者の能力は、大抵、単純な攻撃手段となって現れるのが常である。自らを守る為に身につけた能力は、単純なエネルギー体を作り出す能力として発言しやすく、結果的に相手を傷つける事になる。力に力で対抗し、しかも相手を傷つけずに封じるというのは見出しにくい。柚実の『銀色の壁』をギルが利用しようと考えたのは、二重現身を『受け止める事ができる』という彼女の能力が珍しい類のものだったからなのだ。
 もちろん、何度観たとしてもギルが使っているこの力が、一体なんと呼ばれる類のものなのか、今の木伏にはわからない。わからないが、理解できる事はある。
 ギルの使える力は、一種類ではないのだ。
 しかもその力の全てが、通常能力者の常識を遥かに超えた一級品なのだ。
 〈西方協会〉のミツヤは言っていた。『貴方ほどの能力者ならどんな形でも対処できるでしょう』と。彼がどんな能力者なのか、もはやそんな事はどうでもいい。
 おそらく、ギルの最も恐ろしいところは、その底の知れない切り札の数なのだろう。
「やってみろ、〈フリーク〉! それで終いか? それで本気なのか? 〈赤目〉にならなきゃ私一人も殺せないで、それでよく〈マスター・フリーク〉を倒しに舞い戻ったもんだ!」
 挑発しながら、ギルはゆっくりと三条の周りを歩き出す。片手で痙攣する三条の腕を叩きながら。
「だが、本気になられて〈フリーク〉化されても困る。貴様は明日にでも始まる〈マスター・フリーク〉との、大事な戦闘が待ってるんだからな。……このままでは、殺されるのが落ちかもしれんが。それとも、クククク……また泣きながら私の部屋に逃げ帰ってくるか? 頭ぐらいは撫でてやってもいいぞ?」
「……離せッ!」
「言われて離すと思うのか? そんなに馬鹿な奴だとは思わなかったぞ?」
「離せッ!」
 身をよじり何度も光の模様を振り切ろうと試みながら、三条は叫んだ。
「そいつを離せッ!」
 ギルは驚いたように後ずさった。いや、木伏がそう感じただけで、彼はただ後退しただけなのかもしれない。
「そいつ、だと? ……誰だ?」
「その、〈西方協会〉の奴だ! 当たり前だろ!」
「なぜだ? お前――」
「てめぇの言い分なんて聞きたくねぇよ、サド医者ッ!」
 ギシリと、何かが軋む音が響き渡った。三条の腕が、肩が、彼が暴れるその動きに対して不自然な形で捻られる。壊れてしまいそうな人体を更に捻り、もがき、三条は吼えた。
「邪魔だぁぁぁぁっ!」
 声と共に、負荷に耐え切れなくなった彼の腕が血を吹き上げた。
 同時に三条を拘束していた光の陣が、一瞬にして粒子となって砕け散る。
 『無意識の目』が一瞬だけブラックアウト。原理はともかく、彼女の能力に干渉する何らかの力が放射されたのだろう。瞬時に復帰するが、木伏はその決定的な刹那を捕らえきる事ができなかった。
 驚愕に表情を無くしたギルの横っ面を、三条の拳は殴り飛ばしていたのだ。
 声もなくのけぞり地面に転がった軍医には目もくれず、三条はアスファルトの樹に向かって飛び掛った。四肢を貫かれている男の前に駆け寄ると、その攻撃的な枝を手でへし折る。
「逃げろ、早く、早くッ!」
 だが三条の言葉はぶつりと途切れた。ギルに駆け寄ろうとしていた木伏も、切れた声の響きに振り返ってそれを見てしまった。
 恐怖に全身を強張らせ、へたり込んだ地面でもがく男の姿を。三条から逃げようと、ただそれだけを願って惨めに這いずり回る男の姿だ。自分は三条の敵ではないと否定に首を振りながら――いや、自分の見ている全ての現実を否定しながら、彼はゆるゆると逃げていく。
 三条はそれを驚きの顔のまま眺めている。
 〈西方協会〉の青年は、ギルの力に心底怯えていた。そのギルの力を打ち破った三条もまた、彼にとっては恐ろしい存在として焼き付けられているのだろう。
「何を驚いている?」
 仰向けに転がった体勢からゆっくりと体を起こしながら、ギルが嘲った。
「百五十年前には何度もあった事だろうが、〈フリーク〉? 〈赤目〉の貴様の姿を見て、怯えて逃げ惑った人間どもを忘れたのか? そういや貴様はこの街から出て行ってからの事を話そうとしないな? 言わなくてもいい、想像はつく。だがな、〈フリーク〉、貴様が死地から助けてやっても、礼も言われずむしろ銃を向けられたことは何度あった? それだけでもいい、数えてみろ。クククク……そういう事だ。クズどもにはな、貴様がどんな高尚な思想の元に動いてようと、全く関係ないんだよッ!」
 フュッと何かが鳴った。細く鋭い風の音だ。
 そして三条と木伏は見た。腰が立たぬまま逃げようとズルズル地面を後ずさる男、その額から角のように突き出た枝の先端を。背後の地面から突然斜めに突き出してきたアスファルトの枝が、男の頭部を斜めに貫通し、額から鋭利な登頂を覗かせていたのだ。先の異音は、突然の死に見舞われた男の喉が上げた最後の呼吸であり、小さな断末魔の悲鳴だったのだ。
 三条はマジマジと、貫かれて倒れることも出来ずに居る死体を眺めていた。額から滲み出した血が顔面を伝い顎から落ちるのを見、それでも彼は見ていた。
 彼の背に漂っていたのは、圧倒的な脱力感。先まであった軍医への怒りが、全くの無駄だったと気づいた寂寥感。
 終わった。その感覚に木伏もまた、腹の奥に空気の塊を抱え込んだような圧迫感を感じる。
 木伏は頬を押さえて立ち上がった軍医の、その傷を気遣いながら駆け寄った。
「お怪我は?」
「力任せに術式を崩した後のパンチだ、たいしたもんじゃない」
 念のために冷却スプレーで冷やしたハンカチを差し出す。ギルは素直にそれを受け取った。そうされるのが当然だと思ったのだろうか。腫れ上がってきた頬へ痛がりもせずにあてがう。錬金術師は――あっという間に始まって終わったこの惨劇に混乱したまま、軍医をどう扱えば良いのかわからずにいた木伏の視線に気づいて、眉をひそめた。邪魔だと言いたげに
「暇ならその辺にあるはずの私の眼鏡を探してもらおうか」
 殴られた時に外れてしまったのだろう。木伏は深く考えもせずに地面に目を落とした。整理のつかない頭には、どんな簡単なものでもいい、秩序だったものを与えてくれる命令が必要だったのだ。
 眼鏡はひび割れひしゃげ、ギルの倒れていた場所の側に鉄屑のように転がっていた。細い銀のフレームは、時折磨かれているのだろう、白い輝きを放って自分の位置の存在を主張する。大きく歪んでしまってはいるが、誇りを持ってそこにいると。
 馬鹿らしいと思いつつ、木伏はその眼鏡に嫉妬する。ギルの物であり、ギルの手によって手入れされ、ギルの全てを共にしてきた物体に。
 もしこの眼鏡が口を聞いたのなら、木伏に何をいうだろうか?
 木伏は尋ねたい。今、自分の背後に立っているギルの過去を。狂気じみた罵声と共に、理解しがたい知識と技術と力を駆使する彼の姿は、今まで当然のように行われてきた光景なのかと。いつもあんな風に、誰かに命を狙われていたのかと。いつも一人で。
 一人で?
 それを思った時、木伏は不意にざわめく胸の内を感じた。彼に係わってきた全ての人たち対する怒りだ。そしてもどかしさ。軍医の圧倒的な力と倒錯的な言動、それらを形成してきた年月に、彼によってどれだけの人がどれだけ傷ついてきたのか。何度、彼はこんな風に人を殺してきたのか。
 棺桶のように地中深く埋められた彼の部屋で、軍医はどれだけ長い間一人だったのだろうか――木伏は説明しようの無い興奮に心中を引っ掻き回された。
 軍医をどうすればいいのか、どんな目で眺めればいいのか、全くわからなかった。慰めの言葉か、それともその力に対する賞賛か、人道的ではない攻撃への批難か、彼が無事であった事への安堵か、彼が自分の能力を隠していた事に対する怒りか……。
 眼鏡を返すと、ギルは軽く頷いて受け取った。血に染まった彼の手から赤の色が木伏の指先に付着する。
 それはあらためて、たった今ギルがした事を木伏に思い出させた。
「あそこまでする必要が……あったんでしょうか」
 受け取った眼鏡のフレームが曲がっているのを確認したギルは、それをポケットに突っ込みながら彼女へ振り返る。
「なんだと?」
「あれだけ凄い事ができるんだったら、捕まえる事もできたと思います。〈軍部〉に突き出せば、全て解決するんじゃないでしょうか」
 襲った以上、返り討ちにされても文句は言えないはず。それはわかる。納得している。
 だが侮辱するような罵声や、未遂に終わったが敵を辱めるような行動をとる彼が、木伏には理解できなかった。いや、理解したくなかったのだろう。自分の知っている者が、しかも指揮官でもある男が、野蛮な行為を目の前で行おうとした事実を、考えたくなかった。
 そんな木伏を、ギルは鼻で笑った。子供のイタズラを馬鹿にする顔で。
「奴らが釈放された後、また狙われるのは面倒だ。当然だろう?」
「面倒で人の命をあんな風に簡単に奪っていいんですか」
「理想だけなら何度でも聞かされた。貴様は人に狙われたことがないから、そんな事が言えるんだ」
「……お言葉ですが、理想の何が悪いんですか。私たちは〈軍部〉の人間です、犯罪者じゃないんですよ? それらしく――」
「私はギル・ウインドライダーだ。私は私のしたい事しかやらん、それが私が〈軍部〉に残る条件なんだ、何も知らない貴様が口を出すことじゃない」
「しかし――」
「意見は聞かんといってるだろうが」
 ギルは危なげなくその場に立ち上がり、前に立っていた木伏の肩を軽く叩いた。軽く興奮している木伏をあやしているのか、ハンカチの礼か、眼鏡を拾った感謝の意か、歩き出すのに邪魔だったのか。よくわからなかったが、彼が言葉とは裏腹に全く怒ってはいないということだけはわかった。
 心なしか、その悪魔の笑みは心からこの場を楽しんでいる風に見える。
 事実、そうなのだろう。
 木伏を置き去りにした軍医は、呆然としたままの三条に歩み寄る。その背に向かって声を張り上げた。
「さあ、邪魔者は消えたぞ、〈フリーク〉。答えを聞かせてもらおうか――なぜ、この街に戻ってきた? ここにはそいつらみたいな、貴様を化け物としか思わんクズが嫌になるほどたむろしてるぞ? 戻ってくれば、そのクズどもの為に働かなければならないと知っていたはずだ。化け物として恐れられながらな。なのになぜ戻ってきた?」
 三条は動かない。目の前で串刺しにされた死体を見下ろしたままだ。軍医は再度、声を張り上げた。
「ウジウジと過ぎた事を吹っ切れない役立たずのクセに、ここへ戻って来た理由を言えと言ってるんだ、〈フリーク〉ッ!」
 それでも動かない。ギルは舌打ちすると、側の門――三条と表札のかかった家の門を叩いた。鉄でできたそれは、ギルの与えた衝撃に篭った空洞の音を響かせる。
「そんなんだから、人の一人や二人、助ける事ができないんだ。尚起も、そこで死んでる馬鹿者も、誰も助けられないんだよ」
「うるせえ」
 不意に三条の体がブルルと震えた。子犬が雨を跳ね飛ばすように。彼はギクシャクとした動きで振り返り、軍医に向き直る。
 木伏は息を詰まらせた。彼女は〈赤目〉としての三条を知ってはいたが、その変身過程をその目で見た事はなかったのだ。その異様な光景と風体に、彼女は足をすくませた――真っ赤に染まり、通常の二倍はあろうかという大きさで膨れ上がった眼球の一睨みに止めをさされて。
 だが視線の先に捕らえられた主体であるギルはひるまない。呆れたように軽く眉を上げただけだ。
「くだらん事で体力を消耗するなと、何度言えば理解できるんだ? 化け物め」
 その表情に向かって、今までの倍にも膨れ上がった首が蠢き、掠れた声が吐き捨てる。
「理由を言えってうるせぇけど、ならお前はどうなんだよ。ここに居るのに理由なんてあるのか?」
「あるさ」
「じゃあ先に教えろ」
「仕方ない。参考になるとは思えんが……言ってやるか」
 ギルは木伏のハンカチを白衣のポケットに突っ込むと、ぐいっと両手両腕を大きく広げた。
「ここは〈人格波動〉がギリギリのラインで調和を保ってる場所だ。その分、〈フリーク〉の出現率、数共に世界的に群を抜いて高い。貴様みたいな変り種が出たのもここだけだ。〈人格波動〉の研究をするのにこれほど適した場所はあるまい? この街は私の実験場なんだ、〈フリーク〉なんていうカビの一つや二つ出現したぐらいで簡単に廃棄してたまるか。ここは私の物だ、誰にも渡さん。それだけだ。……どうだ、参考になったか?」
 本当に参考にならねぇなと、三条は苦笑した。力ないそれは、今にも泣き出しそうだった。
「俺はてっきり、尚起の事かと思ってた」
「ほう?」
「わかってんだよ。あんた、尚起のこと好きだったんだろ? ずっと俺のこと恨んでるぐらい好きだったんだよな? わかってんだよ、俺がここから出て行く時手伝ったのは、あいつを見殺しにしちまった俺の顔を見るもの嫌だったからなんだよな? さっさと消えろって思ってたんだろ?」
 ギルはしばし沈黙。珍しいことにぽかんと口をあけ……そして肩をすくめた。
「どうやら、お前の馬鹿さかげんは、私の予想以上だったようだ」
 ギルは言葉を続けようとしたらしいが、こみ上げてきた笑いに体を折った。
 乾いた笑い声が、三つの男女の死体が流し続ける血だまりの表面を、街を走り抜ける風と共に波立たせる。
 木伏はその風紋とギルの顔を交互に見、先に殴られたギルの頬がゆっくりと赤く腫れあがりつつあるのを確認した。どこかほっとしていた。ギルの体が、彼自身の言うように普通の人間と同じである事――長命である事以外は変わらないという事に。そして、相手が男ではあるけれど、誰かを好きになる事ができるらしいという事実に、安堵した。
――なぜ?
 なぜそれぐらいの事に安心できるのだろう? 殴られた場所が腫れる事や誰かを好きになる事なんて、普通の人間なら当然の事なのに。
――普通じゃないと思っていたからか。
 かつて三条は言っていたはずだ。ギルは『普通じゃない自分を見てもらいたいと思っている』と。裏を返せばそれは、彼がその超人的な能力以外、全く普通の人間であるという事なのだ。趣向は変わっているかもしれないが、それでも彼は、根本的なところで人間でしかない。
 ギル・ウインドライダーは、ただの人間でしかないのだ。
 その事を確認し、木伏は安堵の息をついたのだろう。
 やがて笑い疲れた顔で〈赤目〉に視線をやったギルは、自らの胸に手を当てた。
「ああ、確かに、一個人を他の奴らより特別気にかけてしまうという感情が、貴様のいう『愛してる』という言葉なら、私はあの男を愛していたんだろうな。間違いなく。……だが貴様はどうも勘違いしているようだ」
「なんだと?」
「あの男は、私が殺したかったんだよ。〈フリーク〉なんぞにバラバラにされるぐらいなら、私が念入りに細切れにしてやりたかったんだ」
 一瞬の間だったが、木伏にはその言葉の意味がわからなかった。折角捕まえたと感じたギルの像が、木伏の中でぐらりと揺らぐ。
 畳みかけるギルの言葉は、木伏の理解より早く、聴衆である二人に投げかけられる。
「カタストロフィが完全に終息したと確認できたら、あの男に、あのノロマで鈍感でお人よしの馬鹿に、人間がどれだけ信用できず残虐な生き物なのかその身で確認させて、心底絶望させてやりたかったんだ。犯して、切り刻んで、死ぬ寸前まで私と取引したことを後悔させてからな。お前はそれを全部ぶちこわしたんだ。私の仕事の後の楽しみを、あっさり奪い去ったんだ。多少恨みがましくなっても道理だろ」
 今度は、〈赤目〉がぽかんと口を開ける番だった。半ば化け物の風体でも、その唖然とした表情や気配は雄弁に彼の心情を表現する。力なく発せられた言葉は、自分が聞いてしまった事を否定したい気分で溢れていた。
「とりひき……って、なんだよ……」
「コトが済んだら、私に抱かれると約束した。ノンケのクセに頑張ったもんだ。最も、私があいつをバラバラにするつもりだったのには気づかなかったようだがな」
「……見返りは?」
 フンと、ギルは不満げに鼻を鳴らした。
「〈赤目〉に〈マスター・フリーク〉を始末する力を与えること、人間がこの街を守れるよう研究を続けること、お前が誰かの助けを必要とする時にはできる限りの手伝いをすること、だ」
「……でかい取引だな」
「だがなかなか良い取引だった。この程度の制約が無ければ、長生きするにも楽しみがない」
「それで〈軍部〉か? あの部屋に居るのは、俺が戻ってきた時に――」
「勘違いするな、研究の為じゃない。あの場所が便利だから使っているだけだ」
 〈赤目〉は両手で顔を覆ってうつむいた。全身の筋肉が、その両手の指先までもが、ザワザワと波打ち、蠢く。全身からボロボロと白っぽい何かが剥がれ落ちる。膨れ上がっていた全身は、剥がれ落ちた石膏のような何かのおかげで、一回り小さくしぼんでいた。一度〈赤目〉から人間に戻った為か、閉鎖空間を殴って砕けていた拳が再生している。
 〈赤目〉は顔をあげた。三条尚起の顔で。ギラギラとしていた巨大な眼球は、すでにそこには存在していなかった。
 そして、わかったよと、三条は呟いた。
「俺がここに来た理由が」
 ギルがその気配から笑いの相を消す。至極真面目なその立ち姿は、自らの実験結果を確認する学者のそれだ。
 その事に三条は気づいているのだろうか? ゆっくりと、噛み締めるように、青年は言った。


「俺は、俺が納得できねぇ事が、ここではじまるのが嫌なんだ。〈フリーク〉だとか軍だとか、カタストロフィだとかディメンションダウンだとか……わけわかんねぇ事が突然はじまるのが、嫌なんだよ。何にもしてねぇのに、俺の知ってるここが壊されちまうのがムカつくんだよ。〈マスター・フリーク〉がいるって感じて、またアレがはじまるって思って、もう二度とねぇだろうって思ってた事がまたはじまって、それが最高にイラついて、我慢できねぇぐらい凄ぇムカついて……それっていうのは、〈フリーク〉どもがやりたい放題めちゃめちゃにしてくって事がわかってたからなんだよな。
 俺はもう、あんな事は二度とごめんだ。本気で関わりたくねぇ。今回の事もうんざりしてる。でも、俺の知らない所でまたあんな事が起こるのはもっと嫌だ。お前みたいに、人間をオモチャみたいにブッ殺す〈フリーク〉どもが嫌いなんだよ。さっさと居なくなれって思うんだよ。
 そりゃ、俺を化け物だと思う奴らはいくらでも居る。いつの時代だっている。あんただってわかるだろ? 俺も諦めてる。自分で仕方ねぇと思ってる。俺を殺そうとしたり、俺から逃げ出そうとする奴なんて一杯いるし、お前の言うとおり何度も見た。
 だからなんだよ?
 俺はやりたい事をやる。見ていて気分悪ぃから〈フリーク〉をブッ潰す。人が死に掛けてるのを見てるだけなのが嫌だから戦う。ついでに、嫌な奴だからお前もぶん殴る。それだけだ。俺がこの街に戻ってきたのは、ただ俺が見て見ぬふりができねぇからそうしただけだ。化け物だからとか、俺しかできねぇからだとかは関係ない。
 わかったよ。今のお前見てて思い出した。俺は、お前とか、〈フリーク〉とか、〈軍部〉とか、自分勝手に人を殺す奴らが許せねぇから戻ってきたんだ。誰の為でもねぇんだ。今、俺が、この街で、そうしたいからしてるだけだ。
 俺は、俺がここに戻りたいって思ったから、戻って来たんだ。ここにいるんだ」


 一時の間。
 遠くでサイレンの音が響いた。拡声器の何を言っているのかわからない喚きが風と共に流れ、三人は対峙したまま時を過ごす。
「ならば」
 ギルは嘲った。反論を待たない、突き放すだけの言葉で。
「ならばなぜ尚起にこだわる? お前の為であるだけなら、なぜこんな、尚起の家を見に来たりするんだ? あの頃の家なんてとっくになくなってるのにな。それなのにワザワザやって来て、なぜ無駄に感傷に浸ったりする? 思い出か? その思い出が、なぜ今、この時に必要なんだ? くだらん過去になぜしがみつく? 尚起が死んだのはお前のせいじゃないんだろ? そうお前が言っただろう? なら忘れろ。お前が言うように、お前の為だけに戦え。こんな所で時間をつぶすぐらいなら、〈フリーク〉の一匹二匹、ぶち殺してこい。化け物らしく、脳みそを木っ端微塵に吹き飛ばしてこい」
「……今は、尚起の事は関係ねぇだろ」
 一瞬にして怒りを沸き立たせ、それを押し殺す三条。対するギルはハッと嘲りの息を吐いた。
「その怒りようが貴様の本音だろうが。〈赤目〉の貴様を助けた、いわば生みの親だ。こだわるのもわかる。だが私の忍耐にも限度があるぞ」
「お前の――」
「〈マスター・フリーク〉を倒したいなら考えろ。なぜお前は尚起にこだわるのか、どうして尚起はお前を助けたのか……もし尚起が今この時代に生きてるなら、一体何をしたのか。考えろ。今のお前に確実に足りないのは思考する時間だけだ。馬鹿は馬鹿らしく、お前なりに考えろ。いいか、もし尚起がここにいたら、貴様に向かってどんな言葉を選ぶのか考えろ。時間一杯まで、ギリギリまで考えるんだ」
 もっともと、ギルは肩をすくめた。
「アイツの事だ。『腹いっぱい飯を食え』とでもいうかもしれんがな。それもまた、あの男の手に入れた真理だ」
 三条は答えない。
 再生した拳に何度も力を込めては開き、そして再度握り締める。軍医の言葉を考えているのか、ギルと、彼の背後に控えた木伏を睨んではいるのだが、その瞳に外界への意思表示はなかった。内面に向かって果てしなく回転する三条の心理だけがあった。
 三条はギルの言葉を信じているのだ。ギルの言葉に従えば、なんらかの出口を見出せると信じている。ギルが嘘をついたり、三条をかく乱させるとは思っていないらしい。
 そしてギルもまた、彼を手玉にとるつもりはないようだった。過去の『三条尚起』との約束だけではなく、ギル自身が、〈赤目〉を何らかの手段でサポートするつもりなのだ。
 やはり奇妙な二人だった。明らかに奇妙なのだが、確かな友情がそこには成立しているのだ。
「私はそろそろ行くぞ。まだまだやる事が山ほどあるんだ。いつまでも貴様みたいな化け物の感情なんかに構っている暇はない」
 車を出せ、アヤメ――ギルはさっさと三条に背を向けると、木伏の返事も待たずに歩き出す。
 彼について行こうとした木伏が振り返った時、三条尚起はまだ、空虚な瞳でギルを睨み続けていた。





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